第18話 墜落していく言葉たち3
午前の授業が終わって、僕は明菜とともに屋上に出た。
今日は曇り空で肌寒く、腰を下ろした床の冷たさに飛び上がりそうになった。
小さく震えている僕に、明菜がそっと抱きしめてくる。
「寒い?」
茶色の髪からは、爽快感のある柑橘系の香りが漂う。同じ甘い香りでも赤井先輩の甘ったるいそれとは違い、僕は安堵してため息をついた。
「須々木理恵を殺させるわよ」
あのおぞましい言葉を思い出して、全身がさらに大きく震えだす。
それは怯えではなく、純粋な怒りだ。
二度とあの口が開かぬように、僕は行動を起こさなければならない。
「……雪君?」
明菜は心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
その何気ない仕草は確かに僕らが一年間付き合っていたことの証のようなもので、彼女がそっくりそのまま理恵であったらなどと湧き上がった身勝手な妄想に苦笑し、僕は明菜の体を抱き返した。
「……明菜」
「……何?」
すぐ近くに感じる明菜の吐息を感じながら、僕は言った。
「僕は理恵が好きだ」
彼女の息が一瞬だけ止まり、それからあっけらかんとした笑い声が聞こえた。
「知ってるよ。だから、付き合ったんだよ」
それを聞いて、安心した。
「そして、君は僕が好きじゃない」
また、あっけらかんとした笑い声。
「だったら、どうして私があなたと付き合っているのかしら?」
このロマンのない駆け引きをどこか楽しむかのように、その声は弾んでいた。僕は彼女の臭いを胸いっぱいに吸い込んで、それから思いつくことを話した。
「誰かから何かを奪いたい略奪欲を満たすため。もしくは、理恵に個人的な因縁があり、理恵を悲しませたいため」
これまでの彼女の言動からどちらかが正解だという確信があったのに、予想に反して明菜の首が横に振られる気配を感じた。
「違うよ、雪君。どっちとも間違い」
ゆっくりと僕から体を離した明菜は両手で僕の顔を挟み込み、優しく笑った。
「私が雪君と付き合ったのは、神様が決めた運命だからだよ」
時々、この良く出来た彼女のことが分からなくなる。
少女漫画の主人公のように純情な一面もあれば、びっくりするくらいしたたかになるときもある。そのどちらが本当なのだろう。もしくは両方とも、それとも別に。
小さく首を横に振った。
乙女心を理解するには、僕はガキすぎるのだろう。
僕も優しく笑って、彼女に言った。
「神様が決めた運命ってことは、きっと僕らはろくでもない別れ方をするんだろうね」
彼女は何も言わず、お弁当を僕に差し出した。
「おなかが減ったよ。食べよう?」
この嘘にまみれた滑稽なやり取りも一年で随分と馴染んで、まんざらでもない心地よさを感じながら頷いて、それから思い出したようにぼんやりと呟いた。
「あ、そうそう。今日は早めに帰りなよ。放課後は残らないほうがいい。部活も休んでね」
明菜がきょとんとした顔で、僕を見る。
僕はもう一度優しく笑った。
「今夜、この学校を燃やそうと思うんだよ」
早めに昼ごはんを切り上げて、教室に戻ると理恵と委員長が机を並べてご飯を食べていた。あの強面の委員長が理恵の頬についたご飯粒を取ってはきゃっきゃっとはしゃいでいる姿を、周囲は動物園の珍獣を見るかのような目つきで眺めている。
ネブロの姿を探すと、机にうつぶせになって寝ている。今日は朝からずっとこんな調子だ。昨日の襲撃で体力を使ってしまったのか、それともバルベーロに接続しているのか。
「もう、理恵はかわいいんだからー」
委員長の黄色い声に思わずその顔を見つめていると、目が合ってしまった。
「……河水。なんか用?」
明らかにうざったそうな目線が刺さる。態度のコントラストっぷりに冷や汗をかく。
ぎくっと背筋を伸ばして、恐る恐る首を横に振る。
「い、いえ、何も……」
「あ、雪。今日は早かったね」
理恵が僕に気づいて手を振る。
僕はほっとして、手を振り返す。
「今日は寒いからね」
「彼女持ちはあっちいきなよ。あたしたちはお互いの友情を確認し合ってるんだから」
委員長はつんとそっぽを向いてしまう。
はははと軽く笑いながら、このくそ真面目で無愛想な女の子のことがちょっぴり気になった。
「委員長」
「は? ふざけてんの?」
「いや、まだ何も言っていないけど……」
出鼻をくじかれて萎えそうになりながら、それでも言葉を口から押し出す。
「なんで、委員長って、そんなに理恵と仲良いの?」
他の生徒のことは、にらんでばかりなのに。
「何、嫉妬か? 醜いねぇ、男のくせに」
ふふんと優越感たっぷりの視線を向けながら、理恵の頭をなでる。
「あたしはなぁ、かわいいものが好きなんだよ」
と、あっち方面の人だと言われても納得してしまう委員長が言うのだから滑稽で仕方がない。
「なんだぁ、その顔」
必死に笑いをこらえている僕の顔をいぶかしげに眺めながら、きょとんとしている理恵の顔を眺める。
「理恵はかわいい、かわいすぎる! 天使! まじ天使!」
「そんなことないと思うけど……」
さすがの理恵も若干引いているが、お構いなしに委員長は頬ずりする。
猫をかわいがりすぎて逆にストレスを与える過保護な飼い主に似ているような気がする。
「まぁ、ほどほどにね」
肩をすくめてから去ろうとすると、委員長の目線がぎろっと捉える。
「そういう河水は、どうして理恵のことが好きなんだよ」
唐突に核心をつかれて、髪を手でつかまれたようにのけぞった。
「な、何を……」
「お前、ばればれだぞ?」
委員長の声の質が、これまでの威嚇するものからトーンを落とした探るような色に変わる。その態度の変化も、僕を焦らせる。
「授業中とかも理恵のことばっかり見ているし。それなのに他に彼女作るなんて変な奴だよ」
委員長はじっと僕を見ている。僕の答えが世界の命運を担っているとでもいうかのような真摯な眼差しに、視線を落とす。
「何勝手なこと言ってるんだよ、全然そんなこと……」
そこまで言って、はっとなる。理恵が寂しそうな笑顔でこっちを見ている。
「そんなこと……」
「ぐっもーにん、ブラザー」
急に背中に重みがのしかかってきて、そのまま押しつぶされる。
額を強打する中、この事故を引き起こして、今も背中に覆いかぶさっているネブロに僕は心から伝えた。
「ネブロ……」
「あん?」
ぷるぷると右手の親指を立てる。
「ぐっじょぶ」
午後の授業が全て終わり、放課後直前のホームルームが開催される。
相変わらず強面の学級委員長が、にらみをきかせながら連絡事項を読み上げている。担任の先生は疲れた顔で、生徒たちはぼんやりとそれを聞いていた。
「はい、じゃあ、何か連絡のある人は」
連絡事項が終わり、委員長が眼力を込めながら教室を見渡したとき、僕は手を上げた。
クラスがどよめく。かつて、このタイミングで物申す命知らずなど、誰もいなかったからだ。
「……なんだ、河水」
委員長はどこか警戒したような顔で言う。
僕は、宿題を忘れてしまったくらいの気軽さで、言った。
「今夜、この学校を燃やそうと思います」
ネブロが小気味よく口笛を吹いた。
一瞬、音が消え、それからさっきよりもさらに大きなどよめきが巻き起こった。
「雪……、一体どうしたの……?」
理恵が唖然とした顔で聞いてくる。
僕はそれを横目に、大きな声で宣言する。
「メフレグ研究会の副部長として、犠牲になった我が部員たちの遺志を引き継いで、彼らが成し遂げられなかったことを成し遂げたいと思います」
周りの生徒も先生もぽかんと口を開けて僕を見ていた。ネブロだけはにやにやと面白そうにこちらを眺めている。
「決行は、今夜0時。もしも、参加したいという人がいれば、部室で待っているので時間までに来てください」
「随分と、思い切ったことを言ったじゃねぇか、ブラザー」
血まみれの部室から夕日が沈むのを眺めていると、隣にいたネブロがくちゃくちゃとガムを噛みながら言った。
「お前がそんな熱心なメフレグ主義者だとは思わなかったぜ」
からかうようにそう言うネブロに、ため息をつく。
「もし、そうだったらとっくに理恵を殺しているよ」
夕日が沈む。その最後の光を浴びて深い赤に染まったネブロの顔は、笑顔で歪んでいた。
「あぶり出し、か?」
窓の外に目をやったまま、答える。
「救世主を守護するパナリオンが、この学校の生徒だということは分かっている。僕を殺しそこねてから動きは見せていなかったが、ここまで大々的にメフレグの儀式を宣伝すれば、動かざるをえないだろ?」
「矛盾だなぁ、ブラザー」
ネブロが鼻で笑う。
「お前は、メフレグの神にこれっぽっちの忠誠心もなかったはずだ」
核心はついている。けれど、何も言わない。
「お前はただただ、須々木理恵のみを病的なほどに崇拝していて、その須々木理恵を守護してくれるパナリオンをわざわざおびき出して殺そうとするなんて、どうにもメリットよりデメリットのほうが大きい気がするんだがね。お前の目的はどこにあるんだ、ブラザー」
普段は馬鹿なことしか言わないくせに、こいつときたら。
喉の奥から低い笑い声が漏れた。
「頭が切れすぎるのも、考えものだね、ネブロ」
「雪~!」
部室の扉が開いて、赤井先輩が飛び込んできた。勢いそのままに僕へと抱きついてくる。
「聞いたよ! この学校を燃やすって?」
恋が実った少女のように笑顔を咲かせる先輩に、にっこりと微笑む。
「ええ、少しでも早く先輩の願いを叶えてあげたくて。でも、先生たちがどう動くか……」
わざとらしく不安げに呟くと、先輩が誇らしげに首を横に振る。
「大丈夫! 何人かの先生たちは私の制御下だから。これまでだって、そうやって研究会を守ってきたんだし」
やはり。
不自然なほど研究会が勢力を拡大してそれを維持できたのも、生徒のみならず、教師にも能力を使ってきたからか。
それにしても、人間は弱いものだ。確かに、先輩は一般的にかわいい女の子というカテゴリーに入るのだろうが、こうも次から次へと肉欲に溺れていくとは。
騙されてきた人々に同情と軽蔑の念を覚えながら、先輩の唇へと手を伸ばして、それを指でなぞる。
「早く、燃やしてしまいましょう、こんな学校」
「うん、うん!」
何より。
僕みたいなやつに騙されていることが分からないこの先輩に、心から同情した。
「俺は帰るわ」
ネブロがふわぁっとあくびしながら、手を振って歩き出した。
「見ていかないのか、ネブロ?」
そう聞くと、ネブロは立ち止まった。
「恐れ多くてな」
ネブロは振り返らない。ただ、その声はどこか楽しそうだった。
「今夜の出来事は、悪魔でさえも目を覆うだろうよ」
ネブロが去ってから、僕と先輩の二人きりになった。先輩が近づいてきて、いきなり唇を奪おうとしてきた。咄嗟にその唇を手で覆う。
「けち」
唇をとがらせる先輩に、笑う。
「そういうのは、この学校が燃えるのを眺めながらやりませんか?」
燃える学校を目の前に、お互いの体を貪る男女。そんな荒廃した景色に吐き気を覚える。
先輩は夢見るような目で、大きく頷く。
「そうしよう、そうしよう」
近くの椅子に腰かけてうつむく。臭いというのは床に溜まるものなのか、部員たちが流した血の臭いが濃くした。
その臭いに感覚をうずめながら、僕は言った。
「なんか、眠いんで五分だけ寝ます」
まだ、そのときは来ないはずだ。
今のうちにと、僕はあの場所に意識を飛ばした。




