第44話 ロリータ先生の臨時会議
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妙ちゃん、大仕事が舞い込んでます。これは、前話の続きであることはもちろんですが、41話の続きでもあります。
今日は、なんとなく一日が長かった気がする。六時間授業の日なのにだ。榊原妙子は一旦職員室に戻り、約束の午後四時に、生徒指導室へと向かった。言い出しっぺとして少し前に一番乗りで入室した。
ほどなくやってきたのが泉麻里花だった。
「あ、妙ちゃん!妙ちゃん入っていくの、見たんだよ~」
丁度後を追う形で入室したらしい。なお、本日の会議は当初、保健室で計画していたが、生徒が入室してくる可能性があることから、この場所に変わったのだ。
「あ、うん。座って座って。ごめんね、急に」
「ううん、いいのいいの。私の他に誰か来る?」
泉はいつもと変わりない感じで首をかしげる。この瞬間が、妙子にとってのちょっとした癒しだ。
「瑞幾先生とね、りょーちん呼んだ」
「りょーちん?」
「深町くん」
「あー」
深町亮太と学生時代からの知り合いである妙子は、つい泉があまり認識していない愛称を出してしまった。すると、扉が開いた。
「お疲れ様でーす」
噂をすれば何とやらである。
「りょーちん、おっす。そこ座って」
「え、……妙ちゃんと、泉さんと、俺?どういう括りよ、これ」
「まー、これから分かるよ」
困惑する深町。深町は妙子と同じく栄久高校の卒業生である。実は、一学年下の後輩だが、当時からタメ口をきいている。これは、妙子が泉を含めた歴代の教え子にそうしているように、高校時代、後輩にも敬語を使わせていなかったためである。さて、時刻は四時二分。
「瑞幾先生、遅いね」
「瑞幾先生も来んの?」
「来るよ。学年主任だもん」
「ホントに、むしろなぜ俺と泉さんが呼ばれた?」
「えっとね、」
妙子がもう話を始めようとしたところで扉が開いた。
「ごめんなさい、遅くなりました」
中村瑞幾が入室した。
「あー、先生、座ってください。もうこれで全員だから、始めますよ」
二年五組担任・数学科・榊原妙子、二年一組担任兼学年主任・国語科・中村瑞幾、二年六組担任・保健体育科・深町亮太、そして養護教諭・泉麻里花。以上による臨時会議が始まった。妙子は、すうっと深呼吸をして切り出した。
「ウチのクラスの杠千宥の件でですね」
妙子の普段見ないシリアスな表情に、一瞬だけ空気が張り詰める。
「千宥ちゃんねえ」
「あの子、何か問題起こした?ちょっと考えられないけど」
「で、俺は何で呼んだのよ」
三人、特に瑞幾と深町の反応はかなり訝しげである。
「まあ、問題ってことではないんすけど」
ああ、どう説明しよう。妙子は、準備してきたはずなのに焦る。
「まあ、あの子、ずっと女子の制服で通ってるでしょう。私も最近まで、本人がどこまで女子っぽく振る舞いたいのか、よく聞いたことはなかったんです」
ここで一呼吸置く。三人とも妙子をじっと見ている。
「で、先週三者面談やったんです。臨時なんですけど。どういうことかというと、……まあ、本人には『先生たちには共有するよ』って言って許可を得たので言うんだけど、千宥ちゃん、女性ホルモン飲んでるって」
室内が、しんと静まる。まず、事前に妙子から声をかけられ、今日の会議が千宥案件であることは少しだけ知っていた泉が口を開く。
「ああ、やっぱりね」
瑞幾と深町がぐっと泉の方を振り向く。
「泉先生、わかってたの?」
「はい、なんとなくそうかなーって。確証はなかったんですけどね」
瑞幾の問いに泉が答える。
「瑞幾先生と深町先生はわかってなかった感じ?正直、あたしと泉先生みたいになんとなくわかってた人もいれば、全く気づいてなかった人もいると思います。それは、生徒であっても」
「杠は、友達には言ってるの?」
今度は深町が妙子に尋ねる。
「全部に公表したわけじゃないって。でも、ほら、あの子、一緒のアパートに友達いるでしょ」
「ああ、古波蔵とか朝長とか?」
「そそ、あと、樋口の健ちゃんとか、あの辺の子たちね。みんな、千宥ちゃんのことを心配してくれるみたい。えっと、確か、茉衣子ちゃんと健ちゃんと慎吾ちゃんが気づいて千宥ちゃんに聞いて、多分そのうちバレるから気を付けた方がいいってことと、ひとまずはあの子たちもフォローに回るって言ってくれたみたい。……んー、樋口・古波蔵・朝長・朝長・玉井・新宮領、この面子だね、知ってるの」
妙子が指を折って関係者を挙げる。
「美佳ちゃんも知ってるんだ」
新宮領美佳の名前が出て泉が少し驚く。
「……もう、女性化も承知で付き合ってるみたいよ、美佳ちゃん」
その話をした時の千宥の複雑な表情を思い出しつつ、妙子も苦笑しつつ答える。
「杠くんって、妹さんもいるでしょう。その辺にも話は回ったりしてないのかな?」
瑞幾が首をかしげる。
「ああ、そこも。妹の二生ちゃんって、ちょっとメンタルが弱めだから、見かねてあの子の友達に『言っていい』って言ったらしいです。ほら、あの城宮ひろこちゃんと、……忘れたな。さあやちゃんだっけ?」
「かあやちゃんね。若杉果文ちゃん」
泉が訂正を入れる。
「そそ、その子。あの二人は千宥ちゃんも相当信頼してるらしくって、二生ちゃんの負担を減らすためにも分かち合ってもらうことにしたみたい」
ひとまず、簡単な事情は分かったとばかりに瑞幾がうなずいたが、少し難しい顔をする。
「そんな、女性ホルモンって簡単に始められるものなの?病院には行ってる?」
「あたしにはよくわかんないですけど、ネットでも入手する方法があるらしいです。病院は、最近やっと行ったらしいです」
「精神科?」
「はい。宮川の若葉クリニックって聞きましたけど」
「そこから処方を?」
「いや、結局もらってないみたいですね」
妙子も少し難しい表情になる。
「となると、何のために病院に?」
瑞幾も表情が険しくなる。
「あたしも本人の話と、ネットで調べた話とかからしかわかんないんですけど、未成年の性同一性障害の治療って、やっぱり親御さんの同意がいるらしくて」
「そうでしょうね」
「お母さんは割と理解してくれたっぽいんですよ。だけど、お父さんが到底理解するような人じゃないらしくて」
「話をしたわけじゃなくて?」
「はい、昔、女装しただけでブチ切れたらしくって、そういう人だから、まだ黙ってるっぽいです。そもそも親御さんと離れて暮らしてるのも、お父さんと折り合いが悪いからだって」
「そうか、確か、田中丸さんが従姉で、あの子に預けられてるんでしょう」
「はい」
田中丸鈴蘭もまたこの学校のOGである。
「……でですね、話を戻すと、お母さんは千宥ちゃんの健康面を案じて、病院に行こうって言ったそうなんです。で、今の所、健康面は何もないみたいだけど、やっぱりお父さんに同意もらうか、成人するのを待たない限りは正式な治療には進めないという方針を確認したそうです」
「お母さんだけじゃダメなのね。でも、お母さんは、わかってくれたんだ。かなり勇気いったと思う」
泉がしみじみとコメントする。
「あの子のお母さん、いせやちづるなのね」
いせやちづること杠千鶴は福岡を拠点とするフリーアナウンサーである。この九州全土で知名度が高く、なんなら、昔は東京でアナウンサーをしていたので、全国で覚えている人もまあまあいる。
「あー、聞いたことあるかも」
「俺、先週見かけたわ。びびった」
さっきから黙っていた深町が一度だけ口を開いた。
「で、ちづるさん、仕事でそういう人を取材したことあるんだって。だから、理解もあるし、取材してて、思い当たることがあったみたいなのね」
「それは、強いね」
泉が短くコメントした。
「病院は、薬は止めたんでしょ?」
瑞幾が尋ねる。
「いや……。これ、あたしは聞いてなるほどなって思ったんですけど、先生に言われたのは『止めたら隠すに決まってるけど、薬に許可を出すことはできない。だから何も言わない』だって。……あの子にとって、本当に命を懸けるぐらい大事なことですからね。男になったら死ぬぐらいの心持ちなんです。隠れて、焦って、もっと危険な飲み方をしたら、と思うと、やっぱり、そこが落としどころかなと思ってます、千宥ちゃんが十八歳になるまで一年半……。何事もないといいですけどね」
妙子がため息をついた。
「そうねえ……」
瑞幾は少し考えこむ。
「まず、どれぐらい薬を飲んでる?体も、あまり気を付けて見たことなかったけど、変わってきてるの?」
「女性ホルモンは去年の七月からだそうで、ほぼ一年ですね。でも、男性ホルモンを抑える薬は中学の時からだそうです」
「あ、声変わりしてないんだなあ、って思ったけど、そういうことか」
妙子の説明に泉が口を挟む。
「声、ね。確かに……。榊原先生や泉先生は気づいてたんでしょ。どこでそう思ったの?」
「えっと……言葉にするのは難しいですけど、全体的に柔らかい雰囲気って言うんですかね」
泉が首をかしげながら言う。
「あたしは、半袖になってから、二の腕の感じが女の子っぽいなって思ったんですよね。肌の質感って言うのかな。千宥ちゃんによれば、茉衣子ちゃんたちが気づいたのが、抱き心地とか、おしりが大きくなったとか、胸元が見えちゃったとか、そういうことらしいです」
「なるほど……『抱き心地』は古波蔵さん?そこはさておき、確かにそれを見たら、気づくかもね。あとは、どう扱えばいいのかよね。女の子として扱った方がいいのか、とかね。私はあくまで男子生徒として扱ってたつもりなんだけど」
「そこは……本人のカミングアウトがまだなのもありますし、本人によれば、今はこれまでどおりで!だそうです。まあ、先生みたいに男子と見なす人もいますし、それこそ茉衣子ちゃんみたいに女友達として激しめにスキンシップとる子とかいますもんね」
「古波蔵さんは極端よ」
瑞幾が一瞬だけ半笑いになる。
「体育の着替えとか、トイレとかどうしてるんだっけ?」
泉が尋ねる。
「着替えは北校舎三階のちっちゃい物置じゃなかった?多分誰も使ってない。トイレは職員用男子トイレを許可だったかな」
瑞幾は学年主任なだけあって、把握しているらしい。
「僕らにも話はいってるんだけど、杠が使ってるのは見たことないですね」
深町もコメントする。泉が首をかしげる。
「妙ちゃん、実際千宥ちゃんはどこでトイレしてるの……?」
「……しないらしい」
「えっ?」
妙子の回答につい泉は聞き返した。
「しないって?」
「だから、学校では……いや、街へ出かけた時も男女共用のじゃない限りトイレしないって」
「それは……だいぶ問題ね。体に悪いよ」
泉は眉をひそめた。
「どうしても具合悪くなったりするでしょう。その場合、どうしてるの?」
瑞幾も眉をひそめつつ続ける。
「第一体育館のとこ。あっこだけ古ーい男女分かれてないトイレあるでしょ。あれを何度か使ったらしいです。あと、これまでに何回か遅刻したのは、大抵は朝からお腹痛い時だって。学校であんまりトイレできないから、って言ってましたよ。おしっこはだいぶ我慢するようになったって。でも、それは若葉の先生から見てもまずいから学校に対応をお願いしなさいって言われたって」
妙子が目を伏せる。
「それが、職員用トイレだったわけでは」
瑞幾が眼鏡をずり上げる。
「でも、僕らと出くわすのも、あいつは嫌でしょうね」
深町が腕を組みながら言う。
「りょーちんならまだいい方で、カモネ……鴨川先生あたりと出くわした日にゃ、最悪でしょ」
妙子が指摘する。そして、カモネギこと鴨川洋司の名前を出したところで妙子が今朝のことを思い出す。
「あと、今朝、鴨川先生とたまたま千宥ちゃんの話になったの。たぶん、単にあたしに嫌味言いたかっただけだと思うんだけどね、千宥ちゃんに男の制服を着るように指導しなきゃ、みたいなこと言ってたの。瑞幾先生、あの人がなんか妙なこと言わないように、気をつけてもらっていいですか」
瑞幾は、ふーっと大きなため息をつく。保護者からもクレームの多い鴨川の面倒くさい案件がまた一つ舞い込んだ。学年主任であるため、二年生の担任全体をまとめる立場にはあるが、鴨川当人は瑞幾より三年ほど先輩にあたるため、ただでさえ言いにくいし、そうでなくても対応に苦慮するのだ。あまり同僚の悪口は言わない瑞幾だが、正直、「とっととクビになればいいのに」と思っている。
「……わかった。でもマジで妙ちゃんも助けてよ?私だって嫌なんだからあの人」
四人だけの密室。瑞幾も珍しく本音が出てくる。
「いや、誰でも嫌っしょ。あのおっさん」
瑞幾が校内で愛称呼びになるほどぶっちゃけムードになってきたほどなので、妙子も乗っかる。
「まあ、話戻すと、これまでも女子の制服ではあったから、ある程度の対策は取ってきたし、本人の日常的な扱いは今までと変えなくていい。でも一つ懸念はトイレってことはわかりました……ぶっちゃけ、学年会に持ち込みたくはあるけど、ちょっと九組の方にあまり下手に共有したくない相手がいるんですよ。そんで、瑞幾先生にだけは、と思ったわけです」
当然ながら鴨川のことである。
「現実的なところはどうかしら?……泉さん、どう?」
瑞幾は養護教諭に水を向けた。
「最終手段の男女共用トイレ、一応あるけど、第一体育館は遠いですもんね。もっと校舎内に準備できるといいですけどね。実質、千宥ちゃん専用のトイレになるかもだし、現実的なところが、ええと、私も今見当たらなくて」
「わかった。私も考えてみる」
瑞幾が頷いた。
「そして、誰まで伝えるかなんですけど、今は職員にはここまでにしときます。もうカモネギには慎重に行きたいから、学年間もなし。しいて言うなら、妹の二生ちゃんとかしろこちゃん、果文ちゃんの担任をしてる北御門結唯先生ぐらいかな?そのうちでいいけど。……ああそうそう。あとはね、最初に千宥ちゃんに女子の制服で通わせる許可を出したのが……実は理事長なんですね」
「えっ」
三人が声を合わせた。太田黒政信。創立五十年を超えた春若栄久高校の二代目理事長、御年八十歳である。
「そこで理事長出てくるんだ……」
「まじかよ……」
「妙ちゃん、なんで?」
三人が口々にコメントする。泉の質問に、妙子が答える。
「元は、鈴蘭ちゃんが理事長に直談判したんだってさ。あたしだって入学前に理事長からこういう子くるからって言われたんだから。だから、理事長には一応言っとく。当初から薄々こういう子らしいというのは感じてたっぽいから、やっぱりね、っていう報告だけだけど」
泉の質問に妙子が対応する。そして、そのまま話を続ける。
「で、あとは、体育ね」
妙子が深町の方を向く。
「体力がなくなってきた。まあ、ホルモンの影響でしょうね。本人からも男子と体育するのがきつくなってきたって」
「杠、このところほとんど体育見学してるよ」
深町は、ようやく自分が呼ばれた理由を理解したらしい。
「どうなんかね。女子の体育に混ぜてもらうのは難しい?」
「俺の一存じゃなんとも。尾崎にも聞かないとだし、もしかしたら省吾先生にも話す必要があるかも」
尾崎あすかは五組女子の体育を担当している若手の女性教諭であり、中村省吾は体育科全体の責任者だ。
「そっかあ。千宥ちゃんには要確認だね、それは。……ずっと体育休ませる?」
「まあ、今は仕方ないかもな。むしろ、体力云々じゃなく、男子と体育受けさせるの自体は考えた方がいいかもな。ほら、走るのとかはまだしも、球技とかだと、どうしても接触あるでしょ。引き倒すとかだけじゃなく、他の男子が杠の体に触ったりとかあったらまずいんじゃないかな。あとはほら。女子にも杠を混ぜていいかも聞いた方がいいんじゃ?」
「そうかもね。……うちのクラスの子たちならなんか大丈夫な気はするけど」
「本当?誰もあの子がいることに反対する子、いない?」
今度は瑞幾が聞く。
「……なんともです。茉衣子ちゃんとか玉ちゃんあたりは大喜びすらあるけど、内心どう思ってるかわかんない子も確かにいるかも」
妙子が顔をしかめる。
「あんまり千宥ちゃんに責任は感じてほしくないけど、どうしても言い出せない子はいるでしょうね。言っちゃ悪いけど、茉衣子ちゃんあたりがメンチ切って言わせない空気出してる感は、もしかしたらあるかも」
「いい子なんだけどね、茉衣子ちゃん……」
しかし妙子の懸念はもっともだという感じで泉もコメントする。
「妙ちゃん、俺から杠に話を聞くのはOK?」
今度は深町が申し出る。
「りょーちんはいいよ。千宥ちゃんからOKもらってる。もう、あすかちゃんとか省吾先生への橋渡しは、むしろお願いしたいかも」
「わかったよ。体育関係、なんか他あるかな?なければ部活の指導に戻っていいかな」
「うん、ありがと。なんかあればあたしに直でいいからね」
「ごめん。じゃあ、俺はこれで」
深町は三人に一礼し、教室を後にした。
「あとは、トイレに関しては、まあ、瑞幾先生と泉ちゃんが双方持ち帰りで。……それ以外も、泉ちゃんには何かとお世話にはなると思う。あんまり体弱い子じゃないし、もう一年になるなら、安定期に入りつつあるかもだから、今は千宥ちゃんがこういう状態だってことの確認ぐらいしかないけどさ」
「うん。大丈夫。でも、私からも妙ちゃんには色々報告するね。……あ」
泉がスマホを取り出した。
「どったの?」
「保健室で誰か呼んでる。ピンポン置いてるの。私が保健室にいない時に、すぐ飛んで来れるように」
「そっか。行ってあげて。泉ちゃんも今日のところはここまででいいや」
「ごめんね。瑞幾先生も失礼します」
妙子と瑞幾だけが残された。あとは、担任と学年主任の状況確認だった。母親は相談者本人だからいいし、現保護者の鈴蘭もすべてを知っているからいいが、父親にはみだりに連絡しないこと。女性ホルモンに関しては若葉クリニックでの対応に倣い、許可も中止の強制もしないこと。そして一応、先刻退室した泉にもそのことを確認すること。今日の会議内容は妙子の責任で記録し、しかし現状は学校に発表しないこと。そこまでだった。
「あの子にそこまでの家庭の事情があるとは知らなかった。相当やばいの?あの子のお父さんって。えっと、たしかジョウヨウの社長なのよね?」
福岡を本社とする大手家電量販店である。
「はい。でも、千宥ちゃんに聞く限り、元々モラもモラらしいですし、お母さんもかなりその件は話しづらそうにしてましたよ。あと……」
ここで妙子は口ごもった。どこまで共有すべきか。そもそも鈴蘭のもとに身を寄せた理由だ。月陵学園を退学となり、実家に戻された後、軟禁状態に置かれ、高校受験まで外出を禁じられた。
「本人に確認を取っていないので、詳細は伏せますが、虐待まがいの行為もあったようです」
瑞幾が眉をひそめる。
「児相とかには相談しなかったの?」
「話を聞いてからは、あたしも言ったんです。けど、……まあ、このお父さんとやらが本当に変な人で、実家で監護下に置いたかと思いきや、家出されたら勘当同然に突き放すし、かと思いきや妹の二生ちゃんを監視役に置こうとウチに進学させるし。何がしたいのかわからないんです」
「監視役って、それは本当にそうなの?妹さんはお父さんのグルなの?」
「いや、味方です。お父さんだけが手玉に取ってるつもりみたいです。監視役の件は、あたしは千宥ちゃん経由で聞いたんですが、二生ちゃんは本当にお父さんからはっきり言われたらしいですね」
「そう……」
瑞幾がため息をつく。
「で、結局、基本的には高宮に逃げて以降はお父さんも没交渉な状態が続いてるから、殊更事を荒立てたくない、というのが千宥ちゃんの想いなんです。性別のこともあるし、ちょっと特別な事例なんで、行政に介入されて下手な対応を取られるよりは、今の生活を続けたいと言われて、あたしも何も言えなくなっちゃって」
「難しいね」
瑞幾が再度ため息をついた。
「今、あの子自身、困ってることは?」
「あたしが聞く限りは、みんなよくしてくれてありがたい……としか。まあ、癖は強いけど、いい子たちですからね、チーム・アネックスは」
「なにそれ?」
瑞幾が首をかしげる。
「あの子たち、アネックスってアパートに住んでるからそう言うんですよ。ただ、茉衣子ちゃんとかは特に無茶しちゃうから、そこも気にかけておかないと」
「まっすぐな子よね。ちょっと人に絡みたがりな所はあるけど」
「あたしも割とそういうタチだから気持ちはわかりますよ。あとは、慎吾ちゃんと付き合い始めてからは、割と手綱を引っ張ってくれてるって言うか」
「ああ、朝長くんは賢いね。もうちょっと校則守ってくれたら完璧なんだけど」
慎吾は入学時からずっと髪を染めている。本当は校則違反である。
「まあ、それもあたしが現役の時からやってたことだし。……まあ、色々気がかりな所はあるけど、千宥ちゃんに関しては、ここまでであたしが把握してるほぼ全部出したつもりっすよ。いい方に転がってくれたらいいんですけどね」
「そうねえ」
十秒ほど沈黙が流れる。
「わかった。私の方も、まあ気がけてはおくから。でもまあ、妙ちゃんからこんな真面目な話が飛び出すとか思ってなかったなあ」
話が一段落し、ちょっと雑談モードへと入った。瑞幾はなんだか感慨深げではある。
「あたしもやるときはやりますよ。こんな格好してても好感度はいい自信はあるんだから。カモネギよりは」
「基準が低すぎる」
「敢えてっす」
そこで二人で笑いあった。
その後、妙子と瑞幾は生徒指導室を後にした。気づけば、もういい時間だ。この会議で結構時間を取られたので、今日は残業コースだ。二年生の教室の前をなんとなく通っている。案の定、千宥は帰宅している。うん、いいだろう。まだ報告できるようなことはさほどない。明日、聞かれたら答えることにしよう。
中村瑞幾。感情の起伏は少なめで、ちょっと考えが読めない。正直、ちょっとだけ苦手だった。妙子が新人として赴任する三年前からこの栄久に勤めているらしい。十四歳年上で、あちらが一浪、こちらが現役の為、教師としてのキャリアは十三年上だ。ただ、前任校があり、妙子の栄久卒業後に赴任したため、「元恩師」の同僚が多い中、瑞幾は妙子にとっては「同僚として知り合った」人だ。
自らが生徒を含めた周囲の人物に努めて「妙ちゃん」と呼ばせている。あくまで任意であるため、「榊原先生」ないし「妙子先生」と呼ぶ人を止めたりはしないが、生徒にも職員にもかなり浸透はしている。瑞幾に関して言えば、しばらくは「榊原先生」としか呼ばれていなかったが、赴任から二年ほどしたある飲み会でそう呼んでくれて以来、こうやって時々は「妙ちゃん」と呼んでくれるようになった。しかし、去年まで同じ学年の担任をすることも滅多になく、そうでなくても、ただ生真面目で堅物とすらいえる瑞幾と型破りで良くも悪くも教師らしくない妙子は、なんとなく「気が合う」と言える相手でもない為、お互い干渉せずにきた。
去年、瑞幾は出世して学年主任になった。一クラスの担任である妙子は、部下ではないが、なんだかそういう感じの関係となった。ただ、こう見えて、クラス運営は割と上手な方で、良くも悪くも瑞幾の厄介になることは少なかった。だから、ここまでわかり合えずにいた。今回、千宥の性別に関する問題というこの学校のほとんどの教師が対応したことのない問題を共有することによって、はじめて膝を突き合わせて話すことができた気がする。
瑞幾先生、話してみたらいい人だったな。妙子は勤続八年、はじめて認識した。
人間関係、どの人たちとも上手くいけば文句はないのだが、実社会でそれは理想論、机上の空論である。そして、あまりいい話ではないのかもしれないが、社会生活において、周囲が団結しやすい状況というのは、えてして「共通敵がいる」状況である。瑞幾はもちろん、泉や深町、おそらくは千宥だって共通する敵は、きっと鴨川なのだろう。千宥の問題においては、千宥のジェンダー関係の問題を理解しようとしない。それどころか、どこまで本気なのかはさておき、千宥を男子生徒らしく「矯正」せんとする。由々しきことだ。そうでなくとも、生徒・同僚・保護者問わずいさかいを起こす。しかし、決して最終的に生徒を見捨てるかと言われればそうではなく、進学成績などの面で大きなトラブルは起こしていない。だからこそ厄介なのだ。
ところで、千宥と千鶴、鈴蘭といった関係者との関係性において、おそらく大きな共通敵は、千宥の父である杠万寿美なのだろう。妙子は、直接会ったことはなく、彼が会長を務めるジョウヨウ株式会社の公式サイトにてご尊顔を目にしたのみである。鴨川や瑞幾とはまた違った「堅物そうな」男だという印象だ。ただ、ジェンダーについての意識もさることながら、千宥や鈴蘭から聞いたことがある、二年ほど前に彼が千宥にした仕打ちが本当なら、許しがたいことである。今は没交渉状態だが、なにかあって千宥と急に会うことになったら、そして、もしも女性化の件が知られて、激昂したら……?考えると恐ろしい。
考えてもキリがない。そして、少なくとも父親のことはよく知らないのだから、あまり口出しするわけにもいかない。一旦考えるのをやめよう。妙子はデスクに腰を掛け、別の仕事に手を付けた。今日はなんとなく長く感じたが、まだまだ終わらない。正直、月曜日からこの状態は気が滅入る。でも、どうにかして早く帰ってベッドに寝っ転がりたいな。妙子はそのささやかな願いをなんとか近づけるため、プリント類を目の前に気合を入れ直した。
【次回予告】
今年度初の席替え。隣の席になったのは……?
という感じです。お楽しみに。
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