#8 痛み
私の母は愚かだった。
まだ、紅葉も色づく前の頃だった。
「コラー、走らないの!」
「うふふ、あはは」
まだ姿は見えないが、少女の笑い声と廊下を駆ける音が聞こえる。乳母の言う事どころか、私の言う事すら聞かない。
「うふふ」
私が追いついてこないことが心配になったのか、猫の様に柱から此方を覗いてくる。あれで隠れているつもりなのだ。
「何処に言ったのかなあ?」
少女を捕まえる方法は簡単だ。鬼ごっこではあの子のほうが早いので、私では追いつけない。だから隠れ鬼に遊びを変える。
「何処かなあ」
そうすると少女は一歩も動かなくなる。目の端で捉えていてもそっちを見ない。
「見つけた!」
「あははは」
近づいて一気に捕まえる。
それが一番簡単に捕まえられる方法だった。
「もお、お梅を困らせては駄目でしょ」
「あはは」
笑う稚児は可愛い。乳母のお梅が育てるより私が育てたい。この子も私に甘えたくて駆け回っているのではないだろうか?
「稚児を心配するのはいいが、お腹の子に悪いだろう」
「まだ大丈夫ですよ。公爵」
東の国の公爵はこの国で一番偉い。
「少し身体を大事にしろよ。公爵夫人」
そして私はこの国で一番偉い人の正妻だった。
政略結婚だった。
それに喜びも哀しみも怒りも何も思い浮かばなかった。
でも子供は違った。
喜びも哀しみも怒りも全てがそこで生まれる。
子供が何かするたびに私は自分自身が生まれ変わるのを感じる。
子供といる時だけは幸せを感じた。
しかし、それ以外に私の人生にキラキラとしたものは見られなかった。
「次は男の子を産むんだよ」
「はい、お母様」
大人とはどうしてこんなにも醜いのか。私は目の前の醜い母親から生まれたのだ。
「あんたわかっているのかい? 次、男の子が産めなければあんたは捨てられる」
「ッ! フジワラ公爵はその様な方では」
「いいや、変わらない。あんたを救うには男の子を産むしかない」
怒りで手が震えるが、反論はできない。
女の子では家督は継げない。公爵には必ず息子がいなければいけない。
フジワラ公爵はその様な方ではないが、周りの人間が何を言うかわからない。もし唆されでもすれば、その様な可能性もあるのだ。
でも、公爵にはまだ妾がいない。
それは私を慮ってのものだった。
公爵は私だけで十分だと言ってくれた。
「いいかい? あんたが男の子を産めなければ、お前の娘だって地べたで這いずり回って暮らすしかないのさ」
お母様の声が嫌に残った。
気づけばため息を付いていた。
「おかあしゃま」
まだ娘は上手く「お母様」とは言えなかった。でも、それで良かった。私も同じ「お母様」だとは考えたくもなかった。
「どうしたの?」
私が暗い顔をしていたからわかったのだろう。
「大丈夫」
娘を安心させようと笑うが何処かぎこちない。
「痛いの飛んでけする?」
「ふふっ、本当に大丈夫よ」
やっぱり娘はいつも元気をくれる。
「貴方はお姉ちゃんになるの」
「おねえ、ちゃん?」
「そう、貴方はお姉さんになって下の子を導く役目があるの」
恐らく何を言っているかわからなかったのだろうが、元気に「うん!」と言った。
「貴方が立派に大きくなって、他の子達に色々教えて上げてね」
「うん!」
娘は誇らしげに胸を叩いた。
「ケホッケホッ」
「あら、大丈夫? お父様の真似しちゃ駄目でしょ」
「ケホッ。うん」
この時はまだ幸福だった。
出産まであと少しとなった。忘れていたが、この時期になると皆があれをやるな、これをやるなと煩く言ってくる。そうするとどうしても暇になるのだ。でも、前の時より苦痛だった。だって娘に会えない時間が長くなったのだから。
「ねえ、少しくらい会えないかしら?」
「駄目ですよ。奥方様」
「少し襖の外から見るだけでも」
「駄目ですよ。そう言ってそれで終わらないでしょ」
それはその通りなのだが、だからって会えない方が気分が優れないだろう。
あの日から娘は咳をしだしてから止まらなくなってしまったのだ。
妊娠中の私に障ったら駄目だからと会えなくなってしまった。
「お子様を産んだらまた会えますよ」
「そうかしら?」
でも、子供の顔を見ないと不思議なもので、もう一生会えなくなってしまうかもと思ってしまったのだ。
「そんなことないよね」
それが希望だったのか、それとも薄々と現実に気づいていたのかはわからなかった。
その日は何故か眠れなかった。体が火照り、眠れそうになかった。別に何か特別なことをしようと思ったわけではない。夜風にあたり、体を冷やそうと思った。
しかし、女中の声が聞こえて止まった。見つかるとうるさいためである。
「ねえ、聞いた? 奥方様は千代様のこと知らないらしいよ」
「可哀そうにね」
女中が話しているのを集中して聞く。
「いくらお腹の子がいるからって死に目に会えないなんてね」
え?
「ねえ。このまま奥方様には出産するまで知らせないようにするんでしょ」
ガンッ
無意識に足で襖を蹴っていた。
「ヤバ」
「静かにして」
「奥様が聞いていたりしないよね」
気が付けば、部屋を抜け出して千代の部屋まで歩いていた。
夜と言えど、足音など気にせず急いで千代の部屋まで歩いた。
「待ちなさい!」
「お母様、退いてください!」
「いいえ、部屋に戻りなさい。一体何です。夜中に歩き回るなんて」
「千代の部屋まで向かうだけです」
「いいえ、なりません。あなたは妊婦でしょ。風邪でも貰って子供をおろしたらどうするのです」
「千代はどこにいるのですか?」
お母様の顔がぎゅっと固く結ばれたような気がした。
「子供を思う気持ちはわかりますが」
「死んだのですか?」
「誰から聞いたのですか? 女中ですか? それとも公爵から?」
お母様から出た言葉は答えでも、謝罪でも、私の子に対する哀れみでもなく、嘘がばれた理由を探し出して、叱責をするための人を探しだそうとするだけだった。
「死んだのですか?」
「...死にました」
ただ淡々と言う母が嘘を言っているのではないかと思った。しかし、母が嘘を言う人でもないと分かっていた。
「どうして教えてくれなかったのですか?」
声が震えながらも尋ねた。
「どうして教えてくれなかったのですか、ですって? あなたに教えてどうなると言うのです? 病に侵された子が救えますか? あなたが少しでも感染しないようにすること以外何ができたというのです?」
「一緒にいることができました!」
それはただの望みだ。
「はあ」
そう母はため息をついた。
「子を失う気持ちはわかります。しかし、あなたの仕事は男の子を産むことです。あなたの子が男の子ならば、もう一度女の子でもなんでも産めばいいじゃないですか」
「は?」
今、私は何と話している?
私は同じ人間と話しているのか?
「例え次の子が女の子だとしてもそれは千代ではありません」
「次の子供が女の子なんてそんな縁起でもないことを言わないで下さい」
縁起でもない?
一体母は何を言っている?
目の前の人間を通り抜け、千代の元へと向かおうとする。
「何をしているんですか!?」
煩い。
邪魔者の手を振り切って、千代がいる部屋まで向かう。
「そっちは!」
まだ夜中だからきっと千代は寝ている。千代は時たま夜に目が覚めて朝まで怯えているかもしれない。布団の中で夜が明けるまで待っているかもしれない。
襖を開け放った。月明かりが蝋燭の光など無くても部屋を照らし出した。
へ?
月明かりは私の影を映し出すばかりで千代の顔など照らしてくれなかった。
「ちよ、千代?」
部屋を間違えたに違いない。
「千代の部屋」に入り、もう一個奥の襖を開ける。そこには何も無かった。
次の部屋は?
「それ以上はお辞めなさい」
「千代は何処? 何処にいったの?」
「貴方が言ったでしょ」
「何処に行ったの!」
私の中の獣が目の前の人間の喉笛を食い破ってやろうとばかりに叫んだ。
「捕まえなさい。お腹以外だったら多少痛めつけてもいいから」
目の前の偉そうな怪物が何かを言った。
私は縛り付けられた。
四六時中女中が私を監視した。
女中の中には私を見下す様な者もいた。
「狂女だろうとお腹が無事でさえいればそれでいい」
私は暴れた。
「奥方様! 中の子に障ります」
そう言われて私は暴れるのを止めた。
そこで止めたから女中は私にその言葉が聞くと思ったのだろう。
「きっと中の子は立派な男の子ですよ」
私は女中の目を潰した。
私はまた縛り付けられた。
今度は目隠しをさせられてもう今は昼か夜かもわからない。まるで自分が狂ってしまった様だった。
縛られていてもお腹にズシンと「重り」があるのが感じられる。
手と足が縛り付けられるのと同じ様に、お腹に杭でも刺されたかのような拘束具があるのだ。
それは私の腹を蝕むようにずっと私を捕まえていた。
ある時その痛みがスッと抜けた。
「流産しました」
その時の私は目隠しも何もかも外されて、自由だった。久しぶりの太陽は眩しかったが、次第に太陽の光を受け、黄金に輝く庭を眺めていた。
久しぶりに肩は軽く。体調がいい。
自分の身体が自分の身体じゃないみたいに調子がいい。
「お母様」
今ははっきりとお母様の顔が見れた。
お母様は疲れ切った顔をしていた。
「私、子供が欲しいです」
お母様の疲れ切った顔に笑顔が戻った。
「フジワラ公爵」
「元気だったか?」
「はい」
「大変だったと聞いた。すまない。私がやらなくてはならないことが沢山あってお前の側に寄ることもできない」
「いえ、そんなことは」
「何か気休めに何か贈ってやろう。何がいい?」
そんなもの一つだけだろう。
「こ」
「え?」
「子供が欲しいです」
そうすると公爵は困った様に誤魔化そうとした。
「しかし、お前は流産したと聞いている。休んだ方が良いのでは?」
「いえ、その様なことはありません」
公爵に寄りかかり、胸元を撫でた。
「しかし」
「公爵の子が欲しいのです」
公爵は細くなって骨が見える腕を手に取った。
公爵の目の炎が消えかかっていることなどわかりようもなかった。
「お母様!」
私は耐えきれずお母様の部屋へと入った。
「どうしたのです?」
「どうもこうも公爵が」
全てを言い遂げる前に母は私を制止した。
「公爵が別の妃を探しているのですか?」
「そうです。最近は」
こちらが誘っても見向きもしない。
「あなたは公爵に怒ったのですか?」
「もちろんです」
そう言うと母は鼻で笑った。
「これ以上怒るのはやめなさい。心が離れるばかりよ」
「ですが!」
自分でも怒るべきではないと思っている。
「怒らずいられないのです」
気づけば母に甘えるように、母の着物を涙で濡らしていた。
「正直に言いましょう。公爵の心が戻ることは今後一切ありません」
「こんな時くらい慰めてくれても」
「慰めたとて心は戻らないのです。あなたの父上であり、私の旦那である右大臣は今も別の女と寝ています」
それはわかっていたことだが、母親から聞かされたいことではなかった。
「私はあなたと息子を産んでから一度も寝ていません。しかし、財産は私の手にあります。私の手柄はただ一つだけ。あなたと息子を産んだことだけです。いいですか、聞きなさい」
母は私の顔を手でしっかりと固定し言った。
「あなたに必要なことは男の子を産むことです。息子がいたからこそ、私は正妻の座を我が物にしました。そしてあなたがいたからこそ、公爵の親族の座を手にしたのです。どちらが欠けても今の座は手に入らなかった。逆に言えば、あなたが正妻の座を物にするには、男の子を生むしかないのです」
母は正しかった。最初から最後まで。
「お母様、私が産んでみせます」
「その心意気です」
私の骨張った腕も徐々に普通の腕へと戻っていった。
「お母様、子を授かりました」
「そうですか」
「お母様、妾も子を授かったそうです」
「...そうですか」
「お母様、一つ提案があります」
「何か?」
「毒殺しましょう」
母は落ち着きを払っていった。
「落ち着きなさい」
「ですが」
「まだ、その手段は取りません」
母はいつも正しかった。
「今は妾の家も警戒しているはずです。それに今毒を盛るのは、私たちだと喧伝するようなものです。相手の生まれた子が男だとわかれば、毒殺すればいい」
「申し訳ございません。どうやら焦ってしまったようです」
「おそらくはあなたのほうが先に子供を産むでしょう」
「はい」
「その子が男の子であればよいのです」
そうだ。ただそれだけなのだ。
その日は天の盃をひっくり返したと思うくらいの大雨だった。
家の中でさえ雨の音で全ての音が聞こえなくなるほどだが、子を産む声だけはしっかりと聞こえた。生命の誕生とは、則ち苦痛だ。
「ううー、ううー」
「奥様、しっかりしてください」
歯で布を噛まされる。
拘束されていた時も布を噛まされた。助産婦が何かを言うが、耳に入らない。この痛みはもう経験したくないと思う反面、何処か懐かしい気がした。
布の味がする。
意識が朦朧とするも、痛みによって引き戻される。現実と夢を交互に行く中で、ふと少女の後ろ姿が見えた。
どうしてこんなところに?
ああ、いや。あの少女を見たことがある。
あはは
あの笑い声は聞いたことがある。
手を伸ばすが、届かない。
何処にいるの?
「しっかりしなさい!」
母の声を聞いて意識がしっかりとする。
そうだ。忘れてはいけない。
「貴方は何をするのですか!?」
そう、男の子を産む。
子は男の子で無ければならない。
そうでないと報われないだろう。
何の為に千代は死んだのだ。
「ううー!ううー!」
この子が男の子でないならばあまりにも報われない。
私は何の為に生きているのだ。
意識が戻ると助産師の顔が最初に見えた。それと同じく小さな命が耳元で産声を上げているのを聞いた。
しかし、母の顔は明るくなかった。
「性別はどっちです?」
「え? それは」
助産師は口籠る。
「お母様! どっちです?」
赤子が泣き出した。
「女の子です」
全身の血の気が引いた。
体力も底をついていたにも関わらず、身体が動いた。
「奥方様、ご無理をされないで」
音もどこか聞こえづらく、耳鳴りがなっているような気がした。雨音が遠くで鳴っているような気がする。我が子を抱きかかえるとそのまま立ち上がった。
「奥方様?」
女中が何か叫ぶ気がするが、何も聞こえない。
疲れているし、どうして立ち上がれるのかもわからない。
ふらふらと覚束ない足取りで歩く。
「奥方様。私が子供を持ちますので」
「...ない」
「え?」
「渡さない」
「わ、わかりました。でも、肩を貸しましょうか?」
「いらない」
雨音が遠くからなっている。
しばらく歩くと庭についた。
庭には、火の祭壇があった。
精霊教の考えでは、火は男性を意味する。だからこそ、一般的には貴族の出産の時の御祈りは火の精霊を祀る。出産の間、僧侶たちは火の祭壇に集まり、呪文を唱える。それは精霊語を模したものとされているが、実際はそうなのかはわかるものはいない。
「奥方様! 雨に濡れてしまいます!」
何を気にするというのか?
「ご出産おめでとうございます」
おそらく偉い僧侶らしきものが話しかけてきた。しかし、それはどうでもいいことだった。
火の祭壇に足を延ばした。
「なりません! それは女性が入ってはいけない場所です」
知ったことか。
雨でどんどんと体が冷えていくが、火に面する箇所だけは暖かい。
「もう一度」
「え?」
赤子を掲げ上げた。
「もう一度産みなおす」
ちらりと母を見た。母の顔は雨で見えなかった。
「は?」
赤子を火の祭壇に捨てた。
「何をやっているのですか!?」
「男の子を産むの」
赤子は力いっぱい泣き叫んだ。
人肉が焼ける匂いは不快だった。
昔、髪の毛を焼いたことがある。あれと同じ匂いがするのだ。
赤子に着せていた真っ白な布は、すぐさま黒くなる。
赤子の肌もまた真っ黒になった。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
誰も助けようとしなかった。それが助けるのが無理だと判断したのか、それとも予想もしない出来事に反応できなかったのか?
それがわかるものはいなかった。
ただ、誰も何も言わずに、それが燃える様子を見ていた。
「どうして?」
その一言に反応できたものもいなかった。
「どうして燃え尽きないの?」
赤子は火の中で燃えていた。でも、体が炭化することも、灰になることもない。
ただ、生まれたばかりの赤子のように「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣いているのだ。
「どうして燃えないの?」
赤子と目が合った。
赤子の目の中には炎が映っていた。その中には、千代がいるのだ。
「ひっ」
突如罪悪感が襲ってきた。
「私は何を?」
違う、やったのは私じゃない。
「私じゃないの。私がやったわけじゃ」
赤子は気づけば宙に浮いていた。
いや宙に浮いているわけじゃない。炎に抱かれているのだ。
炎が実態を持っている。これは一つしか考えれない。これは炎の精霊なのだ。
急に自分の身体が熱くなる。
違う。これは私の体が燃えているのだ。
「熱い!」
土砂降りの雨ですらこの体の火は消せない。
どこかに全身を水でつかれる場所はないの?
熱い。
池に走り出して、飛び込んだ。
体が熱いのが一瞬にして冷える。
しかし、それでもまだ体が熱くなった。
なんで?
体は水の中にあるというのに燃え続けているのだ。
熱い。
止めて。
どうして?
そう疑問に思ったが、それは私のせいだった。
どうしてではない。全て私のせいなのだ。私が自分の子供を火にくべたのだ。なら私が燃えても仕方がない。我が子もこれだけ痛かったのだ。
千代、それに名前を付けずに死んでしまった子、そして私が殺した子。
私はきっと地獄に落ちるだろう。
私の罪はきっと男の子を産まなかったことではないのに、どうして気づけなかったのか?
ああ、お母様。哀れな方。
先に地獄で待っています。




