深淵の苗床、知力28の崩壊と再構築
廃坑の最深部、「大空洞」へと足を踏み入れた瞬間に世界は変質した。
松明の火が「ボッ」と音を立てて紫色の炎に変わり、空間全体が粘りつくような魔力汚染に塗り潰される。空気は鉄錆と腐敗した内臓が混じり合ったような悪臭を放ち、一呼吸ごとに肺の奥が焼けるような痛みに襲われた。
空洞の中央、白骨化した死体が抱く『深淵の魔導書』。そこから這い出したのは、かつてこの地の主であった大蜘蛛が、魔導書の「負の魔力」を数年間にわたって啜り続け、おぞましく変異した「深淵の紡ぎ手」だった。
「……カイル、左! 避けろッ!!」
ユーマの知力28が、大蜘蛛の「第一撃」を捉える。だが、その速度は計算を遥かに凌駕していた。
シュッ、という空気を切り裂く音。大蜘蛛の鎌のような足がカイルの胸元をかすめ、厚い革鎧を紙のように切り裂いた。
「ガハッ……!? なんだ、今の速さは……!」
カイルが吹き飛ばされ、岩壁に激突する。
ユーマはすぐに『魔力の糸』を放ち、カイルを引っ張り上げようとしたが、大蜘蛛の背中に埋め込まれた数十の「人間の眼球」がいっせいにユーマを睨みつけた。
(……っ!? 頭が、割れる……!)
魔導書の波動を媒介にした「精神汚染」の直撃。
知力28という精緻な演算機械は、その高度さゆえに、流し込まれた「狂気」の情報を律儀に処理しようとして過負荷を起こした。視界にノイズが走り、計算式がバラバラの文字となって脳内を暴れ回る。
大蜘蛛は止まらない。八本の足が岩壁を高速で叩き、残像を残しながら二人の周囲を旋回する。暗闇から放たれるのは、鋼鉄すら溶かす腐食性の毒液と、触れるだけで感覚を麻痺させる漆黒の糸だ。
「……ユーマ、指示をくれ! こいつ、どこを狙えばいいんだ!?」
カイルが戦斧を振り回すが、大蜘蛛の甲殻は「物理耐性」を備えており、黒鉄の刃を火花とともに弾き返す。
ユーマは鼻から血を流しながら、膝をついた。
(……落ち着け。……『数字』を捨てるな。……甲殻の厚さ、40ミリ。衝撃吸収率80%。……今のカイルの筋力では、正面突破は不可能だ。……関節だ。……第三、第四関節の結合部……そこだけが、魔力の循環が滞っている……!)
ユーマは震える指先で、自身の心臓に「衝撃」を微弱に叩き込んだ。
激痛による覚醒。狂気に呑まれかけた意識を、自傷行為で無理やり引き戻す。
「カイル……僕が糸で奴の足を固定する。一秒……たった一秒だけだ。その間に、右から二番目の関節を……斧の角で叩き折れ!」
「一秒かよ……上等だ! やってやる!!」
大蜘蛛がカイルの頭上から急降下してきた。
「――今だッ!!」
ユーマは残存MPの全てを注ぎ込み、指先から血が噴き出すほどの勢いで『魔力の糸』を放射した。
糸は大蜘蛛の関節部に絡みつき、魔力の力でその動きを強引に数センチ固定する。
ギギィィィィッ!!
大蜘蛛が狂ったように暴れ、ユーマの指の骨がミシリと鳴る。
その隙に、カイルが地を這うような姿勢から跳躍した。全力を乗せた斧の一撃。だが、大蜘蛛は残りの足でカイルの胴体を突き刺そうと、鎌を振り下ろす。
(……来る! カイルが刺されるのが先か、斧が届くのが先か……!)
ユーマの魔眼が、死の瞬間をスローモーションで映し出す。
「――『衝撃』、最大出力ッ!!」
ユーマは自身の身体を砲弾のように突き飛ばし、カイルの背中を押し込んだ。
グチャリ、という嫌な音が空洞に響く。
カイルの斧が大蜘蛛の関節を砕き、その巨大な身体が傾く。同時に、大蜘蛛の鎌がユーマの肩を深く抉った。
「ユーマ!!」
「いいから……トドメだ、カイル!!」
肩から鮮血を流しながらユーマが叫ぶ。
バランスを崩した大蜘蛛の頭部へ、カイルが涙と鼻水にまみれた顔で、渾身の力で斧を叩き落とした。
一度、二度、三度。
硬い甲殻が砕け、中の肉が飛び散るまで、カイルは狂ったように斧を振るい続けた。
ついに、大蜘蛛の巨大な身体が痙攣し、その動きを止める。
周囲の紫色の燐光が弱まり、後には二人の激しい呼吸音と、滴り落ちる血の音だけが残った。
5. 二時間のカウントダウン
「……はぁ、はぁ……。生きてるか、ユーマ……」
「……腕が……一本、動かない。……でも、まだ、死んでない」
ユーマは欠損に近いダメージを負った肩を、汚れた布で無理やり縛り上げた。
カイルは震える足取りで、白骨死体が抱く『深淵の魔導書』の元へ歩み寄る。
今や、その本は銀色の布で包まれるのを拒むように、禍々しい鼓動を繰り返していた。
「……巻け、カイル。……おばあちゃんの寿命が、……僕たちの時間が、消える前に……」
カイルが魔導書を「封魔の布」で包み込む。
その瞬間、懐中時計の針が、残酷なカウントダウンを開始した。
制限時間は、あと一時間半。
ボロボロになった二人の身体。枯渇した魔力。そして、この「宝」を狙うフェルゼンの闇が、廃坑の出口で待ち構えているかもしれない。
「……カイル、肩を貸してくれ。……まだ、終わりじゃないんだ」
「……分かってる。お前を置いていくわけねえだろ。……帰るぞ、フェルゼンへ!」
雨の降りしきる山道を、血まみれの少年二人が、禁忌の品を抱えて走り出す。
第20話、フェルゼン帰還路。
タイムリミットまで残りわずか。二人の前に立ちふさがるのは、魔物よりも恐ろしい「人間の強欲」でした。




