第一章 黄色いの
去年の秋の初め、森の外れの沼は、騎士を一人、飲み込みかけた。
そのとき、ノラ・クレメントは沼の上に張り出した楢の枝に腹ばいになっていた。緑の師団と黄の師団の合同模擬戦の日で、梢隊の役目は樹上から黄の隊列の動きを見張り、鏡で合図を送ることだった。
森の外れを、金色の外套の列が進んでくる。磨いた真鍮と鉄の鎧が、木漏れ日を受けてぎらぎらと光った。盾を並べ、槍を揃え、一歩ごとに地面が鳴る。
「あっちは沼だぞ」
隣の枝で、梢隊の先輩が舌打ちした。
森の外れのあの窪地には、昔から誰も足を踏み入れない。表は苔と草に覆われて固い地面に見えるが、その下は底の知れない泥だ。緑の子どもは、歩けるようになる前にそう教わる。
だが、黄の隊列は止まらなかった。隊列の右の端が窪地にかかり、最初の一人が膝まで沈んだ。
それが、若い騎士だった。肩の黄の飾り紐が、まだ新しい。叙任されたばかりなのだろう。
騎士はもがいた。もがくほど、鎧の重みで沈んでいく。膝から腰へ、腰から胸へ。仲間の騎士たちが盾を差し出そうとしたが、近づけば自分たちも沈む。誰も、あと一歩が踏み出せなかった。
ノラは、考えるより先に動いていた。腰の縄をほどき、鉤爪を枝に掛ける。縄の端を、沼の真上へ投げ落とした。縄は騎士の兜の脇に落ちた。だが騎士は気づかない。兜の覗き穴からは、ほとんど何も見えていないのだ。泥はもう、胸当ての上端まで来ていた。
「つかめ、黄色いの!」
ノラは怒鳴った。森じゅうの鳥が飛び立つほどの声だった。小さな体のどこから出るのかと、梢隊の先輩たちにいつも呆れられる、高く澄んだ声が、梢から梢へ渡っていった。
籠手をはめた手が、跳ねるように縄をつかんだ。ノラの体が、枝ごと沼のほうへ引かれる。梢隊でいちばん軽い体では、とても支えきれない。踏ん張った足が樹皮の上を滑った、そのとき、両脇から腕が伸びてきた。先輩たちが次々に枝へ飛び移り、同じ縄をつかむ。
「引け!」
一人、二人、三人、四人。縄が軋み、楢の枝がしなった。泥が、ごぼりと嫌な音を立てた。騎士の体が、少しずつ泥から抜けていく。胸、腰、膝。最後は泥の外にはい上がった騎士を、黄の騎士たちが引きずるようにして固い地面まで運んだ。
騎士は仰向けに倒れ、激しく咳き込んだ。震える手で兜の面頬を上げる。泥だらけの顔が、梢を見上げた。
目が合った、とノラは思った。
次の瞬間、ノラは縄を巻き取って、葉の陰に身を引いていた。
「待ってくれ!」
下から声がした。
「名を、名を教えてくれ!」
ノラは答えなかった。
梢の者は、仕事のあとに名乗らない。それが森の流儀だ。
それに、あの泥まみれの顔に見上げられて、何と言えばいいのか、ノラにはまるでわからなかった。
◇
冬が過ぎ、春が過ぎた。
初夏の朝、樹の村に起床の木笛が鳴り渡る。大樹の枝の上の小さな家で、ノラは寝床から体を起こした。
頬の下あたりで切りそろえた濃い茶色の髪を、手ぐしで耳にかける。枝に引っかからないように短くしているのに、寝起きだけは言うことを聞かない。
まず手を伸ばすのは、寝床の脇の木箱だ。蓋を開けると、一番上に、厚い紙の手紙が一通しまってある。
去年の秋、緑の師団に宛てて届いた手紙だった。赤い封蝋には、盾と麦の穂を組み合わせた、どこかの貴族の家の紋章が押してあった。宛名はなく、表にはただ、こう書いてあった。
――森の外れの沼にて、私に縄を下ろしてくださった方へ。
ミナ副師団長がそれを見て、「これはあんたのだね」とノラに渡した。そして、ノラの代わりに読み上げてくれた。
ノラはもう一度、自分の目で読んだ。指で一字ずつ追って、半日かかった。
字は恐ろしくきれいだった。一画一画が、墨縄を張って引いたようにまっすぐだ。そして、書いてあることが、いちいち大げさだった。
――貴方の縄がなければ、私は今ごろ泥の底で、鎧ごと沼の一部となっていたことでしょう。
――この御恩は、我が生涯をかけてもお返しできるものではありません。
――叶うならば、貴方のお名前を知りたい。そして、いつか直接お礼を申し上げたい。
最後に、署名があった。ルドルフ・ゼーベック。
ノラは騎士の名前を知っている。騎士は、ノラの名前を知らない。
その名前のところだけ、縄だこで硬くなった指の腹で何度もなぞったせいで、紙がほんの少し毛羽立っていた。
ノラは手紙を箱に戻し、代わりに小さな石板を取り出した。白い石筆で書いた字が、うっすらと残っている。
『げんきか』
これを書くのに、ひと冬かかった。
子どもの頃、ノラは学び舎を抜け出しては木に登ってばかりいた。読めないわけではない。書けないわけでもない。ただ、ひどく遅い。綴りもよく間違える。
誰かに代わりに書いてもらえば、すぐに返事は出せる。ミナに頼めば、喜んで書いてくれるだろう。
でも、それでは自分の返事にならない気がした。あの騎士は、自分の手で、あんなにまっすぐな字を書いてきたのだ。
ノラは、石板の『げんきか』を指でこすって消した。
「……元気に決まってるだろ。手紙が来たんだから」
独り言が、朝の枝の上に落ちた。
ノラは緑褐色の短い外套を羽織り、樹上を移動するときに使う吊り帯を腰と腿に締めて、家の外に出た。外套の肩で、濃い緑に塗った木彫りの葉が一枚揺れる。梢隊の一人前、青葉の印だ。ノラは枝の先まで歩いた。大樹のてっぺん近くまで登ると、木々の切れ目から、西の空が見える日がある。
今朝は、よく晴れていた。
森の外れのずっと先、王の背と呼ばれる崖の下に、王都クレルヴェーアの屋根が小さく並んでいる。朝の煙が何本も細く立ちのぼり、その向こうに、ユールナ川が銀色の筋のように光っていた。もっと先は、霞んでよく見えない。たぶん、あれが海だ。
ノラは、あの屋根の下を歩いたことがない。緑の者のほとんどがそうだ。同じクレルヴェン王国の民でありながら、森の外の王国を知らずに一生を終える者も少なくない。街へ下りるのは、伝令役の梢隊の者か、交易の荷を運ぶ者くらいのものだった。
街には、看板というものがあるらしい。店の前に板を掲げて、字で何の店かを書いておくのだという。伝令のタムが、いつか土産話にしてくれた。
字が読めなければ、パン屋も鍛冶屋も見分けがつかない。
ノラは、ふん、と鼻を鳴らした。どうせ行くこともない街だ。
それでも、手紙の差出人があの屋根のどこかにいるのだと思うと、ノラはいつまでも枝の先から動けなかった。
◇
枝を伝って家へ戻ると、吊り橋が揺れて、軽い足音が近づいてきた。
「ノラ、起きてる?」
顔をのぞかせたのは、ミナ副師団長だった。小柄で身軽で、短い茶色の髪に緑の飾り紐を一本つけている。村の運営と、外との交渉を一手に引き受けている人だ。
ノラは慌てて石板を背中に隠した。手のひらを葉のように広げて、朝の挨拶をする。
「起きてます。ミナさん、こんな朝早くにどうしたんですか」
「知らせがあってね。あんたに関係のある知らせ」
ミナは家の入口に腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。下は、目もくらむような高さだ。
「王宮の紫の師団から書状が来た。ゼーベック伯爵家が、去年の沼の件で、礼の使者を出したいって」
ノラの手から、石板が落ちた。床の上で、ごとりと鈍い音がした。
「……使者? 村に、ですか」
「村の中までは入れない。ヴェルデ師団長が許したのは、迎え木から、客を迎える空き地までだよ。それでも、貴族の家の使いが森に来るのは、あたしの知る限り初めてだね」
ミナは、ひと呼吸おいてから付け足した。
「それで、使者の中に、本人がいるんだって」
「本人」
「沼に沈んだ騎士さま本人」
ノラは黙った。
ミナは、石板を拾い上げてノラに返した。ちらりと表を見たが、何も言わなかった。
「三日後の昼に、迎え木に着くそうだよ。そこからの案内は、あんたに頼む」
「なんで私なんですか!」
「梢隊でいちばん足が速いから」
「それなら隊長のほうが――」
「隊長は峠の見回り。もう決めた」
ミナはにやにやしていた。こういう顔をするとき、この人は絶対に引かない。
「で」
ミナが、身を乗り出した。
「沼から拾った騎士さまは、金だった? 鉄だった?」
緑の子どもなら、誰でも知っている昔話がある。
沼に鉄の斧を落とした木こりの前に、沼の精が金の斧を持って現れ、「おまえが落としたのは、金か、鉄か」と尋ねる。木こりが「鉄です。金の斧では木が切れない」と答えると、沼の精は鉄の斧を返し、金の斧も添えてくれた。
それ以来、村では「金か、鉄か」と言えば、「見かけか、中身か」という意味になる。そして緑の者は、金色の外套の黄の騎士たちを、陰で「金の斧」と呼んでいる。
ノラは少し考えてから、正直に答えた。
「……泥でした」
ミナが、手を叩いて笑った。ふだんは低く落ち着いた声なのに、笑うと急に、少女のように高くなる。笑いすぎて、家の入口から落ちそうになった。
「泥か。そりゃそうだ」
ひとしきり笑ってから、ミナは真面目な顔に戻った。
「ノラ。緑は、仲間の名前を外の者には教えない。それは師団の決まりだよ」
「わかってます」
「でもね」
ミナは立ち上がり、外套の裾を払った。
「あんたが自分で名乗るのを、止める決まりはない。どうするかは、あんたが決めな」
ミナはそう言い残して、吊り橋を渡って行ってしまった。
ノラは、石板を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
◇
崖の南の端を巻いて登る山道は、思っていたより険しかった。
ルドルフ・ゼーベックは、背筋の伸びた痩せた家令の背中を見ながら、一歩ずつ足を運んだ。後ろには従者が二人、礼の品を積んだ荷を担いでついてくる。
黄の外套は着てきた。だが、鎧は着ていない。
「せめて胸当てだけでも」と、白髪の家令はしわがれた声で出発の朝まで言い続けた。黄の騎士が正式な使いに出るなら、鎧を着るのが当然だ。
ルドルフは首を振った。礼を言いに行くのに、鎧はいらない。ただ、あの沼に近づくとき、あの重さを身につけていたくないとは、どうしても口に出せなかった。
使者を出すと決めたのは、父だった。
黄の古参の方々は、沼の件を「軽微な事故」として片づけたがっている。緑に礼など述べれば、黄の面子を潰すことになる。ゼーベック家は古参に近い家で、父もそれをよくわかっていた。
それでも父は、書斎にルドルフを呼んで言った。
「行け。ただし、家の名で頭を下げるな。お前の名で下げてこい」
ルドルフは、深く頭を下げた。父がそれ以上を言わない理由も、わかった気がした。
山道の先に、木々の壁が見えてきた。崖の上の大森林、千樹の森だ。
ルドルフは、胸の奥で何度も繰り返してきた光景を、もう一度思い返した。
泥の冷たさ。胸を締めつける鎧の重さ。兜の覗き穴の向こうの、緑の色。引き上げられて面頬を上げたときには、泥が目に入って、梢の上は緑の影にしか見えなかった。そして、森を震わせるような、あの声。
――つかめ、黄色いの!
あれほどの力で自分を泥から引き抜いたのだ。きっと、熊のように大きな男に違いない。
名前を聞けなかった。礼状の返事も来なかった。きっと、手紙は届かなかったのだろう。
今度こそ、会って、自分の口で礼を言う。
ルドルフは、森へ続く最後の坂を登りはじめた。
◇
迎え木は、森の入口に立つ一本の大きな樫の木だ。外から来た者は、ここで足を止めて、梢隊の案内を待たなければならない。
山道を登りきったところには、森の外れに沿って、細長い草地が北へ延びている。去年、黄の隊列が進んだのも、この草地だった。迎え木から草地を北へ二百歩ほど行った窪地に、あの沼がある。
ノラはその樫の枝の上で、息をひそめていた。
坂の下から、四人の男が登ってくる。先頭は白髪の老人。後ろに荷を担いだ二人。そして、その間に、背の高い若い男がいた。
金色の外套を着ている。だが、鎧は着ていない。外套の下は、白い麻の上衣だけだった。肩には黄の飾り紐が一本。外套の背中いっぱいに、盾と王冠の紋章が刺繍されている。
ノラは、枝の上で目を凝らした。
泥がついていない。
当たり前のことなのに、それがひどく不思議に思えた。ノラの覚えている騎士は、顔も髪も泥で真っ黒だった。いま見下ろしている若い男は、麦わらのような色の髪をしていて、まっすぐな眉の下に、生真面目そうな目があった。顎の線がしっかりしていて、日に焼けた首筋が、金の外套の襟から伸びている。
それに、思っていたよりずっと背が高い。
四人が、迎え木の下で足を止めた。老人が、あたりを見回して戸惑っている。森の中には道らしい道もなく、人の気配もない。
ノラは、ひとつ息を吸った。
枝を蹴り、宙で一度体をひねって、四人の目の前に音もなく降り立った。
従者の二人が、ひっと声を上げて後ずさった。老人は荷物を取り落としかけた。
ただ一人、あの若い騎士だけが、驚かなかった。
いや、驚いてはいたのだろう。目を大きく見開いていた。だが、次の瞬間には、彼は胸に手を当てて、深々と頭を下げていた。
貴族が、平民の、それも名も知らない案内役の娘に。
金の外套の裾が、土につきそうなほど低く。
「ゼーベック家のルドルフと申します。お迎え、感謝いたします」
低く落ち着いたその声は、去年、泥の中で「名を教えてくれ」と叫んだ声と、同じだった。叫んでいないときの彼の声は、やわらかく、一語ずつ確かめるように、ゆっくりと話す声だった。
ノラは、口を開きかけて、閉じた。
声を出せば、気づかれるかもしれない。あの日、森じゅうに響かせた、この声で。
顔を上げた騎士が、まっすぐにノラを見ている。明るい茶色の目が、木漏れ日を映して、蜂蜜のような色に光っている。ひどく澄んだ目だった。
金か、鉄か。
泥を落とした騎士さまが何なのか、ノラにはまだわからなかった。ただ、胸の奥が、縄を握ったあの日と同じくらい、うるさく鳴っていた。
このまま見つめられていたら、その音まで聞かれそうだった。ノラは目を逸らして、声をうんと低くした。
「……案内する。ついて来い」
作った声は少しかすれて、ぶっきらぼうに響いた。自分の耳にも、どこかの村の少年の声のように聞こえた。




