第16話 墜落していく言葉たち1
一年前。僕がユダになったあの日、空は赤く燃えていた。
遠くに見えるビル群からは煙が上がり、いくつかは倒壊して瓦礫と化していた。
メフレグ主義者たちは次々と民衆を巻き込んだテロを繰り返し、しかし、民衆の半分以上は彼らを歓迎していた。
神がこの世界の無価値さを宣言してから一年。
もう、限界だったのかもしれない。
重い病は流行しているし、残虐な事件は連続して起こるし、景気だって悪いし、職だってないし。なんて、そんな日々の生活の苦しみや不満が、それでもこの世界で生きなければという思いで耐えてきたのに、その糸を容赦なく断ち切られたのだから。
メフレグ主義者たちは人々に祭り上げられながら破壊とともに行進し、夜になって最後の破壊対象に辿り着いた。
礼さんが経営する教会へと。
あの日、理恵は塞ぎこんで部屋に閉じこもってしまった。僕と礼さんは理恵のそばで付き添っていたけれど、そのとき僕はちょうど理恵に何か食べるものを作ってあげようと部屋の中から出て、そこで彼らの接近に気づいた。
ものすごい数の人々が教会へと近づいてきていた。その先頭には、銃器を持ったメフレグ主義者と思われる人たちがいた。
頭が真っ白になって、ともかく理恵の部屋に戻って礼さんにこの状況を伝えようと思った。けれど、すぐに足が止まる。
警察の機動隊だって、壊滅したって噂だ。礼さんに伝えたって、どうすることもできないじゃないか。
母を殺してしまったという理恵の泣き顔が頭をよぎる。
もしも、礼さんに何かあったら、理恵がまた深く悲しむ。
そのとき、僕は結局自分にだって何もできないという事実を全く考慮せず、自分が死んでしまったって理恵が悲しむって考え自体思い浮かぶこともなく、ただただその死の行軍を止めたくて外に飛び出した。
入り口前で立ちはだかり、僕は両手を広げた。
その瞬間に容赦なく、銃弾が足をかすめた。
前を見た。こちらに向かってくる人たちの目はぎらぎらと輝き、口は裂けそうなくらい大きく開いていた。
腹の底からはいずり出たような低い笑い声を上げながら、なおも歩みを止めない。
また、銃弾が飛んできた。今度は右腕を深くえぐった。
ここに来て、僕は途方もなく怖くなった。
殺される、という恐怖を生まれてはじめて実感した。怖い。いますぐ逃げ出してしまいたい。足が信じられないくらい震えて立っていることも限界だった。けれど、ここで逃げ出したその瞬間に理恵が、礼さんが殺されるっていうのが、自分が殺されてしまうのと同じくらい怖かった。
どうすればいいんだ。何も、できない。何も。
狂気の群れは目前だった。分かる。眼前の男の銃口は、僕の頭を狙っている。殺される。何も、できない。怖い、殺される。僕も、理恵も、礼さんも。
理恵、理恵、どうかどうか君だけでも。
そう祈ったとき、僕の意識はこの世界から飛ばされ、巨大な天空庭園に飛ばされていた。目の前には、聳え立つ神殿があった。何が起きたのか理解できずに僕は呆然と立ち尽くしていると、ふと、声が聞こえた。
「我が子よ」
その声を、僕はどこかで聞いたことがあった。
何も分からず、呼ばれるままに神殿の中に進んでいった。
「我が子よ」
神殿の奥には祭壇があった。その祭壇の前に仮面をかぶった人が立っていた。だが、声の主はこの人ではない。
仮面の人の真上に、十字の光があった。声はそこから聞こえてきた。
「我が子よ。私が最も愛する子よ」
ここにきて、その声をどこで聞いたのか、思い出した。
一年前、全世界の人々が聞いた。神、と呼ばれる存在の声だった。全てを知る、圧倒的な静けさを、その声はまとっていた。
「……神、様? っていうか、ここは? 僕は?」
ひょっとしたら、僕はさっき殺されてしまって、ここはあの世なのかもしれない。
「我が子よ、恐れるな」
光がよりその輝きを増し、僕は目を開けていられなくなった。
閉じた瞳の闇の奥に、今まさに襲撃されようとする教会の映像が浮かんだ。
死んでしまっていようが、生きていようが、何でもかまわない。今目の前にいる神と呼ばれる存在に、僕は懇願した。
「お願いです。どうか、理恵を、礼さんを、助けてください! 今、教会に大勢のテロリストが……」
僕の願いに、神はこう切り出した。
「我が子よ、守りたい者を、裏切れるか?」
「……え?」
「今、世界を救いから遠ざける、間違った救世主が生まれようとしている。お前が守りたいと思っている者こそが、それだ」
何を言っているのか、分からなかった。ただ、神は願いをかなえるための代償を求めているということだけは、分かった。
「お前に、全てを断ち切る光の剣を与えよう」
十字の光から、その形をそのままに、光輝く剣が出てきた。ゆっくりと下りてきて、僕の目の前に突き刺さって止まった。
「名をハルモゼール。お前の守りたいものを守り、そして最後に守りたいものを貫く」
未だに言葉の真意がつかめないまでも、僕にとって耐え難い内容をはらんでいる条件だということだけは分かった。
時間がなかった。僕は単刀直入に言った。
「僕は、何をすれば?」
静かなる声は言った。
「須々木理恵を裏切るのだ」
全身の毛が逆立った。
「……おっしゃっている意味が分かりません。裏切るとは具体的に……」
「どんな形でも良い。彼女を傷つけて絶望させよ。殺そうとしてもかまわない」
僕は、これが神と呼ばれる者の口から出る言葉とは、にわかに信じられなかった。
「人を……、今深く傷ついている理恵を絶望させよ、さらには殺そうとしてもいいだなんて……。あなたは、それでも神、なんですか?」
神は問いには答えず、ただ一方的な契約を迫った。
「選べ、我が子よ」
時間はないように思われた。この空間が何なのか、目の前の人が神なのか、悪魔なのか、分からない。たった一つ分かっているのは、僕は理恵を守りたいという自身の感情だけだった。そのためなら、僕は何でもしよう。
この命は、理恵のためにあるのだから。
「神よ、あなたを恨みます」
そう言って、僕は光の剣に手を伸ばした。
その瞬間、電流が走ったように手がしびれて、頭の中に一つの映像が流れ込んできた。
そこは、「無」の世界だった。光さえも存在しない。ただ、おびただしいほどの無数の泡がひしめき合い、溶け合い、また泡としてはじき出され、続けざまに別の泡と溶け合っていく。
その無秩序な世界の中でたった一つの法則は、泡が単独で存在することがないということだった。必ず、泡はどれかの泡と溶け合っていた。常に溶け合い、だからこそ結局その世界には無数の泡が存在しながらも輪郭をもつものがなく、つまりそれは何一つ存在するものはないということを意味していた。
あるとき、まるで示し合わせるかのように二つの泡が一つとなり、膨張を始めた。本来ならば溶け合って輪郭を失うはずなのに、その泡は次々と周囲の泡を押しのけては膨らみ続け、とうとう一つの存在となりえた。泡の中に無数の小さな泡が生まれ、それらは互いに引き寄せあいながらぐるぐると回り始めた。その回転している中に、小さな青い泡があった。僕はその泡をよく知っていた。
この映像の意味を理解したとき、僕の意識は再び現実へと引き戻された。
民衆も混じった圧倒的多数のテロリスト、銃口、歪んだ凶暴な笑み、死の臭い。その全てが何も変わらないのに、あの映像を見た後にはそれら全てがあまりにささいなことに思えてきて笑えた。
もうこのときには、僕はどう戦うかを理解していた。
「舞い踊れ、ハルモゼール」
その一言で光の剣が空から舞い降りて、人々が唖然とする前で無数の軌跡を引いて踊った。一閃、血飛沫。僕の手を離れ、僕が命じるままに次から次へと光の剣は眼前の人々の首を、体を切り裂いた。まるでそこには何もなかったかのように、何の抵抗もなく切り抜けるその刃は、きっといずれ僕の大事なものを切り裂いてしまうと、何となく予感した。
そうして全てが血の海に沈んだとき、そこに見覚えのある姿の男女を見つけた。二人は昨日まで僕とともに同じ家に住み、僕をよく殴り、よく罵った。
両親の死体を見て、さっきまでどこか現実離れしていた僕の感覚が急に沈み込んで、それからたまらないくらいの震えが襲った。
殺した。この手で、自分の父と母を。
目眩を覚えて、それでもやはり自分が間違っているとは思えなかった。
理恵を守るためなら、何でもしよう。僕を救ったのは僕を産んだ者でも、世界を生んだ者でもない。ただの、小さな幼馴染だったのだから。
血だまりに映った僕の顔は、それでも笑っているから。
「なぁ、そうだろう?」
足元に転がっていたテロリストのものであろう爆弾を死体の海へと投げ込んで、それをハルモゼールで刺した。爆発が起こり、死体はあちこちに飛び散り、これであたかも集団自決したかのように見せられる。少なくとも異形の能力を持つ者が光の剣で全員を斬殺したなどと突飛な可能性は疑われないはず。
安堵したその瞬間に、教会の裏手から爆発音が響いた。血の気が引いた。二手に分かれて進行していたのか。僕は慌てて裏手に駆けつけるのと、その声が聞こえたのは同時だった。
「愛は隣人に対して害を与えません」※
澄んだ、大好きな声だった。
息を乱したまま前を向き、そこで見た。
武器を持った人々が突然武器を投げ出し、天に許しを請うのを。救世主が生まれる、とあの神は言っていた。
振り返り、そして不安げに微笑む彼女を見たとき、その姿があまりに尊くて、僕はひざまずき、頭を垂れた。
こうして、救世主とユダの物語は始まった。
そして、ユダである僕は救世主である理恵を守るため。
僕は神と契約したことでメフレグに目覚めたと自分の気持ちを偽ってカインに報告し、救世主殺しの任務を独占することに成功した。
※理恵のセリフ→出所:聖書 新改訳 注解・索引・チェーン式引照付 1981年 いのちのことば社




