第2話 魔障の王 中編
肩で息をしながら、オロチは忌々し気に吐き捨てた。
全力の攻撃をものともせず、漆黒の肉塊は嘲笑うかのようにボロボロになったオロチを見下ろしながら悠然と佇んでいた。
「くそが! 白銀のガキを喰らって、さっきのより何倍も強くなってやがる……!」
オロチの顔から余裕が消え、顔を歪めた。
リンの死、そしてさらなる絶望の具現。勝利の歓喜は、一瞬にして地獄の底へと叩き落とされた。
その惨劇を目の当たりにしたユカラが、血を吐きながら立ち上がる。
「やはりこの命、捨てねばなりませんか……」
そう呟いた瞬間、ユカラは肺に焼けるような痛みを覚えた。
視界は血で滲み、全身の傷が悲鳴を上げている。
それでも、その瞳だけは巨大な魔障の王を真っ直ぐ見据えていた。
ゆっくりと、自らの胸へ手を添え祈り始めた。彼女の全身から清らかな黄金のマナが立ち昇る。
ユカラの脳裏に思い浮かぶのは穢れ巫女に代々受け継がれてきた禁術の名。
『魔障封喚』
それは術者自身を封印の器とし、その命と魂を代償に災厄を永遠に閉じ込める、生還を許されない禁忌の魔法。
幼い頃から幾度となく師から教えられてきた。
『この術を使う時、それは穢れ巫女としての人生と使命を終える時だ』と。
その最後の術を、今、自分が使おうとしている。
胸が苦しかった。
死ぬのが怖い。
もっと生きたい。
もっと笑っていたい。
もっと――。
〈ビャクガと、一緒にいたい……〉
その想いが胸いっぱいに溢れ、唇が小さく震える。
脳裏に浮かぶのは、最愛の従魔の姿だった。
無愛想で、不器用で、それでも誰よりも優しく、自分だけを真っ直ぐ見つめてくれた存在。
初めて名前を呼んでくれた日。
一緒に笑った日々。
肩を並べて旅をした景色。
どれもが、かけがえのない宝物だった。
〈まだ……終わりたくない〉
ぽろり、と涙が零れ落ちる。
その涙を拭うこともなく、ユカラは静かに目を閉じた。
しかし、その耳へ届いたのはアズマの嗚咽だった。
ユカラはハッとなり目を見開く。
〈私は、今、何を考えていたの⁉〉
自分の胸に湧き上がった想いに気付き、ユカラは愕然となる。
私は仲間を、友を捨てて逃げようと──⁉
たちまち胸が罪悪感で満たされる。
ユカラの目に映し出されたのは仲間たちの絶望と怒りの姿。
リンの亡骸を抱き締め、慟哭する父の姿。
怒りで身体を震わせるオロチ。
そして、最愛の従魔ビャクガが必死にもがく姿。彼はもう限界だ。先程の戦いでマナは尽きかけ、腹部にも致命的な穴が空いていた。妖怪王でなければ即死の傷。立ち上がろうとするも、その度に倒れてしまう。
「ユカラ、今、行く……!」
ビャクガは這いずりながらユカラの側に向かった。
ユカラは深く息を吸った。
皆、このままでは死ぬ。
自分たちだけ助かる未来など存在しない。
リンは死に、アズマは壊れた。
桜花も限界で、その従魔オロチも強がってはいるもののマナが尽きかけ、存在が虚ろになりかけている。
現状は少なく見積もっても絶望。
ユカラは決意を眦に込めた。
ならば、と。
せめて、と。
愛する人だけは生きてほしい。
その想いが恐怖を静かに塗り潰していく。
ユカラは涙を拭い、小さく微笑んだ。
「……やっと決心がつきました。穢れ巫女として生まれた意味が、ようやく分かったような気がいたします」
その横顔にはもう迷いはない。
彼女はゆっくりと両手を胸の前で重ね、深く息を吸い込んだ。
命を燃やす覚悟を、その小さな身体へ宿しながら。
そして、穢れ巫女に代々伝わる禁忌の詠唱を静かに紡ぎ始める。
「我が胎内は万魔の檻。我が命を楔とし、災厄を永劫の闇へ封じ込めん……!」
その時だった。
「ユカラ!」
悲鳴にも似た叫びが響く。
ビャクガだった。
魔眼から血を流しながら、それでも這いずりながら必死にユカラのもとへ向かおうとする。
「止めろ……!」
ビャクガは立ち上がろうとするも、限界を超えた肉体は思うように動かない。何度も膝をつき倒れかけるもユカラの名を叫び続けながら一歩、また一歩と歩みを進めた。腹部から血が噴き出し、口からは吐血する。だが、それでもビャクガは歩みを止めることはなかった。
何故なら、ビャクガは最愛の主が何をしようとしているのか知っていたからだ。
歴代穢れ巫女に従い続けて来たビャクガだからこそ分かる。
ユカラは、禁忌の術を使い、己の命を犠牲にしようとしているのだと。
今までは従魔として、ただ主の最期を見届けて来た。
だが、ユカラだけは違う。オレは、彼女に魂を捧げたのだ。一人の男として、彼女を愛している。
守らなければ。その為にオレがいるのだ。
ビャクガは哀願するようにユカラに手を伸ばした。
「その術を使えば、お前は……!」
ユカラは振り返る。
涙で滲む視界の中でも、愛する従魔の姿だけははっきりと見えていた。
胸が締め付けられる。
本当は今すぐ駆け寄って抱き締めたい。
泣きながら『一緒に逃げて』と言いたい。
でも、それを口にしてしまえば、きっと自分はもう前へ進めない。
だから、精一杯の笑顔を作った。ほんのちょっぴり、勇気を胸に込め、震える手を必死に掴み上げながら──。
「ビャクガ」
優しく名前を呼ぶ。
「こんな穢れた私を……今まで愛してくれて、本当にありがとう」
その一言に、ビャクガの表情が凍りつく。
「その言い方はやめろ……!」
低く掠れた声だった。
ユカラは首を横へ振る。
もう決めたのだ、私は迷わない。
「私ね、貴方と出会えて、本当に幸せでした」
「ユカラ、お願いだ。止めてくれ!」
ビャクガは叫ぶ。
その叫びには怒りも威厳もなかった。
一人の男が、愛する人を失いたくないと願う、ただそれだけの叫びだった。
「オレはそんな言葉が聞きたいのではない!」
魔眼から血の涙が伝う。
「生きろ、ユカラ! お願いだから、オレを置いていかないでくれ!」
その悲痛な叫びに、ユカラの瞳から大粒の涙が溢れた。
胸が痛い。
息が苦しい。
決意したはずなのに、心が揺らぐ。
〈嫌だ、死にたくない。もっとビャクガと一緒にいたい〉
そんな本音が胸の奥から溢れ出す。
だが、不意にリンの亡骸が目に入る。
絶望の中で立ち尽くす仲間たち。
そして、なおも膨れ上がる魔障の王。
自分が止めなければ、全員死ぬ。
その未来だけは絶対に認められなかった。
ユカラは涙を拭う。
そして、誰よりも優しく微笑んだ。
「ビャクガ、貴方は私が守ります。だから、貴方は生きて。そしてムカルを、妹をお願い」
嫌だ、私だけのビャクガでいて欲しい。
何度も叫びかけるも、必死に感情の奔流を抑えた。
世界なんてどうでもいいの。私は、ビャクガ、貴方に生きていてもらいたい。
「世界なんてどうでもいい。だから……頼む」
ビャクガの哀願する声を聞き、ユカラはハッとなる。
〈そっか。ビャクガも私と同じなんだね?〉
ビャクガは両膝をつき泣き崩れた。
誇り高き妖の王が、ただ一人の少女の前で、涙を流しながら頭を垂れる。
「生きてくれ……オレの為ではない。自分の為に……!」
その姿を見た瞬間、ユカラの堪えていた涙が溢れた。
こんなにも愛されていた。
こんなにも幸せだった。
「ありがとう」
その一言だけを残し、ユカラは静かに両手を胸の前で重ねる。
穢れの紋様が全身を淡く照らし始める。
周囲の空気が震え、世界そのものが彼女の祈りへ呼応した。
巫女の澄んだ声が、静寂を切り裂く。
「我が胎内は万魔の檻」
大地が揺れる。
「我が命を楔とし」
世界中に散らばる魔障の残滓が、悲鳴のような咆哮を上げ始めた。
「災厄を永劫の闇へ封じ込めん……!」
ユカラの身体が眩い黄金のマナに包まれる。それはまるで神の息吹の様だった。
その光は慈愛のように温かく、それでいて死を告げるほど痛々しかった。
ユカラは、最後の言葉を静かに紡ぐ。
その時、ユカラの脳裏に過ったのは愛する妹のムカル、ではなく従魔、ビャクガの姿だった。
〈死にたくないよ、ビャクガ。私、もっと貴方と一緒に過ごしたかった……!〉
「――魔障封喚」
その一言が紡がれた瞬間。
世界から音が消えた。
静寂。
刹那、天地を揺るがすような咆哮が響き渡る。
魔障の王の断末魔だった。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」
黒い肉塊が泥を吐き出しながらが狂ったように暴れ始める。
死を拒絶し逃れようとするも、穢れ巫女の禁術はそれを許さなかった。
無数の黒い触手が引き裂かれ、砕け、渦となってユカラの身体へ吸い寄せられていく。
その様はまるで、世界中の穢れが一人の少女へ帰っていくかのようだった。
「ぐっ……ぁ……!」
焼ける。
身体の内側に地獄の巨釜でも現れたかのようだった。
魔障が流れ込むたび、骨が軋み、血管が裂け、内臓を鋭い刃で掻き回されるような激痛が全身を駆け巡る。
それでもユカラは膝をつかなかった。
唇を強く噛み締め、悲鳴だけは飲み込む。
「ユカラァァァァァァァッ‼」
ビャクガが叫ぶ。
魔眼を暴走させ、地を蹴り、彼女のもとへ駆けようとする。
だが、禁術が生み出した結界が彼を阻んだ。
「邪魔をするな‼」
魔眼が閃く。
地獄の業火が結界を焼く。
しかし、一筋の亀裂すら生まれない。
「壊れろォォォォォッ‼」
拳を叩きつける。
一度、また一度。骨が砕けても構わず殴り続ける。
拳から血が飛び散るも、それでも届かない。
ユカラはそんな彼を見つめ、小さく笑った。
涙で滲んだ笑顔だった。
「ありがとう愛してくれて」
それがユカラの最期の言葉だった。
刹那、眩い光が世界を包んだ。
時間にしておよそ1秒。ビャクガ達の意識は喪失した。
そして、気付いた時には、最強の妖怪王の最愛の主たる穢れ巫女ユカラの亡骸がそこに横たわっていた。
全てを瞬時に理解したビャクガは、動かなくなった最愛の主を力の限り抱きしめていた。
「ユカラ、オレはまだ何もお前に伝えきれていないのだぞ。それなのに何故、お前は……!」
その続きは、嗚咽に掻き消えた。
静寂だけが二人を包み込む。
誰もが、穢れ巫女ユカラの最期を見届け、言葉を失っていた。
――その静寂を、何かが内側から軋むような、不気味な音が引き裂くまでは。
小さな音が響いた。
誰も最初は気にも留めなかった。
だが、その音は確かにユカラの胸元から聞こえていた。
「……?」
ビャクガがゆっくりと視線を落とす。
ユカラの胸元に浮かんでいた黄金の封印紋。
その中心へ、一本の黒い亀裂が走っていた。
嫌な予感がした。
本能が叫ぶ。
逃げろ、と。
しかし身体は動かなかった。彼女の傍を離れるわけにはいかない。
――ピシッ。
また一つ、亀裂が増え黄金の光が黒く濁り始める。
「まさか……!」
ユカラの命を代償に築かれた封印。
その最奥に封じられたはずの魔障の王が、静かに蠢いていた。
次の瞬間、ユカラの亡骸が大きく震えた。
「!?」
ビャクガは咄嗟に抱き締める。
だが遅かった。
封印紋が砕け散る。
胸元から漆黒の泥が一筋、ゆっくりと溢れ出した。
それは血ではない。闇そのもの。
「ガ……ァ……」
呻き声。いや、それは呪詛だった。
耳ではなく頭に、魂へ直接響く、おぞましい怨嗟。
ユカラが命を懸けて封じた魔障の王。
その本体ではない。
最後の最後まで世界を呪い続けた"執念"だけが、なおも消えてはいなかった。
黒い泥はユカラの身体を侵食しながら膨れ上がっていく。
「やめろォォォォォォッ‼」
ビャクガが魔眼を解放する。
百の魔眼が一斉に開き、黒泥へ地獄の業火を叩き込む。
しかしそれは妖怪王の力をもってしても滅ぼすことは出来なかった。
それは既に生命ではなく、憎悪という概念そのものだった。
黒泥はユカラの胸からゆっくりと離れる。
まるで最愛の人の亡骸を嘲笑うように。
ぽたり。
大地へ落ちる。
その一滴が着地した瞬間、轟音と共に膨れ上がった。
黒い泥は津波のように周囲を飲み込み、空を覆い尽くすほど巨大な肉塊へと変貌していく。
幾千もの口。
幾万もの眼。
幾億もの悲鳴。
その全てが一つとなり、天地を震わせる咆哮を放った。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■――ッ‼」
その威圧だけで大地が沈み、空間そのものが軋む。
アズマたちは言葉を失った。
リンを喰らい、
ユカラの命を踏みにじり、
なお滅びることを拒む絶望。
魔障の王は、最期の悪意だけを糧として、再びこの世界へ産声を上げた。
ビャクガは、腕の中のユカラを強く抱き締める。
もう二度と目を開けることのない少女。
その穏やかな寝顔と、眼前で嗤う災厄。
あまりにも残酷な対比だった。
そして、百の魔眼を持つ妖の王は、生まれて初めて怒りで震えた。
「……貴様だけは、絶対に、許さぬぞ……!」
低く、地の底から響くような声。
ビャクガの怒りが天地を震わせるようだった。
「貴様にはオレの全てをくれてやる。受け取るがいい!」
ビャクガの背後に瘴気を纏った百の魔眼が現れ、一斉に開かれる。
魔眼は血の涙を流し、瘴気を解き放つ。
「煉獄の魔眼・神火滅殺」
地獄より召喚した地獄の業火が魔眼から放たれると、一瞬だけ現実が地獄と融合する。
一度放たれれば防ぐことはかなわず、肉体や魂が燃え尽きるまで消えることはない。
神にすら届くビャクガの必殺の魔法。
だが──。
「なん、だと……⁉」
地獄の業火は魔障の王を焼き尽くさんとした瞬間、霧散する。
それは間違いなく魔障の王すら滅ぼせるビャクガの魂の魔法。
だが、地獄と融合した世界が元の姿に戻った瞬間、ビャクガは戦慄する。
怒りは魔障の王にではなく、自分に向けられた。
マナ切れだった。もうとっくにビャクガのマナは限界だったのだ。一瞬でも地獄の業火を召喚出来たのはビャクガの執念がなせる業であった。
「ふざけるな! このような結末、オレは認めんぞ⁉ マナがなければ魔眼よ、オレの魂魄を使え! 心臓を喰らえ! 欲しければ命だけではない。この身も未来永劫、地獄の炎に焼かれることもいとわぬ! だから、だから、魔障の王を、ユカラの仇を討たせてくれええええええええええ!」
血の涙を流しながらビャクガが慟哭した瞬間、ぷつりと糸が切れたように地面に崩れ落ちた。
マナだけではない。体力も限界に達したのだ。
それを見て、魔障の王がほくそ笑んだ、ように見えた。
漆黒の肉塊がまるで腕を持ち上げるかのように伸びると、それは巨大な槍へと姿を変える。
桜花はそれを見て一瞬で気付く。
「あれは……リンちゃんの神槍・天逆矛……! 何処までもふざけた真似を」
それを見た桜花は憎悪と怒りで眦を引きつらせ桜色の髪を逆立てると、下唇を噛みしめながらそう吐き捨てる。その唇から血が滴り落ちた。
「あれが放たれれば、間違いなく全てが終わる。私たちの命のみならず、この北の大地が魔障に侵され地獄と化すでしょう。アズマ、それでもあなたはただ呆け続けるつもりですか?」
桜花は悲哀に満ちた眼差しで最愛の義娘を抱きかかえたまま、うずくまるアズマに言葉をかけた。
「リンちゃんがいない世界なんて、もうどうなっても構わない……。オレはもう終わりたいんだ。この悲しみから逃れたい。だから桜花、このまま終わらせてくれ」
アズマが静かに呟く。
〈リンちゃんが寂しくない様に、今、おじさんもそっちに逝ってやるからな〉
「……いいえ、まだ終わりではありません……!」
桜花の凛とした声が響く。
オロチは主の声に振り向くと、満足げに、へっと笑った。
桜花は静かに神魔刀を鞘へ納める。
ゆっくりと瞼を閉じ、長く息を吐いた。
震えていた。握る手も、肩も、唇も。
しかし、それは恐怖に怯えていたからではない。
二人を死なせてしまった不甲斐ない自分への怒りから来る震えだった。
リンとユカラの亡骸を見つめた瞬間、最強の剣聖の怒りは頂点に達した。
「剣とは、誰かを斬るためにあるのではありません」
独り言のように呟くと、神魔刀の柄を握る。
「守れなかった命を悔やみ続けるためのものでもありません」
ゆっくりと刀を抜くと、白銀の刃から退魔の蒼焔が迸る。
「今、守れる命を守るために私は剣を振るいます」
その背中を見つめながら、オロチは全てを悟った。
「……てめぇ」
怒りを込めながら、オロチは低く呟く。
「真名を解放する気か⁉ そうすればどうなるか、分かってほざいていやがんのか、このクソ主が!」




