第30話 妹の長い一日
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:8〜12%
AI文をベースに改稿:22〜27%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:63〜70%
作者は中高一貫校出身なので、「高校の入学式」の雰囲気を知りません。実は。そんなこと言ったら、「中高の共学校の雰囲気」そのものをよく知らないんですけどね。
正午前。千宥がアネックスに戻ってきたとき、建物の前の空気は、まだざわついたままだった。白いトラックは二台ともそのまま停まっていて、荷台の扉は開け放たれている。黒い作業着の男たちが、無言で出入りを繰り返していた。搬入されていく家具はどれも大きく、質もいい。生活感というより、どこか「整えられた部屋」を丸ごと運び込んでいるような光景だった。
千宥は美佳や健介らと別れ、二階に上り、207号室に入る前に足を止め、ほんの一瞬だけ再度それを見た。
(……本当に来たんだ)
それだけ思う。驚きはもう、さっきの時点で一度済んでいる。むしろ今は、その事実をどう扱うかの方が問題だった。
階段を上がる間にも、頭の中ではいくつかの選択肢が浮かんでは消えていた。
(言うべきか)
すぐに否定する。
(いや……)
今日が何の日かを考えれば、答えは出ていた。
入学式。
しかも二生にとっては、ただの節目ではない。環境も、人間関係も、全部が一からのスタートだ。もともと強い方じゃないメンタルに、余計な揺さぶりをかける意味はない。
(別に、悪いことじゃないし)
美佳と二生は旧知だ。再会が必ずしもマイナスになるわけではない。寧ろ、元々仲は悪くない。それでも。
(今じゃない)
タイミングの問題だと、千宥は判断した。ドアの前に立ち、軽く息を整える。いつも通りに見えるように。鍵を回して、開けた。
「おかえり」
先に声をかけてきたのは鈴蘭だった。キッチンの方から顔を出した。
「ただいま」
千宥は短く返して靴を脱いだ。
リビングの方に目を向けると、二生がソファに座っている。千宥が着ているものと同じ、しかし真新しい制服に着替えた状態で、手元にはまだ何もない。少しだけ背筋が伸びていて、落ち着かないのが見て取れた。
「……どう?」
千宥が声をかける。二生は顔を上げて、少しだけ迷うようにしてから答えた。
「……大丈夫、だと思う」
その言い方に、千宥は小さくうなずく。
「そっか」
それ以上は踏み込まない。踏み込めば、余計に意識させる。
沈黙が少しだけ落ちる。
その空気を切るように、鈴蘭が明るく言った。
「ほらほら、時間もいい感じだしさ。先に軽く食べちゃおうよ。空腹で行くのもなんでしょ?」
「うん……」
二生がうなずく。その反応を見て、千宥は少しだけ肩の力を抜いた。
昼食は簡単なものだった。温めたスープと、軽くつまめるパン。それでも三人で食べると、それなりに「いつも通り」の空気になる。
鈴蘭はカメラをテーブルの端に置いて、何気なくそれをいじっていた。
「ね、これあとでちゃんと撮るからね。校門のとこで。あとは式も撮るからね。この日のために、うちのお父さんの一眼レフ借りたんだから」
「……うん」
二生は少し照れたようにうなずく。
「ほんとはさ、親に見てもらうのって大事だと思うから」
さらっと言ったその言葉に、二生は一瞬だけ目を伏せた。何かを言いかけて、やめる。代わりに、小さく「ありがとう」とだけ言った。鈴蘭はそれに軽く手を振るだけだった。
「気にしなくていいって。あたしがやりたいだけだから」
食事を終え、時計を見ると、もうすぐ十二時半になるところだった。
「そろそろ行かないとね」
千宥が言う。
二生が立ち上がる。制服の裾を一度だけ整えて、深く息を吸った。
「あ、あたしも一緒に出るよ。カメラマンだからね、大役大役」
鈴蘭が続ける。
「……いってきます」
その一言に、ほんの少しだけ力が入っている。千宥はそれを受けて、いつも通りの声で返した。
「いってらっしゃい」
余計なことは言わない。言わないことを、選ぶ。
「ごめん、食器、お願いしていい?」
鈴蘭もそう言い残して家を出た。
「あ、うん、やっとくよ」
玄関のドアが閉まる音がして、部屋の中が静かになる。千宥はその場に少しだけ立ったまま、動かなかった。外ではまだ、搬入の気配が続いている。さっきと同じ音。同じ気配。ただ、さっきよりも、少しだけ現実味を帯びている。
(……帰ってきたら)
その先は考えない。考えたところで、どうするかは変わらない。ただ、タイミングが来るだけだ。千宥はゆっくりと息を吐いて、リビングの方へ戻った。テーブルの上には、さっきまで三人で食べていた名残が、そのまま残っていた。千宥は腕をまくり、食器を洗いはじめた。水の音だけが、やけに静かに響いていた。
外に出ると、さっきまでとは違う空気があった。昼の光が、まっすぐに降りている。春のやわらかさはあるのに、どこか輪郭がはっきりしていて、逃げ場がないような明るさだった。
アネックスの前では、まだ搬入が続いている。白いトラック、開いた荷台、無言で動く作業員たち。異様な光景。しかし、今はそれをじっと見る余裕はなかった。二生は一瞬だけ視線を向けて、すぐに外した。
「……すごいね」
ぽつりとつぶやく。
「ね。あれ結構高級な家具だよ。どんなお金持ちが入るんだろうね」
鈴蘭が応じる。しかし、それだけで会話は途切れて、二人は並んで歩き出した。学校までは五分もかからない。住宅街をかすめて、程なくゆるやかな坂を上る。まがりくねった坂道の先に校門がある。坂道はすでに人が増え始めていた。そして、坂を登り切り校門前に着くと、かなり賑わっていた。同じ制服の生徒と、その家族。笑い声。呼び合う声。足を止めて写真を撮る人たち。二生は、その光景を少し遠くから見た。
(……多い)
当たり前のことを、あらためて思う。知らない顔ばかりだ。知っている人は、いない。足が、ほんの少しだけ重くなる。その横で、鈴蘭がカメラを取り出した。
「はい、ちょっと止まって」
「え、今?」
「今、今。こういうのはタイミングだから」
半ば強引に、二生を立たせる。校門を背にして、位置を調整する。
「ちょっとだけ顔上げて。うん、そのまま」
カシャ、と軽い音が鳴る。
「……どう?」
「いい感じ。ちゃんと『それっぽい顔』してる」
「それっぽいって……」
二生が少しだけ苦笑する。ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
「ほら、行こ。遅れるほどじゃないけど、余裕あるうちに入っといた方がいいでしょ」
「うん」
昇降口をくぐると、空気が少し変わる。外のざわめきよりも、内側のざわつき。靴を履き替える音、名前を呼ぶ声、どこか落ち着かない気配。二生はクラス分けの掲示を確認し、自分のクラスを探す。名前の列を目で追っていく。
一年二組の下から二番目。そこに「杠二生」の名前があった。
(……あった)
ほんの少しだけ、安堵する。教室の場所を確認して、廊下を歩く。すれ違う生徒たちは、どこか似たような顔をしていた。緊張と、期待と、ほんの少しの浮つき。教室の前で一度だけ立ち止まる。深く息を吸って、吐く。扉を開けた。中は、まだ完全には埋まっていなかった。ちらほらと席に着いている生徒。立ったまま話しているグループ。静かに座っている人もいる。
二生は一瞬だけ視線を巡らせてから、自分の席を探した。窓側、後ろから二番目。そこに向かって歩き、鞄を置いて、座る。背筋を伸ばす。
やることが、ない。周りの声が、遠く聞こえる。笑い声。名前を呼び合う声。もう知り合っているような距離の会話。二生は、手元に視線を落とした。指先が、わずかに固まっている。何かをするわけでもなく、そのまま時間が過ぎていく。
教室がゆっくりと埋まっていく。人が増えるにつれて、声の密度が上がる。ところどころで固まりを作っていく。同じ中学校から、もしかしたら同じ塾とかもあるかもしれない。二生は、席に座ったままそれを見ていた。窓の外に視線を逃がしてみる。廊下を通る新入生たちがちらほら見えるぐらいで、特に何があるわけでもない。それでも、教室の中を見るよりは落ち着いた。やることが、ない。鞄の中に手を入れて、すぐにやめる。取り出すものも、特にない。視線を落とす。そのときだった。
「ねえ」
後ろから、軽い声がした。二生は少しだけ肩を揺らして、振り向く。後ろの席の女子が、身を乗り出すようにしてこちらを見ていた。ぱっと見て分かるくらい、表情が明るい。目が合うと、そのままにっと笑った。
「さっきから一人だよね?」
悪気のない言い方だった。事実をそのまま言っているだけ、という感じの。二生は一瞬だけ言葉に詰まって、それから小さくうなずいた。
「……うん」
「やっぱり。だよね」
納得したように頷く。
「ね、名前なんて読むの?」
机に置かれていたプリントに書かれた名前を指さし尋ねた。
二生はほんの少しだけ迷ってから答えた。
「……ゆずりはつぐみ」
「へえ、それでつぐみって読むんだ!面白いね!」
ぱっと顔が明るくなる。
「私もね、ちょっと変わってるんだ。私、『わかすぎかあや』。よろしくね」
勢いのまま名乗る。「若杉果文」と書いた書類を手に持って掲げる。
二生は少し遅れて、もう一度うなずいた。
「……よろしく」
「二生。いいね、かわいい」
その言い方に、変に飾ったところはなかった。ただ思ったことをそのまま口にしているだけ、という感じだった。二生は一瞬だけ言葉に詰まって、それから小さく目を伏せる。
「……ありがとう」
少しだけ、声がやわらぐ。
「ねえ、苗字もさ、ちょっと難しいよね」
果文が机の上の書類に記された「杠二生」の文字を覗き込むようにして言う。
「その漢字、初めて見たかも」
「……うん、よく言われる」
「だよね。絶対一発じゃ読めない」
そう言って、けらけらと笑う。悪意はない。からかっているわけでもない。ただ、そのまま面白がっているだけだ。その軽さが、かえって楽だった。
「でさ、二生ってどこ中?」
間を置かずに続く。
「この辺じゃないよね?」
「……うん」
二生は小さくうなずく。
「実は、福岡で……」
「へえー」
果文はそれ以上は踏み込まなかった。
「じゃあさ、知り合いとかいない感じ?」
「……うん」
「そっか」
一度だけ頷く。それから、ぱっと表情を上げた。
「じゃあ今から知り合いだね」
あっさりと言う。まるで、それが当たり前みたいに。二生は一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ笑った。
「……うん」
さっきよりも、少しだけ自然に返せた。
「ていうかさ、席近いしさ」
果文が机に肘をつきながら言う。
「これから多分めっちゃ関わるじゃん?」
「……そうだね」
「じゃあもう友達でよくない?」
軽い調子で言う。宣言というより、確認に近い言い方だった。二生は一瞬だけ考えて、それから小さくうなずく。
「……うん」
「よし、決まり」
満足そうに笑う。教室のざわめきは、相変わらず続いている。でも、その音の感じ方が少しだけ変わっていた。さっきまでは遠くにあったものが、今は少しだけ輪郭を持って聞こえる。後ろから聞こえる声が、その中心になっている。
「二生ってさ、部活とか決めてる?」
「……まだ」
「だよねー、最初は悩むよね」
次の話題が自然に続く。途切れない。無理もない。その流れの中に、自分も入っている。ほんの少しだけ。ここにいてもいいと思えた。
入学式の前に、ホームルームがあると聞いている。チャイムが鳴り、ガラ、と扉が開く音がした。
「え、あ、えっと……」
小さな声が、教室に入ってくる。二生は思わずそちらを見る。入ってきたのは、小柄な女性だった。背は低く、顔立ちもどこか幼い。スーツを着ていなければ、教師どころか、小学生が迷い込んだ、とも思える状況だ。その人が、教卓の前で一度立ち止まった。手に持っていた出席簿を、少しだけ持ち直す。
「……あ、あの、みなさん、席についてください」
声が少しだけ上ずっていた。すでにほとんど座っているのに、ついそう言ってしまったような言い方だった。教室の中に、小さく笑いが漏れる。
「あ……す、すみません」
慌てて頭を下げる。その様子に、今度はさっきよりも少しだけ柔らかい空気が広がった。
「えっと……一年二組の担任になります、きたむか……」
噛んでしまった。
「えーと……き、北御門、結唯、です」
言い直す。今度はしっかり言えた。それでも、どこかぎこちない。そのまま回れ右をして、「北御門結唯」とやや丸みを帯びた筆跡で黒板に記し、名前の横にルビを振る。
「今年が、担任は初めてで……」
そこまで言って、はっとしたように口をつぐむ。ゆいは昨年度、一年生を中心に教科担当としての業務をしており、赴任二年目で念願のクラス担任となったのだ。
「あ、いえ、その……」
何か言い直そうとして、結局うまく言葉が出てこない。少しだけ沈黙が落ちる。
「……あの、がんばりますので、よろしくお願いします」
結局、そうまとめた。ぺこりと頭を下げる。その一言が、いちばんまっすぐだった。教室の空気が、少しだけ緩む。さっきまでの緊張とは違う種類のものだった。構えなくていい、というような。二生は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。先生が緊張しているのを見るのは、少し不思議な感じがした。でも、その分だけ、こちらの緊張も少しだけ和らぐ。
「えっと……このあと入学式になるので、出席だけ取りますね」
ゆいは出席簿を開く。指先がほんの少しだけ震えているのが見えた。名前が、一人ずつ呼ばれていく。淡々とした作業のはずなのに、どこか慎重で、丁寧だった。呼び間違えないように、一つ一つ確かめるように。
「……杠、二生さん」
一瞬だけ、間があった。読み方を確認するような間。
「……はい」
二生は少しだけ遅れて返事をする。ゆいは小さくうなずいて、最後、果文の名を呼んだ。
それだけのやり取りだった。でも、なぜか少しだけ印象に残った。出席確認が終わると、簡単な注意事項だけが伝えられる。その内容自体は特別なものではなかったが、言葉の一つ一つが、どこか慎重だった。噛まないように。間違えないように。それでも、ところどころで小さく言い直す。その様子を見て、教室の空気は、少しずつ和らいでいった。最初に感じていた張り詰めた感じは、いつの間にか薄れている。やがて、ホームルームは終わった。
「……えっと、じゃあ、入学式、行きましょう」
そう言って、ゆいはもう一度だけ頭を下げた。その背中を見ながら、二生は思う。自分だけじゃない。ここにいる全員が、初めてなのだと。
入学式は特につつがなく進んだ。ただ、鈴蘭が身を乗り出さんばかりの勢いで写真を撮っているのは少々恥ずかしかった。ただでさえ保護者にしては若いので、目立つ。さらに、鈴蘭自身がここのOGなだけに、彼女を知っている職員も多く、知っている先生に手を振ってもいた。式が始まると落ち着いたが、ちょっとそれまでは恥ずかしかった。しかし、それを過ぎると、ただただ何もなく進んでいくのだ。そして、気づいたら終わっていた。
その後にあったホームルームも、あっけないほど淡々と進んだ。主なイベントは、一通りクラスメイトの自己紹介だ。正直、三十人以上の名前を聞いても、覚えきれていないと思う。さすがに果文のことはもう覚えたが。何せ、元々の知り合いが多少なりともいる周囲の生徒と違い、ゼロベースのスタートなのだ。顔と名前が一致するようになるには、時間がかかるだろう。二生は、自分自身の出番は非常に緊張した。自分でも何を言ったかよく覚えていない。ただ、実際のところ、名前と、「福岡から来たので、まだ知り合いがいません」ぐらいしか言わなかったし、人から見て、特におかしいことがあったわけでもない。
それが終わると、今後の行事予定や翌日以降の授業の説明。配布物の確認。どれも「最初の日にやること」として決まっているものを、順番にこなしていくだけだった。そして、三時過ぎ。気がつけば、終わっていた。
「終わったねー」
後ろから、果文の声がする。二生が振り向く。
「なんか思ってたよりあっさりじゃなかった?」
「……うん」
「もっとこう、イベント感あるのかと思ってた」
「わかる。ちょっと拍子抜け」
自然に会話が続く。さっきまでのぎこちなさが、少しだけ薄れているのが分かる。
「ねえ、このあとどうする?」
果文が聞く。
「もう帰る感じ?」
「……たぶん」
二生が答える。
「今日そんなにやることなさそうだし」
「だよねー」
果文は椅子から立ち上がって、軽く伸びをした。
「じゃあさ、一緒に出よ」
あっさりと言う。
「……うん」
今度は、迷わずうなずけた。
教室の中は、一斉に動き始めていた。鞄をまとめる音。椅子を引く音。友達同士で声をかけ合う声。二生もそれに混ざって、鞄を肩にかける。果文はすでに準備を終えていて、軽く廊下の方を見ていた。
「混む前に出よっか」
「うん」
廊下に出ると、人の流れができていた。同じ制服の生徒たちが、同じ方向にゆっくりと進んでいく。その中に入る。さっきまではただの「他人の集まり」だったものに、今は自分も含まれている。それだけのことなのに、少しだけ感覚が違った。
「二生、帰りはバス?」
果文が聞く。
「ううん、歩き」
二生が首を振る。
「あ、私もなんだ。結構近くなんだね。どの辺?私は春若駅の近く……って来たばっかりだからわかんないか」
「……うん」
二生は苦笑する。
「で、二生は?」
「私は……久世三丁目」
学校そのものも久世二丁目であるため、ちょっと土地勘があれば、近所であることはわかる。
「久世かあ。ならもう、すぐそこだね。いいなあ。私、二十分ぐらいかかるから、近くなの、うらやましいよ」
昇降口に近づくにつれて、声のトーンが変わっていく。教室の中よりも少しだけ自由な声。その中に、ほんのわずかなざわめきが混じっていた。
「ねえ、あれ……」
「うそ、ほんとだ」
「うちの学校なんだ」
小さな声が、断片的に耳に入る。二生は一瞬だけ周囲を見る。特に何かが起きているようには見えない。ただ、人の視線が一方向に少しだけ流れている気がした。
「……?」
分からないまま、視線を戻す。果文はそれに気づいた様子もなく、そのまま前を見ていた。少しだけ歩いたところで、果文がふと顔を上げた。
「あ、しろこ」
軽い声で呼ぶ。その呼び方が、あまりにも自然だった。呼ばれた方が、ゆっくりと振り向く。肩までかかるウェーブのかかったロングヘアが非常にきれいな女子だった。派手ではないが、整った印象の顔立ち。どこか落ち着いた空気をまとっている。二生は、先ほど自己紹介したクラスメイトの中にいたことはなんとなく覚えている。その時点では三十人分の情報が一気に入ってきたため分からなかったが、こうやって単独で見ると、なんとなくオーラが違う。
「おつかれ」
果文が手を軽く上げる。
「おつかれ」
返ってくる声は、穏やかだった。必要以上に明るくもなく、低すぎもしない。
「そういや、今日は来られたんだね」
「うん。高校に慣れるまで仕事セーブしてもらえることになったから……」
「おー、じゃあしばらく一緒にいられるね」
「仕事」とやらのことはよくわからないが、この親しげな話し方、二生はこの二人がもともとの友人なのだと、自然に理解できた。
「この子も二組なんだよ。前の席で、仲良くなったの」
二生は一瞬だけ迷ってから、小さく会釈する。
「……杠、二生です」
名前を言う。それで十分だと思った。相手の女子は、ほんの少しだけ目を細めて、こちらを見た。
「城宏子です」
短く名乗る。それ以上は言わない。でも、それで距離ができるわけでもなかった。
「……よろしく」
二生が言うと、宏子は小さくうなずいた。
「うん、よろしく」
「しろこって呼ぶといいよ」
果文が口を挟む。
「しろこ?」
「うん、『城』ってお城の『城』でさ、名前も『ひろこ』だから、中学でもそう呼ばれてたの。あ、しろこ、松学で一緒だったの」
「松学」が出身中学であることはなんとなく二生にも分かった。
周りの視線が、まだ少しだけ残っている。さっきのざわめきの正体が、ようやく分かる。でも、それが何なのかまでは、分からない。分からないままでも、別に困ることはなかった。
「二生、帰り一緒なんだよね」
果文が言う。
「そうなの?」
宏子が、こちらを見る。
「……うん、途中まで」
「そっか、歩きなんだね。私、迎えが来るから」
それだけ言って、少しだけ間があく。無理に会話を繋げようとはしない。でも、居心地が悪いわけでもない。
「そっか。じゃあ、迎え来るまでダベる?」
「二生ちゃんもいるんだから、あんまり巻き込まないの」
「あ、ううん、私、すぐそこだから……」
二生が首を横に振る。しかし――
「あ、ごめん、もう迎え来たみたい」
「そっか。明日も来るんだよね?」
果文が聞く。
「しばらくは大丈夫だってば。じゃあね、果文、二生ちゃん」
「うん、バイバイ!」
「……じゃあね」
宏子を乗せた黒いアウディが走り去っていった。
「しろこね、タレントさんなんだ」
「え、タレント?」
「そそ、高宮でCMとかめっちゃ出てるんだよ。去年は、高宮で撮ったドラマで全国ネットにもデビューしたんだから」
「そ、そうなんだ」
正直なところ、知らない。しかし、果文も二生の反応で察したようだ。
「そっか。でも、そんな大きい役じゃなかったしね。CMも多分福岡ではやってないんじゃないかな」
「う、うん。でも、これから見るんだよね……?」
二生は苦笑する。身内にもっと知名度のあるタレントがいる分、ちょっと反応しづらかった。
校門を出て、ゆるやかな下り坂に入る。来るときは少しだけ長く感じた道が、帰りは短く感じた。
隣で誰かが話しているからかもしれない。
「ていうかさ、二生の方がびっくりだよ」
「……?」
「福岡から来てるとか、普通にすごくない?」
「そうかな……」
「だってさ、知らないとこに一人で来るんだよ?無理無理、私だったら絶対無理」
大げさに首を振る。
「……別に、私が行きたいって言ったわけじゃないし。それに、姉とかと三人暮らしだから」
二生は少しだけ視線を落とす。
「そっか。お姉ちゃんもこの学校?」
「う、うん」
千宥は女装していることでもう有名である。いずれこの学年にも知られることだろう。今、つい「姉」と言ったことを、それでよかったのか自問自答する。ただ、果文はまだそれを知らない。なぜか奥歯に物が挟まったような顔をする二生を怪訝そうに見ていた。しかし、すぐに別の話題に移る。
「でもさ、こうやって普通に話せてるじゃん。全然大丈夫だよ」
軽く言う。励ましている、というよりは、事実をそのまま並べている感じだった。二生は一瞬だけ考えて、それから小さくうなずいた。
「……うん」
少し歩くと、道が分かれる。
「私こっちだから」
果文が立ち止まり、左を指さす。
「二生は?」
「右。あそこに見えるアパート」
アネックスは実は、坂を下りたところの交差点から辛うじて視認できる。
「そっか。ほんとに近くなんだね。じゃあまた明日ね」
手を軽く振る。
「明日から、がんばろうね!」
「……うん」
二生も小さく手を上げた。
「じゃあね」
「バイバイ!」
果文はそのまま駆けるように曲がっていった。一人になる。さっきまで隣にあった声が、ふっと消える。それでも、不思議と静かすぎる感じはしなかった。歩きながら、さっきのことを少しだけ思い返す。教室での会話。果文の明るさ。宏子の落ち着いた声。どちらも、まだはっきりとは掴めていない。でも。完全に知らない場所、という感じではなくなっていた。
アネックスの敷地に入る。行きがけ、大層目立つトラックが停まっていたが、もう引き払ったようだ。平日で、空いている駐車スペースが多いからか、なんだか、がらんとしている。二生は歩く速度を少しだけ落とした。ほんのわずかに、息を整える。その先に何があるのか、分かっているわけではない。でも。朝とは、少しだけ違う自分がいる気がした。それだけで、足は止まらなかった。階段を上がる足音が、やけに響いた。二階の廊下は、昼間の光がそのまま差し込んでいて、静かだった。ついさっきまで学校にいたせいか、その静けさが少しだけ現実感を欠いている。207号室の前で、二生は一度だけ足を止めた。鞄に入れていたスマホが震える。茉衣子からの連絡だった。
『悪い、ちょっと今日遊びに行くの、なしにしようぜ。思いのほか遅くなったみたいだしさ。あと、つぐみさ、今日はなるべく早く帰ったがいいよ』
どういうことだろうか?まあ、もう家の前ではあるが。ひとまず、簡単に返信する。
『ありがとうございます。大丈夫です、また誘ってください』
秒で『またね!』のスタンプ。よし、あとは帰るだけだ。ただ、ほんのわずかに息を整える。それから、ドアノブに手をかけた。
開けた瞬間、空気が違った。生活の匂いの中に、わずかに混じる、知らない匂い。リビングの方から、人の気配がする。そして、靴が三足、この数日よく見た千宥と鈴蘭の靴と、もう一足、知らない靴。誰か来ている?
「……ただいま」
少しだけ間を置いて、そう言った。
「おかえりー」
先に返ってきたのは鈴蘭の声だった。そのままリビングに足を踏み入れる。
テーブルの向こうに、二人いた。一人は千宥。もう一人――その姿を見た瞬間、二生の足が止まる。相手も、同じようにこちらを見ていた。時間が、ほんの一瞬だけ止まる。鈴蘭はその脇に立っていた。
「あら、二生ちゃん。おかえりなさい」
先に声を出したのは、向こうだった。聞き覚えのある声。そして、エレガントなその姿。間違いようがない。二生の喉が、わずかに詰まる。
「……美佳さん?」
名前が、遅れて出る。その瞬間、空気が一気に動いた。
「いや、この子が例のフィアンセなんだね、千宥の。私、初めて会ったんだけど、びっくりしたよ」
既に経緯を聞いたらしい鈴蘭が苦笑する。二人の間を、交互に見る。美佳は一度だけ二生を見て、それから少しだけ笑った。
「お久しぶりね」
短く言う。その言い方は、どこかあっさりしていた。でも、距離があるわけではない。二生は、ほんの少しだけ戸惑って、それから小さくうなずく。
「……お久しぶりです」
声が、わずかに遅れる。
「二生ちゃんもこの学校に入ったのね。前に千宥さんに会いに来た時にはいなかったから、千宥さんに聞いてびっくりしたわ」
美佳がにこやかに笑う。
「……はい」
約二年ぶりに再会した、自分とは桁違いの令嬢に、二生は目が泳ぎまくっている。沈黙が、少しだけ落ちる。二生は立ったまま、どう動いていいか分からない。視線の置き場に困る。そもそも東京に住んでいると思っていた美佳がなぜ高宮にいるのか?許嫁として千宥を慕っていたはずなのに、いつ女装を知ったのか?そしてそのことを受け入れているのか?など、色々疑問はある。
「い、いつからいたんですか?」
なのに、あまりに動揺しすぎた結果、出た質問はそれだった。千宥はわずかに視線を逸らした。
「あら、さっき来たばかりよ」
そして、美佳は聞かれた質問に素直に回答した。二生の目の泳ぎが世界新記録レベルとなってきた。千宥は何も言わず、少々気まずそうに、二人のやり取りを見ている。そんな空気を、鈴蘭が軽く切った。
「ていうかさ、私ともはじめましてなんだよね」
「はい。これからご挨拶差し上げるところでしたわ。遅くなりまして申し訳ございません」
美佳は深々とお辞儀をする。
「いいっていいって。すごいな。千宥の実家が庶民に見えるほどのお嬢様って聞いたけど、すごいね。でも、あたしにはそんな畏まることはないよ。あ、あたし、田中丸鈴蘭。千宥たちの従姉で、今はこの子たちの保護者的ポジションです。よろしくね」
美佳は視線をそちらに向けて、軽く会釈した。
「新宮領美佳と申します。何かとお世話になるかと存じますわ。よろしくお願いいたします」
「今日、引っ越してきたんだよね?」
鈴蘭が続けて質問する。
「はい。先ほどようやく終わりましたの」
「だよね、さっきまでトラックいたし」
会話は普通に進んでいく。あのトラック、美佳さんだったんだ。
「二生、学校どうだった?」
鈴蘭が今度は二生に振る。
「……大丈夫」
短く答える。
「先生は、どんな人?」
「なんかちっちゃくて、……でも、真面目そうな人」
「もしかして、……ゆいちゃんじゃない?」
鈴蘭も、いわゆる「三姉ズ」とは面識がある。
「う、うん。北御門ゆい先生」
「そっか……。ゆい先生、担任になったんだ」
さっきまで黙っていた千宥が感慨深そうに口を挟む。そのやり取りを、美佳が静かに聞いていた。
「ゆい先生、真面目でいい先生だから。しっかり言うこと聞くようにね。で、……あ、あのね、美佳ちゃん」
千宥が急遽話題を変えた。
「なあに?千宥さん」
「あの、で、今日はなぜうちに来たの?」
「あら、千宥さんも今はご親戚の方にお世話になっていると聞いたから、ご挨拶に参っただけよ?そう、えっと、ひまわりさん……?」
四文字の花であることしか合っていない。美佳はやはり人の名前を覚えるのが苦手だ。
「……鈴蘭さんね」
「そう、鈴蘭さんにご挨拶をして。いい方でよかったわ。千宥さんのことをよく思っていらっしゃっていると伺っていたけど、一目見て安心したわ」
「あはは、褒めても何も出ないよ」
鈴蘭が明るく言う。この場の空気が何故か重くなりがちなので、努めて明るく振る舞う。
「でも、まさか二生ちゃんまで来たのはびっくりしたわ。さっき千宥さんから聞いたところだったのよ」
「は、はい。父に言われて。でも、あね……兄と一緒に暮らせるのはとても嬉しいです」
美佳の手前、兄と言い直した。
「うふふ。二生ちゃん。今は千宥さんのこと、『お姉ちゃん』って呼んでるんじゃなくて?千宥さんに聞いたわ」
「あ……」
気を遣ったつもりだったが、もうそこは了解済みだった。いや、その前提だと、二生にはとても引っかかることがある。
「あの、その、そのことがとても気になってて……」
「何かしら?」
「あの、『姉』のこと、どこまで知ってるんですか?」
「そうねえ。思うところがあって……それ自体は詳しく聞いていないけど、女性の姿で生活していることは知っているわ。去年の十月だったかしら。急に訪ねたら、もうびっくり。でも、私なりに色々考えて、女の子になっても千宥さんを愛することに決めたの」
熱く語る美佳。そして、千宥は額を押さえている。さっき、二生の話になった時に穏やかになった表情が、別人のように曇る。
「そ、そうなんですか。あの、ここに引っ越したんですか?」
「そう、今日からここの301に住むのよ」
やはり、さっきの会話から察していたが、ここに引っ越したのだ。しかし、引っかかることはまだいくつもある。
「え……学校は?」
「転入したわ。栄久高校に。なので、今日から二生ちゃんは私の後輩ね」
「そ、そうなんですか……?」
二生は、美佳と千宥を見回す。千宥は、こっち見ないで、とばかりに顔をそらす。沈黙が落ちる。二生は、どうしていいか分からず、ただその場に立っていた。つっ立っているだけだが、どうにも落ち着かない。
「……あのさ」
先に口を開いたのは、鈴蘭だった。わざと少しだけ軽い声を出す。
「とりあえず座ろう?立ち話する内容じゃなくない?」
空気を切るように言う。
「……うん」
二生もようやく動いて、ソファに座った。空いていた美佳の隣だ。
「で?」
鈴蘭が腕を組む。
「つまり、今日からここの三階に住んでて、同じ学校で、しかも知り合いで、なおかつ——」
ちらっと千宥を見る。
「……いろいろある、ってことね?」
雑にまとめる。
「ええ、そういうことになりますわね」
美佳が微笑む。まったく動じていない。
「いやー、情報量多いって」
鈴蘭が笑う。
「ちょっと整理させて」
そう言って、指を折る。
「まず、美佳ちゃんは301に引っ越してきました」
「ええ」
「で、栄久に転入してきました。クラスも一緒です」
「はい」
「で、千宥の——」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……フィアンセ、でいいの?」
「はい」
迷いなく、美佳は答えた。間を置かない。当然のことのように。
「強いなあ……」
鈴蘭が天井を見上げる。
「ねえ、千宥」
そのまま視線だけを向ける。
「これ、どうすんの?」
「……知らない」
千宥は即答した。完全に投げた声だった。
「知らないって何よ」
「だって……」
言いかけて、言葉を飲み込み、小さく息を吐く。そのまま、視線を逸らす。そのやり取りを見て。二生は、おろおろする。美佳がここにいる理由は、まだあまり理解できていない。でも、少なくとも、自分だけが分かっていないわけではないらしい。
単純に、空気が悪い。鈴蘭はニコニコしているし、美佳は飄々としている。その反面、千宥はなかば思い詰めたような顔をしている。どうしよう、何か雰囲気を変えたい。
「……あの」
小さく、二生が口を開く。三人の視線が、こちらに向く。一瞬だけたじろぐ。それでも、続ける。
「今日、学校で……友達、できました」
きっと、唐突だったと思う。話下手だな、私。でも、私の話をしたらお姉ちゃんは落ち着く。そう思って言葉を絞り出した。
「え、いいじゃん」
鈴蘭がすぐに反応する。
「早くない?」
「……二人、だけど」
「十分でしょ」
鈴蘭はあっさり言う。
「どんな子?」
美佳が興味を持ったように聞く。
「……えっと」
二生は少しだけ考えてから、
「明るい子と……あと、ちょっと大人な子」
そう答えた。
「いいじゃない」
美佳がうなずく。
「バランスが取れていて」
「何、その評価」
鈴蘭が笑う。
「私も、お友達をもっとつくらないとね。でも、まずは、このアパートの皆さんから知っていかないと。まだ名前覚えてないの」
美佳がさらりと言う。
「いや、それはさすがに覚えてあげて」
千宥が苦笑する。
「美佳ちゃん。あの黒ギャルは?」
鈴蘭が抜き打ちクイズを始めた。
「えっと、マリコ……いえマミコさん」
「茉衣子ちゃんね。じゃあ、そうだな、あのチャラ男は?」
「シン……」
「そうそう」
「シンジさん?」
「あー……。慎吾ちゃんね。ちょっとかかりそうだな、これは」
鈴蘭が苦笑する。
「毎日会ったら覚えるよ、きっと」
千宥がフォローした。
「そうね。努力するわ」
あっさりと頷く。少なくとも本人はそのつもりらしい。
「ていうか、もう荷物は片付いたの?」
鈴蘭が聞く。
「はい、おおよそ一通りは」
「早いね」
「使用人に任せておりますから」
当たり前のように言う。
「しよ……」
鈴蘭が一瞬言葉を失う。
「いやー、お嬢様って感じだなあ。現実でこんな言葉を聞くとは思わなかったよ」
鈴蘭が驚く。
「相変わらずだね、美佳ちゃん。東京から来たんだよね?その使用人の人たちはもう帰るの?」
今度は千宥が聞く。
「ええ。でも、いつも私についている者を一人だけ残すことにしてて」
「あー、山崎さんだったっけ?」
千宥は、山崎貴文とは十一月にも会っている。
「ええ」
「そっか。山崎さんと二人暮らしに」
「そうよ」
「ふーん……?」
納得していない顔で、千宥は天井を見た。使用人と令嬢のアパート暮らし。千宥は状況がつかめなさすぎて頭を抱えた。
「……あの」
一度だけ息を整えてから、二生が口を開く。三人の視線が向く。
「引っ越し、大変じゃなかったですか」
さっきとは違う種類の言葉だった。少しだけ落ち着いた声。
「そうね」
美佳は少しだけ考えてから答える。
「移動自体は大変じゃなかったけど」
やったのは使用人だから、というのは改めて口には出さなかった。そして、一拍置く。
「決めるのは、少しだけ時間がかかったかしら」
穏やかに言う。何を、とは言わない。でも、それだけで十分だった。
「そっか」
鈴蘭が軽く頷く。
「まあでも、無事来れたならよかったじゃん」
「ええ」
美佳は微笑む。少しだけ、空気が落ち着く。さっきまでの張り詰めた感じが、少しだけ和らいでいた。
「じゃあ、そろそろ失礼するわね。まだ片付けも残っているし」
少しだけ肩をすくめる。
「自分でやる分もあるから」
「お、もう行く?」
鈴蘭が言う。
「はい。何かとお世話になるかと存じますが」
深々と頭を下げる。
「いいっていいって。千宥を大事にしてくれるなら、歓迎するよ」
軽い調子で返す。
「二生ちゃん」
美佳がこちらを見る。
「またゆっくりお話ししましょうね」
やわらかく言う。逃げ場のない優しさではなく、距離を保ったままの言い方だった。
「……はい」
二生は小さくうなずく。
「千宥さんも」
ちらりと視線を向ける。
「また後で」
「……うん」
短く返す。それ以上は何も言わない。千宥の返事を確認すると美佳は立ち上がった。玄関の方へ向かう足音。ドアが開いて、閉まる。それだけで、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
「……濃い一日だったね」
鈴蘭がぽつりと言う。
「頭が追い付かないよ」
千宥は、いつもの空間に戻ったところで、改めて動揺してきたようだ。ついさっきまでのことが、まだ整理しきれていない。でも。少なくとも、一つだけ分かっていることがある。この場所は、もう「何もない場所」ではない。
「二生も、ね。一大イベントが終わった後でね」
鈴蘭が頭を軽くたたいた。
「うん。……美佳さん、すごいね」
呆然としつつ二生が漏らす。
会話が、少しだけ日常に戻る。完全ではないけれど、さっきよりもずっと軽い。その流れの中で。二生は、ほんの少しだけ息をついた。朝とは、確実に違う一日だった。でも。それでも、なんとかここにいることはできている。そのことだけは、確かだった。
【次回予告】
もう一人の転校生、渡辺と隣になった健介。健介は「転校生引き寄せ体質」らしい(なんのこっちゃ)。そして、アネックスに、もう一人新たな住人が……?
という感じです。お楽しみに。
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