第二章 迎え木の取引
迎え木の裏手から、細い獣道が森の奥へ続いている。
ノラは先に立って歩いた。後ろから、四人分の足音がついてくる。そのうち一人分だけが、やけに大きかった。
黄の騎士は、枯れ枝を避けもせず、ぱきん、ぱきんと踏み抜いていく。森の獣が、遠くで逃げていく気配がした。
「その枝は、踏まないほうがいい」
ノラは振り返らずに言った。もちろん、声はうんと低くしてある。
「は。申し訳ない」
騎士は素直に足を止め、足元を見下ろした。それから、次の一歩で、もっと大きな枝を踏んだ。
ぱきん。
ノラは、天を仰ぎたくなった。
村を囲むように、侵入者を防ぐ罠が三重に仕掛けられている。客を迎えるための空き地は、その一番外側にある。そこまでは、ゆっくり歩いても四半刻ほどだ。ノラは、そのあいだ一言もしゃべらずに済ませるつもりだった。
だが、黄の騎士のほうは、そうではなかったらしい。
「案内役どの」
すぐ後ろで、声がした。
「お尋ねしたいことがあるのですが」
「……なんだ」
「梢隊に、大柄な男の方はおられませんか。年は、私より上だと思うのですが」
ノラの足が、一瞬もつれた。
「去年の秋の初め、森の外れの沼で、私を縄で引き上げてくださった方がいるのです。声の大きな方でした。私を泥から引き抜くほどの力の持ち主ですから、きっと、ずいぶん体の大きな方だと思うのですが」
ノラは、前を向いたまま歯を食いしばった。
あのとき縄を引いたのは、ノラと先輩たち四人だ。梢隊の者はみな軽くて細い。大柄な男など、一人もいなかった。
「……知らない」
「そうですか」
騎士の声が、わずかに沈んだ。
「実は、去年の秋に、その方に宛てて手紙を出したのです。けれど、返事がなくて。名前もわからないので、宛名も書けませんでした。きっと、届かなかったのでしょうね」
ノラの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
届いている。寝床の脇の木箱の、一番上にしまってある。半日かけて、指でなぞって読んだ。
ノラは、言葉を選んだ。選んでいるうちに、口が勝手に動いていた。
「……緑に来た手紙は、ちゃんと届く」
言ってから、しまったと思った。
後ろの足音が、止まった。
「では、届いたのに、お返事がないということですか」
振り返ると、騎士は道の真ん中に立ちつくしていた。生真面目な顔が、目に見えてしょげている。
「私の手紙が、何か無礼だったのでしょうか。言葉が足りなかったか、それとも、多すぎたか……」
多すぎた、とノラは心の中で答えた。生涯をかけてもお返しできない、などと書かれても困る。
だが、口に出したのは別のことだった。
「梢隊は、忙しいんだ。たぶん」
「忙しい」
「峠の見回りとか、いろいろ。だから、返事が遅いだけだ。たぶん」
騎士の顔が、ぱっと明るくなった。
「そうですか。では、待ちます」
その顔を見て、ノラの胸は、さっきよりもっと痛くなった。
◇
空き地では、ミナ副師団長が待っていた。
倒木を並べただけの腰掛けがあり、真ん中に小さな炉が切ってある。外の客と話をするための場所だ。ここより先には、客は一歩も入れない。
家令と従者たちは、落ち着かない様子であたりを見回していた。木の上から誰かに見られている気がするのだろう。実際、見られている。梢の上には、ノラの先輩が二人、葉に紛れて潜んでいた。
騎士だけは、別のものを見ていた。空き地を囲む木々の幹の、腰の高さに刻まれた小さな印。枝から枝へ渡された細い縄。遠くの梢で、きらりと光った鏡の合図。
見ているのに気づいて、ノラは少し意外に思った。たいていの客は、目の前の倒木の腰掛けと、炉の火しか見ない。
「森の方々は、木の上で話をなさるのですね」
騎士が、感心したようにつぶやいた。誰に言ったわけでもないらしかった。
ミナが、面白そうに眉を上げた。
「よく気づいたね。黄の人は、たいてい足元しか見ないのに」
「去年、足元ばかり見ていて、上を見なかったので」
騎士は、少し困ったように笑った。
「上を見ていれば、もっと早く縄に気づけたかもしれません」
ノラは、ミナ副師団長のすぐ脇に控えたまま、黙って唇を噛んだ。
家令の老人が、咳払いをひとつして、深々と頭を下げて口上を述べた。ゼーベック伯爵家の名代として、去年の沼の件の礼に参った。ついては、ささやかながら品を納めたい。
従者たちが荷を解く。中から出てきたのは、上等の塩の袋がいくつかと、油紙に包んだ鉄の鏃の束だった。
ミナが、鏃の束を一つ手に取って、目を細めた。
「いい鉄だね。ゼーベック家の領地の鍛冶が打ったもの?」
「は。実は、当初は銀の杯をお納めするつもりでおりましたが」
家令がちらりと横を見た。
「若さまが、森では銀の杯より鏃のほうが役に立つ、と」
騎士が、少し顔を赤くした。
「余計なことを申しました。使っていただけるものを、お持ちしたかったのです」
ミナは何も言わずに、鏃の束を炉の脇に置いた。そして、隣のノラに少し顔を寄せて、ささやいた。
「金の斧じゃなくて、鉄の斧を持ってきたね」
ノラは聞こえないふりをした。
口上が済むと、騎士が一歩前に出た。
「ミナ副師団長。一つだけ、お願いがございます」
家令が、慌てたように袖を引いた。だが、騎士は引かなかった。
「私を引き上げてくださった方のお名前を、教えていただけないでしょうか。家の名ではなく、私個人として、直接お礼を申し上げたいのです」
ミナは、炉の火を見ながら、少し間を置いた。
「緑はね、仲間の名前を外の人には教えないんだ。悪いけど、それは決まりでね」
「……そうですか」
「でも、礼の気持ちは、ちゃんと本人に伝えておく」
ミナはそう言って、ほんの一瞬だけ、ノラのほうを見た。
ノラは、ミナの脇で身を縮めていた。できることなら、そのまま誰の目にも入らなくなってしまいたかった。
◇
用件はそれで終わりのはずだった。
ところが、家令が腰を上げかけたところで、騎士が、別の話を切り出した。
「それから、ミナ副師団長。夏のあいだ、またこの森の外れにお邪魔することになるかと存じます」
「ああ、その話なら、紫の師団から書状で聞いてるよ。黄の新しい鎧の試験だってね」
騎士がうなずいた。
「黄のミレーネ副師団長が、軽い鎧を試しておられます。泥地でどれほど動けるかを確かめるには、この森の外れの地面がいちばんよいと」
騎士は、そこで言葉を切った。ほんの少しだけ、声が硬くなった。
「その鎧を着る者に、私が志願しました」
ノラは、思わず騎士の顔を見た。
泥に胸まで沈んで、震える手で面頬を上げた顔を、ノラは覚えている。あの騎士が、また鎧を着て、あの沼のそばへ来るという。
「泥地は危ないよ」
ミナが言った。
「はい。ですから、緑の方に、案内をお願いしたいのです。どこが固くて、どこが沈むのか。私たちには、見ただけではわかりませんので」
「梢隊から一人つける。試験は、夏のあいだにひと月二度くらい?」
「そのように伺っております」
ミナが、腰掛けから立ち上がった。そして、脇に控えるノラを騎士に示した。
「この子をつける。今日の案内役。足が速くて、森の外れの地面のことなら誰よりよく知ってる」
ノラは目を剥いた。
「ミナさん!」
「なに?」
「……なんでもないです」
ミナは、ノラの顔をまじまじと見た。
「ところであんた、さっきから声どうしたの。風邪?」
ノラは、ミナの足を踏んでやりたくなった。
◇
帰り道も、ノラが先に立った。
騎士は相変わらず枝を踏んだ。ただ、行きよりは少しだけ、ノラの足跡をなぞるように歩くようになっていた。
獣道が下り坂にかかったところで、道の脇に、鮮やかな緑の苔が一面に広がっていた。木漏れ日を受けて、柔らかな絨毯のように光っている。
騎士が、そちらへ一歩踏み出した。
「待て」
ノラは振り向きざまに、騎士の外套の袖をつかんだ。
力いっぱい引いたつもりだった。だが、背の高い騎士の体は、ほんの少し揺れただけだった。それでも騎士は足を止め、驚いたようにノラを見下ろした。
「そこは、踏むな」
ノラは苔の上に、足元の小石を一つ放った。小石は苔に落ちると、音もなく沈んで見えなくなった。
騎士の顔から、さっと血の気が引いた。
「……沼、ですか」
「沼ってほどじゃない。水が溜まってるだけだ。膝くらいまで」
「膝」
「でも、鎧を着てたら、膝で済まない」
騎士は、苔の広がりをしばらく見つめていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「きれいな場所ほど危ない、ということですか」
「森ではな。きれいな苔は、水を吸ってるから、きれいなんだ」
ノラは袖を放した。つかんでいた指に、外套の布の感触が残っていた。上等な、なめらかな布だった。
騎士は、ノラがつかんでいた自分の袖口を、なぜか一度だけちらりと見た。それから、少しだけ声を落として言った。
「覚えておきます」
騎士は真面目な顔でうなずいた。そして、苔の手前で、もう一度ノラの足跡を確かめてから歩き出した。その一歩は、さっきより近く、ノラのすぐ後ろに落ちた。
ノラは前に向き直った。顔が熱いのは、坂を急いだせいだと思うことにした。
空き地での話が、ノラの頭の中をぐるぐる回っていた。
夏のあいだ、ひと月に二度、この騎士が森の外れに来る。正体を隠したまま、木箱の中の手紙に返事も出せないまま、そのたびにノラが案内することになる。
騎士は「では、待ちます」と言った。あの顔で、待つと言った。
迎え木が見えてきた。家令と従者たちは、ほっとしたように足を速めた。ノラと騎士だけが、少し遅れて歩いた。
樫の木の下で、騎士がノラに向き直った。
「今日はありがとうございました、案内役どの。次からも、よろしくお願いいたします」
また、深く頭を下げる。
ノラは、その金色の外套の背中を見下ろしながら、自分でも思いがけないことを口にしていた。
「……取引をしないか」
騎士が顔を上げた。
「取引?」
「お前たちは、森の歩き方を知らない。枝は踏むし、苔の上は平気で歩くし、沼の岸がどこかもわからない。そのままじゃ、また沈む」
「……面目ない」
「だから、森の歩き方を教えてやる。試験のついでに」
「それは、ありがたい。では、代わりに私は何を」
ノラは、息を一つ吸った。
「字を、教えろ」
騎士が、きょとんとした。
「字、ですか」
「お前の字は、きれいなんだろ」
言ってから、ノラはまた口を押さえたくなった。
騎士は気づかなかったらしい。不思議そうに首をかしげただけだった。
「どうして、私の字がきれいだと?」
「……騎士はみんな字がきれいだって、聞いた」
「そんなことはありません。ひどい字の者もおります」
「お前はどうなんだ」
「……それなりに、きれいだとは言われます」
騎士は少し照れたように答えた。それから、真面目な顔で尋ねた。
「しかし、なぜ字を?」
ノラは目を逸らした。
「街には、看板ってものがあるんだろ。店の前に、字で何の店か書いてあるって」
「ええ、あります」
「読めたら、便利だ。いつか街に行ったとき」
ノラは、騎士の返事を待たずに付け足した。
「嫌なら、いい」
「いいえ」
騎士は、すぐに首を振った。
「喜んで、お引き受けします」
そう言って、騎士は手を差し出しかけ、それから思い直したように胸に手を当てた。
ノラは、手のひらを葉のように広げて見せた。
「緑の挨拶だ。こうする」
騎士は、ぎこちなく真似をした。大きな手のひらが、ノラの前で広げられる。
ノラの手がすっぽり隠れてしまいそうなほど大きかった。長い指の根元に、剣だこの硬い盛り上がりが並んでいる。
縄をつかんだ籠手の中には、この手があったのだ。
「それで、案内役どの」
「その呼び方はやめろ」
「では、何とお呼びすれば。お名前を伺ってもよろしいですか」
「名前は教えない。緑の決まりだ」
「では……先生、と」
「もっとやめろ」
騎士は困った顔をした。困った顔をすると、急に年相応に見えた。ノラより一つ年下なのだと、ミナ副師団長から聞かされていたのを、ふいに思い出した。
「では、やはり案内役どので」
「……好きにしろ」
ノラは樫の幹に手をかけ、ひと息で枝の上まで登った。下を見ると、騎士がぽかんと口を開けて見上げている。
「次の試験の日に、ここで待ってる。遅れるなよ、黄色――」
言いかけて、ノラは慌てて口をつぐんだ。
「……黄の騎士」
そして、葉の陰に身を隠した。
◇
山道を下りながら、ルドルフ・ゼーベックは、何度も森のほうを振り返った。
家令が、ため息まじりに言った。
「若さま。名も明かさぬ平民の娘と、あのような約束をなさって」
「約束ではない。取引だそうだ」
「同じことでございます」
ルドルフは、黙って歩いた。
平民の娘に「教えろ」と命じられたのは、生まれて初めてだった。家では、ルドルフは三男坊として扱われてきた。兄たちに命じられ、父に命じられ、騎士になるための訓練を受けた従卒院では、先輩の騎士たちに命じられた。それが当たり前だった。しかし平民の者たちは、ルドルフにいつも頭を下げ、黄の外套を見れば道を開けた。
あの娘は、道を開けなかった。枝の上から降ってきて、「ついて来い」と言った。「その枝は踏むな」と言った。「字を教えろ」と言った。不思議と嫌な気はせず、むしろ胸のどこかが軽くなったような気がした。
ルドルフは、自分の手のひらを見下ろした。さっき、あの娘の前で葉のように広げた手だった。
あの娘は、ときどき声が裏返っていた。低い声で話そうとしているのに、驚いたときだけ、高く澄んだ声になる。どこかで聞いたことのある声のような気がしたが、どこで聞いたのかは、思い出せなかった。
鎧を着て、またあの沼のそばへ行く。それを思うと、今でも胃の底が冷たくなる。夜に一人で胸当てを着けて、その重さを確かめずにはいられない日がある。
けれど、あの森の外れには、枝の上から降ってくる案内役がいる。
足元で、乾いた枝が鳴りかけた。ルドルフは踏み出しかけた足を引き、その枝を、そっとまたいだ。
前を行く家令が振り返り、不思議そうに首をかしげた。




