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沼から拾った騎士さまは、金ですか?鉄ですか?  作者: 降月


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第三章 枝の上と、石板の上

 迎え木での取引から半月ほどたった、最初の試験の日。森の外れに運び込まれた鎧を見て、ノラは首をかしげた。


 黄の鎧といえば、磨き上げた真鍮と鉄で、ぎらぎらと光るものだと思っていた。ところが、木の台に掛けられたその鎧は、くすんだ鉄の色をしていた。飾りの真鍮は一つもない。胸当ては薄く、肩当ては小さく、脛当ては革を重ねたものに、細い鉄の板が縫いつけてあるだけだった。


「金じゃないね」


 ノラは、思わずつぶやいた。


「鉄くずだって言われてるよ、砦じゃ」


 答えたのは、鎧の脇で袖をまくっていた女だった。


 黄の副師団長、ミレーネ・ヴァルデン。中背で引き締まった体つきの人で、むき出しの腕には、鍛冶の火傷の跡がいくつも残っている。着ているのは騎士の外套ではなく、工廠の者が着る黄色の短い上衣と、焦げ跡だらけの革の前掛けだった。副師団長の印の、飾り紐を三本付けた短い外套は、鎧の台に引っかけてある。


「古参の方々に言わせると、黄の誇りを捨てた鉄くずだそうだ。誇りで泥の上を歩けるなら、苦労はしないんだけどね」


 ミレーネ副師団長は、鎧の留め具を一つずつ確かめながら、あっさりと言った。さばさばとした、よく通る大きめの声で、鍛冶場の槌音の中でも話が通じそうだった。


 その隣で、白い外套の女が笑った。日に焼けた顔の、物言いのはっきりした人だった。外套の端には線が三本。その下の白衣は、ふくらはぎまでの丈を膝のあたりでたくし上げて帯に挟み、腰には革の道具袋を下げている。


「軽すぎて矢が通る、とも言われてる。だから、あたしが来たんだよ」


 守りの魔法を使う白の師団の石英隊(せきえいたい)長、ブレンナ・ハルシュ。ものを硬くする硬化の魔法に長けた人だと、ノラはミナ副師団長から聞かされていた。


 ブレンナ隊長が、木の台に掛けられた試験用の鎧の胸当てに、手のひらを当てた。何かをつぶやいたようにも、ただ息を吐いただけのようにも見えた。


 見た目は何も変わらない。だが、ブレンナ隊長が指の関節で胸当てを叩くと、こん、と、さっきまでとは違う硬い音がした。


「これで、厚い板金と同じくらいには硬くなる。重さは変わらない」


「すごい」


 ノラが言うと、ブレンナ隊長は苦笑いした。


「すごくはないよ。硬化は、時間が経てば解ける。この胸当てなら、一刻ももたない。だから、試験のあいだに何度もかけ直す」


 ブレンナ隊長は、胸当てを叩いて付け加えた。


「魔法は、鎧の代わりじゃない。鎧の味方だ。それを忘れたやつから死ぬ」


 台の向こうで、ルドルフが鎧を着せられていた。


 鉄色の胸当てを着け、肩当てを留め、最後に、面頬のない軽い兜をかぶる。従者が留め具を締めるたびに、ルドルフの顎がわずかにこわばるのを、ノラは見ていた。


 鎧を着終えたルドルフが、森の外れに向き直った。


 その先の窪地には、苔と草に覆われた、あの沼がある。


 ルドルフは、一歩踏み出した。二歩目で、止まった。


 三歩目が、出なかった。


 ノラは、ルドルフの手を見た。籠手をはめた指先が、かすかに震えていた。


「おい」


 ノラは、ルドルフの横に並んだ。


「沼までは、まだずっとある。そこは固い地面だ」


「……わかっています」


「わかってるなら、歩け」


 ルドルフが、ノラを見下ろした。それから、小さく笑った。


「案内役どのは、手厳しい」


「森は、もっと手厳しい」


 ノラは、足元の地面を踏んでみせた。


「いいか。森の外れを歩くときは、足の裏で聞くんだ。固い地面は、踏むと押し返してくる。危ない地面は、吸いつくみたいに沈む。少しでも吸いつく感じがしたら、体重を乗せる前に足を引け」


「足の裏で、聞く」


「それから、かかとから踏むな。かかとに重さが全部かかって、沈む。足の裏全体で、そっと置くんだ」


 ルドルフは、言われたとおりに足を置いた。ぎこちない。だが、さっきより少しだけ、膝の力が抜けていた。


 一歩、また一歩。ノラが前を歩き、ルドルフがその足跡をなぞる。ミレーネ副師団長が、後ろから歩数と様子を板に書きつけていた。


 沼の手前、十歩ほどのところまで来て、ルドルフは止まった。


「ここから先は、柔らかい」


 ルドルフが、足の裏で地面を確かめながら言った。


 ノラは、思わず振り返った。


「……わかるのか」


「少し、吸いつく感じがします」


 ノラはしゃがんで、地面に手を当てた。たしかに、ここから先は土が水を含みはじめている。森の地面に不慣れな外の者が、すぐにわかるとは思えない違いだった。


「当たりだ」


 ノラが言うと、ルドルフは、ほっとしたように息を吐いた。兜の下の額に、汗が光っていた。


◇


 試験の合間の休憩は、迎え木の根元で取った。


 ミレーネ副師団長とブレンナ隊長は、鎧を台に掛けて、何やら熱心に話し込んでいる。従者たちは少し離れた木陰で休んでいる。


 ノラは、懐から石板を取り出した。


「約束だ。字を教えろ」


 ルドルフは鎧を脱いで、汗に濡れた鎧下の上から黄の外套を羽織っていた。鎧を脱ぐと、思っていたより細身だった。襟元からのぞく首筋に、鎧の端が擦れた赤い痕が、一筋残っている。石板と石筆を受け取ると、真面目な顔で、膝の上に置いた。


「では、まず、案内役どのがどのくらい書けるのか、拝見してもよろしいですか」


 ノラは、ぐっと詰まった。


 それから、黙って石筆を取り、石板に書いた。


 『きょうは はれ』


 書き終えるまでに、ルドルフが鎧を脱ぐのと同じくらいの時間がかかった。そして、そのうち一字は、形が少し違っていた。


 ノラは、ルドルフの顔を見られなかった。笑われると思った。黄の騎士で、伯爵家の息子で、あんなにきれいな字を書く人だ。


 だが、ルドルフは笑わなかった。


「読めますね。ちゃんと、読めます」


「……遅いだろ」


「遅いのは、書き慣れていないからです。形は覚えておられる。一字だけ、こちらの払いが逆ですが」


 ルドルフは、ノラの書いた字の横に、同じ字を書いてみせた。


 ノラは、息をのんだ。


 石筆で書かれた、たった一字なのに、ノラの字とはまるで違って見えた。まっすぐで、迷いがなくて、手紙の字と同じだった。


「ここを、こう払うのです。もう一度、書いてみてください」


 ルドルフが身を乗り出して、石板の上を指さした。黄の外套の肩が、ノラの肩に触れそうになる。かすかに、汗と、日なたの草の匂いがした。


 ノラは息を止めて書いた。近すぎて、払いが、また逆になった。


 もう一度書いた。今度は、払いは合っていたが、形が崩れた。


「くそ」


「いいえ、さっきより、ずっと良くなっています」


「お世辞を言うな」


「言いません。私は、お世辞が下手だと兄たちによく言われます」


 ノラは、もう一度書いた。


 四度目で、ようやく、ルドルフの字の横に並べても恥ずかしくない一字が書けた。


 ルドルフが、ほう、と声を漏らした。ノラは、その顔を見て、なぜだか自分のほうが照れくさくなった。


「つ、次だ。手本を書け。何でもいいから」


「何を書きましょう。そうだ、まずは、ご自分のお名前が書けると便利です」


 ルドルフは石筆を構えて、それから、困ったように手を止めた。


「……お名前を、存じませんでした」


 ノラは、黙った。


 緑の者は、仲間の名前を外の者には教えない。それは師団の決まりだ。


 けれど、ミナ副師団長は言った。あんたが自分で名乗るのを止める決まりはない、と。


 それに、この騎士は、あの沼で縄を下ろした者の名前を探しているのであって、案内役の名前を探しているのではない。名乗ったところで、何もばれはしない。


 ノラは、そう自分に言い聞かせた。


「……ノラ」


 小さな声だった。


「ノラだ。名字はいらない」


「ノラ」


 ルドルフが、もう一度その名を呼んだ。大事なものを確かめるみたいな、ひどく丁寧な声だった。ノラは耳まで熱くなった。


 それから、ルドルフは石板にその名を書いた。


 ノラは、それを見つめた。


 自分の名前だった。生まれてから何百回も聞いて、何十回も自分で書いてきた名前だった。それが、ルドルフの手で書かれると、まるで知らない、きれいなものに見えた。


「……こんなふうになるのか」


「何がです」


「私の名前。こんなに、まっすぐになるのか」


 ルドルフは、少し驚いたようにノラを見た。それから、照れたように目を逸らした。


「いい名前です。短くて、書きやすい」


「褒めてるのか、それ」


「褒めています。たぶん」


 ノラは、吹き出した。笑いながら、石板のその字を、指で消さないように、そっと膝の上に置いた。


◇


 その日の夕方、村に戻ると、スグリが駆け寄ってきた。栗色のくせ毛を左右二つに結んだ、「若葉」と呼ばれる見習いの子だ。


「ノラ姉ちゃん、騎士さまに会ったの?」


「ああ」


「本当に金ぴかだった?」


「外套はな」


「どのくらい? 遠くからでも光る?」


 甲高い声で尋ねながら、スグリはノラの袖を引いた。


「歩きながら聞け」


 ノラは袖からその手を外し、代わりに握って歩きだした。スグリは隣に並んだが、質問はまだ続いた。


◇


 夏が深くなった。


 試験はひと月に二度の約束だったが、ルドルフは試験のない日にも、ときどき迎え木までやって来るようになった。鎧は着てこない。黄の外套だけを羽織って、山道を登ってくる。


「森の歩き方の、続きを教わりに」


 そう言って、石板と石筆を持ってくる。山道に黄の外套が見えると、ノラも、懐の石板を確かめてから枝を下りるようになった。


 その日、ノラは、ルドルフに木登りを教えることにした。


「森の歩き方を教えるって約束だからな。森では、上に逃げられないと死ぬ」


「上に、ですか」


 ルドルフは、迎え木の樫の幹を見上げた。一番低い枝でも、ルドルフの背丈の倍の高さにある。


 結果から言えば、ルドルフは木に登れなかった。


 手をかける場所は教えた。足をかける瘤も教えた。だが、ルドルフの体は、幹に張りついたまま、それより上にはどうしても上がらなかった。背が高くて、手足が長くて、そして、重かった。


 三度目にずり落ちたとき、ルドルフは幹の根元に座り込んで、天を仰いだ。


「無理です」


「無理じゃない。腕で登ろうとするからだ。足で登れ」


「足で登っているつもりなのですが」


「つもりじゃだめだ」


 ノラは、手本を見せようと、幹に手をかけた。いつもの調子で、するすると一番低い枝まで上がる。その枝からさらに上の枝へ、手を伸ばした。


 そのとき、足の下で、乾いた音がした。踏んでいた枝が、根元から折れた。いつもなら踏む前に足の裏で気づくのに、下にいる騎士のほうばかり見ていて聞き逃したのだ。体が宙に浮いた。しまった、と思う間もなく、受け身を取ろうと体をひねった。


 地面には落ちなかった。代わりに、硬くて温かいものに、どさりと受け止められた。


 目を開けると、すぐ近くに、ルドルフの顔があった。


 ルドルフが、ノラを両腕で抱きとめていた。座り込んでいたところから、とっさに飛び出したのだろう。背中の黄の外套が、土で汚れていた。ノラを地面に触れさせまいとして、自分の体ごと滑り込んだのだ。膝をついて、肩で息をしていた。


「……ご無事ですか」


 声が、耳のすぐそばで聞こえた。熱い息が、ノラの額の髪を揺らした。ルドルフの胸から、早鐘のような鼓動が、服越しに伝わってくる。自分の胸と、同じくらい速かった。


 ノラは、返事ができなかった。


 ルドルフの腕は、思っていたよりずっと力強かった。泥の中で縄にすがっていた腕と同じものだとは、とても思えなかった。痛いくらいに強く抱きとめられていて、それなのに、壊れものを扱うように手が震えていた。


「……よかった。間に合った」


 ルドルフは、ノラを抱いたまま、ようやく息を吐いた。


 ルドルフのほうも、目を丸くしていた。


「軽い……」


 思わず、という声だった。


「ノラどの、軽すぎませんか。ちゃんと食べておられますか」


 ノラの顔が、一気に熱くなった。


「う、梢隊(こずえたい)でいちばん軽いんだ! だから梢隊にいるんだ!」


 ノラはルドルフの腕から飛び降りた。地面に足がついたとたん、足元が少しふらついた。ルドルフの手が、支えようとして宙を泳ぎ、そのまま不器用に引っ込められた。


「そ、それから、ノラどのはやめろ。ノラでいい」


「では、ノラ」


 ルドルフが、素直に言い直した。まだ少し息の上がった、低い声で。


 ノラは顔をそむけた。もう一度呼べとは、さすがに言えなかった。


◇


 ルドルフが例の話をしたのは、その日の帰り際だった。


「ノラは、梢隊なのですよね」


「そうだ」


「では、もしかしたら、ご存じかもしれません。去年、私を沼から引き上げてくださった方のこと」


 ノラは、石板をしまう手を止めた。


「……前にも聞いた。知らないって言った」


「ええ。ですが、あれから、ずっと考えていたのです」


 ルドルフは、迎え木の根元に腰を下ろし、遠くを見るような目をした。


「あの方は、きっと、熊のような方です」


 ノラは、石板を取り落としそうになった。


「く、熊」


「はい。私は、鎧ごと胸まで泥に沈んでいました。それを、縄一本で引き抜いたのです。並の力ではありません。きっと、腕は丸太のように太く、肩は岩のように広い」


「……」


「そして、声が大きい。森じゅうの鳥が飛び立つほどの声でした。きっと、髭を生やしておられる。こう、もじゃもじゃと」


 ルドルフは、自分の顎のあたりで、手をもじゃもじゃと動かした。


 ノラは、うつむいて、自分の膝をつねった。そうしないと、声を上げて笑ってしまいそうだった。縄を引いたのは、ノラと、細い先輩たち四人だ。髭どころか、一番年上の先輩でも、まだ二十五だ。


「それに、きっと、無口な方です。名乗りもせずに、枝の上へ消えてしまわれた。黙って人を助けて、黙って去る。森の男とは、そういうものなのでしょう」


 ノラは、膝をつねる指に、さらに力を込めた。


「……そいつに会ったら、どうするんだ」


「直接、お礼を言います」


 ルドルフは、迷いなく言った。


「そして、できることなら、尋ねたい。あのとき、なぜ迷わずに縄を下ろしてくださったのか。黄の騎士など、緑の方々にとっては、助ける理由もない相手だったでしょうに」


 ノラは、笑いをこらえるのをやめた。笑う気が、いつの間にか失せていた。理由なんて、なかった。沈んでいく人がいたから、縄を下ろした。それだけだ。けれど、目を輝かせて語るこの騎士に、いまさら「それは私だ」とは言えなかった。


◇


 山道を下りながら、ルドルフ・ゼーベックは、懐の小さな帳面を取り出した。一人きりの山道で、歩きながら頁をめくる。そこには、ノラが石板に書いた字が、ルドルフの手で写してあった。


 『きょうは はれ』。払いが逆の一字は、逆のまま。


 『もり』。形が崩れて、少し傾いている。


 『かし』。一字、余計な点がついている。迎え木の樫の木を指さして、ノラが書いた字だった。


 石板の字は、練習が終わればノラが指で消してしまう。だからルドルフは、消される前に、間違いも直さずそのまま、こっそり帳面に写していた。なぜそんなことをしているのか、自分でもうまく説明できなかった。手本を書く者が、間違いを書き写すなど、おかしな話だ。


 ノラの字は、日ごとに払いが正しくなり、形が整っていく。書く速さも増していた。いつか、間違いのない、まっすぐな字を書くようになるだろう。それは喜ばしいことのはずなのに、この傾いた『もり』や、点の多い『かし』が消えてしまうのは、少しだけ惜しい気がした。


 ルドルフは、帳面の一番後ろの頁を開いた。そこには、ルドルフ自身の字で、短い名前が一つ書いてあった。


 ノラ。


 あの日、石板に書いて見せた名前だった。ノラは消さずに膝の上に置いていたが、帰り際には、やはり消してしまっていた。


 ルドルフは、帳面を閉じて、懐にしまった。胸の上で、帳面が、鎧とはまるで違う、やさしい重みで、そこにあった。


◇


 試験の日には、ミレーネ副師団長がいつも板に何かを書きつけていた。


 鎧の重さ。歩いた距離。沈みかけた回数。それから、ブレンナ隊長が硬化の魔法をかけ直した時刻。


「やっぱり、一刻はもたないね」


 ある日、ブレンナ隊長が胸当てを叩きながら、渋い顔で言った。こん、という硬い音が、こつ、という鈍い音に変わりかけていた。


「硬化がかかってるうちは、革も板と同じで、水も泥も弾く。でも、泥に浸かると、もっと早く解ける。解けたとたんに革が水を吸って、鎧ごと重くなるんだ」


「戦場で、いちいちかけ直してはいられないね」


 ミレーネ副師団長が、板に数字を書きつけた。


「だからこそ、鎧そのものを軽くする意味がある。重さを削る。脱ぎやすくする。泥を吸う革を減らす」


 ミレーネ副師団長は、言いながら、火傷の跡の残る指を一本ずつ折っていった。理屈を並べるときの、この人の癖だった。


「硬化が解けても、沈まずに歩いて戻れる重さなら、命は拾える」


 そう言ってから、ミレーネ副師団長は顔を上げて、迎え木の根元のほうを見た。


 そこでは、ノラとルドルフが、石板を挟んで座っていた。ノラが字を書き、ルドルフがのぞき込み、ノラが何か言い返し、ルドルフが笑っている。


 ミレーネ副師団長は、しばらくそれを眺めていた。それから、何も言わずに板に戻り、試験の日程の欄に、一日書き足した。


「なんで増やしたの」


 ブレンナ隊長が、板をのぞき込んで尋ねた。


「泥地を歩いたときの記録が、まだ足りないからね」


「ふうん」


 ブレンナ隊長は、迎え木の根元を一度見て、それから、にやりと笑った。


「そういうことにしておくよ」


◇


 その日の字の練習の題材は、ノラが決めた。


「昔話を書け。緑の昔話だ。私が話すから、お前が書け。それを、私が写す」


「緑の昔話ですか。ぜひ」


 ルドルフは、身を乗り出した。


 ノラは、緑の子どもなら誰でも知っている話をした。沼に鉄の斧を落とした木こり。金の斧を差し出す沼の精。「おまえが落としたのは、金か、鉄か」。そして、「鉄です。金の斧では木が切れない」と答えた木こりの話。


 ルドルフは、ノラの話を一言ずつ、石板に書いていった。書きながら、楽しそうだった。


「いい話ですね。街にも似た話があります。泉の精が出てくる話で、金と銀なのですが」


「金と銀なんて、どっちも木が切れないだろ」


「……たしかに」


 ルドルフは笑った。それから、何気ない調子で尋ねた。


「それで、緑の方は、この話から何を学ぶのです? 正直であれ、と?」


「違う。森で役に立つのは鉄だ、ってことだ」


 言ってから、ノラは、余計なことまで言いそうになっている自分に気づいた。気づいたときには、遅かった。


「だから、村では、見かけ倒しのものを金の斧って言う」


「なるほど」


「……黄の騎士のことも、金の斧って言う。陰で」


 石筆が、止まった。


 ルドルフは、石板を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。


「金の斧」


「……悪い。言わなくていいことだった」


「いいえ」


 ルドルフは首を振った。怒っているのではなかった。ただ、少しだけ、肩が落ちていた。


「黄の外套は金色ですし、鎧も金に光ります。そう見えるのは、当然です。泥地では一歩も動けず、森では足元の枝も避けられない。役に立たない金の斧と言われても、仕方がありません」


 ルドルフは、石板から顔を上げた。まっすぐな目が、ノラを見た。


「ノラ。私は、金に見えますか」


 ノラは、答えられなかった。


 金だ、とは思わなかった。けれど、鉄だ、と言い切れるほど、ノラはまだこの騎士のことを知らなかった。


 知っているのは、枝を踏むこと。木に登れないこと。字がきれいなこと。鎧を着ると手が震えること。それでも、鉄色の鎧を着て、あの沼のそばまで歩いてくること。


 それから、落ちてきた娘を、とっさに受け止める腕を持っていること。


「……まだ、わからない」


 ノラは、正直に答えた。


 ルドルフは、少し寂しそうに、でも、どこかほっとしたように笑った。


「では、わかるまで、見ていてください」


◇


 その日の夕方、試験が終わって、ほかの者たちが山道を下りる支度をしているあいだ、ルドルフは一人で台に掛けられた鉄色の鎧を見つめていた。


 ノラは、その横に立った。


「なあ」


「はい」


「鎧、怖いのか」


 ルドルフは、すぐには答えなかった。


 夕日が、森の外れを赤く染めていた。沼の苔の上を、羽虫の群れが金色に光りながら飛んでいる。


「……ノラには、隠せませんね」


 ルドルフは、鎧の胸当てに、そっと手を置いた。


「あの日から、鎧が重いのです。前と同じ重さのはずなのに、着けると、胸を泥に締めつけられているような気がする。夜、眠れないときに、一人で胸当てを着けてみるのです。重さを確かめて、まだ息ができる、と思って、それからやっと眠れる」


「……毎晩か」


「毎晩ではありません。ときどきです」


 ルドルフは、手を胸当てから離した。


「騎士が鎧を怖がるなど、誰にも言えません。家の者にも、黄の仲間にも。だから、この鎧の試験に志願したのです。軽い鎧なら、少しはましかと思って。それに、もう一度あの沼のそばに立てば、何か変わるかと思って」


「変わったか」


「少しだけ。最初の日は、三歩目が出ませんでした。今日は、一度も止まらずに沼の手前まで歩けました」


 ルドルフは、ノラのほうを見た。


「ノラが、前を歩いてくれたからです」


「次も、いてくれますか」


「いる。次も、私が案内する」


 ノラは、ルドルフから目をそらした。


「だから、怖いなら、怖いって言え。森では、怖いって言わないやつから死ぬ」


「……ブレンナ隊長と同じことをおっしゃる」


「あの人のは、魔法の話だ。私のは違う」


「そうですね」


 ルドルフは、笑った。夕日のせいか、その顔は、少しだけ泣きそうにも見えた。


「では、ノラには言います。怖いです。とても」


「うん」


「でも、また来ます」


「……うん」


 ノラは、そこで口をつぐんだ。それでも、ルドルフが山道の向こうに見えなくなるまで、迎え木の枝の上から見送った。

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