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第17話  墜落していく言葉たち2

 目が覚めた。途端に、体が冷え切っていることに気がついて身震いした。冷たい礼拝堂の朝の空気に、毛布一枚だけでは足りなかったようだ。理恵と礼さんはきっともう大丈夫だからと言って、部屋で寝ることを勧めてくれたけれど、襲撃された今晩だけでも用心したほうが良いと思ったのだ。結果的には、何も起こらなかった。

 あの日の夢を見るのは久しぶりだ。昨日、メフレグ研究会の遺族に教会が襲撃されたせいで、思い出してしまったのだろう。

 隣でネブロが涎をたらしながら爆睡していた。ネブロを小突く。


「おい、おいネブロ、起きろ。朝だぞ」

「ん? んん……。ぐっどもーにんぐ、ブラザー。あんど、ぐっない」

「再び、寝るな」


 すばやくわき腹に打撃を加えると、さすがにネブロは飛び起きた。


「ぐほっ、でんじゃらすな朝だ」

「寝ぼけてるなよ、ネブロ」


 ぐずぐず言っているネブロを引きずって食卓に行くと、いつもより早い時間に礼さんが起きていた。


「おはよう、雪君」


 礼さんはいつもの穏やかな笑顔で僕を迎えた。心が少し温まるような感じがして、僕は目を閉じた。


「今日は随分と早いですね」

「ああ、雪君とネブロ君が見張ってくださっていたのですから、せめて朝ごはんだけでも温かいものをと」


 今日は礼さんの手作りかぁと胸を躍らせて目をやると、


「おはよう、雪」


 僕はうなだれた。

 理恵がにっこりとエプロン姿で微笑んでいた。


「思っていたのですが……」


 礼さんは額を押さえながら、苦笑した。


「雪とネブロ君のために、温かいスープを作ったわよー」


 そう言って理恵が食卓に出してきたのは、ビーフシチュー、ではなくココアに肉やたまねぎをいれた奇天烈なスープだった。

 飲んだ瞬間に、バルベーロに意識が飛びそうになった。


「でんじゃらす……」


 隣で食べていたネブロは涙を浮かべて気絶した。



「また、死ぬかと思った」


 理恵は登校の準備に、ネブロはまた礼拝堂へ祈りに行くために食卓から去った。

 僕と礼さんは二人きりになってから、深くため息をつく。


「いやぁ、まったく理恵の料理は目が覚めますねー」


 礼さんがげっそりした顔で笑う。

 ふとテレビを見ると、パナリオンとソフィアの特集をやっており、どこかの大学の教授が、高次元生命体つまりは神と接触したことによって人間の脳の働きが活発になり、それが潜在能力を引き出して能力者が生まれたといった自論を述べていた。

 しかし真実は、サイエンスというよりはファンタジーだ。

 そういえば、礼さんは理恵のパナリオンとしての能力について、どう思っているのだろう。


「礼さん」

「何ですか、雪君」

「その……、理恵の力のこと。今は礼さん、全然普通だけど、最初はびっくりしたんじゃないんですか?」


 僕がそう言うと、礼さんはテレビの画面を見て、それから僕の顔を見て、にっこり笑った。


「ええ、もちろんびっくりしましたよ」


 礼さんはにっこり笑ったままだ。


「理恵が神様に選ばれて、びっくりして、とても嬉しかったです」


 そこに怖かったという単語がないのが、礼さんの、本当に素敵なところなんだと思う。


「それに、いろいろとこっちのほうでも助かりますし」


 礼さんは照れたように笑って、ポケットから財布を出した。


「やっぱり、何かといりますから」


 僕はその答えにちょっとびっくりしてまじまじと礼さんを見る。

 礼さんは僕の顔を見て首をかしげる。


「どうしました?」

「い、いやぁ、意外だなぁって。礼さん、そういうのに無頓着な人かと」

「いやいや、何をおっしゃいます。生きていくために、必要なものです。破壊された壁の修理などで、大きな費用が必要でしたからね」


 礼さんは真面目な顔になって言う。


「妻と作り、娘と共に育ったこの教会を、潰すわけにはいかないでしょう」


 その声は力強く、どうして僕がこの眼鏡をかけたやせ気味の人が好きなのか、分かったような気がした。

 この人も、守っているのだ。大事なものを。

 僕は笑って言った。


「行ってきます、礼さん」

「はい、いってらっしゃい」



 理恵、ネブロと一緒に登校すると、教室に赤井先輩がいた。


「おはよう、雪」


 僕の机に腰掛けて、にっこりと微笑む。背中からの朝日になでられ、その赤い髪は淡く輝いていた。昨日、僕を売り払ったその裏切りの微笑を、迂闊にも美しいと僕は思った。


「雪にね、話があるの」


 赤井先輩はおねだりする子供のような目で僕を見た。僕も、子供をあやす親のような微笑を浮かべて、彼女に言った。


「僕も、先輩に話があったんです」


 先輩に連れ添って、僕は教室を出て行く。理恵は心配そうに、ネブロは興味深そうに僕を見つめていた。

 連れられて辿りついたのは、メフレグ研究会の部室だった。今は立ち入り禁止の立て札が扉の前に立っている。昨日で現場検証は終わったのか、誰も中にはいないようだった。


「入ろう?」


 一瞬、あの血だらけの景色、そしてその臭いが思い出されて、胃の中のものが逆流しそうになる。しかし、確かにここは、誰にも見られない最高の死角だ。これから行うことは、人に見られたくない。

 先輩が扉を開けた。途端に、あの、むせるような鉄の臭いが押し寄せてくる。一度、大きくつばを飲み込んでから、呼吸を浅くして部屋に入る。

 ゆっくりと扉を閉めて、前にいる先輩の背中を見る。カーテンは閉じて電気は消してあるけれど、どこかの隙間から光が入ってくるのか、その姿は何とか視認できた。

 先輩が小さく息を吸った音が聞こえたと思ったら、振り返って僕に抱きついてきた。血の臭いの中に甘い香りが浮き上がり、そのまま柔らかい感触が僕の唇を覆う。

 馬鹿馬鹿しいキスをぼんやりと眺めながら、僕はそっと先輩の首に手をかけた。

 力をこめて、そのまま一気に首を絞める。首の肉に、指が食い込む感触が生々しかった。


「あっ」


 先輩は喘ぐような声を出したまま、なされるがままだ。僕は静かに、ためていた怒りを吐き出す。


「昨日、研究会の遺族に、よからぬことを言いましたね?」


 先輩は答えない。深い深い闇を湛えたまま、僕をじっと見ている。


「まぁ、保身のために僕を殺そうとしたことは別にいいんですよ、こんなくだらないキスで償わなくてもね。ただ、先輩」


 怒りは殺意に変わる。


「理恵を、巻き込みましたね?」


 感情が大きすぎて、声で表現できずに淡々と話す。どんどん力はこみ上げて、先輩は爪先立ちになったまま顔が苦しげになってくる。


「殺してやるぞ」


 あの日、親を殺したままに血だまりの中で笑ったとき、確信していた。僕の中には、僕が望むことするために全てを食い散らかす獣がいるって。

 誰を、何を、全てを壊しても、欲しいものがある。

 それを、理恵の笑顔を脅かすものを僕は決して許さない。


「なぁ、そうだろう?」


 もうすぐ、くびり殺せそうなところで、突然、手に力が入らなくなった。


「え?」


 違う。意識は未だに力を入れているままなのに、手が言うことをきかない。肩から先が木の棒になったような感覚になる。

 僕の手から逃れて、目の前で先輩が咳き込んでいる。だんだんと感覚が戻ってくることを意識しながら、僕はさっきとは別の怒りを感じた。


「先輩、何をしてくれたんですか?」


 先輩は息を乱したまま、ずれた眼鏡をかけなおして僕を見た。


「……っ、力を使ったのよ」

「……力?」


 嫌な予感がした。


「私の、ソフィアとしての力」


 目眩がした。しかし、同時に納得もいった。

 今、先輩は僕の体を何らかの手段で操った。他人を操作できる。つまり、メフレグ研究会が急速に勢力を広め、過激化していったのも恐らくは。


「私、アイオーンなの」


 その言葉から、神殿の壁際に立ち並ぶ忠実な兵士の群れを思い出した。あの中に混じっていたのか。


「バルベーロ四聖人の部下である先輩が、バルベーロ四聖人たる僕に逆らうのですか?」


 薄暗い部屋の中で、先輩はいつもの軽薄なものとは違う、真剣な、そしてどこか熱に浮かれたような声で言った。


「私、ずっと憧れてたの、あなたに」


 その目は、甘ったるい虚飾の色ではなく、怖いくらい真っ直ぐな子供の目だった。


「バルベーロで、ずっとあなたを見ていた。あなたはいつもいつもいつも、きれい。雪のことを見ると、考えると、涙が出そうになる。神と契約しても、汚れてもなお想いを守り抜くあなたは、私の理想よ。私も、須々木理恵のように愛されたいって思う。あんなふうに想ってもらいたいって」


 そういえば、それに似たようなことを明菜も言っていたっけ。

 略奪欲。

 僕のことが好きなわけではないのだから、その感情に誠実に対応する必要もないだろう。


「それより、僕に一体何をした?」


 ようやく感覚が戻りつつある腕を動かしながら、先輩をにらみつける。

 先輩がきょとんとした顔で僕を見た。


「何って、キスをしたのよ」

「もう一度首をしめましょうか?」


 僕が微笑むと先輩ははぁっとため息をついた。


「ロマンのない男ね、雪は」


 そうして人差し指を唇に当てて、ウインクする。


「私とキスをした人は、私の奴隷になるのよ。私の神との契約は『姦淫』。交わった人は、私が自由に操れる」

「な……」


 しまった。大量の汗が出て、それから自分のありとあらゆる感覚が研ぎ澄まされる。

 なんだ、そりゃ。そんなめちゃくちゃな能力が存在するのか? というより、すでに僕は先輩の支配化にあるのか? どこだ、自分で制御できない部分は。


「安心して」


 ゆっくりと先輩が近づいてくる。その目は、獣が獲物を見定めるかのように細められている。視界が定まらないほどに混乱してしまい、僕は後ずさる。


「私の能力は、その人の『隙』をつくものなの。思考を誰かの基準に合わせるような人ほど、支配しやすい。神を信じる人、周りに意見を合わせる人。でも、雪ときたら……。ふふっ。私が支配できるのもあと数回くらいね」


 あと数回も操られる可能性があるのか。一体、何をさせられるんだ。

 戦慄する僕のことなど尻目に、先輩はうっとりと何かにとりつかれたように喋り続ける。先輩から漂ってくる甘い臭いが血の臭いにも増して鼻について、吐き気がしてきた。


「ああ、やっぱり雪は最高よ。私くらいじゃあ、全然汚れない。やっぱり、雪は私の理想。ああ、でもやっぱり私の手でめちゃくちゃに汚したいわ」


 背中の硬い感触で振り返り、壁際まで追い詰められていることに気がついた。

 先輩は僕のほうへと手を伸ばし、僕の頬に触れた。


「お願い、聞いてくれる?」


 僕はぎりっと歯を食いしばる。


「……嫌だといったら?」

「今すぐに須々木理恵を雪の手で殺させるわよ」


 ナイフをつきつけられたようだった。

 理恵を巻き込んだら殺すと、あれほど言ったのに。

 煮え立つような怒りが爆発して、それから静かな、凍りついたように静かな殺意が残った。

 僕は僕の望むものを、理恵の笑顔のみを守るために存在する。それのみを欲する。

 正しいか、どうかなど関係ない。それを実行するためなら、全てを食い散らす。

 だから僕は、やり方を変えることにした。


「……分かりました。それで、僕は何をすれば?」


 僕は笑顔を作った。先輩はぽうっと見とれるように僕を見て、それから頬をゆっくりとなでてくる。


「一緒に、学校を燃やしてほしいの」


 その行動の結果が二日前の大惨事だということを、先輩はなぜ分からないのか。


「どうして、そんなに……」

「私、学校って大嫌いなの」


 髪の毛を指でぐりぐり巻きながら、先輩は吐き捨てるように言った。


「ううん、学校だけじゃない。この世界が嫌い。こんな世界なんて早く、なくなっちゃえばいいのに」


 その様子を眺めながらぼんやりと呟く。


「何か、嫌なことでもあったんですか?」


 そう尋ねると、先輩は僕のほうをちらっと見てから、僕から離れた。


「この世界は間違って生み出された」


 先輩はメフレグの言葉を口にしながら教室の奥まで歩いていき、閉まっていたカーテンを開けた。

 視界が突然真っ白になり、それからだんだんと視界が戻ってくる。

 そこには、二日前に見たのと何ら変わりのない、血まみれになった教室があった。世界も、カーテンを開けてみれば、こんな、ただただ陰惨なものなのかもしれない。


「私にはね、二年前にとても大好きな人がいたの」


 先輩は昔話でもするかのように、遠い目をして言った。


「私より年上の人で、真面目で優しかった。でもね、神様がこの世界を否定してから、メフレグ主義が蔓延してしまって、その人は真っ先に反メフレグの先導者になったわ。もちろん、テロリストから命を狙われた。ある日、私はテロリストたちが彼の暗殺を計画していることを知った。どうしても彼を守りたかった。好きだったから。だから、」


 先輩は小さく笑った。けれど、その目からは涙がこぼれた。


「だから、神と契約したわ。今から思えばメフレグの神との契約なんてそれだけで彼から嫌われそうだったけど、私には選択肢も時間もなかった。そうして、契約した私はテロリストたちと交わって操り、彼を守った。けれど、そのときにはすでに、真面目な彼からすれば、私は他の男と交わった汚れた女だった」


 だんだんその声は震え、そして表情は怒りへと変わっていく。


「最後に私を見た彼の目、覚えている。汚いゴミを見るような目。彼を守るために汚れたのに、その私を躊躇いもなく捨てていった」


 それは、神によってもたらされた一つの悲劇だった。

 きっと、彼女は誰よりも愛を守って、そして愛に捨てられたのだろう。

 かわいそう。本当に、かわいそうだ。


「こんな世界なんて、何も報われない世界なんて、とっとと滅びてしまえばいい。きれいを装って私を捨てたあの人も」


 けれど、あなたは理恵を巻き込んで殺そうとして、あまつさえ脅迫の材料にした。

 そんなあなたに、同情の余地は何一つない。

 必ず、この世から消してやる。

 だから、今は。


「先輩」


 僕は微笑んで、優しい言葉を期待している先輩に言った。


「そろそろ、授業ですよ」


 チャイムが鳴った。

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