第36話 親にも隠した素顔
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:35~40%
AI文をベースに改稿:40~45%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:15~25%
千宥にとっての一大事です。まあ、見守ってください。
「パス」という用語だけ事前に説明しておくと、性別違和・トランスジェンダー当事者が、元の性別を悟られずにいられることであり、「パス度」とはどれだけ悟られないか?、「バス度が高い」とは、元の性別がなかなかバレない、ということです。
世間はゴールデンウィーク。連休初日である。杠千宥は一人で家にいた。この春高校生になった妹の二生は早速できた友達と街に遊びに行った。そして、二人の事実上の保護者である従姉の田中丸鈴蘭は仕事である。
アネックスも人が少なく寂しくなってきた。約一か月前、急に押しかけてきた新宮領美佳は、千宥を案じてやってきた割には、昨日夕方の飛行機で東京に帰省した。朝長慎吾と雛灯の兄妹も、今朝、市内の実家――といってもこの春若町から遥か三十キロ離れているのだが、丁度帰省したところだ。樋口健介は、両親それぞれの転勤に伴い借家を引き払って三か所に分かれて暮らすことになった、本人曰く「一家離散」状態だが、このゴールデンウィークは父親の住む福岡に集まり博多どんたくに行くらしい。……ちなみに、健介ではなく姉の有希乃の希望らしい。
そういうわけで、現在、「チーム・アネックス」と呼ばれる仲間内の中で、アパート・アネックス久世に残ったのは、そもそも大家の孫娘でありアネックス在住ですらない玉井絢那を除けば、千宥と二生、それに古波蔵茉衣子の三名である。千宥は帰省する気がなく、二生もそれに追随しており、茉衣子は父親と暮らすため、そもそもこのアネックスが実家なのだ。茉衣子はこの春から家で預かっている小学六年生の姪、紗莱とともに高宮ポートフェスタという祭りに遊びに行ったようだ。どうやら二生の行き先もそこらしい。
千宥はすることがなく自室に横になっていた。宿題でもすべきなのかもしれない。けど、今は気乗りしない。千宥は周囲からは優等生で通っている。時としてそれが窮屈に思える。私だってそんな「いい子」じゃない。これから数日休みだと思い、昨夜は夜更かしした。好きな歌手が深夜ラジオの特番をやっていたという事情もあった。今朝もいつも通りの時間に起きてしまったので、正直眠かった。簡単に昼食を済ませ、午後一時。千宥はそのまま静かに眠りに落ちた。
しばらくして、千宥は目を覚ました。どれぐらい寝ていたか、あまり見当がつかない。そこからさらに三分ほどまどろみのなか、ベッドに横たわる。ふと目を覚まし、スマホを手に取る。午後二時十一分。一時間ほど寝ていたらしい。すると、やたらと通知が来ていることに気付く。LINEが十数件、着信履歴も二件。――なに?どうしたの?直近のものは鈴蘭からだった。五分前に来たらしい。
『ごめん、もう無理。時間稼ぎできなかった。10分足らずで家着く。もうLINE気づいたら心の準備しといて』
穏やかではない文面。千宥はさっと血の気が引く。着信履歴も鈴蘭のものらしい。そして、LINEを遡る。
『ごめん、おばちゃんと一緒にこっち来る。家いる?いるんなら急いで着替えて』
おばちゃん――鈴蘭から見た伯母、即ち千宥の母・千鶴である。まずい。お母さんが来る。千宥は一気に慌てはじめた。要約すると、鈴蘭は千鶴と会った。連れて帰るから、男装の準備をしてくれ。ということらしい。そして最初まで遡ると、当の千鶴からのLINEもあった。千宥が眠りについてすぐだった。
『千宥。今日、ロケで高宮にいるの。かなり大巻きして、もうバラシになりそう。この後はもうオフだから、遊びに行っていいかな?たまには顔を見たいです』
千鶴はタレントである。業界用語多めだが、翻訳すると、予定が非常に早く進み、解散後はそのまま休みなのだそうだ。そして、その後、鈴蘭と合流した旨は千鶴からも届いていた。
まずい、もう時間がない。五分前にあと十分足らずで着くという連絡だったのだ。――いや、諦めちゃダメだ。少しでも可能性があるなら動かないと。千宥は立ち上がり、クローゼットにしまってある男物の服を取り出そうとしたその時、鍵の開く音がした。千宥は一瞬、意味がわからなかった。いや、わかっていた。わかっていたからこそ、体が動かなかった。クローゼットの扉に手をかけたまま、背中が固まる。指先だけが、服の端を掴んだまま震えている。玄関のドアが開く音がした。
「……ごめん」
最初に聞こえたのは鈴蘭の声だった。いつもの調子よりずっと低い、申し訳なさを押し殺した声。
「千宥、起きてる?」
続いて、千鶴の声がした。母の声。電話でも、テレビでも、録音でもない。玄関の向こうから聞こえる、あまりにも現実の声。千宥は息を呑んだ。逃げる場所はなかった。部屋の中に戻って閉じこもることはできる。でも、それをしたところで何になるのか。ここは千宥の部屋だ。母親が訪ねてきた。鈴蘭も一緒にいる。隠れたところで、何も終わらない。廊下の向こうで、鈴蘭が靴を脱ぐ音がした。千鶴も続く。
「寝てるのかな。さっきから既読にならなかったし」
「たぶん、寝てたんだと思う」
鈴蘭の声が、ほんの少しだけ上ずっていた。千宥はクローゼットの前からゆっくり手を離した。男物の服はまだ取り出せていない。いや、正確には、取り出しかけていた。ハンガーにかかったシャツの袖だけが、半端に外へ出ている。今の千宥は、いつもの部屋着姿だった。ゆったりした淡い色のカットソーに、柔らかい素材のロングパンツ。外に出る格好ではないが、誰に見られてもおかしくない程度には整っている。髪は寝起きで少し乱れていた。肩から背中にかけて流れる地毛のロングヘアが、首元で少し絡まっている。自身の「パス度」が高いと自ら言いたくはないが、おそらく、贔屓目なしに見て、女性に見られるだろう。もう、言い訳がきく状態ではない。誰かに着せられた衣装ではない。イベントでもない。冗談でもない。これは、千宥の普段だった。
「千宥?」
鈴蘭が部屋の前まで来た。その瞬間、千宥は反射的に一歩下がった。けれど、鈴蘭はもう部屋の入口に立っていた。目が合う。鈴蘭は一瞬だけ、ひどく苦しそうな顔をした。
「ごめん。ほんとに、ごめん」
千宥は首を振ろうとした。けれど、声が出なかった。その鈴蘭の肩越しに、千鶴が見えた。母は、最初、何も言わなかった。ただ、千宥を見ていた。髪を見た。服を見た。クローゼットの前で中途半端に開いた扉を見た。ハンガーから半分だけ引き出された男物のシャツを見た。最後に、千宥の顔を見た。時間にすれば、数秒だったと思う。けれど、その数秒の間に、千宥はずいぶん長い時間を過ごした気がした。母の目が、何かを探している。驚き。困惑。確認。否定しようとして、否定しきれないもの。千宥はその全部を見た気がした。
「……千宥」
千鶴は、ようやくそう言った。その声は、思ったよりも静かだった。
怒っているようには聞こえなかった。けれど、安心できるほど柔らかくもなかった。知らないものを見て、どう扱えばいいのかわからない人の声だった。千宥は喉の奥が詰まった。
「……お母さん」
言ってしまってから、自分の声がいつもより細いことに気づいた。鈴蘭が慌てて一歩前へ出た。
「おばちゃん、あの、これは私が――」
「鈴蘭ちゃん」
千鶴は、千宥から目を離さないまま鈴蘭の名前を呼んだ。
「今は、千宥と話してもいい?」
鈴蘭は口を閉じた。いつもの鈴蘭なら、そこで何か言い返したかもしれない。だが、この時ばかりは何も言わなかった。唇を噛んで、ゆっくりと脇に退く。
千鶴は、まだ部屋には入ってこなかった。入口の少し手前に立ったまま、千宥を見ている。踏み込んでいいのか、踏み込まない方がいいのか、その判断を迷っているようにも見えた。母親なのに、我が子の部屋の前で遠慮している。そのことが、千宥には妙に堪えた。千鶴は一度だけ、ゆっくり息を吐いた。
「……いつも、そうしてるの?」
声は穏やかだった。だが、穏やかにしようとしている声だった。千宥は、すぐには答えられなかった。
いつも。そうしてる。その言葉の中に、今日一日だけなのか、たまたまなのか、誰かに着せられたのか、そういう確認が全部含まれている気がした。千宥は視線を落とした。自分の服を見る。淡い色のカットソー。柔らかい素材のロングパンツ。寝るにも、部屋で過ごすにも楽な服。鈴蘭に最初に選んでもらったものではない。自分で買い足したものだ。もう、逃げようがない。
「……高宮では」
声が掠れた。千宥は唇を結び、もう一度言い直した。
「高宮では、もうずっとこの状態」
千鶴の表情が、わずかに動いた。覚悟していたのだろう。けれど、実際に言葉にされると、やはり違うのだと思う。
「ずっと、って」
「もうずっと。男の子の服は……着ない」
「学校は?」
その質問は、反射のように出たらしかった。千宥は一瞬、鈴蘭の方を見そうになった。けれど、見なかった。ここで鈴蘭を見るのは違う。鈴蘭に答えを預けるのは違う。
「学校でも」
千宥は答えた。
「もう、女の子の姿をしているのが、高宮での普通の状態になってる」
千鶴は何も言わなかった。その沈黙が、千宥の喉を締めた。
「全部が、最初からそうだったわけじゃないけど」
言い訳みたいだ、と思った。でも、言わずにはいられなかった。
「少しずつ、そうなった。最初は、家の中だけだった。鈴蘭さんの部屋で服を借りたりして、それで……そのうち、外にも出るようになって、学校でも、そういうふうに見られるようになって」
「先生は?」
「普通に接してる。……たまに嫌味を言う先生もいるけど」
「友達は?」
「もう、女の子の姿が普通。それでも女の子扱いする人と男の子扱いする人といるけど」
「三者面談は、男子の制服を着てたよね」
千鶴が学校を訪問することになり、この一年あまりで一度だけ男子の制服で登校したことがあった。
「……あの時だけ。みんな、珍しくてじろじろ見てた」
千鶴は混乱しているようだ。でも、千宥としては自分から見たありのままを伝えるしかなかった。
「それで、学校は大丈夫なの?」
母親らしい質問だった。本当なら、それに安心できたのかもしれない。服のことより、生活のことを聞かれた。安全のことを聞かれた。けれど今は、その一つ一つが千宥の中に刺さっていく。
「許可はもらってる。でも、百パーセント理解されてるとは言えないと思う」
千宥は正直に言った。
「それでも、今はそれで回ってる。全部がうまくいってるわけじゃないけど、これが、みんなが知ってる本当の私」
「本当の……」
千鶴が、その言葉を繰り返した。千宥は頷いた。
「お母さんが学校に来た時、いつもと違う自分で、辛かった。みんなもびっくりしてた」
そこまで言ってから、千宥は自分でも驚いた。言うつもりはなかった。少なくとも、こんなに早く言うつもりはなかった。けれど、出てしまった。出てしまった以上、取り消せなかった。千鶴は、また少し黙った。鈴蘭が、横で小さく息を吸う音がした。何か言いたそうだった。だが、千鶴が先に鈴蘭の方を見た。
「鈴蘭ちゃんは、知ってたの?」
鈴蘭の肩が跳ねた。
「……知ってたよ」
「いつから?」
「最初から、だよ。だって、私の提案なんだもん。でも、千宥は昔おじちゃんにキレられて以降も、女の子の格好するのが好きだったんだ」
鈴蘭は観念したように答えた。鈴蘭の最初の「思い付き」が六年前。千宥が小学四年生の時に、鈴蘭が面白がって千宥に女装をさせて、それを両家の家族に披露したのだ。そして、その姿に父・万寿美が激怒した。それ以降、千宥は女装を「秘密の趣味」としてきた。
「千宥は、女の子の姿の方がイキイキしていた。おじちゃんの元を逃げてからもしんどそうな顔してたから、私はこの子が元気を取り戻してほしくて、女の子の服とウィッグを用意した」
「そう……」
千鶴は、まだ言葉を探しているようで、そう相槌を打った。鈴蘭が続けた。
「色々、手伝ったの。私が、千宥がかわいくなれるように――」
「違うよ」
千宥の声が、それを遮った。自分でも思ったより強い声だった。鈴蘭が驚いて千宥を見る。千鶴も、千宥を見る。千宥は喉の奥に残った震えを押し込めた。
「鈴蘭さんに、させられたわけじゃない」
言い切ると、胸の奥が少し痛んだ。これは、鈴蘭を守るためだけの言葉ではない。自分を逃がさないための言葉でもあった。
「最初に手伝ってくれたのは鈴蘭さん。でも、続けてるのは私。今もこうしてるのは、私がそうしてるから」
鈴蘭が唇を噛んだ。
「でも、私が止めなかったのも本当」
「止められたくなかった」
千宥はすぐに言った。
「止められても、たぶん困った。だって、これが本当の私だから」
「千宥」
鈴蘭の声は、少し泣きそうだった。千宥はそちらを見なかった。見たら、自分まで崩れそうだった。千鶴は、二人のやり取りを静かに見ていた。
「……そう」
短く、そう言った。それが納得なのか、不満なのか、千宥にはわからない。ただ、少なくとも千鶴は、鈴蘭をその場で責めなかった。次に千鶴が何を聞くのか、千宥にはなんとなくわかっていた。
「二生は?」
予想通りだった。千宥は少しだけ目を伏せた。
「知ってる」
「いつから?」
「去年の夏、遊びに来た時に」
「そう」
千鶴の声が、少しだけ遠くなった気がした。
「二生も、知ってたんだね」
千宥は息を詰めた。その言葉に、責める響きはなかった。だが、だからこそ痛かった。千鶴は怒っていない。けれど、傷ついている。それがわかった。
「二生は悪くない」
千宥は反射的に言った。
「二生はたまたま知っちゃっただけ。むしろあの子は背負わされただけで……」
「わかってる」
千鶴は静かに言った。
「今、二生を責めたいわけじゃない」
「……うん」
「鈴蘭ちゃんを責めたいわけでもない」
鈴蘭が顔を上げる。千鶴は、少しだけ困ったように笑った。笑おうとして、うまく笑えなかったような顔だった。
「責めたいわけじゃないけど、何をどう受け止めたらいいのか、まだわからない」
その言葉で、千宥は少しだけ息を吸えた。
わからない。そう言われるのは怖い。でも、わかったふりをされるよりは、よかった。
千鶴は千宥に視線を戻した。
「どうして、言えなかったの?」
その質問は、思っていたより静かだった。「どうして隠したの」とは言わなかった。「どうして言えなかった」と聞いた。それだけで、千宥は少し揺らいだ。言わないつもりだった。少なくとも、今日、こんな形で言うつもりはなかった。けれど、知られてしまった以上、ここで嘘を重ねても意味がない。むしろ、ここで誤魔化したら、きっともっと後で苦しくなる。千宥は手元を見た。さっきまで服を掴んでいた指が、まだ少し震えている。
「……お父さんに知られたら」
喉が詰まった。千鶴の顔が、はっきり変わった。
「お父さんに知られたら、ただじゃ済まないと思った」
言ってしまった。部屋の空気が、一段冷えた気がした。鈴蘭が小さく息を止める。千鶴は、何も言わなかった。何も言わない。その沈黙が、千宥には答えに聞こえた。
「……否定しないんだ」
千宥は小さく言った。自分で言って、胸が痛くなった。千鶴は目を伏せた。
「否定、したい」
「うん」
「でも、今ここで、そんなことないって言ったら、たぶん嘘になる」
千宥は唇を噛んだ。わかっていた。母なら、そう言うと思っていた。千鶴は、そこで軽い嘘をつかない。安心させるためだけに、父親は大丈夫だとは言わない。それがありがたいのか、苦しいのか、千宥にはわからなかった。
「でも、ただじゃ済まない。命を取られないにしても、少なくとも、今みたいに平和に過ごせる保証はまったくない」
「……うん」
「帰ってこいって言われるかもしれない。学校辞めろって言われるかもしれない。全部やめろって言われるかもしれない」
言いながら、喉の奥が熱くなった。それは、千宥が何度も考えたことだった。
もし父に知られたら。
もし連れ戻されたら。
もし髪を切れと言われたら。
もし服を捨てられたら。
もし二生まで巻き込まれたら。
もし鈴蘭が責められたら。
考え始めると、きりがなかった。だから考えないようにしていた。考えない代わりに、隠した。
「お母さんに言ったら」
千宥は続けた。
「お母さんも、困るでしょ」
千鶴が顔を上げる。
「お父さんに言えないことを、お母さんだけ知ってることになる。お母さんに嘘つかせることになる。お父さんに聞かれたら、どうするのってなる。私のせいで、お母さんがお父さんとの間に挟まれる」
「千宥」
「それが嫌だった」
声が震えた。
「私のことで、お母さんが困るのが嫌だった。お母さんに隠し事させるのも嫌だった。だから、言えなかった」
言い終えると、部屋の中が静かになった。外の音が遠い。窓の向こうで車が通った。連休初日の午後の、どこか浮かれた音だった。高宮ポートフェスタに向かう人たちもいるのだろう。春若の街は、たぶんいつもより少し賑やかなはずだった。それなのに、この部屋だけ、息の仕方を忘れているみたいだった。
千鶴は、しばらく何も言わなかった。そして、ようやく口を開いた。
「それは」
声が少し震えていた。
「千宥が一人で決めることじゃない」
千宥は顔を上げた。千鶴は、まっすぐ千宥を見ていた。困っている顔ではあった。驚いている顔でもあった。けれど、さっきとは少し違った。そこには、母親の顔があった。
「お母さんが困るかどうかは、お母さんが決めること」
千宥は何も言えなかった。
「お父さんにどう話すかも、今ここで決めることじゃない。言うか言わないかも、いつ言うかも、どう言うかも、簡単に決められることじゃない」
「……うん」
「でも、千宥が一人で抱えて、一人で怖がって、一人で全部決めることでもない」
千宥の目の奥が熱くなった。泣きたくない。そう思った。今泣いたら、全部を許してほしいみたいになる。泣いたら、母が困る。泣いたら、鈴蘭も余計に自分を責める。だから千宥は、必死に目を伏せた。
「でも」
声が滲んだ。
「お母さんだって、困るでしょ」
「困ってる」
千鶴は即答した。千宥は、思わず顔を上げた。千鶴は続ける。
「困ってるよ。びっくりしてるし、何を聞けばいいのかも、どこまで聞いていいのかも、わからない。正直、今すぐちゃんとしたことを言える自信もない」
「……うん」
「でも、困ってることと、千宥を一人にすることは違う」
その言葉は、千宥の中の何かを静かに押した。
鈴蘭が横で、涙をこらえるように目を伏せた。千鶴は一歩だけ、部屋の入口に近づいた。まだ中には入らない。でも、さっきより少し近い。
「お父さんには」
千宥の体が、びくっと反応した。それを見て、千鶴はすぐに言葉を選び直すように口を閉じた。
「……今すぐ言わない」
千宥は息を止めた。
「少なくとも、今日ここで見たことを、そのまま持って帰って話したりはしない」
「本当に?」
声が勝手に出た。子供みたいな聞き方だった。けれど、聞かずにはいられなかった。千鶴は頷いた。
「本当に」
「でも、お父さんに聞かれたら」
「その時は、お母さんが考える」
「でも」
「千宥に黙って、勝手には決めない」
千鶴の声が、少し強くなった。
「それは約束する」
千宥は、何度か息をした。肺に空気が入っているのに、まだ足りない気がした。けれど、さっきまでのように胸が潰れる感じは少しだけ薄れていた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
千鶴は、少しだけ眉を下げた。
「ありがとうって言わせることじゃないよ」
「でも」
「うん」
千鶴はそれ以上、否定しなかった。鈴蘭が、そこでようやく口を開いた。
「おばちゃん」
声がかすれていた。
「ごめんなさい。私、もっと早く言うべきだったのかもしれない。でも、どうしても……千宥が、おじちゃんに知られるのを怖がってるのを見てたから」
「鈴蘭ちゃん」
千鶴は鈴蘭の方を向いた。
「責めたいわけじゃないって言ったでしょ」
「でも」
「でも、私たちの代わりに、一人で抱えたんだね」
鈴蘭は言葉を失った。千鶴は、少しだけ苦しそうに笑った。
「うちの子たちは、どうしてこう、何でも自分たちだけで抱えようとするのかな」
それは冗談の形をしていた。でも、冗談ではなかった。千宥は胸が詰まった。
「鈴蘭さんは悪くない」
「うん。それは今、聞いた」
「本当に」
「わかった」
千鶴は頷いた。
「でも、鈴蘭ちゃんにも、あとでちゃんと話は聞く」
鈴蘭は背筋を伸ばした。
「はい」
「怒るためじゃないよ」
「……はい」
千鶴はもう一度千宥を見る。
「それで」
少し間を置いた。
「千宥自身は、どう思ってるの?」
千宥は固まった。
「どう、って」
「今の状態を」
千鶴は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「嫌なのか、嫌じゃないのか。やめたいのか、やめたくないのか。今すぐはっきりした答えじゃなくていい」
千宥は、手を握った。その質問は、父親の話とは別の怖さがあった。父に知られるのが怖い。母を巻き込むのが怖い。そういう理由は、まだ説明しやすい。だが、自分がどうしたいのかは、もっと曖昧で、もっと危うい。
「嫌なら」
千宥は言った。
「たぶん、もうやめてる」
千鶴は黙って聞いていた。
「最初は、変だと思った。こういう格好ができるのは、嬉しかったけど。でも……似合うとも思ってなかったし、そう指摘されたら止めようと思った」
言葉が少しずつ出てくる。
「でも、それは誰も言わなかった。高校に入ってからは、もうみんな、私は女の子の格好をしてるのが普通だと思ってる。お母さんも会ってくれたけど、茉衣子ちゃんも玉ちゃんも健ちゃんも、……他のみんなもそう。……今、高宮では、これが私の本当の姿」
「本当の」
「うん」
「女の子でいる方が?」
千宥は少しだけ迷った。それはたぶん、千鶴にとっても勇気のいる質問だったのだと思う。千宥は、すぐに頷けなかった。頷くと、何かが決まってしまう気がした。かといって、否定もできなかった。
「……女の子になりたいとか、そう言えばいいのかはわからない」
千宥は言った。
「でも、女の子の姿でいるのが、好き。色々思うことは、本当に色々あるんだけど、こっちの方が落ち着く」
千鶴は、ゆっくり頷いた。
「そっか」
「それを、お母さんにどう説明すればいいかわからなかった」
「うん」
「お父さんのこともある。でも、それだけじゃない。お母さんに聞かれても、答えられないと思った。なんでって聞かれても、私もわからないから」
「今も?」
「今も」
千宥は正直に答えた。
「全部は、わからない」
「うん」
「でも、遊びじゃない」
そこだけは、はっきり言えた。千鶴の目が、少しだけ揺れた。
「そう」
「誰かにふざけて着せられてるわけでもない。みんなに構ってほしくてやってるわけでもない。たぶん、そういうことじゃない」
「たぶん」
「たぶん」
千宥は小さく頷いた。
「まだ、自信を持って言えるほど、ちゃんとわかってない。でも、今の私を全部冗談にされるのは、嫌だと思う」
それを言うと、胸の奥が少し軽くなった。同時に、怖くもなった。母がどう受け止めるのか。その答えを待つ数秒が、また長かった。千鶴は、ゆっくり息を吸った。
「わかった」
その言葉は、さっきよりも少しだけ重かった。
「全部わかった、じゃないよ」
千鶴はすぐに付け足した。
「お母さんが今、全部理解できたって意味じゃない。たぶん、そんなに簡単なことじゃないと思う」
「……うん」
「でも、千宥がふざけてるわけじゃないことは、わかった」
千宥は目を伏せた。それだけで、十分だった。今は、十分だった。
「それと」
千鶴は少しだけ声を落とした。
「怖かったんだね」
千宥は答えられなかった。
「お父さんのことも、お母さんに言うことも。今こうして見られたことも」
「……うん」
「今も怖い?」
聞かれて、千宥は少しだけ笑いそうになった。もちろん、楽しいわけではない。あまりにその通りすぎて、笑うしかないような気がしたのだ。
「怖い」
「うん」
「怖いけど、もう見られたから」
千宥は顔を上げた。
「だから、もう隠してもしょうがない」
千鶴は、千宥を見ていた。
「だから、もう私から話す。……お父さんには絶対に言えないけど、お母さんにはもう話す」
その言葉を言い終えた瞬間、部屋の中がまた静かになった。今度の沈黙は、さっきとは違っていた。
千鶴は、その一人称に気づいていた。もちろん、気づいていた。けれど、問いたださなかった。
「わかった」
千鶴は言った。
「だから、千宥から、ちゃんと聞かせて」
千宥は頷いた。それだけで、足元が少し戻ってきた気がした。まだ、何も解決していない。父のことも、学校のことも、これからのことも、何一つ片付いていない。ただ、今この場で、母が千宥の言葉を遮らずに聞いている。それだけでも大きいことに思えた。千鶴はようやく、部屋の中を見回した。
「入ってもいい?」
千宥は少しだけ驚いた。母がそんなことを聞くのが不思議だった。けれど、考えてみれば、今の部屋は、千鶴の知らない場所なのだ。勝手に踏み込んでいい場所ではなくなっているのかもしれない。
「……うん」
千宥は頷いた。
「散らかってるけど」
「寝起きだもんね」
「それは言わないで」
千鶴は、ほんの少しだけ表情を緩めた。その顔が、千宥にはとても懐かしく思えた。千鶴は部屋に入った。鈴蘭も続こうとして、少し迷った。
「私は、お茶入れてくる」
鈴蘭が言った。
「いい。私が――」
千宥が言いかけると、鈴蘭は首を振った。
「いいから。ちょっと、動かせて」
その声を聞いて、千宥は黙った。鈴蘭もまた、じっとしているのが苦しいのだろう。自分のせいではないと言われても、すぐに納得できるはずがない。千鶴も止めなかった。
「ありがとう」
鈴蘭は小さく頷いて、台所へ向かった。部屋には、千宥と千鶴だけが残った。千鶴は、半開きのクローゼットを見た。ハンガーから外れかけた男物のシャツ。その袖が、不自然に外へ垂れている。
「着替えようとしたんだ」
「……うん」
「間に合わなかった?」
「うん。寝てた」
千鶴は、少しだけ苦笑した。
「今日まで隠してきたのに……まさか」
「そっか。やっぱり、どこか抜けはあって、私の子なんだなあって」
母の言い方が、ほんの少しだけ、いつもの調子に戻っているような気がした。ここで会話が途切れた。けれど、その途切れ方もまた、今の二人にはちょうどよかった。千鶴は、椅子に座るでもなく、ベッドの端にそっと腰を下ろした。千鶴は、千宥をじっと見ている。千宥は身構えた。
「その服」
「……なに」
「いつも着てるの?」
「うん」
「買ったの?」
「うん」
また沈黙。どういう意図かはわからない、世間話としても薄い会話。ただ、このフェミニンな部屋着と千宥を結びつけるための一種の作業なのかもしれない。でも、千宥はむしろそれで丁度いいかもしれないとも
思った。似合うとかもっと具体的な評価をされたら……。似合うと言われても困る。似合わないと言われたら傷つく。どちらにしても、今は受け止めきれない。
千鶴は、部屋の中に視線を移した。畳まれた服。机の上のプリント。鏡の前のヘアブラシ。ベッド脇のヘアゴム。鈴蘭が選んだもの、自分で選んだもの、二生と一緒に選んで買い足したもの。千鶴が知らなかった千宥の生活が、そこにあった。
「ちゃんと生活してるんだね」
千鶴が言った。千宥は少しだけ目を伏せた。
「……してるよ」
「うん」
「普通に、……普通じゃないかもしれないけど、私としてはただ生活して、学校行ってるだけ。少なくとも、中学の時より何倍も充実してる」
「そう……」
千鶴は複雑そうな顔をする。
「前にお母さんが何回か来たでしょ。泊まったこともあったのに、どこかお客さんみたいに固いなって。でも、これが素なのね」
その言葉に、また胸が詰まった。自分を偽っていたような気分になり、罪悪感が込み上げてくる。男としての自分を取り繕っていた。無理に演じていた。そうすれば波風立たないと思っていたから。そのメッキがはげて現れたのは、親に見せてこなかった一年半の高宮での「女の子」としての生活だった。親の前で本当の自分を隠していたこと。どう説明して、どう謝ればいいかわからない。
「うん……」
千宥はただ小さく返事するのが精一杯だった。
その時、玄関の方で小さく物音がした。鍵の開く音だ。そして、扉の向こうから控えめな声がする。
「……ただいま」
二生の声だった。千宥は反射的に顔を上げた。千鶴も、鈴蘭も、同じ方向を見る。ポートフェスタに行っていたはずなのに、手には小さな紙袋だけしか持っていない。たぶん、予定を切り上げて戻ってきたのだろう。少し息が上がっている。急いできたのがわかった。
「……お母さん」
二生はそう言って、玄関に立ったまま固まった。
「おかえり、二生」
その呼び方はいつも通りだった。けれど、二生の顔は少しだけ強張っていた。
「……ただいま」
「二生、急がなくてもよかったのに。果文ちゃんと一緒だったんでしょ。……しろちゃんも?」
千宥が言った。二生は、友人の若杉果文と「しろこ」こと城宏子と一緒に出掛けていたようだ。
「う、うん。でも、『お母さんが福岡から来る』って言ったら、帰った方がいいって言われた」
そう言うと、肩をすくめた。
「すぐ電停まで戻ろうとしたんだけど、ポートフェスタ、人多くて、全然進まなくて」
申し訳なさそうに続けた。そして、千宥と千鶴を見回す。
「あの、これって……」
部屋の入口に座っている千宥。淡い色の部屋着。寝起きのままの結んでいないそのままのロングヘア。さっきまで泣きそうになっていたせいで、目元は少し赤い。そして、その千宥のすぐそばに、千鶴がいる。二生は、そこでようやく本当に状況を理解したようだった。
「おね……あの」
声が小さくなる。女性の姿だったが、母親の手前、「お姉ちゃん」と呼んでいいものかわからず、言葉を引っ込めた。そして、必要な質問だけ出した。
「そのまま、なの?」
千宥は少しだけ視線を落とした。その問いは責めではなかった。驚きだった。いや、驚きというより、二生が知っているはずの決まりが、目の前で崩れていることへの戸惑いだった。母の前では隠す。父には絶対に知られないようにする。帰省するときは男の子に戻る。千鶴が来るなら、千宥は着替える。二生は、ずっとそう理解していた。
「……間に合わなかった」
千宥は言った。
「起きた時には、もうほとんど着くところだったから」
二生は口を開きかけたが、何も言わなかった。それから、千鶴を見た。
「お母さん、見たの?」
「見たよ」
千鶴は静かに答えた。二生の顔が、わずかに強張る。
「怒った?」
「怒ってない」
千鶴はすぐに言った。
「驚いた。今も驚いてる。でも、怒ってはいない」
二生はそれを聞いても、すぐには安心しなかった。視線が千宥に戻る。
「本当に?」
「本当に」
千宥が答えた。
「今のところ、怒られてはないよ」
「そういう言い方しないで」
二生の声が少し震えた。千宥は黙った。二生は靴を脱ぎ、ゆっくり廊下に上がった。いつもなら少し雑に置く靴を、今日はきちんと揃えている。そういうところに、動揺が出ていた。
「ごめん」
二生は、部屋の前まで来て最初にそう言った。千宥は眉を寄せる。
「なんで二生が謝るの」
「間に合わなかったから」
「間に合っても、たぶん何もできなかったよ」
「でも」
二生は言いかけて、また千宥を見る。それから、少しだけ声を落とした。
「着替えさせるくらいは、できたかもしれない」
千宥は、その言葉を聞いて、自分でも意外なくらい静かに首を振った。
「もう、いい」
「え?」
「もう、見られたから」
千宥は膝の上で手を握った。
「だから、もうこのまま話すことにした」
二生は、目を見開いた。それは、たぶん今日一番の驚きだった。
「このまま?」
「うん」
「お母さんに?」
「うん」
二生は千鶴を見た。千鶴は、何も言わずに二生を見返した。責める顔ではなかった。けれど、軽く受け流せる顔でもなかった。二生は、そこで初めて、少しだけ息を吐いた。
「……そっか」
その一言は、安心とも不安ともつかなかった。千宥は二生を見る。
「二生」
「……何?」
「大丈夫だから」
言ってから、自分で少し変だと思った。大丈夫かどうかは、まだわからない。実際、全然大丈夫ではない気もする。でも、二生が今にも泣きそうな顔をしていたから、そう言うしかなかった。二生は、しばらく千宥を見ていた。
「大丈夫そうには見えない」
「うん」
「でも、逃げてない」
「うん」
「じゃあ、私もここにいる」
二生はそう言って、千宥の隣に座った。少し近い。けれど、寄りかかるほどではない。ただ、隣にいる。それだけで、千宥は少し呼吸がしやすくなった。
「とりあえず、あっち行こう」
鈴蘭が居間を指さした。
「ここで立ったまま話すことじゃないでしょ」
その言葉に、千宥と千鶴は少しだけうなずいた。話すことは、まだ山ほどある。父のこと。学校のこと。自分が何なのかということ。何一つ、終わってはいない。けれど、今はまだ、そこまでたどり着けない。
四人は居間へ移った。そして、鈴蘭はお茶の準備をする。数分後、お茶を入れてから鈴蘭も着席したが、それまで、誰も口を開かなかった。
【次回予告】
親子と保護者の緊急会議。千宥はどこまで話すのか?
次回に続きます。お楽しみに。
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