第38話 アパート暮らし令嬢(使用人付き)の優雅な苦悩
<AI依存度>:
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えげつないぐらいAI頼りだな、今回……
謎の満ちた(思考回路が読めないというのがメインだが)お嬢様の一日に迫る……?
羽田を出るころには、空はすっかり夜になっていた。窓の外に並んでいた滑走路の灯りが、機体の向きが変わるたびに少しずつ流れていく。東京の夜は、最後まで明るい。地上の灯りも、誘導灯も、空港の建物も、どこまでも人が起きているような顔をしている。
新宮領美佳はシートに背を預けたまま、小さく息を吐いた。
連休は、忙しかったのかと聞かれれば、そうでもない。移動して、挨拶して、食事をして、親戚の話を聞いて、必要なところで笑う。そういう時間が、最初から最後まできれいに並べられていただけだ。
幼稚園から高校一年生まで十三年間通った桜純女学院を離れ、この春から高宮という九州の都市にある春若栄久高校へと転入してきた。これも、心から慕う許嫁、杠千宥と一緒にいるため。世間でお嬢様学校と言われる学校から、様々な個性的な一般家庭の生徒を中心とする共学校にやってきて、非常にカルチャーショックは大きいが、面白いとも感じる。ただ、自分が感じている以上に驚きを感じているのは、周囲の生徒たちのようである。そして、世間からすると自分はかなり裕福な育ちらしく、それをうらやましがられることは多々ある。しかし、実際にそういう生活をしている側からすると、そんなにいいものではない。
今、高宮にやってきて、本当に平和な日々が続いており、もうこのまま東京に帰りたくないとも思っているほどだ。しかし、今回は家庭の用事が盛りだくさんであったため、実家に戻った。きれいに並べられた予定というのは、それだけで少し疲れる。誰かに叱られたわけでもない。嫌なことを言われたわけでもない。むしろ、みんな美佳には優しかった。けれど、その優しさは、どこか隙間が少なかった。すべての予定を終えた頃には、もう連休最終日であった。そして、息もつく暇もなく、和光の実家から羽田までやってきた、というわけだ。ここから高宮空港までが、つかの間の休息である。機内アナウンスが流れる。高宮行きの最終便は、定刻通りに離陸するらしい。
隣の席で、山崎貴文がスマホの画面を見ていた。黒いスーツに身を包み、一見きっちりした装いであるが、がばっと足を開き、片手で画面を叩いている。低く険しい顔つきのせいで、何も知らない人が見れば、仕事の連絡でも確認しているように見えるかもしれない。だが、美佳は知っている。
「またゲーム?」
「イベント最終日だ」
山崎は画面から目を離さずに言った。
「飛行機の中よ」
「離陸するときにやめる」
「当たり前でしょ」
「じゃあ今はまだいい。あと、しばらくしたらWi-Fiも使えんだろ」
「……あなた、本当に中毒なんじゃない?」
「ほっとけ」
そう言って、山崎はもう一度画面を叩いた。
山崎は、新宮領家の使用人である。もう十年以上、美佳のそばにいる。使用人と言っても、丁寧な言葉遣いをするわけでも、必要以上にかしこまるわけでもない。むしろ、美佳に対しては昔からこうだった。お嬢様扱いはする。人前では体面上言葉遣いも気を付ける。けれど、甘やかしはしない。敬うような顔をして、わりと平気で雑に扱う。それが、山崎だった。
「東京、どうだった」
画面とにらめっこしたまま、山崎が言った。
「どうって?」
「顔が疲れてる」
「そんな顔してないわ」
「してる。半分くらい死んでる」
「失礼ね」
「事実だ」
美佳は反論しようとして、やめた。たぶん、少し疲れているのは本当だった。朝からずっと、祖父母を訪れたり、父の会社関係のパーティーに参加したり、そうでなくとも友人と会ったり。
父とはあまり長く話さなかったが、それでも会えば会ったで、学校のことを聞かれた。
高宮の学校はどうだ。新しい生活には慣れたか。困ったことはないか。必要なものはあるか。
どれも、心配してくれているのは分かる。だから、美佳もきちんと答えた。
楽しいわ。慣れたわ。周りもいい方ばかりだから大丈夫よ。今のところは大丈夫よ。
嘘ではなかった。けれど、それを何度も言っているうちに、自分が本当に楽しいのか、それとも楽しいと言う役をこなしているのか、少しだけ分からなくなる瞬間があった。
「……別に、嫌だったわけじゃないわ」
「聞いてねえ」
「聞いたじゃない」
「どうだったとは聞いた。嫌だったかとは聞いてない」
「屁理屈」
「間違ったことは言ってない」
山崎はそう言って、スマホをポケットにしまうと、目を閉じた。離陸前に寝るつもりらしい。相変わらず、切り替えが早い。美佳は窓の外を見た。飛行機がゆっくりと滑走路へ向かっていく。ほどなくして加速が始まり、身体が背もたれに押しつけられた。東京の灯りが斜めに傾き、遠ざかっていく。美佳は、その光の海をしばらく見ていた。実家は、嫌いではない。家族も、嫌いではない。自分が恵まれていることも、分かっている。それでも、離陸して地上が遠ざかるとき、少しだけ息がしやすくなるのはなぜだろうと思った。
高宮空港に着いたのは、午後九時過ぎだった。到着ロビーは、東京とは比べものにならないほど静かだった。連休最終日だからか、同じ便から降りた人たちも皆どこか疲れていて、足音だけが床に響いている。
荷物を受け取り、出口へ向かう。山崎は美佳のキャリーケースを当然のように引いていた。
「持てるわよ」
「知ってる」
「じゃあ返して」
「嫌だ」
「なによ、それ」
「俺の仕事がなくなる」
「仕事中にゲームしてたくせに」
「あれは待機だ」
「便利な言葉ね」
美佳は呆れて、けれど少しだけ笑った。空港の外に出ると、夜の空気が肌に触れた。東京よりも湿っていて、海の匂いがする。織田島湾の沖にある高宮空港は、街から離れているため、騒がしさが少ない。代わりに、遠くの暗がりと、低く広がる灯りが目に入る。山崎は駐車場へ向かいながら、ポケットからキーを取り出した。美佳も後ろをついてくる。
「ロビーで待ってろよ」
「時間がもったいないわ」
「あんまりこんなことさせてると、俺が旦那に怒られる」
使用人としての線引きは、山崎なりにあるらしい。
「いいじゃない、パパも見てないわ」
「お前についてきて、俺は只でさえ仕事が減ってるんだ。『職業・自宅警備員』で金もらってるなんて、冗談にもなりゃしねえ」
そのフレーズに美佳は吹き出す。
「いいじゃない。スマホゲームでもしてなさいよ。それに、オンラインでの事務作業もあるんでしょう?」
「でもあっちの時の仕事量に比べたら屁みてえなもんだ」
そうぼやいているうちに、車についた。高宮にやってきてから、二日かけて山崎が運転して持ってきた、美佳専用のロールスロイスだ。
ドアを開けると、運転席の近くにスマホの充電ケーブルがつながったままになっている。美佳はそれを見て、眉を寄せた。
「ほんとにあなた専用の充電ケーブルが差さってるじゃない」
「後ろにお前のもあるだろ」
後部座席にもUSBの差し込み口はあり、そこに美佳用のケーブルも刺さっている。
「けど、誰の車よ」
「運転席は俺専用だ」
「そういう問題じゃない」
美佳のボヤキに山崎は低く笑った。笑ったと言っても、顔はあまり変わらない。ただ、声だけが少し緩む。車が空港を出る。織田島から現在美佳が住む高宮市郊外の春若町までは車で四十分ほどだ。まずは高宮自動車道の織田島高宮空港インターチェンジまで向かう。空港大橋を渡る。夜の海は黒く、街灯の光だけがところどころに落ちている。本土に戻ると、織田島の幹線道路沿いの町並みがまだ明るい。高速道路に入ると、まばらな街灯と車のランプのみが目立つようになった。美佳は窓に頬杖をついた。
「寝るなら寝てろ。着いたら起こす」
「寝ないわよ」
「さっきから目が半分閉じてる」
「閉じてない」
「じゃあ開いてない」
「同じじゃない」
そう返しながらも、美佳は少しだけ目を細めた。車の揺れは、飛行機よりもずっと身体に馴染む。空港から春若へ向かうこの道も、もう何度か通った。最初は知らない土地だった。窓の外を見ても、地名も、方角も、建物も分からなかった。今は少し違う。春若に行くには三浜インターでバイパス道路に乗り換える。そして春若インターで降りると、もうアネックス久世や春若栄久高校は遠くない。最後の方で路面電車の踏切を渡り、狭い道を通る。まだ高宮自動車道ではあるが、もう道中の様子が頭に浮かぶ。道順はもう覚えた。実家の周辺とは全く町並みが違う。自然が多い。言葉を選ばなければ……田舎だ。でも、東京育ちには逆にそれが新鮮で、正直、楽しい。分かる場所が増えると、街は少しだけ自分のものになる。
「明日から学校か」
山崎が言った。
「そうね」
「宿題は」
「終わってるわ」
「ほんとか」
「本当よ。失礼ね」
「昔、一回忘れただろ」
「小学生の時の話でしょ」
「人間、根は変わらねえからな」
「変わるわよ」
美佳は少し強めに言った。山崎は、ちらりとバックミラー越しに美佳を見た。それだけで、何も言わなかった。車内に沈黙が落ちる。美佳は、自分の言い方が少し強くなったことに気づいていた。山崎は気にしていないだろう。昔からこういう相手だ。美佳が少しくらい機嫌を悪くしても、必要以上に慌てたりしない。だから、こちらも言いやすい。
変わるわよ。その言葉が、思ったより自分の中に残った。転校してから、まだそれほど時間が経ったわけではない。けれど、美佳の毎日は確かに変わった。学校も、住む場所も、周りにいる人も。千宥がいる。妹の二生までいる。古波蔵茉衣子、朝長慎吾と雛灯、樋口健介、玉井絢那。人の名前を覚えるのがものすごく苦手で、覚えるまでずいぶん無礼な目に遭わせたことには恥じ入るばかりだが、それでもめげずに付き合ってくれた。初対面のやや唐突な挨拶からこの一月を共にして、今がある。玉井のみ厳密には住人ではないのだが、一つ屋根の下に住まう仲間――チーム・アネックスとして非常によくしてもらっている。アネックスに帰れば、誰かの足音がする。廊下で会えば、声をかけられる。食事の時間がずれれば、誰かが何かを残してくれていたりする。それは実家とは違う。何もかもが整っているわけではない。むしろ、雑で、騒がしくて、予定通りにはいかない。けれど、その雑さの中にいると、美佳は自分の形を少し変えてもいいような気がした。
「なあ、美佳」
「なに?」
「学校、面白いか」
山崎の声は、相変わず低かった。けれど、からかう調子ではなかった。美佳は少し考えた。父や母に聞かれた時は、すぐに答えた。楽しいわ、と。何の問題もなく大丈夫よ、と。でも、山崎に同じことを聞かれると、同じ言葉では少し足りない気がした。
「……面白いわ」
「そうか」
「でも、簡単ではないわね」
「学校なんてそんなもんだ」
「山崎、学校ちゃんと行ってたの?」
「喧嘩売ってんのか」
「確認よ」
「行ってた。そこそこ」
「そこそこなのね」
「高校まで卒業できりゃ十分だろ」
山崎は大学を中退して新宮領家の使用人になったのだ。美佳は小さく笑った。それから、窓の外に目を戻した。
「みんな、色々あるの」
「ああ」
「それで、私はまだ、どこまで入っていいのか分からない時がある」
「入ればいいだろ」
「簡単に言うわね」
「簡単なことを難しく考えるのは、お前の悪い癖だ」
美佳は黙った。山崎はハンドルを切りながら、続けた。
「嫌がられたら引けばいい。入れそうなら入れ。分からねえなら聞け」
「それが難しいのよ」
「だろうな」
「分かってるなら、簡単に言わないで」
「難しい顔してるから、簡単に言ってんだよ」
美佳は返事に困った。山崎は、こういうことを時々言う。雑で、乱暴で、身も蓋もない。けれど、その身も蓋もなさに、少しだけ救われることがある。たぶん山崎は、美佳の話を完全には分かっていない。千宥のことも、二生のことも、学校の空気も、見ていたわけではない。それでも、分かるところだけで答えてくる。分からない部分まで、分かったふりをしない。そこが、少し楽だった。
ぼんやりしているうちに、気づいたら車は止まっていた。窓の外にそろそろ見慣れてきた三階建ての建物が見えた。夜の建物は、昼間より少しだけ大きく見える。エントランスの灯りがついていて、窓のいくつかにも明かりが残っている。誰の部屋かまでは分からない。けれど、その明かりを見た瞬間、美佳の肩から力が抜けた。帰ってきた。そう思った。実家に帰った時には、思わなかった言葉だった。車がゆっくりと停まる。山崎はエンジンを切り、後部座席の方を振り返った。
「着いたぞ」
「分かってる」
「寝てただろ」
「寝てないわ」
「はいはい」
山崎は適当に流して、トランクから荷物を下ろした。美佳は車を降り、アネックスの玄関を見上げた。外から見ると、ただの集合住宅だ。ここに来たばかりの頃は、自分がこの建物に住んでいることが、どこか借り物のように感じられた。部屋も、廊下も、食堂も、全部が仮の場所だった。今は、少し違う。ただいま、と言う相手がいるかどうかは分からない。けれど、ただいまと言ってもいい場所にはなっている。山崎が当たり前のように美佳のキャリーケースを手に取った。
「いい。ここからは自分で持つわ」
「転ぶなよ」
「転ばないわよ」
美佳はキャリーケースの持ち手を握る。少しだけ重い。けれど、持てないほどではなかった。
「山崎」
「あ?」
「悪かったわ。振り回して」
「仕事だ」
「そういうところ、普通に受け取ればいいのに」
「使用人だからな」
「都合のいい時だけ使用人ぶるのね」
「便利だろ」
山崎は片手を上げた。
「明日寝坊すんなよ」
「しないわよ」
「起きなきゃ起こすだけだ」
軽口をたたき合いながら、アネックス久世の301号室に到着した。美佳はキャリーケースを引いて、玄関を上がった。後ろについていた山崎はそのまま一番手前の「執事室」と銘打った自室に引っ込んだ。廊下の途中、執事室のドアが閉まると、美佳は小さく息を吸った。
「……ただいま」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。返事はなかった。けれど、それで十分だった。
翌朝、目覚ましが鳴る前に、美佳は目を覚ました。窓の外は、まだ少し薄い。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床に細く伸びている。東京の実家の部屋よりも狭く、置いてある家具も少ない。けれど、その分だけ、朝の光がまっすぐ入ってくるような気がした。しばらく天井を見てから、美佳は身体を起こした。疲れは残っている。昨日の夜、部屋に戻ってから荷物をほどく気力はなく、キャリーケースは壁際に置いたままだった。最低限のものだけを取り出し、シャワーを浴び、制服をハンガーにかけ直して、それで終わった。けれど、目覚めは悪くなかった。実家で迎える朝とは違う。起きる時間も、朝食の段取りも、誰と顔を合わせるかも、すべて決まっているわけではない。アネックスの朝は、もう少し雑だ。誰かが早く出る日もあれば、ぎりぎりまで寝ている日もある。廊下で会う人も、その日の運次第だった。
美佳はベッドから降り、制服に着替えた。ベージュのブレザーに袖を通す。桜純女学院の制服とは、色も形も空気も違う。最初に着た時は、自分が少し違う人間になったような気がした。今は、鏡の中の自分にそれほど違和感はない。
居間へと向かう。実家に比べると、非常に小ぢんまりとしている。しかし、よく考えたら、二人暮らしだとこれぐらいの広さがちょうどいいのかもしれない。短パンにTシャツ姿の山崎が朝食の準備をしていた。
「起きてたか」
「起きてるわよ」
「寝坊しなかったな」
「だからしないって言ったでしょう」
「そうか」
山崎はそれ以上言わなかった。心配しているのか、ただ確認しただけなのか、分かりにくい顔をしている。
美佳は昔からの習慣で朝食はしっかりと用意される。しかし、摂取量はその日の時間的余裕次第にはなる。時間がなければ、結局山崎の腹に収まる。しかし、今朝は完食である。そのまま洗面所に向かう。顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。そして、一旦自室に戻り、鞄を持って部屋を出る。
「行ってきます」
「ああ」
彼なりの使用人としての体面として、廊下に出向き、美佳を見送る。
アネックスを出ると、朝の空気が頬に触れた。連休明けの街は、どこか眠そうだった。車の音も、人の声も、普段より少しだけ重い。栄久坂へ向かう道にも、同じ制服の生徒がちらほらと見え始めている。
坂の途中で、前を歩いていたもうこの一か月ですっかり見慣れた男子に声をかけた。
「おはよう、健介くん」
「ああ、美佳さんか。おはよう」
樋口健介だった。鞄を肩にかけ、少し猫背気味に歩いている。連休明けの朝にしては、顔色は悪くない。けれど、いつものようにどこか周囲を気にしているような目をしていた。
「戻ってきたんだな。俺も昨日の昼戻ったんだけど、夜、飯食いに行ったら、まだ電気がついてないみたいで。事故ってないかってちょっと思ったんだけど。……俺、ストーカーっぽいかな」
「あら、ご心配ありがとう。遅かったのよね。最終便で戻ったんですもの。十時過ぎだったかしらね」
周囲からの詳細な観察の目には慣れている。美佳としてはまだこんなのはストーカーの範疇には程遠い。まずもって、もっと行動的な相手は山崎が容赦しない。
「最終便か……大変だな」
「ええ。少し疲れたわ」
美佳がそう言うと、健介は一瞬だけ驚いたような顔をした。
「え?」
「なに?」
「いや、美佳さんが普通に疲れたって言うの、ちょっと珍しいなと思って」
「私だって疲れるわよ」
「それはそうなんだけど」
健介は困ったように笑った。美佳は、その表情を見て少しだけ不思議に思った。健介は、相手を見すぎるところがある。見ているのに、踏み込まない。気づいているのに、言い切らない。
「健介くんは、連休どうしてたの?」
「俺?俺は……福岡だな」
「旅行?」
「まあな。……旅行というか、親父が住んでるんだけど」
「お父様?健介くんも千宥さんと同じで、福岡の方なの?」
「いや、俺自身は春若の地元民なんだけど。親父が福岡に単身赴任してて。で、博多どんたくってあるでしょ。姉貴があれに行きたいって言いだして、俺もセットで付き合わされた」
「あら、いいじゃない。私も行ってみたいわ。それに、ホテル取らなくていいんでしょ?」
「……親父、単身赴任用で用意してるから、窮屈だったぞ。別んとこ単身赴任してるお袋も含め四人で1LDKだからな」
「あらあ……」
それは狭い。ただ、美佳がそれを言っては嫌味にしか聞こえないような気がして、コメントは差し控えた。栄久坂は、朝から容赦がない。美佳は最初の頃、この坂を上るだけで学校に着く前に一日分の体力を使ったような気がした。今でも楽ではないが、歩き方は覚えた。無理に早く上らず、息を整えながら進む。地元の生徒たちは、ほとんど何でもない顔で上っていく。健介も、特に速いわけではないが、慣れている歩き方だった。
「東京って、やっぱり人多い?」
健介が言った。
「多いわね」
「高宮に戻ってきたら、静かに感じる?」
「感じるわ。空港に着いた時点で、全然違うもの」
「俺、東京の空港とかほとんど分からないからなあ」
「羽田は、夜でも起きてるみたいよ」
「やっぱ、美佳さんだな。感想が、知的」
「そう?」
「うん。俺なら、広いとか、人が多いとかで終わる」
美佳は少し笑った。
「健介くんも、わりと見てると思うけど」
「見てるだけだよ」
「それ、大事じゃない?」
「どうかな」
健介は視線を少し前に戻した。
「見てるだけで何もしないことも多いから」
美佳はその言葉に、少し引っかかった。昨日、山崎に言ったことを思い出す。どこまで入っていいのか分からない時がある、と。健介も、同じような場所にいるのかもしれない。見えている。気づいている。でも、自分がそこに入ることが正しいのか分からない。
「でも」
美佳は言った。
「見ている人がいるだけで、助かることもあるんじゃないかしら」
健介がこちらを見た。
「そうかな」
「少なくとも、私はそう思うわ」
「……そっか」
健介はそれ以上聞かなかった。
学校に近づくにつれて、生徒の数が増えていく。正門の前では、連休明けらしいざわめきが広がっていた。旅行の土産を持っている生徒、眠そうに歩く生徒、提出物の話をしている生徒。休み明けの空気は、どこの学校でも似ているのかもしれない。ただ、桜純女学院のそれよりも、ずっと声が大きかった。昇降口に入ると、健介は自分の下駄箱の方へ向かった。
「じゃあ、また」
「ええ。また」
美佳は軽く手を振った。
教室に入ると、連休明けの騒がしさがそのまま詰め込まれていた。席の周りで土産を配っている生徒がいる。机に突っ伏している生徒がいる。廊下に向かって大声で誰かを呼んでいる生徒がいる。窓際では、誰かが連休中の部活の愚痴を話していた。美佳は自分の席に鞄を置いた。その瞬間、後ろから声が飛んできた。
「お嬢、帰還!」
振り返るまでもなく、古波蔵茉衣子だった。アネックス久世の107号の住人である。茉衣子は今日も朝から声がよく通る。ツインテールが揺れ、日に焼けた肌に朝の光が当たっている。彼女がいるだけで、教室の空気が一段明るくなるような気がする。
「お嬢はやめて」
「じゃあ姫」
「悪化してるわ」
「高宮に戻ってきた東京姫」
「やめなさい」
美佳が眉をひそめると、茉衣子はけらけら笑った。
「で、どうだったよ。東京」
「どうって?」
「豪邸でパーティーして、シャンデリアの下でステーキ食ってたんだろ」
「偏見がすごいわね」
「違うのか?」
「少なくともシャンデリアの下ではないわ」
「ステーキは?」
「食べた日もあるけど」
「ほら!」
「そこだけ当たったみたいな顔をしないで」
茉衣子は隣の机に腰をかけるように寄りかかった。
「お土産は?」
「あるわよ」
「マジで?」
「でも、後でね。朝から配ると収拾がつかなくなるもの」
「分かってんじゃん」
「あなたを見ていれば分かるわ」
「なんだそれ」
茉衣子は笑ったまま、美佳の顔を覗き込んだ。
「つーか、疲れてんな」
「……そんなに顔に出てる?」
「出てる。いつもの美佳より、ちょっと目が開いてねえ」
「言い方が雑だわ」
「山さんにも言われたろ」
山崎は何故か茉衣子とその彼氏の朝長慎吾から「山さん」と呼ばれるようになっていた。
「なんで分かるの」
「言いそうだから」
美佳は思わず黙った。確かに、言われた。半分くらい死んでる、と。茉衣子の言い方は山崎ほどひどくないが、遠慮のなさは似たところがある。茉衣子は、ふっと表情を緩めた。
「まあ、無事帰ってきたならいいけどな」
その言葉は、思ったより静かだった。美佳は一瞬、返事に迷った。
「……ええ。ただいま」
言ってから、自分で少し驚いた。茉衣子も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。
「おう。おかえり、姫」
「だから姫はやめて」
「じゃあお嬢」
「戻ってるじゃない」
そのやり取りに、斜め前の席にいた玉井が駆け寄ってきた。
「美佳ちゃん、おかえり」
玉井絢那は、いつものように穏やかな顔をしていた。茉衣子の親友で、アネックス久世の大家の孫娘で、よくアネックスまで遊びに来る。美佳の席の横に立ち、机の縁に手をかける。茉衣子の横に立つと、彼女の小柄さが際立つ。
「ただいま、玉ちゃん」
「お土産ある?」
わくわくした顔をする玉井。
「あなたもそこなの?」
「茉衣子ちゃんが聞いたから、聞いていい流れかなって」
「どういう流れよ」
「でも、あるんでしょ?」
「あるけど」
「じゃあ、後で楽しみにしてる」
玉井はにこっと笑った。その笑顔は柔らかい。けれど、油断していると時々、妙に鋭いところを突いてくる。茉衣子が正面から扉を蹴破るなら、玉井はいつの間にか部屋の中にいるような子だった。
朝のホームルームが始まるまで、美佳は何人かに声をかけられた。東京どうだったの。飛行機で帰ってきたの。やっぱり実家って大きいの。連休、何してたの。美佳はそれぞれに答えた。あまり細かくは話さない。けれど、前ほど構えることもなかった。最初の頃なら、どこまで話していいのか迷っていた。裕福な家の話は、相手によっては距離を作る。隠しすぎても不自然で、話しすぎても嫌味になる。
けれど、今は少し分かってきた。全部を説明する必要はない。嘘をつく必要もない。聞かれたことに、必要な分だけ答えればいい。
チャイムが鳴り、担任の榊原妙子が入ってくる。ロリータファッションで教壇に立つ非常に風変わりな女性教諭。茉衣子に聞いたが、三十歳らしい。しかし、授業、学級運営ともに長けており、正直、桜純の教師よりも全然優秀である。美佳から見た、掛け値なしの所感である。今日は、一際綺麗な衣装である。しかし、当人は一際ゆるい雰囲気である。
「はーい、おはよー。ゴールデンウィークが終わっちゃいました。妙ちゃんも休みボケがいまいち治りません」
この、生徒目線というか、正直で、敢えて「ちょっとダメな大人」を演じるのが妙子の神髄である。
「一昨日だったかな。お洋服を買いに天神まで行ったの。しっかし、どんたく、ヤバいね。あたしもおめかしして行ったのに、人混みでもみくちゃにされました。やんなっちゃう。まあ、お土産も各自あるでしょうけど、一応お菓子の持ち込みは禁止なので、こっそりやってください。妙ちゃん、出席とり終わったら一目散にはけてあげるので」
このルールに縛られないけど、完全に無視しないのが、妙子流である。そして、宣言通り、出席確認と軽いお知らせをしたら、本当に慌ただしく職員室に戻っていったのだった。早速お土産を配り歩く者が複数名現れたので、この時点で美佳は動かないことにした。
午前中の授業は、連休明けの鈍さを引きずりながら進んだ。美佳はノートを取りながら、時々窓の外を見た。高宮の空は、東京よりも近い気がする。気のせいだろう。けれど、山が近く、斜面が近く、校舎の窓から街の輪郭が見えるせいか、空まで近く感じる。
二時間目が終わった休み時間、廊下に出ると、向こうから朝長慎吾が歩いてきた。先ほどの茉衣子の彼氏で、彼自身もアネックスの202号室の住人である。今日は少し眠そうな顔をしていたが、周りの男子に何か言われて軽く返している様子は、いつも通りだった。
「おう、美佳ちゃん」
「おはよう、慎吾くん」
「昨日戻ったんだっけ」
「ええ。夜に」
「お疲れ」
「ありがとう。慎吾くんは連休、どうだったの?」
「まあ、普通。普通って言うと何もしてないみたいだけど」
「実際は?」
「家の用事がちょこちょこ」
慎吾は窓際に少し寄り、通行の邪魔にならない位置に立った。美佳もその横に並ぶ。
「家の用事って、学校より疲れる時あるよな」
慎吾が言った。美佳は少しだけ目を開いた。
「分かるわ」
「分かるか」
「分かる。予定が全部、最初から決まっている感じがするもの」
「ああ、それ」
慎吾は小さくうなずいた。
「別に嫌なわけじゃないけど、休みって感じがしない時ある」
「そうなの。嫌ではないのよ。むしろ、ありがたいことも多いのだけれど」
「ありがたいと疲れないは別だよな」
「……本当にそうね」
美佳は思わず笑った。慎吾は、踏み込みすぎない。けれど、軽薄に見えて、言葉の置き方が妙に的確な時がある。茉衣子のように乱暴に核心を突くのではなく、自分にも分かる部分を拾って横に置いてくれる感じだった。
「美佳ちゃんってさ」
「なに?」
「たぶん、疲れたって言うの下手だよな」
「そうかしら」
「うん」
「朝から何人にも言われている気がするわ」
「じゃあ顔に出てるんだろ」
「困ったわね」
「別に困ることじゃないだろ」
慎吾は少しだけ笑った。
「疲れてる時に疲れてる顔しても、誰も怒んねえよ」
美佳は返事をしようとして、できなかった。怒られるかどうかではない。疲れている顔を見せること自体に、どこか抵抗がある。心配されるのも苦手だし、心配させてしまうのも苦手だ。大丈夫かと聞かれれば、大丈夫と答える癖がある。でも、慎吾の言い方は軽かった。だから、少しだけ受け取れた。
「覚えておくわ」
「おう」
そう返事すると、慎吾は教室の方へ戻っていった。美佳も自分の教室へ戻りながら、さっきの言葉を思い返した。疲れている時に疲れている顔をしても、誰も怒らない。当たり前のようで、当たり前ではない。少なくとも、美佳にとっては。三時間目が終わる頃には、教室の空気もだいぶ普段に戻っていた。連休の話題はまだ続いていたが、授業が進めば生徒たちも現実に引き戻される。課題を忘れた者が焦り、提出物の締切を聞いて嘆き、昼休みの予定を話し始める。
四時間目が終わると、教室は一気に昼休みの空気になった。椅子を引く音。弁当箱を出す音。購買へ走る生徒の足音。学食に行く生徒たちの声。美佳が鞄から弁当を取り出した。チーム・アネックスは親元を離れている者が多いせいか、学食率が高い。親と同居している茉衣子と玉井も学食派だ。よって、一緒に食事するにしても自分だけ弁当を持っている、ということが多々ある。山崎に何度か訴えたが、「俺の仕事を減らすな」の一点張りである。連休前に話をした時に、山崎から全く同じセリフで突き返されたのを思い出し、美佳は眉をひそめた。すると、茉衣子がこちらを見た。
「美佳、学食行くか?」
茉衣子は笑いながら立ち上がった。その横で玉井も立つ。少し遅れて、千宥が教室の入口の方から顔を出した。
「ええ、行くわよ」
美佳は弁当を持っているが、みんな学食なので、学食まで行って一緒に食べるのだ。
学食は、連休明けでも変わらずに混んでいた。生徒たちの声と食器の音が混ざり、窓から入る光がテーブルの上に広がっている。美佳たちは空いている席を見つけ、四人で座った。茉衣子は相変わらずよく喋る。
「で、東京土産は?」
「今ここで聞くの?」
「飯の前に大事なことは確認しとかないとな」
「食後に渡すわ」
「やった」
ガッツポーズする茉衣子。
「よっぽど楽しみなんだね、茉衣子ちゃん」
玉井が笑う。
「絢那も楽しみだろ」
「楽しみだよ」
「ほら」
「隠してないもん」
二人のやり取りを聞いて、千宥も少し笑った。その笑い方は、自然に見えた。少なくとも、無理に作っているようには見えない。けれど、美佳はその自然さを見て、逆に迷った。元気そうに見える。なら、元気なのだろうか。それとも、元気そうにすることができるだけなのだろうか。美佳が少し黙っていると、玉井がちらりとこちらを見た。
「美佳ちゃん」
「なに?」
「なんか、あった?めっちゃ、悩んでる顔」
玉井はあくまで笑顔だが、こういう時は真理を突いている。ボケてるように見えて、鋭い。これは先週ぐらい、茉衣子から聞いたことだ。
「……そんな顔していた?」
「してた」
玉井はさらっと言った。茉衣子が味噌汁をすすりながら、横から口を挟む。
「美佳は考えすぎなんだよ」
「今日、そればかり言われてる気がするわ」
「じゃあ事実じゃね?」
「ひどいわね」
「ひでえのは今さらだろ」
千宥は少し困ったように笑った。
「美佳ちゃん、もしかして私のこと?私は全然大丈夫だよ」
その言葉は、優しかった。けれど、美佳はすぐにはうなずけなかった。
「……大丈夫なら、いいの」
「うん」
「でも、大丈夫って言わせているだけなら嫌だなと思って」
言ってから、美佳は少しだけ後悔した。昼食の場で言うには、少し重かったかもしれない。千宥が困るかもしれない。茉衣子が何か茶化すかもしれない。けれど、千宥は箸を置き、少しだけ考えた。
「美佳ちゃんは、優しいね」
「そういう話では」
「でも、今は本当に大丈夫。少なくとも、お昼ご飯は普通に食べられるくらいには」
千宥は自分の茶碗を少し持ち上げて見せた。その仕草が少しおかしくて、茉衣子が吹き出す。
「そこ基準なの?」
美佳は脱力した。
「何言ってんだ、大事だぞ、飯は」
千宥に代わり茉衣子が力説する。
「まあ、それはそう」
玉井もうなずいた。
「食べられるなら、けっこう大丈夫だよね」
「そういうもの?」
美佳が聞くと、玉井は真面目な顔で言った。
「絢那も、ご飯が食べられるなら大丈夫」
「玉ちゃんらしいわね」
「褒めてる?」
「褒めているわ」
場の空気が少し軽くなった。美佳は、ほっとした。深刻にしすぎずに、でもなかったことにはしない。アネックスの子たちは、そういうことが不思議にうまい。茉衣子は乱暴に笑い飛ばす。玉井は軽く突く。千宥は少し困りながらも受け取る。その中で、美佳はまだ少し遅れる。心配していいのか。聞いていいのか。黙っているべきなのか。正解は、たぶん一つではない。
昼食の後、美佳は教室に戻る途中、トイレに寄った。そして、その帰りに、朝長雛灯と会った。慎吾の双子の妹で、彼同様アネックスの住人だ。雛灯は廊下の掲示板の前に立っていた。赤縁の眼鏡越しに、何かのプリントを見ている。横顔は真剣で、声をかけるのが少し惜しいような気もした。
「ひな」
美佳が声をかけると、雛灯は顔を上げた。
「あ、美佳。おかえり」
「ただいま」
美佳は自然にそう返した。今朝、茉衣子や玉井らにも同じように返した。回を追うごとに、少しだけ照れが薄れる。
「昨日戻った?疲れてない?」
「少し。でも大丈夫」
言ってから、美佳は自分で笑った。
「また大丈夫って言ってるわね、私」
「え?」
「今日は何人にも、疲れてるなら疲れてる顔をしていいって言われたの」
「それは……みんな、ちゃんと見てるんだね」
雛灯は柔らかく笑った。その言い方に、美佳は少し立ち止まった。
「ねえ、ひな」
「うん?」
「私、馴染んでいるように見える?」
雛灯はすぐには答えなかった。急な質問だったかもしれない。けれど、美佳の中では、朝からずっと残っていた問いだった。雛灯は掲示板から少し離れ、廊下の端に寄った。美佳もそれに合わせる。
「見えるよ」
「そう」
「本当に来た時は唐突でびっくりしたし、やっぱり茉衣子とか千宥とかと別の意味でキャラが立ってて。でも、本当にびっくりするぐらい自然になじんで。でも、美佳は、まだそう思えない?」
美佳は少し驚いた。雛灯の聞き方は、静かだった。決めつけるのではなく、こちらが置いた言葉の続きを待ってくれる。
「……そうね。馴染んでいるつもりではあるの。でも、馴染んでいるつもりって思っている時点で、まだ外側なのかなって」
「外側」
「みんなが何かを共有している時に、私は少し遅れて気づくの。何が起きているのか、誰が何を気にしているのか。見えてはいるけれど、入るには一拍遅れる」
「うん」
「それで、その一拍の間に考えてしまうのよ。これは聞いていいのかしら、とか、私が心配する立場なのかしら、とか」
美佳は、自分で言いながら少し苦笑した。
「面倒くさいわね」
「ううん、面倒くさくないと思う」
雛灯はすぐに言った。
「そんなもんじゃない?相手のことを考えてるから、悩むんだと思うし」
「でも、考えている間に、何もできないこともあるわ」
「それは、私もあるよ」
「ひなも?」
「あるよ。たぶん、私もけっこう見てるだけのことが多い」
美佳は、朝の健介の言葉を思い出した。見てるだけだよ。雛灯同じようなことを言う。けれど、雛灯の場合は、それを責めるようには聞こえなかった。
「外側って、悪いことかな」
雛灯が言った。
「え?」
「外から見えることもあると思う。中にいる人が見落とすこともあるし。美佳が少し離れたところから見ているから、気づけることもあるんじゃない?」
美佳は黙った。外側にいることを、遅れていることだと思っていた。入れていないことだと思っていた。でも、雛灯はそれを少し違う角度から見ている。
「もちろん、入りたい時は入っていいと思うけど」
「それは山崎にも言われたわ」
「山崎さん?」
「入れそうなら入れ、嫌がられたら引け、分からなければ聞けって」
「すごく分かりやすいね」
「雑なのよ」
「でも、ちょっと分かる」
雛灯は小さく笑った。
「美佳は、きっとちゃんと引ける人だから。入っても、大丈夫だと思う。ずけずけ突っ込む茉衣子よりは人とやっていけるよ」
その言葉は、昼休みのざわめきの中で、思ったよりはっきりと美佳の胸に残った。自分は、ちゃんと引ける人。そんなふうに言われたことは、あまりなかった。
「ありがとう、ひな」
「ううん」
「少し、楽になったわ」
「それならよかった」
予鈴が鳴り、廊下にいた生徒たちが慌てて教室へ戻り始める。美佳と雛灯も、それぞれの教室へ向かった。
午後の授業は、午前より少し重かった。連休明けの眠気と、昼食後の満腹感が重なる。教室の空気も少し鈍くなり、先生の声が遠く感じる瞬間があった。美佳はノートを取りながら、何度か瞬きをした。山崎に見られたら、また目が死んでいると言われるだろう。そう思って、少しだけ背筋を伸ばす。
五時間目の世界史の授業の途中、先生に当てられた。美佳は教科書を見て、答える。少しだけ間が空いたが、答え自体は間違っていなかった。先生がうなずき、授業が進む。
最初の頃は、誰にどう声をかければいいのか分からなかった。名前を覚えるのも苦手で、何度も失礼なことをした。茉衣子には笑われ、玉井には訂正され、慎吾には苦笑され、健介には気を遣われ、雛灯には助けられた。それでも、誰も離れなかった。むしろ、名前を間違えるたびに、茉衣子が余計なあだ名をつけようとして、健介が横から止めて、玉井が正しい名前をそっと教えてくれた。慎吾は「そのうち覚えるだろ」と言い、雛灯は自分の名前を間違えられた時でさえ「よくあるから」と困ったように笑った。よくはない。今ならそう思う。でも、その時の彼らの反応に救われたのも事実だった。六時間目が終わる頃には、美佳の疲れもだいぶ表に出ていたらしい。チャイムが鳴ると同時に、茉衣子がこちらを見た。
「美佳、生きてるか?」
「生きてるわ」
「半分くらい?」
「それ、山崎と同じこと言わないで」
「マジで言われてたのかよ」
茉衣子が笑い、玉井も肩を震わせる。ほどなく、ホームルームが始まった。妙子も本格的に疲れが抜けていないらしく、彼女にしては淡々とホームルームが進み、終業となった。
「美佳ちゃん」
ホームルームを終えたばかりの妙子に声を掛けられる。
「はい、何でしょう、先生」
「ちょっと来てくれる?」
「はい。私、何かまずいことしました……?」
今日は色々考え事もしていたため、授業に集中できなかったのは事実だ。
「ううん、ちょっと三者面談の日程がねえ……。美佳ちゃんの実家、東京だから、調整がムズいのよ。普通のコは放課後のあんまり遅くない時間帯にしてるんだけど、ちょっちイレギュラーな時間になるかもな感じでね。美佳ちゃんの都合も踏まえて決めないとって思って、その相談。美佳ちゃんのパパの予定は一通り聞いたんだけどね」
美佳も両親ともにそれなりに忙しい人間だが、特に父親の美佳の溺愛具合はすさまじく、学校の用事には率先して参加したいらしいのだ。転校してきた時も、社長を務める会社を休んできたらしい。
「……まあ、父がご迷惑を」
美佳は苦笑する。
「ううん、パパがこんなに真剣なんていいじゃん。あたしのパパは運動会の応援すらろくすっぽ来なかったんだから。じゃ、ごめんね、職員室にお願いね」
用事そのものは五分、十分で済んだ。そして、用事が済んだので帰宅することにした。前の学校とは全く「別の社会」にいるので、色々驚かされることもあるが、学ぶことも非常に多い。自分で決めた道なのだから、そこに生きる人たちの生きざまをぜひとも学ぶべきだ。よし、明日からも頑張ろう。自然と足取りも軽くなる。栄久坂と呼ばれる下り坂をずんずんと進む。
すると、非常に見慣れた集団がいた。
「で、どうすんだよお前」
「わかんないよ。どうしたらいいか……」
茉衣子と千宥が非常に思いつめた話をしている。雛灯も一緒だ。何、どうしたの?千宥さんは何を悩んでいるの?そう思った瞬間、美佳の足はさらに速く動いた。
「千宥さん!どうしたの?」
「み、美佳ちゃん……」
千宥がぼそりとつぶやく。心なしか、空気が凍り付いた気がする。それそのものは美佳も察知したが、その理由はさっぱりわからなかった。
何?私、何かしたの?
【次回予告】
美佳は先に下校していた千宥に合流。思いつめた顔をする千宥、いったい何があったのか?
次回に続きます。お楽しみに。
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