第1話 魔障の王 前編
北の大地には、八百万の神々の聖域が存在した。
それはかつて、こことは違う世界に繋がる天の岩戸と呼ばれる穴があり、その先に神々の住まう世界があるとされていた。
しかし、今やその聖域は魔障の王によって侵略され、冥府の世界へと変貌していた。
北の大地、北海道を救うべく集まったのは魔導ギルド所属の精鋭の百人の魔法使いたち。
その中には、最強の名を冠する始祖の魔法使いたちの姿もあった。
白銀を司る白銀の魔女リン。
穢れを司る穢れ巫女ユカラ。
そして、最強の最強と呼ばれる桜花剣聖。
三人の始祖の傍らには、同じく最強の存在がいた。
一人、百戦の魔法使いアズマ。白銀の魔女リンの養父であり、始祖を除く魔法使いの中では最強と謳われる。
一人、百眼の妖王ビャクガ。穢れ巫女の忠実な従魔にして最強の妖怪王。
一人、魔皇子オロチ。最強の最強たる桜花剣聖の忠実な従魔にして最強の元魔王。
こうして、最強の6人を含めた魔法使いたちは、世界を地獄に変えんとす魔障の王を倒すべく、天の岩戸に集い戦いを挑んだ。
だが、既に始祖以外の魔法使いたちは魔障の王の前に散り、無惨な屍を大地に沈めた。
そこには漆黒の闇が拡がるただの絶望的光景だった。
天の岩戸を埋め尽くすのは、物理法則を無視して増殖し続ける漆黒の肉塊――『魔障の王』だった。
「……これで、最後よ!」
穢れ巫女ユカラが血を吐きながら祈りを捧げる。彼女の祈りは黄金のマナとなり、魔障の王の動きを止めていた。
「我が主の祈りを妨げる者は何人たりとも容赦せぬ……!」
彼女の背後でビャクガの百の魔眼が猛然と見開き、魔障の王の肉塊を焼き払う。
ビャクガの魔眼から放たれた地獄の焔の中を突き破り、桜花とオロチが魔障の王の前に躍り出る。だが、数多の漆黒の肉塊が二人の行く手を阻んだ。
「桜花剣聖、参る! オロチ、道を作ってください……!」
「了解だ、我が主!」
桜花剣聖が神魔刀を抜き、従魔オロチが咆哮と共に道を作り、桜花の刃が魔障の王の心臓部へと突き立てられた。
しかし、まだ浅い。魔障の王を討ち取るには更なる一撃が必要だった。
その時、全員の視線が幼い白銀の少女に向けられる。
「リンちゃん、今だ!」
アズマの叫びに、銀の少女が応える。
「言われなくても……! 行け! 私の銀糸魔法!」
リンは銀糸を手繰ると、あやとりをするかのように一瞬で魔法陣を構築する。
魔法陣から現れたのは巨大な神の槍。
「滅ぼせ。神槍・天逆矛」
リンが静かにそう呟くと、召喚された神の槍は因果の果てを超えて放たれ、魔障の王の心臓に突き刺さり爆散するという運命を構築する。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼」
魔障の王の断末魔が木霊し、心臓を神の槍によって消滅させられた魔障の王の漆黒の肉塊は、その存在を次元の彼方へと霧散させていく。
爆音が止み、静寂が訪れた。空を覆っていた黒雲が割れ、一筋の光が差し込む。
「……やった、のか?」
アズマは天を見上げると、差し込む光に目をしかめながら、「あー、しんどかった」と荒く息を吐く。
「ふん、呆気ねえな。魔障の王とやら、オレ様には物足りなかったぜ」
オロチは鼻で笑い飛ばすも、既に全身はボロボロで膝も高笑いを上げている上に、今にも存在そのものが消えそうになっていた。従魔であるオロチはマナ切れを起こせばたちまち消滅してしまう。それは従魔にとって死を意味していた。
桜花はそんな強がりを言い放つ最強の従魔を微笑ましく思いながら、その場にへたり込んだ。
「なんとかなりましたか。もう一歩も動けませんね。……ああ、リンちゃん、今の私の活躍、見ていてくれました? ご褒美のハグ、期待してもよろしいでしょうか。いえ、むしろ私にご褒美のハグをするべきです! そしてその後はあんなことやこんなことをしましょう」
興奮気味にリンに話しかける桜花。
リンは顔を青ざめさせながら後退りすると、キッと桜花を睨みつけた。
「一応聞いておくけれどもさ、あんなことやこんなことって?」
「もちろん、お医者さんごっこです! 私が産婦人科の医師でリンちゃんはその患者という設定で……でへ、でへ、でへへへへへへへ!」
普段は凛然とした剣聖である桜花だが、心酔するリンの前でだけは、その性癖と本性を隠そうとしなかった。
桜花は恍惚な笑みを浮かべながら涎を垂らすと、いやらしい手つきをしながらリンに向かって息を荒らげる。
「このど変態があああああああああああ! 桜花、一歩でも近づいたら切り刻むからね⁉」
リンは銀糸を手繰りながら身構えると、ガルルルル! と狂犬のように唸った。
「ああ、そんないけずなリンちゃんも尊し! 私、リンちゃんが尊過ぎて今にも尊死してしまいそうです!」
変態そのものの桜花を見て、アズマとその最強の従魔であるオロチは深々と息を吐いた。
「はぁ、これさえなけりゃ、最高の主なんだがな」
呆れたようにオロチが吐き捨てる。
「やれやれ。ようやくいつもの日常が帰って来たってことか」
アズマは二人のやり取りに安堵し、懐から煙草を取り出した。震える指で火をつけ、紫煙を深く吸い込む。
勝利だった。人類が長年待ち望んだ、絶望からの解放。
リンは額の汗を拭い、隣に立つアズマを見上げて、ほんの少しだけ口角を上げた。それは報酬を求める守銭奴の顔ではなく、年相応の少女としての安堵の笑みだった。
「あんがとね、アズマ。今回ばかりはアズマのおかげで何とかなった、かも、だからお礼を言っておくよ。一応、ね」
リンは照れ臭そうに目線をずらしながらお礼の言葉を述べる。
その瞬間、アズマの脳裏には今まで散々お金お金お金づくしで、守銭奴気質だった義娘の過去の姿が走馬灯のように過った。
何をするにしても必ず貪欲に見返りを要求する義娘。
甘えるようにお金と呟いて来る義娘。
一円でも報酬を値切って来たら殺すぞ、と笑顔で呟く義娘。
世界の全てがお金で動いていると信じて疑わない義娘が自分にお礼を述べるだなんて。
「リンちゃん、何処か怪我でもしたのかい⁉ まさかリンちゃんが何の見返りも求めずにおじさんに感謝の言葉を言うだなんて⁉」
「ちがわい! 私だってたまには普通に感謝の気持ちを言葉にすることだってあるんだべさよ⁉」
顔を真っ赤にしながら、最愛の義娘は不貞腐れた様に頬を膨らませて見せた。
「だったらさっきのは無し! アズマみたいなおっさんなんかもう知らないんだから!」
マジか。本当の本当にリンちゃんってば純粋にオジサンに感謝の気持ちを伝えたかっただけってこと?
アズマはたちまち滝の様な涙を零し、唸るように慟哭した。幸せを感じた時でも人は慟哭するものだとアズマは初めて知る。
「ちょ、そんなに泣くことないっしょ⁉」
「うう、生きててよがった……ありがとう、ありがとうね、リンちゃん。おじさん、めっちゃ嬉しいよ。リンちゃんの気持ちを少しでも疑ったおじさんを許しておくれ。お詫びになんでもするから言ってちょうだい」
「だったらアズマ、帰ったら……家系ラーメン、奢って」
「そんなんでいいの? 回らないお寿司とかもOKだけれども……?」
「いつもの家系ラーメンがいいの! だってあそこは……」
何故か照れ臭そうにリンは最後の言葉はごにょごにょと誤魔化した。
「辛みそネギラーメン、味ネギマシマシ、味玉トッピング、背脂交換でいいんだよね?」
期待した通りのの答えが返って来たことにリンは満足そうに、そして嬉しそうに微笑んだ。
「さっすが、アズマ。分かってるじゃん。ふふ、ラーメン、楽しみだべさ」
その瞬間だった。
霧散したはずの魔障の残滓が、リンの影から音もなく這い出した。
漆黒の泥は一瞬で鋭い棘へと姿を変え――誰一人反応する間もなく、銀の少女の胸を貫いた。
「え……?」
リンは胸を押さえた。その手に生温くてドロドロしたものが付着する。
これはなに? ああ、血だ。どうして私の胸から血がこんなにも溢れ出ているのだろうか……?
呼吸をするだけで胸が焼けるように痛い。
リンは呆然と自分の胸を見下ろす。
温かい血がぽたり、ぽたりと地面へ落ちていく。既に足元は血溜まりとなっていた。
リンは、身体から急速に力が抜けていく感覚を味わった。
「リンちゃん……?」
アズマの口元から、ポロリと煙草が地面に落ちる。
目の前の光景に理解が追い付かず、アズマはただ凍り付いた。
リンは己の運命を理解したのか、笑顔に悲痛な色を込めて別れの言葉を絞り出す。
「アズマ……親孝行……してあげられなくて……ごべんね……」
次の瞬間、黒い棘は完全にリンの胸を貫き、内側から食い破るように心臓を引きずり出した。
そして、リンの足元の血溜まりの中から漆黒の肉塊が姿を現した。
「あ……ぁ……」
リンは最後の力を振り絞り、最愛の養父に手を伸ばすもその小さな手は力なく宙を彷徨い静かに落ちた。彼女のルベライトの瞳から、光が消えていく。そしてゆっくりと地面に崩れ落ちた。
アズマはリンを貫いた漆黒の肉塊には目もくれず、地面に横たわる最愛の義娘に駆け寄りその身体を抱きしめた。
まだ暖かい。名前を呼べばまだ返事をしてくれるかもしれない。
「リンちゃん……起きてくれ……」
返事はない。それでもアズマは義娘に話しかける。
「ほら、家系ラーメン食べに行くんだろ……?」
震える声で笑おうとするも、氾濫する絶望と哀しみが作り笑いすら不可能にさせていた。
「チャーシューも、穂先メンマも奢るから……起きてくれよ……なあ、リンちゃん。おじさんの一生のお願いだからさ……」
違う、こんなのは夢だ。そう心の裡で叫んだ後、アズマは絶叫する。
「リンちゃんんんんんんんんんんんんんんんんんん!」
アズマの絶叫が木霊する。
その声に応える者は、もういない。
リンを刺し貫いた魔障の残滓は、歓喜するように脈動すると、リンの心臓を大きく裂けた口の中に放り込んだ。
すると、漆黒の肉塊は爆発的に膨れ上がり、天を衝くほど巨大な異形へと変貌していく。
先程とは比較にならない禍々しい瘴気が周囲を包み、大気を穢し大地を腐らせた。
「リンを喰いやがった……! あのクソ野郎!」
オロチは怒りで全身を震わせながら吠えた。最強の従魔の咆哮だけで大気が震えるようであった。
「ざけた真似しやがって。この魔皇子オロチ様が粉微塵にしてやらぁ‼」
オロチの眼光は刃のごとき鋭利な光を放ち、その全身からは魔皇子の名に相応しい禍々しい瘴気のマナが立ち昇る。
しかし、この時、オロチは知る由もない。
真の絶望がまだ訪れていないことを。




