第3話:コーヒーの香りは思い出になった
本を借りてからは、久々に心穏やかな時間だった。
ベッドの上でずっと借りた本を読んで、ポットの白湯を飲んで、トイレに立つついでに少し散歩して、夜にまたスープとお粥を食べて。
久々に読んだ魔法の本は面白くて夜遅くまでずっと読んでいた。
夜遅くにコンコンコンとドアをノックする音。
一度聞いた独特の間。なんとなく、誰が来たのか分かる。
「まだ起きているのかい?」
「お陰様で。とても面白いわ、これ」
「医者としては、病み上がりの女の子がこんな時間まで起きているのは見過ごせないかな」
「あら?医者の前に殿方として、レディの寝室に夜に来るのはどうなのかしら?」
「勘弁してほしいな…取って食ったりしないよ」
苦笑いした貴方に私は畳み掛けた。
「それよりも、聞きたい事が山ほどあるの。まずこのページの、精霊との契約のところなのだけど…」
「どれどれ…」
椅子に座って、真面目に答えてくれる貴方との時間は想像以上に楽しかった。
一体こんな時間を過ごしたのはいつ以来だろうか。
私はいつから自分の心を殺して生きていたのだろうか。
「それで次のページなのですけど…」
「ちょっと待って、もうだいぶ遅い。また明日にしよう。今日はおしまいだよ」
少し心がモヤっとした。この楽しい時間が終わってしまうことが怖かった。
「いいじゃないの。もう少し教えていただきたいのだけど。生きていて良かったって思わせてくれるんでしょ?」
「そうはいうけど、流石に医者としてこれ以上は駄目かな」
すっと椅子から立ち上がってしまって、部屋の入口に向かっていった。
「明かりを消すよ」
「まだ本を読んでいたのだけど。子供の頃からこっそりこうやって夜に魔法の本を読んできたのだから、私にとっては普通のことだわ」
「今日は寝なさい。その分明日しっかり質問には答えるよ」
「本当に?ちゃんと来てくださるの?」
「午前中は外来診療があるから、それが終わったらね。昼食の時と、午後からの仕事が落ち着いたらまたここに来るよ」
「分かりました。約束ですよ」
「えぇ、約束します」
私の部屋に薄暗い明かりだけが残ると、先生は部屋に鍵をかけて去っていった。
その日の夜は少しだけ胸が温かくて、眠ってしまうのが勿体なかった。
生きていて良かったと思うには足りないけど、でも少しだけ明日が楽しみになる、久々の夜だったから。
空っぽだった私の心に、久々に魔法という小さな楽しみの芽を見つけることが出来たから。
物心ついたときには始まっていた王太子妃になるための教育。
一挙手一投足、全てを指摘され、直され、国を学び、歴史を学び、作法を学び、試験を繰り返し上手く答えられなくてその度に怒られて。
父と母の為、家の為、王子の為、国の為、自分を殺してずっと生きてきた。
でも、王子は、聖女を名乗ったあの女は、そんな私から生きる意味を、生きてきた証をそのまま奪おうとした。
そんな事が許されて良いはずがない。許してはいけない。
だからあの女を呪ってやった。私の人生を守るために、私が私でいるために。
子供の頃から大好きだった魔法、こっそりと涙を流しながら夜に読んだ数々の魔導書、自分に出来るささやかな自己防衛のはずだった。
でも、大好きな魔法までも、私を裏切った。
聖女を呪った魔女として告発されて、婚約破棄を言い渡され、王都から追放され、全てを失った。
魔法までも魔女という名のレッテルで私の人生を粉々に切り刻んだ。
そんな嫌な夢から目を覚ますと、目尻は涙が流れた跡が分かるほどパサついていた。
顔を洗いに洗面台に立つと、二重のはずの瞼は腫れていて…でもそれがいつもの私の顔だったような気もして、すごく不思議な感覚だった。
その日のお昼、本当に先生は来てくれた。
少し早めの昼食、味の薄い病院食を食べ終わった後に、サンドイッチとコーヒーの入ったマグカップを持って。
そして、私の質問の嵐にタジタジになりながらそれでも一生懸命答えてくれた。
紅茶しか嗜んだことのなかった私にとっては、コーヒーの香りはこの記憶と強固に結びついてしまったのだ。
香ばしい香りは、先生が私に神聖魔法という人を癒やす魔法を教えてくれた、私の乾いた心をほんの少し黒く潤した思い出として。
「ねぇ、先生、それ美味しいの?」
「コーヒー?飲んでみる?」
マグカップを受け取り一口飲むと、その香りからは想像が出来ない苦味がくちいっぱいに広がった。
「…お返しするわ」
「不思議な物で飲んでいたら美味しくなるんだよ。私も最初は苦くて不味かった」
「なんだか魔法みたいですね」
幼い頃に憧れた、人を助ける魔法使い。
病気も、悩みも、苦しみも、そんなものを全て解決する、優しい人に私はなりたかった。
貴方は、そんな私のなりたかった魔法使いなのかしら。




