第45話 初夏のツンドラ
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:35%
AI文をベースに改稿:25%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:40%
ただでさえ多いキャラクターが、また増えます。すみません、ご容赦ください。たぶん、今までにはあんまりいなかったタイプのキャラクターです。
六月に入った。樋口健介にとっては「ちょっとだけ」節目である。アネックス久世への入居一周年だ。親元を離れた姉との二人暮らし。入居する前は、どうなることかと思ったものだ。しかし、引っ越してくる前からすると、「思ったよりはちょっとだけ」上手くやれている気がする。まして、引っ越し直後、中学からの同級生である古波蔵茉衣子と鉢合わせた後からすると、「恐れていたよりも随分」上手くやれていると思う。
このアネックス久世に住まう春若栄久高生をいつしか「チーム・アネックス」と呼ぶようになった。最初は茉衣子が勝手に言い出したのだが、気づけば、親しい友人や教師陣からも呼ばれるようになった。そして、茉衣子によれば、このチーム・アネックスの結成は、健介入居時なのだそうだ。
「一周年なんだぜ。なんかやろうや」
そう茉衣子は言っていたが、健介は止めた。初期メンバーは、健介、茉衣子、それに杠千宥の三名だった。それが今では、健介より後に途中入居した朝長慎吾と雛灯の双子、この春入居した新宮領美佳と千宥の妹の二生、さらには住人ではない大家の孫娘・玉井絢那まで、いつの間にか、なし崩し的にメンバー扱いされている。総勢八名。倍以上である。過半数のメンバーにとって何でもないこの日に取り立てて何かすることはないと思うし、俺自身なんとも思っていないからやめとけ。茉衣子にはそう伝えた。
「なんだよー。つまんねえ奴」
そう言ってぶー垂れる茉衣子を千宥が宥める、というお決まりのパターンに入ったのだ。イベントや思い付きを健介が制止すると、いつもこうだ。
さて、本日は六月最初の授業日。事前の時間割変更で、一時間目の英文法の授業が、別の日の七時間目に割り当てられているロングホームルームと交換になっていた。英文法の授業は担任の伊福成芳の担当であるため、いくらでも融通は利く。
チャイムが鳴る。八時三十分。ホームルームの時間だ。一気に生徒たちが自分の席に戻る。前述のチーム・アネックスの中でこの二年七組に在籍するのは健介と雛灯だ。それ以外は、一年生の二生を除けば、五組ないし六組に集中している。健介と雛灯は名前順の巡り合わせで席が近い。健介から見て左斜め後ろである。そして、その反対側、右隣にはこの春大阪から転校してきた渡辺啓太郎がいる。
「おう、健介。なんだか、景色変わったなあ」
渡辺が声をかける。
「景色って。いつも通りだろ」
健介は首を傾げた。
「今日から夏服やろ」
衣替えのシーズン、春若栄久高校も今日から夏服だ。もっとも、このところは既にブレザーを脱ぐ者もかなり多かったが。
「……ああ、そういうことか。なんか、前の学校と違うん?」
「あー、せやな。前の学校、学ランとセーラーやったから、冬服の方が景色ちゃうかったわ」
なるほど。春若栄久高校は男女ともにベージュのブレザーだ。ちなみに、ボトムスは紺のスラックスと赤のスカートなので、地方都市である高宮市の学校にしては、えらく洒落ている。渡辺が元居た大阪市内の高校は、さしずめ黒の学ランと紺色あたりのセーラー服だったのだろう。ただ、夏服になると、いずれの学校も恐らく景色は変わる。
「今日から一面まっちろけっけやから、ちょっとだけ没個性かもしれへん」
「……お前、意外と感性豊かなんだな」
「そうか?」
渡辺がにやっとする。
チャイムが鳴って一分弱、伊福が、週末の間に剃り上げたであろう禿げ頭を輝かせながら、廊下を歩いてくる。
「あのじいさん、衣替えとか関係あれへん頭しとんな」
「やめい」
健介は不覚にも笑ってしまった。さて、伊福はノートパソコンを持って入室した。日直が号令をかけた。
「おはよう。さて、ここから朝のホームルームだが、ご案内の通り、今日は一時間目もホームルームだ。もうそのままつなげていく。朝のショートホームルームとしての流れは、お知らせと出席確認だ。今日は前置きもなしに、淡々と、巻きで行く」
二年生で初めて伊福が担任となった生徒たちは、少々ざわざわし始める。たこ福が無駄話もなしにホームルームを進行するなんて。しかし、去年から伊福のクラスにいる健介は、ああ、また始まったよ。と思う。そして、宣言通り、十分の尺がある朝のホームルームのルーチンはわずか三分半で終わった。
出席番号三十四番、渡辺まで出席を取り終え、ほんの数秒の沈黙。
「うぉっほん」
伊福はわざとらしく咳をした。出席を取られたばかりの渡辺がびくんとしていた。
「さて、この前、宝くじを買った。……言っておくがお小遣いはあげないよ?何十年も買ってて、三万円以上当籤したことがないんだ。しかし、宝くじとは夢を買うものだ。だから僕はそれを悔やんだことなどない!」
聞いてもいないことを必死に弁解するように力説し、教室内が妙な空気に覆われる。伊福は構わず続けた。
「……さて、宝くじ、おみくじ、あみだくじ、新井式回転抽選器。世の中色々なくじがある。非常に楽しいとは思わないかね。ちなみに、新井式とは、いわゆるガラガラポンだ」
なぜか解説し始める伊福に教室はぽかーんとする。健介が隣を見ると、渡辺は「なんのこっちゃ」と言わんばかりに眉をひそめている。後ろを振り向くと、雛灯も「何が言いたいのよ」とばかりに顔をしかめている。しかし、健介を含めた何割かはもう全てわかったかのように呆れた表情を浮かべる。……この話、去年もしたぞ。そして、何でこんな口上を垂れるのか、についての答えももう健介にはわかる。
余談だが、去年の時点では「一万円以上当籤したことがない」と言っていた。さてはこのじいさん、ここ一年で二万何千円かの宝くじ、当たったな?健介は伊福の話を聞いて珍しく少しだけニヤッと笑った。
「まあ、今日やることは、そんな夢のあるくじと違って、特段の当たりもはずれもない、席替えだ。僕のクラスでは二か月にいっぺんしかやらないことにしている分、その席決めは色々趣向を凝らしている」
ほらやっぱり。どういうこだわりなのかはわからないが、昨年度、計五回あった席替えにおいて、伊福は色々な抽選方法をやっていた。クイズ大会をしたり、校庭でドッジボール大会をしたり、それこそ「新井式回転抽選器」を持参したり、なぜか色々方式を変えたがる。めんどくさいから、いつもくじ引きでよかろうに。彼自身が当たりもはずれもそんなにないと言っているのだから(健介自身は前の席は明白にはずれだと思っているので、まず伊福の前提に反対なのだが)、抽選方法でそう盛り上がりが変わるものでもあるまい。
「僕は宝くじの中でもナンバーズが好きでね。なぜかって、今はかみさんに止められて、やんなくなったけど、織田島競艇によく行ってたもんだから、マークシートを塗る感覚が忘れられず……いや、閑話休題。そういうわけで、この前、君たちに数字を選んでもらっただろう?」
そう言えばそんなことをした。
先週の金曜日、帰りのホームルームで、伊福は妙なアンケート用紙を配っていた。
『問一、1から12で好きな数字を書きなさい』
それが三問続き、最後だけA、B、Cから好きなアルファベットを選ばされた。あれを使って、いったい何をするつもりなのか。
教室がざわつく中、伊福はパソコンをプロジェクターにつなぎ、座席表を映し出した。
「これはAIを使って、座席番号を割り振ってもらったものだ。で、ここから君たちに回答してもらった『ナンバーズ』が吠えるのだよ」
伊福がにやりと笑う。健介は思った。なんでわざわざそんなことを。
スライドには、座席表の上に一から三十四までの数字が散らばっていた。次のスライドはクラス名簿だった。出席番号と名前、それに先のアンケート結果と思われる英数字が並んでいた。一番右には、何やら青い文字で書いた謎の数字も書かれている。
「まず、Aはそのまま、Bは十二を足し、Cは二十四を足す。三十五と三十六は存在しない席なので、その時点で外れ。一から三十四でかぶらない数字を引き当てたものは座席決定。重複した場合は、問一から問三までの合計値、僕はこれを仮に青数と呼んでいるが、じゃんけんよろしく数字が小さいものを勝ちとして――」
そのあたりで、健介は理解するのをやめた。隣の渡辺は、眉間にしわを寄せたまま固まっている。後ろを振り向くと、雛灯も露骨に「何を聞かされているのよ」という顔をしていた。伊福だけが楽しそうだった。
「二次抽選では問二を使い、ABCの加算を入れ替える。重複した場合、今度は青数の大きい方を採用する。なお三次抽選では――」
もはや、教室の過半数がついてきていない。
何人かは本当に眠そうにしているし、何人かはスライドではなく時計を見ていた。
それでも、伊福の操作に合わせて、座席表の空欄は一つ、また一つと生徒の名前で埋まっていく。仕組みは分からない。だが、席は決まっている。そこだけは確からしかった。
「……諸君、おはよう。僕は技術科ではなく英語科の教諭だが、素人でもこんなプログラミングができるのだよ。まあ、AIさまさまというべきなのかもしれないがな。……なんにせよ、座席は決定した。移動したまえ」
どれだけホームルームのトークがすべっても動じない伊福だが、渾身の大抽選会がだだ滑りして、珍しく不機嫌そうだ。生徒たちは、何人かは眠い目をこすりながら、指定された座席に移動した。プロジェクターには番号ではなく、生徒の名前が明記されたうえで表示されているため、そこだけは少しだけありがたかった。
座席を移動すると、そそくさとプロジェクターの接続を解除した伊福が口を開いた。
「次回の席替えは、夏休み明けだ。まあ、抽選方法に意見やアイデアがあれば、遠慮なく来てほしい。持ち込み企画大歓迎だ」
いや、普通にくじ引きしてくれればいいから。健介はため息をついた。もしも、綾香雄人が今年も伊福のクラスだったら。あいつなら唯一ノリノリで企画持ち込むんじゃないか。そんな面倒くさいことが頭をよぎる。しかし、幸か不幸か今年、彼は六組の生徒である。
健介は新しい席に鞄を置いた。窓際から二列目、前から三番目。前過ぎず、後ろ過ぎず、悪くない。伊福の言うところの当たりも外れもない席、というやつかもしれない。少なくとも、教卓の真正面よりはずっといい。左隣、つまり窓際の列には、女子が一人座っていた。前から三番目。健介と同じ高さの列である。
一ノ瀬。プロジェクターに映った座席表で、健介はその名前を見ていた。高宮県ではメジャーな苗字の一つだ。名前だけは知っている。同じ七組なのだから、知らないわけではない。だが、会話した記憶はない。春から二か月。出席確認の時に名前を聞いたことがある、その程度だ。
隣をちらりと見ると、ノートにフルネームが書いてあった。一ノ瀬帆宇。なんて読むんだこれ。生憎、健介は「帆」は「ほ」、「宇」は「う」と読む以外の知識は持ち合わせていない。「ほう」?……百パーセントないともいえないが、なんだか妙な名前だ。千宥や二生のような、「読み方として成立するが一般的ではない」読みなのだろうか?だったら健介の漢字の知識ではわかりようもない。
長い黒髪が、夏服の白いブラウスの上に落ちている。姿勢は悪くない。むしろ、背筋が妙にまっすぐだった。窓から入る六月の光を横顔に受けながら、彼女は机の上に置いた筆箱の位置を、ほんの少しだけ整えていた。怒っている、というよりは、最初から周囲に関心がないような顔だった。
健介は何となく声をかけるタイミングを失った。隣になったのだから一言くらい、と思わなくもなかったが、まだホームルーム中である。わざわざ今話しかけることでもない。
後ろの方から、小さく椅子を引く音がした。振り返ると、渡辺が健介の二つ後ろの席に座っていた。さらにその後ろ、最後尾に雛灯がいる。渡辺は健介と目が合うと、にやっと笑って、親指を立てた。何の親指だ。雛灯はというと、少し心配そうな顔でこちらを見ていた。いや、何を心配することがある。席替えだぞ。健介はそう思ったが、雛灯は雛灯で、健介が新しい隣席とどういう空気になるのかを気にしているらしい。見守るな。まだ何も起きていない。
「さて」
伊福が教卓を軽く叩いた。まだ一時間目は半分近く残っている。さすがに席替えだけで終わるわけではなかったらしい。
「席替えで諸君の脳を適度に温めたところで、現実の話をしよう。現実。英語で言えばrealityだ」
仮にも英語教師、やや訛りつつも英語の発音で言う。嫌な入り方だ、と健介は思った。
「六月に入った。二年生の六月だ。つまり、君たちはそろそろ進路から逃げられない時期に来ている。まだ先だと思っている者もいるだろうが、三年生になってから考えるのは遅い。夏休みのオープンキャンパス、秋以降の模試、三年次の選択科目、そういうものは、思ったより早く追いかけてくる。廊下の向こうから、すでに足音がしている」
クラスの何人かが露骨に嫌そうな声を漏らした。伊福は気にしない。いや、さっきの大抽選会の不発を取り戻そうとしているのか、むしろ少しだけ声に力が入っていた。
「というわけで、進路希望調査票を配る。現時点での希望で構わない。大学、短大、専門学校、就職、公務員。君たちの未来の選択肢は、案外広いぞお。未定なら未定でよろしい。ただし、未定と書く場合は、なぜ未定なのか、今の関心分野くらいは書くように。白紙提出は、これを認めない」
列の前からプリントが回される。健介の列にも、前の生徒から数枚の紙が渡ってきた。自分の分を抜き取り、後ろに回す。すると、左側の窓際列でも同じようにプリントが流れていた。一ノ瀬は受け取った紙を一枚抜き、残りを後ろに回す。動作が早い。無駄がない。プリントの角もきれいにそろえている。几帳面なのだろうか。
「記入時間を十五分取る。その後、回収する。進路希望はあとで面談資料にも使うから、ふざけたことは書かないように。第一志望、第二志望、志望理由。まだ具体的な学校名がなくても、分野や職種で構わない」
健介はシャーペンを手に取った。こういう紙は苦手だ。何を書いても、今の自分を仮固定されるような気がする。第一志望。進学希望。学部・学科。関心のある分野。欄はそれほど大きくない。だが、小さいからといって書きやすいわけでもない。ふと左隣を見ると、一ノ瀬はもう書き始めていた。迷いがない。視線は紙面に落ちたまま、手だけが淡々と動いている。名前、出席番号、希望進路。どれも詰まる様子がなかった。健介は慌てて視線を戻した。別に覗き見するつもりはない。ないが、横にいるとどうしても目に入る。横顔からは何も読めなかった。真剣というより、決まっていることをそのまま記入しているだけ、という雰囲気だ。すごいな、と健介は思った。何がすごいのか、自分でもよくわからない。ただ、今の自分が同じ速度でこの紙を埋められないことだけは確かだった。後ろから、紙に何かを書く音と、渡辺の小さなうめき声が聞こえた。
「うわ、志望理由て……」
独り言のつもりだったのだろうが、前の席まで届いている。さらにその後ろから、雛灯が小声でたしなめた。
「渡辺くん、静かに」
「すんません」
渡辺は素直に謝った。こういうところは、案外憎めない。健介は調査票に視線を戻した。とりあえず、進学希望に丸をつける。具体的な志望校は未定。関心分野も、はっきりとはしない。適当に書いて後で伊福に突っ込まれるのも面倒だ。しばらく考えた末、健介は当たり障りのない言葉をいくつか並べた。自分でも薄いと思う。だが、今の時点で濃いことを書けと言われても困る。
十五分は、案外長かった。書ける者は早々に書き終え、何もすることがなくなる。書けない者は、最後まで紙とにらめっこをする。教室には、シャーペンの音、紙をめくる音、誰かのため息だけが残った。一ノ瀬は早々に書き終えていた。そして、紙を裏返し、机の右上にきっちり置いている。手持ち無沙汰にするでもなく、窓の外を見るでもなく、ただ前を向いて座っていた。健介は、また少しだけ気になった。何を考えているのか、まるでわからない。ただ、何も考えていないわけではなさそうだった。
「はい、そこまで」
伊福が手を叩いた。
「後ろから集めるように。順番通りでなくていい。どうせ僕が全員分読むんだ」
プリントが後ろから前へ送られてくる。健介は渡辺の方から回ってきた束に自分の分を重ね、前へ回した。窓際の列では、一ノ瀬が同じように紙をまとめている。指先の動きがやはり丁寧だった。伊福は集まった調査票を教卓で軽くそろえた。
「よろしい。今日のロングホームルームは、席替えと進路希望調査で終わりだ。諸君の人生に比べれば、席など二か月で変わる。だが、二か月の席で人生が少し変わることも、ないとは言い切れない。隣になった者、前後になった者、まあ、せいぜい仲良くやりたまえ」
何となく、健介は左隣を意識してしまった。一ノ瀬は、特に反応していなかった。伊福の言葉など、右から左へ流しているようにも見える。チャイムが鳴った。一時間目の終わりだ。
「次は通常授業だ。浮かれすぎないように。あと、僕の抽選方式への建設的な意見は随時受け付ける。批判だけなら受け付けない」
最後だけ妙に本音をにじませて、伊福はノートパソコンを抱えた。教室が一気にざわつき始める。椅子を引く音、プリントをしまう音、さっそく新しい席の近さを確認し合う声。健介はシャーペンを筆箱に戻しながら、少しだけ息を吐いた。
さて。左隣の一ノ瀬帆宇とは、まだ一言も話していない。だが、たぶんこのまま二か月間、一言も話さずに済む距離ではない。そう思ったところで、後ろから渡辺の声が飛んできた。
「健介、新しい席、なかなかええ感じちゃう?」
その声に、雛灯の小さなため息が重なった。そして健介は、左隣の女子がほんの少しだけこちらを向いたような気がして、反射的に背筋を伸ばした。
「……はぁ」
渡辺の方を一瞬向き直った一ノ瀬は、前を向くと、短くため息をついた。こっわ。健介は顔をひきつらせた。どこがええ感じだ。
さて、二時間目は鴨川洋司による数学Bの授業である。ちなみに毎度おなじみ榊原妙子は数学IIだ。
「……一時間目、私は八組の授業だった。まあ、隣から聞こえる声が騒がしいこと。時折私は小学校に赴任したのかと思うことがある」
最初からチクリと一声。この嫌味っぷり、彼は学園の生徒の九割ぐらいから嫌われている。説教内容をよくよく聞くと面白い、と評する生徒もたまにいるが、健介には理解できない。ネギのようにやせ細った体に、銀縁眼鏡、坊主頭。名前と体格から、カモネギとあだ名される。あー、やだやだ。健介は気が滅入る。ふと、隣の一ノ瀬に目をやる。眉をひそめながら頬杖をつく。どうやら、鴨川と波長が合うようなタイプというわけではないらしい。
授業が押すことでも有名な鴨川であるが、彼にしては調子よく一分押しで授業が終わり、残り九分の休み時間だ。授業が終わるや否や、一ノ瀬はすたっと席を立ち、教室を後にした。トイレにでも行くのだろう。健介は男なので、女子がどうしてトイレに連れ立って行きたがるのか、その心理を理解できない。雛灯も、健介がまだよく名前を覚えていない女子のクラスメイトと、よく連れ立ってトイレに行く。しかし、一ノ瀬はそんなことせず、一人でトイレに向かう。誰を誘うでもなく、誰に誘われるでもなく。健介もこう見えて女子の知り合いもそこそこいる。しかし、アクの強い知り合いたちと比べても、また独特な雰囲気がある。
「健介、ええか」
渡辺が健介の机まで遊びに来た。
「なんだよ。……お前なあ、さっきから後ろからじろじろと」
「ええやんか。でも、美人やけど、性格きつそうな子やなあ」
本人不在の一ノ瀬の席を見つめつつ渡辺が言う。
「馬鹿、声でけえよ。本人不在とはいえ」
健介が眉をひそめる。
「まだ話してへんの?」
健介に注意された渡辺は小声で続ける。
「そんな雰囲気じゃねえだろ。近づくなオーラが半端ねえ」
「俺な、こういう子おったら、笑かしたくなんねん」
「それは、……難易度高そうだな。やめた方がいいんじゃね?」
「ああいう子も、一度わろてしまえば、案外めっちゃゲラやったりするかもやろ、知らんけど」
「知らなすぎる」
健介は再度眉をひそめる。こいつのこの熱意はどこから出てくるんだ。と思ったが、よく考えたら、知らない外国人の女の子に声をかけるような奴であることを思い出し、妙に納得した。
「まあ好きにしたら」
健介が呆れたように言うと、すっと、静かな隣人が席に戻ってきた。足音にも気づかなかったほどの早業だ。一ノ瀬は自分の椅子を引き、音を立てないように腰を下ろした。机の上に置いていた筆箱の位置を、さっきと同じようにほんの少し整える。別にこちらを見ているわけではない。さっきの会話も、聞いていた様子はなかった。健介は、なぜか少しだけほっとした。が、渡辺は違った。
「一ノ瀬さん」
声をかけた。健介はぎょっとして渡辺を見る。お前、行くのか。今行くのか。さっき自分で性格きつそうとか言ってた相手に、なんでその速度で行けるんだ。一ノ瀬は、ゆっくりと顔を上げた。
「……何?」
声は少し低い。声量は普通なのに、どこか身構えているように聞こえた。渡辺は怯まない。健介には、その神経が少し羨ましく、かなり理解不能だった。
「俺、渡辺啓太郎。大阪から来てん」
「……知ってる。転校してきたんでしょ」
そりゃ、転校生はさすがに目立つか。健介は苦笑した。
「席、健介の二つ後ろになったから、まあ近所やな思て」
「近所ではないと思う」
即答だった。渡辺が一瞬固まる。健介も固まる。
「……まあ、教室内やし。広い意味では」
「広すぎると思う」
また即答だった。こいつ、ちゃんと返すんだ。健介は妙なところに感心した。無視されるか、ため息で終わるか、そのどちらかだと思っていた。渡辺は、むしろ少し嬉しそうだった。
「ええな。ちゃんと突っ込んでくれるやん」
「突っ込んだつもりはない。訂正しただけ」
「訂正かあ。厳密やなあ」
「距離感が急な人は、少し苦手」
「距離感?」
渡辺が首を傾げる。一ノ瀬は、渡辺を見たまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「物理的にも、心理的にも」
健介は内心でうめいた。だいぶ刺す。しかも静かに刺す。
「悪いな、一ノ瀬さん。こいつ、悪いやつじゃないんだけど、距離の詰め方が独特で」
思わず健介が口を挟むと、一ノ瀬は今度はこちらを見た。真正面から目が合った。思ったより、目が大きい。だが、柔らかい印象は薄い。氷水の底を覗いたような、妙に澄んだ目だった。
「あなたが謝ることではないと思う」
「え」
「話しかけてきたのは、この人だから」
「あ、まあ、そうだけど」
正論だった。正論すぎて返しに困る。渡辺は自分を指差した。
「この人て」
「名前は今聞いたけど、まだ覚える段階までいってない」
「手厳しいなあ」
「覚える必要が出たら覚える」
「ほな、必要出るように頑張るわ」
「頑張らなくていいと思う」
渡辺は笑った。一ノ瀬は笑わない。ただ、少しだけ困ったように目を伏せた。
健介は、この二人の会話を聞いているだけで少し疲れてきた。渡辺は渡辺で謎の行動力を発揮しているし、一ノ瀬は一ノ瀬で、全部を平熱で切り返してくる。どちらも別方向に強い。ふと、渡辺が「あ」と声を上げた。
「そうや、一ノ瀬さん。下の名前、なんて読むん?名簿で何回か見たことあんねんけど、読まれへんかったわ」
健介は思わず左隣を見た。それは聞きたかった。渡辺、そこだけはよくやった。一ノ瀬は一拍置いて答えた。
「ほたか」
「ほたか」
渡辺が復唱する。
「帆に、宇宙の宇で、帆宇」
一ノ瀬は淡々と補足した。
「ああ、宇宙の宇で、タカて読むねんな。変わってんなあ」
「私に言われても困る」
淡々とした返答に、なぜか後ろにいた健介の方がひやりとする。渡辺は「そっかそっか」とへらへらしている。こいつ何で平気なんだよ。
「親がつけた名前だから、由来は知らない。聞かれても答えられない」
「まだ聞いてへんけどな」
「聞かれそうだったから」
「先回りすごいな」
「だいたい、そういう流れになるから」
渡辺は一瞬、うーん、と考えこむ。そして、ぽんと手を叩いた。
「あー、宇宙、高いもんなあ。それでタカなんか。せやろ」
「知らない。普通の読みではないから。でも、そんなところだと思う」
「そっかあ」
一ノ瀬はそれ以上説明しなかった。渡辺は残念そうに言ったが、そこまで傷ついた様子はない。強い。健介なら、たぶん次に話しかけるまで三日はかかる。それにしても、帆宇。本当に「千宥パターン」だったのか。健介は少しだけ敗北感を覚えた。何に負けたのかはわからない。
一ノ瀬は、会話は終わったとでもいうように、前を向いた。渡辺は健介を見る。健介は首を横に振った。もうやめろ。今はやめろ。それ以上いくと火傷する……この雰囲気、「低温火傷」という感じだが。後ろの方から、雛灯の視線を感じた。振り返ると、案の定、雛灯はこちらを見ていた。心配そうというより、呆れ半分、心配半分の顔である。見守るな。だからまだ何も起きていない。いや、渡辺には少し起きたかもしれない。
チャイムが鳴った。渡辺は「ほな、また」と妙に軽い調子で自分の席へ戻っていく。一ノ瀬は小さく会釈だけして、教科書を机の中から出し、次の授業の準備を始めている。健介も慌てて教科書を取り出した。左隣からは、紙の端をそろえる小さな音だけが聞こえた。たった数分、会話を聞いただけなのに、健介は色々考えた。
ツンツンしてる。渡辺みたいなタイプが苦手なのか?……本人も距離が近い人間が苦手だと明言したし。いや、もしかすると、誰にでもこうなのかもしれない。あるいは、男にだけ辛辣である可能性もある。だとすれば……地獄だ。いや、そんな決めつけはよくない。渡辺が言ったからそう思うわけではないが、意外と慣れたら普通に笑ってくれるかもしれないじゃないか。こういうの、ツンデレというのかな。でも、今のところは、ツンツンしてて、しかも、ドライだ。現時点では「デレ」の糸口はなさそうな、ツンデレならぬツンドラ。まあ、これからの暑い季節、ある意味「ツンドラ」はいいのかもしれない。そんな妙なことを思ってしまった。そして、早くも思った。この二か月、案外長いかもしれない。
三時間目の現代文の授業を経て、四時間目が体育だったため、休み時間に話す時間がなく、渡辺は残念そうにしていた。
「今度こそ笑かすつもりやってん」
「……俺、無理だと思う」
健介は呆れるしかなかった。体育の授業でひたすら腹を空かせて、学食で昼食をとった後、健介は教室に戻ってきた。先に昼食を食べていたのか、一ノ瀬は机に顔を突っ伏して寝ていた。昼寝とかするんだな。……いや、起きて誰かとだべってるよりは寝ている方が似合うか。健介はそんなことを考えていた。
昼休み終了十分ちょっと前。玉井絢那が教室へとやってきた。別に健介のところにやってきたわけではない。後ろの雛灯に用があったのだ。
「ひなちゃーん、英文法の教科書貸して」
「持ってないよ。ウチ、時間割変更でグラマーなくなったのよ」
それもこれも席替えのせいである。
「てか、雄人くんはどうした?」
雛灯が眉をひそめる。確かに言われてみれば、彼氏の綾香雄人に借りに行ってもいいはずである。
「……六組もグラマーないんだもん」
なるほど。健介は前の席で聞いていて、苦笑した。哀れなり、玉井。
「なあ、俺、持ってんで。時間割変更忘れて、間違って持ってきた」
渡辺が申し出る。
「ほんと!?わあ、渡辺くん、神!ありがと。今度お好み焼き食べに行くよ」
「おう、雄人と来たらええで。二人でイチャコラしても俺、これっぽっちも嫉妬せえ!へん!し!」
わざとらしく語気を強める。
「やだー、そんなことしないよ」
ちょっと照れつつ笑う玉井。そして、ふと彼女は視界の右の方に目をやった。
「あ、樋口くんも席近いんだね、やっほー」
健介は、自分が気づかれたことにびくっとした。
「ああ、こいつら、また近くて、あんまり席が変わった感じしない」
確かに、健介自身は席替え前も渡辺・雛灯両名と席が近かったが、「席が変わった感じしない」は大嘘だ。主に隣の女子のせいで。一ノ瀬は、いつの間にか顔を上げていた。寝起きらしい乱れも見せず、ただ窓の外を見ている。
「いいなあ。あのね、絢那ね、今回の席替えでもまた茉衣子ちゃんと近くになれなかったんだよ」
玉井は、新学期の時点では、茉衣子の斜め前だったらしい。
「そんなうまくいくもんじゃねえだろ」
「あ、ほたちゃーん!」
健介のツッコミを無視し、玉井は別の人物に声をかけ始めた。
「聞けよ!」と言おうとしたが、いや待て、「ほたちゃん」?
「ほたちゃん」
……一ノ瀬帆宇がおもむろに後ろを向いた。
「……玉井」
「樋口くんの隣だったんだね。なんか久しぶりだね」
「まあ、そんなものじゃない?同じクラスじゃないし」
健介や渡辺と話すのと比べたら、声量もトーンもやや上がっている。笑っているわけではないが、少なくとも、さっきまでのように凍ってはいなかった。玉井とはまさに対照的である。
「知り合いなのか?」
健介が思わず尋ねると、玉井はぱっと顔を向けた。
「うん。中学の時、塾が一緒だったの。茉衣子ちゃんも一緒。ほたちゃんは春若中だったんだけど」
健介も玉井も、そして茉衣子も松が丘学園中の出身だ。春若中なら、隣の校区ではあるが、別の中学校ということになる。
「ほたちゃんって」
「え、かわいくない?」
「呼ばれてる側の許可は取ってるのか、それ」
健介が半ば呆れて言うと、一ノ瀬は窓の外を見たまま、短く答えた。
「許可は出してない」
「出してないんかい」
「でも、訂正するほどでもない」
「ほら、許されてる」
「許してはいない。……もう放置してるだけ」
玉井は気にした様子もなく笑った。
「一ノ瀬さん、塾でもこんな感じだったのか?」
健介が尋ねると、玉井は少し考えるように首を傾げた。
「うーん、こんな感じかな。あんまり自分から喋らないけど、話しかけたらちゃんと答えるし、間違ってるところは普通に指摘するし」
「普通に?」
「うん。普通に、すぱっと」
「……それは普通なのか」
「玉井の普通は、たぶん少し広い」
一ノ瀬が窓の外を見たまま言った。
「茉衣子も一ノ瀬さんのこと知ってるのか?」
「うん」
一ノ瀬ではなく、玉井が答えた。
「茉衣子、うるさいだろ」
健介はあえて一ノ瀬に問う。玉井も大概だが、茉衣子なんてもっと騒がしい。一ノ瀬とはまさに正反対だ。
「茉衣子は……にぎやか」
一ノ瀬は少し考えるように目を伏せた。
「一人で三人分ぐらい喋ってる、とは思う」
「言うねえ」
健介がニヤリと笑う。
「……本人談」
一ノ瀬は目をそらす。まあ、確かに茉衣子は自分の騒々しさを自覚はしている。
「俺は中学から玉井と茉衣子と同級生で。色々あって、今は茉衣子のアパートの隣人になってる」
「絢那のおじいちゃんのアパートなんだよ」
「それは……大変そう」
一ノ瀬が、ほんの少しだけ口角をゆがめる。
「ああ、越して来た時はこの世の終わりかと思った」
「……そこまで言わなくても」
一ノ瀬が目を伏せる。
「ま、まあ、俺もこのところ、あいつがただの一人騒音公害じゃないってのはわかってきたから。……わかるまで三年かかったけどな」
健介は一ノ瀬の反応で気づいた。……別に茉衣子が嫌いなわけじゃないのか。一ノ瀬から「言いすぎ。酷い」と言われたような気がして、慌てて取り消した。心なしか、わずかに悲しそうな声だったようにも聞こえたのだ。
ここで予鈴が鳴る。
「玉井さん、授業始まるで。あと、俺の教科書、落書きだらけやねんけど、気にせんといてや」
「あ、渡辺くんありがとうね。落書き追加していい?」
「……好きにしい」
冗談か本気かわからないトーンに、渡辺が苦笑しつつ返事したところで、玉井は五組に帰った。
「……共通の知り合いが見つかるとはな」
健介は、さっきの続きとばかりに一ノ瀬に話しかけた。
「いるでしょう。あなたも春若町民なんでしょ?」
「そうだけどな」
そこで自然と会話が終わった。
結局、この日健介が、それ以後一ノ瀬帆宇と会話を交わすことはなかった。放課後。徒歩通学の健介と渡辺は一緒に下校する。
「お前、結構一ノ瀬さんにハマっとったんちゃう?」
渡辺が口を開く。
「そうか?」
「なんか、一ノ瀬さん、俺と喋ってる時より声大きかったで」
「そうかなあ……」
健介はそう言われてもあまりピンとこない。玉井と会話しているときとの差は感じたが。
「共通の知り合いが見つかったことがあの子なりに嬉しかったとか?」
「ああ、茉衣子と玉井さんがな。まあ、ありえると思うけどやな……」
渡辺は首を傾げた。そして一瞬、すうっと息を吸う。
「しっかし悔しいなあ!」
「何がだよ」
「あれだけ頑張ってしゃべりかけたのに、俺の方がいまいちハマらんかった」
「……お前も雄人ほどじゃないけど、空回るところ、あるよな」
健介が苦笑する。
「何がちゃうねやろ。なあ、コツとかあるん?」
「知るかよ」
そんなこと健介だってわかるはずがない。
「必死だなあ。惚れたのか?」
「ちゃうわい」
渡辺はそこだけははっきりと断言した。
「……健介はどうなんや?」
「普通に、もうちょっと笑う子の方がいい」
「……せやなあ。ぶっちゃけ俺もそれは同意や」
渡辺は首を傾げた。
「まあ、お前にはもう既にいるしな。お相手」
「……おれへんわ」
渡辺が顔をゆがめた。
「当方でつかんだ情報によりますと、お相手は古波蔵紗莱さん……」
「ちゃうわ、待て」
芸能リポーターっぽくまくしたてる健介を、渡辺が止めた。
「彼女とはいったいどんなご関係で?」
健介はマイクのように拳を渡辺の口元へ向ける。
「知らんわ。記憶にないわ、そんな名前」
「お好み焼きデートをしたとの情報が」
「知らへん言うとるやろがい」
茉衣子やな、しょうもないこと漏らしよって。渡辺は顔をゆがめた。先日、茉衣子やサラが渡辺家が経営するお好み焼き屋に来店したのだ。
「客席で並んで仲睦まじく話していたようですが」
「だからそんな奴知らんて」
誘われたのだ。店を手伝わされて、上がった途端、こっちに来いと茉衣子と二人がかりで呼ばれたのだ。
「お相手はかなり本気とのことですが」
「あんなガキ相手にせえへんて」
「ほう、相手はかなり年下」
「もうええて」
渡辺はあきれてため息をつく。
「でも、そうやって首突っ込んで、サラちゃんにくっつかれる羽目になったわけだしな」
「やめろ」
「まあ、お前のその行動力のおかげで、一ノ瀬さんともひとまず普通には話せそうだよ」
「……どっちかというと玉井さんやない?」
渡辺が首をかしげる。
「それもあるか」
「茉衣子まで絡んできたら、もう大親友なれんのちゃう?知らんけど」
「……それ以前に茉衣子と一ノ瀬さん、喋ってるの想像つかんぞ」
「それは俺も同意やな」
渡辺が笑う。そんなふうに笑いながら帰るころには、朝の席替えで少しだけ変わった教室の景色も、健介の中でようやく今日の出来事として落ち着き始めていた。
【次回予告】
そういえばこのところ出番がなかった健介姉・有希乃。一体どうしてたんでしょうね?
という感じです。お楽しみに。
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