第1話 腐れ縁と不思議な美少女
第1話からちんこちんこ言ってますが、特に「出したり」するわけでもないので、軽い下ネタとしてR15には指定しません。ご了承ください。
九州にある高宮市。福岡から百数十km離れた人口五十万人たらずの地方都市で、高宮県の県庁所在地である。北部の郊外にある、人口四万人前後の春若町。それが、この話の舞台である。
五月最後の日曜日。空は灰色の雲に覆われ、しとしとと降る雨が借家の屋根を叩いていた。長年住み慣れた家を引き払い、アパート「アネックス久世」への引っ越しの日がやって来た。
こんな時代なのに、無茶なことをする会社だ。共働きで、教師の母親の離島での単身赴任が既に決定したというのに、何ゆえ高校生の息子を抱えた中年社員に福岡行きを命じるというのだ。
タイミングも最悪で、母親は四月異動であるが、父親は六月異動なのだ。そして、当然ながら、人事が発表されたタイミングも母親の方が早かったわけで、父親の転勤話が来たのは母親の異動が確定した後だった。既に離島行きは承諾したので覆らない。福岡行きの辞令は拒否できない。……せめて順番が逆だったら父の単身赴任だけで済んだのだが、その辺は全く考慮されていない。
子供はこの春就職した娘と、同じくこの春高校生になるところだった息子。父親の転勤など予定されていなかったので、息子は普通に地元の春若栄久高校への入学が決まってしまっていた。そこからの福岡への転校は困難な状態となっていた。
……残された道は、父親がクビを覚悟で辞令を蹴るか、社会人の姉と二人暮らしにするか。この選択は、全会一致で決定した。……父が職を失っては元も子もない。それどころか、「高いだけでボロい借家から新しい家に引っ越したい」という姉の意見が通り、引っ越しまで行われることになった。元々一人暮らしの願望があり、就活の頃から物件探しを趣味にしていた姉は、割と築浅なのに今の借家より若干家賃の安い2LDKのアパートを見繕っていたことが決定の決め手だったという。
その高校生の息子、樋口健介は、部屋の片隅に座り込み、段ボール箱の山を眺めながら深いため息をついた。
「健介、もう引っ越し屋来るぞ」
玄関から父・義行の声が聞こえてくる。
「わかってる」
健介は力なく返事をし、手元の段ボールにテープを貼り付けた。親のいない新しい生活が始まる若干の期待感と、大きな不安が入り混じる心情が、雨の音に混じって胸の奥でざわついていた。
母・規子は既に単身赴任で家を離れていたが、この日は特別に駆けつけてくれていた。彼女は明るく手際よく荷物をまとめ、健介を励ますように微笑んでいた。
「大丈夫よ、健介。お姉ちゃんもいるし、なんとかなるから。なんかあったら連絡して」
姉の有希乃は、弟の様子を後ろから眺めていた。
「お母さん、あんまそんなこと言わないでよ。私、あんたのこと見てる暇ないからね。こっちだって入社したてで忙しいんだから」
有希乃が健介を睨む。
「なんとかしなきゃ、だろ。こうなったら。生活力ないのはお互い様なんだから」
有希乃は顔を引きつらせて黙り込んだ。
引っ越しのトラックが家の前に止まり、いよいよ出発の時が来た。健介は最後にもう一度、空っぽになった家の中を見渡した。ここでの十五年間の思い出が、胸に込み上げてくる。しかし、行くしかないのだ。
新しい生活への不安と期待を胸に、家族は車に乗り込んだ。雨が車の窓を叩く音が、これからの新しい日々の始まりを告げるように感じられた。……やっぱり不安だ。
アネックス久世は、前の家からそう遠くはない。いや、なんなら近いと言っていい。何せ、一丁目から三丁目に移った、その程度の話だ。仮に小学校の時に引っ越していたとして、転校にもならない場所だ。付け加えると、健介が通う高校には近づくため、その点は非常にいい。
午前十時前。健介たちが新居に到着すると、雨は少し弱まり、建物の外観が現れた。健介は車から降り、建物を見上げた。
「ここが、新しい家かあ……」
「いい家だなあ。築五年ぐらいか?俺もこんなところに引っ越したかったよ」
義行がぼやいた。
「父さんは福岡に行くだけで勝ち組だろ」
「そんなことない。急に家探しになって、ボロいとこしか見つからなかったんだから」
さらに続く父のぼやきを横目に、健介は深呼吸し、一歩前に進んだ。これからどんな日々が待っているのかは分からないが、まあなんとかなるだろ、と自分に言い聞かせた。
雨は依然として降り続いていたが、引っ越し業者が家具の運び込みやある程度の家電のセッティングを行う横で、樋口一家は段ボールの荷解きを進めていた。新しい部屋の中は少しずつ生活感が漂い始めた。建物の外観はモダンで、内装も申し分なく、新しい生活を迎えるにふさわしい場所に見えた。
「よし、この辺で飯でも食うか」
引っ越し業者が引き払った午後一時過ぎ、義行が声をかけると、全員がホッとした表情を浮かべた。引っ越し作業は順調に進んでいたが、慣れない長時間の作業で、みんな疲れ切っていた。
「健介、お腹空いたでしょ?少し休んでから何か食べに行こう」
母・規子が言い、健介も有希乃も頷いた。家族で近所のファミレスに行った後、残った作業に戻った。
荷解きが一段落ついた頃、義行がふと思い出したように言った。
「そういえば、隣近所に挨拶に行かないとな。まあ、一階だからなあ。せめて両隣の部屋には挨拶しておかないと」
「そうね」
と規子が賛同した。健介と有希乃も頷いた。
「とりあえず、お前らは来い。お前らがここの住人なんだから」
義行が子供たちに促した。雨は少し弱まり、空気はしっとりしていた。
健介たちが住むのは106号室で、隣と言えば105号室と107号室だ。105号室からは感じの良さそうな老婦人が出てきた。どうやら、娘と二人で住んでいるらしい。とりあえず手土産を渡し、その場を後にした。
健介たちが反対隣の107号室のドアの前に立ち、呼び鈴を鳴らした。インターホンから、元気の良い声が飛び出してきた。
「は~い、どちらさまですか?」
「こんにちは。隣に引っ越してきた樋口です。ご挨拶に伺いました」
義行が言うと、ドアの向こうに現れたのは、部屋でくつろいでいたのか、やや眠たげな目をした少女だった。ツインテールが印象的で、健康的な小麦色の肌を持つその少女は、健介たちに挨拶した。
「ああ、どうも。古波蔵です。よろしく……健介!?お前何やってんだ、こんなとこで」
眠そうだった少女が、急にカッと目を見開いた。その姿を見て健介もぎょっとした。
「ま、茉衣子?いや、お前が何やってんだ」
突然大声でわめき始めた健介と少女に、義行と有希乃はぽかーんとしていた。
「何やってんだはねえだろ。あたしゃもう二年ここに住んでんだぞ。お前、隣に越してきたの?わざわざあたしに合わせて?」
「お前がここに住んでるのは知らなかった」
「そっか……」
「知ってたらここには来なかった」
「うるせえなあ、そんなこと言わなくていいだろ!?」
健介の余計な一言に茉衣子は顔をゆがめて言った。
「まあ待て待て。健介。この子知り合いか?」
義行が健介を制止して聞いた。
「中学の同級生だよ。古波蔵茉衣子って言うんだ」
「ああ、茉衣子ちゃん、聞いたことあるわ。中学の頃、結構よくウチに遊びに来てたでしょ」
有希乃が思い出したように言った。
「押しかけてきたんだ、放課後に。こっちの都合も考えずにな」
「そう?お母さんは、元気でいい子だって言ってたけど」
「うるさいだけだよ、こいつは」
「お前なあ、そんな言い方ないだろ!?」
なおも口撃が止まらない健介に茉衣子が喚く。
「わかったから。お隣さんなんだから仲良くしないと。茉衣子ちゃん。私は初めましてだよね?健介の姉の樋口有希乃です。親の転勤の都合でここで健介と二人暮らしだから、色々助けてね。よろしく」
「よろしく。お姉ちゃん、健介と違って優しそうだね」
茉衣子が有希乃の握手の求めに応じ、手を握った。
「これもこれで家では凶暴なんだよ」
「健介!……ごめんね。茉衣子ちゃん、家帰ったらこいつぶっ殺しとくからね。じゃ、よろしく」
健介は有希乃に耳を引っ張られながら茉衣子のもとを後にした。耳の痛みを感じながら健介は思った。よりによって隣人が茉衣子かよ。不安しかない。
健介は中学時代に色々あり、茉衣子にいい印象がなかった。また強まった雨足を横目に、健介もさらにどんよりとしていくのであった。
翌朝。月曜日の朝。雨は上がり、曇り空が広がっている。
新生活が始まり、最初の朝だが、平日であるため、家を出てしまえばいつもと変わらない日々だ。しかも、既に両親も各々の単身赴任先へ戻っていた。家が変わり、親もいない生活。具体的には母親は既に二ヶ月前からいなかったが、昨日からは父親もいない。でも、姉はいて、完全な自由空間ではない。それゆえ、なんだか生活が一変した感覚もさほどない。変な感覚だ。
健介はベッドの中で目を覚ましたが、前夜の疲れと茉衣子のことを気にしてあまりよく眠れなかったせいか、身体が重かった。
「健介、起きなさい!学校に遅れるよ!」
有希乃の声が響き渡る。彼女は既に準備を終え、キッチンで朝食を用意していた。
「あと五分……」
健介は布団を引き上げて顔を隠す。
「だめだってば。早く起きないと本当に遅れるよ!」
有希乃が寝室に入ってきて、健介の布団を引っ張った。
「わかったよ、もう!」
健介は不満そうに布団を跳ね返し、渋々起き上がった。朝食を急いで済ませ、二人は家を出る準備を整えた。健介は制服の襟を直しながら、ふと外に目をやった。
「引っ越して何がいいって、前よりだいぶ学校が近くなったんだよな」
健介は一人ごちた。
「そうだね、あんたはいいよね。私なんか通勤時間ちょっと伸びたんだから」
有希乃が皮肉を言いながらも、健介の肩を叩いた。
「言うても二、三分だろ。じゃ、行ってくるわ」
健介は家を出た。そこには既に茉衣子が待っていた。
「おはよう、健介!」
茉衣子が元気よく声をかけてきた。
「おはよう、茉衣子……って、何でいるんだよ」
この感じ、どうやら家のドアの前で健介を待っているらしかった。
「だって、隣同士だろ。一緒に行こうよ」
健介は眉をひそめた。
「いや、お前と一緒に行くと目立つだろ」
「気にするなって。あたしとお前の仲だろ」
健介はため息をつき、茉衣子を振り切るように歩き出した。
「健介、待てよ!」
茉衣子が後を追ってくる。
「いいから、先に行くから」
健介は少し早足になり、茉衣子を引き離した。
「待てってば、健介!」
なおも茉衣子が健介を呼んでいる。うるせえ。目立つから黙ってろ。そう思いながら健介は学校へ続く上り坂を駆け上った。
新生活とはいえ、慣れ親しんだ一年四組の景色は変わらない。教室に着くと、友人の朝長慎吾と大上茂が待っていた。
「おう、健介。引っ越し終わったか?」
慎吾が聞いてきた。
「ま、ぼちぼちな。めんどくさくて段ボール何個か残ってるけどな」
「おいおい、何だよ。終わってねえのかよ。俺、手伝いに行こうか?なあ、健介。お前、姉ちゃんと二人暮らしなんだろ?」
「そうだけど、だからなんなんだよ?」
「いやね、姉君とお近づきになりがてら、お前を手伝おうかと」
「……お前、二十二だぞ。七つ上だぞ。だいぶ上だぞ」
健介はあきれながらも、女性好きを隠すどころか前面に出す、そんな自然体の慎吾に、正直感心していた。
「新しい家、どうなんだ?」
大上も興味津々だ。
「割といい感じだよ。学校も近いし、便利だと思う」
「いいなあ。俺も引っ越してえよ。で、隣人とかどうなんだ?」
慎吾がさらに聞く。
「……まあ、普通だよ。特に問題ない」
健介は茉衣子のことを話すのを避け、適当に答えた。
「そっか、それならいいけどさ」
と慎吾は納得したようだ。
「まあ、何かあったら言えよ」
大上も言った。この男は、無愛想に見えて、根が優しい。
こうして、健介の新しい生活が始まった。茉衣子の存在は気になるものの、努めてあまり考えないようにした。
放課後。健介は教室を出て、校門に向かって歩き始めた。授業は特に問題なく終わったが、茉衣子の存在が頭から離れない。考えないようにしてたはずなんだが、なんというか「存在がうるさい」のだ。帰り道も彼女が追いかけてくるのではないかと心配だった。
校門を出ると、案の定、茉衣子が待っていた。
「健介、帰ろうぜ!」
無駄に元気な声が響いた。
「お前、またかよ……」
健介はため息をつきながら歩き出した。
「一緒に帰るんだからいいじゃん」
「そんなこと言っても、目立つだろ。いい加減にしろよ」
茉衣子は気にする様子もなく、健介の隣を歩き続けた。人目が気になる。周囲の生徒たちが二人を見て笑ったり、噂している気がした。……気がしただけではあるのだが。
「ついてくんじゃねえってば」
「別にいいじゃん。せっかくお隣さんになったんだからさ」
健介は茉衣子の強引さに頭を抱えた。なんとかして彼女を引き離そうとするが、茉衣子の勢いには勝てなかった。
(もう、こんなの嫌だ……。引っ越したい)
健介は小走りしながら心の中でつぶやいた。普段なら徒歩四分の下り坂が、やけに長く感じた。
アネックス久世の入口に近づくと、健介はふと足を止めた。そこに、一人の可憐な少女が立っていたのだ。清楚な雰囲気と控えめな微笑みが印象的で、その姿に健介は一瞬息を呑んだ。
「千宥、おかえり!」
茉衣子が手を振りながら声をかけた。
「茉衣子ちゃんもおかえり。あれ、その子は?茉衣子ちゃんの彼氏?」
「まあ、なんて言っていいかわかんないんだけど、」
「否定しろ」
健介は思わず口を挟んだ。
「こいつが健介だよ。なんつう偶然っていうか、あたしの隣に引っ越してきたんだ」
「ああ、そうなんだ、健介くんなんだ」
「ま、待て。お前この子に俺のこと何て話してたんだよ!?」
「なーいしょー」
茉衣子が意地悪そうに顔を近づけた。健介はかなり動揺していたが、そんな様子をよそに千宥は軽く会釈し、微笑んだ。
「初めまして、杠千宥です。よろしくお願いします。茉衣子ちゃんとは同じクラスなの」
ちなみに、茉衣子は一年七組に在籍している。
「よ、よろしく。樋口健介です。茉衣子は……まあ中学の腐れ縁というかなんというか……」
健介は緊張して返事をし、ドキドキしながら彼女の顔を見つめた。茉衣子とはまさに正反対の、おしとやかな美少女という感じの千宥に、健介は一気に心を奪われた。
「杠さんはここでの生活は長いの?茉衣子とも知り合って長い?」
健介は少しでも会話を続けようとした。
「えっと、この春に来たばかりなの。慣れてきたけど、まだ少し不安なこともあるかな」
と千宥は答えた。
「そうなんだ……これからもよろしくね」
と健介は少し照れくさそうに言った。
「はい、こちらこそ」
と千宥は微笑んだ。
健介は茉衣子が騒がしい反面、千宥の落ち着いた雰囲気に癒され、新しい生活に対する不安が少し和らいだ気がした。この生活が急に楽しみになり、健介は心の中で少しだけ希望を感じた。
「じゃあ、また明日な、健介!」
茉衣子が言った。
「お、おう」
と健介は小さく答え、部屋に戻った。
部屋に戻ると、健介はどういうわけか息を切らしていた。あんな美少女が、このアパートにいるんだ。ていうか茉衣子とは仲良しなんだ。
ゆずりはちひろ。実際には口頭で自己紹介されただけなので、その漢字表記はわからない。「ちひろ」は「千尋」か?「ゆずりは」は……皆目見当がつかない。単に「譲葉」でいいんだろうか?それにしても、変わった名字だな。まずはそんなことから考えていた。
しかし、その穏やかな気持ちは長くは続かなかった。茉衣子の存在が健介の思考に入り込んできた。中学時代からの付き合いで、騒がしい彼女が、健介の周りをついてくる。千宥との交流を深めるためには茉衣子が邪魔になるのではないかという不安があった。
「もし杠さんともっと仲良くなりたいと思っても、茉衣子がいると難しいよな……」
健介はベッドに仰向けになり、天井を見つめながらため息をついた。茉衣子がいなければ、もっと千宥と話せる機会が増えるかもしれない。しかし、彼女を無視することもできない。無視したとしても超えてくるだろう。このアパートで生活している限り、どうしても茉衣子が割り込んでくるのは避けられないだろう。何せ、現時点で共通の知人が茉衣子しかいないわけだから。
健介は考え込んでいるうちに、段ボール箱が目に入った。荷解きを進めなければならないが、手が動かない。千宥との出会いが頭から離れず、茉衣子のことをどう扱うべきかばかりが頭に浮かぶ。なんとかその思考を振り切り、健介は起き上がり、段ボール箱の一つを開けて中身を取り出し始めたが、心はまだ浮ついていた。
(茉衣子のことをどうやって説明しよう……杠さんに変な誤解を与えたくないし……)
健介は心の中で独り言を繰り返しながら、荷物を整理していた。しかし、どれもこれも中途半端にしか進まない。ついつい千宥と茉衣子のことが頭に浮かび、集中力が続かないのだ。
「杠さんは優しそうな人だったな。茉衣子とも仲が良さそうだけど、どう付き合っていけばいいんだろう……」
健介は再びベッドに座り込み、思考の迷路に入り込んだ。その間に、時間は過ぎていった。夕方が近づき、部屋の中は静寂に包まれていた。そんな中、健介はふと時計を見た。午後五時五十一分。
「もうこんな時間か……」
再び荷物の整理を始めたが、心ここにあらずの状態が続いた。結局、健介は何もかもが中途半端なまま、有希乃の帰りを待った。しまいには、集中できないため、片付けすら中止して、ただベッドで寝転んでいた。
午後六時前、有希乃が帰ってきた。ちょっと上機嫌そうだった。有希乃は帰ってくるなり服を脱ぎ捨て、下着姿のままソファに寝そべってテレビを見ていた。
「……着替えるぐらいしろよ」
「いいじゃん、別にあんたしか見てないんだから」
「俺に見えるのが嫌なんだけど。にしても、ご機嫌だな」
「まあ、定時に上がれたからね。心も軽いよ」
有希乃がうつ伏せで尻を突き出した。次の瞬間、ぶーっと音がする。健介は顔をしかめた。……友人から時々、姉がいることをうらやましがられるが、ちっともいいもんなんかじゃない。
「で、どうだったよ、新居からの初登校は」
「基本はそう変わんねえよ。茉衣子が相変わらずうるさいぐらいでさ」
なるべく鼻で息をしないようにしながら健介が答える。
「そっか。いい子に見えるんだけどね。そういやさ、あたしが帰ってきたとき、なんかあんたと同い年ぐらいの女の子を見かけたよ。同じ学校だったりしない?」
きっと千宥のことだろう。
「あ、俺も茉衣子以外に同級生がいるって今日知って」
「すっごくかわいかったよ。いいなあ。茉衣子ちゃんといい、その子といい、美少女に囲まれて。漫画かよ」
「茉衣子はいいだろ別に」
なんでも茉衣子に話を持っていかれる。家でも心が休まらない。
「でも、茉衣子ちゃんにしろその子にしろ、早めにお近づきになっといた方がいいんじゃない?取られちゃうよ」
「茉衣子はさておき、ああいう子は、もう既にいるんだよ」
あんな美少女、絶対誰かしらの男が放っておかないだろう。健介は確信していた。
「ネガティブだなあ。判明するまでは行動するんだよ。こういう時は」
やはり、七年長く生きているだけあって、恋愛経験が豊富だ。健介もそれは認めざるを得ない。実の姉だから実感はないが、会ったことのある友人の評価を聞いても、美人だと思われているようだ。……こんな、弟の前で下着姿で屁をこくような姉でも。さらに健介は、実は彼氏と破局危機らしい、と小耳に挟んでいる。しかし、それはさておき、女性目線のアドバイスということで、今回ぐらいは姉の言うことを信じてみようと思った健介は、ちょっとやる気が出てきた。
「まあ、ぼちぼちでやってみるか」
「うん。わかったから、ぼちぼち晩ご飯よろしくね」
健介は、自室に引き返そうとしたのを方向転換し、そそくさと台所に戻ったのであった。
「母さんが残してった食材で適当に済ますけどいい?」
「食えるもんだったらいいよ」
火曜日。曇り空が広がる中、健介と有希乃は家を出た。茉衣子のことが頭をよぎりつつ、健介は自分を奮い立たせる。
「行ってきます」
健介が言うと、
「事故るなよ」
と有希乃が返してきた。
「こっちのセリフだよ、車で三十分なんだから。途中絶対渋滞してるだろ」
「あんた、よく知ってるでしょ。私のドライブテクニックを」
「去年スーパーの駐車場でこすったドライブテクニックを」
「……いいから行った行った。あれが初事故だもん。免許取得四年弱で……」
有希乃はぼやきながら駐車場に向かった。アパートの門に差し掛かった健介は、茉衣子が追いかけてくるのに気づいた。
「おはよう、健介!今日も辛気臭いな」
と元気よく声をかけられ、健介は少し顔をしかめた。
「……茉衣子。今日も能天気だな」
と返しつつ、彼は周囲を見回した。すると、少し離れた場所に千宥の姿が見えた。千宥も登校しようとしているようで、健介の視線に気づくと微笑んで近づいてきた。
「おはよう、茉衣子ちゃん、樋口くん」
千宥が柔らかい声で挨拶する。健介の心は一瞬で和んだ。
「おはよう、杠さん。今から行くところ?」
健介が返事した。なんだか自分でもニヤついているような気がしてきた。
「うん、せっかくだから一緒に行こうよ」
「おーう、チーム・アネックス、やっぱり一緒じゃなきゃな!」
茉衣子が健介と千宥に割って入り、肩を掴んだ。
「……勝手にチーム作るな」
健介が顔をしかめる。
三人は並んで歩き始めた。俗に「栄久坂」と呼ばれる学校に続く上り坂を登る。結局茉衣子と一緒になる。しかし、千宥もいるとなると、邪険にはできかねた。せっかく近づけるのなら、茉衣子ぐらい耐えてやる。そんな気持ちになった。
「日曜日に引っ越してきたばかりなんだよね。疲れたんじゃない?」
千宥が健介に尋ねた。
「ああ、結構疲れたよ。でも、ぼちぼち片付きそうだよ」
「新しい家、どう?快適?」
「うん、割といい感じだよ。学校も近いし、便利だと思う」
「うんうん、近いのっていいよね。私もここで良かったと思うよ」
千宥が微笑む。健介はその笑顔に癒され、少しだけ緊張がほぐれた。しかし、そこに茉衣子が割り込んできた。
「ねえねえ、健介んち、広い?今度遊びに行ってもいい?」
健介は内心でまたため息をついた。
「同じアパートなんだからウチと変わらねえだろ。同じ2LDKでさ」
「あたしんとこ3LDKだよ。ここに越してきた時は兄貴と三人だったんだけど、今は二人になって部屋余ってさ」
「お前んちが広いんじゃないか!」
「まあまあ、せっかくなんだから、いいじゃんか。行きたいよな、千宥?」
茉衣子が千宥に同意を求める。
「そうだね。せっかくだから『チーム・アネックス』で団結を深めたいよね」
千宥が優しく返す。健介は正直悶えていた。なんだか、千宥が言うのなら、この三人でチーム扱いになるのも、やぶさかではない気がしてきた。健介は茉衣子の勢いに押されつつ、千宥との時間を大切にしようと心に決めた。でも、やっぱり茉衣子は鬱陶しい。今日何度目かの彼女への負の感情を自覚し、複雑な気持ちで歩き続けた。健介はこの上り坂が終わってほしいようなほしくないような、そんな微妙な気持ちを抱きながら学校への道を上っていった。
学校に着き、一年四組の教室の前で茉衣子と千宥と別れた。教室に入ると、慎吾と大上が待っていた。
「おう、健介。今日はご機嫌だな」
慎吾が声をかけてきた。
「まあな、普通だよ」
「お前さ、登校してるとき、千宥ちゃんと話してたよな。杠千宥と。どうやって知り合ったんだよ?バスの窓から見てたんだぜ」
慎吾が興味津々に尋ねた。健介は知らなかったが、千宥はよほど「噂の美少女」なのだろうか。慎吾は根っからのプレイボーイなので女子生徒に詳しいだけなのかもしれないが。
「ああ、うちのアパートに住んでるって。それで仲良くなったんだ」
健介は素直に答えた。
「マジかよ、いいな。あの子、学年一位の優等生で性格もよくて人気者だって有名だぞ。それにめちゃくちゃかわいいしな。ホント俺引っ越したいな。でも……」
慎吾はため息をつきながら言葉を続けた。……やはり、相当な有名人だったようだ。……俺って情弱だな。内心自嘲する。
「あんな美少女に見えるのに、ちんこついてんだぜ。すげぇ悔しいけど、ついてんだよ」
……ん?なんだって?健介は一瞬固まった。
「は?杠さんに、何がついてるって?」
「何って、ナニだよ。お前、知らねえの?千宥ちゃん、男だって」
慎吾が不思議そうに尋ねる。
「全然気づかなかった……まったく女の子に見えたけど」
健介は驚きを隠せずに言った。しかし、その一方で、ある噂は聞いた覚えがあった。
「あれ、確かに女装して通ってる生徒がいるって噂あったけど、あれって杠さんのこと……」
「他に誰がいるってんだ」
慎吾が、何言ってんだこいつ、と言わんばかりに眉をひそめた。
「まさかそれが杠さんだとは……」
「これまでこの学校に二か月いて、男の娘JK・杠千宥の名前を聞いたことは?」
「ないです」
「お前、情弱だなあ!」
飄々とした慎吾が、普段上げないような驚きの声を上げた。情弱を自覚したはいいものの、まさかここまでとは、健介は自分が信じられなかった。
「俺でも知ってたぞ」
追い討ちのごとく大上まで口を挟んできた。
「まあ、聞いたことないんなら、男だとは夢にも思わないよな。反則だよ、ありゃ」
一転フォローするように慎吾が笑った。
「それにしても、慎吾もそんなに女好きなのに、杠さんはOKなんだな」
「ばっか。本当は男だってわかってても、お近づきにはなりたいじゃないか。ぜひとも仲良くなりたいもんじゃないか。あんな聖女のような。ちんこあっても聖女だ、あれは」
慎吾が力説した。今度は健介が何言ってんだこいつ、という顔になった。
「……ああそうかい。大上としては、どう?」
「男でも仲良くするのはいいことだ。きっと、いい子なんだろう」
「そうだな……まあ、これからも普通に接するよ」
と健介は言いながらも、心の中で少し複雑な気持ちを抱えていた。千宥は、実は男。彼女、いや彼?に対し早速ながら恋心に近いものを抱きつつあった健介にとって、ショックな出来事ではある。
「まじかよ……」
それから健介は一日中千宥のことを考えながら過ごしていた。放課後、教室を出ると、茉衣子がすぐに駆け寄ってきた。
「健介、今日も一緒に帰ろうぜ!」
「お前、毎日一緒に帰るつもりかよ」
健介は半ば呆れながら返事をした。
「せっかくのチーム・アネックスだぞ。帰れる時は帰ろうぜ。千宥もいるんだからさ」
笑顔で答える茉衣子の後ろには千宥もいた。「彼」が柔らかい微笑みを浮かべて近づいてくると、健介は少し緊張した。ただ、それは今朝抱いていた緊張感とはまた違うものだった。
三人は並んで歩き始めた。健介は今日ずっと、そして今も千宥のことを考え続けていた。例のことを知って以降、どうやって真相を確かめるべきか、悩んでいたのだ。
「ねえ、杠さん。ちょっと聞いてもいいかな?」
健介が意を決して尋ねた。
「うん、何?」
千宥が優しい目で健介を見つめる。
「その……あのさ、君って……本当に男なの?」
健介は少し戸惑いながら質問した。
千宥は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかい笑顔に戻った。
「うん、そうだよ。私は本当は男なんだ。でも、ちょっとわけあって、女の子の格好をして暮らしてる。その方が私は好きだから」
そう静かに答えた。健介はその言葉に少し戸惑ったが、すぐに、なんだか肩の荷が降りたような心持ちとなった。
「そうなんだ……。正直、全然気づかなかったよ」
「ううん、嬉しい。女の子に見られた方が、私はうれしいよ。それに、みんな驚くことだからね。でも、私はこれが私だから、これからもよろしくね」
茉衣子は二人を見て、にっこりと笑った。
「健介、これからも千宥と仲良くしてくれよな」
「そ、そうだな。……男友達ならちょっと名前で呼べるかな。千宥って呼んでいい?」
「私は全然ウェルカムだよ。こういう立場だから、結構男女問わず、なれなれしく呼んじゃうからね。私も健介くんでよかった?」
「俺は、いいよ。茉衣子みたいにもっと馴れ馴れしいのも既にいるし」
「おいおい、あたしは関係ねえだろ!?」
三人はそのままアパートへ向かって歩き続けた。
健介の心にはまだ少しの戸惑いが残っていたが、千宥とむしろもっと仲良くなりたいと感じた。慎吾がああまで言うので、間違いはないだろう。そして、自分が昨日今日と付き合ってみて、とてもいい子だということがありありとわかるのだ。茉衣子はやっぱりちょっと面倒くさいけど、千宥もいるんだったら、なんとかやっていける気もしてきた。
アパートの入口にたどり着くと、健介は千宥と茉衣子に別れを告げ、自室に戻った。昨日芽生えた恋心は、たった一日で散ったが、なんだか清々しかった。




