第6話 夏の夜の花火、すれ違いの火種
作者の地元にも大きめの夏祭りがありますが、一度も行ったことがありません。花火なら昔は家から見てましたが、ビルなどの建設で、気づいたら見えなくなっていました。
AIの分析による本文のAI依存率
ほぼそのまま使用:15〜20%
AI案を骨格にして大幅改稿:30〜40%
ユーザー独自加筆・設定反映・再構成:40〜50%
夕暮れの港は、昼の熱気をまだわずかに残していた。照り返しの残るアスファルトの上を、ゆっくりと風が渡る。春若港前の広場は、既にたくさんの人で賑わっていて、屋台の明かりと浴衣姿がちらちらと揺れていた。
八月後半のとある土曜日。今日は毎年恒例の「春若大花火」の日だ。終業式の日に約束した通り、樋口健介、古波蔵茉衣子、杠千宥、そして、今月頭の海水浴の時にもその話題になったため、追加で玉井絢那、大上茂、それに朝長慎吾と雛灯の兄妹も来ることになった。
「おー、すげえな、もうこんなに人いるのか」
健介は思わず声を漏らした。
地元なのに、こうして祭りの喧騒の中に立つのは滅多にないため、彼にとっては非常に珍しい光景だ。この感じ、地元なのに、なんだか慣れない。もっとも、春若町南部の久世に住んでいると、北部にある港は、そもそも馴染みがないと言えばそれまでなのだが。
隣で茉衣子がうちわをぱたぱたと扇ぎながら、笑う。
「春若大花火って、いっつもこんな感じだろ。健介、お前地元なのにほんと来たことねえんだな」
「こういうのには縁がないんだよ。別に花火がそんな好きなわけじゃないし」
健介はバツが悪そうに目を逸らした。
「もしかしたら、うちの学校の子たちもいるかもしれないね!」
玉井が目を輝かせた。その声につられて、健介も周りを見回した。春若だけではなく高宮市の他の町からもたくさんの客が押し寄せているだろうから、知り合いに会う確率は高くない。会ったとて、特に何があるわけでもないだろう。だけど、なんとなくそわそわする。
少し離れた場所で、浴衣姿の千宥が立ち止まり、静かに港を見渡していた。白地に薄い水色の朝顔模様――茉衣子に勧められて選んだというその浴衣は、派手さはないが、千宥らしかった。
「似合ってんじゃん、千宥」
茉衣子がからかうように笑う。
「あ、ありがとう。こういうの初めてで」
「女物は慣れないか?」
「あはは、男のもあんまり着たことないかも」
健介はそのやり取りを見ながら、なんとなく胸の奥がざわついた。――千宥の「初めて」という言葉が、妙に引っかかる。いまだに謎が多い千宥。この姿になる前は、どんな格好で、どんな暮らしをしていたのだろう?そして、制服や普段着とも違う、浴衣の千宥。男だと言うことを忘れて、つい見惚れてしまう。
「なんだ、健介、ぼーっとして」
茉衣子がジト目でこちらを見ている。
「あ?いや、なんでも」
健介は笑って誤魔化した。
「ところで、慎吾と妹はまだ来てないのか?」
大上が大きな体をさらに背伸びさせるようにして、会場の入口の方を覗き込む。
「南町から来るんだろ?遠いからな。……で、大上は帰去来から降りてきたんだろ。どうやって?走ってか?」
健介が、短パンの裾から伸びる筋骨隆々とした脚を見ながら言った。大上の住む帰去来という山奥の集落には、市内便や栄久高校へ向かうバスは出ているが、春若町の北の方へ向かうバスはない。ちなみに、帰去来からここまでは六、七キロある。
「んなわけあるか。親の車だ」
「そうか」
「何でそんな残念そうなんだ」
大上が顔をしかめる。
「ねえねえ、大上くんち遠いもんね。もっと下の方に住めばいいのに」
玉井が無邪気に聞く。
「お、おう。けど、そう簡単にいかない。大上家は代々帰去来に住んでてな……」
「おーい!間に合ったか?」
大上が少し頬を緩めながら玉井に講釈を垂れていると、そこへ、遠くからそれをつんざくような声が飛んだ。慎吾が手を振っている。
「ごめんね、車が多いのか、バスもちょっと遅れたみたい」
後から雛灯も続いた。
「おう、まだ大丈夫だぞ。あんまし混まないうちに場所取りに行こうぜ」
茉衣子が得意げに言った。慎吾は小さく息をつきながら、髪をかき上げた。その慎吾の視線が、ふと茉衣子をとらえ――そして次の瞬間、千宥の姿に移る。
「おう、千宥ちゃん。浴衣めっちゃ似合うじゃん。何着ても似合うよなあ」
「あ、ありがとう」
その一瞬を、健介は横目で見た。慎吾の言葉に、茉衣子の肩がわずかに動いたのがわかった。彼女はぼんやりと視線を落とし、風にうちわを揺らす。
「……相変わらずだな、あいつ」
誰に聞かせるでもなく、茉衣子がぽつりとつぶやく。夜風に混じって、その言葉は健介の耳にも届いた。けれど彼は、聞こえなかったふりをした。
人の波を縫って、港の堤防に近い芝地に、ある程度広い場所を見つけた。この辺は、まだちょっと遠い。どこかいい場所があればいいが。健介もつい周囲をキョロキョロ見回す。
時折、港のしょっぱい風が鼻をくすぐる。係の人がメガホンで場内整理をしつつ、周囲から感想が聞こえてくる。こんな大きいイベントだったんだ、これ。健介は感心する。遠くで、試し打ちか何かだろうか、低い破裂音が一度だけ鳴り、その余韻を吸い込むように、港の水面がふっと暗さを増した。
玉井は屋台の方向を何度も振り返っている。
「おい、はぐれるなよ。ここ、電波の入りも悪いぞ」
大上がスマホを片手に並んで歩く玉井に言った。
「うん、大丈夫。わたあめは帰りにしないとかな」
玉井は隣を歩いていた大上の向こうに見える出店を名残惜しそうに一瞥するが、次の瞬間、反対隣を歩いていた千宥の袖をそっとつまむ。
「千宥ちゃん、帯、苦しくない? 朝顔の色かわいい」
「う、うん。思ったよりは……大丈夫」
健介はそれを横目で見ながら、ふと西の空を見た。隣の菊水寺町との境をなす小高い丘があるが、空は割と広めに広がっている。そこに、沈みかけた太陽を見る。もうそろそろ日没だ。次は海の方を見た。織田島湾を北に見ているが、そちら側はもうだいぶ暗くなっている。湾の奥に灯る赤い警告灯。潮の匂い。この、海辺特有の匂いが、近くの出店の食べ物の匂いと混ざる。あまり来たことない場所だが、十年ほど前に高宮空港への定期航路が廃止になって以降、しがない漁港となっており、あまり人も来ないと聞いている。その話がまるで嘘かのように今日は人が集まっている。
「な、あそこ、下の方、まだ空いてるぞ。あそこに席とろうぜ」
慎吾が奥の一角を指して言う。
「いいけど、みんなついてこれるか?千宥、歩幅、小さめで行くぞ」
茉衣子の声はいつも通りの明るさなのに、その明るさの奥のどこかに、微かな硬さがあった。健介はそれを、なんとなく眺めていた。
人の列が動くたび、誰かの袖が擦れ、簪が触れ合って小さな音がした。海側に少し前進したところで、急に群衆の波が縮んで、足元の感覚がぐらつく。
「わっ」
千宥が小さくバランスを崩し、健介の手が反射的に肩口を支えた。
「ごめん」
「いや、こっちこそ――」
ようやく、目的地に着いた。なるほど、七人分の場所はありそうだ。……しかし、喉が渇いてきた。
「ちょっと飲み物、買ってくる。誰かいる?」
健介が言うと、雛灯が元気よく手を挙げた。
「私、烏龍茶!氷多めなら嬉しい」
「俺もいいか?スポドリ」
大上も遠慮がちに手を挙げる。
「絢那、ラムネがいいな!」
玉井も手を挙げた。
「了解。茉衣子は?」
「あたしは別で行く。慎吾を連れてな」
「え、俺?」
慎吾が目を瞬かせた。
「そうか。俺は行ってくるよ」
「健ちゃん、私もいっしょに行くよ」
千宥が申し出た。
「あ、すまんね。確かに両手ふさがるな」
健介がそう言って、千宥と連れ立って、確保したスペースを抜けた。それを見届け、茉衣子も立ち上がった。
「よし、あたしらも今のうち行くぞ」
「え、マジで?」
「マジだよ。お前も付き合え」
慎吾はやや渋々という感じで立ち上がった。
健介は笑ってから、屋台の方へ向かいかけ、ふと立ち止まる。浴衣の裾を気にしてぎこちなく歩く千宥に、自然に手を差し出していた。
「あ、ありがと」
千宥はわずかに袖口を寄せ、健介の手を借りて一歩、二歩。祭りの喧騒に紛れるほど小さな所作。けれど、健介はドギマギしていた。わかっている。わかっているはずなのだ。千宥が男だってこと。……いや、正直なところ、体を見たことないのだから、嘘かもしれない。それ以前に、頭でそうわかっていても、なんだかドキドキする。なんだ?改めて、こいつ、なんだ?服装や髪型以上の何かを感じずにはいられない。
屋台の列は長かった。列に並び、立ち止まったところで、千宥の手を離した。健介は靴紐を結び、一旦頭から千宥のことが離れたため、ちょっとだけ、他のことを考える余裕ができた。炭のはぜる音、油が弾ける音。おいしそうな食べ物の匂い。そして、ふと視界の端に、見覚えのある横顔が掠めた。
――姉ちゃん。
健介の姉・有希乃は、彼女の友人であり、健介達にとっては通っている高校の先生でもある泉麻里花と北御門結唯と一緒にいた。三人とも人混みに馴れている歩き方で、列の切れ目をするすると縫っていく。有希乃がこちらに気づいて、軽く顎を上げる。もちろん、今日、お互いに行くことは知っていた。改めて誰と行くのかすら確認していなかったが、お互い、「どうせいつもの人たちでしょ」ぐらいに思っていたし、実際問題そうだった。……有希乃に関して言えば、先月彼氏と別れたそうなので、もう彼女達しか思いつきようがなかった。
(やっぱ、泉さんたちとだよな)
健介は軽くうなずく。互いに何も言わないで、それぞれの列に戻る。祭りの夜は、そういう距離の取り方を許す。
一方その頃、茉衣子と慎吾も別行動で飲み物を買いに行った。お互い、話題を探っている感じである。
「茉衣子ちゃんってさ」
不意に慎吾が口を開いた。
「なんだ?」
「沖縄いたんだろ? 海とか見慣れてんの?」
「あー、まあな」
「へえ」
会話はそこで終わった。茉衣子は横目で慎吾を見る。ちょっと口が重そうにしている。
(お前が振ったんだろうが)
そう思ったが口には出さない。しかし、また時間差で慎吾が口を開く。
「まあ、こっちの海はショボいからな。沖縄の海、きれいだろうな」
「……まあな」
この「間」が茉衣子にはやや理解できなかったが、話を続けるようなので乗ってやることにした。
「茉衣子ちゃんも、そんな海が綺麗なところで育ったんだな」
「あたしの地元、そんな海ねえけど」
茉衣子は那覇市の中でも首里という、割と内陸の育ちなので、海に慣れ親しんだわけではない。……第一、沖縄県民は他県民が思っているほど、海で遊ばない。
「ああ、そう」
今度は茉衣子の方から話題を切られたので、本格的に慎吾も黙り込む。
列に並ぶが、会話もないこの時間が、異常に長く感じた。そして、長い時間の末、慎吾はコーラ、茉衣子はラムネを購入した。
「あ、俺出すよ」
「……いいよ別に。あたしだって父ちゃんから軍資金もらってんだ」
「お、おう……」
なんというか、けんもほろろだ。しかし、帰ろうとしたところで、慎吾が負けじとばかりに、新たな話題をふることにした。
「そういやさ」
「おう」
茉衣子は一瞬だけ足を止め、慎吾の方を振り向いた。
「千宥ちゃんって、浴衣とか着るの初めてなんかな」
「……さあな」
しかし、一瞬だけ顔を戻した。また千宥かよ。
「いや、なんか緊張してたじゃん。下駄も慣れてなさそうだったし」
「そうかもな」
「けど似合ってたよな」
慎吾は悪びれもなく笑う。茉衣子は無言のまま歩いた。せっかく二人で来ているのに。沖縄の話も続かず。結局、話題はまた千宥だった。
戻る途中、慎吾はふと首を傾げる。
「茉衣子ちゃん、なんか機嫌悪い?」
「別に」
即答だった。本当はめちゃくちゃ悪い。ただ、説明をするのも面倒だった。だから茉衣子は歩幅だけ少し速めた。慎吾は理由も分からないまま、その後ろを追いかけた。
「お待たせ」
戻ると、雛灯が氷をカラカラ鳴らして両手でコップを受け取った。
「助かるー!この人の波、熱気やばい」
大上も一息にスポーツドリンクを飲み、ふぅ、と満足そうに息を漏らす。千宥も健介と一緒に並んで買ったコーラを口に運び、ほっと肩の力を抜いた。帯の結び目が、わずかに呼吸に合わせて揺れる。
次の瞬間、花火の試し打ちがひゅう、と空気を切る。誰かの歓声、誰かの息を呑む気配。音が遅れて降ってくる。少し遅れて胸に届く重低音は、鼓膜だけではなく、全身に響き渡る。光は先に見えるのに、音は周囲の建物や山肌に跳ね返ってからやって来る。健介は中学の理科の授業を思い出す。知識としては知っていても、なんだか不思議だ。
「ただいま」
茉衣子の声である。
「おかえり!ねえねえ、茉衣子ちゃん。何買ったの?」
玉井が声をかける。
「ラムネだ。絢那とおそろ」
「わー、ほんとだ。ねえねえ、ビー玉は?」
「後で取り出すに決まってんだろ」
慎吾はしばらくコーラのペットボトル片手に突っ立っていた。茉衣子は、慎吾との空気が悪かったことなど、何もなかったかのように玉井と談笑している。それを見届けて、やがて、さりげなく千宥の隣に腰を下ろした。
風向きが時々くるりと回って、香ばしいやきそばやらとうもろこしの匂いに、火薬の甘い匂いが折り重なった。その次の瞬間だ。マイクのハウリングの音が場内に響き渡る。
「えー、皆様。本日は年に一度の春若大花火にようこそおいでいただきました」
商工会の職員らしきおじさんの声で場内アナウンスが鳴る。挨拶やらスポンサーの紹介やら、何分間か放送が続く。
「しばしの間、お楽しみいただければと思います。それでは、春若大花火、ただいま開幕です!」
場内から拍手が鳴り、その瞬間、最初の花火が打ち上がる音がした。その音を合図に場内が一瞬静まる。そして、金色の粉が夜空に舞い散った。場内から拍手が湧き起こる。
「始まった!」
玉井が跳ねる。雛灯も目を丸くする。茉衣子はうちわを膝に伏せ、顔を上げた。光が瞳の中で弾ける。慎吾は、茉衣子の横顔を一秒、千宥の横顔を二秒、そしてまた前を三秒見た。
大きな尺玉が続けて上がる。海面が一瞬だけ昼のように明るくなって、すぐに夜へ戻る。潮の匂いが少し濃くなる。白い煙が風に流れ、屋台の灯りが滲む。
「大丈夫か?きつくない?」
健介が小声で聞くと、千宥は首を横に振った。
「大丈夫。……ありがとう」
言葉はそれだけで、けれど声の端に、相手にしか伝わらない温度が宿る。
「きれいだなあ」
慎吾が、茉衣子に視線を落とす。
その時だった。
「ごめん、私トイレ行ってくる!」
雛灯が立ち上がった。
「じゃ、あたしも。はぐれるなよ」
茉衣子が雛灯の手を取って、人の波に溶けていく。浴衣の帯が夜に揺れる。
「……今かよ」
慎吾の呟きは、次の花火の音に飲まれた。残された健介は、少しだけ身体をずらして座り直し、ため息をついた。
雛灯と茉衣子が戻るまでの間、玉井と大上が空気を繋いだ。
「見て見て、あの金色のやつ!」
「あれ柳っていうやつか? 燃え尽きるまで落ちてく感じ」
「違うよ、多分錦冠。パンフに書いてた」
「パンフ読んでんのか、お前は」
軽口が往復する。笑い声が一つ跳ねて、煙にまぎれる。
やがて、雛灯と茉衣子が戻ってきた。
「ごめん、ごめん。混んでた」
「女子側が長蛇の列でさ」
「あー、そうなるよね」
玉井がうなずく。千宥もすぐそばで聞いていたのだが、コメントできず、帯の結び目をそっと直してから、視線を前へ戻した。
港の上空に、次々と花火が上がった。白、紅、紫、緑。火の粉が落ちて、煙が流れていく。風向きが変わって、潮と火薬の匂いが混じる。健介は思わず見とれていた。音が胸に響いて、思考が消えていく。ふと隣を見ると、千宥が少し口を開けて空を見上げていた。光が頬を照らして、瞳に反射している。
(……すげえな)
ただその光景が、なんとなく印象に残った。そこに特別な感情があったわけではない。けれど、心のどこかに小さく刻まれた。
少し離れた場所で、茉衣子が雛灯に何か言って笑っていた。その笑い方は、いつものように明るいはずなのに、どこか引っかかる。反対隣の慎吾はその様子を見て、何か言いかけて――やめた。そして、無意識のように、また千宥の方を見た。茉衣子の笑みが一瞬、薄れる。花火の明かりが陰になった瞬間、ほんのわずかに眉が動いた。だが次の閃光が夜を照らす頃には、また元の表情に戻っていた。
「お、連発だな」
大上が声を上げた。金色の光が空いっぱいに広がり、港の水面に映る。
「すごーい!」
玉井が拍手をする。雛灯も笑っている。
(こういうの、悪くないな)
健介はそう思った。中学の頃までは、人混みやこういう賑やかさが苦手だった。けれど今は、誰かと一緒にいるというだけで、少しだけ落ち着く。
「千宥、浴衣暑くない?」
「ううん、大丈夫。風があるから」
「そっか」
他愛もない会話。けれどその間に、慎吾の視線が再び千宥へ流れる。
「……慎吾、お前、花火見てるか?」
茉衣子が少し冷たく言った。
「え? ああ、もちろん見てるって」
「ならいいけど」
茉衣子はうちわで軽く風を送りながら、視線をそらす。慎吾は何か言おうとしたが、花火の音がかき消した。健介はその会話を耳の端で聞いたが、深くは考えなかった。なんとなく空気が重いような気はした。けれど、花火の音が全部を包み込んでしまう。港の奥から、一際大きな光が打ち上がる。空の半分を覆うような連発。歓声がどっと上がる。
「きれい」
千宥が呟いた。
「金色の雨みたい」
玉井も感想を述べた。
「だな」
健介はそれだけで十分だった。
花火が終わる頃、風が少し冷たくなった。潮の匂いが静かに戻り、屋台の灯りがまた目立ちはじめる。人の波が緩やかに動き出し、誰かが「帰ろう」と言った。
茉衣子は歩きはじめる時、慎吾の方を見なかった。雛灯が気を利かせて先に歩き出す。玉井が大上に腕を引かれて、その後を追う。健介は千宥に声をかけた。
「行こうか」
「うん」
彼らが歩き出した後、慎吾が遅れて歩き出した。顔を上げた時、花火の煙がまだ少し残っていた。目の前に広がるその白い靄の向こうに、茉衣子の後ろ姿が見えた。慎吾は何も言わずに、そのままついて行った。
人込みは、おおよそ出口まで流れていってはいるが、動きは悪かった。屋台の明かりが点々と続いて、甘い匂いと油の匂いが次々と押し寄せる。港の水面は黒く、さっきまでの明るさが嘘のようだった。
「こっち、空いてる」
雛灯が人垣の隙間を見つけて先導する。大上は玉井の手首を軽くつかんだ。はぐれそうに見えるときだけ、そっと引く。
「う、下駄、ちょっと痛いかも」
千宥が立ち止まった。健介は反射的に歩幅を落として、千宥の足元を見た。鼻緒の当たるあたりが少し赤い。
「いったん避けよう。あっち、堤防沿いの柵の切れ目」
人波から一歩退くと、風が通った。潮の匂いが強くなる。
「指、貸して。足、ここに乗せて」
健介がしゃがむと、千宥はためらってから、下駄を半分だけ脱いで鼻緒の角度を直した。
「ありがと。……大丈夫」
指先に砂がつく。夏がまだ手の中に残っている感じがした。
「千宥ちゃん、絆創膏なら持ってる。貼っとく?」
玉井が鞄をごそごそやって、小さなポーチを掲げる。
「ううん、今は平気。歩幅、ちょっと小さくする」
そのやり取りの終わり際、慎吾が近づいてきた。
「千宥ちゃん、無理すんなよ。肩、貸そうか?もしくは荷物持とうか?」
「大丈夫。ありがと」
慎吾は一拍遅れて微笑んだが、その視線は千宥の足元から離れない。茉衣子は、鼻で笑った。
「慎吾、荷物持つなら、ひなの持ってやれよ。お前の妹、重そうにしてるぜ」
「え、あ、うん……」
雛灯が苦笑いで袋を差し出し、慎吾は受け取る。持ち替える指先が、少しぎこちない。
「わたあめ、食べてく?」
玉井が目を輝かせる。
「……難しいかもな」
大上が答えた。
「今ここで買うと、さらに動けなくなる」
健介も同意した。人の波はまだ収束の気配を見せない。
「そっかあ……」
玉井は残念そうだ。
屋台通りの切れ目で、ばったり視線が合った。
「健介」
有希乃が手を軽く上げる。泉と結唯が後ろにいる。「推し」の先生を見つけた茉衣子と慎吾は、早速それぞれに駆け寄った。
「あ、ゆい先生!浴衣なんだ。かわいい!」
「あ、ありがとう、古波蔵さん」
結唯はなんだか照れている。
「泉先生も、すごくきれいだよ」
「あら、慎吾ちゃんありがとう」
泉はおっとりしつつも、年上の余裕を感じさせる。微妙な空気が一瞬だけ変わり、緊張がほどけた。それを尻目に、有希乃が弟に声をかけた。
「そっち、見えた?」
「ああ。友達が割といい場所見つけてな」
「ならよし。あんた、こんな大人数で来てたんだね。リア充め」
有希乃が弟に毒づくが、その弟の友人グループを一瞥し、千宥を見つけ、ぱっと口調が切り替わる。
「あ、千宥ちゃん、浴衣似合ってる」
「ありがとうございます」
千宥は小さく会釈した。
「じゃ、私は大門で飲んで帰るから。じゃ」
「ごめんねー、また二学期ね」
「遅くならないようにね」
そう言って回れ右した有希乃に続いて、泉と結唯も生徒たちに笑顔を向けた。三人は行きつけの居酒屋がある大門商店街へ行くらしく、一足先に出口方向へ消えると、空気がまた元に戻った。
「唐人町ターミナル行き、臨時便出てるっぽい」
雛灯がスマホを覗き込みつつ言った。
「まじか。どうせなら鰻島行きの臨時便が出たらいいのに」
慎吾がため息をつく。
「無茶言いなさんな」
この兄妹はこれから、市街地のバスターミナルでバスを乗り継ぎ、鰻島行きなどの便で南町まで帰宅することになる。
「俺らもそのバスで帰るか」
健介も同調した。アネックス組の最寄りバス停の「栄久校下」も市内便の途中にある。
「おう、そっか。走るか?」
慎吾が言った。
「走らねえよ。あたしら、浴衣と下駄だぞ」
茉衣子はぴしゃりと言った。
「そっすか」
慎吾の口調が重くなる。歩調はゆっくりに、会話は途切れ途切れになってきた。大上がときどき背中越しに振り返って、全員の顔を確認する。
「そういや、大上はバスじゃないだろ」
健介が不審そうに言った。
「親に連絡したら、バス通りまで出て来いって」
会場までは道が狭いうえに人が多いため、確かに乗り入れは現実的ではない。
「そっか。玉井は?」
「絢那は一回おじいちゃんのとこいくから、樋口くんたちと一緒!」
健介の質問に玉井が答える。
「茉衣子ちゃん、さっき――」
慎吾が口を開く。
「なんだ?」
食い気味に返事が来る。刺々しい声だ。
「いや、その……花火、どうだった?毎年来てるんだろ」
「ああ、今年もよかったよ。まだ三回目だけどな。今年は風がこっちきてて、ちょっと煙たかったな」
「そ、そっか。……千宥ちゃんは?」
「きれいだった。私、花火大会ってあんまり行ったことなくて」
千宥は苦笑しながら答えた。
「そだな」
茉衣子は視線を前に向けたまま、頷きもしない。
人波が段差に差し掛かる。誰かが転ばないように、係員がロープの向こうで「足元、段差あります。お気を付けください」と繰り返す。健介は千宥の手首の高さに合わせて、歩幅を小さくした。
「大丈夫?千宥ちゃん。転ばないようにな」
「うん、ごめんね。慎吾くん」
その瞬間、茉衣子のうちわがぴたりと止まった。慎吾を睨むような視線だった。
会場最寄りの前浜バス停は、春若港から春若川の河口にかかる橋を渡った先の県道沿いにある。行き交う人と車で、なんだか気温が高いように感じる。
前浜橋の欄干には、臨時便の紙看板がガムテープで留められている。会場の敷地を出たところなので、もう周りはなんの変哲もない住宅地、そして歩道もないような狭い道だが、そこに不釣り合いな長蛇の列となっている。
「この先が最後尾っぽいな」
健介が言うと、雛灯が小さく頷いた。
「市内方面臨時便ありって書いてあるね」
「臨時で出てるなら、すぐ来るだろ」
慎吾がそう言ったが、列の動きは鈍い。
浴衣姿の人々がゆっくりと間を詰めては止まり、前浜橋の欄干の灯が淡くその頭上を照らした。
「悪い、ちょっと」
大上が少し後ろから声をかける。
「迎え、もう来てた」
橋のたもとには、待ち合わせの車が数台ハザードを点けていた。その中に大上家の車があるのだろう。
「そっか。じゃあな」
健介が言うと、大上は軽く手を上げた。
「おう。また」
「また学校でね」
「お、おう」
玉井が声を掛けると、ちょっと大上の顔が緩んだような気がした。七人は六人になった。
列が少しずつ進む。
「暑いね……でも花火のときよりマシか」
雛灯がうちわで風を送る。
「屋台でわたあめ買えなかった……」
玉井がぼやく。
「来てすぐ買わないから」
健介が笑った。
「屋台しまっちゃうの早すぎ……」
茉衣子はそのやり取りに苦笑しつつ、下駄の鼻緒を指で整えた。
ようやく前浜バス停が見えてきた。
「臨時便、久世・宮川経由、唐人町行きでーす」
係員が声を張り上げる。
車体の側面には「春若大花火臨時」の紙が貼られている。
ドアが開くと、車内の空調の冷気が押し寄せてきた。
「ほら、早く乗れ」
慎吾が妹の背を軽く押した。
茉衣子と千宥、玉井、健介が続いた。
車内はすでに満席に近く、立ち客が吊革を握っている。しかし、中程にわずかに空きがあった。
「あ、席みっけ。早いもん勝ち!」
誰も何も言っていないのに、茉衣子が早足で着席する。
「千宥も座れよ」
健介が千宥に茉衣子の隣を促す。
「ありがとう」
「いいって」
健介と慎吾、雛灯、それに玉井は二人が座る横に群がって立った。
吊革は冷房に当てられ冷たく、座席は微かにビニールの匂いがした。広告枠には、塾の夏期講習のポスターと、地元クリニックの張り紙。
雛灯の鞄が走行のたびに膝へ寄って、慎吾はそれを戻す癖みたいな動作を三度繰り返した。茉衣子は、窓に映る自分の顔を一瞬だけ見て、そこから視線を外す。千宥の帯の結び目が、息を吸うたびにわずかに上がって下がる。健介は、その上下を数えるのをやめて、車外の暗さへ目を移した。
「出発しまーす」
運転士の声とともに、車体が揺れた。町が遠ざかり、住宅街の谷間に差し掛かったところで、街灯もなくなりあたりが暗くなった。
「花火、終わっちゃったね」
玉井が窓の外を見ながら言う。
「もう夏も終わる」
健介がぼそりと呟いた。
「まだ宿題終わってないけどな」
茉衣子が笑う。
「お、大丈夫?茉衣子ちゃん終わる?」
慎吾が苦笑した。茉衣子のまぶたが一瞬だけ動いた。
視線は前を向いたまま、表情は崩れない。
バスは春若川を渡り、ショッピングモールの脇を通る。ここまでくると、さっきまでの花火の賑わいが嘘のように日常に戻ってきた。
「次は〜栄久校下〜」
アナウンスが流れる。健介は進行方向を一瞥した。もう、いつもの景色だ。
「俺らここだな」
「うん」
千宥も小さく頷いた。
「じゃ、またね」
玉井が雛灯に手を振る。
「うん、また!」
雛灯が笑って返す。慎吾は軽く手を上げただけだった。バスが停まり、ドアが開く。夜風が一気に吹き込み、車内の熱気を押し出す。健介たちは順に降りた。振り返ると、雛灯が窓の奥から手を振っている。その後ろで、慎吾の表情はほとんど見えなかった。
栄久校下バス停で降りると、周囲はいっそう静かだった。アネックスは、もうすぐそこだ。歩いて二分。けれど四人の足は、祭りの後みたいに自然とゆっくりになった。
「わたあめ……結局、買い損ねた」
玉井が名残惜しそうに空を見上げる。
「まだ言ってるのかよ。明日飴でも買ったら」
「そういうんじゃないもん……」
健介の適当な返しに、玉井は頬を膨らませた。アパートの外灯が見えてきたところで、茉衣子がふっと息を吐いた。
「……さ、帰る前にちょっとだけ」
入口脇の庇の下、郵便受けの前で四人が止まる。虫の音が近い。
茉衣子はうちわを指でぱちんと叩くと、視線を宙に外したまま言った。
「慎吾ってさ。今日も、ずっと千宥ばっか見てたよな」
千宥は苦笑して肩をすくめる。
「そうかな」
「そう。話しかけても『ああ』とか『ふーん』で流される感じ。二人に話振っといて、途中から片方だけ見てる、みたいなさ。前から何回かあったろ?今日も、あんなん」
健介は、少し遅れて頷いた。さっきのバスの中のやり取りを思い出す。
(たしかに、返事は薄かったかも)
茉衣子は続ける。言葉は強くないが、温度が低い。
「この前のさ、海。千宥来ないって分かった途端、あいつ、明らかにつまんなそうだったじゃん。なんとなくずっと、ぼーっとしてて。ひなが話しかけても、どっか上の空。……なんか、あたし、そこで冷めたわ」
「そういえば」
玉井が首をかしげる。
「慎吾くん、写真もあんまり撮ってなかったよね」
「そう、ノリ悪かった。いや、海自体は楽しんでたかもだけどさ。人に向く目が、偏ってる」
玉井も同調していたが、健介はなんとなく「そうかなあ」と思いつつ耳を傾けていた。もっとも、こういう時、茉衣子に口を挟んでもろくなことにならないので、ただ黙って聞いているのだが。
(あいつ、前、茉衣子のこといいって言ってたけどな)
千宥は困ったように笑って、正面の暗がりを見た。
「私、別に普通に喋ってるだけなんだけど……ごめん」
「千宥が謝ることじゃねえよ」
茉衣子は即答した。
「千宥は悪くない。ただ、あたしがなんか『置いてかれてる』感じが嫌なだけだよ」
健介は、茉衣子の顔色を読む。怒っているというより、振り返るような感じの声だ。
「前にも言ってたよね」
玉井が補う。
「終業式の後だったかあ、『途中から放置された感』って」
「うん。今日で何回目だ。同じパターン。たまたまじゃないだろ、これ」
茉衣子は帯の端を無意識に撫でた。健介は口を開きかけ、やめた。
(慎吾に悪気はないとは思うけどな。けど、見てる先は、確かに偏ってた)
言葉にすると、どれも角が立ちそうで、喉の奥でほどけない。
「私のこと、珍しいのかもね。……でも、珍しいって疲れるよ。私も」
千宥が静かに言う。茉衣子は短くため息をつく。
「別に、慎吾と仲良くするなとか言わねえよ。ひなの兄ちゃんだし、良いとこも多分いっぱいあるし。……ただ、あたしは、今日ので『ああ、やっぱ無理』って、ちょっと思った。今のままなら」
言い切ってから、視線を外灯に上げる。
「以上。愚痴、おわり」
しばし沈黙が流れる。もう、解散の音頭でもとろうかと健介が口を開く直前、先に千宥が喋り始めた。
「え、えっと。でも、花火は綺麗だったよね」
「まあ、それは間違いないな」
ようやくちょっと溜飲が下がった茉衣子が鼻を鳴らす。
「千宥ちゃん、初めてだったんだよね。樋口くんも?」
「まあ、初めてみたいなもんだよ」
「どうだった?絢那たちの浴衣姿」
玉井が身を乗り出す。なかなか厳しい質問だ。女の子のファッションを褒め慣れていない。
「まあ、可愛いと思う。あと、なんていうか、新鮮だな」
「うんうん。いいよね、非日常。樋口くん達も浴衣着ればよかったのに」
玉井的には及第点のコメントだったらしくほっとする。
「持ってねえんだよな」
「買えよお。千宥は買ったんだぞ」
茉衣子が口を挟む。
「俺と千宥じゃ、わけが違うだろ。千宥、どうだった?浴衣」
「うーん、楽しかったけど、下駄が大変だったかな」
「あー、なんか痛くなってたもんな。やっぱり浴衣嫌か?」
誘った当人の茉衣子が少し眉を顰める。
「ううん、まだ慣れないから。こういうの、慣れていかないとね。来年も……」
「そっか。じゃ、また来年だな。健介は来年は浴衣な」
「俺は来年も行くの、決定なんですか……」
「たりめえだ。チーム・アネックスはマストだ。だから、ここ四人はマストだぞ」
「玉井も入ってんだな、チーム・アネックス」
「入ってるぞ。101枠で」
101号室は玉井の祖父でアネックスの大家の根〆昭信の部屋である。
「……初耳だな。なんでもいいけど」
ツッコミを畳み掛ける健介に、千宥がくすくす笑う。
「遅くなるし、そろそろ解散しようか。玉ちゃんはお家に帰らなきゃでしょ」
「そうだね。じゃ、今日は解散!わたあめは来年リベンジで!」
「そこ引っ張るのかよ」
健介が笑い、千宥もつられて笑う。
宣言の後、二階の千宥、同じ一階だが最も手前の101号室を訪れる玉井と別れ、奥の方、106号室の健介と107号の茉衣子の二人でしばらく歩く。しかし、ものの十五秒ほどで家の前まで辿り着いた。
「じゃ、おつかれ」
「おつかれー」
ドアが閉まる寸前、健介の頭の中に言葉が浮かんだ。
(――茉衣子、慎吾のこと、嫌いなんだな)
確信ではない。けれど、花火大会の様子と、今の茉衣子の訴えで、察した。共通の友人として、なんだか面倒なことに巻き込まれる気する。まだ姉も帰らぬ一人きりの106号室の灯りをつけながら、健介は顔をしかめた。




