第3話 魔障の王 後編
「剣とは、誰かを斬るためにあるのではありません」
独り言のように呟くと、神魔刀の柄を握る。
「守れなかった命を悔やみ続けるためのものでもありません」
ゆっくりと刀を抜く。
白銀の刃から退魔の蒼焔が迸る。
「今、守れる命を守るために私は剣を振るいます」
その背中を見つめながら、オロチは全てを悟った。
「……てめぇ」
怒りを込めながら、オロチは低く呟く。
「真名を解放する気か!」
それが意味するもの。それを理解した上で桜花はオロチに微笑んだ。
「ええ、そうですよ」
必死なオロチの問いかけに、桜花は笑いながらあっけらかんと答えた。
「駄目だ」
オロチは桜花の肩を掴み、その暴挙を諫めに入った。かつて暴君と呼ばれた少年が、である。
「却下です」
「却下じゃねぇ!」
オロチは怒鳴る。
「真名を解放したら魂魄まで燃え尽きる! そうなったらてめえ、オレとの勝負はどうなんだよ⁉ 全ての魔障をぶっ殺したら、オレと死ぬまで殺し合う約束だったろうがよ⁉」
「あー、そんな約束をしていましたっけ?」
「んだと⁉ ざけんじゃねえぞ⁉ オレ様が何で今までてめえの従魔になって来たと思っていやがる! 全ては決着をつけるためだろうが!」
オロチの脳裏に、幼い日の桜花に打ちのめされ、従魔になった時の記憶が過る。そして、従魔になる約契約時に全ての魔障を滅ぼした後、再度、どちらかが死ぬまで戦うことを約束していた。
「それなのに、今、てめえが死んじまったら、オレ様との約束はどうなっちまうんだよ⁉」
しかし、オロチの必死の訴えかけに桜花はただ微笑んで応えた。
「大丈夫。何とかなりますって。だって私、剣聖ですから。最強なんで意外と何とかなっちゃうもんなんですよ」
オロチは顔を歪める。
何百年、何千年と付き従ってきた主。
その性格を誰より知っている。
「思えば、オロチとは長い付き合いになりましたね。えっと、数百年? いえ、数千年でしたっけ?」
「忘れた。神話の時代からの付き合いだからな。ほんと、腐れ縁だぜ」
オロチは忌々し気に、だが嬉しそうに呟く。
「今は仲間の仇を討ちましょう。そしてついでに世界を救っておいちゃいましょうか。約束はその後で、ね? お願いしますよ、オロチ」
そう言って桜花は両手を合わせながらオロチに懇願した。
一度こうだと決めたクソ主は誰にも止められない。
何故なら、魔皇子と呼ばれた最強のオレ様を屈服させた奴なんだからな。
オロチは苦笑すると呟く。
「……本当に最後まで面倒臭ぇ女だな」
桜花はくすりと笑った。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「なら、オレの魂魄も使えや」
「でも、それでは貴方の存在が消えてしまいます……!」
「逝くならオレも付き合う。命ならオレ様の分も持っていけ。独りで逝かせやしねえよ」
桜花は何かを言いかけるも、それを呑み込んだ。
「ありがとう、オロチ……大好きですよ」
「オレは大っ嫌いだがな」
「ふふ、知ってましたよ」
その瞳には、もう迷いはなかった。
「さあ、行こうぜ、我が主」
「ありがとう、オロチ」
「礼なんざ要らねぇ。まずはあのクソ野郎をぶっ飛ばしてからだ!」
オロチは獰猛に笑うと拳をぶつけ合わせた。
「最後まで暴れてやろうぜ」
その言葉に桜花もまた、剣聖ではなく一人の少女のように微笑むと、静かに息を吸い込み、神魔刀へ全霊を捧げる覚悟を決める。
桜花は静かに神魔刀『知世』を両手で掲げた。
刃は、まるで主の覚悟に応えるように淡く脈動している。
風が止んだ。
空が静まり返る。
世界そのものが、これから解き放たれる力を恐れるように息を潜めた。
「知世」
桜花は愛しい者の名を呼ぶように、優しく刀へ語りかける。
「長い間、私を支えてくれてありがとう」
刀身が鈴の音にも似た澄んだ響きを返す。
それは、刀自身の返事だった。
「最後にもう一度だけ……お母さん、って呼んでもいい?」
その時、神魔刀・知世は嬉しそうに微笑んだ、ような気がした。
「ありがとう、お母さん」
嬉しそうに、それでいて優しそうに桜花は呟いた後、そっと目を閉じる。
幼い頃から剣だけを信じて歩いてきた人生。
人を守るためだけに振るい続けた剣。
リンと出会った日。
ユカラと笑い合った日。
アズマに呆れられた日。
オロチと喧嘩をした日。
何気ない日常が、走馬灯のように脳裏を巡る。
その一つ一つが、あまりにも愛おしかった。
「私は……幸せでした。そして、ようやく終われる……!」
静かに微笑む。脳裏に過るは気の遠くなるような永い時を歩んで来た記憶。
〈もう私は十分に生きて来ました。後は頼みます……!〉
その言葉に応えるように、神魔刀が眩く輝いた。
やがて桜花はゆっくりと瞼を開く。
その瞳には、もう一片の迷いもない。
「神魔刀・知世、我が真名『■■■■』をもって命ず」
刀身に刻まれていた無数の神代文字が、一文字ずつ黄金色に輝き始める。
同時に桜花の身体から、膨大なマナが刀へと吸い上げられていった。
肌がひび割れ血が滲む。たちまち額から血が流れ落ち、地面に滴り落ちる。
それでも彼女は詠唱を止めない。
「眠りより目覚めよ。万象を断つ始まりの剣。森羅万象を灰燼へ帰す終焉の剣」
空が裂け、雲が真っ二つに割れ、大地が震える。
神魔刀から黄金のマナが溢れ出す。
刀身は光の刃と化していた。人のものではない神の領域に達したマナ。それを神気と呼ぶ。
その輝きに触れた空気が消滅していく。
空間が耐え切れず、無数の亀裂を生み出し、魔障の王が初めて一歩、後退した。
幾千の眼が恐怖に見開かれる。
「ガ……ァ……?」
理解したのだ。
目の前の少女が、自らの存在そのものと引き換えに、自分を完全なる無へ帰そうとしていることを。
黒泥が津波のように押し寄せる。
数百万の触腕が桜花へ襲い掛かった。
「遅い……!」
桜花は静かに呟くと無数の斬撃を放った。
一閃、二閃、三閃、その後は無限とも呼ばれる光の斬撃が魔障の王の触腕を切り裂き、次々無へと還した。
桜花の全身から神気が溢れ出すと、肉体が光へ変わっていく。
魂そのものが燃え始めていたのだ。
「ジンマ、来ませり」
世界中へ響く祈り。
「我が魂魄。我が命。その全てを糧として」
心臓が砕けたかと錯覚するほどの動悸が轟く。
血を吐くがその祈りは止まらない。
桜色の美しい髪が灰色にくすみ、肌には陶器の様な亀裂が入る。
神魔刀・知世が咆哮する。
まるで神が産声を上げたような轟音。
世界が真っ白に染まる。
「神魔顕現――」
桜花は最後に振り返った。
そこにはリンを抱きかかえたまま泣き崩れるアズマ。
ユカラの亡骸の側で倒れるビャクガ。
吠えながら、自分に己の魂魄を送り続けるオロチ。
桜花は自然と笑っていた。
〈皆さんと出会えて、本当に幸せでした〉
その想いを胸に、剣聖は最後の一太刀を振るう。
「桜花爛漫・万象灰燼」
斬撃ではなかった。
それは世界そのものを浄化する、一輪の巨大な桜だった。
白銀の桜吹雪が天地を埋め尽くし、触れた魔障を一片の穢れも残さず光へ還していく。
絶叫、咆哮、怨嗟。
あらゆる悪意が、春風に散る花びらのように消えていく。
魔障の王は初めて恐怖の悲鳴を上げた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■――ッ‼」
その巨体が崩れる。
黒い泥が蒸発する。
核が砕け魂が消える。
概念さえも、存在したという記憶さえも。
すべてが白銀の桜に包まれ、静かに世界から消滅していった。
静寂が訪れる。
最強の力を使い果たした桜花は、神魔刀を杖代わりに立っていたが、その身体は既に限界を超えていた。美しかった桜色の髪は灰色と化し、その肌は陶器のようにひびが入っていた。
桜花はゆっくりと仲間達に視線を向ける。そこには、愛する二人の仲間達の骸が横たわっていた。
「……リンちゃん、ユカラ……守れずにごめんなさい」
涙が一筋だけ頬を伝う。
震える唇から漏れたのは、剣聖ではなく、一人の少女としての懺悔だった。
その存在が虚ろとなり、身体が崩壊し始める。
(よく、もってくれました。我が魂魄)
意識を失いかけ、倒れかけた瞬間、横から手が伸びて桜花の肩を掴み上げる。
「流石は我が主。よくやったな」
普段は我がままで凶暴な従魔の顔に、少年のような屈託のない笑顔が浮かんでいた。
(ふふ、おかげでその笑顔を失わずに済みました)
桜花は隣で肩を貸すオロチに微笑んだ。
「オロチ、最期まで、一緒にいてくれてありがとう」
「んなこと当たり前だろ? てめぇを独りで逝かせるほど、オレ様は薄情じゃねぇ。あの世だろうと一緒に逝ってやるよ」
全てのマナを使い果たし、今にもその肉体が消滅しかかっている最強の従魔はただ満足げに笑った。
桜花は嬉しそうに目を細める。
だが──。
桜花は震える手でオロチの頬に触れた。
「お願い。貴方だけでも生きて」
桜花は次の瞬間、オロチの心臓を神魔刀で突き刺した。
「桜花、てめえ、なにを……⁉」
「貴方まで消える必要はありません。後は新たな主でも見つけてよろしくやっちゃってくださいな」
オロチの胸に突き刺されたかに見えた神魔刀は刀身をマナに変え、柑子色の光を放っていた。
桜花が神魔刀を抜くと、静かに、だが満足げに呟く。
「やっぱり……あなたが私の従魔で、よかった」
その笑顔は、どこまでも穏やかだった。
「このクソ主が! てめえ、最後に残った魂魄をオレに……くそがあああああああああ!」
オロチの絶叫が木霊する。
「何故オレ様を助けた⁉ 何故一緒に死なせてくれなかった⁉ 答えろ、クソ主があああああああああああああああ!」
桜花はオロチの絶叫には何も答えず、ただ微笑んだ。
〈リンちゃん……ユカラ……今、行きますね〉
桜花は穏やかな笑みを浮かべた後、静かに息を引き取った。その時、桜の花びらが一枚舞い落ちた。
オロチは最後までその手を離さなかった。
空を覆っていた黒雲は消え去り、世界には久方ぶりの青空が広がっていた。
だが、その青空を見上げる者たちの心に、光が差すことはなかった。
勝利と言うには、あまりにも多くのものを失った果てに手にした、血塗られた奇跡、いや、絶望だった。
三人の漢たちの慟哭だけが、静まり返った天の岩戸へ、いつまでも響き続けていた。
そして、彼等の絶望が始まった──。




