第29話 恋い慕う令嬢の実力行使
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:5~10%
AI文をベースに改稿:35~40%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:50~60%
千宥の「解決策」である、「トイレに行かない」は、健康上おすすめできない行為ですが、実のところ、第21~24話で言及した、作者の旧友のMtF当事者の実話です。朝から夕方までトイレに行かないあいつのことが心底不憫でした。この時期には「見た目は女子だけど名前から男と分かる」一番微妙な頃でしたからね。
杠千宥は朝からトイレに篭っていた。今日から春若栄久高校の二年生。そんなに胃腸は弱い方ではないが、こんな大事な日の朝に限ってお腹が痛い。時刻は八時七分。いつもなら登校を終えている時間だが、始業式で朝自習がないため、八時半のホームルームに間に合えばよい。そこだけは不幸中の幸いだ。ここから家の階段を降り、通称「栄久坂」をのぼり、学校の下駄箱から教室に向かうまでを加味しても十分あれば到着するため、まだまだ間に合いはする。だけど、もう完全に「出し切る」までは動けない。
なぜなら、今日は始業式のみであるため、三時間ほどしか学校にいないが、その間にトイレに行かないようにするためである。
女子の制服で通学し、早一年。そうはいっても男子生徒として登録され、女性ホルモンで体つきはもうほぼ女性になったとはいえ、生物学的には男性。そんな千宥が、春若栄久高校で平穏無事に過ごすために自分に課しているルール。それは、トイレに行かないことだった。
職員用トイレ(ただし男性用)の使用許可は入学時に下りている。別に、千宥が希望したわけではなく、学校側の配慮だ。しかし、そこでも男性職員とは鉢合わせかねない。なので、使っていない。
どうしてもの時、創立時から辛うじて残る、第一体育館横のほぼ誰も使わない男女共用トイレを使用することもあるが、距離が遠いため、常用はしておらず、同様の状態に陥った時に片手で足りるくらい使用したのみだ。
尿意の我慢はずいぶん得意になった。膀胱容量は非常に自信がある。だけど、腹痛は非常につらい。これに抗う術は今のところ身に着けていない。
さて、八時十一分、ようやく落ち着いた気がする。今から歯を磨けば間に合う。
「よし」
千宥はショーツを上げ、トイレを流し、洗面所に駆け込み、手を洗ったのちに急いで歯を磨く。
「千宥、大丈夫?」
十歳上の従姉で保護者の田中丸鈴蘭が声をかける。
「大丈夫。もう行くから。急がないとね」
「お姉ちゃん、無理しないでね」
「平気だよ。二生も始業式だから、しっかり準備してね」
妹の二生にも声をかける。手早く歯磨きをすませ、家を出たのは八時十六分のことである。まだいける。
「行ってきます」
家を飛び出し、坂を駆け上った千宥が校門をくぐったのは、八時二十五分の予鈴が鳴り終わった頃だった。
「杠、珍しいな。こんな時間に。急いで入れよ」
体育教諭の深町が声をかける。
「すいません」
息を切らして返事をする。女性ホルモンを開始し九か月。元々ない体力がさらに落ちた気がする。そろそろ、男子と一緒に受けている体育の授業も限界だろうか。もう、学校にも相談するしかないだろうか。それこそ深町も関わるだろう。そんなことを考えつつ、掲示されているクラス分けの名簿に駆け寄った。もう人もまばらだ。二年生の名簿を見る。
千宥は文系を選択した。この学校はだいたい九クラスであり、二年生以降はおおむね一から五組が文系となる傾向がある。千宥は中央から左半分の名簿を見る。そして、「杠」という苗字は、五十音順にすると相当後ろの方だ。何回か、一番後ろの経験もあるほどだ。なので、最初から下の方しか見ない。誰が同じクラスなどを確認する余裕は、今の千宥にはない。一組から見て、ようやく真ん中の列の下から三番目に名前があった。ぐっと一気に一番上に目線を上げ、クラス番号を確認する。
「五組」
千宥はそう口に出すと、急いで下駄箱まで駆けだした。時計は見ていないが、感覚でわかる。もう余裕はない。誰が一緒のクラスだかはまだわからない。
そして、二年生の下駄箱に到着した。「2-5」と書かれたプレートと、「2-6」のちょうど中間ぐらい。そこに「31.杠千宥」と書かれた下駄箱を見つけた。どうやら、三十三人中三十一番目らしい。靴を置いて、持参した上履きを鞄から出すと、三階の教室まで駆けていった。そして、二年五組の教室にたどり着いた。時計は確認していないが、大方八時二十九分は回っただろう。
そして、教室のドアに掲示された座席表を確認した。担任がどれぐらいに一度席替えをするかはわからないが、最初は出席番号順だろう。経験上、ほぼ確実に、廊下側だ。百歩譲って窓側はあるにしても、中央の列はあるまい。廊下側の列の後ろから三番目。……ビンゴ。「杠」とある。既に知っている関係者の方が多いだろうに、難読ゆえかご丁寧に「ゆずりは」とルビまで振ってある。
千宥が席につこうとすると、茉衣子と玉井がいた。同じクラスだったんだ。喜ばしいはずなのに、二人とも妙に硬い顔をしている。
「おはよう。また同じクラスだね。……どうしたの?」
「おう、千宥。美佳がさ……」
「美佳ちゃん?」
何のことだかわからない。茉衣子は言葉を探しているようだったが、ほどなくチャイムが鳴る。
「……後で聞くわ。じゃ」
茉衣子たちは逃げるように自分の席へと戻った。何かを言いそびれたような顔だった。
教室の扉が開くと、千宥と同じ制服を着た女性が二名入室した。手前は、榊原妙子。どうやら今年も千宥の担任になったらしい。妙子の後ろをついてくる女性に目をやった。
「えっ」
千宥は思わず声が出てしまった。隣に座る宮本という女子生徒が一瞬怪訝な顔をした。美佳ちゃん……!茉衣子が美佳の話をしたのは、そういうことだった。今日、急いでいて、クラス全員を確認する暇がなかった。新年度からの編入となると、普通に五十音順に並んでいるであろうから、恐らく五十音順に並べると上半分の「新宮領」は見落とすだろう。でも、茉衣子たちは知っていた。なるほど、そういうことか……いやいや、そんな問題ではない。
「なんで……?」
千宥は周囲の生徒にも聞こえないぐらいの声でつぶやいた。なぜここに?――いや、それは転校してきたのだろう。今、この場で妙子とともに入室したのは、自己紹介タイムということだろう。でも、私も聞いていないんだけど?というかなぜわざわざ?家はどこ?千宥が美佳に気づいてから、妙子が口を開くまでの、ほんの十数秒。その短い時間で、千宥の頭は追いつかないほど回転していた。
七組同様、出席番号一番の生徒が日直として、号令をかけた。
「はい、みんなおはよう。今年の五組は妙ちゃんだよー。去年七組だった子もそうじゃなかった子もよろしくね。ということで。今日から私も新学期ということで、制服で決めてみました」
さも特別なことのように言っているが、妙子が始業式・終業式に制服を着るのは、恒例行事である。
「はい、お気づきのみんなも多いでしょう。転校生です。こんなエレガントなお嬢様が我が栄久に仲間入りしてくれました。じゃ、自己紹介よろしくね」
美佳は一瞬お辞儀をして後ろを振り向くと、黒板に「新宮領美佳」と書いた。
「東京の桜純女学院から参りました。新宮領美佳と申します。わけあって、この学校でお世話になることになりました。皆様とともに勉学に励んでまいりたいと存じます。何卒よろしくお願いいたします」
深々と約四十五度お辞儀をした。自然と拍手が湧き起こる。
わけあって。この場で千宥の名前を出すことはなかった。ひとまずはほっとしたが、でも、心のモヤモヤは強まる。
「お堅いねえ。お嬢様は。気楽に行きましょ。まあ、徐々に慣れると思うからね」
妙子は苦笑した。
「じゃ、美佳ちゃんの席は、その列の一番後ろね」
「承知いたしました」
またも深々と頭を下げると、鞄を持って、窓から二番目の列の一番後ろに用意された座席へと向かった。二つ前の席の茉衣子の前も通過したが、気づいていないのか敢えてスルーしているのか、一度も視線を逸らさず、前だけを見て通過した。いつもの茉衣子なら、挨拶に割り込んででもアピールする所だが、それもせずに終わった。着席したところで、再度妙子が口を開いた。
「まあ、詳しいことは後にするとして、あとは出席とったら早速始業式いこっか。……浅田裕太くん」
「はい」
順に名前を呼んでいく。池田、石田、岩永……。茉衣子は出席番号九番である。
「古波蔵茉衣子ちゃん」
「は、はい!」
美佳について色々考えていた茉衣子は少し声が上ずる。続いて坂口を挟み、
「新宮領美佳ちゃん」
「はい」
凛とした声で言った。茉衣子はちょっとだけ後ろを向いた。美佳と目が合う。軽く微笑んだような気がした。覚えているのか、ただ目が合っただけなのかはわからない。美佳から三つ後ろに出席番号十四番・玉井もいた。玉井はごく自然に返事した。三十三人学級の出席確認はぼちぼち中盤である。茉衣子は、今度はもう少々ぐっと後ろを向いてみた。
美佳はエレガントに微笑んでみせた。
茉衣子は、今は質問攻めにしてやりたい気分だが、とにかく、早く出席がおわらないかとうずうずしている。気づけばもう終盤である。森、安永……
「杠千宥ちゃん」
「……」
「千宥ちゃん?」
妙子の声が少し大きくなる。
「千宥ちゃん……!」
後ろの吉田という女子生徒が、小声で千宥に呼びかけつつ、鉛筆で背中をつついた。
「きゃっ!?……は、はい!」
背中をつつかれ、叫びつつ、慌てて返事した。
「わあ、びっくりした。どしたの?らしくないね」
「い、いえ、ちょっと……」
口ごもる千宥を横目に、妙子はその吉田と脇山の名を呼び、出席確認を終えた。
「じゃあ、早速体育館に移動しようか。今日は第二で入学式があるから、第一体育館の方ね。遅れちゃダメだよ。じゃ、かいさーん」
再度日直の浅田の号令でホームルームが終わりを迎えた。
茉衣子は立ち上がり、回れ右をした。ずかずかと美佳に近寄った。
「美佳!こんなとこで何してんだ」
「あら、……えーと、マリコさん?ご無沙汰していますわ」
「茉衣子だよ!古波蔵茉衣子」
え、何?この人茉衣子の知り合い?教室がざわつき始めた。千宥もそこに駆け寄り、玉井もおもむろに近づいた。
「美佳ちゃん!なんで……」
千宥が詰め寄る。
「来たのよ。千宥さんが心配だから」
「え、千宥ちゃんも知らなかったの?」
玉井が首をかしげる。
「知らないよ。私が色々聞きたい!」
千宥はつい声が大きくなった。美佳はため息をついた。
「……皆さん、始業式に遅れるわよ」
その一言で、さっきまでの混乱が、少しだけ現実に戻る。
「……とりあえず行こう」
千宥が小さく言った。自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。頭の中はぐちゃぐちゃなのに、言葉だけが先に整う。
「後で、ちゃんと聞くから」
それだけ付け足す。茉衣子はまだ何か言いたげにしていたが、ぐっとこらえたようだった。
「……逃げんなよ」
「逃げないわ」
短く返す。玉井も、空気を読むように一歩引いた。
「とりあえず、行こう。ほんとに遅れちゃうよ」
その一言で、三人は渋々と廊下へ出た。美佳も、何事もなかったかのようにその後ろにつく。
――距離が、妙にぎこちない。
四人で歩いているはずなのに、誰か一人だけ別の線を歩いているような感覚があった。廊下はすでに人の流れができていて、皆体育館へ向かっている。ざわざわとした音に紛れて、さっきまでの会話が少しだけ遠のく。
階段を降りながら、千宥は一度だけ後ろを振り返った。美佳は、少しだけ離れた位置を歩いていた。姿勢はいつも通りきれいで、表情も穏やかで、何も変わらない。――変わっていないはずなのに。
(なんで、ここにいるの)
さっきから同じ問いが、頭の中で繰り返される。「来たのよ。千宥さんが心配だから」。あまりにも直接的で、逆に意味が掴めない。
(心配って、何を)
自分のことは、自分で何とかやってきたつもりだった。少なくとも、わざわざ東京から来るほどの何かがあった覚えはない。
体育館の入り口が見えてきた。すでに何クラスかは整列を始めていて、係の教師が声を張り上げている。春の空気と、人の熱気と、床に反響する靴音が混ざって、ざわざわと落ち着かない空間だった。そのまま流れに押されるように、四人は列に溶け込む。千宥も含め女子の列に、おおよそ背の順に並ぶ。千宥は158cm、美佳は160cm。同じぐらいの背格好の生徒が並ぶ。まだ身体測定もしておらず、正確な背の順はわからない。よって、美佳が千宥の真後ろに並んだ。
(……ずるい)
急に来て、入り込んできて……。千宥は、心の中でそう思った。聞きたいことは山ほどあるのに、今は何も聞けない。しかも、全部「もう決まっている」話だ。拒否も、調整も、間に合わない。ただ受け入れるしかない。心の準備も何もないままで。
「はい、間隔空けてー」
教師の声が飛ぶ。列が整えられ、自然と前を向かされる。後ろに気配を感じる。振り返れば、すぐそこにいる距離だ。すぐ後ろにいるのに、今は何もできない。静かになる。ざわめきが、すっと引いていく。千宥は、自分の位置に立ちながら、前を向いたまま息を整えた。少しだけ、後ろを見た。美佳がいる。視線は前。背筋はまっすぐ。まるで、最初からここにいたかのように、違和感なくそこに立っている。
(……なんで?)
そんなはずがない。そう思っていたのに――。
始業式の進行が始まり、校長の話が流れ出しても、千宥の頭にはほとんど入ってこなかった。ただ一つだけ、はっきりしていることがある。――このままでは、終わらない。式が終われば、必ず話すことになる。逃げ場は、ない。千宥は、静かに息を吐いた。式は、あっけないほど淡々と終わった。校長の話も、生徒指導の教師の話も、ほとんど頭に入っていない。ただ立って、座って、拍手をして。それだけの時間だったはずなのに、妙に長く感じた。
「起立」
号令に合わせて立ち上がる。
「礼」
そして――
「解散」
一斉に空気が緩んだ。同時に、ざわめきが一気に広がる。さっきまで押し殺されていた声が、一斉に戻ってきた。
「生徒の皆さんはすみやかに教室に戻ってください」
司会をしていた教師のアナウンスがあった。列が崩れ、人の流れが再び動き出す。
「ねえねえ、あの子さ」
「転校生だろ?なんかすごくない?」
「東京って聞いたよ」
ひそひそ声が、今度は隠しきれない。その中心にいるのは、当然、美佳だった。けれど、美佳は気にした様子もなく、何事もないように歩いていく。その動き一つで、逆に周囲の視線を引き寄せているようだった。千宥もその後ろをついて行くような形で、一度だけ深く息を吐いた。
(……平常心、平常心)
自分に言い聞かせる。頭の中はまだ整理できていない。けれど、このまま流されるわけにもいかない。
「千宥!」
茉衣子が呼び止めた。名前を呼んだだけなのに、圧が強い。
「どういうことだよ。何であたしらに何も言わねえんだよ」
声は抑えているが、明らかに苛立っている。
玉井も、少し不審そうに首を傾げている。千宥は、一瞬だけ言葉を探した。
「……私が一番聞きたい。私も、知らないんだもん」
正直にそう言う。
「ほんとに何も聞いてないの?」
玉井が小さく聞く。
「うん」
短く答える。その返答で、逆に空気が少しだけ重くなる。――本当に、何も知らない。その事が、余計に状況をややこしくしている。だからこそ、どう反応すればいいのかもわからない。
茉衣子が舌打ちしそうな顔で、後ろをちらりと見た。
「……おい」
小声で呼ぶ。その先にいるのは、美佳だ。だが――
「後ほど、きちんとお話ししますわ」
美佳は、こちらを見ずにそう言った。声は穏やかで、まるで授業中の発言のように整っている。
「今は、時間がないでしょう?」
その言葉で、全員が一瞬黙った。確かに、その通りだ。今から教室に戻らなければならない。そして、教室につけばまもなく帰りのホームルームが始まる。ここで話せるような状況ではない。
「……ちっ」
茉衣子が小さく舌打ちした。だが、それ以上は踏み込まない。
千宥は、そこで一度だけ振り返った。美佳と、目が合う。ほんの一瞬。すぐに、美佳は視線を外した。何も言わない。ただ、それだけで――
(……逃げないつもりなんだ)
そう感じた。
教室に戻ってまもなくである。
「はい、席ついてー。ホームルームだよー」
妙子の声が入る。空気が、強制的に切り替わる。全員が前を向いた。帰りのホームルームは、驚くほどあっさりしていた。配布物の確認と、明日からの予定。それだけだ。妙子は特に美佳のことには触れなかった。まるで、最初からそこにいた生徒のように扱う。そのことが、現実味を、かえって薄くする。千宥は、ほとんど内容を覚えていなかった。ノートも開いているが、何も書いていない。ただ、時間だけが過ぎていく。
「じゃあ、今日はこれで終わり。気をつけて、明日からがんばりましょー」
妙子がそう言うと、教室の空気が一気に緩んだ。椅子の音、鞄のファスナー、立ち上がる気配。日常が戻ってくる。――そのはずなのに。千宥は、動かなかった。立ち上がるタイミングを、わざと少しだけ遅らせる。周囲が動き出すのを待つ。茉衣子が振り返った。
「千宥」
「……うん」
短く返す。
「どうする?」
問いかけは、打って変わって穏やかだった。さっきまでの勢いが、少しだけ引いている。千宥は、ほんの一瞬だけ考えて、
「外、行く」
そう言った。
「ここじゃ無理」
それだけで、十分だった。茉衣子が小さくうなずく。
「だよな」
玉井も、何も言わない。
「まずは、私が聞いてくるから、先に帰ってて。あとで私も交えて、話すから」
「……おう」
絞り出すように、返事した。自分も千宥の味方として関わる気満々だったのに、当の千宥から言われては、どうにもできない。茉衣子も「引く」ことを覚えた。しかし、それゆえ、苛立ちは募る。玉井は、そんな茉衣子と千宥を心配そうに見る。
千宥は立ち上がり、鞄を持った。そして、教室の出口へ向かう。茉衣子と玉井が残された。
「茉衣子ちゃん、帰ろう。今日は絢那もアネックスだから。一緒に待ってよう?」
玉井が励ますように声をかける。
「……帰ったら、慎吾・ひな・健介も呼んで、全員で待機な」
こういう時、仲間意識の非常に強い茉衣子は、何かとチーム・アネックスを集めたがる。そういう巻き込み癖も善し悪しではあるが、少なくとも今日は、今ここにいない三名も含め、全員の関心事項ではあった。玉井は肯定も否定もせず、後ろからついてくる。
「とりあえず、帰ろう」
教室を出る直前、千宥は一度だけ立ち止まった。呼吸を整える。そして、何も言わずに、そのまま廊下へ出た。背後から、足音が一つ、ついてくる。振り返らなくてもわかる。美佳だ。観念するかのように千宥はちょっと小走りのような速度だった足を緩めた。やがて、美佳も追いついた。逃げ場は、もうない。ここから先は――二人の話だ。廊下はすでに人の流れで埋まっていた。帰り支度を終えた生徒たちが、友人同士で話しながら出口へ向かっている。笑い声と足音が混ざって、さっきまでの緊張とは別のざわめきが広がっていた。その中を、千宥はまっすぐ歩く。振り返らない。背後に、足音が一つついてくる。それが誰かは、確認するまでもなかった。校舎を出て、少し人の流れから外れる。中庭に抜ける渡り廊下の手前で、ようやく千宥は足を止めた。周囲の声が、少しだけ遠くなる。
「……で」
振り返る。美佳が、すぐ後ろに立っていた。姿勢は変わらない。表情も穏やかなまま。
「どういうこと?」
短く、そう言う。美佳はほんの一瞬だけ目を細めてから、静かに口を開いた。
「そうね、転校してきたの」
あまりにもあっさりした答えだった。
「……東京にいたんじゃないの?」
「いたわよ」
間を置かず返ってくる。当たり前のことのように。千宥は、わずかに眉をひそめた。
「じゃあ、なんで来たの」
そこで初めて、美佳がまっすぐ千宥を見る。
「言ったじゃない。――千宥さんが心配だったからよ」
迷いのない声だった。
「色々、大変そうだから」
その言葉に、千宥は一瞬だけ言葉を失う。だが、すぐに押し返す。
「……それで、転校?」
「ええ」
「そんな理由で?」
少しだけ、声に熱が乗る。美佳は首をかしげるでもなく、ただ淡々と続けた。
「そんな理由って、私にとっては千宥さんのことは一大事よ?それに、東京と高宮。ずっと往復できるわけじゃないでしょう。学校もあるし。むしろ、来られない時期が長くて、うずうずしていたわ」
ゆっくりとした口調。
「それなら、こちらに来た方がいいと思ったの。それだけよ」
それだけ。あまりにも簡潔で、あまりにも重い判断だった。千宥は、数秒、何も言えなかった。歩きながら、再び美佳の横に並ぶ。そして、その横顔を一瞥する。
「……本当に、それだけ?」
ぽつりと口を開いた。自分でも驚くくらい、静かな声だった。その背中が、ほんのわずかに止まる。完全にではない。けれど、確かに。
「……どういう意味かしら」
振り返らずに、美佳が言う。
「私が心配だからって、言ったよね」
「ええ」
「それだけで、ここに来る?」
言葉が、少しずつ形になる。胸の奥にあった違和感が、ようやく外に出る。
「学校、変えるって……そんな簡単な話じゃないよ」
「簡単ではなかったわ」
すぐに返ってくる。表情は変わらない。だが、声のトーンが、ほんの少しだけ低くなった。
「でも、千宥さんの為なら、そのハードルも乗り越える。それだけよ」
言い切る。迷いはない。千宥は、言葉を失った。そのまま数歩、無言で歩く。足音だけが響く。やがて、千宥が小さく息を吐いた。
「……なんで、言わなかったの」
今度は、はっきりとした問いだった。
美佳は一瞬だけ視線を落とす。
「それは……言ったら、止めるって思ったからよ」
素直な答えだった。千宥は苦笑する。
「……確かに、止めたよ、絶対」
「でしょう?」
美佳も、ほんのわずかに口元を緩めた。
「だから、事後にしようって思ったの。まさか、始業式まで会えないとは思わなかったけど」
その言い方が、どこか少しだけズレている。千宥は眉をひそめた。
「……ていうか、来てたんだよね?一回」
「ええ。一月に」
「なんで会わなかったの」
「編入試験だったからよ」
即答だった。
「前乗りはしたけど、試験前だったから勉強していたし。終わったらその日の夜に、東京で大事な用事があって」
淡々と続ける。
「そこから、こちらに来ることはできなかったわ。残念ながら。特に三月は桜純の転校手続きとかも忙しかったし」
なるほど、と千宥は思う。辻褄は合う。合うけど――
「……じゃあ、今はどこにいるの」
「ホテルよ」
さらっと言う。
「ホテルオークウッズってところ」
聞き覚えのある名前だった。千宥たちが住む久世から車で十分足らずの越路というところにあるホテルだ。結婚式場でも有名な、高宮市北部の中では風格があるホテルだ。
「……ずっとホテル?」
「いいえ」
首を横に振る。
「家は決まっているわ。ただ、前の住人の方の退去が間に合わなくて」
そして、続けた。
「今日、放課後に引っ越し作業なの」
千宥は足を止めた。嫌な予感が、はっきりと形になる。
「……どこ」
短く問う。美佳も立ち止まる。ゆっくりと、こちらを向いた。そして、何でもないことのように言う。
「千宥さんの所よ」
一拍。
「アネックス、だったかしら」
さらに一拍。
「そこの301号室よ」
言い切った。空気が、止まる。千宥は、何も言えなかった。言葉が、出てこない。ただ一つだけ、確かなことがあった。
――本当に、逃げ場がなくなった。千宥は、ゆっくりと息を吐いた。そして、小さくつぶやく。
「……ほんと、ずるい」
その言葉に、美佳は何も返さなかった。ただ、静かにそこに立っていた。
「千宥さん、帰りましょう。他の皆さんも、待ってるんじゃなくて?」
茉衣子と玉井は先に下校していた。茉衣子はアネックス久世にそのまま帰宅、玉井もアネックスの大家である祖父、根〆昭信のもとに行くことになっている。平日に半ドンとなっている場合、母の佳那もパートに出ていることが多いので、昼食を根〆家で食べることが多いのだ。
「美佳ちゃんかあ。びっくりしたね」
「いいんだけどさ、千宥の心労が増えるぞ。ただでさえ大変なのにさ」
「あー、多分メンタル来やすいよね。ホルモンバランスとかさ」
三月のチームアネックスへの「告白」の翌日、慎吾の提案通り、玉井には事実が伝えられた。
「茉衣子、玉ちゃん」
後ろから声がした。慎吾だった。健介に雛灯も一緒だ。
「どうだった。美佳ちゃん、会ったか?」
「ああ、いたよ。千宥の奴、美佳がいること、知らなかった」
茉衣子が眉を吊り上げながら答える。
「え、どういうこと?」
雛灯が眼鏡をずり上げる。
「あたしが聞きてーよ。てか、千宥からもそう言われたんだ」
つい語気が強くなる。
「で、千宥と美佳さんは?」
健介が尋ねる。
「たぶん、どっかで二人で話してるよ。あたしらはもう退散した。あいつらの話だからな。別に、千宥の折り合いがつけば、あたしらは別に美佳を迎え入れるだけだしな。千宥にも言わず色々進めてたの、言ってやりてえけど、もう、あそこにつけ入る隙は、なさそうだかんな」
茉衣子は遠い目をした。
「美佳ちゃん、千宥ちゃんのことが心配だから来たって言ってたよね」
玉井が茉衣子に言う。
「ああ、けど、あいつが来て……。下手すりゃ、胃に穴穿げるぞ、あいつ」
茉衣子が吐き捨てる。
「まったく、どいつもこいつも。問題持ってきやがってさ」
慎吾がぼやく。
「何があったんだ」
健介が尋ねる。
「大上が、……いや何もねえ」
慎吾は玉井を見て、話すのをやめた。……まさか。健介は察してしまった。あとで玉井のいない時に聞くとしよう。
「俺もな、なんか不穏なことを聞いてな」
健介が慎吾の話題をそらすように言った。
「どうしたの?」
雛灯が健介の顔を覗き込む。
「ウチのクラスの奴らが、二生ちゃんのことも男じゃね?とか言ってたんだよ。杠って名前で千宥の妹だってのに気づいたみたいで」
「なんであいつまでそんな疑惑持たれるんだ」
茉衣子はさらに苛立ちを強めた。
「あ、いや。名前の字面が男に見えたらしい。二に生きるだろ。ツグオかな?って言ってた」
「あー……」
これには一同納得するしかなかった。
「二生ちゃんは何もしてないんだから、俺らがフォローしようねっていう、ただそれだけだよ。……ごめん、しょうもなくて」
健介は目を伏せる。
「そんなことないよ、大事大事」
雛灯がフォローする。二生に対しての情はどういうわけか一番深いようだ。
そうこうしているうちに、アネックスに到着した。だが、なんだか様子がおかしい。見慣れた建物の前に、見慣れないトラックが二台、横付けされていた。業者名のロゴもない、無地のシルバーの車体。東京は練馬の白い「わ」ナンバーである。荷台の扉が開き、黒い作業着の男たちが、無言で家具を運搬している。ソファ、テーブル、背の高い本棚――どれも一目でわかるほど質がいい。
「なんだありゃ」
慎吾が呆然とつぶやく。
「引っ越し……にしては、なんか違うよね」
雛灯が小声で言う。
「ていうか、あの家具さ」
玉井が目を細めた。
「普通の引っ越しのレベルじゃないよ」
たしかにそうだ。自分たちの家にあるものと比べて、家具のランクが明らかに違う。時折、小物や書籍などをまとめたであろう段ボールが運び入れられるが、家具に関して言えば、緩衝材から見え隠れしている限りでも、「格が違う」。
「誰だ、こんなとこに来る大金持ちは。……大金持ち?」
健介がぼそりと言いつつ、何かに気づいた。そのときだった。
「お帰りなさい」
背後から、落ち着いた声がした。
一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、千宥と――
「……は?」
茉衣子が、思わず間の抜けた声を出した。美佳だった。さっきまで学校にいたはずのその姿が、当たり前のようにアネックスの前に立っている。
「ちょ、ちょっと待て」
茉衣子が一歩前に出る。
「なんでここにいんだよ」
「ええと」
口ごもる千宥だったが、美佳が自ら前に出て、
「今日、ここに引っ越してきたのよ」
と、当然のように言った。
「は?」
全員の思考が一瞬止まる。その横で、千宥がため息をついた。
「……私も、ついさっき聞いた」
だるそうに事実を伝えた。しかし、それだけで、十分すぎた。
「……はああ!?」
今度は慎吾が声を上げた。
「あれがか」
引っ越し作業をしている方を指さした。
「だって。301」
千宥は短く答える。その数字が落ちた瞬間、全員が無言になった。
三階。誰も行ったことのない階。そして、あのトラック。
「……マジかよ」
健介が低くつぶやく。
「絢那、おじちゃん、何か言ってたか?」
茉衣子が玉井に尋ねる。
「ううん、おじいちゃんは、なんにも」
どうやら、守秘義務の兼ね合いなのか、単に騒ぎにしたくなかったのか、玉井も根〆から話はなかったらしい。
「本当に、ここに……?」
雛灯が呆然としつつ聞き返す。
「ええ」
美佳が穏やかにうなずいた。
「今日から、ね」
さらりと言う。まるで天気の話でもするかのように。その背後では、ちょうど大きな木製のキャビネットが三階へ運び込まれていくところだった。
「ちょっと待てちょっと待てちょっと待て」
茉衣子が頭を抱える。
「いやいやいや、聞いてねえって!」
「今、聞いたでしょう?」
「そういう意味じゃねえ!」
思わずツッコミが飛ぶ。だが、美佳は少しだけ楽しそうに目を細めただけだった。玉井が、そっと千宥の方を見る。
「……ほんとに?」
「ほんと」
千宥は短く答えた。もう、それ以上説明する気はないらしい。
「……千宥ちゃん、大丈夫か?」
慎吾が低く聞く。
「わかんないよ」
千宥は、少しだけ視線を逸らした。
「これから考える」
それが、今の正直な答えだった。その空気を、ふっと切るように、美佳が口を開いた。
「皆さんにも、改めてご挨拶しないといけませんわね」
すっと一歩前に出る。
「新宮領美佳です。本日より、こちらでお世話になります」
丁寧に頭を下げる。アネックスの前で、まるで正式な場のような挨拶だった。数秒の沈黙。
「……うん、よろしくね」
最初に口を開いたのは、住人ですらない玉井だった。その一言で、少しだけ空気がほどけた。
「……よろしく、でいいのかこれ」
健介がぼそっと言う。
「いいんじゃねえの」
慎吾が肩をすくめる。
「もう決まってるみたいだしな」
事実だった。トラックは来ている。家具も運び込まれている。もう、取り消せる段階ではない。茉衣子が、ゆっくりと顔を上げた。
「……まあいい」
乱暴に言う。
「来ちまったもんはしゃあねえ」
そして、美佳を見る。
「ただしな」
一拍置く。
「千宥がぶっ倒れるようなことしたら、マジでぶっ飛ばすからな」
真顔だった。冗談ではない。美佳は、その視線を正面から受け止めて、
「そんなことするわけないじゃない。私は千宥さんを支えるために来たのよ」
と、静かに答えた。逃げも、誤魔化しもない。きっとそれは美佳の本心なんだろう。だけど、それは美佳が「そう信じている」だけであって――それが千宥にとってどうなのかとは、また別の話だった。
千宥は、何も言わなかった。言えなかった、の方が正しいかもしれない。視線を少しだけ逸らす。三階へと運び込まれていく家具が、やけに現実味を持って目に入る。もう、止められない。もう、決まっている。その事実だけが、じわじわと胸の中に沈んでいく。
「すみません、通ります」
「お嬢様、失礼します」
作業員が声をかけて、横をすり抜けていく。持っているのは、明らかに高価そうなチェストだった。それが、迷いなく三階へ運ばれていく。――301号室。そこに、生活が作られていく。その様子を、ただ下から見上げることしかできない。
「……マジで住むんだな」
健介がぽつりと言う。誰も、否定しない。できるはずもない。千宥は、何も言わなかった。言葉にすれば、それが全部現実になる気がしたからだ。上では、まだ音がしている。家具が置かれる音。何かが組み立てられる音。生活が、形になっていく音。それを、ただ聞いている。止めることも、遅らせることもできないまま。千宥は、ゆっくりと息を吐いた。新しい生活の音だ。それはもう、始まっている。誰にも止められない形で。
【次回予告】
午後。二生、ついに春若栄久高校入学!
次回に続きます。お楽しみに。
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色々癖の強いキャラが多い本作ですが、作者から見て一番ぶっ飛んでるのは多分このお嬢だと思います。マジで。
ちなみに、こっちの方言で「穴が開く」ことを「ほげる」といいます。それを沖縄出身の茉衣子が使いこなしているのも不思議ですが。




