第43話 ロリータ先生の朝は忙しい
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途中、妙ちゃんと伊福先生が話しますが、その時に妙ちゃんが考えた「あること」。これは私自身が、中学時代の恩師(ちなみに伊福先生のモデル)を見て以降ずっと心の中に置いていることです。私も、ロリータファッションを着たりはしないものの、変なやつなので。
ちなみにこの話はちょっとだけ書いてもらいましたが、それもほとんど自分で手直してしましたので、この分析となりました。
榊原妙子の朝はだいたい六時ぐらいに始まる。
起きて、歯を磨いて、一旦運動着に着替える。朝の日課のジョギングをするのだ。
運動着――それは高校のガチの体操服だ。母校である春若栄久高校の実物の体操服だが、実のところ、その母校に教諭として赴任して以降、近年購入したものだ。
そこまでの愛校心、というよりは、自分がいつまでも学生のように若く、また可憐でありたいという願望だ。今年の一月、ついに三十歳となり、改めてその思いが強まった。それが、ロリータファッションで教壇に立つことに「敢えてつけるならこう」というぐらいの理由だ。実際にはただ好きなだけだが。ただ、こうやって体操服を愛用したり、節目節目で制服で出勤するのはその思いの表れなのかもしれない。
玄関を閉め、施錠し、鍵を短パンのポケットにしまい、走り出した。
高宮市北部の梓巳団地の一角、築五十年の平屋の戸建て。妙子は今、ここに一人で暮らす。妹や弟は東京で一人暮らしをしているし、両親はというと、父親が県北の仙波市にここ十年ほど赴任していることから、夫婦でマンションを借りて住んでいるのだ。そして、高校ぐらいまで家族で住んでいた梓巳近辺のマンションは、もう引き払った。そこそこ慣れ親しんだ住まいではあったが、今ではもはや「実家」ではない。きっと今、誰かのものなのだろう。
この家は元は母の実家であり、八年ほど前までは祖母が一人で住んでいた。よって、表札も「榊原」ではなく「中島」である。妙子の祖父はそのさらに五年前に他界し、この頃、祖母が一人での生活が難しくなった、とのことで施設に入ることになった。この中島家を維持する身内を募集していた頃に、九州大学を卒業見込みの妙子が帰郷し高校教師になる、というとても丁度いいタイミングだったわけだ。
「妙子、そしたらおばあちゃんの世話もしてくれないかな。施設も安くなくて」
そう母親に言われた。
「ママ、あたし日中家いないよ」
母親も本気で在宅介護を任せるつもりではなかったらしく、それであっさり引き下がり、地元での独り暮らしが決まった、というわけである。平屋とはいえ部屋数は多いため、両親が泊まりに来た時用に確保している部屋を除けば、ふんだんに衣裳部屋に使える。福岡の一人暮らしのアパートとは大違いである。ちなみに、御年九十一の祖母は春若町の隣の菊水寺町の老人ホームで元気に暮らしており、妙子もたまに会いに行く。
こうやって運動しているときは、できるだけ頭を空っぽにしている。授業のこと、クラス運営のこと、これだけ目立つことをしているだけにたまに他職員との軋轢もあったりする。あたしもこう見えて、悩んでる。でも、そういうことを言える相手も実はそういない。
いるとしたら、妙子の初担任時の生徒で、一年前に新人養護教諭として母校に戻ってきた泉麻里花ぐらいであろうか。
自分があまり生徒に「先生」と呼ばせ、敬わせる関係を醸成してこなかっただけあってか、今こうして元生徒が戻ってきて、同僚としてフラットに付き合えるのもありがたい。初期の生徒で年齢差自体が小さいこともあるのかもしれないが。今日ぐらい、あの間延びした「妙ちゃんどうしたの~?」という声が聞きたい。
梓巳団地の一番麓にやや大きめの交差点(といっても片側一車線同士だが)があり、そこを過ぎると小学校が見える。今住んでいる家で育ったわけではないが、高校までも梓巳の近所に住んでいることから、この梓巳小学校が母校だった。一周二キロ弱のジョギングコース。小学校を過ぎてちょっとしたぐらいが中間地点だ。山を切り開いた昔からある団地。多少のアップダウンはあるが、全体的な高低差は四十メートルあるかないかぐらいだ。人によってはきつく感じるかもしれないが、さほど急な坂が続くわけではなく、元々陸上部だった妙子には軽い運動という具合のコースだ。
小学校を過ぎ、バス通りと分かれたところで、ふとある生徒のことが頭をよぎる。杠千宥。彼女?……ん?彼女?彼?妙子の中でも三人称がブレまくるが、もう「あんなこと」聞いたら「彼女」でいった方がよかろう。
つい先日、金曜日に三者面談が行われた。それは、今年二月にやった千宥の母親から依頼された臨時の個人面談と同様の臨時面談だ。あの時もびっくりしたし、今回も当然ながらびっくりした。というか、この杠千宥という生徒にはずっと驚かされてばかりだ。
最初に、理事長の太田黒政信から話を聞かされたのは去年の三月だった。長年の付き合いで、かなりフランクに接している。たまに愛人疑惑が出るが、何もない。妙子は自分が生徒に必要以上にフランクな接し方を推奨している分、上も「いける人」にはとことんフランクなのだ。
「妙ちゃんさあ。ちょっと今年面白い子が入学するんだよ。一応男で届けられてるけど、女子の制服着たいって言うのよ」
「ああ、トランスジェンダー的な?令和よねえ、なんだか」
「詳しくは聞いてないけど、そうなんじゃない?まあ、人と違う格好するわけだから、僕の中でも、できれば三年間妙ちゃんに任せたいなって」
「ちょっと、その理由何よ。あたし、それ専門なの?」
妙子は笑いながら突っ込む。いざ入学してみると、女の子にしか見えないかわいらしい子で、おまけに成績優秀、品行方正、温柔敦厚。多分、歴代受け持った生徒でも屈指の非の打ち所がないいい子。それが、妙子が一年あまり受け持ったうえでの千宥の感想だ。話を聞いた時点でトランスジェンダーの類ではないか?と思ってはいたが、それはあえて聞かなかった。ただ、自分ではなく、学園のもっと上層部から、更衣やトイレの配慮について指示を受けているらしいことは聞いていた。
このところ、千宥に変な噂が立っていた。実は千宥は本当に女の子なのではないか?と。誰も千宥の体を見たという話はない。服の上では――妙子も噂を聞いてやっとこさ「言われてみれば」と思ったレベルであるが、改めて見ると確かに不自然だ。しかし、あまり決めつけていい話ではないし、かといって、今後の管理の問題もあるので、本人に聞いた方がいいのかも?その葛藤があった矢先の面談だった。
一年生の時に行った定期の三者面談は、千宥と離れて暮らす親の代わりをしているという従姉の田中丸鈴蘭が参加した。今回は先述の臨時面談同様、母親が来た。思えば最初に会ったときはびっくりしたものだ。「杠千鶴」と、ただ単に千宥当人と似た名前をしていただけに、何も考えていなかったが、会ってみたら、タレントのいせやちづるだったとは。千鶴も妙子の服装に面食らっていたようだが、後日千宥から聞いた限りでは、「とてもいい先生ね」と言ってもらえた、とのことだった。そんな千鶴と、そして千宥が神妙な顔をしていた。
――と、そこまで考えたところで、「中島」の表札にたどり着いた。慣れた手つきで玄関のドアを開け、着ていた体操服と下着をまとめて洗濯機に投げ込み、シャワーを浴びる。このところ、暑くなってシャワーで済ませるようになった。
鏡を見る。お気に入りのピンクがかった紫のヘアカラー。……ちょっとプリンになってきている。プリンはプリンでも紅芋プリンか、とかそんなしょうもないことが頭をよぎる。
「染めないとなあ」
そう独りごちる。しばし千宥のことを忘れているようだ。自動湯沸かし器の時計を見る。六時四十分。あんまりゆっくりもしていられない。職場までは車で十五分程度だが、やはり七時十五分には家を出たいのだ。ひとまず手を動かすことにして、洗髪し、身体も洗う。
風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かすと、裸のまま衣裳部屋へ向かい、服を着る。この髪色に合う服装、ということで、どうしても赤系が多くなる。元々赤が好きというのもあるが。黒いリボンを首元で結び、裾に控えめなレースの入ったワインレッドのクラシカルロリータを選ぶ。着替えると、机に置いた鞄を掴み、玄関を飛び出す。そして、愛車のピンクのパッソに乗り込み、出勤した。
家から三分、先ほどのジョギングコースをなぞっている所であるが、コンビニに立ち寄る。一人暮らしなのもあり、朝はズボラしてコンビニのパンないしおにぎりで済ませがちだ。どちらかというとパン派だが、今日はおにぎりの気分だ。鮭と高菜のおにぎりを掴み、レジに向かう。
「妙ちゃん、おにぎり珍しいね」
馴染みの店員のおばちゃんが声をかける。
「そうでもないでしょ。週に一、二はあるけどねえ」
「そうかなあ。あたし的に三週間ぶりな気がするけど」
「シフトとか並ぶレジでそうなったんでしょ。アッコさんにレジしてもらうの、ちょっと久しぶりな気がするもん」
「そう?そのお洋服でおにぎりなの、ギャップよねえ。はい、毎度ありがとうございます」
「あはは、よく言われる。じゃあね」
店員に一礼し、コンビニを後にする。あとは、学校に向かうだけだ。シャインヒルまでちょっとだけ坂を上り、後はひたすら下り坂だ。
運転に決して頭を使わない、ということはないが、周囲の交通状況に気を配っても、脳の領域にはまだ余りがある。すなわち、つい、運転中に軽く考え事をしてしまうのだ。そうなると、千宥の話の続きが浮かぶ。
あの日、面談で、千鶴は神妙な面持ちで、千宥はいつになく緊張でガタガタ震えているのが印象的だった。前の面談で、母親に女装を内緒にしている、という理由で男子の制服だったのが、この日はいつもの女子の制服だったのだ。ははあん。もう、ママに隠さなくてよくなったんだ。妙子としてはどちらかというと喜ばしい話だと感じ、緊張を和らげるため、こう切り出した。
「千宥ちゃん。今日はこっちの制服を着てきたんだね。もうお母さんにも隠さなくてよくなったんだ?」
しかし、千宥は、なお一層、震える声で言った。
「そ、そのことなんです。今日は……。はい」
そうしてうつむく千宥。おやおやあ?「そのこと」という話だし、千宥はかなり深刻そうだ。千鶴まで難しい顔をしている。もしかして、かなり悪い話なのか?もしかして、親にも報告せず女子の制服で通わせた抗議まである?妙子も内心穏やかではなくなった。
「実は、……うちの子、女性ホルモンを飲んでるみたいなんです」
千鶴は一呼吸おいて、神妙な面持ちでそう告げた。うつむく千宥。格好というか、もうそれよりも先の話のようだった。妙子はぶっちゃけ、「ああ、やっぱり」と思った。決してほっとしたわけではないが。そして、それはおくびにも出さなかった。少なくとも、千鶴が持ち掛けた議題は、「女装」よりも「女性化」だ。まず、そちらに頭をシフトする。
「千宥ちゃん、本当?」
そう確認すると、千宥は「はい」と小さく発し、頷いた。
その後の聴取では、なんと一年近く前から女性ホルモンを飲んでいるし、なんなら、男性ホルモンを抑える薬はもう三年ぐらい前から飲んでいるとのことだった。要は、そこまでして千宥にとって男としての成長は苦痛だったらしい。
正直、妙子にはわからない。女として生まれて三十年、自分の女性性を疑ったことがこれまで一度もない。当然、それは千鶴も同じだろう。妙子に子供はいないが、もしも自分に子供がいて、親にも言わずこういう大変な薬を飲み始めたらどう思うだろうか?そう考えると、妙子も内心穏やかではない。
千宥はかなりしどろもどろになりながらも、状況説明をする。女の子として生まれたかった。男らしくなるのが嫌だった。そうなっちゃうのなら死んでもいい。だから命を懸けて薬を飲んだ。必死の訴えだった。千鶴はそれを横で聞きながら、言葉に詰まった時には、助け舟も出していた。
この姿勢からすると、千鶴は決して大反対、というわけでもないようだった。多分だけど、こういう場合反対する親であり、しかも面談まで申し込むような親なら、この場で「先生からもやめるように言ってください」とするものだろう。しかし、千鶴の訴えはそうではなかった。
「こちらでも病院受診を始めたところですが、必要な措置があれば検討いただきたいです」
どうやら、宮川らへんにある若葉クリニックというメンタルクリニックに行ったらしいのだが、そこでの医師のアドバイスも受け、学校に対応を依頼したい、というのが今日の本題らしかった。
信号が青になり、ハッと我に返る。そして、ここまでの面談の回想を反芻する。
「理解しようとしてるんだな」
妙子はハンドルを握りながらつぶやいた。そう思うのは、彼女自身もそうしているからである。
母親としての覚悟は相当らしい。ただ、千宥によると、未成年の性別違和の治療は親「両方の」同意がいるらしい。これは千宥もしきりに訴えていたことだが、父親の理解は到底得られないらしい。曰く、その昔、遊びで女装した時に、本気でブチ切れられたらしく、ここまでやっているのを知られたら、本当に身の危険すら考えられるようだ。そういうわけで結局、正式な治療には未だ移行できていないし、訪れた精神科でもやはりできないと言われたそうだ。だから、検査結果が許容範囲内であることを確認したまでで、ホルモン自体は「黙認状態」。
「止めたところで、隠れてやるのはわかり切ってるから、やめなさいともいいよとも言わない、って、そう言われました」
とは千宥の弁。すべての医師がそういうスタンスではないとは思うが、若葉クリニックの先生はそう判断したらしい。
「はあ……」
ため息が出る。千宥が悪いわけでは決してない。しかし、教師生活八年、最大の難問が立ちはだかっているのは事実だ。理事長、マジ勘弁なんですけど。そう言いたくもなる。
「ほんとに泉ちゃんとこ、行かないとなあ」
今日は月曜日。あの面談から初めての平日だ。問題の性質上、養護教諭である泉との調整は必要だ。学年主任ぐらいには今のうちに言った方がよかろう。……あたしの負担をちぎって他の先生にも投げないと。あたし一人じゃ抱えきれない。そういう本音でもある。
さて、次の交差点を右に曲がって、二分ほど坂を登れば到着だ。普通車が離合できる程度の細い坂道は、ちらほら徒歩通学の生徒が坂を上っている。そして、ほどなく、坂を上り切り、職員駐車場にパッソを停めた。
助手席に放り投げていた鞄とさっきのレジ袋をひっつかみ、校舎へと向かう。
「あ、妙ちゃんだー。おはよー」
「先生、おはようございます」
「妙ちゃん、ちーっす」
生徒たちが次々と声をかけてくる。
「はーい、おはよー。みんな早いねえ」
軽く手を掲げながらにこやかに歩いて行く。あんまりこういうことは言わないが、愛想よくするのも大変だ。特に、こういう重大な問題を抱えているときは。それを他の生徒の前で出さないのは気を遣う。職員玄関で上履きに履き替え、職員室へ入る。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
数人の教員が顔を上げる。
「おはようございます。先生、今日はまた赤いですね」
北御門結唯だった。妙子もやや小柄だが、そんな妙子より十センチ近くも低い。泉と同じ、二年目。彼女は栄久のOGではないが、泉とは大学時代からの友人で、泉の親友であり、泉と同じくらいには印象深い教え子の樋口有希乃と三人で仲良しだと聞いている。そういうわけもあり、まずもってまだ若手であることもあり、よく目をかけている。この春から担任を持つようになった、ということもあり、よく相談に乗ってあげている。妙子から見てちょっと真面目過ぎる所もあるけど、カタブツというほどでもなく、むしろ非常に好感が持てるいい子だ。泉とは違い、教え子ではないからか、あるいは単なるキャラクターか、妙子には先輩として丁寧に接する。
「あー、ゆいぴょん、おっつー。金曜日黒だったからね」
あの面談の日、妙子はゴスロリで出勤していた。
「そういう問題ですか?」
「そういう問題」
適当に返しながら自席へ向かう。机の上には提出物が数枚。数日後の学年会の資料。今週の予定表。パソコンを立ち上げる。
メールが十五件。
「朝から多いなあ……」
思わずため息が漏れた。その時だった。
「妙ちゃーん」
聞き慣れた間延びした声。振り返る。保健室から上がってきたばかりらしい泉麻里花が立っていた。
「おはよー」
「あー、おはよう、泉ちゃん」
「どうしたの、顔?」
泉が首をかしげる。
「……あたし、今どんな顔してる?」
「悩んでる顔」
妙子は思わず笑った。
「そんな分かる?」
「分かるよー」
泉は妙子にもう一歩近づく。
「クラスの事?」
「まあね」
「千宥ちゃん?」
妙子はふーっとため息をついた。
「勘、いいね」
「あー、なんかそうかなって。私もちょっと、気になることがね」
「泉ちゃんから見てもそう思う?まあ、泉ちゃんにも共有予定だったからね」
ここで、泉も巻き込む宣言を一応しておく。
「あ、私も聞かないとなんだ。……どうしよう。保健室来る?あとで」
「が、いいのかなあ。まだ全体会議で言うには早いでしょ」
「そうなのね。じゃあ、またあとでお互いいい時にしよ」
そう言うと泉は手をひらひらさせながら自分の机へ戻っていった。相変わらずマイペースである。けれど少しだけ気が楽になった。七時四十六分。あと十分しないうちに、八時からの早朝テストの監督に向かわなければならない。ただ、それまでの間にコーヒーが飲みたくて、職員室の一角にあるサーバーまで向かう。そして、コーヒーを持って机に戻る。
「おはようございますー」
「榊原先生」
途中ですれ違った先生に呼び止められた。顔を見上げて、思わず眉をひそめた。
「鴨川先生……」
鴨川洋司。四十六歳。妙子と同じ、二年生を中心に数学を受け持っている。ちなみに九組の担任だ。やせた体に、坊主頭と銀縁眼鏡。外見にもまあまあのクセがある。妙子が言えたことではないのかもしれないが。その葱のように痩せた体と名前から、カモネギとあだ名されている。妙子が生徒だった頃からそう呼ばれていた。うまいな。誰が付けたんだろ。でもってよく伝承されるな。妙子がちょくちょく考えることである。
「おはようございます。また随分華やかな格好でね。先生はみんなの注目の的だ」
「はあ。ありがとうございます」
適当に返すが、これが鴨川なりの皮肉であることは妙子にもわかる。思えば、春若栄久高校に勤続二十数年、当然ながら妙子も学生時代からよく知っているが、当時から今に至るまで多くの生徒に嫌われている。すぐ怒る、スイッチ入ると説教長い、特技は嫌味・皮肉。思えば、九州大学を出てこの学校で数学を教えるという彼と全く同じルートをたどることになってしまったのも、ちょっと口惜しい。別に狙ったわけではないが。ついでに言うなら、彼は県北の出身なので栄久OBでないことは違う。
要は、鴨川が言いたいのは、「こんなふざけた格好で仕事しに来る奴があるか」という話である。それ自体は、正直、鴨川の方が正しい。でも、正論で殴って嫌われるより、型破りでも好かれたい。そしてその上で成果も上げたい。それが妙子の信条だ。要は、絶対に気が合わない相手だ。
「先生は、生徒に服装などの指導をしないのかな?」
「しないっすね。よほどパンツまる見えとかで歩いてない限りは。……あたしが言っても説得力ゼロなの、先生も知ってるでしょ。そういうのは先生におまかせしますよ」
こういう口答えをする同僚教師のことなど、距離を置いてくれればいいのに、同族認定されて気に入られるのか、単純に口喧嘩が趣味なのか、嫌に絡んでくるのが鴨川だ。かと言って、口ごもればゴン攻めしてくるので、一緒なのだ。要は、デッド・オア・ダイ。ならばこっちも武装するしかないと妙子は学生時代から悟っていた。そして、就職しても大して変わらない。ほんと、相変わらずめんどくさいおっさん。妙子はちょっと生徒に見せられないような顔になってくる。
「うん。指導力不足」
ぴしゃりと言われ、妙子は口角が歪む。鴨川は続けた。
「ならば、確か先生のクラスに、どういうわけか女子の制服を着てくる男子生徒がいたはずだ。彼を指導しなければなあ」
ピクリと肩が上がる。よりによって千宥が槍玉に挙げられた。
「先生、杠さんは学校の許可を得ていますよ。許可を得れば校則で定められた制服以外の着用も認める。そうでしょ?」
「何のために?暑いから上着を脱ぐわけでも、腕を骨折しているから袖を通せないわけでもないでしょう。彼がわざわざ女子の制服を着る理由など、あるのかな?」
今は同僚教師として、学生時代よりやんわりとした口調で聞いてくるが、それが妙に腹が立つ。あーもう、このおっさん。妙子が本気でイライラしてきたその時だった。
「いやー、交通渋滞、遅刻寸前、油断大敵」
このギスギスした雰囲気をつんざく声が、妙子と鴨川の真横を通過した。伊福成芳だ。六十三歳のベテラン教師。ちなみに担当教科は英語だ。
「ああ、おはよう、妙ちゃん、鴨川さん」
「先生遅かったね。どうしたの?」
「うん?朝っぱらからお腹が痛くて五分長くうんこしてたんだ。そしたら、十分は遅くなるね。いやーまいった」
朝からちょっと品のない話。しかし、それが妙子の張りつめた神経を一気に解放した。
「やだー、やめてよ。先生、おむつしてきたら?」
「そうしようかなあ。出勤してきて臭かったらごめんなさいね」
「保健室に換え用意してもらったら?泉ちゃんに言っとくよ」
この、文字通り「シモ」の冗談の方が盛り上がり、場の雰囲気がガラッと変わる。鴨川は眉をひそめながら小さく「失礼」といい去っていった。結局、鴨川にとって後輩いびりはストレス発散でしかないのだ。だから、こうやってストレスを感じると、去っていく。覿面である。妙子は鴨川を見届け、小声で伊福に言う。
「先生、ありがと。めっちゃ助かった」
妙子はほっと胸をなでおろす。伊福は伊福で変人だが、こういうときは本当にありがたい。普段、妙子は近所のおじさんのように伊福をいじるし、こうやってナメた口を叩く。だが実のところ、変な話、伊福をとても尊敬しているというか、憧れている。妙子は自分が変人である自覚は十二分にある。だから、同じ変人なら、伊福のように「善き変人」になりたい。妙子は常々そう考えているのだ。
「妙ちゃん大変だねえ。僕には言ってこないんだけどね、あんまり」
「多分先輩には言わないんじゃない?ああ見えてあの人、変に体育会系だから」
「めっちゃ文化系だけどねえ、カレ」
「あたしもそうだけど、下にはめっちゃ言うかんね。ゆいぴょんとか見てて可哀想になるもん」
「北御門さんはねえ。まあ、適当にやっていくしかないよ。うん」
安堵しながら机に戻り、鴨川に絡まれている間に温度が少し下がったコーヒーに口をつける。時計を見る。七時五十四分。まずい。急がなければ。妙子はコーヒーを飲み干し、プリントの束を持って教室へと向かった。
二年五組の教室へ入る。
「はい、おはよー。テスト始めるよー」
まだざわついていた教室が少しずつ静かになる。妙子は出席簿を机に置き、問題用紙を配り始めた。週初め恒例の英単語テスト。担当教科は数学だが、こういう小テストは担任が監督するのが常だ。
「はい後ろ回してー」
「あ、妙ちゃーん!一枚足りない」
とある列の後ろの方から声が飛ぶ。
「嘘だー」
妙子が苦笑する。
「マジ、マジ」
「本当に足りないの?うっそ、ごめん。そこの列ね」
教室のあちこちから小さな笑い声が上がる。予備を申し出た生徒のいる列に一枚渡し、回してもらう。時計を見る。八時ちょうど。
「じゃあ始めてください」
一斉にペンの音が響き始める。妙子は教卓の中に収めてある椅子を引き出し、腰を掛ける。そして、教室を見回した。普段は賑やかな二年五組も、この時間だけは静かだ。こういう時間は嫌いじゃない。みんな静かだからこそ、生徒たちを俯瞰してじっくりと観察できる。窓際で首をかしげながら解き進める玉井絢那。後ろの方で問題用紙を睨んでいる古波蔵茉衣子。相変わらず姿勢のいいエレガントな新宮領美佳。そして、杠千宥。やはり真面目だ。迷いなく書き進めている。いつも通り。少なくとも表面上は。妙子は視線を外した。担任だからこそ、あまり見すぎない方がいいこともある。
テストは十分で終わった。答案を回収し、時計を見る。八時十分。職員会議まであと五分。
「じゃあみんな、一時間目の準備しといてねー」
答案を抱えて職員室へ戻ってきた。自分のデスクに答案を置く。ペンケース。会議資料。必要なものをまとめる。時計は八時十四分を指していた。
「やば」
もうこんな時間だ。やはり朝は慌ただしい。一分後。教頭が前に立つ。
「それでは朝の職員会議を始めます」
その教頭から連絡事項。教育実習生の受け入れ。生活指導関係。毎度のように話は長い。妙子は手元の資料に目を落としながら聞いていた。
ふと前方を見る。体育教師の深町亮太がいる。二年六組の担任で、妙子のクラスの男子の授業も受け持っている。深町は栄久高校時代のひとつ後輩で、当時からの仲だ。
はっ。妙子は息をのむ。面談の時に、千宥から「男子の体育の授業についていけない」と申し出があったことを思い出したのだ。……りょーちんに体育の件も話さないとじゃん。やっば。忘れてた。そして、まだこの職員会議に出すのは尚早のような気はするが、まずは学年主任には話さないと。そして、これは泉にも宣言済みだが、保健室とも連携が必要だ。……考えることが多い。
会議終了。会議が終わるまで生徒は外で待たされており、会議終了で誰かが扉を開けると、生徒たちが一気に押し寄せ、対応を求められる教師もいる。今日のところは、妙子の所には誰も来ないようだ。ふう。一息つき、妙子も出席簿を抱えて立ち上がった。
ふと、前を二年一組の担任であり、学年主任でもある中村瑞幾が通りかかった。
「ああ、瑞幾先生」
生真面目なキャラに合わずファーストネームで呼ばれる中村瑞幾だが、彼女の場合は中村先生が複数名いる都合である。
「……ああ、どうしたの?」
「今日、放課後のどっかで、時間ありません?ちょっと大事な話があって」
「先生の『大事な話』ってちょっと何か想像つかないけどね。ガチ?」
「ガチもガチっす。……事情があって保健室で話したいんですけど。泉先生にも言わないとなんで」
瑞幾がちょっと固まる。表情が読めない。鴨川のような「害悪さ」はないが、正直、彼女は彼女で妙子があまり得意なタイプではない。
「ああ、まあ、いいけど。私は四時以降なら全然」
このフリーズが「何かを察した」のか、「単純にわからず思考停止した」のか、それはわからない。でも、応じてもらえたのは大きい。
「すみません、お願いしますね」
妙子は一礼し、教室へと向かう。
廊下を歩く。教室からは賑やかな声が聞こえる。妙子は、生徒たちの元気な声が好きだ。……時としてうるさすぎることもあるが。
「おはよー」
「あ、妙ちゃん!」
「おはようございます」
時折声が飛んでくる。
「はーい。おはよー。もうすぐ始まるよー」
妙子がにこやかに応じる。そのそばから、チャイムが鳴った。生徒たちが慌てて教室へと戻っていく。
「走らないよー」
妙子が言うが、あまり人のことを言えた義理ではない。高校時代、雨の日に教室に急いで戻ろうとして足を滑らせ、パンツ丸見えで「犬神家」のようなポーズで転倒したことがあるのだ。……あの時はしばらくあだ名が「スケキヨ」になった。当時を思い出し妙子は苦笑いする。
教室前に立つ。一度だけ深呼吸。そして扉を開けた。いつもの二年五組だ。教壇へ向かいながら教室を見渡す。
茉衣子が誰かと笑っている。玉井もいる。美佳は静かに席についている。そして、千宥もいる。いつも通りの表情。少なくとも周囲にはそう見える。妙子は一瞬だけ千宥と目が合った。千宥が小さく会釈する。妙子も同じように頷いた。今は担任としていつも通りに。それでいい。
「はいはい、みんな座ってー。ホームルーム始めるよー」
騒がしかった教室が少しずつ静かになっていく。妙子は出席簿を開いた。妙子の、いつもよりちょっとだけ慌ただしい朝はまだまだ続く。今日も忙しくなりそうだ。
【次回予告】
いつになく真面目な妙子の緊急会議。
次回に続きます。お楽しみに。
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