第37話 防波堤の母
※おことわり※
性別違和当事者で、正規の治療ルートに乗れない人物についての描写があります。詳細については第21話のあとがきに書いておりますので、この話から初めてお読みになる場合は、目を通しておくようお願いいたします。
また、この話は全話の続きですので、そうでなくとも36話を先にお読みください。
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:30〜35%
AI文をベースに改稿:45〜50%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:45〜50%
ついに女の子の姿で生活していることが母にバレてしまった千宥。ここから、ひざを突き合わせて話します。
四人は、居間で向かい合うように座った。正確には、向かい合うというか、九十度だ。片方のソファに千宥が座り、もう片方に千鶴と二生。鈴蘭は台所から戻ってきた流れのまま、千宥の隣に腰を下ろした。
ティーカップから、薄く湯気が立っている。誰も、すぐには飲まなかった。千宥はカップを両手で包んだ。温かかった。自分の手が思ったより冷えていることに、その時初めて気づいた。千鶴も、カップを見つめていた。仕事帰りの母は、きちんとした服を着ていた。ロケの後だからか、髪も化粧もまだ整っている。テレビで見る時よりは少し疲れて見えるが、それでも、まだ仕事の装いだ。そんな母が、千宥の居間にいる。そして、千宥は今まで見せてこなかった姿で、一緒にいる。
「二生」
最初に口を開いたのは、千鶴だった。二生は、カップに伸ばしかけていた手を止めた。
「うん」
「いつから知ってたのかは、さっき聞いた。去年の夏だよね」
「うん」
「その時、どう思った?」
二生はすぐには答えなかった。千宥は、思わず二生を見る。二生はテーブルの木目を見つめていた。さっきまで走って帰ってきたせいで少し乱れていた髪が、頬にかかっている。
「最初は」
二生は、ゆっくり言った。
「びっくりした」
「うん」
「びっくりしたし、どうしたらいいかわからなかった。女の子の格好してるのもそうだけど、普通にしてたから」
千宥は少しだけ息を止めた。
「普通に?」
千鶴が聞き返す。
「うん。変な感じで見せてきたんじゃなくて、もうそれで暮らしてる感じだった。服も、髪も、話し方も。私が知らなかっただけで、こっちではそうなんだって思った」
二生はそこで、少し千宥の方を見た。
「それが、最初はちょっと怖かった」
「怖かった?」
「うん。全然知らない人みたいだったから」
その言葉は、千宥の胸に小さく刺さった。二生は慌てて首を振る。
「嫌だったって意味じゃないよ。でも、私の知ってるお兄ちゃんじゃないみたいで、どう話したらいいかわからなかった」
「……うん」
千宥は小さく頷いた。それは、たぶん本当だ。二生が最初から全部を受け入れていたわけではない。驚いて、戸惑って、何度も言葉を選んだ。その時間を、千宥は知っている。
「でも」
二生は続けた。
「話してたら、やっぱりおんなじ人だった。見た目は違うけど、話すと同じで。でも、昔より……」
そこで二生は少し言い淀んだ。千鶴が黙って待つ。
「昔より、優しくなった気がした」
千宥は目を伏せた。
「それ、前にも言ってたね」
「言った」
「そんなに違う?」
「違う」
二生は即答した。
「前は、優しいけど、いつもどこか固かった。家では特に、お父さんに怯えてる感じだったし、私にも、優しくしてくれるけど、どこか遠かった」
千宥は何も言えなかった。二生の言うことは、たぶん当たっている。
「高宮で会った時は、なんか、違った」
「違った?」
「うん。なんていうか、柔らかかった。……もちろん、今のお母さんと一緒で、私に知られて、すごく困ってたし、怖がってたし、全然余裕はなかったけど、でも、見た目だけは、慣れてる感じが、なんとなくだけど、わかった」
千鶴は静かに二生を見ていた。
「だから、受け入れたの?」
「話し合ったから」
二生は少しだけ背筋を伸ばした。
「最初は、私も混乱した。でも、ちゃんと話してくれたし、私も聞いた。それで、今は……」
二生の声が、少し小さくなる。千宥は嫌な予感がした。二生は一度、千鶴の顔を見た。それから、千宥を見た。
「今は、お姉ちゃんだと思ってる」
居間が静かになった。千宥は、カップを持ったまま固まった。千鶴も、すぐには反応しなかった。鈴蘭が小さく息を吸う音だけが聞こえた。二生は、赤くなるでもなく、笑うでもなく、ただ少しだけ困った顔をしていた。
「さっき、言いかけてやめたけど」
二生は言った。
「お母さんの前で、いきなり言っていいのかわからなかった。でも、私はもう、そう呼ぶ方が自然」
二生は少しだけ強い声で言った。
「最初は、呼べなかった。でも今は、お兄ちゃんって言う方が変な感じがする。だから、お姉ちゃん」
千宥は何も言えなくなった。母の前でそう言われたことが、恥ずかしいような、怖いような、嬉しいような、どれとも違うような、不思議な感じだった。胸の奥が熱い。けれど、それを顔に出したくない。千鶴は、二生の言葉を受け止めるように、ゆっくり頷いた。
「二生は、そうなんだね」
「うん」
「千宥は?」
千宥は顔を上げた。
「え?」
「そう呼ばれるのは、嫌じゃない?」
二生が少しだけ不安そうな顔をする。千宥は、カップに視線を落とした。嫌ではない。嫌なわけがない。けれど、それを母の前で言うのは、また別の怖さがあった。お姉ちゃんと呼ばれることを認める。それは、母に対して、自分が何でありたいのかを、また一つ言葉にすることだった。
「……嫌じゃない」
千宥は小さく言った。二生の肩から、少し力が抜けた。
「でも」
千宥は続けた。
「お母さんが、それをどう受け止めるか、不安で……」
千鶴は何も言わずに聞いている。
「お母さんが混乱するのは、わかる。私だって、だって、今の今まで、息子だって思ってたわけでしょ」
「うん」
「だから、お母さんは……そのままでいい。今は」
千鶴は静かに頷いた。
「うん」
「息子とか、娘とか」
千鶴はそこで少し言葉を止めた。千宥の体が、わずかにこわばる。
「今すぐ、そういう言い方はしない」
千鶴は言った。
「でも、千宥が嫌な言い方は、できるだけしないようにする。間違えたら、言って」
千宥は頷いた。
「うん」
「言える?」
「……たぶん」
伏し目がちに言う千宥に、千鶴は少しだけ苦笑した。
だが、次に千鶴の視線が千宥の体に戻った瞬間、空気がまた変わった。千鶴は、千宥を見ていた。顔。髪。首元。肩。手首。部屋着の上からわかる体の線。その視線に、千宥はすぐ気づいた。服装を見られるのとは違う。髪を見られるのとも違う。もっと奥を見られている気がした。千宥は、カップを少し強く握った。千鶴は、言葉を選ぶように、ゆっくり口を開いた。
「千宥」
「……なに」
「これは、服と髪だけの話じゃないのかな」
その一言で、鈴蘭の顔色が変わった。二生も、視線を落とした。千宥は動けなかった。千鶴は、その反応だけで、自分の勘がおそらく当たっていることを知った。千鶴はもう気づいていた。
「違ったら、言って」
千宥は首を振った。
「違ってないと思う」
声が小さくなった。
「見たら、わかると思う」
千宥は息を整えようと試みた。言うのか。ここで。母に。さっき、母にはもう話すと言った。父には絶対に言えない。でも母には話す。そう言った。その言葉が、自分の背中を押す。
「ホルモン」
千宥は意を決して言った。
「使ってる」
千鶴の表情が、はっきり変わった。さっきまでの驚きとは違った。服装を見た時の困惑とも、二生が「お姉ちゃん」と言った時の戸惑いとも違う。母親としての恐怖が、そこにあった。
「いつから」
声は低かった。怒っているようにも聞こえた。千宥はやや声を震わせながら答えた。
「十三歳の時から」
千鶴は、息を止めた。
「十三歳?」
「最初は、男性ホルモンを抑える方だけ」
千宥は、膝の上で手を握った。
「去年から、女性ホルモンも」
千鶴はカップをテーブルに置いた。音は小さかった。けれど、その小さな音に、千宥は肩を震わせた。
「病院は」
千鶴が聞いた。千宥は首を振った。
「行ってない」
「検査は」
「してない」
「誰か医者に見てもらった?」
「見てもらってない」
千鶴は目を閉じた。その沈黙は長くなかった。けれど、千宥には十分長かった。鈴蘭が口を開きかける。
「おばちゃん、あたし――」
「待って」
千鶴は鈴蘭を止めた。声は強くはなかった。けれど、はっきりしていた。鈴蘭は口を閉じる。千鶴は、もう一度千宥を見る。
「どこで手に入れたの」
千宥は言い淀んだ。
「ネット」
「誰が教えたの」
「自分で調べた」
「お金は」
「お年玉。あと、高宮に来てからは、仕送りとか、バイト代とか」
「リリーベル?」
千宥は頷いた。
「うん」
千鶴は、二生を見る。二生はうつむいたままだった。
「二生は知ってたの?」
「先月」
二生が答えた。
「一緒に住むようになってから、聞いた」
「どう思った?」
二生はカップを見つめた。
「体が変わってるのは、なんとなくわかってた。だから、聞いた時は、そういうことだったんだって思った」
「怖くなかった?」
「怖いよ」
二生の声は小さかった。
「今も怖い。体に悪かったらどうしようって思う。でも、やめてって簡単に言えなかった」
千鶴は目を伏せる。二生は続けた。
「お姉ちゃんが、それで男の人の体にならずにすんでて、やっていけてるから。やめてって言ったら、私がまたお姉ちゃんを苦しめる気がした。でも、病院に行ってないのは怖い」
千宥は二生を見る。
「二生」
「怖いものは怖いよ」
二生は少しだけ睨むように千宥を見た。千宥は何も言えなかった。千鶴は、今度は鈴蘭を見る。
「鈴蘭ちゃんは」
鈴蘭は小さく頷いた。
「知ってる」
「いつから?」
「抗男性ホルモンのことは、高宮に来てから聞いた。女性ホルモンを足したのは、その後。あたしが提案したわけじゃない。本当は止めるべきだったと思う」
「うん」
「でも、止めきれなかった。だから、本来あたしは止めるべき人だと言うのは伝えたけど、そっとしとくしかなかった。止めても隠れて続けるのは目に見えてるから、それならあたしが把握だけはしとくのがましだった。で、止めた結果男性化が進んで、その……自殺とかされたら、あたしも死んでも死に切れないし」
鈴蘭の声は震えていた。
「ごめんなさい」
千鶴はしばらく鈴蘭を見ていた。責める言葉を探しているようにも見えた。責めない理由を探しているようにも見えた。
「鈴蘭ちゃん」
「はい」
「ごめんね。この責任を負うのは、本当は鈴蘭ちゃんの仕事じゃない。私たちが親の責任を果たせなかったから、こんなことをさせてしまった。ごめんなさい」
千鶴が頭を下げる。しかし、鈴蘭はほっとしたわけではなく、むしろ顔が強張る。千宥は思わず口を開きかけた。けれど、千鶴が先に続けた。
「本当なら……たぶん私たちに報告するのが本当のやりかた。でも、怖いよね。一昨年あんなに大騒ぎして、私ならまだしも、お父さんの耳に入ったら、どうなるか」
鈴蘭は何も言えなかった。
「千宥がそうするしかないと思ったこと。二生が怖いと思いながら言えなかったこと。鈴蘭ちゃんが止めきれなかったこと。お父さんに知られたら危ないと思わせていること。で、私も把握できなかったこと」
千鶴は一つずつ言った。
「全部、別々じゃない」
居間が静かになる。千宥は、その言葉を聞いていた。自分が勝手に始めた。自分の責任だ。そう言えば、話は簡単になる。少なくとも、鈴蘭や二生を守れる気がする。でも、千鶴はそれを許さなかった。
「千宥」
「……うん」
「危険だって、わかってる?」
「わかってる」
「本当に?」
千宥は言葉に詰まった。わかっているつもりだった。ネットで調べた。経験談も読んだ。副作用も、血栓のリスクも、肝臓のことも、全部ではないが知っている。知ったうえで、始めた。どんなに健康を害して、最悪命を落としてでも、男性化は避けなければいけない最優先事項だったからだ。でも、それを母の前で「わかってる」と言うのは、急に薄っぺらく感じた。
「……怖くないわけじゃない」
千宥は言った。
「でも、第二次性徴は待ってくれなかった」
千鶴の目が揺れた。
「体が男っぽく成長し始めたのが、怖かった。このまま変わったらって思うと怖くて、そう思ったら、待てなかった。声まで変わってしまったら、もうおしまいだって思った。だから、死んでもいいって思って薬を始めた」
言葉が止まらなかった。
「病院に行った方がいいのは、わかってる。でも、未成年だと親の同意がいる。お母さんだけじゃなくて、お父さんにも知られる。そんなの無理だった」
「……うん」
「だから、自分でやるしかなかった」
千鶴の声が少し震えた。
「そんなこと、言わせたくなかった」
千宥は黙った。
「そんなふうに、体のことを賭けみたいにするしかないって、思わせたくなかった」
「でも」
「でも、じゃない」
千鶴の声が少し強くなった。千宥はびくっとした。その反応に気づいたのか、千鶴はすぐに息を整えた。
「ごめん。怒鳴りたいわけじゃない」
「……うん」
「千宥を否定してるんじゃない。女の子でいたいって気持ちを否定してるんじゃない」
千鶴は、ひとつひとつ言葉を置くように言った。
「でも、体のことを、誰にも見せずに一人で進めるのはだめ」
千宥は目を伏せた。
「わかってる」
「わかってるなら、これから変える」
「……変えるって」
「病院か、相談できるところを探す」
千宥の体がこわばった。
「お父さんに言うの?」
「言わない」
千鶴はすぐに答えた。
「少なくとも、千宥に黙って言わない。さっき約束した」
「でも、病院に行ったら」
「だから、探す。どういう形なら相談できるのか。何が必要なのか。お母さんも調べる」
「お父さんの同意が必要だったら」
「その時は、その時に考える」
「そんな簡単に」
「簡単じゃない」
千鶴ははっきり言った。
「簡単じゃないから、今まで千宥は一人で抱えてたんでしょ」
千宥は何も言えなかった。千鶴は少し身を乗り出した。
「でも、これからは一人で決めないで」
その言葉は、責めではなかった。お願いに近かった。
「薬をやめろって、今すぐ言ってるわけじゃない」
千鶴は続けた。
「お母さんには、今それを言う資格も知識も足りないと思う。だから、ちゃんとわかる人につなげたい。止めるためじゃなくて、千宥の体を守るために」
千宥は唇を噛んだ。止めるためじゃない。そう言われても、怖いものは怖い。病院。親の同意。父。診断。書類。全部が父につながっている気がする。
「怖い」
千宥は言った。
「うん」
「お父さんにバレるのが怖い」
「うん」
「知られたら、薬を取り上げられるだけじゃすまないと思う」
千鶴は静かに聞いていた。
「でも、このままも怖い」
二生が小さく言った。千宥は二生を見る。二生は、カップを両手で握っていた。
「お姉ちゃんが毎日普通にしてるから、忘れそうになるけど。でも、薬のことを聞いてから、ずっと怖かった」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
二生は首を振った。
「お姉ちゃんが悪いって言いたいんじゃない。でも、私だけじゃ何もできない。鈴蘭さんも、たぶんそうだったんだと思う」
鈴蘭が目を伏せた。
「うん」
二生は千鶴を見る。
「だから、お母さんが知ったなら、こうやって思ってくれてるのなら、聞いてほしい」
千鶴は、少しだけ目を見開いた。二生はすぐに慌てた。
「あ、ごめん。偉そうに言った」
「ううん」
千鶴は首を振った。
「その通りだと思う」
二生は黙った。千鶴は、千宥を見る。
「お母さんは、今まで千宥を守れてなかったのかもしれない」
「そんなこと」
「あるよ」
千鶴は静かに言った。
「少なくとも、千宥が十三歳の時から一人でそんなことをしていたのに、気づかなかった」
千宥は目を伏せた。
「気づけなかった」
千鶴の声には、後悔があった。千宥はそれを聞くのがつらかった。母を責めたいわけではない。母に謝らせたいわけでもない。だから隠したのだ。そういう顔を見たくなかった。
けれど、もう見てしまった。母も、千宥も、互いに見たくなかったものを見てしまった。
「お母さん」
千宥は言った。
「私、怒られた方が楽かもしれない」
千鶴は千宥を見る。
「そうなの?」
「うん。怒られたら、反発できるから。でも、そんな顔されると、どうしたらいいかわからない」
千鶴は少しだけ苦笑した。
「ごめん」
「謝らないで」
「難しいね」
「難しい」
千宥が小さく言った。鈴蘭がそこで、ようやくカップに口をつけた。
「お茶、冷めるよ」
その一言で、誰もが少しだけ我に返った。千宥もカップを持ち上げた。少しだけ飲む。熱くはなかった。さっきまで湯気を立てていたお茶は、もう飲みやすい温度になっていた。四人が、ほとんど同時にお茶を飲んだ。妙な間だった。千鶴はカップを置いた。
「二生」
「うん」
「今も、お父さんに報告してるの?」
二生の表情が少し硬くなった。
「うん」
「毎日?」
「ほとんど」
「内容は」
「かわりないです、って」
「それだけ?」
「うん。たまに、学校どうだとか、今どうしてるとか聞かれるけど、詳しくは答えてない」
千宥は胸が重くなるのを感じた。知っていた。二生が父に報告をしていることは知っていた。二生がそれを嫌がっていることも、知っていたつもりだった。でも、こうして改めて母の前で聞くと、別の重さがあった。
「送らなかった日は?」
千鶴が聞く。二生は小さく肩をすくめた。
「怒られた」
千鶴の目が伏せられる。
「ごめんね」
「お母さんが謝ることじゃないよ」
「ううん。知ってたのに、そのままにしてた」
「でも、お母さんもお父さんと喧嘩になるの嫌でしょ」
二生の言葉は、責めではなかった。むしろ、母を庇うような声だった。それが千鶴には堪えたようだった。
「嫌でも」
千鶴は言った。
「二生に背負わせることじゃなかった」
二生は何も言わなかった。千宥も、何も言えなかった。鈴蘭が、テーブルの上で指を組んでいた。千鶴はゆっくり息を吸った。
「これも、変えよう」
「え?」
二生が顔を上げる。
「お父さんへの連絡」
二生の顔に不安が走った。
「でも、急にやめたら」
「急にはやめない」
千鶴は言った。
「お母さんから、減らすように、ちょっと持ち掛けてみる」
二生は戸惑ったように千鶴を見た。
「でも、それだとお父さんが変に思うかも」
「思うかもしれない」
「怒るかも」
「怒るかもしれない」
千鶴は、そこで少しだけ笑った。
「でも、それはお母さんが受け止める」
二生は言葉を失った。千宥も、千鶴を見た。母の顔は、まだ迷っていた。怖がってもいた。けれど、さっきより少しだけ決まっていた。
「今すぐ全部変えるわけじゃない」
千鶴は言った。
「千宥のことをお父さんにどう話すかも、まだ決めない。勝手に言うこともしない。でも、千宥と二生を、お父さんの前にそのまま立たせるのは違う」
千宥の胸が、ぎゅっと縮んだ。
「お母さんは」
千鶴は一度、言葉を止めた。それから、まっすぐ千宥を見た。
「あなたたちの防波堤になる」
その言葉は、静かだった。大げさな言い方ではなかった。芝居がかった声でもなかった。ただ、母が今この場で、自分に言い聞かせるように言った言葉だった。
「お父さんに話す日が来るとしても、その時は、千宥を一人で立たせない。もちろん二生も、もっと自分のために高校生活を送ってほしい」
千宥は、すぐには返事ができなかった。辛うじて、二生は顔を落としながらうなずいた。
防波堤。波を止めるもの。全部をなくすものではない。海はある。波は来る。嵐も来るかもしれない。それでも、その前に立つもの。父が消えるわけではない。問題が解決したわけでもない。年末になっても、来年になっても、きっと何かは起きる。それでも、母が前に立つと言った。
「……本当に?」
千宥は恐る恐る尋ねる。千鶴は頷いた。
「本当に」
「お母さん、仕事もあるのに」
「仕事はある」
「お父さんと揉めたら」
「揉めるかもしれない」
「私のせいで」
「千宥のせいじゃない」
千鶴はそこだけ強く言った。
「千宥が自分のことを話したら、それで家が揉めるかもしれない。でも、それは千宥のせいじゃない。揉める理由を作っているのは、千宥じゃない」
千宥は目を伏せた。その言葉を、そのまま信じるのは難しかった。でも、覚えておきたいと思った。鈴蘭が小さく息を吐いた。
「おばちゃん、ありがとう」
千鶴は鈴蘭を見る。
「鈴蘭ちゃんにも、これから頼ると思う」
「うん」
「でも、全部一人で背負わないで」
鈴蘭は少しだけ笑った。
「それ、あたしも言われる側なんだ」
「そう」
千鶴は頷いた。
「あなたも、この家の子だから。二人のお姉ちゃんをしてくれるんだから」
鈴蘭の顔が、少し歪んだ。泣きそうになったのを、笑ってごまかそうとしている顔だった。
「もう子って歳じゃないけど。二十六だよ、あたし」
「私から見たら、子です」
「強いなあ」
「母親だから」
千鶴はそう言って、少しだけ肩を落とした。
「……母親なのに、知らなかったけど」
その言葉に、千宥は胸が痛くなった。
「お母さん」
「うん」
「私、言わなかったから」
「うん」
「でも、これからは話す」
千鶴は千宥を見る。千宥は、カップを置いた。
「全部すぐには無理だけど。私も、まだ整理できてないことがある。でも、もうお母さんには、隠さないようにする」
「お父さんには?」
千鶴が聞いた。千宥は即答した。
「無理」
「うん」
「絶対無理」
「うん」
「でも、お母さんには話す」
千鶴は頷いた。
「それでいい。今は」
その「今は」が、千宥にはありがたかった。永遠の約束ではない。すべての答えでもない。けれど、今はそれでいいと言われることが、こんなにも楽だとは思わなかった。二生が、少しだけ千宥に寄った。
「お姉ちゃん」
自然に出た呼び方だった。千宥は、反射的に二生を見る。二生も、言ってしまってから少しだけ目を丸くした。それから、逃げるようにカップに視線を落とす。
「……なに」
千宥は、どうにか返した。声が少し震えていた。
「お茶、飲んだ方がいい」
「今それ?」
「冷めるから」
千宥はカップを見る。確かに、もうかなり冷めていた。
「……うん」
千宥はお茶を飲んだ。今度は、少しだけ味がした。苦いわけでも、甘いわけでもない。いつも通りの、なんでもないお茶だった。鈴蘭がいつも適当に淹れるお茶。少し薄かったり、妙に熱かったり、その日によって違うお茶。今日は、少し冷めていた。それでも、喉を通った。居間の空気は、まだ重かった。けれど、さっきまでとは違っていた。誰かが少し動けば壊れてしまいそうな緊張ではなく、重いものをテーブルの真ん中に置いて、全員でそれを見ているような感じだった。
見なかったことにはできない。でも、一人で抱える必要もない。千鶴はカップをテーブルに置いた。
「今日は」
そう言って、少しだけ間を置く。
「ここまでにしよう」
千宥は顔を上げた。
「ここまで?」
「うん」
千鶴は頷いた。
「聞きたいことは、まだある。たぶん、千宥が話さなきゃいけないことも、まだあると思う」
千宥は黙っていた。ある。たくさんある。いつから自分をそう思っていたのか。父をどう怖がっていたのか。学校で何があったのか。チーム・アネックスの面々がどう関わっているのか。これからどうしたいのか。そして、体のこと。まだ、全部を話したわけではない。
「でも、今ここで全部聞いたら」
千鶴は続けた。
「たぶん、お母さん、急ぎすぎる」
「急ぎすぎる?」
千宥が静かに聞き返す。
「うん。心配だから、聞きたくなる。知らなかった分を、今すぐ取り返したくなる。でも、それをやったら、千宥にとっては質問じゃなくて、詰められてるみたいになると思う」
千宥は目を伏せた。たぶん、そうだ。千鶴が優しく聞いてくれたとしても、今の千宥には受け止めきれない。今日だけで、すでにたくさん言った。言うつもりのなかったことまで言った。母に見られた。母に話した。ホルモンのことも言った。父が怖いことも言った。それだけで、もう体の中が空っぽだった。
「だから、今日はここまで」
千鶴は言った。
「でも、終わりにはしない」
千宥は小さく頷いた。
「……うん」
「病院とか相談できるところは、お母さんが調べる。勝手に予約したり、勝手に話を進めたりはしない。まず調べる」
「うん」
「それから、千宥が今使ってるもののことも、できればちゃんと確認したい」
千宥の肩が少し動いた。千鶴はすぐに言葉を足す。
「取り上げるって意味じゃない」
「……うん」
「でも、何をどれだけ使ってるのか、お母さんが何も知らないままでいるのは、怖い」
千宥はカップを見つめた。
「それは」
言いかけて、止まる。薬を見せる。量を話す。入手先を話す。それは、秘密の奥の奥を開けることだった。でも、もう母は知った。知られてしまった。そして母は、止めるためではなく、守るために知りたいと言った。
「……後で」
千宥は言った。
「今日は、無理」
「うん」
千鶴はすぐに頷いた。
「今日は無理でいい」
その返事が早かったので、千宥は少しだけ驚いた。千鶴は、困ったように笑った。
「お母さんも、今日は受け止めるので精いっぱい」
「……そうだよね」
「そうです」
その言い方が少しだけいつもの母に戻っていて、二生が小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。鈴蘭も、ようやく少しだけ肩の力を抜いたように見えた。千鶴は、二生の方を見る。
「二生」
「はい」
「お父さんへの連絡は、今日から少し考え直す」
二生の表情が硬くなった。
「今日から?」
「急に変えると、お父さんが変に思うかもしれないから、やり方は考える。でも、二生が一人で毎日背負うのはやめよう」
「怒られない?」
「怒られるかもしれない」
「……」
「でも、それはお母さんが受け止める」
千鶴は、同じことをもう一度言った。さっきよりも、少し落ち着いた声だった。
「二生」
千宥が呼ぶと、二生は顔を上げた。
「……なに」
「ごめんね」
二生は少し眉を寄せた。
「だから、謝らなくていいってば」
「でも、二生がそういう連絡してるの、知ってたのに」
「お姉ちゃんも、それどころじゃなかったでしょ」
自然に出た「お姉ちゃん」に、千宥はまた少し固まった。二生は今度は言い直さなかった。さっきよりも少しだけ、言葉が馴染んでいた。千鶴は何も言わなかった。否定もしなかった。
「それでも」
千宥は言った。
「二生が来てから、私、だいぶ助かってる」
二生はきょとんとした。
「そう?」
「そうだよ」
「私、何かした?」
「ここにいる」
千宥は、少しだけ照れくさくなって視線を逸らした。
「二生がいてくれる。それだけで、けっこう違う」
二生は黙った。千鶴が、隣で目を細めた。
「二人とも、前より近くなったんだね」
近くなった。そう言われると、少し照れくさい。昔からきょうだいではあった。けれど、家では互いに余計なことを言わず、父の機嫌を損ねないように距離を取っていたところがある。高宮に来てから、その距離が変わった。千宥が変わったから。二生も変わったから。たぶん、それだけではない。
「そうかも」
二生が小さく言った。千宥は、否定しなかった。しばらく、四人でお茶を飲んだ。話題は途切れているのに、誰もすぐ立とうとはしなかった。何も言わずにいる時間が、少しだけ必要だった。言葉にしたことが多すぎて、言葉にしていないことも多すぎて、その全部を一度、心に落とし込む時間が必要だった。
やがて、千鶴が時計を見た。
「そろそろ、行かないと」
千宥は顔を上げた。
「もう?」
言ってから、自分でもびっくりした。当初、早く帰ってほしいと思っていたはずだった。母に見られた瞬間、逃げたいと思った。これ以上何も聞かれたくないと思った。それなのに、いざ千鶴が帰ると言うと、胸の奥が少しだけ空いた。……それは、ある程度受け止めてくれたからではあるのだろう。でも、いつもの家の状態に戻って、心を落ち着けたくもあった。千鶴はその反応に、少しだけ表情を緩めた。
「帰らなくてもいいなら、もう少しいたいけど」
「仕事?」
「今日の仕事は終わったけど、福岡に戻る前に連絡しなきゃいけないところがいくつかある。それに、私が長くいると、千宥も疲れるでしょ」
「それは」
千宥は否定しかけて、やめた。疲れている。ものすごく疲れている。体も、頭も、心も。
「……うん」
千鶴はそう言って、立ち上がった。鈴蘭も慌てて立つ。
「駅まで送る?」
「いい。タクシー呼ぶから」
「いや、下までくらい」
「じゃあ、下まで」
千鶴は素直に頷いた。千宥も立ち上がろうとした。二生も続く。
「千宥は、無理しなくていいよ」
千鶴が言った。
「見送りくらいする」
「でも」
「する」
千宥が少し強く言うと、千鶴は黙った。それから、小さく頷く。
「じゃあ、お願い」
その「お願い」が、千宥には少し嬉しかった。
「千宥」
「なに」
「今日、来てよかったかは、まだわからない」
千宥は少しだけ固まった。千鶴はすぐに続けた。
「来方は、よくなかった。連絡して、返事がないのに、そのまま来たのは、お母さんも悪かったと思ってる」
「寝てた私も悪い」
「寝てたのは悪くない」
「いや、ちょっとは悪い」
「そこは後で考えましょう」
千鶴は、少しだけ笑った。
「でも、知らないままでいるよりは、よかったのかもしれない」
千宥は何も言えなかった。
「まだ、よかったって言い切れるほど簡単じゃないけど」
「うん」
「それでも、お母さんは、今日知ったことをなかったことにはしない」
千宥は頷いた。
「……うん」
「次は、ちゃんと連絡してから来る」
「それはそうして」
「電話にも出て」
「寝てなかったら」
二生が少しだけ笑った。鈴蘭も、ようやくいつもの調子で息を吐く。
「まあ、千宥は寝る時ほんと起きないからね」
「鈴蘭さんまで」
「今日それでこうなってるし」
「それは、まあ」
千宥は言い返せなかった。その小さなやり取りで、場の空気がほんの少しだけ柔らかくなった。玄関で、千鶴が靴を履く。千宥はその背中を見ていた。来た時は、そこから母の声が聞こえて、すべてが終わると思った。鍵の音、ドアの音、鈴蘭の声。あの数分で、千宥の隠していたものは全部崩れた。今、その同じ玄関で、母が帰ろうとしている。崩れたものは戻らない。けれど、崩れたあとに残ったものが、全部なくなったわけでもない。千鶴は靴を履き終えると、振り向いた。
「千宥」
「うん」
「今日は、ありがとう。話してくれて」
「見られたから話しただけ」
「それでも」
千鶴は言った。
「話してくれて、ありがとう」
千宥は少し俯いた。その言葉は、胸に重く落ちた。責められるより、ずっと扱いが難しい。
「……うん」
どう返していいかわからず、千宥はそれだけ言った。千鶴は二生を見る。
「二生も、お父さんのこと、話してくれてありがとう」
二生は口を閉じた。その横顔が、少し泣きそうに見えた。
「鈴蘭ちゃん」
「はい」
「今日は、ありがとう。それから、またちゃんと話しましょう」
「はい」
「怒るためじゃないよ」
「わかってる」
鈴蘭は、少しだけ笑った。
「でも、怒られる覚悟はしてる」
「じゃあ、それも含めて話しましょう」
「強いなあ、おばちゃん」
「母親だから」
千鶴はそう言った。さっきと同じ言葉だった。けれど、今度は少しだけ力があった。玄関のドアが開いた。外の空気が流れ込む。五月の午後の空気だった。少し湿っていて、少し暖かい。坂の下から、遠く人の声が聞こえる。千鶴は一歩外に出て、振り返った。
「千宥」
「うん」
「また、来るね」
千宥は少しだけ息を止めた。その言葉は、怖くもあった。また来る。また話す。また、今日の続きをする。逃げられないということでもある。でも、来ないでほしいとは思わなかった。
「……うん」
千宥は頷いた。千鶴が階段の方へ歩き出そうとした時、鈴蘭がサンダルをつっかけた。
「下まで行くよ」
「いいのに」
「ここまで来て玄関で終わりはないでしょ」
鈴蘭がそう言うと、二生も慌てて靴を履いた。
「私も行く」
千宥も続こうとして、ふと自分の足元を見た。部屋着のままだ。外に出る格好ではない。けれど、アネックスの階段を下りるくらいなら、今さら隠すことでもない。少し前なら、それでも迷ったと思う。母がいる。母が見ている。母の前で、この姿のまま外に出る。それが、妙に大きなことのように感じられた。
四人で玄関を出た。アネックス久世の共用廊下には、五月の午後の光が斜めに差していた。遠くから車や電車の行き交う音が聞こえる。けれど、このアパートの廊下は静かだった。千宥は、最後に玄関の鍵を閉めた。鍵の音がした。さっき母が来た時に聞いた音と、同じ音のはずだった。けれど、今は少し違って聞こえた。四人は階段を下りた。先頭を鈴蘭が歩き、千鶴がその少し後ろを行く。二生は千宥の隣にいた。いつもより半歩近い。触れるほどではないが、離れすぎてもいない距離だった。階段の途中で、千鶴が一度だけ振り返った。
「足元、気をつけて」
「子供じゃないんだけど」
千宥が言うと、千鶴は少しだけ笑った。
「私の子供です」
その言い方に、千宥は言葉を詰まらせた。息子でも、娘でもない。子供。今日の千鶴が選べる、精いっぱいの言葉なのだとわかった。二生が隣で、ほんの少しだけ千宥を見た。千宥は何も言わず、階段を下りた。一階に着くと、駐車場の端に春の光が溜まっていた。アネックスの前の道路は、普段より車通りが多いように見えた。鈴蘭がスマホを取り出す。
「タクシー、もう呼ぶ?」
「うん。お願い」
千鶴が答えると、鈴蘭は操作を始めた。二生は千鶴の横に立って、少し迷ったあとで言った。
「お母さん」
「うん」
「今日のこと、お父さんには……」
言いかけて、二生は口を閉じた。千鶴は二生を見る。
「言わない」
さっきと同じ答えだった。
「でも、二生への連絡のことは、今日から考える。夜に来たら、お母さんに見せて」
二生は小さく頷いた。
「うん」
「一人で返さなくていい」
その一言に、二生の肩がわずかに下がった。千宥はそれを見ていた。二生は、今までずっとあんなふうに肩に力を入れていたのかもしれない。自分のことで精いっぱいで、気づいていたつもりで、気づけていなかった。
「二生」
千宥が呼ぶと、二生は顔を上げる。
「なに?」
「あとで、ポートフェスタの話聞かせて」
二生は少し目を丸くした。
「そんな話でいいの?」
「そういう話がいい」
千宥は言った。
「今日は、そういう話も聞きたい」
二生は少しだけ笑った。
「からあげ食べた」
「お店もいっぱい出てるもんね」
「あと、果文ちゃんが射的で全然当たらなくて、しろちゃんが普通に一発で当てた」
「しろちゃん、そういうの強そう」
「強かった」
「しろちゃん、通行人に顔バレなかった?」
城宏子も高宮で活躍する芸能人なのだ。
「……変装、うまい。みんな気づいてなかった」
二生の声が、ほんの少しだけいつもに戻った。千鶴は、そのやり取りを静かに聞いていた。
「いい友達ができたんだね」
二生は頷いた。
「うん」
千宥も、少しだけ頷いた。
「二生も、もう高宮の子だね」
鈴蘭がスマホから顔を上げずに言う。
「まだ一ヶ月だよ」
「一ヶ月あれば十分」
「そうかな」
タクシーが来るまでの数分、四人はアネックスの前に立っていた。何を話すでもない。時々、鈴蘭が道の方を見る。二生が紙袋の持ち手を握り直す。千鶴が仕事用のバッグを肩にかけ直す。千宥は、自分の部屋着の裾を軽く押さえていた。外にいる。母の前で、この姿のまま。誰かに見られるかもしれない。アネックスの住人が出てくるかもしれない。近所の人が通るかもしれない。でも、不思議と部屋の中にいた時ほど怖くはなかった。千鶴が隣にいる。二生がいる。鈴蘭がいる。それだけで、少し違った。
やがて、タクシーがゆっくり上がってきた。鈴蘭が軽く手を上げると、タクシーはアネックスの前に停まった。千鶴は後部座席のドアが開くのを見て、三人を振り返った。
「じゃあ、行くね」
「うん」
千宥は頷いた。二生も小さく手を振る。
「気をつけて」
「二生も」
鈴蘭が言う。
「おばちゃん、駅着いたら連絡して」
「はいはい」
「はいは一回」
「そこは私が言う方じゃない?」
鈴蘭と千鶴が、少しだけいつもの親戚同士の調子に戻る。千鶴はタクシーに乗り込む前に、もう一度千宥を見た。
「千宥」
「なに」
「今日は、休んで」
「うん」
千鶴が少し笑った。それから、表情を少しだけ真面目に戻す。
「また連絡する」
「うん」
千鶴はタクシーに乗った。ドアが閉まる。窓越しに、千鶴が軽く手を上げた。二生が手を振る。鈴蘭も振る。千宥は少し遅れて、同じように手を上げた。タクシーがゆっくり動き出す。遠ざかる車を、三人はしばらく見送った。千鶴の姿が見えなくなっても、千宥はまだその方向を見ていた。二生が隣で小さく言う。
「行っちゃったね」
「うん」
「大丈夫?」
千宥は少し考えた。今日、何度も聞かれた言葉だった。大丈夫ではない。何も解決していない。父のことも、身体のことも、学校のことも、自分がこれからどう生きるのかということも、何一つ片付いていない。それでも、さっきよりは少しだけ違った。
「大丈夫じゃない」
千宥は言った。二生が千宥を見る。千宥は、道路の奥を見たまま続けた。
「でも、もう大丈夫なふりはしなくていいのかもしれない」
二生は、少しだけ黙った。それから、小さく頷いた。
三人は、アネックスの階段を上がった。部屋に戻れば、冷めたお茶が残っている。テーブルの上にはカップが四つ。千宥の部屋には、半開きのクローゼットと、ハンガーから外れかけた男物のシャツがそのままになっている。片付けなければならない。話さなければならないことも、まだたくさんある。それでも、千宥は階段を上がりながら、少しだけ息を吸った。五月の空気が、さっきよりも冷たく感じなかった。
【次回予告】
謎に包まれた令嬢、美佳の素顔に迫る。
という感じです。お楽しみに。
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