第41話 母がいた四日間
※おことわり※
性別違和当事者で、正規の治療ルートに乗れない人物についての描写があります。詳細については第21話のあとがきに書いておりますので、この話から初めてお読みになる場合は、目を通しておくようお願いいたします。
また、今回、精神科クリニックを受診する描写がありますが(ただし、正規治療ルートには乗れず)、そういう場合の医師の対応はおそらくかなり差があると思います(そのへんはネットを検索した方が早いと思いますが……)。あくまでAIでシミュレーションした場合には「そういうスタンス」になった、というだけです。なお、何度か言及したリアル友人も未成年(当時成人は二十歳)を理由に治療を断られましたが、その後も「フラホル」は成人まで続行したそうです。
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:6%
AI文をベースに改稿:14%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:80%
次回は玉ちゃんのママが主役でした。今回も登場人物の母親にスポットを当ててみました。今回は千宥の母です。こちらも追加エピソードで、ほぼ自力で書いてます。最後のほうだけちょっと出してもらいましたが。
杠千鶴の朝は早い。平日は朝十時からテレビの帯番組を持っているのだ。放送開始はその時間でも、スタジオ入りは早い。したがって五時前には起床することになる。帯の番組をやるようになったのは、末っ子で次男の三善が小学校を卒業した一年前からだ。朝、隣でまだ寝ている夫を横目に居間に下り、カーテンを開けて天気を確認し、テレビをつける。一番早い時間からやっている情報番組にチャンネルを合わせ、ニュースを流し始める。スマホを開け、ニュースアプリも確認する。今、この福岡を拠点にローカルタレントないしフリーアナウンサーとして活動し、情報番組を担当している千鶴にとっては、これも立派な仕事だ。
若い頃、親の反対を押し切り上京した千鶴は、東京のテレビ局の人気アナウンサーだった。しかし、親の実家に戻すための策略に負け、人気絶頂のさなか、今の夫である杠万寿美とお見合い結婚した。当時、千鶴は二十六歳、万寿美は三十七歳。福岡に本社を置く大手家電量販店、ジョウヨウ電器株式会社代表取締役社長だった。ちなみに今は会長も兼任する。千鶴の実家も大概裕福であったが、それでも十分「玉の輿」と言える状況だった。しかし、身内以外の周囲からは、それなのにここまで独身なのは何かあるのでは?やめた方がいいんじゃないか?という意見もあった。しかし、どうせ結婚するのなら安定した家に嫁いだ方がいいと判断し、両親の猛プッシュもあり結婚した。
これがすべての間違いだったと思う。いや、そこまで言っては、三人いる我が子に申し訳ないが。でも、今、実際問題、この夫に子供たちは苦しめられている。特に一番上の長男、千宥は苛烈だ。
そんなことを考えていると、電子音で我に返る。昨夜のうちに仕込んでおいた炊飯器の音だ。米が炊けた。夕食を食べたら炊飯釜を洗い、そのまま米を研ぐ。そういうルーチンになった。何せ、こんな朝早い生活なので、十時には就寝するのだ。夫がまだ寝ていないのは気にしない。最初は明らかにいい顔をしなかったが、最近は諦めたのか、もう何も言わなくなった。そして、足音が聞こえてくる。夫が起きてきたようだ。
「おはよう」
「うん」
碌な返事がない。もう、いわば絶対王政のようなものなので、家の王である夫がどんな態度でも、何も言わない。何か言っても、ろくなことにならないから。そうやって、自分の思いに蓋をしてきた。今にして思えば、子供達もそうしてきた。しかし、あの頃は自分のことで精いっぱいで、子供達にまで気が回らなかった。
そして、明らかに爆発したのが、千宥だった。今から一年半前だった。ずっと「いい子」だった千宥の反逆。それが起こった時は、激昂する夫と静かに抵抗する息子の間に挟まれ、しんどかった。彼のSOSに耳を傾けなかったことは、後悔してもしきれない。
真ん中の娘、二生は、気弱なだけに、不満をあまり表には出さないのだが、きっと辛いに決まっている。この前会ったときに、夫との間にあるしんどいルーチンについて聞いた。しかし、それは氷山の一角だろう。彼女の心の余裕が出たら、ぜひゆっくり話さなければ。
唯一飄々としている三善も、話を聞く限り、実家を出てからはかなり生き生きしているようだ。今、千宥と二生は高宮で、三善は東京で暮らしている。三善は去年、二生は今春進学で家を離れ、千宥は一年半前の「爆発」以降、高宮に居ついた形だ。
今、この家は夫と二人だけ。この先、この家で二人でやっていける自信は、正直あんまりない。でも、家庭内別居でも、仮面夫婦でも、波風立てずにやっていけば、毎日を暮らしていくことはできる。幸か不幸か、今のところ、千宥ほど夫のことが「無理」になってはいないからだ。
気づくと夫は、千鶴の気持ちなどどこ吹く風という感じで食卓に座っている。以前は今のソファにふんぞり返り、「飯はまだか」と聞いてきたが、ある時それについて咎めたところ、何も言わずに食卓に座るようになった。もっとも、食事準備を一緒に行う類の行為は一切しないが。でも、もうこの男にそんな期待はしていない。そんな昭和のような亭主関白男の夫だが、妻の文句にそれ以上言い返すことはなく、自分の仕事の都合で食事の時間を一時間早くしたいという申し出については、渋々だが聞いてくれた。……以来、夫は早くに会社に行くようになった。もっとも、滞在時間が純粋に一時間長くなっただけで、退勤時間は変わっていない。自分が経営者なのをいいことに、「仕事中毒」に拍車がかかった。「亭主元気で留守がいい」もここまでくると病的だ。
そういうわけで、自分の言うことを何も聞いてくれないわけでもなく、今のところ千鶴自身から離婚や別居を申し出ずにいる。だが、ギリギリの状態だ。ただ、その状況にありがたいと感じる自分は、やはり夫婦生活は既に破綻しているのかも、と思わなくもない。
簡単に目玉焼きとみそ汁を調理し、夫に差し出す。自分の分もある。そして、食卓に向かい合わせになり、食べ始める。
最近、よく考える。私自身はお父さんと一緒にいるのは、そんなに無理じゃないけど、子供達――特に千宥のことを考えると、もう動いた方がいいんじゃないか?自分が妻だからか夫も多少甘く、逆に子供達に対しての当たりの方が強いほどだ。しかし、三行半を突きつけたら突きつけたで非常にしんどいことになりそうだ。そう思うと踏み出せずにいる。母親失格――このところ、常にこの四文字が頭をよぎる。
「三善はどうしているのか」
考え事をしていると、唐突に夫が話しかけてきた。
「元気にしてる。中間テストもベストテンだったって」
東京の有名進学校に進んだ中学二年生の三善は、向こうでもよくやっているようだ。
「そうか、ちゃんと過ごしているのなら、いいだろう」
満足そうに、口角を少しだけ挙げた。今、こういう顔をするのはもっぱら三善に対してだ。二、三年前は千宥がこのポジションだった。「跡取り」として目をかけていたが、反逆され、紆余曲折の末、今はほぼ勘当に近い状態だ。
何をしたかというと、親の決めた進学校に通い続けるのに嫌気がさして、退学になろうと「やんちゃ」を繰り返したとのことだ。元々虫も殺さないような穏やかな子で、今も妹や周囲の友達に本当に良くしてくれると聞くが、現在の同居人で姪の田中丸鈴蘭によると「千宥なりに頑張って悪い子になった」そうだ。最終的には友達に骨折の怪我を負わせたようだ。それ自体は取っ組み合いの末に一緒に階段から落ちたためであり、千宥の力だけではないと思われるが、暴行は暴行、という判断で退学処分になった。友達に怪我を負わせたことを肯定するわけにはいかないが、「そこまで追い詰められた」千宥には、相当な覚悟があったに違いない。
で、千宥がそうやって父親の期待から「降りた」結果、次男ではあるが、事実上の長男的な存在として、今は三善が目をかけられているわけである。おまけに、千宥が通っていた、九州でも進学校として知られる月陵学園よりも格段にいい学校に進んだので、万寿美もご満悦だ。ちなみに、長女・二生には最初からあまり期待しておらず、「反乱分子」のような千宥の監視役として、千宥と同じ学校にやった。そうやって、手ごまに置いているのだ。……もっとも、思っているのは万寿美当人ぐらいで、二生はがっつり「千宥側」なのだが。
さて、千鶴は今、万寿美に言わなければいけないことがあった。
「今日、仕事終わったら、高宮行くから」
千宥と二生が暮らす高宮を訪問する。それを話題に出したのは、三善の話題が出た当てつけではなく、元々そういうスケジュールだったからだ。万寿美は表情を変えずに、十秒ほど食事を続けた。そして、顔を上げた。
「何故、今日行く?」
「たまには千宥と二生の顔も見ないとじゃない?今度の月曜、休みもらってるのよ。だから、週末中、ずっとあっちにいるから」
そうはいっても、たまにはも何も、今月初めに会ったばかりなのである。いや、本来なら毎日でも顔を合わせるべき年頃なのだ。さらに言えば、本来の目的である千宥関係の用事が二件ほどあるのも伏せている。月曜は丸々オフということになっているが、これもレギュラー番組の休みをもらってのことだ。帯の生放送もそうだし、午後からあるレギュラー番組の収録もだ。
「……」
夫は何も言わない。
「お父さんも、週末は出張なんでしょ?今夜前乗りして。日曜の夕飯と月曜の朝ご飯だけは自分で何とかして」
こういう用事は、配偶者に対してはもう少し早く伝えるべきなのかもしれないが、この夫には「敢えて」直前に伝えている。「高宮に行くこと」を前々から伝えると、妨害されかねないからだ。もしくは、ついてくると言い出すかもしれない。だから、夫の予定が固まりきってから伝えている。そういうわけで、週末、出張で夫が家を空けるタイミングで、自分の用事を土曜と月曜にぶつけたのだ。
テレビから警報音が鳴る。ニュース速報のようだ。千鶴はその字面を目で追う。
「また厄介なニュースね」
夫は特に返事をしなかった。結局、夫はそこから一言も発さず、食事が終わると、部屋を出て、出勤の支度をした。千鶴は夫の分の食器まで食器洗浄機に入れ、自分の支度を始めた。そして、一応、高宮に行くための着替えだけして、メイクはテレビ局でするため省略し、千鶴は、夫を置いてそのまま家を出た。
この瞬間、千鶴が一日の中でも特にほっとする瞬間なのである。
愛車のBMWに乗り込む。家を出て、せせこましい香椎の狭い道を行き、国道に出て少しだけ行くと、都市高速のランプにつく。そこからは福岡市の中心部にあるテレビ局まではそう時間がかからない。都市高速に乗ると、下道では考えられなかったことを考える余裕が出る。今考える時は、大体の場合、千宥だ。今日、その千宥のもとを訪れるという事情もあるが、この前「あんなこと」があったので、どうしても気になってしまう。
――千宥が性別違和を抱えていて、女性になろうとしている。
それは、ゴールデンウィーク中だった。別の仕事で高宮を訪れた時に、千宥の元を訪れたのだ。すると、女物の部屋着と、ロングヘアでいる所を見たのだ。厳密には、その前の帰省から髪は伸ばしていたが、でも、女性の服を着ていたのは初めて見たのだ。
これまで、親の前では男性の格好をしていたが、高宮で暮らすようになってからはもっぱら女性の服だと告白を受けた。さらには、学校もそれで通学していて周囲もそのような人と認識しているし、男子の制服を着たのは千鶴が三者面談に来たあの一日だけだと。そして、「あの時」は不注意で着替えそこねたと。
そして、何より気がかりだったのが――女性ホルモンを摂取しているという告白まで受けたことだ。ショックかショックでないかで言えば、もちろんショックだ。しかし、千鶴には頭ごなしに否定しない理由があった。それは、仕事で性別違和について取材したことがあるからだ。取材した当事者の生い立ちを聞き、なんとなく千宥に重ね合わせる部分もあり、治療内容、そしてその苦悩や葛藤と言った話までじっくり聞いたのだ。そして、専門家として精神科医や臨床心理士にも話を聞いたのだ。それをかみ砕いて一つのドキュメンタリー番組とする過程で、彼女なりに正しく理解したつもりだ。
だから、その予備知識を持って、千宥という身近な当事者に接した時、「やっぱり」とすら思った。そして、自分なりに受け止めたつもりだ。
勝手に自分の判断でホルモン治療をはじめ、リスクを抱えた状態であるが、千宥曰く、このままでは十八歳まで正式な治療ができない。なぜなら、未成年者の千宥は親「両方の」同意がないと治療に踏み切れないからだ。あの頭の固い、そして、ジェンダー観もごく古典的な夫を説得するのは、千鶴から見てもほぼ不可能だ。
しかし、それを可能な限り変えていくため、まずは学校側とも協議し、病院を受診する。このため、金曜日に臨時の三者面談を申し込み、土曜日に精神科を予約したのだ。どうやら高宮市でジェンダー関連を比較的よく扱うクリニックらしい。
はあ。気が滅入る。けど、ここは乗り越えないといけない。やらなきゃ。ハンドルを握る手に力が入る。……はっ。ちょっと慌て気味にハンドルを切る。あやうくテレビ局最寄りのランプを降り過ごしそうになった。ちょっと、考えるのをやめよう。千鶴はため息をつく。
駐車場に車を停め、局舎内に入る。ドアのガラスに自分の顔が映る。深刻そうな顔だ。…よし。顔を引き締めてドアをくぐる。
「あ、いせやさん、おはようございます」
「おはようございまーす」
一気に、三児の母・杠千鶴からタレント・いせやちづるの顔になる。
生放送は十一時半ぐらいに終わり、いつもそこから十二時過ぎまで明日の軽い打ち合わせを兼ねたミーティングがある。最後に、月曜の欠席に対し、改めてスタッフに頭を下げた。この令和の世も捨てたもんじゃない。休む理由を問われた時、「子供の用事」と伝えたら、割とすんなり通った。今日は事務所大売出し中のタレントを代打に呼んだらしい。今日のことがきっかけでレギュラーを奪われなければいいが。
今日はこの局の番組で一本ロケが入っている。ロケバスで移動し、一旦テレビ局に戻ったのは、午後五時過ぎのことだった。
『今から福岡を出ます。ちょっと七時ぐらいになりそう。ごめん』
千宥に連絡を入れると、外食したいので、このお店に来てほしいという返事が来た。高宮市の宮川という町にあるお店で、その店がある商店街の提携駐車場まで提示されていた。高宮市内の運転は慣れないが、カーナビにルート検索を入力し、車を発進させた。およそ二時間の道のりだ。
約束の時間から数分遅れて午後七時六分。千鶴は指定された沖縄料理店、「くえ~ぶ~」の前にやって来た。
千宥と二生、それに鈴蘭がいた。
「ごめんなさい、遅くなった」
「ううん、大丈夫。押したの?」
「ちょっとだけね。……あら」
三人とも当然ながら普段着なのだが、でも――千宥の外出用の私服は初めてだ。この前は部屋着だったからだ。
千宥は白い半袖ブラウスの上に、薄いベージュのカーディガンを羽織り、膝丈のネイビーのフレアスカートを合わせていた。足元は白いスニーカー。肩まで伸びた髪は後ろでゆるく一つにまとめられ、小さなショルダーバッグを提げている。派手さはない。どこにでもいる女子高生の、ごく自然な普段着だった。
「初めてね、ちゃんとした服を見るの。うん、おしゃれ。自分で決めてるの?」
「う、うん……」
恥ずかしそうに千宥が肩をすくめる。
店内は夕食時らしくにぎわっていた。店内の奥の方の席に通され、思い思いのメニューを注文した。
「沖縄料理って暫く食べてないな。千宥はよく来るの?」
「たまにね」
「どうやって知ったの?」
「ここ、茉衣子ちゃんのお父さんが働いてるの」
古波蔵茉衣子。千宥のこっちでの友人である。はっきり聞いてはいないが、名前からして沖縄の出身なのだと思っていたところだ。すると、親も沖縄関係の仕事をしているということか。
「ああ、茉衣子ちゃんね。元気してる?」
「うん。今は二生にもよくしてくれるの」
そう千宥に言われると、二生も恥ずかしそうにうなずく。
「そう。アネックスの子たち、いい子だもんね。本当にこっちに預けてよかった。ほんとは私も一緒にいてやりたいんだけどね」
これは、千鶴の本音である。でも、夫を置いていくわけにもいかないし、第一、仕事の拠点も福岡なのだ。なかなか困難だ。
「大丈夫。何かあれば言うから。それより、あの人が何かしでかさないか、見てて」
千宥はもう、滅多に「お父さん」と呼ぶこともない。抑圧が解かれたこの頃だが、恨みは軽くならず、増すばかりだ。
「大丈夫。今週は出張なの。もう空港だし、日曜も遅いから、こっちに来ることはないと思うよ」
千鶴の言葉に、千宥はほっと胸をなでおろした。
そのうち、注文した食事が運ばれ、食事を開始する。
「あら、おいしい」
「でしょ、このお店、沖縄の会社が経営してるから、味はお墨付きよ。店長も泰造さんだしねー」
鈴蘭が言う。
「泰造さん?」
「茉衣子さんのお父さん」
「ああ」
二生の説明に、千鶴がうなずく。
「泰造さん、今日いないのかな?あたしらが来たら声かけてくれるのにね」
鈴蘭が首をかしげる。
「茉衣子ちゃんは、『父ちゃんが来たら適当にあしらってくれ』って言ってたんだけどなあ」
千宥が苦笑する。そして、一番食べるのが早い鈴蘭が食べ終わる直前ぐらいである。
「なに、千宥ちゃんたちが来とるば? なんで言わんかったわけ?」
厨房の方から大きな声が飛ぶ。……ああ、この声は。
ほどなく、泰造が千宥たちのテーブルに飛んできた。
「ああ、千宥ちゃんたち、来とったさ」
「こんばんは、泰造さん。いつもすみません」
千宥があいさつし、二生と鈴蘭も会釈する。
「おや、このきれいな人は? 千宥ちゃんたちの母ちゃんね?」
「こんばんは。杠千鶴です。いつも、うちの子たちがお世話になっています」
その場に立ち、丁寧にお辞儀する千鶴。
「ああ、どうも。古波蔵泰造です。うちの茉衣子が、いっつもお世話になっとります。……ほう、茉衣子の言っとった通りさ。アナウンサーのあの人だったわけね」
「泰造さん、しっ。プライベートだよ?今日は」
鈴蘭が口元に人差し指を出す。
「ああ、うん。ごめんさ」
泰造も人差し指を出した。
「『くえ~ぶ~』は天神にもあるさー。今度行ってみるといいよ。じゃあ、ゆっくりしていってね」
そう言うと嵐のように厨房に戻っていった。
「茉衣子ちゃんのお父さんかあ。やっぱり似てるね。エネルギッシュ」
「六十四歳なんだって。元気だよね」
「へえ」
千鶴が目を丸くする。自分とは二十歳も離れている。
食事が終わり、店外に出る。千宥たちは、行きは路面電車で来たようだが、帰りは千鶴の車に同乗することになった。
「おばちゃんのBMW、久しぶりだあ。いいよね、やっぱり」
助手席に乗った鈴蘭が感慨深げに言う。
「鈴蘭さん、実家の車もアウディでしょ?」
千宥が苦笑する。
「うん、でも、なんかいいなって思うわけよ。せっかくリリーベルも軌道に乗って、あたしも金持ってるから、買い換えたいわけよ」
鈴蘭は、大学時代から愛用している軽自動車に乗り続けている。
「やっぱり、外車乗りたい?」
今度は二生が聞く。
「うーん、絶対じゃないし、全然国産のつもりだけど、なんか憧れるじゃん?」
そういう他愛もない会話をしながら、アネックス久世に戻った。コーヒーで一息つくと、年初と同様、鈴蘭は千鶴にベッドを貸すため、「リリーベル」の二階に寝に行った。親子は引き続き他愛のない会話をしながら、水入らずの時を過ごした。――重い話は明日以降にするつもりで。
翌土曜日、正午。千宥は高宮市宮川にあるイタリアンのお店にいた。午前中、予定されていた二大イベントの片方が終わったのだ。
それは、千宥の病院受診である。約三週間前、ゴールデンウィークに千宥の「女性化」がバレた時に宣言された、「病院に連れて行く」というのを果たしてきたのだ。
連れて行かれたのは、この宮川の近辺にある、若葉クリニックという医院だった。千鶴が調べた限り、高宮市内でジェンダー関係を最も多く扱う精神科の開業医だった。
正直、千宥は、緊張で頭が真っ白になりすぎて、医院での記憶が一部定かではない。最初、問診票を恐る恐る手探りで記入したことは、まだ覚えている。その次に看護師か別の肩書のあるスタッフかはわからないが、女性が話を聞きに来たことは覚えているが、自分でどのようなことを答えたのかはもう覚えていない。嘘は伝えた覚えはないが。あとは、診察室で、医師と顔を合わせてからは、本当にとぎれとぎれだ。名前も覚えていない。「上」で始まる苗字三文字だが、これは単にややこしい名前というだけだろう。もう一度クリニックから手渡された書類をチラ見した。「上白沢」。この上白沢先生にまたお世話になることはあるんだろうか?千宥は、うつむきながら、必死に記憶を手繰り寄せる。
「それは大変だったねえ」と言われたのは覚えている。
「そっか、ホルモンをねえ」と言って難しい顔をして唸ったのも覚えている。
多分、服用している薬の「メニュー」も話した。「考えてはいるね。でもなあ……」。このくらいから記憶がより途切れている。「絶対にやめなさい」「体はそうなんだからしょうがない」「体を壊したら自業自得」……そんなことを言われたらどうしよう。そんなことばかり頭をグルグルしていた。ただ、そこまで頭ごなしに否定されなかったのも覚えている。
「まあ、飲み薬は一番やめてほしいかな」
独り言のようにつぶやいていたこの言葉だけは、声は大きくなかったのに妙に覚えている。最後、採血をされたことは覚えているし、そこからこの店に入るまではまあまあ覚えている。あの診察室の記憶だけが抜けているのだ。
「千宥、どうしたの?」
向かいに座る母の声で、我に返る。
「うん。何でもない。……緊張して頭が真っ白で。何を言ったのか、何を言われたのかも、正直あいまいで」
「そう。ちゃんと正直に説明できてたと思うけど」
千鶴はため息をつく。
「やっぱり、お父さんがネックね」
「……うん」
父親がジェンダー関係への理解がないことは話し、だから「フラホル」したことも話した。ガイドラインも読みこんだことを話し、上白沢先生に感心されたのは思い出した。あくまで勉強熱心なのを褒められただけで、それを元にフラホルしたことについては、決していい顔はしなかったが。
「くぎを刺すわけじゃないけど……。これで問題なく飲んでいいんだ、で終わっちゃダメよ。やっぱり、本当は先生に出してもらうお薬なんだから」
千鶴が目を伏せる。言われると辛い。自分ではわかっているのだ。でも――やめるわけにはいかない。ここで、先生に言われたあることを思い出す。
「でも、もし、やめなさいって言われても、私、多分……隠してでも続けると思う」
「それだけは、それだけはやめて。ちゃんと、お母さんと先生には正直に言って」
千鶴は千宥にすがるように訴えた。思い出した上白沢先生の言葉。
「やっていいとは絶対に言えない。でも、絶対にやめなさいとも僕は言わない。止めたら、隠れるだけでしょ。だから、僕は千宥さんに薬の指示をなにも出さないから、千宥さんから教えてください」
多分、「フラホル」を必要とする人たちに対する、医師としての立場と天秤にかけた上で伝えている、最大限の譲歩案だろう。
そして、あとは今日の採血の結果が週明けに出る。朝一番に千鶴が付き添ったうえで病院を受診し、結果を聞いてから学校に送り出す予定だ。で、月曜の午後は面談も入れた。それが、ここからの千鶴の予定だ。
採血の結果が今、一番心配だ。こういうのは肝臓に表れやすいということは千宥も勉強して知った。肝臓の数値が悪かったら――今度こそ本当に止められるだろう。それによる男性化の進行は、千宥にとっては死刑宣告のようなもの。この週末、ずっと不安におびえながら生きることになるのだ。
「食欲、ない?」
千鶴が、思いつめたような顔の我が子に問いかける。
「大丈夫。お腹は減ってる。……でも、ごはん我慢したら肝臓の数値、減るかな?」
「採血終わったんだから、意味ないよ」
千鶴はちょっとだけ笑う。
その後、千宥は、千鶴と二生の三人で、何気ない週末を過ごした。
チーム・アネックスの面々――杠姉妹以外の六人は、それぞれの週末を過ごした。
樋口健介と朝長慎吾は、渡辺啓太郎、大上茂、綾香雄人と遊びに出かけた。この春転校してきた渡辺は当初、同じクラスの健介以外とはあまり面識がなかった。しかし、じきに仲良くなったらしく、このところ、よく遊ぶそうだ。
古波蔵茉衣子と玉井絢那、それに慎吾の双子の妹である雛灯は町に買い物に出かけたらしい。その雛灯によれば、こういう時に千宥のところに押しかけたがる茉衣子に「家族で過ごさせてやれ」と諭したのは、彼氏の慎吾だったそうだ。茉衣子自身、空気を読む力は年々身に着けていっているようだが、今回、千宥のことも配慮したようだ。茉衣子のお節介さに助けられた面もあるにはあるため、少々寂しさも感じつつも、大人になっていく親友のことをありがたく思った。
しかし、そういう配慮と無縁の立ち位置にいるのが、新宮領美佳だった。彼女は、千宥なんか目じゃないほどの大令嬢であり、「許嫁」と呼ばれる関係にありながらも、千宥を心から愛していた。そして、それは女性化がバレた後も、変わりがないのだ。妙な話だが、今は千宥をお互い女性として愛している。
日曜の午後、美佳は207号室を訪れた。これは慎吾にも止められなかった。むしろ、茉衣子らからの遊びの誘いを蹴って来る気満々だったらしい。何せ、春若にやってきて二か月弱、千宥の親に挨拶できていなかったわけである。そこまで止めることは、慎吾にも茉衣子にもできなかったわけだ。
「お母さま、大変お久しゅうございます。大変お世話になっております」
「あら、美佳ちゃん、久しぶりね。ほんとに高宮に来たんだ」
「はい。千宥さんがこちらで平和に過ごせているのが見られて大変安心していますわ。それに、私も、周囲の方々に仲良くしていただき、とても、楽しく過ごせております」
後ろについてきた執事の山崎貴文が菓子折りを差し出す。
「あら、こんなに……。いいのに」
「いえ、皆さんで召し上がられてくださいませ」
「お嬢様、私は?」
上を指さし「戻っていいか?」の合図だ。ちなみに、他家の奥様の前なので、珍しく敬語を使っている。
「いいわよ」
「お迎えはどうしましょう?」
「いらないわ。……いつも私一人でしょ?いいってば」
余計な口を開かず、一礼して山崎は退散する。
なにか余計なことを言い出さないか、千宥は不安だったが、正直、無難に世間話が進んだ。もう千鶴も美佳も、実質的に千宥の秘密を「全部知った」同士だ。よくよく考えたら、今更びくびくすることは何らないはずなのである。でも、かつての「中ボス」同士の対面に、えも言われぬ緊張感を覚えたのは確かだ。
……ただ一つ、今でも美佳が千宥と恋人同士のつもりでいることだけは、千鶴も少々面食らった。
月曜日。七時四十五分ごろ、二生を学校に送りだした。千宥は既に制服に着替えているが、まだ登校しない。今日は若葉クリニックに朝一番で採血結果を聞きに行くためだ。朝一番といっても九時開院であるため、まだ時間がある。制服姿のまま、ソファに寝そべる。
「千宥の女子の制服、初めてね」
千鶴は目を細めた。違和感はなかった。むしろ、これまで男物の制服を着ていた方が不自然だったのではないか、とすら思う。千宥は、母の言葉に、寝返りを打ち、ソファの壁に向かって隠れるしぐさをする。まだ、母親にこの姿を見られるのは慣れない。言及されればなおさらである。
八時三十五分、家を出る。久世から若葉クリニックまでは路面電車で向かう。宮川の一つ先の伊右衛門電停が最寄りだ。
採血結果は淡々としていた。正常高値程度。経口の性ホルモン薬は肝機能障害のリスクがあるという千宥からすればもう知っていることを改めて言われた程度だ。この結果だったことから、「だからもうやめなさい」とも言われず、淡々と終わった。適宜採血は受けさせてもらえるらしく、千鶴は是非お願いしますと頭を下げた。また、もし家族の問題が解決して治療移行できそうなら早めに言うように言われた。……無理だけど。千宥は内心苦笑した。
その後、九時二十分の電車で久世栄久校前電停に向かい、千宥は二時間目が始まった頃に遅刻登校した。
そのまま千宥に預かった鍵でアネックス久世207号室に帰る。
特に何もすることがないのでテレビを見る。時刻はそろそろ十時だ。なんとなく、いつも自分が出ている番組にチャンネルを合わせる。見慣れたスタジオが映った。「テン・オクロック九州」、略してテン九のスタジオだ。
「おはようございまーす! テン・オクロック九州、司会の古賀順平でっす! 今日はいせやちづるさんがですねえ、お休みをもらっておりまして……」
「はい、姫宮杏珠です。お願いしまーす」
姫宮がカメラに向かって手を振る。
「はいはい、杏珠ちゃん、元気だね。気合入ってる?」
「大先輩ちづるさんの留守、めっちゃ預かりますよー」
力こぶのポーズだ。あざとい。だけど、活気があっていい。十数年前に東京でアイドル活動していて、「ぶりっ子なのに知的」でブレイクした子だ。でも、カメラの外では腰が低くて礼儀正しい子だ。正直、後輩としては好きな子だが、カメラの前に立った姿はちょっとだけ嫌いだ。そして、古賀がなんとなくデレデレしているのが気になる。明日、番組冒頭で突っ込んでみよう。
そこからもすることはなかった。正直、今こんなに暇だと、休みをもらったことに罪悪感も覚える。いや、仕事は朝早く始まるのだ。この状態で福岡までくることは無理だったんだ。そう自分に言い聞かせる。
それからは途中昼食を買いに徒歩五分ぐらいのところにあるコンビニに行ったのを除けば、家で過ごした。
アポは三時半。学校は徒歩十分もかからないと聞いてはいたが、退屈すぎて、三時過ぎには家を出た。前情報通り、三時十分にならないうちに校門にたどり着いた。そして、辺りをぶらついてみた。
「え、あれ、いせやちづるじゃね?どうしてこんなとこに?」
「うちロケ来るとか言ってた?」
「いや、カメラとかスタッフおらんけど」
「あー」
そういう会話が聞こえてくる。目が合ったので、軽く会釈だけしておく。
「あれ、いせやちづるだね。あ、千宥ちゃんの?」
「じゃない?わあ、すご、本物だ」
こちらは二年生らしい。さすがに同級生の間では自分が千宥の母であることは知られていよう。その時だった。
「千鶴さーん!」
向こうの方から、浅黒い肌に長い髪をツインテールに結った大柄な少女が駆けてくるのが見えた。遠くからでもわかる。
「こんにちは、茉衣子ちゃん。お久しぶりね」
彼女は古波蔵茉衣子。千宥が現在住んでいるアパートの住人で、同級生だ。
「久しぶり。千鶴さんも元気だった?」
「ええ」
後ろから、髪をおさげにした小柄な少女と、小柄な少年がついてくる。
「わあ、千鶴さん、久しぶり」
少女が声をかける。彼女は、玉井絢那。茉衣子と同じく千宥の一年生の頃からの友人で、普段から三人で行動を共にしていたような親友だ。二年連続で同じクラスだと千宥から聞いている。
「こんにちは」
千鶴が玉井に返事すると、横の少年に気づいた。そして、目を丸くする。
「あら。……お久しぶりね。覚えてる?」
彼は綾香雄人。実は、千宥とは中学校時代の同級生だった。すなわち、月陵学園中等部の出身だ。色々あって、この春若栄久高校に転校し、千宥と偶然再会したと聞いている。
「あ、はい。覚えています。ご無沙汰してます」
深々と頭を下げる雄人。
「雄人くんでしょ。会いたかったの。こっちでも仲良くしてくれてるって聞いているし、一度ちゃんと謝らないとって思って」
「な、何をですか……?」
実を言うと、千宥の退学の原因となった「喧嘩の末に骨折をした」同級生とは、雄人のことなのだ。まさか、時を経て同級生になるとは。世の中、狭いものである。
「左手は、もう大丈夫?」
「ああ!あの件でしたか。あれは、僕が喧嘩を吹っ掛けたのが悪いんで気にしないでください。それに、ほら。もうちゃんと動きますから」
雄人は左手をうねうね動かして見せる。
「本当にごめんなさいね」
「いえいえ、右手が使えたんでよかったですよ。字を書いたりご飯を食べるのは苦労しませんでした。それにしても、びっくりしました。まさかこの学校にいるとも思いませんでしたけど、同じ人に見えなくて……。あれ、これ言っちゃダメなんだっけ?」
口を滑らしたと思った雄人が、茉衣子と玉井を見る。
「大丈夫だぞ、雄人。もう無事に親バレした」
無事に、というのが何とも妙な言い方であるが、茉衣子は、千宥がちゃんと母親を味方にできたことを聞いて嬉しかったという。
「そっか。めっちゃ美人になってて驚きました」
「あ、ありがとう」
雄人の言葉に、ちょっと困ったように千鶴が微笑んだ。まだ女性として扱われるこの状況には、慣れない。
茉衣子はそれからまっすぐ家に帰り、玉井と雄人は町で遊んで帰るとのことで栄久坂を下っていった。さて、まだ十五分ほどある。どうしようか。
「お母さん!」
二生だった。後ろに友達を二人連れている。
「あら」
千鶴に気づくと、友達二人がぎょっとした顔をした。右のツインテールの子は、「かあやちゃん」と聞いている。
「あ、あの、二生のお母さんって」
「初めまして」
特に名乗らず、にこやかに微笑みかける。
「あ、あの、若杉果文です!二生とは入学式から仲良くしてもらってます!」
「うん、仲良くしてくれてありがとう。そして」
左の子はもう少し詳しく聞いた。この高宮で芸能活動している、城宮ひろこ。去年、高宮ロケのドラマで顔を売った若いローカルタレントだ。確か、本名も聞いたが忘れた。ひろこは本名そのままだったか?二生や千宥は「しろちゃん」と呼んでいるが、本来の愛称は「しろこ」で、ファンからも学校の友達からもそう呼ばれるという。
放心状態だった城宮ひろこははっと我に返り口を開く。
「あ、あの、高宮芸能友之会所属の城宮ひろこです!あ、本当は城宏子です。いつも見てます!」
わざわざ所属事務所まで言った。名前を売りたい気持ちが出ちゃったのか、単に緊張していたのか?
「こんにちは。二生から聞いてます。お仕事、大変じゃない?」
「あ、あの。高校に慣れるまでは仕事セーブしてます。来週CMの撮影あるけど……」
ガチ緊張しているらしく、しどろもどろだ。
「いつか、一緒にお仕事できたらいいね。でも、まずは二生とも仲良くしてあげてね。私は先輩より前に友達のお母さんだから」
「は、はい、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる宏子。このような緊張した姿は三年付き合いのある果文でも見たことないらしく、ポカンとしていた。
「お母さん、面談、いいの?お姉ちゃん、もう待ってるって」
「あ、そうなの?じゃあ、行くね。二人も、またね」
二生は軽く手を振り、果文と宏子も深々と(宏子は体が折れるぐらい)頭を下げた。
少し時間は早いが、千鶴は受付に声をかけた。すると、職員室まで案内された。職員室の前に着くと、そこに千宥がいた。
「千宥!」
呼ばれた千宥が顔を上げ、軽く手を振る。
すると、それを察知したか、職員室のドアから、二年五組担任、榊原妙子が顔を出した。千宥が会釈すると、妙子はドアの外に出た。
「お待ちしておりました、杠さん。ご無沙汰しております」
今日もロリータファッションの妙子はカーテシー――ドレスを着ているときにやる、スカートを手に持つあの挨拶をする。
「先生、ご無沙汰しています。いえ、すみません予定より早くて」
「そしたら、こちらまでお願いします」
案内されたのは、進路指導室だった。
「重ね重ねすみません。また臨時の面談を……」
千鶴が頭を下げる。
「いえいえ、どうぞおかけください」
千鶴がここにやってくるのは二回目だ。二月に最初に臨時面談を申し込んだ時に続き二回目。ちなみに、二月の面談からわずか一か月後に学年末の定時の面談もあったのだが、それには来なかった。――実はこの時、千宥が男装での登校を嫌がったため、夏の面談同様、鈴蘭を呼ぶことにして千鶴に面談の連絡すらしなかったのだ。
その負い目もあるのか、またほかにも積もり積もった不安があるのか、千宥はびくびくしていた。――多分、先週若葉クリニックに行ったときよりも緊張している。
「千宥ちゃん。今日はこっちの制服を着てきたんだね。もうお母さんにも隠さなくてよくなったんだ?」
妙子があくまで優しく語りかける。この場はただ「はい」ぐらい言っておけばよかったのかもしれないが、千宥は、震える声で言った。
「そ、そのことなんです。今日は……。はい」
もう説明もままならないほど震え上がった千宥に、千鶴はため息をつきつつ説明した。
以後、千宥は自分でも覚えている限り、あまり自分の言葉で説明できていなかったようだった。もうほとんど、説明すべきことも、質問すべきことも出てこず、大半は千鶴が説明した。
大きな柱はかなり大きく括って三つあるが、そのすべてが千宥の「女性化」に関わる話だった。
ひとつは、女子の制服での登校許可を得ていることの事実確認だった。女子制服での登校は、鈴蘭が学校に掛け合い、最終的に理事長が認めた経緯を説明した。親にも言わなかったことについては、妙子から謝罪があった。今後も親が許可するならこの方針を継続したいが、という話をされたときに、母の意見として「私は認めようと思いますが、主人には、今のところは言わないでほしい」という要望を出した。これは、性別違和のガイドラインとは違う話であり、親両方、という規定はないことから、合意に至った。
もうひとつが大きな話であり、これまでの千宥の性別違和の経緯についてだった。ここは千宥も頑張って概略は説明したが、言葉に詰まって、千鶴に細かい部分を大分補足されていた。妙子としても「いつもの千宥ちゃんじゃない」と感じたようだが、じっくりと受け止めたようだ。説明は省くが、ざっくり言えば、父親の恐怖、「フラホル」の経緯だ。
そして、最後の一つはこれを受けた、学校への対応依頼だ。実務的に必要になるから、お願いした方がいいと上白沢先生にもアドバイスを受けたところだ。この辺は、上白沢先生が想定した要望を説明しつつ、妙子の方から「職員で協議します」という回答だった。
今日の面談はここまでとなった。千宥は魂が抜けきっていた。
「おつかれさま、千宥ちゃん。よく頑張ったね。先生たちとも話し合うから、今まで通り、楽しく学校生活を送れるように、がんばるからね」
あくまで和やかな雰囲気で面談が終わったが、千宥は、緊張に押されっぱなしだったこと、そして自分でうまく説明できなかったことに失望していた。
進路指導室を出て、とぼとぼと玄関に向かう。下駄箱が生徒と来客で異なるため、一旦千鶴と別れた。三分後、千鶴は玄関先で待っていた。
「千宥、帰ろう」
「うん……」
歩きながら話す。
「面談、病院より緊張してたね」
「うん、妙子先生には、今までのことを話すの、もっと緊張した」
千宥はうつむく。
「私、自分で話すつもりだったのに」
「そうね。それはそう。でも、先生もめげずに聞いてくれたでしょ」
千宥は顔を少しだけ挙げた。
「今日、お母さんがよかったなって思ったのは、やっぱり、この学校の人たちはいい人たちだなってことかな」
「妙子先生?」
「……も、もちろんそうだけど。お母さん、玄関で何人かとお話ししたのよ」
「誰と?」
「まずは、茉衣子ちゃんたち。あ、そうそう。雄人くんに会えたの。嬉しかった」
「あ……」
高校に入って母親と直接会ったことが何回かあるが、その中のいつだったか、雄人の話になり、「雄人くんにあの時のことをちゃんと謝りたい」と語っていたのを思い出した。
「雄人くん、相変わらずまっすぐでいい子ね。あの時の話もできたから、良かった。それに、月陵の頃を知ってるのに、『美人になった』って。ちゃんとそういうこと、言ってくれるのね」
「そ、そんなこと言ったの?!……別に直接言うわけじゃないんだよ」
千宥は赤面した。
「あと、二生がお友達と歩いてた」
「果文ちゃんとしろちゃん?」
「そうそう。いい子そうで何より。しろこちゃん?の方は、ちょっと私のこと、芸能人として意識してるっぽかったけど」
「それは……ちょっとしょうがないかも。普通の子だってタレントって認識でしょ?茉衣子ちゃんだって、お母さんのサイン、宝物にしてるんだよ」
「それもそうね」
千鶴は苦笑する。しばらくすると、アネックス久世についた。
207号室に着くと、二生が待っていた。
「お、おかえり。お母さん、お姉ちゃん」
「ただいま。ごめんね、遅くなって」
千宥が周囲を見回す。
「鈴蘭さんは今日はまだ?」
「今日は抜けられなかったみたい」
「まあ、そうだよね」
千鶴や、昨年度は二生が来ると決まって仕事を早抜けしてくる鈴蘭だったが、さすがに毎回そうはいかず、今日はまだ職場にいるそうだ。
「鈴蘭さんが、『ごめんね』だって」
「いえいえ、こっちこそ三泊もしちゃって」
千鶴は時計を見た。まもなく五時だ。
「帰らないと」
「お母さん、お茶でも……」
千宥がもう少しいるように勧める。
「ううん、七時には家に帰らないと。うるさい人がいるからね」
その顔を想像し、千宥は何も言えなくなった。
「そっか。気を付けてね。うるさくならないようにしないとね」
お父さんによろしく、とかはもう意地でも言わない。とにかく、あの人がうるさくないのが、千宥にとっては第一だった。千鶴はもう事前に荷物を車に積み込んでいたらしく、学校までも持ってきていたハンドバッグのみ持って立ち上がる。
「じゃあね」
玄関に向かう母親に、子供たちは自然とついてくる。そして、階段を降り、見慣れた赤いBMWの前に立つ。
「お母さん、また来てね」
二生は声をかける。まだ「あまり長居しないでほしい」と少し前まで思っていたのを引きずってか、千宥は口に出しにくかったが、二生の言葉に、うんうんとうなずいた。千鶴は車に乗り込んで、窓を開ける。
「じゃあね。鈴蘭ちゃんにもよろしくね」
「お母さん、ありがとう」
千宥はここで声をかけた。千鶴は一瞬だけ目を丸くした。そして、くすっと笑う。
「また来るから」
そう言って、千鶴は福岡へと帰っていった。赤いBMWが角を曲がり、見えなくなった。二人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……言っちゃったね」
二生がぽつりと言う。
「うん」
千宥も小さくうなずく。寂しくないと言えば嘘になる。でも、不思議と心は軽かった。あの日、家を飛び出したときには想像もできなかった。母がここまで来てくれて、自分の話を聞き、病院へ付き添い、学校で一緒に頭を下げてくれる未来なんて。
まだ終わったわけじゃない。父のことも、治療のことも、これから先のことも、何一つ解決してはいない。それでも――もう、自分は一人じゃない。千宥は夕暮れの空を見上げると、小さく息をついてアパートの階段へ足を向けた。
最後の方の面談の内容は、何話か先で、もう少し詳しく話すことになると思いますので、よろしくお願いします。
【次回予告】
「ママ三部作」、最後はあのママが登場!
という感じです。お楽しみに。
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