第146話 指南役
アンジュは自室で息子のおしめを替えていた。すぐ傍には、育児の指南役である四十代半ばくらいの女性がそれを見守っていた。指南役が手伝っていたこの作業も、さすがに日に数回もこなしているうちにアンジュ一人でできるようになった。
「よし、完了!」
「よい手際でしたよ」
「はい、ありがとうございます」
アンジュは息子に「すっきりした?」と話しかけながら抱き上げ、まだ慣れない部屋を見渡した。
この部屋は以前使っていた客室ではない。レイフォナーの自室の隣、妃の部屋だ。プロポーズを受けた翌日にこの部屋に移ったのである。
「今日からここがアンジュの部屋だよ」
レイフォナーが案内した部屋はさすが妃の部屋で、客室よりも広く内装も調度品も豪華だ。それなのに、どこかワッグラ村の家のような素朴な雰囲気を放っている場所がある。
そこに向かったレイフォナーは、本棚の横にある机に手を置いた。机の上にはランタンと花瓶が置いてあり、黄色やオレンジ色の花が数本挿してある。
「それ・・・」
「勝手に持ってきちゃった」
それらはワッグラ村のアンジュ宅のキッチンにあった机と椅子、寝室のベッド横にあったランタン、花瓶の花は庭に咲いていたものだ。
アンジュは華美な部屋に対して喜びよりも遠慮してしまう性格である。それを知っているレイフォナーは少しでも安らいでもらえたらと思い、アンジュには内緒で運び出していた。
「余計なことしたかな?」
「いいえ・・・っ、すごく嬉しいです!」
アンジュは涙を拭いながらそう答えた。
「この机と椅子は、私にとっても思い出の品だからな」
村娘が王族に嫁ぐということは、雲の上のような世界に足を踏み入れることだ。取り巻く環境が一変する。
村の人たちとの繋がりも、愛着のある品も、すべてを手放すことになるのかな。
と思っていたアンジュは、レイフォナーの気遣いが涙が出るほど嬉しかった。
「アンジュ様?いかがなさいました?」
突っ立って部屋を眺めていることを不思議がった指南役のマリーニが声をかけた。
この女性はチェザライの実母であり、レイフォナーの乳母でもある。平民出身でもともと王城で侍女をしており、現在は侍女たちの採用面接や育成などの管理職に就いている。子どもはできるだけ自分で世話をしたい、と希望したアンジュの指南役に名乗り出たのだ。
「あの、お忙しいのに指南役をお願いしてすみません・・・」
「何をおっしゃいますか。レイフォナー様のお子は私にとって孫同然なのです。孫を可愛がりたいおばあのお節介だとでも思ってくださいな」
「ありがとうございます。ご指導よろしくお願いします」
「ふふ、お任せください」
しばらくして、レイフォナーがチェザライを連れてアンジュの自室にやって来た。もう一人の護衛、ショールの姿はない。
アンジュと乳母はそんな二人をじっと見つめた。
「ん?」
不思議そうに首をかしげたレイフォナーを横目で見つつ、アンジュは乳母に小声で話しかけた。
「このお二人が本当にそんなことを?とても信じられません」
「若気の至りといいますか、日々の重圧から解放されたくなったのでしょうねぇ」
なんとなく察したレイフォナーは、笑みを浮かべつつ乳母を睨むようにして見た。
「マリーニ、アンジュに何を話した?」
「昔話を少しばかり。うふふ」
「母さん、アンジュちゃんに変なこと言わないでよ〜?」
「こら!ちゃんではなく、様や王太子妃殿下とお呼びしなさい!」
「僕はいいの〜」
「よ、よいのです!私がいままで通り呼んでほしいとお願いしたのです!」
チェザライは、ふふん、と勝ち誇るような笑みを浮かべた。母はそんな息子に、言葉遣いを正しなさい、シャキッとしなさい、だから減給されるのよ、などと説教を始めた。
昔からそんな光景を見慣れているレイフォナーは、気にも留めていない。アンジュの腕の中で眠たそうな目をしている息子に夢中だ。話しかけたり、頬や手を撫でたりと触れ合いを楽しんでいる。
チェザライは母から逃げ出し、レイフォナーの腕にしがみついた。
「はやくアンジュちゃん連れて戻ろうよ〜」
「あ、そうだった」
妻と息子に癒されていたレイフォナーは、この部屋を訪れた本来の目的を忘れるところだった。アンジュを迎えにきたのである。




