#5 マリーの視点
喉が渇いた。口の中は乾燥し、身体は水を欲していた。だと言うのに身体は、動かなかった。身体が縛られている訳では無い。ただ鉛の様に重かった。もしかしたらこのまま死ぬかもしれないと思ったが、それを覆してまで生きようと思わない。
心に大きな穴があった。
まるで底がない様にどうしても穴が塞がらない。その穴がどうしたら埋まるのかわからない。気力もないのに、この穴だけはどうしても埋めたい。生命維持機能なんて捨て去ってでも、この穴を埋めたい。この穴を埋める為だったら、何でもするつもりだ。
でも、決してそれは埋まらなかった。
疲れた。
ただ、時が過ぎ去れば良いと思った。ただ時の流砂がこの穴を埋めてくれないかと切に願った。
そう考えると眠くもないのに眠りに落ちた。
暖かい陽気な雰囲気の中でリア様は立っていた。リア様は美しかった。すらっとした高身長で、顔は中性的、下手な女性よりも美しいのだ。服装はいつもと変わらないが、そのトレードマークの真っ白な服装は、厳かかつ繊細な美しさを持っている。そして反対にリア様は、柔和に笑うのだ。
「##€#」
リア様の聞き慣れた精霊語は何を言っているかわからないが、安心感さえあった。
「本当に?」
え?
今なんて?
ああ、でも良かった。リア様は喋れる様になったのだ。
「ありがとう。マリー君のおかげだよ」
いえいえ、そんな。
「でも、こうなったら君はいらなくなったね」
え?
冷や汗が噴き出す。身体は縛られた様に動かない。
「僕はヴィクトリア嬢と結婚するよ」
え?
それは嫌ではないはずだ。
かつてそうであれと望んだ筈だった。
リア様はヴィクトリア嬢の腕を取って翻した。
思わず手を前に差し出した。
この手は何だ?
「###」
バイバイと空耳した。
キュッと心臓が痛む。今まで身体を起こすつもりもなかったのに、今では身体を起こして縮こまっている。眠るのが怖い。あれは夢? それとも現実? それすらわからなかった。
私はもういらない。
それは決して嘘ではないだろう。
いや、それはむしろ真実だ。
私は人より少しリア様が言っていることがわかるだけだ。でも、そんなことは誰でもできた。だから、必死に努力した。あの時、私の両親が殺されていなかったら、きっとリア様は助けなかっただろう。リア様が心優しいから今の席に座れただけだ。そしてリア様が喋れ無かったから、誰からもリア様の隣にいることを責められなかっただけだ。
だけど、私の隣にいたリア様は全くの別人に変わっていた。
いや、違う。ヴィクトリアさんも、生徒会長も、本当のリア様を知っていた。
本当のリア様を知らないのは、私だけだ。
今のリア様が偽物なんじゃない。
私が知っているリア様が偽物だ。
もし、世界で最も鋭いナイフがあるとするのなら、それは事実によってできていた。
否定する要素も見つからない。それが現実だと冷たく固く言っている。
私の心は切り裂かれてしまった。
事実が形作るナイフは果物でも切るように容易に切った。
私の毛布は濡れていた。
いっそのことそれが事実でないと認められずに狂ってしまえれば良かった。でも、私の理性は冷静に認めてしまっていた。
「ああ、ああ」
私の嗚咽が筋肉を凌駕せんとしている。私の哀しみは私の身体を決して越えられない。
「ああ」
叫ぶことも出来ず、苦しい。我慢している訳では無い。もし私がこの哀しみを外界に解き放つことが出来るのなら、解き放つと共に私の身体は引き裂かれるだろう。
両親が目の前で殺された時だって、こんなに悲しくなかった。私のせいで衛兵が死んだ時だってこんなに悲しく無かった。
今さら気づく。私はこんなにも薄情だったのか。私は結局自分が生きられれば良かったのだ。自分の親が死んだ時よりも、自分のせいで衛兵が死んだ時よりも、自分の同級生が魔獣に食い殺された時よりも、自分の友達が精霊魔術により、命の危機に瀕した時よりも、今の方が悲しい。結局私は自分の地位が危うくなったから、悲しんでいるに過ぎない。
「動かないと」
今の私に価値はない。このままじゃ、捨てられちゃう。城壁の外に追い出されて魔獣に食べられちゃう。ゼンマイで動く玩具みたいに身体は、ギギギと音を立てて動いた。誰も私のゼンマイを巻いてくれる人はいない。私がゼンマイを巻き続けなければ、私はゴミ箱へと捨てられてしまう。
私は軽蔑されて見下されてもしょうがない。
「認めて貰わないと」
私は立ち上がった。
もう既にお昼を通り越していた。寮長に見つかって顔が悪いからと引き止められた。でも、逃げる様に寮から出ていった。一心不乱に逃げたから、疲れ果てて座れそうな木陰に座ってしまった。
別に逃げる必要は無かった。私は冷静だったし、言い訳も可能だった。でも、何故だが逃げてしまったのだ。
「…う」
え?
学園内であれば、何処であろうと人の声が聞こえることは多い。しかし、驚いたのはそれが人の声が聞こえたからではなく、それがヴィクトリアさんのものだったからだ。
「あっ」
呼びかけようとしたが、不思議と声が掠れた。そう言えば、今日はずっと喉が渇いていたのだ。もう少し近づけば良いだろうか。
「リア様」
ヴィクトリアさんの猫撫で声が聞こえた。
足が止まった。
木陰からリア様とヴィクトリアさんが抱き合っているのが見えた。
「私、ずっとリア様と一緒に学園に通うのを夢見ていました。こうやって隣に入れるのを嬉しく思います」
ヴィクトリアさんはいつも華麗で可憐で気高かった。
でも、私が見ていたのはただの一面でしか無かったのだ。今見ていた光景は、今聞いた声は湿っぽく甘い。ああ、やっぱり私は…
私はそれを見て逃げ出した。
奪われた。
リア様だけでなく、ヴィクトリアさんも。
わからない。どうして私はここにいるのか?
見えない針にでも突き刺されているかのようだった。何に逃げているかわからない。わからないが、必死にそこから逃げた。
逃げた先でダーシーさんに会った。
「先日はすまなかった」
「え? あっ、はい」
何の話なのかわからなかった。
「もう誘ったりはしないが、また友達としてもう一度話させてくれないか?」
「はい」
何の話かはわからなかった。私は妙に疲れていた。疲れていて話を聞くのが億劫だった。
「体調は大丈夫か?」
「そこそこです」
「そこそこか」
嘘だ。頗る悪かった。今にも会話を取りやめてしまいたかった。
「「......」」
二人の間に沈黙があった。
「すいません。それでは…」
「ああ、待ってくれ。そうだ!」
「リア君だが、彼は凄いな。いや、勿論魔術師として一流なのは、知っていたがここまでとは思っていなかった」
「え?」
「君が知っているかは知らないが、彼は魔術師としてだけじゃなく、魔術を教えるのも一流だ」
止めてくれ。
「彼が教えてからというもの、皆集中して魔術の訓練に励んでいたよ」
止めてくれ。
「彼が喋れる様になって良かった」
「止めて!」
気付くと私の声で怖気付いたダーシーさんが見えた。ああ、私はやっちゃった。
「ま、マリー嬢?」
でも、私の感情は止めることなどできなかった。
どうして、どうして誰も今までのリア様が良かったと言わないのだ。
まるで私だけが違う現実を見ているかの様に、リア様を否定される。
今のリア様とあの時のリア様は違うと言いたかった。でも、それを言わないだけの分別はあった。いや、あったからこそこんなにも苦しいのだろう。
どうして誰も彼も前のリア様が良かったと言わない?
どうして前のリア様を求めない?
わからない。前のリア様だって十分魅力的な方だろう。
私の中で何かが蠢いた。
この感情を何処か懐かしく思った。父と母を殺した強盗にも同様に思ったのを思い出した。
これは憎しみだ。
あの男を憎んでいることに気がついた。でもあの時と同じでこの憎しみをぶつけることは叶わないだろう。私の憎しみは常に無力感の中で燻ぶっていた。
何を考えているのか。
それは考えてはいけない。
それを考えることは裏切りだ。
でも、考えてしまうのだ。
先に裏切ったのは、奴だと。
私からリア様を奪ったのは、奴だと。
でも、それを悲しむ人は誰もいなかった。むしろヴィクトリアさんもこれを喜んでいるのだ。つまり私が間違えているのだ。
私だけがこの世界で間違っていた。
またもや私はそこから逃げた。
イワンコフ先輩に会った。休んでいるならともかく、来ているのならと生徒会に呼ばれた。
生徒会も思い返せば、私がいる意味のない場所だった。私とリア様の繋がりは言葉だった。私はリア様の通訳としてここに入れられた。今、その繋がりは、絶えてしまった。私とリア様の関係性を示す言葉はもう残っていない。
私は生徒会を辞めるべきだ。
どうやらヨリイチ先輩が次の副会長を決めるそうだ。
新しい副会長はリア様だろうけど直ぐにここで言わないとタイミングを失ってしまいそうだった。
「待って下さい!」
その時、生徒会の時が一瞬止まった
「ど、どうした?」
ヨリイチ先輩は動揺しながら聞いた。
「私は生徒会を辞めます」
「は?」
どうして皆驚いているのだろうか。私がいる意味なんて無いじゃないか。それに本当のリア様がいない場所なんて苦しいだけだ。
「本来、リア様の通訳として私はここにいます。それが建前と言えど、私がこの場にいることの正当性でした。今、リア様が喋れる以上、その正当性はありません」
「い、いや、だが」
新しい生徒会長が反論しようとするが、直ぐに思いつかなかった様だ。いや、この場の誰もが思いつかなかっただろう。私だってこんなものは建前で、その建前を責める人はいないと思っている。でも、今この場所にはいれなかった。
「すいません。それでは失礼します」
そう言ってお辞儀をして、出て行ってしまった。
これで迷惑をかける人もいない。
私はこうして何もなくなった。
しかし、私はこれで全て捨て去った様に思っていたけど、私の手には、いくつか残っていたことに気付くことさえ無かった。
私は恵まれている。
その贅沢ですらこの時はまだ気付いていなかった。
持っていた物を全て投げ出さないといけないことをこの時はまだ知らなかった。
拝啓 リンゴォ氏へ
リア様が喋れる様になりました。これは喜ばしいことです。でも、私は全てを失いました。リンゴォ氏はリア様が喋れる様になった理由を知りたいと思いますが、それは無駄なことです。私達が理解し得ない超常的な現象が起こったとしか言いようがありません。それに私の仕事もいらなくなりました。通訳の仕事がなくなったからです。リンゴォ氏にとって悲しいことは、私達の研究が止まってしまったことにあると思います。私達はリア様の言語に仮説を立てていましたが、そのレポートも無駄になってしまいました。もうこれ以上私達は、証跡を集めることはできないのです。リンゴォ氏はこの研究が止まってしまったことが何よりも悲しいでしょう。心中お察しします。しかし、私はというとそれについては落ち込んでいません。薄情な人間で申し訳ありません。私はそれよりもリア様が喋れる様になったことで落ち込んでいるのです。きっとこれを読んでも意味がわからないでしょう。ですが…
追伸 ごめんなさい。文章がどうやらまとまりません。後半は気にしないで下さい。
追伸 やっぱり、リンゴォ氏だけには起こった出来事を教えたい。あの夜…
追伸 やっぱり気にしないで下さい。本当に。また、手紙を書きます。汚い手紙でごめんなさい。
(マリーの引き出しにあった送っていない手紙より)




