第五章 今度は二人で
あの試験の日から、ひと月近くがたった。秋の初めの朝、森の外れには霧が低く垂れこめていた。
雨の少ない夏だった。森の苔は乾いて色を失いはじめていたが、沼だけは、いつもの年と同じ黒い泥をたたえていた。
緑の師団と黄の師団の合同模擬戦の日だった。去年、騎士が一人、沼にのみこまれかけた、あの模擬戦だ。
ノラは、沼の上に張り出した楢の枝に腹ばいになっていた。去年と同じ枝だった。梢隊の役目も、去年と同じだ。樹上から黄の隊列の動きを見張り、鏡で合図を送る。
試験は、それきり開かれなかった。ミレーネ副師団長からは、梢隊の伝令を通して「しばらく休み」と知らせが来ただけだった。ルドルフが迎え木に来ることも、もうなかった。
ノラの懐には、石板が入っている。
『ご』の一字のあとを、どう書けばいいのか、わからないままだった。誰かに聞けば、すぐに教えてくれるだろう。ミナ副師団長でも、学び舎の老人でも、教えてくれるだろう。
でも、ノラはそれを、ルドルフ以外の誰かに教わりたくなかった。
だから、決めた。字で書けないなら、声で言う。今日、もしルドルフに会えたら。
霧の向こうから、地面の鳴る音が近づいてきた。
金色の外套の列が、森の外れに姿を現した。磨き上げた真鍮と鉄の鎧。並んだ盾と槍。去年と何も変わらない、黄の重装の隊列だった。
ただ、その列の端に、去年はなかったものがあった。
鉄色の鎧の小隊。
十人ほどの騎士が、くすんだ鉄の色の、薄い鎧を着けて歩いていた。真鍮の飾りは一つもない。
ミレーネ副師団長の軽量鎧だった。
隊列のあちこちから、くすくすと笑う声が聞こえた。鉄くず、という言葉が、霧の中にいくつも混じった。
小隊の先頭に、背の高い騎士がいた。
ノラの胸が、どくんと鳴った。
ルドルフだった。
ルドルフは、笑い声のほうを見なかった。足元を見ていた。足の裏で地面を聞くように、一歩ずつ、かかとからではなく、足の裏全体でそっと置いて歩いていた。
ノラが教えたとおりに。
隊列が、楢の木の下を通りかかった。
ルドルフが、ふと顔を上げた。
梢を探す目だった。迎え木が見えたところで、いつもそうしていたように。
霧の切れ目で、目が合った。
ルドルフは、歩みを止めずに、片手の手のひらを、葉のように広げた。
緑の挨拶だった。
ノラは、枝の上で固まった。返さなければ、と思った。手が、動かなかった。
ルドルフの姿は、そのまま霧の中へ遠ざかっていった。
◇
模擬戦は、昼前に始まった。
黄の隊列が森の外れを進み、緑の梢隊がそれを樹上から見張る。弓隊が、鏃を布で包んだ矢を射かける。罠師衆が、鳴子を鳴らして隊列を惑わせる。
黄の騎士たちは、去年より慎重だった。沼の窪地には、決して近づかなかった。誰も口には出さなかったが、去年のことを覚えているのだ。
模擬戦が半ばを過ぎたころ、ノラは、沼の向こう岸の茂みに、小さな影を見つけた。
緑褐色の、子ども用の短い外套。肩に、淡い緑に塗った若葉の飾りが一枚。栗色のくせ毛を、左右二つに結んでいる。
スグリだった。
「若葉」と呼ばれる十一歳の見習いで、ノラによくなついている子だ。今日は村の近くの持ち場で、鳴子の番をしているはずだった。
スグリは、茂みから身を乗り出して、黄の隊列のほうをじっと見ていた。目が、きらきらしていた。
ノラは、思い出した。ゆうべ、スグリがノラの家に来て、甲高い声で、しつこく聞いていたのだ。問いを一つ重ねるたびに、早口になって。黄の騎士って、本当に金ぴかなの。鉄色の騎士がいるって、本当なの。
ノラは、鏡でスグリに合図を送ろうとした。戻れ、と。
その前に、スグリが茂みから一歩、踏み出した。
もっとよく見ようとして。
苔の上へ。
スグリの小さな体が、すとんと沈んだ。
悲鳴は、一瞬だった。泥に口をふさがれたのだ。
ノラは、枝の上で跳ね起きた。
◇
スグリは、踏み抜いた苔の下でもがいていた。
小さな体だった。だから、沈むのは大人よりも遅い。けれど、背も低い。泥は、もうスグリの肩まで来ていた。顎を必死に上げて、泥の上に顔を出している。
ノラは、腰の縄をほどき、楢の枝に鉤爪を掛けた。縄の端を、スグリの目の前に投げ落とす。
「スグリ、つかめ!」
スグリは、縄を見た。手を伸ばした。つかんだ。ノラが引こうとした瞬間、スグリの手が、ずるりと滑った。泥にまみれた小さな手では、縄を握りきれなかったのだ。スグリの顔が、引きつった。もう一度手を伸ばそうとして、その拍子に、体がさらに沈んだ。泥が、顎に触れた。
「やだ、やだ……!」
スグリは、縄から手を離して、泥を掻いた。怖くて、もう縄をつかむこともできなくなっていた。
梢隊の先輩たちが、次々に枝へ集まってきた。ほかの縄も下ろされた。けれど、スグリはどれもつかめなかった。つかもうとするたびに、沈んでいく。誰かが、泥の中まで入って、スグリを抱えなければならなかった。
でも、誰が。
梢隊の者は、みな小柄だ。スグリを泥の上に抱き上げたまま、岸へ戻れる者はいなかった。黄の騎士たちが、沼の岸に駆けつけてきた。けれど、重い鎧を着た者は、一歩も踏み込めなかった。去年、ルドルフを助けられなかったように。鎧を脱げば、と誰かが叫んだ。脱いでいる時間はなかった。黄の全身鎧は、一人では脱げない。
そのときだった。
鉄色の鎧の騎士が一人、沼の岸へ進み出た。
小隊の中で、一番背が高かった。
◇
「ブレンナ隊長」
ルドルフが、振り返らずに言った。
見物に来ていたブレンナ隊長が、白い外套の裾をひるがえして駆け寄ってきた。後ろから、ミレーネ副師団長も。
「硬化の魔法を、かけ直していただけますか。鎧が泥を吸わないうちに、あの子のところまで行きたいのです」
ブレンナ隊長は、一瞬だけルドルフの顔を見た。それから何も聞かずに、ルドルフの胸当てに、肩当てに、脛当てに、次々と手のひらを当てていった。
「かかってるうちは、泥も弾く。でも、泥の中じゃ、長くもたないよ。解けたら革が水を吸って、ただの重い濡れた鎧だ」
「わかっています」
「わかってないね」
ブレンナ隊長は、最後に胸当てを叩いた。こん、と硬い音がした。
「でも、行くんだろう」
「はい」
ミレーネ副師団長が、黄の騎士たちの持ってきた荷車用の太い縄を手に取った。
「腰に結ぶよ。縄の先は、誰が持つ」
ミレーネが、ルドルフに尋ねた。
ルドルフは、首を振った。それから、顔を上げた。
梢を見た。楢の枝の上を。
そこに、ノラがいた。さっきスグリに下ろした梢隊の縄が、まだノラの手から、泥の上へ垂れていた。
「ノラ」
ルドルフが、呼んだ。
霧の中でも、よく通る声だった。
「縄を頼む」
ノラは、息をのんだ。
「君の縄なら、つかめる」
◇
ノラは、自分の縄をたぐり寄せ、その端を、沼の岸に立つルドルフの前に下ろした。
ルドルフは、縄の端を腰の革帯に結び、余った分を、籠手の上から左手に巻きつけた。
ノラは鉤爪を枝から外し、縄を枝に回しかけた。枝を滑車の代わりにする。縄のもう一方の端は、枝を越えて、地面へ下ろす。地面で縄を引けば、枝を支点にして、沼の中の者を斜め上へ引き上げられる。梢隊の縄は細いが、梢から沼の真ん中を通って地面まで届くほど長い。
ミレーネ副師団長が、荷車用の縄を、地面に下りた梢隊の縄の端に継ぎ足した。引き手が、一人でも多くつかめるように。
梢隊の先輩たちが、ノラの両脇の枝で縄に手を添えた。地面では、黄の騎士たちが、継ぎ足した縄を握った。
ルドルフが、沼に足を踏み入れた。一歩目で、膝まで沈んだ。二歩目で、腰まで沈んだ。ルドルフの背中が、一瞬、こわばるのが見えた。一年前と同じ泥だ。去年は胸までのまれた泥だ。三歩目が、出た。
ルドルフは、足の裏で泥を聞くように、そっと、けれど迷わずに進んでいった。一歩進むごとに、足の下の泥が柔らかくなる。底のない泥に、体が少しずつのまれていく。泥が、胸に迫る。鉄色の胸当てが、泥の中に沈んでいく。スグリまで、あと二歩。あと一歩。ルドルフの長い右腕が、スグリの体を後ろから抱えた。左手は、縄を握ったままだった。
「捕まえた!」
ルドルフが叫んだ。
「スグリ、騎士さまにしがみつけ!」
ノラが怒鳴ると、スグリはルドルフの首に、両腕でしがみついた。泣きじゃくりながら、それでも、今度は離さなかった。
ルドルフの肩の上まで、泥が来ていた。
ノラは、ルドルフの胸当てを見た。泥に浸かった鉄色の鎧の端で、革の継ぎ目が、黒く水を吸いはじめていた。
硬化の魔法が、解けかけている。
ルドルフは、スグリを泥の上へ押し上げるように抱え直した。自分の体は、そのぶん沈んだ。泥が、ルドルフの顎に触れた。
その顔は、少しも金色には見えなかった。泥にまみれて、汗にまみれて、鎧はくすんだ鉄の色で、怖いはずの沼の中で、子どもを抱えて、それでも梢を見上げている。
「引け!」
ノラは、叫んだ。
◇
ルドルフ・ゼーベックは、泥の中から、梢を見上げていた。
胸が苦しかった。鎧が、少しずつ重くなっていくのがわかった。硬化の魔法が解けて、革が泥を吸っている。一年前と同じだった。泥の冷たさも、胸を締めつける重さも。
違うのは、腕の中に、しがみつく小さな体があることだった。
そして、見上げる梢に、誰がいるのかを知っていることだった。
楢の枝の上で、縄を握る手が見えた。
緑の袖口から、細い手首がのぞいていた。
一年前、泥が目に入って、緑の影にしか見えなかったもの。泥と恐怖で塗りつぶされて、熊のような男の腕にすり替えてしまっていたもの。
あれは、この手首だったのだ。
こんなに細い手首が、あの日、自分の命の重さを、全部引き受けていた。そして今も、何ひとつ迷わずに、同じ重さを引き受けようとしている。
そう思ったとたん、胸の奥が、熱く締めつけられた。泥の重さとは、まるで別のもので。
あの手首に、触れたい。泥の中で、ルドルフは、はっきりとそう思った。
「引け!」
あの声が、森を震わせた。
腰の縄が、ぐんと張った。
枝の上では緑の梢隊が、地面では黄の騎士たちが、一本の縄を引いていた。緑と黄が、同じ縄を、同じ拍子で。
「引け!」
「引け!」
梢からの声と、地面からの声が重なった。
泥が、ごぼりと鳴った。ルドルフの体が、スグリを抱えたまま、泥から抜けはじめた。肩、胸、腰。枝を支点に、斜め上へ。泥の外へ。固い地面に引き上げられたとき、ルドルフは、スグリを抱えたまま仰向けに倒れた。
空が見えた。霧が晴れかけていた。楢の葉の向こうに、秋の青い空があった。
腕の中で、スグリが泣いていた。大声で、元気よく。
生きている。
ルドルフは、泥だらけの顔で、笑った。
◇
スグリは、駆けつけたミナ副師団長にしっかりと抱きとめられた。ミナは泥だらけになるのも構わずスグリを抱きしめ、それから、思いきり叱りつけた。スグリはもっと大声で泣いた。
沼の岸では、緑の者と黄の者が、まだ縄を握ったまま、互いの顔を見合わせていた。
誰も、何も言わなかった。
いつもなら、ここで言い争いが始まる。だから沼に近づくなと言ったんだ。重い鎧で森を歩かせるからだ。軽装で何を守る。去年も、そうだった。
今日は、誰も口を開かなかった。
黄の古参の騎士の一人が、握っていた縄を、黙って緑の梢隊の若者に手渡した。若者も、黙ってそれを受け取った。
それだけだった。
ノラは、楢の枝から地面へ飛び降りた。
ルドルフは、まだ仰向けに倒れていた。鉄色の鎧は、泥で真っ黒だった。ブレンナ隊長が、その脛当てを叩いて、こつ、と鈍い音を聞き、深いため息をついていた。
「ぎりぎりだったよ、まったく」
ノラは、ルドルフのそばに膝をついた。
何を言えばいいのか、わからなかった。言いたいことは、たくさんあった。ゆうべも、その前の夜も、何度も口の中で練習した言葉が。
けれど、ノラが口を開くより先に、ルドルフが身を起こした。
泥だらけの手が、伸びてきた。
緑の袖口からのぞいたノラの細い手首に、そっと触れ――それから、すべるようにして、ノラの手を握った。
籠手は、泥の中で脱げ落ちたらしかった。泥にまみれた、大きな素手だった。冷たくて、震えていて、それでも力強かった。縄を引いて赤くなったノラの手のひらを、大事そうに包み込んでいた。
「ありがとう」
ルドルフが、言った。
ノラの目を、まっすぐに見て。
「ありがとう、ノラ。今日も。それから、一年前も」
ノラは、息ができなくなった。
一年前、泥からはい上がって「名を教えてくれ」と叫んだ声。迎え木で「お迎え、感謝いたします」と頭を下げた声。手紙の、まっすぐすぎる字。生涯をかけてもお返しできない御恩。
その全部が、いま、この一言になって、ノラの手の中にあった。
「……ごめん」
ノラの口から、言葉がこぼれた。
「ごめん。隠してて。お前の話を、ちゃんと聞かないで、逃げて」
「いいえ」
ルドルフは、首を振った。
「謝るのは、私のほうです。あなたが字を覚えたかった本当の理由も知らずに、ひどいことを言いました」
ノラは、目を見開いた。
「……知ってたのか」
「あの日、帰ってから、気づきました」
ルドルフは、少し笑った。泥のついた頬が、ゆがんだ。
「看板のためでは、なかったのでしょう」
ノラは、うつむいた。耳まで熱くなっていた。
ルドルフは、そこで口をつぐんだ。ただ、ノラの手を、もう少しだけ強く握った。
ノラも、泥だらけのその指を、自分の指でそっと握り返した。
近くで、ミナに抱えられたスグリが、泣きやんでしゃくり上げながら、ルドルフを指さした。
「ノラ姉ちゃん。あの騎士さま、金ぴかじゃなかった」
「……ああ」
「泥だった」
ミナが、吹き出した。
ノラも、笑ってしまった。泣きそうな顔のまま。
◇
模擬戦は、そこで打ち切りになった。
黄の天幕の前で、泥を落としたルドルフは、一人の老人の前に立った。
白髪を後ろに撫でつけた、鐘のような声の老人。黄の師団長を務めたゲオルク・ファーレンは、模擬戦の見届け役として、森の外れまで来ていた。
ゲオルクは、何も言わずにルドルフを見ていた。沼の岸での一部始終を、この人も見ていたはずだった。
「閣下。お約束のお返事を」
ルドルフは、模擬戦が始まる前に従者へ預けていた二枚の紙を受け取った。
一枚は、ゲオルクから渡された、あの紙だった。署名の余白は、白いままだった。
もう一枚は、ルドルフ自身が書いたものだった。
「こちらには、署名できません」
ルドルフは、白い余白のほうの紙を、両手でゲオルクに返した。
「代わりに、こちらを。私自身の証言です」
ゲオルクは、二枚目の紙を受け取り、目を落とした。
ルドルフが、ゆうべ書いたものだった。礼状を書いたときのように、何度も下書きはしなかった。言葉を飾りもしなかった。短く、ただ一つのことだけを書いた。
――昨年の模擬戦において、私は沼に沈み、隊の者は誰も近づけなかった。緑の師団の梢隊の者の救助がなければ、私は死んでいた。
――黄の騎士、ルドルフ・ゼーベック。
家の名ではなく、自分の名で。
ゲオルクは、長いあいだ、その紙を見ていた。
それから、顔を上げた。その目は、怒っているようにも、どこか遠くを見ているようにも見えた。
「重いな」
ゲオルクは、それだけ言った。褒め言葉なのか、皮肉なのか、ルドルフにはわからなかった。ただ、ゲオルクはその紙を破らず、折りたたんで自分の懐にしまった。
「下がりたまえ、ゼーベック」
「は」
ルドルフは、深く一礼して、天幕の前を辞した。
この先、黄の古参の方々が何と言うのか。ゼーベック家に、何が起きるのか。ルドルフにはわからなかった。
けれど、天幕から離れ、森の外れを見上げたとき、ルドルフの足は、少しも重くなかった。
楢の枝の上に、緑の袖が見えた。
ルドルフは、手のひらを葉のように広げた。
今度は、枝の上から、同じ形の手のひらが返ってきた。




