第33話 お姉ちゃんは男の子
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前回、入学式で二生と知り合った果文としろこが、チーム・アネックスの一部メンバーと知り合いました。
前回はほぼ前振りで、ここからが本編と言えるでしょう。
二時間目の授業が終わった。伊福というスキンヘッドが特徴のおじいちゃん先生の、なかなかクセのある英語の授業だった。実は、千宥が一年生の時に授業を受けていた先生の授業は、担任の北御門結唯を除けばこれが初めてだった。千宥から「面白い先生」だとは聞いていた。しかし、二生は授業のことを思い出し、眉をひそめた。
『そうかあ。杠くんの妹か。いやいや、あの子はとても優秀で、人気者なのだよ。うん、妹くんもいい子そうで、僕は安心したよ、うん』
なかなかにプレッシャーがかかることだ。実は、このクラスには身内に先輩ないしOB・OGがいるという者も少なくはないため、二生だけではなく、数名がそれに言及されていた。自分だけではない。わかっている。だけど、今日指名された中では現役生徒の「先輩」の身内は二生だけだったし、何せ、思いっきり褒めちぎられた。いいことのように思えるが、それは「この子も優秀に違いない」とみられる、いわば「ハードルが上がった」ということにほかならない。二生はそう受け止めた。
「千宥先輩、褒められてたね」
後ろから果文がこっそり言う。
「うん……」
二生は苦笑するしかなかった。
そしてその空気は、次の休み時間にはさらに少しずつ形が変わっていった。
「ねえねえ、聞いた?」
教室の後ろの方で、女子たちが何かを話している。
「何?」
「二年にいるっていう、あの人」
「あー、男の子なのに超きれいな先輩?」
「そうそう」
二生の手が、ぴたりと止まった。ノートに落としていた視線だけを、そのまま動かす。
「見たことある?」
「ない。でも、女優さんみたいにきれいって」
「そうなの?」
「なんかもう、女の子にしか見えないらしいよ」
「しかも頭いいんでしょ?」
「そうらしいよ。成績上位で、先生受けもいいって」
「へえ……やば」
何気ない会話だった。ただの噂話。でも、二生の耳には、それが妙にはっきり入ってきた。男の子なのに、きれい。女の子にしか見えない。その言葉が、勝手に胸の奥に落ちてくる。誰のことを言っているのかなんて、言うまでもない。そんなの、一人しかいない――既に千宥が噂になっている。二生はトイレに行きたかったところだったので、そそくさとその噂が飛び交う脇を退散しようとした。だが――
「ねえ、二生ちゃん」
不意に、また名前を呼ばれて、二生はびくっとした。宏子だ。宏子も、そして果文もその会話に参加していたのだ。
「な、なあに?」
「お姉さん、二年だよね?千宥先輩」
喉が、きゅっと縮む。
「……うん」
「もしかして知ってる?その、きれいな先輩」
知ってるも何も、その「お姉さん」こそがその先輩だ。いや、姉という言い方すら、厳密には違う。でも少なくとも、家族だ。朝も一緒に歩いてきた。なんだったら、宏子と果文に至っては「もう会っている」。なのに、その一言が、すぐに出ない。心臓が、変に速くなる。
「えっと……」
言葉を探す。知らないふりをするか。ごまかすか。いや、でも、この子たちは別に悪意があるわけじゃない。ただ興味本位で話しているだけだ。それが分かるからこそ、余計に難しい。果文が、そんな二生の横顔をじっと見ていた。
「……二生?」
「あ、ううん」
二生はあわてて首を振った。
「知ってる、けど……」
「えっ、やっぱり?」
「どんな人?」
「ほんとにそんなきれいなの?」
一斉に聞かれて、二生は息を詰める。
どんな人。その問いが、一番困る。やさしい。きれい。強い。ときどき何を考えているのか分からない。でも、たぶん、自分よりずっといろんなものを抱えたまま、平気な顔をしている。そんなこと、ここで説明できるわけがない。
「……きれい、だとは思う」
やっと、それだけ言った。自分の声が少し硬いのが分かる。
教室のあちこちから、「へえー」「やっぱり」という声が上がる。
「いいなあ、一回見てみたい」
「ていうか、なんでそんな有名なんだろ」
「なんかもう、学校のアイドルみたいな感じじゃない?」
「しろことどっちがきれいかな?」
軽い調子の言葉が飛び交う。その中に悪意はない。たぶん、本当にない。けれど、二生は急に、落ち着かなくなった。
「ご、ごめんね」
二生は思わずその場から逃げた。いや、元々トイレには行きたかったのだが、これじゃ、まるで逃げたみたいだ。そして、思わず早足になる。やっぱり逃げてるんだ、私。自分でも分からない。何がこんなに怖いのか。千宥は、こういうふうに見られている。知ってはいた。家の外でだって、目立つ。きれいだと言われる。振り返られる。でも、それが学校の中で、噂として、こんなふうに面白がられたり、憧れられたりしながら広がっているのを、二生は初めて真正面から聞いた。胸の奥がざわつく。それは、千宥のことを言われたからだけではなかった。もっと別の、もっと言葉にしにくい感覚。千宥は、男の子なのにきれい。じゃあ、自分は何なんだろう。そういう考えが、一瞬、頭をよぎってしまった。そして、トイレのドアを、つい勢いよく閉めた。ショーツを下ろし、力なく便座に腰を落とす。はあ……。そのまま気絶しそうになるぐらい力が抜けた。数十秒。用は終わったので、後始末して出るだけなのだが、力が入らない。およそ三分。少し精神が落ち着いたところでようやくトイレを後にした。
教室に戻った。体に力が入らない。
「二生」
椅子に腰掛けたところで、果文が小さい声で呼んだ。
「大丈夫?」
「……え?」
「顔色、悪い」
ぎくりとする。そんなに分かりやすかったのだろうか。
「慌てて教室から出ていったからどうしたかと思ったよ」
「だ、大丈夫」
「ほんと?」
「うん……」
答えながらも、自分でも全然大丈夫じゃないと思っていた。そのとき、教室の前のドアが開いて、古文の石丸先生が入ってきた。ざわついていた空気が、少しだけ散る。助かった、と二生は思った。けれど同時に、少しも助かっていなかった。噂は消えない。授業が始まれば静かになるだけで、なくなるわけではない。そして、二生の中に一度落ちたざわつきも、たぶん同じだった。
四時間目の授業は、内容がまるで頭に入らなかった。板書を写しているつもりでも、気づけば手が止まっている。石丸先生の声も、耳には入っているはずなのに、意味として残らない。ただ、時間だけが妙に遅く進んでいく。
果文が時々こちらを見ているのは分かった。宏子も、別の列からそれとなく二生の様子を気にしているようだった。けれど、二生は誰とも目を合わせられなかった。ようやくチャイムが鳴った。
昼休み。教室の空気が、一気にほどける。椅子を引く音、弁当箱を出す音、廊下へ飛び出していく足音。さっきまでの授業の張りつめた感じが、一瞬で溶けていく。
「二生」
すぐ後ろから果文の声がした。二生は振り向く。果文は、朝の軽い調子とは少し違う顔をしていた。真面目というほどではないが、少なくともふざけてはいない。
「ごはん、一緒に食べよ」
弁当箱を持っている。
「あ……うん。でも、私、学食だから」
本当は、一緒に食べたかった。いや、食事を共にしたいというより、今ここで一人になる方が、たぶんつらい。
すると、横から宏子も近づいてきた。
「私は学食だよ。一緒にいい?」
「う、うん」
宏子はにこっと笑ったが、その目がほんの少しだけ探るようだったのを、二生は見逃せなかった。
「果文も、弁当持っていったら?普通にそういう人もいるってよ」
「そうなの?じゃあ、一緒に行こうよ」
学食は混み合っているように見える。しかし、年度のうち、四月はやや人の入りが少なくなる時期だ。なぜなら、一年生の弁当派がわりと多い時期だからだ。そこから学食に転じる者も結構いる。もっとも、学食すら利用するのをやめ、購買部でのパンの購入などで済ませるようになるものもおり、さほど大きく変わりがあるわけではないが。
先に果文が席取りをしてくるとのことだった。三人分。そして、二生と宏子は学食を注文する。やはり、どうしても注目を浴びてしまう。それは、やはり宏子がいるから。教室とは違い、学食は先輩たちまで来る環境なので、更に容赦がない。サインの求めには「止められてるんで」とだけ言い、声掛けには一言ずつさらりと「ありがとうございます」と返していく。それをさばいていく姿は、慣れたものであり、刺さる視線を感じながらも、二生は感心していた。
食事を受け取り、果文を探す。奥の方で、果文が手を振っているのが見える。お盆を持って、目的地に向かう。なんと、そこには、千宥と茉衣子がいた。
「あはは、茉衣子先輩に呼び止められたの。一緒に食べようって。いい?」
「う、うん、いいけど……」
呆気に取られる二生。姉はいいが、まだ茉衣子はちょっと苦手。果文もほぼ同意らしく苦笑いし合う。
そしてあと二人……。当然、果文と宏子は初対面だが、二生は知っている。玉井絢那と新宮領美佳。千宥と茉衣子の友人。いや、美佳に関して言えば、「友人」でくくるのもちょっと違う。そこには、ちょっと複雑な「事情」がある。
「ごきげんよう、二生ちゃん、お友達の皆さん」
「こ、こんにちは、美佳さん」
美佳が微笑み、そのえも言われぬ高貴さに、二生だけでなく、果文と、自身も「オーラ」を持っているはずの宏子までもが自然とたじろぐ。位置取りは、茉衣子の向かいに千宥、千宥の隣に美佳、茉衣子の隣に玉井、そして、茉衣子の反対隣には果文。二生は自然と姉の隣、そして果文の向かいに腰掛けた。その果文の隣に宏子が腰かける。
「わあ、ほんとにしろこちゃんだ。すごい、一緒にご飯食べてくれるんだね」
玉井が感動している。彼女も生粋の高宮県民だ。
「よろしくお願いします。二生ちゃんと友達になりました」
そして、果文が弁当箱を開けながら切り出した。
「二生、さっきほんとに大丈夫だった?」
「……うん」
「いや、うんじゃなくて」
果文はやや身を乗り出す。
「顔、真っ青だったけど」
「そこまでじゃ……」
「そこまでだったよ」
そうはっきり指摘され、二生は口をつぐんだ。宏子はすぐには口を挟まなかった。ただ、うどんを箸ですくい上げながら、やわらかい声で言う。
「人がいっぱいで疲れた?」
その聞き方はずるい、と二生は思った。疲れた、と言えばそれは本当だ。嘘にはならない。でも、本当にそれだけだったのかと問われれば違う。
「……ちょっと」
結果として、そんな曖昧な返事しかできない。
「だよね」
宏子はうなずいた。
「私でも疲れるもん、初対面が多い日は」
「しろこでも?」
思わず果文が聞き返す。
「疲れるよ。平気そうに見せるのは仕事みたいなものだし」
あっさり言う。その言い方があまりにも自然で、果文も二生も、少しだけ目を丸くした。
「……そっか」
二生が小さく言うと、宏子は軽く笑った。
「むしろ、二生ちゃんの方がよく頑張ってる」
「そんな……」
「頑張ってたよ」
今度は果文が言った。
「どしたんだ?二生。具合でも悪いのか?早速いじめられたか?」
茉衣子は、右の拳で左の掌を打ち、さらにシャドーボクシングまで始めた。その姿に果文は少しびくっとする。
「あ、違うんです。違うんです、茉衣子さん……。あの、人酔い……です」
二生がうつむく。
「大丈夫かよ、お前。無理すんなよ」
茉衣子が身を乗り出す。
「だ、大丈夫です。ごはんも食べられるし……」
「そうか?果文、なんかあったのか?」
茉衣子は今度は隣に話しかける。
「え?ああ、いや、ちょっと休み時間にだべってたら、具合悪くなったみたいでトイレに駆け込んだんですよ。何か悪いことしちゃったかなって」
果文が言う。
「そっか。無理すんなよ」
「は、はい」
身を案じる茉衣子に照れながら二生は肩をすくめる。そして、茉衣子は急に口角をあげて、果文に向かって身を乗り出した。
「なあなあ、で、何の話してたんだ?」
茉衣子は、二生が何か嫌なことをされたわけではないと考えると、今度はそれに興味を持ったのだ。それは、茉衣子の無邪気な興味だ。しかし、二生は全身の毛が逆立つ――全く毛深い方ではないが、そんな感覚を覚えた。
「あ、先輩たち二年生ですよね?二年生に、男子なのに女の子みたいにきれいな先輩がいるって聞いたんですよ」
果文が何の悪気もなしにそう言うと、空気が凍った。いや、凍った、と感じたのは二生だけかもしれない。学食のざわめきは相変わらず続いている。食器の触れ合う音も、遠くで誰かが笑う声も、そのままだ。なのに、このテーブルの周りだけ、急に空気が薄くなったようだった。
「え?」
最初に反応したのは玉井だった。果文と二生を交互に見る。
「ああ!……二年の、美人の、男子かあ」
玉井は、「絢那は知ってるもんね~」と言わんばかりの顔でニヤニヤする。
「そうなんです」
果文はまだ事情を知らないまま、素直にうなずく。
「なんか、クラスの間で話題になってて。すごくきれいで、成績もよくて、人気者の先輩がいるって」
その言葉を聞きながら、二生は視線を上げられなかった。やっぱりこうなる。言われた瞬間に、みんなが千宥の方を見るんじゃないか。そう思って、肩が縮こまる。そして、結果的にそうなりはしたが、そこまで若干の時間があった。まず茉衣子が、千宥を見た。美佳は、一瞬だけ目を伏せて、それから静かに千宥へ視線を向けた。そして、その様子を見た玉井が、ようやく空気を察し、ニヤニヤをやめ、そのまま静かに千宥を見た。当の千宥は、若干うつむき加減で、難しい顔をしている。果文と宏子は、まだ気づいていない。いや、宏子は半歩ぐらい勘づいているかもしれないが、確信まではない。そんな顔だった。二生は膝の上で手を握る。言わなきゃ。そう思うのに、口が開かない。
「……それ」
静かに口を開いたのは、千宥だった。声はいつも通り穏やかで、無理に明るくしている感じもなかった。
「たぶん、私のことだね」
その一言で、時間がぴたりと止まった気がした。果文の目が見開かれる。宏子も、息をのんだのが分かった。二年生たちは、千宥が、穏やかにそう名乗り出たのを見ると、ほっと一息ついた。もう彼女たちの、いや、二年生以上みんなの間で、誰もが知っていること。新入生の中に、身内で気が弱い二生がいなければ、誰も気にかけることもなく、去年のようにそのうち自然と噂になったであろう、在校生にとってはもはや普通のこと。しかし、それは二年生以上から見た話だ。
「……え?」
果文が、理解できてない風に声を漏らした。
「え、でも……」
でも、の先が続かない。見た目。制服。声。仕草。全部が、その「でも」に詰まっているのだろう。千宥は、困ったように少しだけ笑った。
「うん。まあ、そうなるよね」
その言い方があまりにも普段通りで、二生は逆に苦しくなった。千宥はいつもこうだ。自分のことを言うときだけ、少しだけ笑う。相手を困らせないように、傷つけないように、先回りして空気をやわらげようとする。でも、それが平気だからではないことを、二生は知っている。
「こんな格好してるけど、正式には男子として登録されてるの」
千宥は続けた。
「戸籍上もそうだし、色々そのままだから。でも、見た目は……まあ、見ての通り」
そこで肩をすくめるように笑う。
「だから、たぶん噂にもなりやすいんだと思う」
果文は、まだ言葉が見つからないらしかった。宏子も黙っている。その沈黙に耐えきれなくなって、二生が思わず口を開いた。
「ご、ごめん……」
しまった、と思ったときにはもう遅い。全員の視線が自分に集まる。なぜ自分が謝るのか、自分でも分からない。でも、謝らずにはいられなかった。
「何で二生が謝るんだよ」
茉衣子が、少しだけ低い声で言った。怒っているわけではない。だが、はっきりとした否定だった。
「だって……」
「だってじゃねえよ」
そこで茉衣子は言葉を切って、少しだけ頭をかいた。
「いや、びっくりはするだろうけどさ。でも、それで二生が悪いみたいな顔すんな。お前は何もしてねえだろ?」
二生はうつむく。千宥が、そっと二生の方を向いた。
「二生」
その声は、やわらかかった。
「私はいいから、だから二生が抱え込まないで」
その一言で、二生の胸の奥がひどく痛んだ。私はいいから。千宥はそう言う。たぶん本心でもある。自分のことより、二生がこうして怯えていることの方がつらいのだ。だからこそ、二生は余計につらくなる。
「でも……」
「でもじゃないよ」
千宥は笑った。今度は、少しだけはっきりと。
「これ、私のことだから」
二生は何も言えなくなる。すると、今まで黙っていた宏子が、ゆっくり口を開いた。
「……ごめんなさい」
その声は静かだった。二生ではなく、千宥に向けたものだった。
「朝、お姉さんって言っちゃったし、さっきも二生ちゃんに聞いちゃった」
千宥は首を振る。
「ううん。それは全然。でも、困っちゃったよね」
宏子はまっすぐに千宥を見る。
「私、気づかなかったです」
その言い方に、言い訳はなかった。ただ、本当にそう思っているだけの声だった。
「騙すつもりじゃないんだけど……。でも、そう見られるの、私はうれしい」
千宥は一瞬だけ目を細めて、それから小さく笑う。
「それに、気づかない方が普通よ。私から見ても、非常にたおやかで美しいもの」
美佳が両手を頬に当てながら言った。千宥が女性に見えることを褒めている。「事情」を熟知している二生、茉衣子、玉井、そして当の千宥自身、ぎょっとして美佳を振り向いた。
「ま、まあでもそうだ。こんな感じだから、あたしらもほぼ女子扱いで、自然と接している」
その胸のざわめきをかき消すかのように茉衣子が言った。
「……びっくりした」
果文がつぶやく。率直すぎるぐらい率直な一言だった。二生はびくっとする。けれど果文は、そのまま続けた。
「二生も『お姉ちゃん』って言ってたし。自然だったから。まさか」
「そりゃそうだよね。だって、かわいいし。絢那もね。最初一週間ぐらい普通に女の子だって思ってたよ」
玉井が、しみじみとうなずく。
「まあ、そうなるよな」
茉衣子が言う。
「え?じゃあ、……健ちゃんがドギマギしてたのはなぜだろう?」
この果文の何気ない疑問に耐えかねて茉衣子、玉井が噴き出してしまった。美佳も口を隠して笑いをこらえている。
「あー、あれじゃね?あたしらも女扱いしてるし、それは男子から見てもそうなんだろ。あたしの彼氏も言ってんだ。千宥だったら抱けるって」
「まあ!慎吾くん、そんなこと言うの?」
アネックスに来たばかりで、この手の話題にまだ慣れていない美佳が苦笑する。
「そうかなあ。雄くんはね、そういう気持ちにはなれないって」
玉井が口を挟む。
「雄人はこいつが男だった時を知ってるからだろ」
茉衣子が雄人の「例外的事情」を突っ込む。
「とにかくね、」
一旦話が切れたところで、美佳は静かに口を開いた。
「千宥さんが千宥さんであることに、変わりはないわ」
その声音は落ち着いていて、妙に場を整える力があった。
「周囲の認識や制度がどうであれ、千宥さんがここにいることの方が、私には大事ですもの」
果文が、その言葉を咀嚼するみたいに少し黙る。宏子も、静かにうなずいた。
「……そうですね」
宏子が言った。
「私も、そう思います」
そして、千宥を見て、少しだけ困ったように笑う。
「千宥先輩。正直、まだ頭の整理はついてないです。でも、先輩方が先輩のことを想ってくれてるのが、すごくよくわかりました」
千宥は、少し驚いたようにまばたきをした。
「私もびっくりしてます。してるけど……」
果文も言う。そして、二生を見る。
「二生があんな顔するくらいのことなんだって分かったし」
今度は千宥を見る。
「だったら、面白がるのは違うってことぐらいは分かるんです」
その言葉は、果文なりの精いっぱいなのだろう。綺麗に整ってはいない。でも、嘘ではなかった。
茉衣子が、ふっと笑った。
「けどなあ。あんまり重くしすぎると、二生だけじゃなく、千宥の胃袋も穴穿げちまうぞ。だから、自然に受け止めるってことだな。ほんとは男だって知ってる。けど、あたしらのなかでは女のカッコしてるこいつが当たり前。もう、そうなっちゃってる。お前らもそうなっちゃえば、二生も気軽に付き合えると思うんだ」
そして、いつもの調子で言う。
「それが何だって話だろ。千宥は千宥だし、二生は二生だ。あたしらのメシがまずくなるような話でもねえ」
あまりにも茉衣子らしい雑なまとめ方で、玉井が思わず吹き出した。
「それはそうだけど……」
「そういうことだろ」
茉衣子は玉井の背中を軽く叩く。その勢いで、場の張りつめた空気が少しだけほどけた。千宥も、困ったように笑っている。
宏子も、ようやく息をついた。果文はまだ完全には飲み込めていない顔だが、それでもさっきみたいな硬さはもうなかった。二生だけが、まだ置いていかれたみたいな気分でいた。みんな、受け止めている。少なくとも、拒絶はしていない。もっとひどいことになると思っていた。引かれると思っていた。空気が壊れると思っていた。なのに、壊れていない。それが不思議で、少しだけこわくて、でも――
「ほら、冷めるぞ」
茉衣子が、二生の前のトレーを顎で示した。
「食え。午後もあるんだから」
「は、はい」
二生は、小さくうなずいた。箸を持つ指先はまだ少し震えていたけれど、さっきまでみたいな息苦しさは、ほんの少しだけ薄れていた。千宥が隣で、何でもないみたいにコロッケを食べている。果文がまだ考え込むような顔で弁当をつついている。宏子はそんな二人を見比べて、少しだけ苦笑している。玉井はもうだいぶ平常運転に戻りつつあり、美佳は静かに食事を再開していた。
日常が、続いている。こんな話をしたのに、ちゃんと続いている。二生には、それがまだうまく信じられなかった。
午後の授業は、四時間目よりはまだましだった。まし、というだけで、集中できていたわけではない。ノートは一応取ったし、当てられたら答えられる程度には聞いていた。でも、頭のどこかでは、昼休みの光景がずっと残っていた。
あの空気。千宥の声。果文と宏子の顔。茉衣子の、乱暴なくせに妙に核心だけ外さない言い方。美佳の静かな声。玉井の、途中からすっかりいつも通りに戻った表情。あんなふうに、話が終わることがあるんだ、と二生は何度も思い返した。
放課後、ホームルームが終わる。椅子を引く音、鞄を持つ音、友達同士で帰る約束をする声。朝よりは少しだけ、それらが遠く感じなかった。
「二生」
後ろから果文が声をかける。二生が振り向くと、果文は鞄を肩にかけながら、少しだけ言いにくそうな顔をしていた。
「今日、一緒に帰る?」
一瞬、二生は返事に詰まった。
帰る。つまり、また一緒に歩く。果文と。たぶん宏子とも。もしかすると、また二年生たちとも合流するかもしれない。少しだけ怖い。でも、もう朝とは違う。
「……うん」
小さくうなずくと、果文はわずかに肩の力を抜いたようだった。
「そっか。よかった」
それだけ言って、いつもの調子を取り戻したみたいに笑う。
「じゃあ、しろこ呼んでくる」
果文が席を立っていく。二生は、その背中をぼんやり見送った。
気まずくなってもおかしくなかった。避けられても、不思議じゃなかった。なのに果文は、少なくとも今まで通りでいようとしてくれている。そのことが、胸の奥でじんわり効いていた。
教室を出ると、廊下の先で宏子が待っていた。
「おつかれさま」
「お、おつかれさま」
宏子は昼休みよりも自然な笑顔をしていた。無理をしているようには見えない。かといって、何もなかったことにしている感じでもない。そのちょうど中間ぐらいの顔だった。
「今日は、いろいろあったね」
そう言って、小さく苦笑する。
「……うん」
「でも、聞けてよかった」
二生は思わず宏子の方を見る。
「よかった……?」
「うん。びっくりはしたけど」
宏子は歩きながら言う。
「知らないまま勝手なこと言うより、ちゃんと知れた方がいいよ」
果文が、横から口を挟む。
「私もそう思う。ていうか、知らないで変なこと言ってたら普通に嫌だし」
「果文、あんな真面目そうな顔、久しぶりに見た」
宏子は、あの状況を、早速笑いながら言及した。
「だってほんとにびっくりしたんだもん」
むすっとしたように言う果文だが、その言葉は、いい意味であの昼休みより軽い。
昇降口を出ると、春の夕方の光がまぶしかった。朝よりもやわらかくて、少しだけ空気がぬるい。校門へ向かう道の途中で、ちょうど二年生の一団が見えた。
「おーい、一年生ども!」
茉衣子が大きく手を振る。その隣に千宥がいて、さらに玉井と美佳も一緒だった。そして、朝長雛灯がいた。果文がほんの少しだけ足を止める。宏子も一瞬だけ目を瞬かせた。でも、昼休みのあの場を経た今は、もう朝みたいな「圧倒されるだけ」の感じではなかった。
「わあ、ひなさん」
「二生、お疲れ様」
「お疲れ様です」
二生が頭を下げる。二生は雛灯に一番懐いている。
「お友達?」
「はい」
「こんにちは」
果文と宏子が挨拶する。
「あ、どうも。朝長雛灯です」
「あたしの彼氏の双子の妹」
茉衣子が口を挟む。
「いらん情報追加すな……。って、え?!城宮ひろこ?」
茉衣子に突っ込んだ直後に、二生の隣を見てびっくり仰天した。
「わ、時間差」
「スルーしてたわけじゃないのね」
玉井がコメントし、美佳が苦笑する。
「しばらくはこのくだり、続くんかなー……。果文、しろこ、お疲れー」
茉衣子はもう当然のように言う。
「お疲れ様です」
そして、果文も宏子もしっかり打ち解けたようだ。それを見て雛灯は手を震わせながら眼鏡をずり上げる。千宥は二生の顔を見ると、いつも通りのやわらかい笑みを向けた。
「どうだった? 一日」
「……つ、つかれた」
思わず本音が漏れる。それを聞いて、茉衣子が吹き出した。
「だろうな。最初の一週間なんてそんなもんだ。イベントほんとに盛りだくさんだ」
「イベント……」
「なんですかねえ」
果文が苦笑する。
「広くとらえても、ドタバタは色々あったぞ。千宥もそうだったんじゃね?」
「まあ、ね。思い出すなあ。ひなちゃんが半狂乱で『杠さんって男だったの!?』って言った時」
「あー、なっつ……」
本人が苦笑する。
「そっか、千宥にとっての『果文枠』はひなだったんだな」
「なんですか、果文枠って」
果文本人が苦笑する。
「茉衣子先輩は、千宥先輩が男だって聞いた時、どう思いました?」
宏子が聞いた。
「おう、あたしか?……まじか、すげえ!みたいな?」
「かるっ」
「果文!」
果文が思わず笑い、宏子が制した。
「あはは。あたしも軽いと思うぜ。でも、そんなことしていいの?とかじゃなく、本当に見た目女の子にしか見えねえから、本当?とかすげえ!の方が勝ったよな。え、マジでちんちんついとるん?みたいな」
「やだあ……」
二生が小声で言った。この面子でこういう話が一番苦手ではある。
「あー、言われた。うん」
千宥は苦笑するばかりである。
「茉衣子ちゃんなら聞くねー」
玉井が笑う。
「でも、一番聞いてくるのは、有希乃さんかも」
千宥が言う。三姉ズの飲み会に乱入すると、九分九厘、千宥の「それ」の話題になる。
「だあれ?」
まだ美佳は知らない人であるが。
「健ちゃんのお姉さん」
「あー……」
千宥の説明に、美佳はなんとなく頷いてみせる。
二生は周りを見回した。笑っている。非常に下世話な話題もありつつだが、なごんでいる。皆、楽しそうにしている。果文も宏子も、そして、美佳も含め、みんな。そして、二生は、肝心な横顔に目をやった。昼の話をしたあとも、千宥はこうして普通に笑えるのだ。たぶん、無理をしていないわけではない。でも、それでも立っていて、笑っていて、歩いている。そのことが、二生には少し眩しかった。
帰り道は、朝よりもだいぶ自然に会話が流れた。仕事があり、いつ何時でもこういう輪に加われない宏子は、バス通学だがこの坂道を歩いて降りることを望んだ。
「あのね、今から十五分後ぐらいにタバスマイル行きが出るんだよ。松が丘を経由する。絢那もそれに乗るから、下のバス停から乗ったらいいよ。そこにも止まってくれるから」
玉井が時計を見て言った。
「そうなんですね!一緒に乗りましょう。えっと……」
「玉井絢那だよ!玉ちゃん!」
「玉ちゃん先輩!」
賑やかな栄久坂。主に喋っていたのは茉衣子と果文だ。今朝の健介の予言は当たった。玉井がそこに混ざり、宏子がうまく受けて、千宥がところどころでやわらかく挟む。美佳は静かに笑っていることが多い。二生はまだその輪の中心にはいないけれど、雛灯が優しく隣にいてくれる。朝みたいにただ引きずられている感じでもなかった。
「じゃあ、私はここで。また明日ね、二生」
「う、うん……また明日」
交差点で果文が立ち止まる。
宏子も笑って手を振る。玉井も手を振り、二人は左に曲がったところにあるバス停へと向かう。
「また……」
三人が離れていくのを見送ってから、残ったチーム・アネックスはアパートの方へ向かった。一階の茉衣子、三階の美佳、そして同じ二階でも202号室の雛灯と別れ、そこからは二生と千宥だけになっていた。静かな廊下。夕方の空気。二生は、千宥の半歩後ろを歩きながら、ずっと言葉を探していた。玄関の前まで来て、千宥が振り向く。
「どうしたの?」
「……あの」
喉がつまる。でも、ここまで来たら言いたかった。
「……ごめんなさい」
またそれか、と自分でも思う。けれど、他にうまい言葉が出てこない。
「今日、私があんなふうになったせいで……」
「二生」
千宥が、少しだけ困ったように笑った。
「昼にも言ったよ」
「でも……」
「でも、じゃない」
今度は、やわらかいけれど、昼より少しだけ強い声だった。
「色々言われるのは、私のことだから」
二生は顔を上げる。千宥は、責めるでもなく、慰めすぎるでもなく、ただ静かに続けた。
「びっくりされるのも、変な噂になるのも、たぶんこれからもあると思う。今日みたいに、悪気なく聞かれることもあるし、そうじゃないことも、きっとある」
二生は、黙ってそれを聞いた。それは、慰めというより、事実だった。千宥自身が、もう何度も通ってきた道なのだろう。
「でもね」
千宥が、ほんの少しだけ笑う。
「それで二生が、自分が悪いみたいな顔する必要はないよ」
「……でも、私、あんなふうに逃げちゃって」
「逃げてもいいよ」
あっさりと言われて、二生は目を瞬いた。
「え……」
「だって、怖かったんでしょ?」
図星だった。千宥は鍵を指先で弄びながら、穏やかに言う。
「怖いのに、平気なふりだけ上手くなっても、あんまりいいことないから。今日は今日で、あれで十分。ちゃんと頑張ってたし」
「……頑張ってたかな」
「頑張ってたよ」
千宥は即答した。
「朝から知らない人の中にいて、ちゃんと話して、昼にはあの場にいて、放課後はまた果文ちゃんたちと帰ってきた。二生、大人になったね」
「なんか、お母さんみたい」
思わずそう返すと、千宥がくすっと笑った。
「お母さんにはなれないけど、お姉ちゃんにはなりたい、かな」
二生も、つられるように少しだけ口元が緩む。その小さな変化を見て、千宥は少し安心したようだった。
「私のことは、私が引き受けるから」
あらためて、そう言った。
「もちろん、二生が気にしてくれるのはうれしいよ。でも、気にするのと、抱え込むのは別だから」
廊下の窓から差し込む夕方の光が、千宥の横顔をやわらかく照らしていた。きれいだ、と二生は思う。今日だけで何度目か分からない。家族なのに。ずっと一緒にいたのに。それでも、ふとした瞬間にそう思わされる。そして、その人が、今、自分に向かって笑ってくれている。
「……うん」
二生は、ようやくうなずいた。
「私、ちょっと……怖くなりすぎてた」
「うん」
「お姉ちゃんのこと、変に思われたらどうしようって」
「うん」
「あと……私も、なんか、わかんなくなって」
そこまで言って、二生は黙った。全部言葉にはできない。自分が何に怯えたのか、まだ自分でも整理しきれていない。でも、千宥はそれ以上聞かなかった。
「そっか」
ただ、それだけ言った。それだけでよかった。全部説明しなくても、そこで止めても、責められない。そのことがありがたかった。
「でもさ」
千宥が、少しだけいたずらっぽく目を細める。
「果文ちゃんもしろこちゃんも、いい子たちだったね。ラッキーだよ。ちゃんとああやって、知り合ったばかりなのに思ってくれるの」
二生は、小さく息を吐いた。
「……うん」
「茉衣子ちゃんは、相変わらず雑だったけど」
「雑、だった……」
「でも、ああいう言い方しかできないだけで、あの子はあの子で、すごく守ってくれてたでしょう?」
二生は、昼の茉衣子の顔を思い出す。乱暴で、声も大きくて、相変わらず圧は強かった。だけど確かに、あの場で一番はっきり「二生が悪いわけじゃない」と言ってくれたのも茉衣子だった。
「……うん」
「だから、案外大丈夫だよ」
千宥が言う。
「少なくとも、二生のことも、私のことも思ってくれてる」
その言葉に、二生はもう一度だけ、昼の食堂の光景を思い返した。果文の率直さ。宏子の静かな受け止め方。茉衣子の雑な肯定。美佳のきれいな言葉。玉井の軽さ。雛灯の優しさ。みんな、ちゃんとそこにいてくれた。壊れなかった。そのことが、ようやく少しだけ実感に変わり始めていた。
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「今日、言ってくれてよかった」
二生がそう言うと、千宥は少しだけ目を丸くして、それから照れたように笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、よかった」
それだけ言って、千宥は玄関のドアを開けた。家の中は静かで、少しだけひんやりしていた。学校とは違う、知っている空気だ。二生はその空気に触れた瞬間、ようやく本当に肩の力が抜けるのを感じた。
疲れた。すごく疲れた。でも、午前中に思っていたような最悪の一日では、もうなかった。むしろ――怖かったぶんだけ、少しだけ前に進んだ一日だったのかもしれない。二生はベッドに寝そべりながら、そんなことを思った。
【次回予告】
大上の様子が最近おかしいらしい。何があった?
という感じです。お楽しみに。
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