第28話 関西人と令嬢
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:10~15%
AI文をベースに改稿:35~40%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:45~55%
クラス替え、ドキドキしますね。作者も学生時代を思い出します。高校での転入ってどれぐらいあるもんなんでしょうかね?作者の母校は、一年生の夏に一人だけ転入してきた子がいましたが、二年の進級時はなかったなあ……。
にしても、第28話にして、前半がまさかの新キャラ視点……。
渡辺啓太郎は、大阪に住む高校一年生である。父が全国転勤のあるサラリーマンで、東京から沖縄まで在住経験がある。そして、幾度となく転校した。しかし、それも小学校の中盤には落ち着いてきて、以後、もっぱら関西に居を構えており、ここ二年ほどは堺市に住んでいる。そして、現在は隣の大阪市の高校に通っている。もう父のキャリア的にも、そうしょっちゅう動くことはない。もう高校卒業までは安定だろう。そう考えていたところであった。
ある日の夕食のことであった。テーブルの上には、湯気の立つ味噌汁と、焼き魚と、漬物。いつもと変わらない夕飯のはずだった。だが、空気だけが明らかに違っていた。
「なあ」
父親が口を開いた。
「ちょっと大事な話あんねんけど」
その言い方で、だいたい察しはつく。ろくでもない話だ。
「……何や」
渡辺は顔も上げずに返す。父親は一瞬だけ間を置いてから、やけにあっさりと言った。
「店、やろう思てる」
「は?」
思わず顔を上げた。
「せやからな。会社、辞めてな。お好み焼き屋やんねん」
「……はあ?」
意味がわからない。いや、言葉の意味はわかる。だが、理解が追いつかない。
「高宮のばあちゃんち。店を畳む言うから、じいちゃんから『あんた、やり』って言われたんや。俺が店やりたいの、じいちゃん、よう知ってたからな」
父親はどこか楽しそうに続ける。渡辺は、大阪育ちの父と、九州は高宮出身の母の間に生まれた。母の実家である対馬家は、高宮市の春若町という小さな町の商店街で「対州亭」という小さな食堂を営んでいる。祖父母二人きりの小さな店だ。渡辺はゆっくりと視線を母親に向けた。母親は、少し困ったように笑いながらも、どこか覚悟を決めた顔でうなずいた。
「……前からね、話はあったんよ」
「はあ?」
「ばあちゃんらも、もう歳やから。店もずっとやっとるけど、そろそろ処分せなあかんやろって」
九州のイントネーションが混ざりつつも、言葉はほとんど関西寄りだ。
「いや、いやいやいや」
渡辺は思わず箸を置いた。
「なんで今やねん」
「なんでって、今やからやろ」
「せめて俺が卒業してからにせえよ!」
思わず声が強くなる。父親は少し眉を上げたが、怒る様子はない。
「そんなん言うてもなあ。タイミングっちゅうもんがあるやろ」
「あるけど!」
「ほら、店があるから。じいちゃんももう、ようせんて。これ逃したらもう無理やで」
「いや、知らんがな!」
思わず言葉が強くなる。母親が小さく苦笑した。
「まあまあ。あんたも、よく知ってるとこやろ?」
「せやけど、それとこれとは別やろ!」
年に一、二回。盆か正月に訪れるだけの場所。祖父母がいて、まったく縁がない場所ではない。だが――住む場所でもない。
「高校はな、おかんの母校の、春若栄久ってとこに編入できるよう話進めとる」
「は?」
「試験受けなあかんけどな。まあ大丈夫やろ」
「軽っ!」
思わず頭を抱えた。完全に決まっている。もう覆らない。
渡辺はしばらく黙り込んだ。味噌汁の湯気だけが、やけにゆっくりと立ち上っていく。
「……マジで?」
「マジや」
「……いつ?」
「春からやな。お前は二年生になる」
短い沈黙。渡辺は、もう一度だけ抵抗するように言った。
「……俺、こっちに友達とかおんねんけど」
「向こうでもできるやろ」
「そういう問題ちゃうねん」
「大丈夫やて」
父親は笑った。その軽さが、少しだけ腹立たしかった。
だが、それ以上に――どうしようもない現実が、じわじわと胸の中に広がっていく。もう、決まっているのだ。
渡辺は、ゆっくりと箸を取り直した。味噌汁は、少し冷めていた。
そして一月。渡辺は、春若にいた。冬の空気は、大阪よりもどこか柔らかい。だが、それが逆に落ち着かない。
(……なんやねんここ)
正月の帰省で訪れた、これまで年に一、二回しか帰らなかった母の実家に、半月もせず訪れるのは非常に不思議な気分だ。……そして、部屋は余っているらしく、そのままこの春から同居することになるらしい。変なの。
今日は、編入試験の日だった。
「啓太郎、じいちゃんが学校まで送ってやるけん」
そう祖父が言うため、お願いすることにした。祖父の運転で、祖母、母も同乗した。
祖父や祖母の運転する車でこの春若町内を通ることはあった。しかし、いつもの大阪とはまるで違う風景。見慣れない店、見慣れない看板。だが、どこかで見たことがあるような――曖昧な既視感。年に数回来ているせいだろう。「知っているけど、知らない場所」。それが一番、居心地が悪い。そして、車は、家を出て三分もしないうちに、あまり来たことのない道へと差し掛かる。ちょっとした峠道になっており、今は上り坂になっている。こんなとこ、あったかな。やたら新しい道やけど。怪訝そうに窓の外を見ると、今度は古い街並みを通り過ぎた。そして、ほどなく、またも上り坂に差し掛かった。景色が目まぐるしく変わる。せわしないな。
校門が見えた。――春若栄久高校。母親の母校。
(……ここか)
思っていたより、普通だ。特別に古いわけでも、新しいわけでもない。だが、その「普通さ」が、逆に現実味を帯びていた。ここに通うことになるのだ。
教室に入る。黒板には座席表が書かれており、前から二列目、教卓前の列を挟んで両側に、①、②と振っていた。受験票を見る。受験番号一番。どうやら、受験者は二名のみらしい。
(……は?)
一瞬、状況が理解できなかった。ただ、すぐ合点がいく。
(確かに編入試験なら、そんな受験生もおれへんやろ)
そして、もう一人に目がいく。その瞬間だった。
(……なんや、あれ)
思考が止まる。受験番号二番の指定席に座っているのは、女子だった。それだけなら何もおかしくない。だが――姿勢が違う。佇まいが違う。制服の着こなし、髪の整え方、指先の動き。すべてが、妙に整いすぎている。まるで、そこだけ別の空間のようだった。
(……お嬢やんけ。こんなんもおるんか)
視線を外そうとする。だが、どうしても気になる。
悶々とする渡辺であったが、教室の扉の開く音に、とっさに背筋を伸ばした。頭のてっぺんで髪を団子にした、スーツ姿の小柄な女の子が教卓の前についた。背丈は、140センチぐらいだろうか。ガキやないか、なんでやねん。
「受験生の皆さん、揃いましたね。落ち着いて、解答してくださいね。聞く限りだと、落ち着いてやれば、大丈夫だと思います」
なんや、先生かいな。えらい子供っぽい。渡辺はつい苦笑した。にしても受験者数二名で「皆さん」て。ちょっとだけ気が楽になった。
試験は、思っていたよりあっさりと始まった。一旦、この小さな先生の言葉でリラックスできたのに、試験が始まると、試験問題よりも何よりも、気になるものがあった。隣の隣の席。距離が近い。静かな教室。紙の音、ペンの音。そして、わずかな香り。
(……あかん、集中でけへん)
試験問題に目を落とす。内容自体は、そこまで難しくない。だが、頭に入ってこない。横の存在が、やたらと気になる。
(なんで二人やねん……)
せめて、もう少し人数がいればよかった。完全に「サシ」だ。気まずいどころの話ではない。ちら、と横を見る。女子は、淡々と問題を解いていた。迷いがない。ペンの動きが滑らかだ。
(……うわ、できるタイプや)
焦りが生まれる。自分だけが落ち着いていない気がする。慌てて問題に戻る。時間は、思ったより早く過ぎていった。
面接もあった。形式的な質問。志望理由。転入の経緯。受け答えは、なんとかこなした。だが、最後まで――隣の女子の存在が、頭から離れなかった。
そして、四月。この日、渡辺啓太郎は春若栄久高校に二年生として転入した。転入生は、始業式の前に説明があるので、早く登校するように、との通知もあり、渡辺は、母親を伴って登校した。職員室の前に待たされる。しばらく待っていると、教師らしき真面目そうな女性に声をかけられた。
「渡辺さん、どうぞ」
「ちょっと、先生、同級生やない?もしかして、たまちゃんちゃう?」
急に母が女性に駆け寄った。
「きょ、きょんちゃん?」
聞きなれないあだ名だが、母の名前である「恭子」由来のものだろう。
「たまちゃん、ここで先生やってたん?びっくりしたわー」
「渡辺くんってきょんちゃんの子だったんだ。ああ、大阪からだったもんね。確かにきょんちゃん、大阪行ったって聞いたから」
なんとまあ、この先生と母親は元同級生だったようだ。
「旦那が脱サラしてこっち戻ってきたんよ」
話が弾む。……こんなところで。
「おかん、話はええから、呼ばれたやろ」
「ごめんね、渡辺くん。あ、学年主任の中村です。じゃあ、入ろうか」
母親と中村先生のミニ同窓会を何とか制止した渡辺は、応接室代わりに進路指導室に通された。すると、例の少女が既に着席しているのが視界に入った。
(……おるやん)
やはり、周囲から明らかに空気が違う。だが、それは「浮いている」というより――「別格」だった。自然と視線が引き寄せられる。隣にいる、「ダンディー」という単語が似合う、これまた一般人とは雰囲気の違う眼鏡の中年男性は、きっと彼女の父親だろう。この、人形というか、マネキンのように姿勢を崩さず待っているさま、本当に、渡辺と同じ人間とは思えない。
(……なんやねん、ほんま)
試験のときよりも、はっきりと感じる。これは、ただの「お嬢様」ではない。何か、もっとこう――現実感が薄い。距離感が狂う。言葉にしにくい違和感。だが同時に、目を離せない。
渡辺は席に着いた。学年主任の中村先生の説明が始まる。だが、意識の一部は、ずっとそちらに引っ張られていた。
(……何もんなんや、このお嬢?)
どうしても、同じ「転入生」という感じがしない。別の世界から来たような。そんな感覚。説明の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。ただ一つ、はっきりしていることがあった。――この学校には、ああいう人間がいる。そして自分は、そこに入る。
(……マジか)
渡辺は、静かに息を吐いた。逃げ場は、もうない。
説明が終わり、あっさりと進路指導室を出された渡辺。母親が声をかけた。
「かわらんなあ、ここも。まあ、お母さんも大丈夫やったし、あんたも大丈夫やろ。にしても、あの子、あんなえらい別嬪さんおんねんな」
「アホ、声でかい」
渡辺は母親を小突く。母親に言及されていることに気づいた少女が振り返った。そして、優雅にお辞儀をして、歩き去って行った。
四月の朝は、少しだけ空気が軽い。春休みが明け、新学期を迎えた春若栄久高校の玄関は、いつもより人が多く、どこかざわついていた。新しいクラス。新しい顔ぶれ。その期待と不安が、全体の空気を少しだけ浮かせている。樋口健介は、ふらりと校門をくぐると、軽く伸びをした。
(……また一年、始まるか)
そんなことを思いながら玄関へ向かうと、すぐに人だかりが見えた。クラス分けの掲示だ。
玄関先には、賑やかな会話がひっきりなしに飛び交っていた。まだ始業式前だというのに、皆どこか落ち着きがない。誰と同じクラスになれるかだの、新しいクラスのアイドルだの、そんな話があちこちから聞こえてくる。女子のグループは早くも固まっていて、男子は男子で、掲示の前にたまっては名前を探し、見つけては「あった」「マジか」「ラッキー」「終わった」と勝手なことを言っている。こういう朝は、毎年同じようでいて、やはり少しずつ違う。去年は去年で、そもそも入学というタイミングだったため、妙にそわそわしていたし、今年は今年で、理系文系の分かれ方や、付き合いのある連中がどこへ散るかが気になる。たった紙一枚のことなのに、それだけで四月が始まるのだから不思議だと健介は思う。掲示の前には、見知った顔もいくつもあった。廊下側では新三年生が、まだ玄関に残っていた後輩を見つけて声をかけている。春休み明けの学校独特の、少し浮ついた、少し湿った空気だった。
「おー、やっぱここか」
後ろから声がした。振り返ると、朝長慎吾がいた。
「来るの早いな」
「お前もな。何気にドキドキしてんだろ」
「落ち着かねえんだよ。変なのが同じクラスにいないかとか」
「どのクラスにも変なのは一人ぐらいいるだろ」
「それ言っちゃおしまいだろ、それ」
軽く言葉を交わしながら、二人で掲示に近づく。人をかき分けて、紙を覗き込む。
学年、クラス、名前――整然と並んだ文字の中から、自分の名前を探す。
「……あった。七組」
先に健介が自分の名前を見つけた。
「俺は六組だな」
慎吾も見つけた。今年は違うクラスになった。
「分かれたな」
「まあ、そういうこともあるだろ」
慎吾はあっさり言う。そして、クラス分けを見返す。
「ひなが七組なら、なおのことだろ。俺らは一緒のクラスにはならんからな」
確かに、健介は、自分の名前の何人か上に「朝長雛灯」の名前を見つけた。慎吾の双子の妹である。こういう時、きょうだいなどの関係者は離されるのが、大抵の学校でのクラス分けのセオリーである。
「そういや、ひなちゃんは?」
「知らん。そろそろ来るだろ」
一緒に来たわけではないようだ。健介がふう、と一息ついたそのときだった。
「おい、ちょっと見ろよこれ」
横から声が飛んできた。古波蔵茉衣子だった。いつもの調子だが、どこか少しだけ強い。
「茉衣子、急にいなくなってどうした」
慎吾が問う。交際二か月のこの二人は、一緒に来たらしい。
「それどころじゃねえ、お前らあれ見ろ」
「何?」
健介と慎吾が視線を向ける。茉衣子は掲示の一点を指差していた。
「ここ」
その指の先を目で追う。
――五組。茉衣子が指さすあたりに彼女自身の名前もあったが、その二つ下にあった名前を見て、健介は一瞬、意味がわからなかった。
「……え?」
思わず声が漏れる。もう一度、見直す。見間違いじゃない。そこに書かれていたのは――
新宮領美佳。
「は?」
慎吾も、同じ反応をした。少し遅れて、朝長雛灯と玉井絢那、それに綾香雄人も近づいてくる。
「健ちゃん、同じクラスだね。……どうしたの?」
雛灯が聞く。
「いや、これ……」
健介は言葉を探しながら、掲示を指した。雛灯が覗き込み、すぐに目を見開いた。
「え、ちょっと待って……」
「みんな、どうしたの?……え?」
玉井も凍り付いた。その場の空気が、一気に変わる。ほんの一瞬前まで、七組だ六組だと、ただのクラス分けの話をしていたはずだった。けれど、その名前一つで、空気の温度が目に見えて変わった。
健介の頭の中には、美佳の顔と、これまでの断片的な場面が一気に蘇っていた。それは、ここに集まった全員の友人である杠千宥の、自称許嫁。千宥のことを知っている者ほど、その名前は軽く受け流せない。しかも、それが、まさかではあるが、春若栄久の二年五組に、当然のように印字されている。そこだけ紙が別物みたいに見えた。
冗談ではないらしい。見間違いでもない。誰かがふざけて書き足したわけでも、もちろんない。学校が正式に貼り出した、今年度のクラス分けだ。だからこそ、余計にわからなかった。
なんで東京で暮らすはずのあの令嬢が春若に?しかも、なんで千宥と同じ学校に?いや、そもそも――千宥は知っているのか?健介が感じた違和感は、その一点に集約された。もし千宥が知っていて黙っていたのなら、それも妙だ。だが、知らないままだったとしても、それはそれでおかしい。どちらに転んでも、すっきりしない。
周囲では、事情を知らない生徒たちが「珍しい名前だな」「新入生じゃないのか」と勝手に囁き合っている。その無関係なざわめきが、かえってこちら側の混乱を際立たせていた。
茉衣子、健介、慎吾、雛灯、玉井は等しく動揺している。そして、雄人だけがそれを理解できなかった。
「……みんなどうしたの?」
しかし、周囲は雄人と同様、そのような反応は示さない。なぜなら、雄人だけは美佳のことを知らないのだ。雄人を含めた周囲のざわめきとは別の、内側だけの沈黙。
「なんで、いるんだ?何も聞いてねえけど」
茉衣子が、低く言った。その一言が、妙に現実感を持って響いた。健介は無意識に、もう一つの名前を探した。
「……千宥は?」
「五組だよ、絢那も」
玉井が答える。たしかに、五組の下の方に「杠千宥」の名前はある。
「学校には来てない?」
健介が追加で尋ねる。
「わかんない。私は見てないよ?」
雛灯が即答する。健介は頭を抱える。俺らに何も言わないなんて。千宥なら――知っているなら言うはずだ。この状況を。
「誰も見てねえの?千宥ちゃん」
慎吾の確認に、全員が首を横に振る。
「マジかよ」
慎吾が眉をひそめる。健介も、同じ感覚だった。何かがおかしい。
「そっか、ちょっと千宥ちゃん待ちにはなるな」
連絡を取りたいが、校内で大っぴらにスマホを取り出すわけにもいかない。
「……とりあえず、行くか」
健介が言う。これ以上ここにいても、答えは出ない。それぞれのクラスへ向かうしかない。
下駄箱も、新しく割り振られていた。二年生のスペースまでは、おのずと一緒になる。茉衣子、玉井、まだ登校していないようだが千宥が五組。そして、そこに、美佳の名前もあった。
慎吾と雄人が六組。ここで大上茂もまだいないことに健介が気づいたが、彼もまた六組らしい。
(……波乱だな。こいつらと違うクラスで良かったかも)
大上と雄人は玉井をめぐる恋敵。雄人と玉井が交際し、大上が片思いする、典型的な三角関係だ。三月の時点で大上はそのことに気づいていない様子であり、近々大変なことになることを健介は悟っている。
そして、健介と雛灯が七組だ。チーム・アネックスに雄人と大上を加えた「いつもの奴ら」は、この一連の三クラスに固まり、下駄箱も似た場所にある。自分の番号を探し、靴を履き替える。その単純な動作の最中も、頭の中にはさっきの名前が残っていた。
(……どういうことだ?)
疑問は消えない。だが、それを考える時間もなく、人の流れに押されるように校舎内へ入っていく。
茉衣子などは、本来ならこういうとき真っ先に大声を出すタイプなのに、今日は黙ったまま靴を自分の下駄箱に投げ入れた。勢いよく入れたせいで、「ガコン」とやけに大きく響いた。本人もそれに気づいたのか、少しだけ顔をしかめる。玉井は玉井で、いつものような軽い感じではなかった。困ったような顔で周囲をちらちら見ている。雛灯は言葉数こそ少ないが、明らかに考え込んでいた。慎吾は慎吾で、落ち着いているように見えて、たぶんかなり苛立っている。歩く速度がいつもより微妙に速い。健介は、その全員の反応を見て、逆に自分も平静ではいられなくなっていた。自分だけが騒いでいるわけではない、という事実は安心にもなるが、同時に「やはりこれはただ事ではない」と確認させられる。しかも、始業式の朝だ。これから先生が来て、ホームルームが始まり、出席が取られ、始業式へと入っていく。そのごく普通の学校の流れの中に、美佳が混ざる。そう考えると、現実感が妙に薄くなる。全員なんとなく口数が少ない。……一名を除いて。
「ねえ、みんななんか変だよ。どうしたのさ?」
唯一事情を把握していない雄人が不安そうに尋ねた。
「五組に変な名前あったろ」
慎吾が投げやりに言う。変わった苗字だが「変な」とは大層な物言いである。
「ああ、茉衣子さんと絢那ちゃんの間ぐらいにあったね」
「あれ、俺らの知り合いでな。何で?ってなってるだけだよ。……まあ、お前は同じクラスだから、後でじっくり教えてやるよ。時間あんだろ」
「ふうん。いい子?」
「よく知らんけど悪い子じゃねえと思う」
「よく知らないの?知り合い?……どっちなのさ」
「悪い、この話は後にしてくれ」
流石の慎吾もいら立ちを隠せない。廊下を歩き、教室の前で一度立ち止まる。二年七組。
「あとでな」
「おう」
短く言葉を交わし、自然と散っていく。いつもの流れ。だが、その中に、明らかに一つだけ異物が混じっていた。
扉を開けた。中には、すでに何人かが来ていた。見慣れた顔も、そうでない顔もいる。新しい教室の空気は、まだ誰のものにもなっていなかった。机も椅子も、黒板も窓際のカーテンも、去年までと何一つ変わっていないはずなのに、クラスが変わるだけで少しよそよそしい。すでに仲のいい者同士で固まり始めている一角もあれば、とりあえず自分の席だけ確認して静かに座っている者もいる。まだホームルーム前の、どこにも属しきらない時間だった。
七組は、思っていたより落ち着いた顔ぶれに見えた。理系クラスらしく男子がやや多い。もっとも、健介には、そんなことを冷静に数える余裕はあまりなかったが。
「お、健介」
中学の同級生だった赤瀬が声をかけた。
「お、おう。数年ぶりだな、同じクラス」
健介はどこか上の空だ。雛灯は後ろをついて行くようにそそくさと自分の机に向かう。ドアに張られていた座席表によると、健介と席が近かったのだ。「朝長」と「樋口」なので、名前順的にいい具合に一周したらしい。軽くやり取りをしながら、席を確認する。真ん中の後ろの方。悪くない位置だ。後ろというのがいい。
「担任、誰だろうね」
ひとまず美佳のことを忘れることにした雛灯が、健介に別の話題を振る。健介は前の黒板を見る。とても見覚えのある筆跡で「2年7組にようこそ!転校生もいるよ!」という文言が書かれている。健介の頭に、自然と髭と禿げ頭が浮かぶ。
「……俺、もうわかった」
「え、早。何でよ」
雛灯が笑う。ただ、健介が黒板を見つめていることで、察したらしい。筆跡そのものは雛灯にも覚えがあったようだ。
「そっか」
雛灯が笑う。そして、板書内容に目が行く。
「転校生?」
雛灯が首をかしげる。健介がため息をつく。
「美佳さんのことだろ」
「でも、わざわざ、他のクラスのことを書くかな」
「確かにな。……ウチにも来るのか?転校生」
「わかんない」
椅子に鞄を置きながら、周囲を見渡す。そして、周囲の声に耳を傾ける。
「なんか、五組にすごい名前の子がいたよね。あんな子いた?」
「いや、転校生が来るって話だよ」
どうやら、既に美佳の話は五組以外にも回っているらしい。今、五組はどうなっているだろうか?健介は気になった。
「そういや、新入生の方、『杠』っていたよね。あれ、千宥ちゃんの?」
「でしょ。そんないる名字じゃないもん。弟?妹?」
どうやら、新入生の名簿を見た者もいるらしい。
「名前じゃわかんなかったよ。でも男じゃないかな?ツグオみたいな。同じタイプじゃない?妹に見えるけど弟みたいな」
「ありそう」
健介は苦笑した。「二」をツグと読むのは合っているだけに、なんとも惜しい。二生はしばらく、あらぬ誤解をかけられるかもしれない。健介はあとでチーム・アネックスに共有することを決心した。それと同時に、美佳のことも解決しないのに新たなプロブレムが生じたことに、自然とため息が出た。
「そういや、ウチのクラスの渡辺ってのも転校生じゃ?」
「渡辺は、元々いるだろ」
「違う違う、渡辺俊輔じゃなくて、なんか渡辺なんとか太郎みたいな。あれ、多分元々いなかったよ」
「わかんね。三百人も同級生いるのに、覚えられねー」
健介はここで納得した。そうか、転校生は二人か。この時期に珍しくないか……?いや、この学校にそんな「普通」は通用しない。
そのとき、チャイムが鳴った。教師が入ってくる。一年近く親元を離れている健介にとって、リアルに「親の顔より見た」禿げ頭が入ってきた。そして、後ろについて眼鏡をかけた男子生徒が入室した。くだんの赤瀬が、出席番号一番、初日の日直として号令をかけた。
「はい、おはよう。二年七組にようこそ。担任の命を仰せつかった教師生活四十一年、伊福成芳です。グッドモーニング」
いつもの口調。そして何故か日本語と英語で繰り返された挨拶。相変わらずの伊福だ。教室の空気が、伊福が言葉を紡ぐたびに少しだけ緩む。
「この春は二名の転入生が編入試験を経て入ってきました。夏までに中退が一名出て、二学期に綾香くんが転入し、そこから一名中退者が出たので、編入試験を二名が受験した。欠員補充という観点で行けば、二分の一を争うはずが、めでたく二名とも合格した。僕は、どっかのワイドショーで見た、アイドルグループオーディションの追加合格を思い出したね。新メンバーは五人だけど、落とすのが惜しすぎて、七人ぐらい、もう合格させちゃうみたいな。でも、僕から見ても、活きのいい生徒が二人増えたので、そりゃ落としきれないと思ったところだ。皆さん、今年もアイドルみたいに、キラキラ輝いた一年を過ごしてください」
相変わらず、上手いことを言ってそうで上手くない挨拶である。
「さて、その転校生は噂になっている通り、五組と、我が七組に振り分けられた。じゃあ、よろしく」
伊福は転校生を一瞥した。なんとも雑なフリである。促された転校生は一度後ろを向き、黒板に名前を書く。「渡辺啓太郎」。そして、再度振り向くと、少しだけ間を置いて、口を開いた。
「……大阪から来ました、渡辺です」
短い。だが、関西のイントネーションがはっきり出ている。
「親父が大門商店街?でお好み焼き屋やるってんで、巻き込まれてこっちにきました。ええ迷惑です。振り回されてばっかやけど、こっちでも友達は欲しいんでよろしくお願いします。お笑いは好きやけど、人を笑かすのはちょっと苦手です。あんまり期待せんといてください」
教室の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「おじいとおばあが対州亭ってメシ屋やってたけど、そこを親父がお好み焼き屋に魔改造します。『おこのみ・対州なべや』、四月二十日オープンです。よろしくお願いします」
宣伝かい。健介を含むクラスの何割かがずっこけた。くすくす笑いも聞こえてくる。お構いなく渡辺は軽く頭を下げる。
「はー、対州亭のおとっつぁんのお孫さんか。いいなあ。僕あそこ好きだったんだけど。よろしく伝えといてよ」
伊福が笑う。対州亭の名を知っている生徒がちらほらいたらしく、教室のあちこちで、
「あ、あそこか」
「商店街のとこだろ」
と小さな声が上がった。春若は狭い。学校の中と外が、案外すぐにつながる。
渡辺は、少しだけ居心地悪そうにしながらも、それ以上は取り繕わなかった。愛想がいいというほどではないが、無愛想でもない。やる気がないように見えて、言うべきことはちゃんと言う。妙に力の抜けた自己紹介だったが、あれくらいの方が、かえって教室にはなじみやすいのかもしれないと健介は思った。
実際、赤瀬などはもう面白がっていた。「商店街に知り合い増えたな」と小声で笑っているし、その後ろの席の荒木という男子も「お好み焼きは強い」とよくわからない評価をしている。雛灯も、さっきまでの硬い表情を少しだけ緩めて、渡辺の方を見ていた。
(……普通だな)
健介はそう思った。特別なことは何もない。本当に、ただの転校生だ。茉衣子の言うような「事件」とは違う。日常の延長にある変化。その程度だ。だが――その「普通」が、逆に印象に残った。さっき見た名前との落差。今頃五組で自己紹介しているであろう「彼女」との対比。同じ転校生なのに、まるで意味が違う。
「渡辺くんは普通にアイウエオ順で一番後ろだ。あっちの後ろに座りなさい」
伊福が言う。紹介は終わり。あっさりとしたものだった。教室の空気も、すぐに元に戻る。渡辺は軽くうなずいて、後ろの席に戻った。……なんと、健介の隣だった。しかし、健介はそれどころはなかった。
(……やっぱり落ち着かないな)
理由は美佳の件だ。こればかりは明らかすぎる。今、五組はどうなってるんだ?健介の意識は、どうしてもそちらへ引っ張られていた。
【次回予告】
二年五組の生徒として転校してきた美佳。それよりも、千宥はいったいどこへ?
次回に続きます。お楽しみに。
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