第3話 お姉さまの夜は時々かしましい
作者は言うほど「宅飲み」をしてこなかった人間なんですけどね。あと、前回登場した妙ちゃんもこの伊福先生も、実は作者が本当にお世話になった先生をモデルにしてます。超がつくほど盛っていますが。保健の泉先生は完全なイマジナリーです。
樋口健介のアネックス久世入居から一か月少々経過したある金曜日。放課後の帰りのホームルームでは、担任の伊福成芳が教卓の前に立ち、いつものように少し独特な調子で話し始めた。勤続四十年のベテラン教諭だ。あと二年で定年になるらしい。スキンヘッドがトレードマークだが、数日放置すると生え際が見えてくる。ちなみに、「てっぺん」はからっきしである。
教室が静まり返ると、伊福はしばらくみんなを見渡し、禿げ頭を輝かせながら、少し神妙な声で口を開いた。
「諸君、今日も一日お疲れ様でした。今日の昼休み、榊原先生――妙ちゃんと話していたんだ。今からじゅ……いや、ン年前、僕が彼女の担任だった時の思い出話をしてたんだ」
十数年前と言おうとして、言い直したらしい。あまり年増バラシすると怒られると踏んだようだ。
「今と違って、流石に制服は着てたんだが、キラキラなリボンを結んできたり、一度髪をピンクに染めてきたこともあった。そんな彼女も僕の出した英語の宿題だけは忘れたことはなかった。いいかい、よく聞きなさい。今日僕は君たちに宿題を出した。大体八割は出してくれるんだ。しかし、そうでない人もいるんだ。妙ちゃん、見てくれはハチャメチャだが、分かりやすい授業でみんなの人気者だ。それも学生時代の努力の賜物なんだ。宿題とか、その辺はちゃんとしておきなさい。そこさえ押さえておけば、なんだかんだで社会で活躍できるものだ。僕を信じなさい、八割合ってるから。心配するな!」
適当なようできちんとお説教し始めた伊福に教室はしんとなった。
「まあ、今はいない国語の岩永先生が、ぜんぜん宿題してこないって怒ってるの見たけどね、僕は。懐かしいなあ」
だめじゃん。教室は一気にずっこけた。伊福のユーモアは少し奇妙だ。
「わかったかね?この学校の先生たちは本当にいろんな人生を歩んできた。僕たちという生きた教科書から、君たちも一つぐらい学ぶといい。……以上!気をつけて帰りなさい」
帰りの挨拶を済ませ、教室を出たあと、廊下を歩きながら、健介、朝長慎吾、大上茂の三人は伊福について語り始めた。
「たこ福ってさ、授業でもこんな感じだよな。たまに何言ってんのか分からないっていうか」
健介が言った。伊福はそのたこを思わせる禿げ頭から、たこ福とあだ名されている。
「俺としてはさ、担当が英語、それも英文法でまだよかったと思うよ。文法とか発音とか、絶対的な答えがあるからまあいいけど、これが英文読解とか、他の教科だったらどうするよ。現代文なんか担当されたら、受験マジで終わる気がするんだけど」
慎吾が手を頭の後ろに組みながらニヤリとした。さすが、中間試験学年六位の男は言うことが違うな。中の下の健介と落第すれすれの大上は舌を巻いた。
「確かに、異次元から来たみたいな授業スタイルだもんな」
大上が静かに頷きながら答えた。
「でもさ、クラスによってはリーダーやってんだろ。実際どんなもんなんだろうな」
健介が素直な疑問を提示した。
「それは、茉衣子ちゃんか千宥ちゃんに聞いたらわかるんじゃねえか?七組はリーダーをやってたろ、たこ福」
「お前、何で他のクラスのそういう事情まで知ってんだ」
「あれ、言ってなかったっけ?七組、俺の妹いるんだけど」
「はあ??妹??俺ら一年生なんだけど。なんで妹が高校生してるんだ」
「双子だからだよ。あれ、これ、お前言ってなかったっけ?」
「……知らねえよ。お前双子なの?それも妹。兄妹揃って公立落ちたんだ」
茉衣子といい千宥といいこの慎吾といい、叩けばいくらでも複雑な新情報が出てくる。凡人代表の健介は、時折頭が痛くなる。
「まあ、それは否定しねえけど、あれ、大上、お前は俺の妹知ってるよな?」
「ああ、あの眼鏡の子だろ?」
「そうそう。めっちゃ陰キャ眼鏡って感じの」
「陰キャなの?お前の妹なのに?っていうか大上が知っててなんで俺が知らねえんだよ」
健介は何だか面白くない。
「いや、俺もわからん。大上と二人の時にその話したのかな。っていうか、そんな場面あったか?」
「俺は覚えてない」
大上は首を横に振る。
「だよなあ。まあ、千宥ちゃんを男だと知らなかったほどの情弱だからなあ。そんなことがあってもおかしくはないのかもしれんな」
健介にだけモヤモヤが残る締め方をされて、健介は歯を食いしばりながら慎吾を睨んでいた。
「ところで、健介、泉先生なんだけどさ……実際どうなんだよ?」
慎吾は急に話題を変えるように、健介の方を向き直った。
「どうって、どういう意味だよ」
健介は慎吾の意図を測りかねて少し困惑した表情を浮かべる。
「いやいや、言わなくても分かるだろ?あれからお前に会いに来たのかって話だよ」
慎吾がからかうように言うと、健介は苦笑しつつ、首を振った。
「お前、ほんと泉先生好きだな。ていうか、俺に会いに来たわけじゃねえよ。そうだなあ、その話をしてからはまだ家には来ないけど」
「俺だって一回くらい見てみたいんだよ。今度は俺も呼んでくれ!特等席でお出迎えだな」
「無理言うなよ。俺にも別に今日行くからとか予告はないんだよ。今の家に来てから一、二回は来たけどさ。すべては時の運なんだよ」
確かに、運ゲーだ。しかし、これまでの数少ない来訪歴から、一つの傾向に健介は気づいた。
「でも、これまで来たのは大体金曜なんだよ。今日だったら会えるかもよ」
もちろん、たった一、二回で傾向はつかみづらい。しかし、未成年の健介とて、大人はどちらかというと週末に飲む傾向があることだけはなんとなくわかる。実家があった頃、姉や両親を見ていればわかる。この「それっぽい」アドバイスに慎吾はなぜか頭を抱えた。
「今日かあ。無理なんだよ。家族同然で付き合ってる叔母がさあ、今度結婚することになっててな。俺ら一家も含めて家で飯食うことになったんだ」
慎吾はチャラい風貌に似合わないような田舎育ちだが、健介と大上はこの一言に朝長家の実情を垣間見た気がした。
「そっか。がんばれよ。泉さん来たら、俺の方でもてなしとくから」
「いんや、泉先生が今日来ないように願っていてくれ」
慎吾が悔しそうに眉をひそめた。
健介が学校から帰ってすぐに宿題を済ませてのんびりしていると、午後六時過ぎに姉・有希乃が帰宅したのに気づいた。それから五分ぐらいたち、居間に顔を出した。すると、大抵下着姿でゴロゴロしている有希乃が、服を着ていた。健介が珍しそうに見ていると、有希乃が言った。
「健介、今日、泉とゆいちゃんが来るから」
「えっ……今日来るの?急なんだよ、いつも」
健介が軽く抗議すると、有希乃はため息をついた。
「しょうがないじゃん。お互い別々の仕事してんだから、予定合う日がなかなかわかんないのよ。今日、泉たち、仕事が結構早く終わるって聞いたからさ。今日はさ、ピザとるから」
「それは別にいいけど。俺の分もあるんなら」
「悪いね。じゃ、注文するから。あんたも好きなの選びなよ」
「へいへい、俺はマルゲリータとかでいいよ」
それを聞くと、有希乃は笑顔でスマホを手に取り、ピザの注文を始めた。今日話をしたそばからこれかよ。健介は苦笑した。残念だったな、慎吾。
ピザが届いて間もなく、泉麻里花と北御門結唯が到着した。二人はいつも通り賑やかにリビングに入ってきた。泉は変わらずおっとりとした笑顔で、結唯は少し照れた様子で挨拶をしている。
「お邪魔しまーす!……って、ピザ取ったんだ。まだあったかい?」
「うんうん、さっき届いたばっか。ほんとタッチの差って感じよ」
有希乃が答えた。
「そうなんだ~。ちょうどいいタイミングねえ」
泉は嬉しそうにピザの箱を開けた。健介は手持ち無沙汰な様子で、テーブルに並べられたピザのそばに腰を下ろした。
「ゆきちゃん、お酒とおつまみ買ってきたの。何か飲みたいお酒ある?」
結唯がレジ袋を差し出した。泉と結唯が最初に新居に来たのは、転居からわずか五日だった。特に結唯は教え子当人がいる中、家に訪問するのをためらっていたものだが、早くも慣れてきて、嬉々として酒を購入し、持参している。
「ありがとう。でも私はまずビールかなあ。冷蔵庫で冷やしてたし。あと、なんかウチに置いてあるお酒、欲しかったら適当に注いでね」
有希乃は冷蔵庫からビールを持ち出して、テーブルについた。
「はい、じゃあ、みんなそろったね。じゃ、カンパーイ!」
「「カンパーイ」」
泉と結唯も続く。泉は「濃い目」と銘打たれたハイボールを、結唯はアルコール控えめのチューハイの缶をそれぞれ差し出した。健介も無言のまま、麦茶のコップをそっと合わせた。
有希乃がまずピザを手に取り、他の三人もそれに続いた。
「あー、ピザってたまに食べたくなるよね~。私、ベーコンのが一番好きかも」
結唯は少し照れくさそうにしながらも、子どものように目を輝かせてピザをほおばった。
「ごめんね、樋口くん。私たちはこの後もおつまみがあるから、樋口くんが多めに食べていいからね」
「健ちゃんだけはこれがご飯だもんね」
結唯と泉が健介にピザを食べるよう促した。
「うん、ごめん。俺は食ったら消えるから。俺がいたら邪魔でしょ」
「そんなことないよ~。健ちゃんともいっぱいお話ししたいな」
泉が健介に抱きついた。まだそんな飲んでないよな?そう考えつつも健介はどぎまぎしていた。泉はかなりふくよかな体つきだが、それでも男の憧れるものはしっかり備えている。要するに巨乳なのだ。これ、無いとは思うが慎吾にも抱きついたらどうなるんだろう。慎吾の奴、調子に乗りやすいから、ちんこの一本や二本、出しちゃうんじゃなかろうか?しょうもないことを考えながらも、健介はピザを食べる手が進んだ。
みんなであっという間にピザを食べ進める中、有希乃が席を立ってキッチンの方へ向かい、冷凍庫にスタンバイしていたロック用の氷の容器と冷やしていたワインを取り出してきた。
「さてさて、そろそろおつまみも並べて本格的に始めようかな~!」
有希乃が明るく宣言しながら栓を開けると、泉も結唯もわくわくした表情でおつまみを並べ、ワインのグラスを手にした。
健介はさらに居心地悪そうにしていたが、さっき自分があんなことを言ったばっかりに泉に手を握られているため、逃げられそうもなかった。
「ねえ、泉ちゃん、この前のあれ、覚えてる?あの妙子先生の話」
「うんうん、もちろん。あの時、私もびっくりしちゃって……。ね、ゆいちゃんもその場にいたよね?」
「え、なになに、妙ちゃんなんかしたん?」
三人の会話が賑やかに始まると、だんだんおつまみの山が増えて、テーブルもピザと一緒にすっかり酒盛りの場と化してきた。
健介は、泉に握られていない方の手でそっとスマホを確認した。LINEの新着が二件もあった。一件は慎吾、もう一件も同級生で、隣の部屋に住む古波蔵茉衣子だった。健介はスマホの画面を覗き込みながら、まずは慎吾からのメッセージを確認した。
『おい健介。もしかして今日、泉先生来てるんじゃね?よしよしされてねーだろーな?』
よしよしどころか抱きつかれたが。まあ、それは言わないにしても、来たこと自体を隠して、後でバレたら最悪なことになりそうな気がしたので、それだけは伝えることにした。
『残念だったな。俺も予想してなかったんだけど、今日がその日だったみたい。三人でいい気分で酔っ払ってるよ』
『はあ?!お前酒飲んでんの?』
どうやら、「三人」の顔ぶれが分からなかったらしい。
『あ、いや、ゆい先生もきてる』
『そうなんや』
『まあ、この三人がマブダチなので、こうしてウチが集会所にされるわけ』
慎吾は本当に結唯には興味ないらしい。どういうわけか、そこから数分待っても既読すらつかなくなった。
「健ちゃん何してるの?」
泉が健介に話しかけた。
「あ、うん。友達からLINE来てたから返してた」
「そうなんだー。慎吾ちゃん?大上くん?」
「慎吾だよ。あと、もう一人LINEよこしてやがるんだけど」
「それは大上くんなんだね」
なぜか結唯が口をはさむ。
「いや、違うんですよ。まあ、色々めんどくさいんで、先生は知らなくていいですよ」
健介は、このもう一人が結唯に鬼絡みしにいくことも知っているので、触れないであげている。一応、彼なりのやさしさである。
「えー、教えてよ。なんか、ゆいだけ仲間外れにされてる感じ」
酔っ払ったせいか、結唯の一人称が「ゆい」になってびくっとした。こう見えてこの三人の中で最も精神的に大人だと思っていた結唯も実は素の一人称は名前だと知り、その意外さに、どぎまぎしたのだ。
「悪いですけど、今からそいつのLINE返すから……」
そう正直に伝えて、茉衣子からのLINEを確認した。
『健介、お前んち、なんか騒がしくね?誰か来てる?』
あー。健介は苦笑した。……お隣から注意が来た。
「みんな、お隣からうるせえってLINEが来た。ちょっと抑えて」
「お隣って?健ちゃん、知ってる人なの?」
泉がちょっと声を抑えて尋ねた。有希乃が横から説明した。
「あー、隣ってことは茉衣子ちゃんだ。いやうん、泉知ってるかね?こいつの同級生になるんだけど、古波蔵茉衣子ちゃんって」
「茉衣子ちゃんね、もちろんよ」
泉が嬉しそうにうなずく。
「ええっ、古波蔵さんお隣なの?」
結唯が若干おびえている。
「ってことは、千宥ちゃんもこのアパートなのよね?」
泉は、茉衣子と、同じく同級生の杠千宥もこのアネックスの住人であることは把握しているようだ。
「うん、二階って聞いてるけど。ひとまずLINE返した方がいいね」
健介はスマホに目を下ろした。
『いや、姉貴の友達が来てて、酒盛りしてる。うるせえって言っておいた』
すぐに既読がついて返事が来た。
『ゆきねえの友達?なんだかおもしろそうだな。あたしも来ていい?』
そして、『わくわく』というスタンプまで添えられていた。いつの間に有希乃を「ゆきねえ」となれなれしく呼ぶようになっていることも突っ込みたかったが、やめた。理由は「そういう奴だから」としか言いようがなかったからだ。
『未成年が大人の酒盛りに混ざってどうする』
『いいじゃんか、隣で聞いてて楽しそうだったんだから。でもあれかな。やっぱりゆきねえの友達だから、知らない人たちだよな』
あ、知らないって思ってるのか。健介は苦笑した。
「どうしよ、先生たち来てるって言うか?」
「えっ」
結唯はちょっとやめてほしそうに声を漏らしたが、泉と有希乃が言った。
「茉衣子ちゃん来たら楽しそうねー」
「いいじゃん、私たちはウェルカムだけど?」
返事を聞いて、健介は返信した。結唯のためらいも聞いていたが、ここは二対一の多数決と判断することにした。
『いや、お前が知ってる人たちだぞ。泉先生とゆい先生なんだから』
またも秒で既読がついて、そして、すぐさまスタンプが来た。
『まじか!』
ここで茉衣子からの返信は途絶えた。これは、もう家まできっと飛んでくるパターンだ。そう健介は思ったが、それにしては少し遅い。隣なので、一分足らずで来そうなものだが……。さて、有希乃はピザの箱を片付けながら、ふと泉に視線を向けた。
「泉、千宥ちゃんって知ってたっけ?」
「うん、もちろん。私も学校でよく見かけるし、時々声をかけてくれるのよ。すごくしっかりしてて可愛いよね」
泉は微笑みながら、少し照れくさそうに答えた。
結唯もその話に乗ってきた。
「ほんと、杠さんはしっかり者よね。成績もトップだし……。私も伊福先生に『杠くんを見習いなさい』って言われたくらいだし」
「たこ福、学年主任なんだっけ、今」
教え子の一人である有希乃は笑いながら言った。
「ううん、前はそうだったみたいだけど、もう大きい役職からは退くって」
御年六十三歳で、還暦を期に辞退するようになったらしい。
「ふうん。でもさあ、本当に男の子なのかな。どっからどうみても見えないじゃんね」
泉は話題を千宥に戻し、少し考え込みながら、グラスを持ち上げてうなずいた。
「うん、ほんとに不思議よね。見た目も仕草も……どこからどう見ても女の子そのものだし。話してるときも、自然にそういう雰囲気があるっていうのかな」
「そうよね、私も最初、他の先生たちから聞いて驚いたの。実際に接してても、ほんとに見分けがつかないくらい女の子らしいもの」
結唯も頷きながら、表情を少し曇らせた。有希乃はそんな二人の反応に面白そうに笑った。
「学校でそんな風に話題になるほどって、逆にすごいね。千宥ちゃん、なんか、すごく演技してる風じゃないんでしょ?」
「そうねえ。千宥ちゃんって、本当にあれが素って感じで、作ってるわけでもなく、自然にしてるのに、女の子そのものなのよね」
泉は楽しそうに答えた。
「でも……なんで杠さんが女装してるのかって、理由は誰も知らないんでしょう?」
結唯の問いかけに泉が答えた。
「私も理由はわからないけど、本人もなんか、すごく思うところがあるみたい。妙ちゃんもそう言ってたんだけど、教えてもらえなくて。ねえ、健ちゃんは知ってる?」
「あ、俺?」
先ほどから三人で会話が弾んでて、そろそろ退却しようとした頃に声をかけられた健介は声が上ずっていた。そして、当然ながら千宥の女装の理由など、目下、泉よりも付き合いが浅い健介にはわからない。口ごもっていたところで、丁度インターホンが鳴った。
「あ、俺出るよ」
健介は驚きながらも立ち上がって玄関へと向かった。扉を開けると、そこには笑顔を浮かべた茉衣子と、少し控えめな表情をしている千宥の姿があった。
「おう、健介!遊びに来ちゃった!」
「やっぱり来たか。ずいぶん時間かかったかと思ったら、千宥も一緒なの?」
健介が驚きの声を漏らすと、茉衣子が得意げに言った。
「そりゃ、こんな貴重な機会なんだぜ。千宥も誘ってきたんだ」
「健介くん、こんばんは。突然でごめんね」
千宥は少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「ああ、むしろ姉貴たちは喜ぶと思うけど。まあ、入れよ。泉さんもゆい先生もちょっと出来上がりつつあるから、びっくりしないでやってよ」
「わかってるって!」
茉衣子はニヤリと笑いつつ、健介に続いて玄関を上がった。
リビングへと案内され、泉、結唯、有希乃の三人が談笑している姿が見えると、茉衣子は軽く手を振った。
「こんばんはー!茉衣子だよー!わー、ゆきねえ!泉先生!」
茉衣子は挨拶するなり、有希乃、泉と順に抱きつきに行った。そして、
「ゆい先生!」
「わわ、古波蔵さん、苦しいよ……!ちょっと~」
抱きつき癖のある茉衣子は特に結唯を念入りに抱きしめに行った。
「茉衣子ちゃん、その辺にしといたら……。あ、先生たち、有希乃さん。おじゃまします」
少し恥ずかしそうに千宥も挨拶すると、泉と有希乃は同時に驚いたような表情を浮かべた。
「わあ、茉衣子ちゃんだけじゃなくて千宥ちゃんまで!来てくれたのね!」
「いいじゃんいいじゃん、美女が増えていくよ。ざっと五人?地味男約一名付きだけどね。でもあれか、ここにちんこが二本あるのはほんと不思議で……」
「ゆ、ゆきちゃん!!」
酔っぱらった有希乃のあまりに踏み込んだ発言を、茉衣子を振り切った結唯がたしなめた。
「杠さん、こんばんは。ごめんね、こんな騒がしい人たちだけど。よかったらお話ししようね」
「は、はい、大丈夫です。私は基本NGなしなんで……」
NGなしといいつつ、有希乃のちんこ発言に明らかに顔をひきつらせた千宥が言った。そして、その発言主が続けた。
「ちょうど千宥ちゃんの話をしてたんだよ。めっちゃグッドタイミングよ。ガチめに」
千宥は少し照れたようにうつむきながらも、うっすらと微笑んだ。
「話題にしていただけるなんて……どんな話してたんですか?」
「ふふ、もちろん!千宥ちゃんがどれだけ可愛くてしっかりしてるか、ってね」
泉が優しく答えると、千宥はますます照れた表情になった。
「やだやだ、うそうそ。そんな、私は、こんな格好してる以外は本当に普通の子ですよ?ねえねえ、健ちゃん。ちょっと盛ってるよね?先生たち」
突然、呼び方がもう一段階親しくなったことにドキッとしたが、健介は答えた。
「あー、ほぼほぼそんな話だったぞ。嘘じゃなくて。あと、俺も同意」
「やだー」
顔を突っ伏して恥じらう千宥に健介はただただドキッとしていた。男だと分かっていても、そうなってもいいと主張する慎吾の意見が、ほんのちょっと理解できた。
茉衣子と千宥も腰を下ろし、そして、同級生の来訪に退却すら叶わなくなった健介も部屋に戻りそびれ、腰を下ろした。慎吾、代わってくれ。健介は内心本当にそう思っていた。リビングにはにぎやかな空気が広がり、テーブルにはおつまみと飲み物がずらりと並べられている。茉衣子はそれを目にすると、嬉しそうに目を輝かせた。
「うわー!本格的に盛り上がってるじゃん!おつまみもいっぱいだ!」
「茉衣子ちゃん、好きなだけ食べなよ」
有希乃が言うと、茉衣子はさっそくテーブルに手を伸ばし、小皿におつまみをよそい始めた。一方で、千宥はおつまみに手を伸ばしかけては引っ込め、少し控えめに様子を窺っている。それに気づいた泉が、柔らかい声で千宥に声をかけた。
「千宥ちゃんも遠慮せずに、どうぞ召し上がってね。これ、みんなで楽しむために用意したのだから」
「そうだよ、遠慮なんてしないでいいんだぞ!」
茉衣子も元気よく声をかけ、千宥に小皿を差し出した。
「何でお前が言うんだ……」
健介が横から突っ込んだ。千宥は少し照れながらも、小さく微笑んで答えた。
「ありがとうございます、泉先生。茉衣子ちゃんも、ありがとね」
そして、千宥は一つおつまみを取り、健介にもちらりと微笑みを向けた。
「健ちゃんも、食べようよ」
「お……うん」
健介は照れながら、さらにおつまみに手を伸ばした。有希乃はそんな千宥の様子を見て微笑みながら話を振った。
「千宥ちゃんって、こういう集まりってあんまり来なさそうなイメージあるんだよね。勝手なイメージだけど。あんまり賑やかなのが似合わないって言うか」
「いえ、楽しいですよ。でも、実はこういうの初めてかもです。いつもは一人で読書してる方が多いし、確かにあまり賑やかな場には慣れてなくて……」
「ほんと、千宥ちゃんって、自分のペースを大切にしてる感じがするもの。とってもいいことよ」
泉がうなずく。
「中学までは友達が少なかったので……。同じアパートに茉衣子ちゃんが住んでて、本当に良かったです」
「ちーひーろー!」
茉衣子は千宥に抱きついた。
「わ、茉衣子ちゃん、苦しいよ」
健介はドキッとした。本当は男なんだよな。茉衣子はあえてそれでも抱きついてるのか、もうその辺も女の子扱いしてるのか?茉衣子に抱きつかれた千宥は、困り顔ながらも嬉しそうに微笑んでいた。そんな二人のやりとりを見て、お酒の入った三人もますます興味津々な様子で、会話に加わってきた。
「千宥ちゃんって、本当にどう見ても女の子よね。いつからそんな風に過ごすようになったの?」
泉が少し驚いたように尋ねると、千宥は少し恥ずかしそうに答えた。
「えっと……ここ一年ぐらいです。ちょっと訳ありで、親と離れて暮らしてるんですけど、高宮で、いとこのところに預けられてからです」
「へえー、すごいね。自分でも抵抗とかはなかったの?」
有希乃も興味深げに身を乗り出して聞いてくる。千宥は一瞬言葉を探すように視線を落としたあと、静かに答えた。
「抵抗が……なかったというより、なんとなく、自分らしいって感じだったんです。実は最初に女装したのは十歳ぐらいの時で、それから時々いとこの家に行って、こういうことしてたんですけど、こっちに預けられた時に、この格好で本格的に生活してみない?って言われたんです。そんなことしていいんだ、って思ったから、最初は恐る恐るだったんだけど、これが本当の私に思えたんです」
「そっかあ。いとこかあ。女性の方?」
結唯が聞いた。
「はい、女性です。メイクとかそういうのも教えてくれました」
「年上、よね。私たちと一緒ぐらい?」
「ええと、二十五歳ですね」
「私たちよりちょっと上ね。今、ここにはその従姉さんと住んでるの?」
今度は泉が聞いてきた。
「はい。忙しくてあんまり家にはいないけど」
「何してる人?」
「お店やってます。えっと、この春に大門商店街に移転してきたリリーベルってお店なんですけど」
「わあ、リリーベルの店長さんなんだ!ちょっと前まで、『きゃろるすとりーと。』になかった?」
泉がうれしそうに言う。実は、従姉が経営するリリーベルは、この春までは高宮市街の商店街にあった。どうやら、泉は旧店舗を知っているらしい。
「はい、そうなんです。丁度お店が手狭になってきて、私の進学も考えて、春若に移転したそうなんです」
「そうなんだ!いつか従姉さんも紹介してね。でさ、千宥ちゃん、ぶっちゃけどんな感じなの?こうやって生活してて、何か変わったこととか、恥ずかしいこととかない?」
有希乃がじっと千宥を見つめながら、ニヤリと笑って問いかけた。千宥は少し赤くなりながらも、視線をそらさずに答えた。
「そりゃあ、最初はドキドキしましたし、周りから見られるのが怖いと思うこともありました。でも、だんだん慣れてきて……」
「でも千宥ちゃんって、身だしなみとかも完璧にしてるじゃない?」
泉が興味津々な顔で尋ねると、茉衣子がニヤリと笑いながら口を挟んだ。
「そりゃもう、女子より女子してるよな!お肌つやつやであたしなんかよりもきれいだし。ね、ね、メイクしてるの?道具も持ってるの?」
千宥は少し照れくさそうに笑いながら答えた。
「持ってるよ……一応ね。従姉が揃えてくれたのを、使わせてもらってるんだけど」
茉衣子はその言葉に目を輝かせ、急に身を乗り出した。
「じゃあさ、千宥!今度一緒にメイクの練習しようよ!あたしも教わりたいし、千宥のメイク見たい!」
「う、うん。よかったら……」
千宥が恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにはにかむ。
「ところでさ、千宥ちゃん、服とか下着ってどうしてるの?パンツも女の子の?」
有希乃がさらに踏み込んだ質問をぶつけた。突然の直球に、千宥は一瞬動揺しながらも、すぐに苦笑いを浮かべた。
「さ、さすがに……従姉が全部揃えてくれてるから、まあ……そうですね。全部女子用です」
「うわー、気合入ってるな、千宥!ね、ね、女子のパンツって、ちゃんとちんちん入るの?」
「やだあ……」
茉衣子が声を上げると、結唯が声を漏らした。
「えっとお……なんというか、大丈夫かな?私の場合は」
健介はその会話の流れにドギマギしながら、ますます居心地悪そうにしていたが、酔っ払い三人と茉衣子はそんな彼をよそに、ずけずけと突っ込んだ質問を続ける。
「お前の場合かあ。何が大丈夫なん?」
茉衣子の追及に千宥は少し困惑しつつも、なんとか笑ってごまかそうとした。
「えー……。なんていうか、慣れれば意外と平気かな」
すると、有希乃も話に乗ってきた。
「へえ~、すごいねえ。そこまで慣れるなんて本当に自然体なんだ。見かけだけじゃなくて、内面も完全に女子って感じじゃない?なんか尊敬するわ、千宥ちゃん!」
「ありがとうございます。……でも、やっぱり自分では女子っていうよりは……なんだろう、自分らしくいたくて、まあ、色々がんばってます」
千宥が少し照れながらも答えると、泉が興味津々でさらに続けた。
「千宥ちゃん、リリーベルってお店もおしゃれで可愛いものがいっぱい置いてるのよね。そういうところで、女の子のいろんなもの見てると、自然と『これが似合うな』って思うことも多いんじゃない?」
千宥はうなずき、柔らかく笑った。
「そうですね。お店で新作が出たりすると、従姉が『試してみたら?』ってすすめてくれるんです。おかげで、自分のスタイルも少しずつわかってきた気がします」
茉衣子はさらに目を輝かせ、ますます興味津々になった。
「じゃあさ、千宥、今までで一番びっくりしたこととかない?女子として生活してて、なんか『これ男にはムリだわ!』って思ったこととかさ!」
千宥は少し考え込んでから答えた。
「うーん……スキンケアとか……あとは、やっぱりヒールの靴を履くときかな。最初はバランス取るのが難しくて、でも慣れてくると意外と快適で、可愛いものを身につける楽しさがわかるっていうか」
「すごい!それって、もう本物の女子みたいじゃん!」
有希乃がニヤリと笑った。
「ヒールかあ。あたし履かないもんな」
「茉衣子は元々デカいからだろ」
ようやく入れそうな発言が出てきたので、健介が口を挟む。
「うっせ」
茉衣子はそう言いつつも、笑っていた。いつもの軽口の範囲だ。
「あ、ゆいちゃん寝てる」
突然泉が話を切った。
「ゆいちゃん今日も寝落ちか。……千宥ちゃん、もう本当に自然に女子だもんね。でさ、ほんとについてるの?」
有希乃はここで敢えて蒸し返した。
「ええと、あるには、あります」
千宥が少し照れながら答えると、有希乃はニヤニヤしながらさらに突っ込んできた。
「そっかー、そうなんだ。じゃあさ、実際どういう感じ?こう……『男であること』が気になったりはしないの?」
少し酔いも回っているのか、有希乃はさらに率直に尋ねた。千宥は苦笑しながら、言葉を選ぶ。
「う~ん、気にならないと言ったらウソにはなるかもしれませんけど。でも、みんなが優しく接してくれてるし、普段からそんなに『男だから』って意識することも少なくて……なんか、周りがそう扱ってくれるから、今は結構気楽に生きてます。中学までとは大違いで、この町に来てよかったって思います」
泉が感心した様子でうなずいた。
「それって、本当にすごいことよ。自分が好きなように、無理せずにやってるんだもんね。千宥ちゃんみたいに自然体で生きるって、実は大変なことだと思う」
茉衣子も大きくうなずいて、千宥の背中を軽くポンポンと叩いた。
「ほんと、あたしも千宥すげえって思う!」
そんな話の流れの中で、有希乃はふと目をこすり、重たげに瞬きをした。
「千宥ちゃんも頑張ってるんだねえ……それに比べたら、私なんていつもダラダラしてるだけ……」
そう言いながら、徐々に目を閉じていき、ソファの背もたれに体を預けた。茉衣子はくすっと笑いながら、泉に耳打ちするように言った。
「なんか、ゆきねえも寝ちゃったみたいだね。先生、どうする?」
泉は少し酔いながらも、穏やかな笑みを浮かべてうなずいた。
「私は今日はここにお泊まりだから。ゆきちゃんちが新しくなってから三回目の家飲みだけど、なんかそうなっちゃって。ウチの親もゆきちゃんちならいいでしょってあんまりうるさく言わないのよ」
「先生、実家暮らしなの?」
「私は名知だからね。ゆいちゃんは北橋だから、こっちで一人暮らしなんだけど」
ちなみに、名知はこの春若の隣町で、車で十分ぐらいだ。北橋市はここから路面電車とJRを乗り継いで一時間少々だ。
「そうなんですね。私たち、片付け、手伝いますよ」
千宥が申し出た。
「ありがとう。でも、私たちの飲み会だから、起きたら私たちでするからいいよ。千宥ちゃんと茉衣子ちゃんは家で休んでて」
「ごめんな。今日はめっちゃお話しできて楽しかった。じゃあね」
「ありがとうございました。失礼します」
茉衣子と千宥が帰ると、健介はホッとしたように息をついた。
「健ちゃん、ずっと黙ってたけど大丈夫?」
「いや、あそこまで女子トークになると俺も入れなくて」
「途中から千宥ちゃんのアレの話だったもんね。女子トークだったのかなあ……」
「なおさら入れないってば。じゃあ、俺寝るから。毛布用意してあるんだから、泉さん風邪ひかないでよ」
健介は足早に部屋へと去っていくのであった。




