第26話 新約6
「我が子よ」
神は、やはり、いた。神殿の奥の祭壇の前に大きな十字の光が出現していた。その奥に見える人影。スーツを身にまとった男が一人。
「私が最も愛する子よ」
カインの姿はなく、アイオーンたちも今日は僕を取り囲むことはせず、神殿の廊下の両脇で待機している。
「よぉ、ブラザー。うらやましいぜ」
ネブロが、十字の光の前にひざまずいていた。
「ファーザーに、最も愛されているなんてな」
僕はネブロには何も言わず、ネブロと同様にその隣でひざまずいて言った。
「神よ、僕は新しい任務を授かりました」
十字の光が、輝きを増す。
「それは、お前への、そしてお前がいる国にとっての新たな祝福だ」
僕は奥歯を噛みしめる。本当に、悪魔のような神だ。
「それを乗り切るため、僕に新しい力を与えてください」
「裏切るがいい」
神は即答した。僕は一瞬唇の端を吊り上げ、すぐに元に戻してから、言った。
「しかし、神よ、これ以上救世主を刺激するのは危険です。神であるあなたならば、そのことはご理解されていると思います」
十字の光が明滅する。数秒経ってから、神は僕に再び告げた。
「裏切るがいい」
「ですから、それは……」
「お前を愛する者を」
「え?」
「お前を愛する者を裏切るがいい、その対象を拡張し、制限を取り払おう。もはや」
十字の光が、一際大きな光を放つ。
「相手は誰でもいい」
隣でひざまずいていたネブロが、口笛を吹いた。
「すげぇな、それは」
僕は、ただ、苦々しく、唾を飲み込む。
対象の拡張だと。
では、神はそもそも理恵が僕のことを愛してくれていたと認識していたことになる。その理恵を僕に裏切らせて、一体、どこが僕を愛しているのだろう。
激しい怒りがこみあげてきて、思わず睨み上げそうになるのを、堪える。
そして、なんて悪趣味なんだろう。
新しい契約内容が、誰でもいいから自分を愛してくれている者を裏切れ、とは。
理恵以外に僕を愛してくれている人。
「きれいだね」
明菜の顔が思い出されて、僕はぞっとした。思わず、首を振る。
何をうぬぼれているんだ、明菜が僕を愛してくれているかなんて、分からないじゃないか。
「これは、新約だぜ、裏切りの」
ネブロが、笑みを浮かべている。やや獰猛なその笑みを見て、僕は俯いた。
駄目だ、この世界は、どうしようもなく、呪われている。
「ただし、契約条件の拡張には、条件がある」
神の声に、再び顔を上げる。
十字の光が目に焼きつく。
「一週間以内に、鳥使いを見つけ出せ。早ければ早いほど良い」
「一週間以内!」
僕は声を上げた。
それが可能なのかどうか、見当がつかない上に、それができたとしたら、また、最大一週間後には僕は別の任務について、新たな絶望を世界に降らせることになる。どこかでもうこれ以上無関係の人を巻き込みたくない気持ちがあったから、僕にはショックが大きかった。
自分を愛する者を誰でもいいから裏切るという契約内容と一週間という期限。
何からも理恵を守れる力が必要だからこの新しい契約にすがるしかないのに、それをしてしまうとさらに僕は僕に関係のある人も、関係のない人も汚し、傷つけ、殺し、理恵に会いに行くに相応しくない男になっていく気がした。
どんどん理恵が遠ざかっていく。
いつぞやと同じ思考に陥っていく。
それでも、殺して、進んで。
だが、その前に。
「契約内容と期限について、考え直してはいただけないでしょうか?」
僕は頭を回転させて何とか言い訳を考えながら、懇願した。
「僕には、それは……」
「もはや、時間はない」
僕が言い訳を言う前に、神は、僕の願いを、その深い声で切り捨てた。
「急ぐがいい、裏切りの子よ」
十字の光が消えていく。
最後に見た神のその顔は、
「そして、私を恨むがいい」
泣いていた。
思わず立ち上がっていた。
光は消えた。跡形もなく。
時間はないと神は言っていた。
何をそんなに急いでいるのか、そして。
何がそんなに悲しいのか。
どうして、あんたはいつもそう。
僕は呆然としながら、その場に立ち尽くした。
ネブロが僕の肩をぽんぽんと叩いた。
「サヴァイヴしろよ、ブラザー」
目を覚ますと、明菜が僕を見下ろしていた。
柔らかい太ももの感触。
「……雪君?」
「悲しい夢を見たよ」
僕は起き上がってそう言った。
それから、僕は海藤さんに、あるお願いをした。海藤さんはかなり驚いた様子だったが、僕の転校を取り計らってくれた知り合いにお願いしてくれて、なんとか実現することになった。口裏合わせ、というやつだ。なぜ、そんなことをするのか、聞き出そうとしてきたが、僕は機密事項だとしか答えなかった。
明日は日曜日なので学校は休みだ。明後日からの短期決戦になる。今日、明日中に、作戦を練っておかないと。
週明けの朝。期限まで残り五日。
僕は都立第三高校の2のAの教室の中の教壇の上にいた。眼前では、同じ高校二年生の男女が椅子に座ったまま、ひそひそと何かを話し合いながら、僕を見ている。
隣で担任の田崎先生が僕に声をかける。髪を刈り上げた、中年の男性の教師だ。
「自己紹介して」
僕は、一呼吸を置いてから言った。
「浦賀司です。はじめまして」
そう言ってから、僕は続けた。
「僕の父は、ソフィアでした」
ざわっと教室内の様々な場所から声が上がった。
僕の、終わりを前提にした転校初日が始まる。




