第24話 杠千宥(後篇)
第22・23話からの続きになります。先に第22話からお読みください。
※おことわり※
このエピソードには医学的・倫理的に慎重な扱いを要する内容を含みます。詳細は第21話のあとがきをご参照ください。このエピソードから初めてご覧になる方は、そちらのあとがきを必ずお読みください
ついでに言っておくと、今回は割とメタ的な文章が多め(あくまで地の文限定ですが)ですが、そこもご了承ください。
……今回は第19話(健介&茉衣子回想回)でも軽くやった、これまでのハルうた本編との接続をじっくりやりたかったのと、「フラホル」について、改めて本文上でも注意喚起もさせていただきました。
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:15〜20%
AI文をベースに改稿:30〜35%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:45〜55%
女装・化粧指南であるとか、女性ホルモンの服用に伴う体の変化についての文章があるため、このところのエピソードの中ではAI利用率高めです。
ある朝、千宥はいつもより少し遅く目を覚ました。窓の外はもう明るく、蝉の声がじりじりと近い。目をこすりながら立ち上がると、奥の鈴蘭の自室で、鈴蘭が何かごそごそしているのに気づいた。ドアが開いていたのでなんとなく中を見ると、彼女のベッドの上に洋服が並んでいた。
淡い色のブラウス。薄手のカーディガン。膝丈のスカート。それから、小さく畳まれた下着。ブラジャーとショーツ。新品らしい、まだ硬さの残る布の匂いがする。
鈴蘭の手が止まった。気配に気づいたらしく、振り返った。
「おはよう」
「お、おはよう」
千宥は、ベッドの上の衣類を見つめている。
「ま、もうここにいていいことが決まったんだからさ、通常運転っていうかさ、楽しいこともしていこう」
「う、うん……?」
言っていることは真っ当だが、今鈴蘭がしていることと結びつかず千宥は首を傾げた。
「で、我が家にいる千宥の通常とは何か、と考えた場合、こういう格好になるわけじゃん?」
鈴蘭がベッドの上の衣類を指して、にいっと笑う。
「え?」
「週末ごとにここに来て、こういうお洋服を着ていたのは、どこの誰でしょう?」
月陵在学中は、千宥は鈴蘭のもとに足しげく通った。それは鈴蘭の指摘通りだった。……軟禁が続き、ご無沙汰であったが。その時の楽しい記憶がよみがえった。しかし、同時に、昨日訪れた父親の顔まで思い浮かんできた。小学生の頃、初めて女装したときのことだ。ワンピース。鏡の中の自分。父の怒声。全部、一度に思い出して、千宥は少しだけ息を詰めた。
「今、暗いこと考えちゃった?でもさ、しばらくはうちの子になるのが決定したわけだから、おじちゃんのことは忘れて、新しい生活を考えるべきだと思うわけよ。だから、うちの子としての千宥の格好は、これ。どう?」
「どうって……」
戸惑ってみせる千宥だが、でも、抗えない欲求がある。鈴蘭はただの女装癖と思っているかもしれないが、彼女が無自覚にしても、女性として生きたい千宥には、とても刺さる提案だった。千宥はベッドの上の服にそっと手を伸ばした。指先に触れたブラウスの布は、思ったより柔らかい。薄くて、軽い。その軽さが、逆に胸をざわつかせた。
「……着てみたい、かも」
小さい声だったが、確かにそう言った。口に出した瞬間、自分でも驚いた。まだ気持ちが沈んでいたので、「こんなことをしている気分ではない」と一瞬思いかけたのだが、でも、自分自身にはあらがえなかった。鈴蘭は、ふっと笑った。
「よし。じゃ、朝ごはん食べたらやってみよっか」
朝食のあと、鈴蘭は本当に手際よく準備を始めた。鏡を出して、下地やブラシを並べて、服を順番にハンガーから外していく。
「女装っていうと、ただこういう服を着てりゃいいって思うかもしれないけど、」
鈴蘭はブラジャーを持ち上げる。
「下着もちゃんとつけないとね。胸作んないと」
千宥は、少しだけ顔を赤くした。
「これも、穿くの?」
「穿くよ。スカートの下から男物見えたら、そっちのが困るでしょ」
あまりに実用的な言い方で、逆に笑いそうになる。千宥はショーツを受け取り、そっと生地を指でつまんだ。薄い。柔らかい。見た目より小さい気がして、少し不安になる。
「……入るかな」
「たぶん大丈夫。無理なら別の買う」
鈴蘭があまりにあっけらかんと言うので、千宥は少しだけ力が抜けた。
鈴蘭は慣れた手つきでブラジャーにパッドを入れながら言う。
「千宥は、いきなり盛りすぎないほうがいいね。Bぐらいが自然かな」
「Bって」
「このぐらい」
鈴蘭が手で示す。千宥は、そのサイズ感に妙にどきどきした。渡されたブラを持ち、上半身を脱ぎ、言われた通りに身につける。ホックを留めるのに少し手間取る。肩紐を整える。パッドの位置を直す。鏡の前に立った瞬間、胸元に丸みが生まれていた。思わず、見つめる。
「……すごい」
「バランス大事だからね」
鈴蘭は後ろから鏡を覗き込む。
「肩の線と、胸の位置と、腰。全体で見ないと変になるから」
ブラウスを着る。スカートを履く。カーディガンを羽織る。
鏡の中の自分は、確かにいつもの自分の顔なのに、でも、輪郭が違って見えた。
そして、後回しにしていたショーツ。スカートの下でこそこそと穿き替える。男物とはまるで違う当たり方に、一瞬だけ落ち着かなくなる。けれど、鏡を見る前から、もう身体の感覚が少し違っていた。
「パンツ、大丈夫だった?」
「……うん。たぶん」
「たぶんって何」
「なんか、変な感じ」
「最初はそうじゃない?あたしちんちんないから知らんけどさ」
鈴蘭は笑う。
「そのうち、そっちが普通になる」
その言葉に、千宥の心臓が少しだけ大きく鳴った。「普通になる」。その響きが、ひどく甘くて、少し怖かった。
千宥は、鈴蘭に促され椅子に座った。
「じゃ、次、顔」
「もう?」
「もう。服だけだと、逆にアンバランスになるから」
化粧水。乳液。下地。
頬に触れる手が、思ったよりやさしい。
誰かにこんなふうに顔を触られるのは、なんだかこそばゆい。
「肌はきれいなほうだね。ちゃんと若い」
「どういう褒め方」
「褒めてる褒めてる」
ファンデーションを薄く伸ばす。アイシャドウは淡い色。アイラインは細く。リップは、少しだけ血色を足す程度。鏡の中の自分の目元が、少しずつ柔らかくなっていく。ほんの数色重ねるだけで、こんなに違うのかと思う。
「目はね、いじりすぎないほうが千宥っぽい」
「千宥っぽいって何」
「なんか、あるじゃん。似合う顔」
鈴蘭はそう言いながら、最後に前髪を少し整えた。
「ウィッグもあるけど、地毛活かせるならそっちがいいかもね。伸ばしたら結構いけそう」
「伸ばす……」
その言葉に、千宥は鏡の中の自分の髪を見た。月陵にいた頃は、伸びることすら怖かった。今は逆だ。伸ばせるなら、伸ばしたい。
「女の子になるんでしょ」
鈴蘭が、何でもないように言う。
「まずは髪。第一目標、ウィッグ卒業」
その言い方が軽くて、千宥はつい笑ってしまった。
「どう?」
鈴蘭に聞かれ、鏡の中を見る。そこにいるのは、自分だ。でも、今までよりずっと「近い」自分だった。
「……悪くないかも」
それは控えめな言い方だったが、本音だった。
そのとき、鈴蘭がふと首をかしげた。
「……あれ?」
さっきまでの軽い空気が、少しだけ変わる。
「千宥」
「うん?」
「何か、してる?」
千宥の喉が、ひゅっと鳴った。鏡の前の自分から、視線を外せない。
「……何を?」
「体」
鈴蘭の声が少しだけ低くなる。
「成長の仕方が、なんか変」
沈黙。千宥は、膝の上で指を握った。やっぱり、気づかれる。ここまで来たら、そうだろうと思っていた。
「……飲んでる」
「何を?」
「抗男性ホルモン」
鈴蘭が目を閉じ、深く息を吐いた。怒らない。怒鳴らない。けれど、これは冗談じゃないという顔だった。
「いつから」
「月陵の頃から」
「病院は?」
「行けない」
即答だった。
「……本当は、そうしたいのは山々だけど。診断とか、手順とか、待ってたら間に合わないって思ったから」
自分でも、早口になっているのがわかった。止まらない。ここで止まったら、全部奪われる気がした。
「男として成長するの、嫌だった。止めたかった。声変わりしたら、終わるって思った」
鈴蘭はじっと聞いている。
「ネットで調べたの。第二次性徴を遅らせる治療があるって。だったら、今できること、これしかないって思って」
「でも、それで体壊したら?」
「壊れてもいいって思った。そんなことしたら、体がどんどん男になるって。そうなるくらいなら体壊れても、死んでもいいって思ったから」
自分でも、言いながら胸が痛くなる。でも、嘘ではなかった。泣きそうになりながら訴える千宥の言葉に鈴蘭は耳を傾けた。
「薬をやめなさいって言われるのが怖くて……」
部屋が静かになる。窓の外の蝉の声だけが聞こえる。
鈴蘭はしばらく黙っていた。それから、もう一度深く息を吐いて、千宥の肩に手を置いた。
「よくない」
その言葉に、千宥の心臓が縮む。
「でも」
鈴蘭は続ける。
「『やめろ』って簡単に言える話じゃないのも分かる」
千宥は顔を伏せたまま続けた。
「未成年だから、病院で治療を受けるにも親の同意が必要で……できると思う?」
「いや……おばちゃんならまだしも、おじちゃんには、殺されかねんな……」
鈴蘭は、ふーっとため息をついた。鈴蘭も、あの日、「女装しただけでブチ切れた」伯父を見た一人なのだ。
「だったら、完全に止めるとは言わない」
その一言に、千宥はほんの少しだけ息を取り戻した。
「ただし、体調悪くなったら絶対言うこと。隠さないこと。いいね?」
「……うん」
「あと、できる範囲で情報は集める。自己流で突っ走るの、ほんとは危ないから」
「うん」
鈴蘭は、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「じゃ、まずは格好から女の子になろっか」
その言い方が、救いみたいに軽かった。
千宥は、泣きそうになりながらうなずいた。
それから数日は、妙に静かだった。
抗男性ホルモンは、あらためて入手した。小さな錠剤が手元に戻ったとき、胸の奥でほっとした。劇的な変化があるわけではない。ただ、止まっている、という安心が戻る。それだけで十分だった。
鈴蘭は一階の店と二階の社長室を行き来する毎日だったが、それ以外にも、何かの用事で外に出ることが増えた。
「ちょっと行ってくる」
そう言って出ていき、夕方まで戻らない日もある。
千宥は深くは聞かなかった。聞けば、きっと自分のためだとわかってしまうから。わかってしまうと、その重さに甘えたくなってしまうから。
秋頃のある日、鈴蘭が唐突に言った。夕食時のことだった。
「学校、決めたよ」
ひとまず、夕食を終えた後、千宥は鈴蘭の仕事机の前に呼ばれた。学校案内の封筒が置かれていた。千宥は、その校名を見て一瞬目を止めた。
春若栄久高校。
名前は知っていた。月陵のある菊水寺町の隣、春若町の私立校。共学。制服はブレザー。それ以上は、ぼんやりとしか知らない。
「ここ」
鈴蘭は椅子に腰掛けたまま言う。
「一校でいいと思う。あんたなら受かる」
「……通える?」
出た言葉は、それだった。
「通えるよ。あたしの母校だけどさ、あんたなら大丈夫っしょ」
「鈴蘭さんの。わざわざ何で?」
千宥は首を傾げた。
「制服、好きなほうでいいってさ」
「え?」
千宥は唐突な言葉につい聞き返した。
「好きな方って?」
「分かるでしょ。スカートで来ていいって」
「……ほんとに?」
「うん。理事長がね、そう言った」
「本当に?」
「理事長がね、面白い人でさ。『学ぶ意思があるなら、服は本質じゃない』って」
あっさりとした報告だった。どんな話をしたのか、どんな顔で言ったのか、千宥は知らない。鈴蘭も、詳しくは話さなかった。ただ、「通っていいよ」それだけが、確かな事実だった。
そうなってくると、千宥ももうそこしかないと思った。万が一落ちて、どこか別の学校に男の制服で通わなければならないなら……。通信制でも高卒認定でもいい。そう思った。よし、もうここ一校に絞ろう。そんなことが頭の中を駆け巡った。
「……そっか」
平静を保ちつつそうつぶやき、手元の封筒を見た。紙の重みが、妙に現実的だった。
受験勉強は、形式的なものに近かった。月陵のカリキュラムは既に先へ進んでいたし、問題集を一冊解けば感覚は戻る。解けないわけではない。でも、机に向かう時間は、別の意味で重かった。
落ちるかもしれない、という怖さではない。受かったら、本当に始まる。そちらのほうが、怖かった。
共学。女子の制服。新しい名前ではなく、でも、新しい立ち位置。受かった先にある生活を思うだけで、心臓が速くなる。
冬が近づく頃、鈴蘭がまた言った。
「春若に引っ越すよ」
「え?」
「店も向こうに移す。現店舗、ちょっと手狭だし」
手狭。もちろん、それだけではないのだとわかっている。
「……私のため?」
千宥が聞くと、鈴蘭は笑った。
「商売のため。あと、あんたのため。両方」
その答えが、いちばん重い。まあ、元々1LDKの「社長室」の居間で寝ている状況、自室ができるのは大変ありがたい。
物件探しは、気づけば鈴蘭のほうでほとんど進んでいた。受験勉強の気分転換がてら内見に同行したとき、初めて見たのがアネックス久世だった。築浅なようだが新築というほどではない。特別しゃれてもいない。けれど、二階の207号室に入った瞬間、妙に落ち着いた。窓の外に見える、春若の街。適度に自然もある風景。校門へ続く坂。近くの電停。ここから通う。ここで暮らす。それを考えると、不思議と息がしやすかった。
「ここ、なんか落ち着くでしょ」
鈴蘭が言う。
「……うん」
それだけで、決まりだった。
合格通知は、拍子抜けするほどあっけなく届いた。封筒を開く。文字を追う。合格。
「ほらね」
鈴蘭が言う。千宥は、しばらく返事ができなかった。
「……受かった」
「受かったよ」
非常に感慨深げにつぶやく千宥と、そらそうでしょ、とばかりに言う鈴蘭の対比を、千宥は今でも覚えている。
けど、それを過ぎると、じわじわと実感に変わっていく。格好だけでも、女子高生になれる。それは嬉しくもあり、怖くもあった。両方がいっぺんに来る。
入学式の朝。半月前にアネックスへの引っ越しを終え、新居に慣れたところで、さらなる新しい生活の始まりとなった。鏡の前で、胸元のリボンを整える。月陵では学ランだった。月陵時代、男ばかりの同級生の間でかわいいと評判だったこの学校のブレザーと赤のスカートはなんだか落ち着かない。実際に、千宥から見てもかわいい制服だとは思うけれど、自分が着るとなると話は別だ。
胸の奥がざわつく。抗男性ホルモンは続いている。医療にはまだ繋がっていない。未来は、まだ何一つ確定していない。それでも、スカートの裾が揺れるのを見たとき、ふと、思った。逃げてきただけじゃない。自分で選んだのだ、と。春若栄久高校の校門をくぐったその日、千宥の人生は、確実に前に進み始めていた。
校門の前で、足が一瞬止まった。
春若栄久高校。
門柱の文字は、想像よりも地味で、拍子抜けするほど普通だった。それが、かえって救いだった。特別扱いの学校ではない。特別な入学式でもない。ただの高校。ただの一年生。その「ただ」が、どれだけ欲しかったことか。
周囲には新入生と、その保護者たち。ブレザー姿の在校生たち。教職員たち。笑い声。緊張の表情。写真を撮るスマートフォンの音。千宥は、スカートの裾をそっと押さえた。視線を感じる。それが気のせいなのか、本当に向けられているのか、もう区別はつかない。月陵の寮の大浴場で身についた癖のように、目を合わせないようにする。だが――
「おはよう」
横から、声がした。同じ制服の眼鏡をかけた女子が、自然な調子で挨拶する。
「一年生?」
「あ、うん」
「クラス分け、あっちだって」
それだけ言って、彼女は先に歩いていく。何も特別なことは言われなかった。それだけで、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
教室は、思ったよりもざわついていた。黒板に貼られた名簿。自分の名前を探す。ある。一年七組。当たり前だが、そこにある。そのことが、妙に現実味を持つ。
入学式、隣にいた眼鏡をかけた女子生徒に声をかけられた。先ほどクラス分けの案内をしてきた子だ。同じクラスになったらしい。
「私、朝長雛灯」
「杠千宥です」
「杠さんはどこ中?」
「えっと……」
月陵とも言いづらく、そこを退学した後に在籍しながらも一度も踏み入れることのなかった福岡市立中の名前を答えた。
「聞いたことないなあ。他にそこ出身の人、いる?」
「い、いないよ……」
いるわけがない。
「ふうん。私も南中っていう田舎の学校だから。ぼっち同士仲良くしよ」
「よ、よろしく」
この雛灯が、千宥が男だと分かって、半狂乱になって事実確認に来たのは、この二日後の話である。
入学式の最中、理事長の挨拶があった。壇上の人物を、千宥はちらりと見る。この人が。鈴蘭と、どんな話をしたのだろう。どんな顔で、何を約束したのだろう。想像はできない。ただ、自分はここに座っている。それが、答えだった。
放課後、校門を出た瞬間、春の風がスカートを揺らす。反射的に押さえる。その仕草が、少しだけ自然になっていることに気づく。アネックス久世までの道は、まだ慣れていない。けれど、遠くはない。そして、何よりも、この度住民票まで実家から移したため、正式に高宮市民としてここの住民になったのがうれしい。まだまだ慣れない新居に、制服姿の女の子がいた。とても背が高い。何年生だろうか?先輩かな。月陵の記憶から、先輩というものに恐怖感がある。
「あ、そこの」
どうかわそうか考えていたところで、声をかけられた。
「栄久の。えっと、何年生ですか?」
大柄な少女に圧倒されて、千宥は声を絞った。
「い、一年生です……」
「一年!?うわやった。タメじゃん!」
長い髪を二つに結わえた大柄な少女は、地響きせんばかりに飛び跳ねた。
「あたし、古波蔵茉衣子。あんたは?」
「杠、千宥です……」
三年間女の子の同級生がいなかったもので、そもそもドキドキなのだが、圧の強さに恐怖感すら覚える。
「千宥かあ。あたしのことも茉衣子って呼んでくれよ」
「う、うん。茉衣子ちゃん……」
「ここに住んでるんだよな?あたしもなんだ!」
「う、うん。引っ越してきたばかりで……」
「いいなあ、あたしの他に女の子の同級生がいるんだ。あのな、ここの大家の孫もあたしらの同級生だから、今度紹介しような」
「あ、あの……」
女の子と言われて、もう罪悪感が出てきた。早晩、男であることはバレる。あくまで制服が女子なだけで、登録は男子だからだ。
「どしたん」
「あの、女の子、って思ってるかもしれないけど、私、実は男で……」
「……」
一瞬思考停止したようだ。しかし、すぐさま……
「まじか、すげえ!」
顔を近づけて目を丸くした。千宥は声にならない叫びをあげた。
「へえ、男なんだ。見えねえな。え、ちんちんあるん?」
「あ、あるけど……」
「いいじゃんいいじゃん。かわいいからよし」
何がどう「よし」なのかはわからない。けれど、その無茶苦茶な受け止め方に、千宥は逆に少しだけ救われた。
「あたし、七組。千宥は?」
「わ、私も七組で」
「うっそ奇遇じゃん。これから毎日一緒に学校行こうな」
最初こそこの茉衣子に圧倒された千宥だが、それから、後日紹介された玉井絢那とともに三人で行動することが増えた。元々友達多くない千宥であったが、茉衣子と玉井は、彼女たちの出身校である松が丘学園中の同級生を中心に交友関係が広く、それなりに関係を深めていった。
「あたしが中学の時にちょっかいかけてた樋口健介ってのがいてな、四組にいるみたいなんだけど、未だにあたしのこと避けててな。まあ、そのうち、教えてやるよ」
これは五月半ばぐらいに聞いた言葉だが、まさかその半月後、その健介が引っ越してくるとは。
そして、これ以後に起こったことが、慎吾と知り合うことも含め、只今第二十四話目を迎えた本作で語られた話である。
ただ、話はまだ終わらない。この時期において、千宥が女性ホルモンを服用し始めたのは、七月頭、第二話と第三話の間ぐらいの時期にあたる。すなわち、千宥の女性化は、第二十一話で健介らに気づかれるまで、この「ハルワカのうた」とほぼ同時進行だったわけである。
ガイドラインにおいて、抗男性ホルモンは漫然と使用を続けないこととされており、その目安は三年とされている。要は、その辺の「期限」で、内服をやめて男に戻るか、女性ホルモンの治療に至るか、という選択を迫られる。そもそもガイドラインに沿った治療ではないながらも、この一年生のうちに服用開始から三年を迎える千宥は、そろそろ移行を考えねばならないと考えていた。
医療機関の受診なくホルモンを始めることをフライングホルモン、略してフラホルと呼ぶ。そのホルモン管理についてはAIに聞いても、ろくに情報が得られない。そのような医療行為を自己流で行うのは危険であるためである。もっとも、千宥のように親権者の同意を得られないことの方が多く、第二次性徴に間に合うように対応しないといけない分、それをしている当事者も割といるという事実自体はある。したがって、フラホルも「絶対にダメなこと」、「そんなことする奴は治療してやらない」、とはされておらず、それを想定して「フラホルしちゃった当事者への対応」も込みでガイドラインは作られているようである。実際の運用としては医師の裁量になるのだとは思われるが、少なくともガイドライン上はそうだ。
千宥はガイドラインを真似て、同じくフラホルをした人の体験談も参考にしつつ、自分なりにメニューを考えてやっている。自分としては慎重になっていても所詮は自己流だ。一応、鈴蘭に報告はした。決していい顔はされなかったが、もはや止めもされなかった。
さて、作者自身、別にそのメニューに明るくはないし、ましてや具体的な薬剤名を出すのは適当ではないと考えている。したがって、ここからは投薬内容には触れず、純粋に千宥の体の変化について伝える。
七月。蒸し暑さが教室にまとわりつく頃だった。小さな錠剤を、今度は「止めるため」ではなく、「進めるため」に飲む。
抗男性ホルモンだけでは、時間を止めるだけだ。女性ホルモンを入れるというのは、止まっていた針を、別の方向に動かすことだった。最初の数日は、何も変わらない。それが逆に落ち着いた。急に何かが起きるわけではない。世界は昨日の続きのままだ。
だが、八月に入った頃、微かな違和感があった。乳首の周囲が、触れると痛い。最初は気のせいかと思った。下着が擦れただけだと思った。けれど、違った。指で押すと、芯のようなものがある。小さく、でも確かな固さ。鈴蘭には言わなかった。自分で選んだことだ。経過も、自分で引き受ける。鏡の前で、そっと触れてみる。ほんのわずかな膨らみ。それは恐怖ではなく、確かな手応えだった。
この頃が第五話、二生が訪れた頃にあたる。この時、茉衣子に海水浴に誘われたのを断った。そうでなくとも上半身を晒す気はないが、絶対に脱げなかったと思われる。茉衣子には「更衣室には入れない」と伝え断った。それはいつもの言い訳だったが、この時点でもう、本当に無理だった。今、乳房とペニスの両方を持つ状況で、今後もプールや温泉の類は基本的に無理だろう。
九月。夏休みが終わる頃、胸の違和感ははっきりとした痛みに変わっていた。階段を駆け下りると、じんと響く。体育の時間、走るとき、無意識に胸を押さえる。まだ目立たない。制服の上からはわからない。だが、内側では確実に変わっている。以前は「形を作る」ためだったものが、今は「守る」ために近い。
十月。鏡の前で、明らかに丸みが出てきた。Aカップ、と言ってもいいかもしれない。測ったわけではないが。ただ、手のひらで感じる輪郭が、前とは違う。同時に、体つきが柔らかくなっていく。肩の線が、わずかに丸い。腰回りに、少しだけ脂肪がつく。体重はほとんど変わらないのに全体の印象だけが柔らかくなる。その反面、声は変わらない。抗男性ホルモンを続けていたおかげで、低くはならない。そのことが、今になって効いている。
十一月。胸の成長痛はピークを迎える。触れなくても、じんわり熱を帯びている。寝返りを打つと、目が覚めることもある。怖さはある。これは、本当に正しいのか。けれど、止めるという選択肢は、頭に浮かばなかった。放課後、ガラスに映る自分を見る。横から見たときのラインが、以前と違う。パッドは、もう厚いものはいらない。薄いものでも、形が出る。
鈴蘭は、ある日、洗濯物を取り込みながら言った。
「……成長してるね」
責めるでもなく、褒めるでもない。事実確認のような声だった。千宥は、うなずくだけだった。
ところで、この十月と十一月、話数で言うと各々第十話と第十二話で、新宮領美佳が二度も千宥を訪ねてきた。この時点で美佳は、体の変化に気づいた風ではなかった。ただ、少なくとも女装はしていたので、あきらめてもらうつもりだったが、この姿を受け入れるというまさかの宣言をされた。ありがたいような、迷惑のような、そんな複雑な心境。もはや、慎吾たちの指摘通り、美佳にも隠せなくなる時期は来るだろう。それをどう迎えるか。美佳からは次いつ来るなどの連絡はないが、千宥にとって大きな懸念である。
十二月。ブレザーの下にカーディガンを重ねる。その安心感。隠すためではない。けれど、守られている感じがする。胸は明らかにAを超えていた。自分で測ったわけではない。けれど、下着売り場でこっそり見たサイズ表と照らし合わせる。Aでは、収まりきらない。それを認めると、急に現実味が増す。もちろん子宮や卵巣はないため、生理は来ない。だが、情緒の波が変わる。以前より、感情が揺れやすい。泣きやすくなった、と自覚する。
一月。寒さの中で、体はゆっくりと丸みを帯びる。腰のくびれが、はっきりしてくる。太ももに触れたときの感触が、以前と違う。第十四話、初詣に行ったとき、電車待ちのホームで暖をとるために抱き着いてきた茉衣子に「柔らかい」と言われた。あの瞬間、心臓が止まりそうになった。正月太りを言い訳にしたが、茉衣子はかなり怪訝そうだった。茉衣子は千宥の本来の性別を知りながら女の子扱いするので、ありがたくもあり、スキンシップ過剰な点では危険な存在だとも感じていた。しかし、すべてを知ってもらった今、逆に安心感を感じる。
胸は、明確にBに近づいていた。下着を買い替える。ランジェリーショップに鈴蘭とともに訪れたが、店員ももはや普通にしている。それは、普通の女性と同じような乳房があり、それを包む本来の目的で店を訪れているからだ。店員も千宥がトランスジェンダーだとは知るまい。試着室で、初めて「B」を手に取る。鏡の中に映る自分は、もうパッドに頼っていない。
二月。成長は緩やかに続く。先ほど茉衣子の指摘があった通り、もう一、二サイズ大きくなる可能性は期待している。形も整っていく。乳房の下縁がはっきりする。丸みが自然になる。制服の上からでも、分かる人には分かるかもしれない。けれど、誰も何も言わない。第十六話から第十八話にかけて、二生と千鶴が二度も訪れた。この身体を隠すのは至難だった。第十八話、三者面談の折には初めて男子の制服を着用した。実は母親が滞在したあの日、千宥はサラシを巻いた。非常に苦しかった。そして、三者面談の朝、一年半ぶりに母とともに迎えた朝。母に隠れて着替えるのは、非常にドキドキした。今後、母に会う時はサラシを巻くのか……?着替えシーンを避け続けるのか……?女性的な変化はありがたいが、母を思うと、非常にしんどい。
三月。一年の終わり。胸は、はっきりとBカップだった。誇張でも、思い込みでもない。測れば、そう出る。体は、確実に変わった。その結果として、今、こうやって変化を悟られ、そのことを正式に打ち明けたわけである。
七月に飲み始めた小さな錠剤は、ただの選択ではなかった。形を持った結果になった。だからこそ、今こうして健介たちにも気づかれた。
これから苦難がまだまだ訪れるであろう。変化を説明すべき人たちはまだまだいっぱいいる。まず、この春から同居する二生に隠すのはほぼ不可能だろう。学校のみんなや、美佳、何より一番懸念は両親だ。
その前段階として、味方が四人もできたことは、非常に大きい。
~~~
そこまで語り終えて、千宥は一度、息を吐いた。
部屋の空気が、わずかに重い。
「……ってわけ」
千宥は、わざと軽く言った。
「七月から今まで。まあ、そんな感じ」
沈黙。最初に口を開いたのは、雛灯だった。
「Bって……そんなに変わるんだ」
真顔だ。研究者みたいな顔で、じっと見てくる。
「個人差はあるけどね。さっき茉衣子ちゃんが言ったように、遺伝もあるかもね。まあ、Cまで行けば御の字だとは思うけどね」
「それぐらいがちょうどいいぞ。大きくなったら、マジで肩こるべ。ほんとさ、あたし近頃Fに成長してさ」
「何語ってんだよ」
茉衣子が突然自分語りを始めたのを健介が制した。本当は、無遠慮に胸の話をし始めて聞きづらくなった、というのが本音だが。
「でも、ホルモンってすごいよね」
雛灯が話を戻す。
「他にもどんな効果あるん?」
茉衣子は興味津々だ。
「ほら、だからおしりもデカくなるわけよ」
慎吾が横から言う。
「だからよ、もっと外からわかんねえ変化もあるわけじゃん?あ、ちんちんとか縮むん?」
茉衣子はどこまでもこういう話に遠慮がない。
「縮む……かもだけど、私の場合は大きくなりきる前に抗男性ホルモンで押さえてたからちっちゃい……かな?」
自分のペニス事情を語ることになった千宥は恥ずかしそうだ。よくぞここまで話したという感じだが。健介は、努めてもう少しニュートラルな方向へ話を持っていこうと試みる。
「怖くなかったのか」
茶化さない声だった。千宥は少し考える。
「怖かったよ」
あっさり答える。
「今も怖い」
それは嘘ではない。
「でも、止めるほうがもっと怖かった」
部屋の中が、静かになる。茉衣子が、腕を組んだまま言う。
「美佳のことはどうすんだ?」
「……わかんない」
正直な答えだった。
「いつかはバレる。っていうか、隠せなくなる」
「今度来たらどうすんの?」
慎吾が問う。
「そのとき考える」
「雑だな」
「雑じゃない。保留」
少し笑いが起きる。けれど、軽くはない。雛灯が、ぽつりと。
「二生ちゃんは?」
千宥は天井を見る。
「隠せないと思う」
「だよな」
茉衣子が即答する。
「絶対すぐ気づくぞ、健介ですら気づいたんだ」
「ですらて……」
健介は不満げだが、自分の鈍さも知っているだけあって、強くは言い返せなかった。
「お前、一日何べんか顔合わすだけの健介でもそうなのに、同居するのに、気づかんわけねえさ。風呂場でおっぱいまる出しで鉢合わせる可能性もあるだろ」
茉衣子は言葉を選ばない。しかし、それもまた容易に想定しうる話だ。
「……あるだろうね」
想像すると、胃が少し痛い。
「親は?」
健介の声は低い。
「一番最後」
それは、逃げではない。
順番の問題だ。千宥は、四人を見る。
「でもさ」
少しだけ、笑う。
「味方が四人いるの、ほんとに大きい」
茉衣子が胸を張る。
「当たり前だろ。五人だろ。鈴蘭さん入れたら」
「六人だな。玉ちゃんも近いうちに話した方がいい」
「なんで?」
慎吾の提案に雛灯は首をかしげる。
「なんかあった時にはLINEでも共有した方がいい。玉ちゃんもチーム・アネックスの一員だからな。今日はいねえけど。LINEグループ作った張本人だし。玉ちゃんに言えると言えないのでは、連絡のしやすさが違う。それにさ、茉衣子とトリオで、こんだけ仲良しだからな。俺らより先に言ってもいいぐらいだぞ」
空気が、ようやく和らぐ。千宥は、胸の奥が静かになるのを感じる。この人たちは、ちゃんと私のことを真剣に考えてくれる。ありがたい。
七月に飲み始めた小さな錠剤。まだまだ続く不安も、ちょっとした後悔も、全部ある。けれど。一人ではない。
「で」
茉衣子が身を乗り出す。
「次どうすんだ?」
その問いは、未来の話だ。千宥は少しだけ考え、肩をすくめる。
「続きは、また今度」
「また引っ張る気か」
慎吾が笑う。
「だって、まだ終わってないし」
健介がうなずく。
「終わらせんなよ」
その一言に、千宥は小さく笑った。
「終わらないよ」
窓の外で、春の夜風が鳴る。202号室の灯りは、まだ消えない。物語は、続いている。
【次回予告】
千宥の告白の衝撃冷めやらぬ中、慎吾待望のアレがついに開催!?賑やかな夜になりそうだ。
という感じです。お楽しみに。
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