第4話 百戦の魔法使い
魔導ギルド本部は、世界を救った英雄たちの象徴だった。
世界は平和を取り戻し、人々はようやく笑顔を取り戻し始めていた。
――その日までは。
東京郊外にそびえ立つ中世時代に存在していたような黒鉄の城。それは魔導ギルド日本支部の拠点であり人類の希望でもある。
周囲には霊子結界が展開し、魔障からの攻撃のみならず一般人の目からその存在を隠す役割を持っていた。
その魔導ギルド本部の上空は、異様な黒雲に飲み込まれ、支部内は混乱に陥っていた。
「結界反応、異常上昇!」
「北東上空、高エネルギー反応接近! 数は……十、二十……いえ、百です!」
オペレーターの悲鳴が、静寂を切り裂いた。
直後、轟音が黒鉄の城を震わせる。
黒鉄の城を覆う防御結界に無数の雷撃が放たれたのだ。ミサイルの直撃にすら微動だにしない結界は、雷撃を受ける度に悲鳴を上げていた。
「結界、もちません! マナ、喪失。崩壊します……!」
オペレーターの悲痛な言葉に、誰もが顔を青ざめさせた。
そして、その瞬間は訪れた。
パリン──ッ!
と、ガラスが粉々に砕け散るような乾いた音の後に、轟音が続く。
大地震でも見舞われたかのような震動が黒鉄の城を襲った。
雷撃に続き、巨大な爆炎が城壁に放たれたのだ。
攻撃はそれだけにとどまらない。天空からは氷槍が降り注ぎ、地中からは巨木が槍となって突き上がる。
城壁は砕け散り、本部内も地下からの攻撃により崩壊し始めていた。
その時、突如として攻撃が止んだ。
突然の静寂。
オペレーターはその時、画面に映し出されたものを見て一瞬で顔が引きつる。
「従魔だ! しかも災厄級ばかりの……」
誰かが絶叫した。
その名の通り、たった一体で国家戦力に匹敵する存在。それが災厄級従魔。それが百体も黒鉄の城の前に降り立ったのだ。
奈落巨人、黒月蜘蛛、フェンリル、冥王蟲、終焉竜──。
爆煙の中、列をなすのは単体で国家を揺るがす伝説級の化け物ばかり。
「百もの災厄級従魔が一斉に……馬鹿な! 一人でこれほどの従魔を使役できる魔法使いなど、この世に存在するはずがない!」
その時、誰の脳裏にもある男の姿が過った。昼行燈と呼ばれ、凡庸な姿をした中年男性だ。
この世界で百体もの災厄級従魔を従えられる者など、始祖を除けば一人しか存在しない。
だが、その名を誰も口にしなかった。
言葉にした瞬間、それが現実になってしまう気がしたからだ。
すると、百体の従魔は整然と並び、一斉に道を開いた。
まるで、王を迎えるように。
その中央を、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
黒い外套。右手には一本の煙草。左手には使い込まれた魔導杖。
どこにでもいそうな、くたびれた中年男。
だが、その姿を認めた瞬間、誰もが息を呑んだ。
「……まさか」
「嘘だろ、あの人は……」
男は静かに紫煙を吐く。
「百戦の魔法使いアズマ!」
誰かが震える声でその名を呼んだ。百戦の魔法使い。世界を救った英雄。
そして、誰よりも優しく、人望の厚かった男。
凡庸な姿をした英雄が今、百体の従魔を率いて古巣へ牙を剥いていた。
「ここにいる始祖を出せ。30秒だけ待つ。でなければ皆殺しだ……!」
──時間は少し遡る。
――お師匠‼
鼻腔を突く、鉄の錆びたような血の匂い。
先代白銀の魔女小夜子の全身を覆っていた純白の呪帯が、どす黒い真紅に染まっていく。胸を貫いた刀の、心臓まで凍てつかせるような冷たさ。
その柄を握るランの、小刻みに震える手。
絶望に塗り潰された、虚ろな瞳。その顔の右半分を覆っていた般若の面からは瘴気が放たれていた。
『お願い』
花火大会の夜。小夜子のあの優しい笑顔が、残酷なほど鮮明に脳裏をよぎる。
『ランとリンをお願い。あなたなら、安心して任せられる。……二人を、幸せにしてあげてね』
「やめろぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
アズマは叫びながら飛び起きた。全身が嫌な汗で濡れている。荒い呼吸と、耳の奥で激しく脈打つ鼓動。
夢だ。もう何百、何千回と繰り返した、逃れられぬ悪夢。
窓の外はまだ夜明け前。静まり返った部屋には、自分の呼吸音だけが虚しく響いていた。
「……またか」
額を押さえ、深く息を吐き出す。
あの日から2年が経過した。それでも、小夜子が死ぬ瞬間の光景だけは、一度たりとも薄れることがなかった。
「お師匠……いや、小夜子さん」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。あの人は最後まで、自分を弟子としか見ていなかった。
それでよかった。自分の想いを伝えるつもりなど、一度もなかった。
白銀の魔法使いとしてその身に呪いを背負い、それでも二人の娘を懸命に育てる姿が眩しかった。魔法使いとして、母として、一人の女性として。ただ、尊敬していた。
いや――。
「……違うな」
自嘲気味に口角を上げる。
「……好きだったんだ。ずっと、貴女を」
誰にも言えなかった。師弟という安寧を壊したくなくて、その想いは墓場まで持いくつもりだった。なのに、伝える機会さえ永遠に失われてしまった。
「守れなかった」
小夜子も、ランも、そしてリンも。
アズマはゆっくりと立ち上がる。部屋の隅には、リンが生前使っていた小さなマグカップ。棚には読みかけの株式投資の書籍。机には途中まで読み解いた魔導書。十二歳の少女の日常とはかけ離れていたが、実に義娘らしい痕跡が、時間を止めたままそこにある。
そっと写真立てを手に取る。そこには満面の笑みを浮かべるリンとラン、そして師匠である小夜子の痛々しい姿がいた。最愛の師匠の隣りには今よりはほんの少し若い自分の姿もあった。
「お師匠、約束、守れませんでした」
写真へ向かって語り掛ける。
「俺は、リンちゃんを守れなかった。そしてランちゃんもあれから行方知れずで、まだ保護出来ずにいます」
長い沈黙が流れる。やがて、アズマの瞳から光が消え、冷徹な決意が宿った。
「俺は何のために魔法使いになったというんだ⁉」
握りしめた拳が震える。
「全ては小夜子さんの約束を果たす為に俺は魔法使いになったんだ! でも小夜子さんは死に、ランちゃんは壊れ、リンちゃんまで失った。それでも魔導ギルドは俺に『英雄』でいろと言う」
乾いた笑いが漏れる。
アズマの脳裏には、魔障の王との決戦後、リンを救う為に魔導ギルド本部に協力を掛け合った時の記憶が過る。
まだ何か残された手段があるかと思い、アズマが魔導ギルドに求めたのは禁書の開示だった。
しかし、命を懸け戦ったアズマに対して魔導ギルドは拒絶の意を示した。
それは当然の反応だろう。だが、納得など出来るはずもない。
禁書がいかに危険なものか重々承知している。たった1Pの情報が洩れただけで世界が崩壊しかねない、と噂されるもの。
最愛の義娘を救う手立ては禁書に頼らざるを得なかったのだ。
それが唯一の希望だった。
しかし、そんなわずかな希望は打ち砕かれた。
魔導ギルドより言い渡された指令は、リンの姉ランの捜索と保護。そして、彼女を次期白銀の後継者とすること。
そして、迷いは断ち切られた。
「世界の為に大切な人を諦めろだって? そんな正義なら俺はいりません」
写真を優しく撫でる。その手だけは、まだ人間らしく震えていた。
「小夜子さん。あなたなら、きっと俺を叱るでしょう。人を傷つけるな、憎しみに呑まれるなと」
アズマは小さく笑った。その笑みは、あまりにも穏やかで、あまりにも歪んでいた。
「……ごめんなさい。今回だけは、約束を違えさせてもらいます」
漆黒のマナが全身から静かに放たれると、壁が軋み、窓ガラスが悲鳴を上げた。
アズマの経歴は異色だ。普通、魔法使いは始祖の血脈からしか誕生しない。だが、アズマはただの一般人でありながら今や英雄と呼ばれる魔法使いにまで登り詰めていた。
百戦の魔法使い。それがアズマの異名。先代白銀の魔女であり、リンの実母である小夜子が、ただの一般人であったアズマの才能を認め、育て上げた。
始祖の魔法使いを除けば、実質アズマが最強の魔法使いと謳われていた。ただ、始祖は彼を容易に凌駕するほどの化け物であったというだけのこと。
「俺はもう、英雄なんかじゃない。リンちゃんを取り戻すためだけの化け物でいい」
アズマは黒い外套を羽織り、夜の闇へと歩き出す。途中、一度だけ写真立てを振り返った。
「今度こそ守ってみせる……必ずだ」
その声には、かつて世界を救った英雄の優しさが、微かに残っていた。しかし、その優しさこそが、これから数多の命を揺るがす災厄の火種となる。
世界はまだ知らない。最強の英雄が自ら魔王となり、理を壊す日が来たことを。
扉が開く。
「ジンマ、来ませり」
アズマが静かにそう呟くと、周囲の空間がグニャリと歪み、膨大なマナが放出される。それと同時にアズマの前に百体もの従魔が現れ、一斉に膝をついた。
百体の従魔が一斉に跪く中、アズマは地獄へと続く一歩を踏み出した。
「魔導ギルド日本支部を叩く。みんな、俺についてきてくれるか?」
従魔達は何も答えず、ただ主であるアズマを凝視する。答えるまでもない。従魔は主に従うだけ。ただそこにあるというだけで答えになっていた。
「ありがとう、みんな。それじゃ行きますか、古巣を滅ぼしに」
アズマは静かに煙草へ火を点けた。紫煙が夜空へ溶けていく。
「リンちゃん」
その名を呼ぶ声だけは、昔と何一つ変わらない優しいものだった。
「待ってて。今、おじさんが何とかしてやるからな」
煙草を地面へ落とし靴先で踏み消した瞬間、百体の従魔が一斉に咆哮した。
「誰にも俺の邪魔はさせない」
アズマはゆっくりと魔導杖を構えた。
その瞳にはもう英雄の光はない。
ただ一人の少女を取り戻すという、狂気だけが宿っていた。
「全ての始祖を俺の手で狩り尽くす。それがリンちゃんを救う唯一の手段なら、躊躇う理由はない」
その宣言と共に、百体の災厄級従魔が夜空へ飛び立った。
人類史上最悪の始祖狩りは、静かに幕を開けた。




