第31話 大阪と神戸と沖縄と、蚊帳の外の春若
春若栄久高校二年七組の教室の窓から見える空は、昨日と同じようにやけに明るかった。昨日、この教室で新たな一年がスタートした。
そして、二年生としては珍しく、転校生が二名もやってきた。
その一人が、新宮領美佳。アネックス久世に住まう杠千宥の自称フィアンセである。美佳はまぎれもない女性であり、千宥は男性であったはずだが、今はほとんど女性として生活しており、体も変化させているところだ。千宥が女性の姿をしているのは美佳も既に知っているが、体のことは、恐らくまだ知らない。そんな千宥を追って、わざわざ東京の豪邸を出て使用人約一名を連れて同じアパートにやってきた。はあ……。思い出すだけで樋口健介はため息が出る。これは面倒なことになるぞ。千宥と言えば、年子の妹の二生が昨日入学式を迎えた。気の弱い彼女が、このアクの強い環境でやっていけるかどうか、人様の妹ながら、ついつい心配になってしまう。
そして、もう一人の転校生が、渡辺啓太郎。美佳ほどの複雑な事情はなく、単に親の仕事の都合で大阪から引っ越してきたらしい。出席番号順で六つ後に位置する渡辺は、今、健介の隣にいる。
思えば「樋口」と「渡辺」が隣り合うことはそうそうない。大体三十余名のクラスだと、健介は出席番号二十番台前半ぐらいのことが多いため、二十八番は異例の遅さだ。そして、ま行とや行がやたら少ないこのクラスの殿、三十四番・渡辺と隣り合うことになった。
別にそれはいい。ただ、思えば、健介は中学以降、転校生にやたら縁がある。それも、大体一癖も二癖もある。半年前、名門・月陵学園を成績不振で追われた綾香雄人の隣の席になった。彼も悪い奴ではないが、猪突猛進タイプで、人の言うことがあまり聞けない。それでいて、正直の上に「馬鹿」がつくタイプで、百円玉を拾えば交番に届け、定期試験で採点ミスで点を多くつけられれば申告するような男である。そして、今は幼馴染でアネックス久世の大家の孫娘でもある玉井絢那と交際している。別にどうでもいいのだが、玉井に片思いしていた大上茂が、昨日から沈んだ顔をしているということを、同じアネックス久世の住人である朝長慎吾から聞いた。おそらく、雄人と玉井のデート現場を目撃したか何かだろう。またも面倒ごとを思い出し、健介は眉を顰める。
思えば、「めんどくさい転校生」に巻き込まれる最初は、今から三年前、沖縄から古波蔵茉衣子が移住してきた時からだ。やたら絡まれ、何度も二人で遊びに誘われた。しかし、押しの強すぎる彼女がどうも受け入れられず、疎遠になった。それがどういう因果か、隣人として再会し、こいつも案外悪くないな、そう思った矢先、茉衣子はくだんの慎吾と交際を始めた。そう思うと、悔しいか悔しくないかで、「ちょっと悔しい」と思ったのは誰にも秘密だ。しかし、今は茉衣子との関係は、一番いい。健介自身はそう思っている。
健介、茉衣子、千宥、慎吾、そして慎吾の双子の妹で、今は健介の左斜め後ろに座る朝長雛灯、これらアネックス久世の住人に、住人ではないが重要関係者である玉井を加えた面子が、いつの間にやらチームアネックスと称するようになった。LINEグループもある。そして、昨夜、そのグループに美佳と二生が加えられた。これが、ここ最近で健介に起こった出来事だ。
閑話休題。自分から見て右隣、教室の端の席に座っている渡辺を、健介はちらっと見た。昨日はほとんど話していない。というより、話すタイミングがなかった。
「……なあ」
気づけば、声をかけていた。
「ん?」
振り向いた渡辺は、思っていたよりも柔らかい顔をしていた。転校生特有のよそよそしさは、あまりない。
「昨日あんま話せなかったよな」
「ああ、せやな。なんか人多すぎて」
軽く笑いながら返してくる。その言い方が、妙に砕けていて、少しだけ拍子抜けする。
「あのさ、渡辺って言ったよな、なんて呼ばれてんの?」
「……まあ、大体『ナベ』やな」
「ナベか」
そのまま口に出してみる。語感は悪くない。
「じゃあナベでいい?」
「ええで。むしろそっちの方が楽やわ」
あっさり決まった。こういうところ、妙に順応が早い。――転校生って、もうちょい構えるもんじゃないのか。そんなことを思いながら、健介は肩をすくめた。
一時間目と二時間目の間の休み時間。教室の空気が一気に緩む。後ろの席では、雛灯が誰かと小声で話している。まだ、新しいクラスに知人が少なく、昨日の時点では「近くの席で良かった」と喜び合ったものだが、所詮は異性の友人。クラスにそれぞれ同性の話し相手ができるものである。今は、彼女から見て健介と「反対側」すなわち左斜め前に座る坂本という女子と意気投合したようで、話している。近くに女子が少ない、少し気の毒な席配置の雛灯であったが、彼女なりによくやっているようだ。健介は、ふと右を見る。渡辺は、机に肘をついて、ぼんやりと前を見ていた。話しかけるタイミングはいくらでもあったはずなのに、なぜかさっきまでそのままにしていた。――まあ、いいか。
「なあ、ナベ」
「ん?」
今度はすぐに反応が返ってくる。
「そういや、ずっと大阪にいたの?」
「いや、そうでもないで。このところはほぼ大阪で、せいぜい奈良ぐらいやったけど、昔は栃木とか沖縄にもおったことあるで」
「沖縄かよ。えらく転々としてたんだな」
「まあな、ほんの一年半やけどな。幼稚園から小一やったなあ。那覇におってんけど。俺も十年ぐらい前やから、よう覚えてへん」
覚えていないと言いながら、少しだけ懐かしそうな顔になる。
「ナベってさ」
「ん?」
「転々とはしてたけど、関西弁は関西弁なんだな」
「ああ。まあ、小四以降はずっと関西にはおったからな。でも、確かに沖縄におった頃はそうまで関西弁ちゃうかったかもしれん。まあ、沖縄行くまでも和歌山におったし、親父も普通に大阪の人間やから、ゆーても割と関西弁やったと思うけど」
「そっか。こんなネイティブの関西弁あんま聞く機会ないからな。それはそのままなの?」
「別に変える理由ないやろ」
あっさり言われて、少しだけ言葉に詰まる。
「……まあ、そうか」
健介は肩をすくめた。
「逆にさ」
ナベが少し身を乗り出す。
「こっちのやつって、標準語やろ?関西から来たら、ちょっと不思議やで」
「そんな標準語のつもりもないけどな」
自分としては高宮弁のつもりだが、今の大人たちと比べると、確かに方言は薄れているのかもしれない。
「うん。テレビみたいや」
「テレビって」
思わず苦笑する。
「なんか、みんな同じしゃべり方やん」
「まあ、それはそうかもな」
そう言われると、確かにそうだ。自分たちの話し方を、外から見たことなんてない。
「でも、お前の方が目立つぞ」
「ええやん、別に」
「まあな」
軽く笑い合う。そのやり取りが、思った以上に自然で、健介は少しだけ驚いた。
三時間目の前の休み時間。今度は渡辺の方から話しかけてきた。
「なあ」
「ん?」
「この辺って、なんか遊ぶとこあるん?」
「あー……」
少し考える。
「学校を出て左にショッピングモールがあるから、そことかかな。一応ゲーセンあるし。本当に近くだと」
「ああ、俺、多分行ったことあるわ。元々お袋がこっちの人間やから、おばあに連れて行ってもらったわ」
渡辺はこの学校を出て左、すなわち東方向の大門商店街というところに住んでいる。昨日自己紹介でそう言っていたのを聞いたので、健介もそれは認識している。
「そうそう。でも、アレもショボいから、大体電車で町の方に出かけるかな。ほら、学校降りたところ、電停あるし」
「ああ、路面電車な。便利やな。ICOCA使えるの地味に助かるわ」
なんとなく、関西のICカードであることは健介も理解した。
「なんか、俺も全然知らんわけちゃうけど、こっちの遊ぶ場所くらい知っとかなな。なあ、今度遊びに行かへん?」
その言い方が、妙に軽い。――ほんと、躊躇ないな、こいつ。
「お前さ」
「ん?」
「適応力高すぎだろ」
「そうか?」
「普通、もうちょい様子見るだろ」
渡辺は少しだけ考えてから、
「まあ、見てるで」
と答えた。
「見てる?」
「うん。なんとなくやけどな」
そう言って、教室の中を一度ぐるっと見渡す。
「……ふーん」
健介はそれ以上突っ込まなかった。ただ、――こいつ、思ってるよりちゃんと見てるな。と、少しだけ認識を改めた。
四時間目が終わり、昼休み。健介は学食に行き、慎吾と雄人と食事をした。
「昨日から大上くんが、僕のことを無視するんだけど、何でだと思う?」
健介が口に入れたカツ丼のトンカツの一片をのどに詰まらせそうになった。
「さあな。心当たりないのか?」
水を一杯飲んで答えた。
「ないなあ。僕は彼にはよくしてきたつもりだよ」
雄人は眉をひそめた。彼なりに怒っているようだ。
「なあ、雄人、そういや最近玉ちゃんとはどうなんだ?最近やったか?」
「げほげほ……!」
慎吾の急なフリに、今度はうどんをすすっていた雄人がむせた。
「食事中になんてことを言うんだい、慎吾くん。絢那ちゃんとのことは、あんまり勘ぐるのはやめてもらおうか。そう言う慎吾くんは?」
「茉衣子と、か?」
「慎吾、答えなくていい」
健介は本気で制した。この中で唯一「相手」のない健介にとって、この二人の話は愉快ではない。大上でなくても耳をふさぎたくなるだろう。ただ、慎吾も方法論はずいぶん間違えたが、玉井の名を出した意図自体は健介の思いとそう大差はあるまい。
「ま、玉ちゃんのこともいいけど、それ以外の周りにも気を遣ってやれよ」
「どういう意味だい」
「胸に手を当てて考えてみ」
「ふーん?」
雄人は未だに腑に落ちないようだ。その後は玉井や大上の話題から離れ、六組の担任になった体育教師・深町が結構抜けているだの、美佳の話や、二生がさっそく友達と歩いているのを目撃しただの、その友達の一人が地元のアイドル・城宮ひろこであるだの。その「城宮ひろこ」こと城宏子は健介の中学の後輩で、みんなの注目の的だの。そんな他愛のない話をしていたら、気づいたら、もう昼休みが終わりかけていた。
五時間目のギリギリに教室に戻った。渡辺から「おう、おつかれ」と声を掛けられ、健介も応じた。五時間目は榊原妙子の数学の授業だった。新学期初授業、妙子は、実は彼女にとってはちょっとだけ珍しいゴシックロリータで現れた。渡辺は目が点になり、眼鏡を外して拭いていた。
「新学期、私の授業が初めての子もいるもんね」
妙子はにこっと笑った。確かに、元々九クラスあると、すべてのクラスを受け持っているわけではない。このため、別に妙子の授業が初めてなのは何も渡辺だけではない。……もっとも、ロリータファッション自体は、転校生の渡辺と美佳以外はご存じであるのだが。
「びっくりすると思うけど、怖くないからね。さあ、早速だけど始めちゃおう。授業プリントと、去年から知ってる子はごめんけど、自己紹介プリントも配ります。みんな、一年間よろしくね!」
ヘッドドレスが落ちんばかりに深くお辞儀した。
「あんな先生おんねんな。びっくりやで」
渡辺は未だに目を白黒させていた。
「多分、ウチで一番の変わり種だよ。妙ちゃんは」
「でも、わかりやすいな。俺、数学ちょっと得意になれるかもしれへん」
「そこが妙ちゃんの魅力だよ。アラサーだけど、多分一番人気だよ」
「アラサーなん?」
「てか今三十じゃなかったか」
妙子の実年齢は、もう公然の事項である。本人からはあまり言及したがらないが、指摘されても特段否定したりはしない。
「俺の名前とか、あだ名まで聞いてくんねんな」
渡辺は、今日の授業中当てられたのだ。
「妙ちゃん、生徒を努めてあだ名で呼ぶからな。俺も健ちゃんって呼ばれてる」
「うん。『じゃあナベちゃんね』って言われてドキッとしたわ。すごいな。おもろいわこの学校」
すると、休み時間十分間のうち四分ぐらいしか経過していないのに、もうすっかりおなじみの禿げ頭が教室に入ってきた。
「席に着きなさい諸君。巻きで行くぞ。巻きで始めて、巻きで帰り支度をするんだ」
この光景も、二年連続で伊福成芳のクラスにいる健介にはもうおなじみである。伊福は、担任しているクラスで六時限目の授業をする時は、休み時間の早めに入り、その分早くホームルームまで済ませて解散するのだ。
「はや、なんやねん、あのじいさん」
「まあ、慣れだよ。妙ちゃんの次に変わり種」
驚く渡辺と苦笑する健介がぼやき合った。
「そこのお二人、私語は慎みたまえ」
予告通り、他のクラスに十分近く先駆けて、ホームルームまで終え、解散となった。
「ナベ、今日どうすんの?」
「どうするって?」
「帰り。大門商店街の方だっけ?歩き?」
「ああ、せやで」
「俺も歩きなんだ。まあ、大門まで行くとかじゃなくて、すぐそこなんだけど」
一瞬の間のあと、渡辺が「ああ」と小さくうなずく。
「ほな、一緒に帰るか」
それもまた、やけに自然に決まった。まだ、七組以外終業していない静かな廊下を下り、昇降口で靴を履き替えながら、健介はふと横を見る。渡辺はもう、ここに馴染んでいるように見えた。昨日来たばかりのはずなのに、空気の吸い方がやけに普通だ。
「……なんかさ」
「ん?」
「転校生って感じ、あんましねえな」
言ってから、少しだけ余計なことを言った気がしたが、渡辺は気にした様子もなく笑った。
「よう言われるわ」
「マジで?」
「転校するたびにな。気づいたら普通におる、みたいな」
「便利な特技だな、それ」
「せやろ?」
軽く笑い合う。そのやり取りが、思ったよりも自然で、健介は少しだけ驚いた。
校門を出て、坂道に差しかかる。通称・栄久坂。栄久の学生のほとんどが通行することになる。バスでも徒歩でもそうだ。例外は、裏のニュータウンやその周辺に住んでいる生徒が裏口から出入りしている程度だ。並んで歩きながら、特に目的のない会話が続く。
「それにしても、終わるの早かったな」
校門を出てすぐ、渡辺が言った。春の、夕方にはまだ少し早い明るい光が坂道の先まで伸びている。校舎の影を抜けると、風が少しだけ強かった。
「たこ福のクラスは、ああなんだよ。六時間目に自分の授業があると、大体ああなる」
「効率ええっちゅうか、せっかちっちゅうか」
「両方だな」
健介は苦笑した。
「でも、ちょっと助かるやろ。ほかのクラスまだ終わってへんのに帰れるんやし」
「まあ、それはそうかもな」
実際、校門のあたりにはまだ人が少ない。いつもなら他の学年や別のクラスの連中も混じってごった返す時間帯だが、今は自分たちの靴音だけがやけに響く。
「なんか、おもろいな、この学校。先生のキャラ濃いし、生徒も濃いし」
「お前もそのうち、その『濃い方』に分類されるかもな」
「もうされとる気するわ」
「それはある」
即答すると、渡辺が「ひど」と笑う。少し間が空いて、今度は渡辺の方から口を開いた。
「健介ってさ」
「ん?」
「昼、いつもあの二人と食うん?」
「ああ……」
昼食後、教室に帰るときに、慎吾と雄人と並んで歩いているのを見たようだ。
「まあ、割とそうだな。一年の時は同じクラスだったし」
「へえ。今は何組なん?」
「今は六組だな、両方とも」
普通に答えたが、同じくいつも食事していたかつ現六組の、現在絶賛失恋中のデカブツの顔が思い出されて、健介はつい顔が引きつった。坂道の途中で、一年生らしい男子二人組を追い越した。まだ新しい制服の硬さが残っていて、妙にぎこちない。その脇を二人で避けながら、健介は何となく横目で渡辺を見た。
こいつは、たしかにもう馴染み始めている。昨日来たばかり。今日が実質最初の一日。普通なら、クラスの空気を読むだけで精一杯でもおかしくないのに、渡辺はもう、軽口を返す間合いをつかんでいた。
「しかし、あれやな」
渡辺が何気なく言う。
「こういう坂って、毎日通うんやったら地味にしんどいな」
「上りはな。帰りは楽だけど」
「朝しんどそうや」
「しんどいよ。雨の日は特に最悪」
「うわ、それは嫌やな」
そんな他愛のないことを話しながら、二人は坂を下りきった。そこで、市道に突き当たる。住宅街の入口に、小さな掲示板と地図が見えてくる。久世三丁目町内会が設置しているものである。誰が住んでるかまで載ってる、あのやけに細かいやつだ。その地図の前に、見慣れない小柄な人影が立っているのが見えた。小柄な、女の子。髪の色が、やけに明るい。というか――顔立ちが日本人っぽくない。
「……こんなとこに、外国人とかいるもんなんだな」
健介が何気なく言う。
「せやな」
渡辺が相槌を打つ。
「しゃべりかけて来れば?」
半分冗談で言った。どうせやらないだろう、と思っていた。だが。
「ええで」
渡辺は、普通に歩き出した。
「は?」
一瞬、意味が分からなかった。そのまま少女の前に立つと、渡辺は少しだけぎこちない発音で口を開く。
「えくすきゅーずみー。めーあいへるぴゅー?」
少女は、顔を上げた。ぱっと見た瞬間、やはり違和感がある。色素の薄い瞳に、少し高めの鼻筋。だが――
「……日本語でええよ」
関西弁だった。しかも、思っていたよりも自然なイントネーションで。
「は?」
今度は、健介の方が間の抜けた声を出した。渡辺も一瞬だけ固まったが、すぐに苦笑して頭をかく。
「なんや、日本語いけるんかい」
「そらそうやろ」
少女はけろっとした顔で言う。
「こんなとこで英語使われても、逆にびっくりするわ」
「いや、見た目がな……」
渡辺が言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。少女はそれを察したのか、肩をすくめた。
「よう言われるで」
どこか慣れた調子だった。
「お兄ちゃんら、あっこの高校の生徒なん?」
少し首を傾げながら、少女が丘の上を指さして尋ねる。
「ああ、そうやで」
渡辺が答える。健介は、まだ状況を飲み込みきれていなかった。――いや、ちょっと待て。外国人っぽい見た目で、関西弁で、しかも地元みたいな顔で話してる。情報が多い。
「サラのお姉ちゃんも、あっこなんよ」
少女は続ける。
「二年生やねんけど、知っとる?」
「二年……?」
渡辺が少し考えるように視線を上げる。え、同級生の妹……?健介は呆然とした。ウチに外国人とかいたか?いや、李さんならいるが、欧米系は覚えがない。ちなみに、関西出身の生徒も、この渡辺以外覚えがない。
「へえ、そうなんや。俺二年やけど、転校したばっかやから、わからへん」
渡辺は、もう普通に会話に入っている。
「名前、サラって言うん?」
「うん、サラ。糸偏に少ないと、草冠に来るで、『紗莱』」
二人は口頭での説明を、頭の中で組み立てる。「莱」で「ラ」は微妙だが、一度説明されたら、理解できなくはない。
「ええ名前やな」
「ありがと」
軽く笑う。そのやり取りが、妙に噛み合っている。さっきまで初対面だったはずなのに、距離の詰まり方がやけに早い。
「お兄ちゃん、関西の人やろ」
サラが言う。
「なんとなくわかるわ」
「せやで。大阪」
「やっぱり。ちょっとちゃうもん」
「何が?」
「しゃべり方。うち、神戸やから」
「ああ、なるほどな」
渡辺が納得したようにうなずく。そのやり取りを聞きながら、健介は少しだけ後ろに立っていた。急に、会話の流れから外れたような感覚になる。というか、健介が地元民のはずなのに、初対面の関西人同士が、なんだか意気投合している。――なんだこれ。
「どこ住んどるん?」
「えっとな――」
サラが地図の方を指さしかけた、その時。
「サラ、なにしてんだ、そんなとこで」
少し離れたところから、聞き覚えのある声が飛んできた。サラの表情が、ぱっと明るくなった。
「――あ、茉衣子ちゃん!」
振り向く。その動きがやけに軽い。声のする方を見ると、坂の上からこちらに歩いてくる影が一つ。太っているわけではないが線の太い見慣れたシルエット。ツインテールに結んだ長い髪と、どたどたと足音が聞こえそうな足取り。
「……マジかよ」
健介は思わず声が漏れた。
「健介までいたのか。なんでサラと一緒なんだ?」
近づいてきた茉衣子は、こちらを見るなり目を丸くした。
「いや、それはこっちのセリフだろ」
健介は思わず言い返す。
「この子、お姉ちゃんが二年にいるって言ったけど――お前、妹なんていたのか?てか、何人だよ?」
一気に言葉が出る。茉衣子は、少しだけ面倒くさそうに肩をすくめた。
「妹じゃねえよ。姪っ子だ」
「姪?」
「二番目の兄貴の娘だから姪っ子。……五個しか離れてねえけどな。今度六年生だ。まあ、妹みたいなもんだな」
さらっと言われて、健介は一瞬言葉を失う。
「は?」
「だから、姪。一昨日来たばっか」
「聞いてねえぞそんな話」
「まだ言ってねえもん。一昨日はまさにこいつの引っ越しでバタバタしてたし、美佳の件で昨日も言いそびれたんだよ」
悪びれもなく返される。
――いや、そういう問題か?健介が呆れている横で、渡辺が口を挟んだ。
「へえ、そうなんや」
すでに状況を受け入れているあたりが、やっぱり順応が早い。
「神戸言うてたし、関西つながりやな」
「うん。お兄ちゃんとおんなし同士」
サラがうなずく。
「うち、ずっと神戸やってんけど、今回こっち来ることになって」
「なんでまた」
渡辺が聞く。
「パパとママの仕事。外国行くって。ちょっと危ないとこやから、サラは日本残りぃ、って言われた。長いこと帰られへんかもしれんし、って。せやから、じいじんとこ来てん」
「へえ」
その会話を横で聞きながら、健介は頭の中で情報を整理していた。
――茉衣子の姪。神戸。外国人っぽい見た目。
そして、
「……いや、ちょっと待て」
改めてサラを見る。
「えっと、サラちゃん?何人なの?」
さっきから気になっていたことを、結局そのまま聞いた。サラは少しだけ考えてから、
「うーん……」
と首を傾げて、
「沖縄とスコットランドのハーフ、って言うたらええんかな。でも、今は日本やで。苗字、古波蔵やし」
と答えた。
「はあ……」
健介は呆然とした。スコットランドがイギリスなのはなんとなく知っているが、いまひとつ現実味がわかない。
「ややこしいな」
渡辺が笑う。
「沖縄とスコットランドかあ。せやけど、出身は?」
「神戸!」
渡辺とサラの間で見事なコールレスポンスができていた。なんなんだこいつら。健介は顔をひきつらせた。会話に入れないわけじゃないのに、入る隙がない。
「で、明日から学校なん?」
渡辺がサラに聞く。
「うん。久世小学校」
「じゃあ健介の後輩だな」
横から茉衣子が口を挟む。確かに、久世小学校は健介の母校である。
「そうだけど……」
なんだか、自分の知らないところで話がどんどん進んでいる感じがして、落ち着かない。
「てかお前、なんでこんなとこにいるんだよ」
茉衣子が今度はサラに聞く。
「茉衣子ちゃんおれへんし、じいじも仕事で、サラ一人やったから、暇やからお散歩しててん。茉衣子ちゃんの迎えついでに」
「一人でか?」
茉衣子が眉を吊り上げた。
「でも明日からここ通って一人で学校通うんよ?」
「まあ……そりゃそうなんだけどさあ」
茉衣子がお姉ちゃんの顔になって心配している。健介は素直に感心した。その時だった。
「……あれ?」
渡辺が、ふと声を漏らした。視線の先は、茉衣子。じっと見ている。
「どうした?」
健介が聞く。渡辺は、少し眉を寄せたまま、
「いや……」
と言いかけて、もう一度茉衣子の顔を見る。
「なんか、どっかで見たような……」
「誰?こいつがか?」
健介が茉衣子を指さす。
「いや、そんなことないか……」
渡辺がぶつぶつ言う。
「健介、この子誰だ?」
今度は茉衣子が尋ねる。
「ああ、ウチのクラスの転校生だよ。俺の隣の席になった」
「あはは、昔のあたしらみてえだな」
健介は若干顔を引きつらせる。茉衣子は笑った後に続けた。
「転校生なのな。美佳じゃねえ方のな」
「そうそう、美佳さんじゃない方の」
「誰やねん美佳て……」
渡辺はぼやいたが、もしかして、あのお嬢か?と思い立つ。ちなみに、この時点では知る由もないことだが、正解である。
「渡辺啓太郎や。よろしく」
「……は?」
一歩、渡辺の方へ近づく。
「今、名前なんつった?」
「え?」
少しだけ面食らったように、渡辺が答える。
「渡辺啓太郎やけど」
その瞬間だった。
茉衣子の目が、大きく見開かれた。
「……は?」
今度は茉衣子の番だった。
「渡辺啓太郎!?お前、啓太郎かよ!」
一気に距離を詰める。
渡辺が一歩引いた。
「あたしだよ!古波蔵茉衣子!那覇で一緒だった――覚えてねえか!?」
「……あ」
渡辺の表情が、ゆっくり変わる。
何かが繋がったように。
「……あー……あ!」
声が一段上がった。
「茉衣子か!?おったなあ!」
「おったなあ、じゃねえよ!」
茉衣子が笑いながら肩を叩く。そう、渡辺が沖縄に居住していた頃、同じ幼稚園ないし小学校に通っていた友達、それが茉衣子だったのだ。
「マジかよ、こんなとこで会うか普通!眼鏡してるからわかんなかったよ」
「それはこっちのセリフやろ!何でお前が高宮おらなあかんねん!それにこっちも髪型ちゃうからわかれへんかった」
「うそつけ。あたしは昔からツインテだよ」
「こんな長なかったやんか」
「それはそうかもな」
一気に距離がゼロになる。さっきまで初対面と思っていた二人が、ずっと昔からの仲良しとして笑っている。十年の期間などないかのように。その様子を見ながら、健介は一人、ぽつんと立っていた。
――なんだこれ。
さっきよりも、はっきりと思う。自分の知らないところで、世界が繋がっていく感じ。それを、少しだけ外側から見ている。その中心に、自分がいないことだけが、はっきりしていた。そんな妙な感覚だった。
「立ち話もなんだし、上がってくか?」
茉衣子がそう言ったのは、ほとんど流れだった。
「え、せやな……うん、積もる話もあるとは思うねんけど」
渡辺が口ごもる。
「お兄ちゃん、来たらええやん。サラももっとお話ししたい。ねえ、啓太郎って言うん?啓ちゃんって呼んでもええ?」
「おう、呼べ呼べ。啓ちゃんでもジェイちゃんでも何でも呼んだらええ」
「じゃ、あたしんちすぐそこだから。ちなみに、健介は隣なんだぜ」
「……余計なこと言わなくてよろしい」
健介はこの場から消えるつもりだった。とりあえず、茉衣子とサラは、そのまま流れで、渡辺を連れてアネックス久世107号室に帰宅した。
「どこいくんだ、健介」
……健介はさりげなく106号室に帰宅しようとしたが、フェードアウトに失敗して、そのまま上がり込んだ。
古波蔵家の玄関は、相変わらず雑然としていた。
靴が多い。サイズもバラバラ。先日までなかった小さめのスニーカーが増えている。それはサイズ的に茉衣子でも、まして彼女の父でありサラの祖父でもある泰造のものではない。――ああ、これがサラのか。なんとなく納得する。
「適当に座ってていいぞ」
茉衣子にリビングに通されると、どこか見慣れた空間なのに、少しだけ空気が違った。テーブルの上に、見慣れない筆記用具。開きっぱなしのノート。
「宿題?」
健介が聞く。
「宿題とはちゃうねんけど、前の学校のやつ」
サラはそう言いながら、私物を片付け、コップを並べる。
「ジュースでええ?」
「いいよ」
「なんでもええで」
渡辺が答える。やっぱり自然に会話に入っている。
「はい、どうぞ」
サラがコップを差し出す。そのとき、ほんの少しだけ、渡辺の方に体を寄せる。
「ありがと」
「どういたしまして」
声のトーンが、さっきより一段だけ柔らかい。
――まあ、最初だしな。健介は特に気にしなかった。
「で、啓太郎」
茉衣子が、テーブルに肘をついて言う。
「那覇、覚えてるか?」
「うーん……」
渡辺が少し天井を見る。
「幼稚園やろ?……ああ、小一も夏までおったかなあ。正直、細かいとこはあんま覚えてへんな」
「マジかよ!」
茉衣子が身を乗り出す。
「ほら、あの公園あっただろ。滑り台でさ、あたしが落ちて泣いたやつ」
「……あー……」
渡辺の表情が、少しだけ変わる。
「なんか、ぼんやり覚えてる気ぃするわ」
「お前が押したんだぞ!」
「ちゃうちゃう、押してへん!たぶん!」
「『たぶん』ってなんだよ!」
笑いながら、肩を叩く。その距離感は、完全に「昔からの知り合い」のそれだった。
「なんかええなあ」
サラがぽつりと言う。
「何が?」
「そういうの。思い出話とかしてるん」
「いや、ほとんど忘れてるけどな」
渡辺が苦笑する。
「でも、なんか残ってるもんだろ」
茉衣子が言う。
「顔とか、名前とか、変なエピソードとか」
「まあ、それはあるかもな」
「だろ?」
二人が自然に会話を続ける。その横で、サラは、気づけば渡辺の方を見ていた。
「啓ちゃんってさ」
サラが言う。
「昔からそんな感じなん?」
「どんな感じ?」
「なんか、すぐ人と仲良くなる感じ」
「いや、そんなことないで」
渡辺は軽く笑う。
「普通や普通」
「普通ちゃうよ」
間髪入れずに返す。
「え?」
「だって、サラとはさっき初めて会ったのに、もう普通にしゃべっとるやん」
「それは……まあ」
少しだけ言葉に詰まる。
「いいことじゃねえか」
茉衣子が横から言う。
「昔からそんな感じだったぞ。こいつ」
「そうなん?」
「うん。気づいたら一緒に遊んでた、みたいな」
「へえ……」
サラが、少しだけ笑う。その視線が、完全に渡辺に固定されている。
――あ。健介は、そこで初めて違和感を拾った。さっきから、ずっと。視線、距離、声のトーン。全部、ほんの少しずつ、同じ方向に寄っている。
――これ、もしかして。まだ確信まではいかない。でも、違和感としては十分だった。
健介が何気なく口を挟む。
「サラちゃん」
「ん?」
「学校、いつからだっけ」
「明日からやで」
「じゃあさ、最初慣れるの大変だぞ」
「そうなん?」
「まあ、久世小は割と少なめな学校だから、人の名前はあんまり覚えないでいいかもしれないけど」
「ふーん……」
相槌は打つが、視線は渡辺から動かない。
――やっぱりな。健介は、コップを口に運びながら、内心でため息をついた。
それからしばらく、那覇の時の先生の名前が思い出せないだの、沖縄と関西、それに九州の方言の話だの、栄久の話だの、渡辺が編入試験を「ごっついお嬢」と二人きりで受験しただの、そのお嬢こと美佳は今このアパートにいるだの、そんな他愛のない話が続いた。その間も、サラは、ちょっとしたことで渡辺に話を振り、渡辺は特に気にせずそれに答え続けた。気づけば、外は少し暗くなり始めていた。
「そろそろ帰るか」
健介が立ち上がる。
「おう」
渡辺も続く。
「もうそんな時間なん?」
サラが少しだけ不満そうに言う。
「明日もあるだろ」
茉衣子が言う。
「また来たらいいじゃねえか」
「……うん」
少しだけ間を置いてから、うなずく。その「間」を、健介は見逃さなかった。
玄関で靴を履きながら。
「またな、啓ちゃん」
サラが言う。
「おう、またな」
渡辺が軽く返す。
その時。ほんの一瞬だけ、サラが何か言いかけて、やめた。
外に出て、数歩。
「……なあ」
健介が言う。
「ん?」
「お前さ」
少し間を置く。
「……あの子に、サラちゃんに気に入られてるぞ」
渡辺は、一瞬きょとんとした。
「は?」
「いや、気づいてなかったのかよ」
「え、いや……」
初めて、明確に言葉に詰まる。さっきまでの軽さが、ほんの少しだけ崩れる。
「……そうなん?」
「そうだよ」
「……マジか」
少しだけ、頬をかく。その反応が、やけに「今さら」だった。
「……あー……」
渡辺が、小さく声を漏らす。今度は、はっきりと。
「……これ、あれか」
「何が」
「……ちょっと、やばいかもしれへんこれ」
「何がだよ」
「いや……なんか……」
言葉にしきれず、苦笑する。その様子を見て、健介は、ようやく少しだけ笑った。
「みんな、色々大変だな。俺はそういうの、当分なさそうだけど」
健介は今の気まずい六組の様子を思い浮かべ、遠い目をする。
「……まあ、がんばれよ」
「お、おう。じゃあな」
健介は自宅である106号室に引っ込んだ。
アネックス久世の建物の外。一人になった途端、渡辺はもう一度つぶやいた。
「マジか、あかんやん」
それは、十一歳の少女から向けられた、まっすぐすぎる、そして幼すぎる恋心だった。
【次回予告】
新入生から見ると、どんなに優しい先輩も、もしかしたら怖く見えるものかもしれませんよ?
という感じです。お楽しみに。
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