第5話 兄との再会、姉との出会い
こう見えて作者も昔はキャラクター画像をへたくそな手描きで描いていたものですが、私が自分で描いたのより、AIに描いてもらったののほうが、似るんですよね、この兄妹?姉妹?は。
ちなみに、本文を制作したチャットで、この完成品を見せたところ、AI依存率をAI自身が割り出してくれました。
ほぼそのまま使用:30〜35%
AI文をベースに改稿:30〜35%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:30〜40%
数日前、夏休みに入って少し経った頃のことだった。
杠千宥のもとに、古波蔵茉衣子からメッセージが届いた。
『ちひろ〜!海行こうぜ!』
『え、海かぁ……』
千宥は正直、あまり気が進まなかった。
『たぶん今回はやめとくね。泳ぐんでしょ?』
『もちろんっ。あたし沖縄いたときは海水浴とかしなかったんだけど、こっち来てから毎年めっちゃ楽しみさ!』
楽しそうな文面が、かえって胸に刺さる。
『うん…でも、今回はいいや。ごめん』
『脱ぐの、ちょっと抵抗あるか?』
『それもあるけど…更衣室、入れそうにないかも』
『そっかぁ…』
そして、既読表示の十秒ほど後に、茉衣子から「了解!」と貝のスタンプが送られてきた。千宥も「ごめんなさい」のスタンプを返した。
──今日が、その海水浴の日だ。
昼下がり。みんなは今ごろ、思いきりはしゃいでいる頃だろう。その後、茉衣子から、目的地は朝長慎吾と雛灯の地元である高宮市南町の宮ヶ浜海水浴場だと聞いた。茉衣子、それに朝長兄妹のほかに、玉井絢那、樋口健介、大上茂も一緒だという。ちなみに、健介は、当人から聞いたところによると、茉衣子ではなく慎吾経由で誘われたらしい。本当に、楽しそうな顔ぶれだ。欠席しているのが心苦しくなるような面子だと、千宥は心底思う。
「……でも私は、ダメだもんね。」
ぽつりと、つぶやいた。それは誰に聞かせるでもない、そんな声量だったが、一人静かな部屋へと溶け込んでいった。
アパートの外では、じりじりと照りつける日差しの中で、蝉がただひたすら鳴いていた。カーテンの隙間からこぼれる光が、室内の床を淡く照らしていた。千宥はソファに腰を下ろし、冷蔵庫から取り出した麦茶を口に運ぶ。喉が渇いていて、いくらでも入るようだったが、ちょっと頭が痛くなりそうで、二杯でやめにした。
「……みんな、今ごろ楽しんでるのかな」
ぽつりとつぶやいたその瞬間、インターホンの音が静かな部屋に響いた。
「……誰だろ」
モニターに映ったのは、髪を肩のあたりで切りそろえた女性。顔はうつむき、陽の光に影が落ちている。宅配でもなさそうだし、鈴蘭の知り合いだろうかと考えながら、千宥は玄関へ向かった。ドアを開けると、そこに立っていたのは——見覚えのある、けれど少し背が伸びた少女だった。
「……つぐみ?」
驚きのあまり、思わず名前が口をついて出た。少女は一瞬、息をのむように顔を上げた。
「えっ、えっ……?」
千宥を見たその少女は、言葉が出ず、ただ戸惑うばかりだった。彼女は、信じられないというように千宥の顔を見つめた。しばらくその顔を見つめたあと、少し間をおいて、ようやく声を絞り出した。
「……お兄ちゃん」
外の蝉の声が、ひときわ大きく聞こえた。
「うん。……久しぶりだね」
杠二生は、久しぶりに高宮の街にやってきた。叔母一家が住んでいるため、かつては年に一、二度は訪れていたが、ここ一年半ほどは足が遠のいていた。——家族がこの街を避けるようになったからだ。その理由を思い出すだけでも、胸がざわざわする。今日は、初めて一人でこの街を訪れる。高宮行きの特急を終点のひとつ手前、山王駅で降り、慣れない乗り継ぎを経て、路面電車に乗り込んだ。混みあう車内で、電車と人の波に揺られながら、ようやく「大学病院前」とアナウンスされた電停の停車時に座席を見つけ、ふうと息をつく。疲れた。けれど、スマホの地図によれば目的地まではあと八つ、終点からも三つ手前。ここで眠るわけにはいかない。
中学三年生。本来なら英単語のひとつでも覚えておくべき時間なのだろう。だが、頭は別のことでいっぱいだった。無意識にスマホの画像フォルダーを開き、指で画面を上へとスワイプする。ずいぶん前の写真までさかのぼったとき、思わず小さくつぶやいた。
「……お兄ちゃん」
電車の走行音にかき消されるほどか細い声だったが、自分の耳にははっきり届いた。
二十分あまり後、電車は久世 栄久校下電停に到着した。ここからは歩いてすぐのはずだ。照りつける日差しの中、蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。手には小さなトートバッグひとつ。母が持たせた差し入れを入れた紙袋が、その中でかすかに揺れていた。
「……本当に、ここでいいのかな」
地図アプリを確認しても、どうにも実感がわかない。高宮の中でも「春若町」と呼ばれるこのあたりに来るのは初めてだった。兄がこの町に住んでいる——そう聞かされてから、ここに来る決心をするまでに、一か月かかった。
家を出て、もうすぐ一年。千宥が家を出た日のことを、二生は今でもよく覚えていた。あの日、塾から帰宅したとき、父・万寿美が母・千鶴に激昂していた。怒鳴り声と、何かを叩くような音。二生は恐怖を感じ、思わず自室へ逃げた。
夕食の時間になり、恐る恐る居間へ向かったが、そこでは誰も何も言わず、ただただ食卓の空気が重いばかりだった。箸を持つ手が震えたのを、今でも覚えている。
千宥が家を出たと聞いたのは、その日の夜遅くだった。従姉の田中丸鈴蘭に保護されたとのことで、居場所が分かりほっとした。しかし、家族の間では手放しで喜べない事情もあった。翌朝、父が出勤し、母と弟の三人だけになったとき、母が静かに告げた。
「しばらくは、千宥の話をしちゃダメよ。お父さん、すごくナーバスになってるの」
その言葉の意味を、当時は深く考えられなかった。ただ、「触れてはいけないこと」だけは理解した。……無理もない。あんな仕打ちをされたら、誰だって逃げたい。お父さんはやりすぎだと思う。だけど、私たちからは何も言えない。
それからというもの、千宥の話題は家の中で禁句になった。少なくとも、二生や弟からは、恐ろしくて口に出せず、母にすら続報を尋ねられなかった。
後で聞いた話では、鈴蘭がそのまま千宥を預かることになったらしい。理由は分からない。けれど父は、何度かこう口にした。
「千宥には、会うに及ばない」
そのたびに、胸の奥が締めつけられた。それでも、二生には納得できなかった。兄の声も、笑い方も、まだ鮮やかに覚えている。今どんな状態でいようと、もう一度話がしたかった。家ではその思いを口にすることもできず、だからこそ、こうして一人で来たのだ。住所は、鈴蘭の母——つまり叔母の田中丸三侃から教えてもらった。
「きっとびっくりすると思うけど、元気ではいるからね」
その時の叔母の言葉が、妙に印象に残っている。
アパートの前に着くと、蝉の鳴き声がいっそう大きくなった。門扉には「アネックス久世」と書かれている。築数年ほどの、よくある三階建てのアパート。窓辺に干された洗濯物が、そこにある生活を感じさせた。
二生は一度深呼吸し、階段を上る。心臓の鼓動がやけに早い。部屋番号を確かめ、震える指で207号室のインターホンを押した。
ピンポーン。
音が自分の胸の奥まで響くようだった。
ドアが開いた。
「……つぐみ?」
一年ぶりながら、変わらぬ声。思わず顔を上げた瞬間、視界に飛び込んできたのは、記憶にない「誰か」——肩まで髪を伸ばした女性の姿だった。知らない人だ、と思った。けれど、その女性は、まるで親しい人を呼ぶように自分の名前を口にした。
「えっ、えっ……?」
理解が追いつかない。喉が乾いて、声が出なかった。彼女をじっと見つめる。その瞳が、不思議と懐かしかった。はっと息をのんだ。もしかして、この人は——。長い髪、ピンクのゆったりとしたかわいらしいシャツ、薄手のキュロットスカート。どれも、思い描いていた姿とはまるで違う。けれど、声も、目元の優しさも、表情の端々も、確かにそうだった。そして、少し間をおいて、ようやく声を絞り出した。
「……お兄ちゃん」
千宥はキッチンに立ち、ティーポットに湯を注いだ。ふっと立ち上る湯気が、淡く揺れる。台所には、紅茶の香りが静かに広がっていった。
「そこ、暑くない? エアコン、強くしてもいいよ」
キッチンから声がする。
「う、ううん、大丈夫」
二生は少し慌てて答えた。どうしていいのか分からず、背筋をまっすぐに伸ばして座る。視線のやり場に困りながら、部屋をちらりと見渡した。兄の部屋、というより、どこか「女性の部屋」のようだった。……鈴蘭と同居しているのだから、当然なのかもしれないが。テーブルクロスは明るい色合いで、壁際の棚には淡い花柄のカップが並んでいる。カーテンの裾が、冷房の風にゆらゆらと揺れていた。手元の紙袋を見つめ、二生は思い出したように口を開く。
「……あの、これ。お母さんが持っていけって」
「ありがとう」
千宥は小さく微笑み、手を拭きながら受け取った。
「お母さんにも、ありがとうって伝えてね」
その言葉に、二生は一瞬だけ息をのむ。もう、兄にとって母親は、直接話すような関係ではないか、もしくは、もう自分をよその家の子だととらえているのだろうか?その真意はわかりかねるが、二生は急に寂しい気分になった。それでも、千宥の穏やかな声に、不思議と心が落ち着く。
「すぐお茶淹れるね」
そう言って、千宥は紅茶を淹れる。琥珀色の液面がカップの中で揺れ、湯気とともに甘い香りが漂う。
「紅茶なんて、久しぶりに淹れたな」
千宥が笑う。二生は、少し迷いながらも返した。
「……お兄ちゃん、前はコーヒーばっかだったよね」
「そうだったっけ?」
千宥はカップを持ちながら首をかしげ、少し考えるように目を細めた。
「でも、二生はコーヒー苦手だったよね。ミルク入れても飲めなかった」
「覚えてるんだ……」
「当たり前でしょ。妹のことだもん」
ふと、二生の唇の端が少しだけ緩んだ。その笑みは、懐かしい時間をほんの少し取り戻したようでもあった。
カップを二つ置き、千宥は二生の向かいに腰を下ろした。その仕草は、かつての兄らしさと、いまの彼女らしさが混ざり合っていた。そして、短い沈黙が落ちた。静寂を埋めるように、蝉の声だけが、部屋の中にまで響き渡っていた。
二生はカップを両手で包み込み、視線を落としたまま、口を開いた。
「……ここ、鈴蘭さんと一緒なんだよね?」
「うん。仕事があるから、昼はだいたいいないよ。今日も遅いと思う」
千宥はそう言って、ポットをそっと持ち上げた。
「もう少し飲む?」
「ううん、大丈夫」
そう答えてから、二生は少し間を置いた。
「学校って、どんなとこ?」
「自由な校風だよ。みんな優しい。友達もできたし、このアパートにも二人くらい同じ学校の子がいるの」
「……へえ。なんか、楽しそう」
「うん。いろいろあったけど、今は楽しいよ」
千宥の言葉は、穏やかで、それでいてどこか芯があった。二生はうなずきながらも、どこか落ち着かない。言いたいことはある。けれど、どう切り出せばいいのか分からない。
「……料理とか、してるの?」
「してるよ。鈴蘭さんが帰るの遅いから、だいたい私の担当」
「へえ……」
小さく相槌を打ちながら、二生は心の奥でずっと言い出せず引っかかる言葉を反芻する。
——どうして、そんな格好をしてるの?
その問いが喉まで出かかっては、また飲み込まれる。聞いたら、何かが壊れてしまうような気がした。
「……お母さん、お兄ちゃんのこと、多分心配してる」
ふと、別の言葉が先にこぼれた。
「お母さん?」
千宥は少しだけ目を見開き、それから柔らかく目を伏せた。
「そっか、そうだよね。家出た直後以来、会ってないからね。……お母さん、今日はなんて言って送り出したの?」
「……いっぱい話しておいでって。あとで聞かせてって」
「そっか……」
千宥は微笑んだ。その笑顔には、安心と、戸惑いが入り混じっていた。
少し沈黙が流れたあと、二生が口を開いた。
「お父さん、あれから全然変わらない」
「……うん」
千宥は小さくうなずき、それきり何も言わなかった。冷房の風が、ふたりのあいだを静かに流れていく。
「……私、お兄ちゃんの話、ずっとしちゃいけなかった」
千宥は顔を上げ、静かに言った。
「そっか。辛い思いさせたよね。……ごめん」
その声を聞いた瞬間、二生の胸の奥が少し緩んだ。
——ああ、やっぱり、声も、話し方も、お兄ちゃんだ。けれど、その「お兄ちゃん」は、いま目の前で長い髪を揺らしている。どこか現実感が薄く、夢の中のようだった。
「……あの」
二生は膝の上で手を握りしめた。そして、覚悟を決める、顔を上げる。
「あの……お兄ちゃんって、いま……その、女の人みたいにしてるけど……」
喉の奥が熱くなる。言葉を探しながら、やっと続けた。
「そういうふうに、していたいの?」
千宥は一瞬、言葉を失ったように見えた。それから、静かに微笑んだ。
「そうだね。……そうしていたい。こっちに来て、この格好になって、これが私なんだって思った」
その言葉は、不思議と落ち着いていて、どこにも後ろめたさがなかった。二生は視線を落とし、少しだけ考えるように唇を噛んだ。
「……びっくりしたよね」
恐る恐る聞く千宥に、二生も恐る恐る頷いた。
「……う、うん。でも、声も一緒だし、すぐにお兄ちゃんだって分かった。最初、びっくりしたけど……でも、ちゃんと会えてよかった」
千宥の頬が、ふっと緩んだ。
「そっか。ありがと」
その笑顔は、まぎれもなく「千宥」のものだった。二生は少し照れくさそうに視線をそらし、カップの底に残った紅茶を見つめた。蝉の声が少しだけ弱まり、窓の外の光がやわらぐ。部屋の空気は、最初に比べてずいぶん穏やかになっていた。
ガチャガチャ。玄関で鍵の開く音がした。
「ただいま~!」
思わず二人がそちらを振り向く。
「えっ、うそ……?」
千宥が目を丸くする。
「おー、本当だ! 二生来てるじゃん、久しぶり!」
ふんわりとパーマのかかったボブヘアに笑みを浮かべた丸々とした女性が、勢いよくリビングへ入ってきた。田中丸鈴蘭、二十五歳。先ほどから名前の挙がっていた、二人の従姉であり、千宥の現・保護者だ。
「す、鈴蘭さん……!」
二生が思わず立ち上がる。
「わー、会いたかったー!」
そのまま鈴蘭が勢いよく抱きつく。
「鈴蘭さん、苦しいってば」
「あはは、ごめんごめん。会わない間に二、三キロ増えちゃってさ」
屈託なく笑うその声に、部屋の空気が一気に明るくなる。
「……鈴蘭さん、帰ってきちゃったんだ」
千宥が半ばあきれ顔で言う。
「そりゃそうでしょ。二生が来たって聞いたら帰るに決まってるじゃん。どうせ平日で客も少ないし、残りの子たちで回せるからさ。こういうときこそ店長権限よ」
ブティック兼雑貨店「リリーベル」を経営する鈴蘭は、どうやら店を従業員に任せて早退してきたらしい。確かに「二生が来た」とはスマホで報告していたが、まさか本当に飛んでくるとは。その行動力に、千宥は半ば呆れ、半ば感心していた。
「まったく、相変わらずだね」
「でしょ? でもほら、せっかくだからお茶よりいいもん出そうよ。アイスある?」
鈴蘭の問いかけに千宥がうなずく。
「冷凍庫にあるよ。カップのやつ」
「オッケー! 二生、バニラとチョコ、どっち派?」
鈴蘭が冷蔵庫へと向かい、屈んで冷凍庫を開ける。
「えっ、あ……バニラで」
「了解! 千宥は?」
「私は……チョコかな」
「はいはい、即決えらい!」
鈴蘭は慣れた手つきで冷凍庫を開け、器とスプーンを取り出した。その背中を眺めながら、二生は不思議と安心感に包まれていた。この空間には、さっきまで感じていた「よそよそしさ」がほとんどなかった。鈴蘭の明るさが、兄妹の間に残る緊張をほぐしていく。
「鈴蘭さん、ほんと変わらないね」
「変わってないようで、ちゃんと年は取ってるのよ? 腰にくるわ、重い荷物」
「うちのお母さんみたいなこと言ってる!」
「うるさい、まだ二十五!」
そのやりとりに、千宥が思わず吹き出した。二生もつられて笑う。鈴蘭は二つのカップをテーブルに置きながら言った。
「ま、でもさ。こうして三人でそろうの、いつぶりかね?もう二年ぐらいか」
「そんなになるかな」
「なるよー。まあ、バタバタしてたからな。色々とね」
「……うん」
千宥は少し遠い目をした。やはり、その理由が自分自身という負い目はどうしてもあるのだ。笑い声がいったん途切れ、蝉の声がまた戻ってくる。その中で、鈴蘭が穏やかに言った。
「二生、今日ここに来たってことは、いろいろ話したいでしょ。もうちょっとゆっくりしていかない?」
鈴蘭がそう言って、三人分のアイスをテーブルに並べた。冷たい甘い香りが、紅茶の残り香に混じって漂う。
「……うん。やっぱりまだ、話したいことある」
二生はスプーンをいじりながら、遠慮がちに答えた。
「そっか。じゃあ、食べながら話そ」
鈴蘭がにっこり笑い、腰を下ろす。その表情に、二生の緊張が少しほぐれた。
最初は、他愛もない話だった。高宮の町のこと、春若栄久高校の制服がかわいいと評判なこと、春若駅前のパン屋のメロンパンが人気だということ、リリーベルもこのところ繁盛して手狭になったため今の広い店舗に移転したこと、それと千宥の高校入学を期にこの春若に移り住んだこと。
「……お兄ちゃん、そういう話、前は全然こんなに話しなかったのに」
「うん、まあ。実家では、こんなに親とは話せなかったもんね。ずっとビクビクしてたから」
千宥は苦笑しながら、カップの縁を指でなぞった。鈴蘭がフォローするように言う。
「で、こっち来て最初の頃は酷かったもんね。ほんと、しゃべらなかったもん。こっち来たときも、しばらくは『おはよう』すら言わなかったんだから」
「……ほんとに?」
二生が目を丸くする。
「そこまでじゃないよ……」
話を盛る鈴蘭に千宥は苦笑する。
「でも、ほんとに前より静かになっててね。でも、あたしんとこに置くって決まって、ちょっとした時だったかな。ある日、ふと笑ってくれたの。あのときの顔見て、あー、この子はもう大丈夫だなって思ったんだよね」
鈴蘭の声は冗談まじりだが、優しさがにじみ出ていた。二生はそれを聞いて、ほっとして自然と笑みが浮かんだ。
「ねえ、鈴蘭さん」
二生が少し顔を上げた。
「お兄ちゃん、どうして、今みたいになったの?」
鈴蘭は少し黙り、スプーンを置いた。「今みたいに」が何を指すのかは、鈴蘭にも容易にわかる。
「どうして、ね」
軽く息をついて、穏やかに続ける。
「色々考えたんだよ。こいつがあたしんとこ転がり込んで、あんたらのお父さんお母さんと話し合って、あたしが預かることになって。でも、なんだか沈んだ顔してるから、生き生きしてる顔が見たくてさ。そんで、考えたわけよ、あたしは」
二生は鈴蘭の方をじっと見て真剣だ。千宥は少々気まずそうに顔を伏せている。
「でさ、この子、前さ、うちに遊びに来て、女装したことあったじゃん」
「あ、そんなことしてたね……」
小学四年生の時、初めて女装した時のことまでは、実は二生も知っている。それ自体は、鈴蘭が面白がって、自分の子供の時の服を着せた、ただそれだけの他愛のない「遊び」だった。しかし、この時、冗談が通じない父親が激怒した。よって、千宥が鈴蘭以外の前で女装をしたのはそれが最初で最後だったのだが。そして、その後、鈴蘭の所に遊びに行くと、女装するという二人だけの秘密の遊びができていたのだ。しかし、前述の「家出」以降は、そんなことをできる状況でもメンタリティーでもなかったのである。ひとまず、「初めての女装」以降の件は伏せて、鈴蘭は話を進める。
「うん。そん時の事思い出してさ。……最初は私の思い付きだったんだけどね。軽い気持ちで『女の子やってみない?』って、言ったのよね。でも、そっから先は私もびっくりしたよ。無理して『男らしく』してた頃より、今の千宥の方がずっと自然。見てて安心するの。そういうもんよ。ねっ」
鈴蘭に肩を叩かれて、千宥は少し照れたように口を開いた。
「うん。……まあ、私を前から知ってる人からは受け入れてもらえるかわかんないけど、これが私だって思う。こうしている方が、今までの何倍も楽しい」
「鈴蘭さん、いろいろ助けてくれたんだね」
二生の目も、自然と細くなっていく。
「助けたっていうか、勝手に首突っ込んだだけ」
そう言って、笑いながらカップのアイスをすくう。外はまだ明るい。リビングの窓からは、午後の日差しが少し傾き、白いカーテンの影がゆらゆらと揺れている。時計の針はもう午後四時を過ぎていた。
「……あのね」
二生がぽつりとつぶやく。
「お母さんに、高宮行くって言ったら、怒られるって思ったんだけど、ちょっと泣きながら、『行ってきなさい』って言ってくれたの」
「そうなんだ」
千宥が優しくうなずく。それを聞いて、千宥もちょっとうるっときてしまった。
「『会っておいで』って。お父さんには言えなかったけど……お母さん、たぶん、ずっと気にしてたと思う」
「……そう、なんだね」
千宥は静かに目を伏せた。少しの沈黙が流れる。その空気を破るように、鈴蘭が明るい声を出した。
「よし、じゃあ今日は泊まってきなよ!」
「えっ……泊まる!?」
二生が驚いて目を丸くする。
「だってこの時間から福岡帰ったら遅くなるし。どうせ明日学校ないんでしょ?夏休みだもんね?」
「う、うん……」
「じゃあ決まり! 千宥、布団ある?」
「あるけど……いいの?」
千宥も戸惑ったように尋ねる。
「いいのいいの。あんたらのお母さんには私から電話するから」
鈴蘭はスマホを取り出した。
「もしもし?鈴蘭です。おひさ。おばちゃん元気?おじちゃんは相変わらず?うん、私も元気だよ。うん、そう、二生いるよ」
明るい声でそう言いながら、ちらりと千宥に目を向ける。
「うん、無事だってば。二生もこっちに電車で来れるようになって偉いよね。千宥の時より乗り換えめんどいのにさ。でね、今日はもう帰るのも遅くなっちゃうし、もしよかったら泊まって行かせてもいいかなーって」
受話口の向こうで、短い沈黙があった。すぐに鈴蘭が、少し穏やかに笑うような声で言う。
「うん、もちろん。千宥も一緒だよ。……大丈夫だってば。元気だよ。高宮来てから別人みたいに元気なんだから」
その言葉に、千宥の手がわずかに止まった。目線だけで鈴蘭を見ると、鈴蘭は軽く顎をしゃくってスマホを差し出す。
「お母さん、千宥と少し話したいって」
「……え?」
思わず声が漏れた。けれど、断る理由もなかった。胸の奥が激しくドキドキするのを感じながら、千宥はおそるおそるスマホを受け取った。
「……お母さん」
しばらく、向こうも息を呑む気配だけが伝わってきた。やがて、小さな声が返る。
「……千宥、なのね」
「うん。……ごめんね、心配かけて」
「……ううん。いいの。無事で……よかった」
それだけで、胸の奥が熱くなった。母の声は、かすかに震えているようだった。
「ちゃんと食べてるの? 元気にしてる?」
「うん。鈴蘭さんが、いろいろしてくれてる。……学校も楽しいよ」
「そう……なら、よかった」
短い沈黙が流れる。お互い、何を言えばいいのか分からないまま、ただその声を確かめるように呼吸を合わせた。やがて、母が小さく息を吸い込んだ。
「……今度、もしできたらでいいの。直接じゃなくても、また話させてね」
「……うん」
言葉にできるのは、それだけだった。それでも、十分だった。ここで千宥は、鈴蘭にスマホを返却した。そのまま、鈴蘭は耳に当てる。
「ごめんね、まだ話さなくてよかった?」
「ありがとね、鈴蘭ちゃん。……じゃあ、二生をよろしくお願いします」
そう言って、母は通話を終えた。スマホをしまうと、鈴蘭がにっこり笑う。
「よかったじゃん、あの親父はともかく、お母さんは心配してるみたいじゃん」
「……うん」
千宥は小さく息を吐いた。
「まさか、お母さんと話すことになるなんて……」
「そりゃそうでしょ、私が電話したら千宥の話にならないはずないってば」
鈴蘭が軽く笑う。二生は黙って二人を見つめていたが、その目元にはほんのり涙の光があった。鈴蘭がパンと手を叩いた。
「はい、じゃあこれで一件落着!そろそろごはん行こっか」
「えっ、もう?」
「もうそろそろ五時だし。感動の再会の後なんだからお腹すいてきたでしょうよ。今日は外で食べよう。ごちそうごちそう。ねっ?」
「……うん」
二生が小さくうなずくと、千宥も笑顔を返した。
三人で部屋を出て、駐車場へ向かって歩きだした。夕方の陽が傾き、アスファルトの照り返しも少し和らいでいる。
そのとき、向こうから見慣れた三人組が歩いてきた。海水浴帰りの健介、茉衣子、玉井だった。アネックスに住む健介と茉衣子はもちろん、玉井も祖父の根〆昭信を訪れるものと推測できる。
「お、千宥じゃん!あ、鈴蘭さんだ、珍しい。やっほー!」
「茉衣子ちゃんだー!ちょっと今日は仕事早上がりだったんだ」
鈴蘭と茉衣子が笑いながらハイタッチを交わす。
「海からの帰り?」
「そうだぞー。ほんと来ればよかったのに!」
「あはは……」
複雑な事情があるだけに、返す言葉に少し困る。千宥が苦笑していると、健介が二生と鈴蘭に気づいた。
「千宥、その人たち、お姉さん?妹?あ、初めまして、樋口です」
「えっと……この人がね、私と一緒に住んでる従姉の――」
「田中丸鈴蘭です! 千宥と仲良しの男の子って君か!」
千宥が説明し終わらないうちに鈴蘭が割って入る。
「え、あ、仲良しって言うか、その……友達です……!」
突然の勢いに健介が少し照れ、千宥まで顔が赤くなる。
「で、こっちはほんとに妹なの。二生って言ってね」
「は、初めまして!杠二生です。……『姉』がお世話になってます!」
その言葉に、千宥は反射的にドキッとした。「姉」という響きに、微かに胸がざわつく。
「わあ、千宥ちゃんに似てる! かわいいね〜! いいなあ、遺伝子ちょうだい!」
玉井が目を輝かせる。
「絢那もかわいいぞー。あ、あたし古波蔵茉衣子! 自称千宥の大親友だから、よろしくな!」
「あたしは玉井絢那。ここの大家の孫だから仲良くしてね! 茉衣子ちゃんとも、樋口くんともね!」
「おいおい、お前ら、ぐいぐい行きすぎだって。困ってるだろ」
健介が苦笑混じりにフォローする。人見知りの二生は顔を真っ赤にして、うつむいたまま目を白黒させていた。
「よ、よろしくお願いします……」
「かわいいな〜!」
「やだー、絢那の妹になって!」
茉衣子と玉井が同時に声を上げる。
「茉衣子ちゃんも玉ちゃんも、あんまり脅かさないの!」
鈴蘭が笑いながら軽く肩を叩く。
「じゃ、私たちはこれからごはんなの。三人は海帰りでしょ? 帰ってシャワー浴びなよ」
「そうだなー。さすがにちょっとベタベタするわ」
茉衣子が苦笑する。
「また今度、ゆっくりな」
健介が軽く手を振る。
「うん。またね」
千宥がうなずく。
「絢那はおじいちゃんにお土産渡して帰る!二生ちゃんも、今度遊ぼうね!」
玉井が手を振り、茉衣子も続く。二生は戸惑いながらも、控えめに手を振り返した。三人が歩き去っていく。その背中を見送りながら、鈴蘭がぽつりと言った。
「なんか、あんたほんとにいい友達に恵まれてるね」
「うん……そうだね」
千宥の頬に、自然と笑みが浮かんだ。二生もあっけにとられているが、千宥の仲の良い友達という存在自体をあまり見たことなかっただけに、不思議なような、嬉しいような、そんな感覚だった。
「じゃ、行こっか。ごはんごはん!」
鈴蘭が車のキーを掲げて言う。
「うん!」
二生もようやく声を弾ませた。三人は車に乗り、ゆるやかに夕暮れの通りへ走り出した。橙色の光が背中に長い影を落とす。その影は、どこか家族のように寄り添っていた。姉、かあ。助手席でうつむきながら、千宥は先ほどの二生の言葉を反芻していた。
その後、食事を済ませ、ゆったりと一夜を過ごした。しかし、その日、二生が再び「姉」と呼ぶことはなく、千宥は少しだけ寂しく感じた。
翌朝、日曜日の空は、薄い雲がかかっていた。夏の朝にしては少しだけ涼しく、風がやわらかい。鈴蘭の軽自動車がアネックスの駐車場を出て、静かな住宅街を抜ける。助手席の千宥は、窓の外をぼんやり眺めていた。後部座席には二生。トートバッグを抱きしめたまま、少し緊張した面持ちで座っている。
「何時何分だっけ?」
「えっと、九時五十七分の『うみねこ』」
「よし、じゃあ間に合うね」
鈴蘭がミラー越しににっこり笑う。道路脇の緑が、風に揺れている。市内へと向かうちょっとした峠道を越えると、車窓は緑からコンクリートの白が主体となっていく。車内には、心地よい静けさが流れていた。ラジオはつけず、ただエアコンの音とタイヤの転がる音だけが響く。千宥はそっと目を閉じ、昨日の二生の言葉を思い返していた。
――「姉がお世話になってます!」
姉、かあ。その言葉を思い出すたび、胸の奥が少しくすぐったい。けれど、どこか遠い場所で、それが自分にぴたりと重なる気もしていた。
JR山王駅前に着く。駅は数年前に高架化されていて、千宥はあまりなじみはないが、かなり新しい駅舎であることは容易にわかる。駅舎の中にはICカードのタッチパネルを中央に置いた改札があり、すでに乗客が奥の方へ向かっていくのが見えた。鈴蘭が車をロータリーの端に停めた。
「ほら、着いたよ」
二生がドアを開け、立ち上がる。
「……お世話になりました」
「いえいえ、またいつでもおいで。次は泊まりじゃなくても、遊びにね」
「はい!」
鈴蘭が笑って手を振る。千宥も助手席から降りて、二生の前に立った。
「……気をつけてね」
「うん。楽しかった」
短い言葉に、昨日よりずっと柔らかい笑顔があった。二生がトートバッグを握り直し、少しだけ顔を上げた。
「お姉ちゃん、バイバイ!」
千宥は一瞬、言葉を失い、それから笑顔を浮かべて手を振った。
「うん……バイバイ」
二生が駅の中へと駆けていく。その小さな背中が改札の向こうに消えるまで、千宥は立ち尽くしていた。やがて鈴蘭が肩をぽんと叩いた。
「泣くなって。ちゃんと笑って送りなさい」
「泣いてないよ」
そう言いながら、千宥は小さく笑った。列車の汽笛が頭上の奥で鳴る。夏の空はもう、真昼のように明るかった。




