第四章 ばれる
夏も終わりに近いある日、黄の師団の本拠地である金鎧の砦の奥の小部屋は、ひんやりとしていた。
ルドルフ・ゼーベックは、机の前で背筋を伸ばして立っていた。机の向こうには、白髪を後ろに撫でつけた老人が座っている。平服の上に、色の深くなった古い式典用の黄金の外套を羽織っていた。足首まである外套の裾が、椅子の脚にたまっている。
先代師団長、ゲオルク・ファーレン。三年前に師団長の座を退いたが、今も砦に出入りし、古参の騎士たちの中心にいる人だった。
「掛けたまえ、ゼーベック」
鐘のような声だった。小部屋の石の壁が、かすかに震えた気がした。
「いえ、このままで」
「そうか」
ゲオルクは、机の上の一枚の紙を、ルドルフのほうへ滑らせた。
「読みたまえ」
ルドルフは、紙を手に取った。
去年の森の外れでの合同模擬戦について、と書き出してあった。重装の隊列の訓練として、泥地での行軍は想定の範囲内であった。若い騎士一名が足を取られたが、隊の者による救出が可能な状況であった。緑の師団の梢隊の者による手出しは、結果として不要であった。
そして、末尾に、署名のための余白があった。
「これは……」
「君自身の証言だ。当事者の言葉ほど重いものはない」
ゲオルクは、両手を組んで机に置いた。
「緑の連中は、黄が無理な隊列を組ませたと言い立てている。あれを放っておけば、黄の騎士は森の外れを歩くこともできない臆病者だということになる。君一人の問題ではない。黄の名誉の問題だ」
ルドルフは、紙から目を上げられなかった。
隊の者による救出が可能な状況であった。
嘘だった。あのとき、仲間の騎士たちは誰も近づけなかった。近づけば、自分たちも沈んだからだ。兜の覗き穴の狭い隙間からでも、それだけはわかった。
「閣下。あのとき、隊の者は」
「わかっている」
ゲオルクは、ルドルフの言葉を遮った。声は、思いのほか穏やかだった。
「君が恩を感じているのはわかっている。礼の使者を出したことも聞いた。若い者が恩を忘れないのは、悪いことではない。ゼーベック伯爵も、立派な息子を持った」
「……」
「だが、礼は礼、記録は記録だ。黄の記録に、黄の騎士が森の者に命を拾われたと残れば、百年先まで黄はそれを言われ続ける。君の子や孫の代まで、だ」
ゲオルクは、少し身を乗り出した。
「それから、ミレーネ副師団長の鎧の試験のことだが」
ルドルフの肩が、わずかにこわばった。
「あれを、私は好ましく思っていない。壁を紙にする愚行だ。黄の誇りは重さにある。だが、若い騎士が自分で志願したことを、とやかく言うつもりはない。君がこれに署名してくれるなら、なおさらだ」
「……少し、お時間をいただけないでしょうか」
ゲオルクは、しばらくルドルフを見ていた。それから、ゆっくりとうなずいた。
「よかろう。秋の合同模擬戦までに、返事を聞かせてくれたまえ」
ルドルフは一礼し、紙を手にしたまま部屋を出た。廊下に出たとたん、手の中の紙が、鎧の胸当てよりも重く感じられた。
◇
次の試験の日、ルドルフの様子がおかしかった。
ノラは、迎え木の枝の上から、山道を登ってくる一行を見たときから、そう感じていた。いつもなら、ルドルフは迎え木が見えたところで顔を上げ、枝の上を探す。ノラを見つけると、律儀に手のひらを広げて、緑の挨拶をする。最近は、ずいぶん様になってきた。
今日は、顔を上げなかった。足元ばかり見て、黙々と坂を登ってきた。
「どうした」
ノラが枝から降りて尋ねると、ルドルフは少し遅れて、笑顔を作った。
「いえ、何も。少し寝不足で」
「鎧か」
「……そのようなものです」
嘘だ、とノラは思った。鎧の話なら、ルドルフはもう隠さない。けれど、それきり何も聞かなかった。
ノラにも、今日、言おうと決めていたことがあった。ゆうべ、寝床の上で、何度も口の中で練習した。試験が終わって、ほかの者たちが山道を下りる支度をしているあいだに、迎え木の根元で言う。
「あの沼で縄を下ろしたのは、私だ」
「熊じゃなくて、悪かったな」
そこまで言えたら、あとは、ルドルフが何と言おうと受け止める。驚くだろう。がっかりするかもしれない。髭もじゃの森の男を、あれほど楽しそうに思い描いていたのだから。それでも、このまま隠し続けるよりはいい。「私は、金に見えますか」と聞かれた日から、ノラはずっと考えていた。この騎士が金か鉄かを見きわめようとしているのに、自分のほうは、泥の中に本当のことを沈めたままだ。
ノラは、懐の石板に手を当てた。石板には、ゆうべ自分で書いた『ノラ』という字が残っている。ルドルフの手本ほどまっすぐではないが、払いは、もう逆にならない。
試験が終わったら、言う。ノラは、もう一度そう自分に言い聞かせた。
試験は、いつものように始まった。
ルドルフが鉄色の鎧を着け、ブレンナ隊長が硬化の魔法をかける。ミレーネ副師団長が板を構える。今日は、これまでよりも沼に近いところを歩く予定だった。
「沼の岸から五歩のところまで行く。足の裏で聞けよ」
「はい」
ノラが前を歩き、ルドルフが足跡をなぞる。この夏、何度も繰り返してきたことだった。
十歩。八歩。
ノラは、右手の、苔に覆われた一角を大きくよけて歩いた。そこは沼から泥が細く入り込んでいる。この夏、何度も確かめてきた場所だった。
ノラは振り返った。ルドルフは、ちゃんとついてきていた。だが、その目は、足元を見ていなかった。どこか遠くを、ぼんやりと見ていた。
「おい、足元」
言いかけたときだった。
ルドルフの右足が、ノラの足跡から半歩、外れた。あの苔の上へ。苔が、音もなく沈んだ。ルドルフの体が傾いた。右足が、膝まで泥にのまれる。とっさに左足で踏ん張ろうとして、その左足も、ずるりと滑った。腰まで、一気に沈んだ。
ルドルフの顔から、血の気が引くのが見えた。目が見開かれ、口が開いて、けれど声が出ていない。あの日と同じ顔だった。泥から引き上げられて、震える手で面頬を上げた、あの顔。
ノラは、考えるより先に動いていた。腰の縄をほどき、すぐそばの楢の幹にひと巻きして、鉤爪を掛けた。幹を杭の代わりにすれば、軽い体でも引き負けない。縄の端を、ルドルフの目の前に投げた。ルドルフは、縄を見ていなかった。泥を見ていた。手が、泥の表面を掻いていた。
ノラは、叫んだ。
「つかめ、黄色いの!」
森じゅうの鳥が、飛び立った。
◇
籠手をはめた手が、跳ねるように縄をつかんだ。
ノラは、幹に巻いた縄を引いた。後ろから、ミレーネ副師団長が駆け寄ってきて、同じ縄をつかむ。ブレンナ隊長も、従者たちも。
今度は、胸まで沈む前だった。鎧も軽かった。ルドルフの体は、思いのほかあっさりと泥から抜けた。
ルドルフは、固い地面にはい上がり、四つんばいのまま、激しく息をついた。腰から下が、泥で真っ黒だった。
「怪我は」
ミレーネ副師団長が、ルドルフの肩をつかんで顔をのぞき込んだ。
「ありません」
ルドルフは、かすれた声で答えた。
「ありません。大丈夫です」
ブレンナ隊長が、泥まみれの脛当てを叩いた。こつ、と鈍い音がした。
「硬化が解けかけてる。今日はここまでだね」
ノラは、縄を握ったまま、立ちつくしていた。
手のひらが、じんじんと痛かった。心臓が、喉のすぐ下で鳴っていた。
そして、ルドルフが、ゆっくりと顔を上げた。
ノラを見た。
四つんばいのまま、泥だらけのまま、まばたきもせずに。
ノラは、そのときになって、ようやく気づいた。
自分が、何と叫んだのか。
「……今の」
ルドルフが、言った。
「今の声。今の、言葉」
ノラは、何も言えなかった。
ルドルフは、泥にまみれた膝をついたまま、身を起こした。その目は、ノラの顔と、ノラが握っている縄と、緑の袖とを、順に見た。
一年前、泥の中で聞いた声と、手の中に落ちてきた縄と、梢の上の緑の影とを、ひとつずつ確かめるように。
「あなた、だったのですか」
ミレーネ副師団長が、ノラとルドルフを交互に見た。ブレンナ隊長が、口を開けかけて、閉じた。
ノラは、縄を握る手に力を込めた。
「……そうだ」
声が、低くならなかった。
あの日と同じ声が、そのまま出た。この夏のあいだ、喉の奥に押し込めてきた、高く澄んだ地声だった。
◇
ルドルフは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。泥が、鎧の継ぎ目からぼたぼたと落ちた。
「いつから」
「……何がだ」
「いつから、わかっていたのですか。私が、あの騎士だと」
「最初からだ」
ノラは、正直に答えた。
「迎え木で、お前が頭を下げたときから。ミナ副師団長に案内役を言いつけられたときから。去年の秋に、お前の手紙を受け取ったときから」
「手紙を」
ルドルフの顔が、こわばった。
「受け取っていたのですか」
「……ああ」
「では、手紙は、届いていた。そして、あなたは、返事をくださらなかった」
ノラは、うなずくしかなかった。
ルドルフは、ノラから目を逸らした。泥だらけの手で、顔を覆った。
「ずっと、笑っていたのですか」
声が、震えていた。
「熊のような男だと、髭をもじゃもじゃと生やした方だと、私が話すのを。森の男とはそういうものだと、知ったようなことを言う私を。あなたは、隣で、ずっと」
「笑ってない」
「笑っておられました。膝をつねっておられたのを、私は見ていました。何をこらえておられるのかと、不思議に思っていたのです」
ノラは、言葉に詰まった。たしかに、こらえていた。最初は、笑いを。そのあとは、別のものを。
「私は」
ルドルフが、顔から手を離した。その目が、赤かった。
「私は、あなたに、鎧が怖いことまで話しました。家の者にも、黄の仲間にも言えなかったことを。あなたになら言えると思ったのです。それなのに、あなたは、ずっと」
ルドルフは、そこで言葉を切った。
ノラの胸の奥で、何かが、ぷつりと切れた。
「……じゃあ、言えばよかったのか」
ノラの声は、自分でも驚くほど大きかった。
「最初に会ったとき、私だって言えばよかったのか。熊でも髭でもない、梢隊でいちばん軽い、こんな女だって」
「そういうことでは」
「返事だって、書きたかった!」
ノラは、叫んでいた。
「書こうとしたんだ。ひと冬かけて、石板に、何べんも。でも、書けなかったんだ。お前の手紙は、あんなにきれいな字で、難しい言葉がいっぱいで、読むのに半日かかった。そんな手紙に、私の字で、何を書けばよかったんだ」
喉の奥が熱くなり、目の奥も熱くなった。森の者は、人前で泣かない。ノラは歯を食いしばった。
「字が書けない女に助けられたって、知りたかったのか」
言ってしまってから、ノラは、自分の言葉に打ちのめされた。
字がろくに書けないこと。周りに知られてはいても、それを自分の口から認めたことは、一度もなかった。ミナにも、先輩たちにも。ルドルフに字を教えろと持ちかけたときも、看板が読みたいからだとごまかした。それを、いま、自分の口で、いちばん知られたくない相手に叫んでしまった。
ルドルフが、何か言おうとして、口を開いた。ノラは、それを聞かなかった。縄を楢の幹から外し、ひと息で枝の上へ駆け上がった。後ろで、自分の名を呼ぶ声がした気がした。振り返らなかった。枝から枝へ、梢から梢へ、地面の上では誰も追いつけない速さで、ノラは森の奥へ逃げた。
◇
その夜、ノラの家の吊り橋が、ぎしりと揺れた。
「ばか」
入口に、ミナ副師団長が座っていた。ノラは、寝床の上で膝を抱えたまま、顔を上げなかった。
「ミレーネ副師団長から、梢隊の伝令を通して、知らせが来たよ。試験は、しばらく休みにするって」
「……」
「騎士さまは、怪我はないって。泥だらけで、黙って山道を下りていったそうだよ」
ノラは、膝に額を押しつけた。
「名乗るなら、自分で名乗れって言ったのに。ばれるまで黙ってるから、こうなる」
「わかってます」
「わかってないよ」
ミナは、足をぶらぶらさせながら、夜の森を見ていた。
「ノラ。あの騎士さまは、あんたの字を笑ったかい」
ノラは、しばらく黙っていた。
「……笑わなかった」
最初の日、石板の上の『きょうは はれ』を見て、ルドルフは「読めますね」と言った。払いが逆でも、形が崩れても、一度も笑わなかった。お世辞が下手だと兄たちによく言われる、と言って、ノラの字の横に、まっすぐな手本を書いた。笑ったのは、ノラのほうだった。熊のような男の話を聞いて、膝をつねって。
「だったら」
ミナが、立ち上がった。
「謝る相手を、間違えないことだね」
ミナは吊り橋を渡って行ってしまった。
ノラは、寝床の脇の木箱を開けた。一番上に、あの手紙がある。その下に、石板がある。ノラは、石板を取り出し、石筆を握った。
『ご』
そこまで書いて、手が止まった。
ごめん、と書くのか。ごめんなさい、と書くのか。それとも、もっと別の、ちゃんとした言葉があるのか。あの騎士なら、謝るときに、どんな言葉を、どんな字で書くのだろう。それが、わからなかった。ルドルフに、まだ教わっていないことだった。教わる前に、こうなってしまった。
ノラは、書いた字を指でこすって消した。もう一度書いた。違う気がして、また消した。何度も、何度も。石板が、指の跡で白く曇っていった。それでも、これでいいと思える言葉は、どうしても書けなかった。
ノラは、石板を胸に抱きしめて、膝に顔をうずめた。森の者は、人前で泣かない。でも、ここには、誰もいなかった。
◇
ゼーベック家の屋敷の、自分の部屋で、ルドルフは机に向かっていた。泥は落とした。湯も使った。それでも、腰から下に、まだ泥の冷たさが残っている気がした。
机の上には、二つのものが並んでいた。一つは、先代師団長のゲオルクから渡された、あの紙。緑の師団の梢隊の者による手出しは、結果として不要であった。もう一つは、懐から出した、小さな帳面。
ルドルフは、帳面を開いた。
『きょうは はれ』。払いが逆の一字。
『もり』。傾いた字。
『かし』。点の多い字。
そして、ルドルフ自身の字で書いた、ノラ、という名前。
読むのに、半日かかった、と彼女は言った。
そう言ったときの顔を、ルドルフは思い出していた。耳にかけた短い濃い茶色の髪。日に焼けた頬に一本だけ走る、枝で切ったのだろうか、細い古傷。怒っているような、泣き出しそうな顔で、深い緑がかった黒い目をルドルフに向けていた。
それから、あの声。この夏、ずっと少年のようにかすれていた声は、ノラが低く作るのをやめたとたん、梢から降ってくるように高く澄んだ。一年前、泥の中で聞いた声と、同じだった。なぜ、気づかなかったのだろう。
山道を下りる途中で、ミレーネ副師団長が、黙ってルドルフの隣に並んだのを思い出した。従者たちは、先に行かせてあった。ブレンナ隊長も、鎧を積んだ荷車と一緒に少し後ろを歩いていた。
「あの子の縄に、二度拾われたね」
ミレーネ副師団長は、前を向いたまま言った。
「……はい」
「一度目も、二度目も、あの子に拾われた。その相手が誰かを知って、あんたは何を言った?」
ルドルフは、答えられなかった。
「責めてるんじゃないよ」
ミレーネ副師団長は、火傷の跡の残る手で、首の汗をぬぐった。
「私はね、女で、下級貴族で、鍛冶屋の娘だから、従卒の道を閉ざされた。工廠の見習いから始めた。字も計算も、鍛冶場で覚えた。砦の古参の方々は、今でも私を鍛冶屋の娘と呼ぶ」
「存じております」
「だから、わかることがある。できないことを人に見せるのは、鎧を脱ぐより怖いんだよ。あの子が石板に字を書くたび、何を脱いでたか、あんたは見てたはずだ」
ミレーネ副師団長は、そこで初めて、ルドルフのほうを見た。
「あんたも、鎧が怖いことを、あの子にだけは見せたんだろう。だったら、おあいこだ。どっちが先に脱いだかなんて、つまらない勘定をするんじゃないよ」
それきり、ミレーネ副師団長は何も言わず、荷車のほうへ戻っていった。
ルドルフは、帳面の『ノラ』という字に、指先で触れた。枝の上へ駆け上がっていった彼女の背中に向かって、思わずその名を呼んだ。けれど、彼女は振り返らなかった。
一年前の秋の夜、この机で礼状を書いた。何度も下書きをして、言葉が足りない気がして書き足した。生涯をかけてもお返しできない御恩。泥の底で鎧ごと沼の一部となっていた。叶うならば、貴方のお名前を知りたい。できるだけ丁寧に、できるだけ美しい字で書いた。それが、命の恩人への礼儀だと思っていた。
その手紙を、彼女は、半日かけて読んだのだ。そして、返事を書こうとした。ひと冬かけて、石板に、何べんも。
ルドルフは、帳面の頁を、もう一度めくった。
看板が読めたら便利だから、と彼女は言った。だから字を教えろ、と。
違ったのだ。返事を書くためだった。
そんな彼女を、ルドルフは、「返事もくれずに、ずっと笑っていたのか」と責めたのだ。
ルドルフは、両手で顔を覆った。
しばらくして、ルドルフは顔を上げた。机の上の、ゲオルクの紙が目に入った。緑の師団の梢隊の者による手出しは、結果として不要であった。署名のための余白が、燭台の灯の下で、白く光っていた。
ルドルフは、羽根筆を取らなかった。代わりに、帳面を閉じ、それを、紙の上に、そっと置いた。




