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第23話 杠千宥(中篇)

第22話からの続きになります。先にそちらをお読みください。


※おことわり※

このエピソードには医学的・倫理的に慎重な扱いを要する内容を含みます。詳細は第21話のあとがきをご参照ください。このエピソードから初めてご覧になる方は、そちらのあとがきを必ずお読みください。


<AI依存度>:

ほぼそのまま使用:5~10%

AI文をベースに改稿:15~20%

ユーザー独自の構成・設定・加筆:70~80%


挿絵(By みてみん)

雄人と別れを交わしたその日の夕方、千宥は月陵学園中等部を退学となり、福岡・香椎の実家に戻された。公立校が夏休みに入って間もなくの頃だった。

形式上は近所の市立中学校への転入扱い。しかし父は即座に言い放った。

「高校に受かるまで、外には出るな」

高校受験まで一切の外出禁止。他人との接触もなし。「自宅学習」という名目だったが、それはまさに軟禁と呼ばれる類のものだった。

最初の数日は、嵐のようだった。怒号。罵倒。「恥をかかせた」「裏切り者」「甘やかしすぎた」。言葉は刃物のようだった。千宥は、ただ無に徹した。慣れている。そう思い込むことにした。心を切り離せばいい。だが、鏡の前で頬の赤みを確認したとき、ふと胸が締めつけられた。

顔だけはやめてほしい。それだけは。殴られるなら腕でいい。肩でもいい。けれど、顔だけは。それだけは、自分の中で最後まで女の子に近づける場所だった。輪郭。まつ毛。口元。そういうものが、まだかろうじて「自分でいられる部分」だった。顔は最後の砦だった。

挿絵(By みてみん)

やがて暴風は収まり、静かな管理が始まった。スマートフォンは没収。パソコンも触れない。二生や三善が塾や遊びに行き、千鶴が仕事に出ると、家の中は異様に静かになった。廊下の時計の音だけがやけに大きい。窓の外を車が通るたび、世界が自分抜きで動いていることだけがわかる。

そして――抗男性ホルモンは、残りわずかだった。

机の引き出しのいちばん奥にしまっておいたシートを、千宥は一日一回、必ず数えた。

あと七日。

あと六日。

あと五日。

薬があるうちは、まだ「止まっている」と思えた。飲んでいるかぎり、声も、身体も、男のほうへは進まない気がした。それが、数字と一緒に減っていく。止めていた時間が、また動き出すかもしれない。その恐怖だけは、誰にも言えなかった。

結局、八月に入る頃、薬は尽きた。そこから急激な変化があったわけではない。喉仏が突然出るわけでも、朝起きたら声が低くなっているわけでもない。けれど、「止めている」という安心は完全に消えた。何もしていないのに、崩れていくかもしれない。それが、いちばん怖かった。


そんな生活の中で、家に一人の青年が出入りするようになった。(まつ)(なが)(くに)()。家庭教師役として寄越された大学生だった。万寿美の会社の専務の息子で、大学二年生。留年して履修する講義がほとんどなく、実質的に休学のような状態になっていた時期で、割のいいアルバイトとして話が来たのだという。

最初、邦斗は気楽だった。社長の息子の家庭教師。面倒な中学生かもしれないが、条件は悪くない。勉強を見て、時間になったら帰る。それだけのつもりだった。

だが、初日から違和感はあった。玄関の空気が、重い。家が大きいわりに、妙に音が少ない。千宥は礼儀正しく、受け答えもしっかりしているのに、どこか「監視されている人間」の目をしていた。

さらに数日もすると、それは確信に変わっていく。

勉強そのものは、ほとんど教えることがなかった。千宥はもともと成績優秀で、月陵のカリキュラムもかなり先に進んでいた。問題集を開けばだいたい解ける。躓いても少し整理すればすぐに理解する。だから、一日一、二時間も勉強を見れば十分だった。

そのあとは、雑談をしたり、邦斗が持ってきたゲームで遊んだりすることも増えた。家族もそれを知っていたが、特に何も言わないし、それを父親に報告しようともしなかった。だから、千宥にとって、邦斗は家庭教師というよりは遊んでくれるお兄さんという感じで、心の支えだった。

むしろ千鶴は、少しだけほっとしたような顔をしていた。

だからこそ、邦斗には見えてしまった。この家では、「誰も何も言わない」こと自体が異常なのだと。

外出をさせないこと。学校にも通わせないこと。スマホも持たせないこと。その状態を、家族全員がどこかで受け入れてしまっていること。

最初は、自分には関係ないと思っていた。深入りする話ではない。金をもらっている以上、余計なことは考えないほうがいい。そう何度も思った。けれど、通うたびに千宥の目が気にかかった。笑うときでも、どこか先に周囲をうかがう癖。廊下の物音に肩をこわばらせる反応。

何よりも、たまに見かける万寿美の様子だった。初日から、息子を奴隷でも扱うように接することに違和感を抱いていた。日に日に彼への不信感は増していった。さらには、千宥からも父親のことを色々と聞いたり、他の家族の反応を見たりするにつれて、家庭内での傲慢さを思い知った。

――ここに置いていてはいけないんじゃないか。

そんな考えが、じわじわと胸の中に積もっていった。


ちょっとこの生活に慣れてきたころに、父親が動いた。軟禁から一か月半たって、九月初めのある日のことだった。自宅の電話。電話越しに父の声が響く。

「お前、あれから一度も髪を切ってないだろう」

千宥は思わず黙った。

六月に切って以来、二か月半。前髪は目にかかり、耳を隠し、うなじにもかかり始めていた。男子としては伸びすぎで、けれど千宥にとっては、ようやく「少しだけ女の子に近づける形」になってきていた。

「みすぼらしいから、帰ったら刈ってやる」

低い声だった。怒鳴ってはいない。だが、千宥の身体はその一言で凍りついた。

髪は、ただの毛ではない。月陵で削られずに残った最後の部分。鏡を見るたび、自分を少しだけ救ってくれる輪郭。それを父の手で奪われたら、何かが決定的に壊れる。そう直感した。受話器を置いたあともしばらく、手が震えていた。父が戻るのは、翌日。この恐怖に、千宥は二、三週間ぶりにトイレで嘔吐した。

翌日、やって来た邦斗に、千宥はいつもよりずっと小さな声で切り出した。

「……今日、お父さんが帰ったら、丸坊主にされるんです。昨日の夜電話があって、髪を刈ってやるって」

邦斗は最初、言葉の意味をそのまま受け取れなかった。丸坊主。たしかに中学生なら嫌がるだろう。だが、それだけでここまで思いつめた顔をするものなのか。けれど、千宥の次の一言で、その迷いは消えた。

「とても、嫌なんです」

沈黙。千宥は俯いたまま続けた。

「……逃げたいです」

それは、これまででいちばん正直な声だった。勉強の愚痴でも、父への不満でもない。もう限界だという声だった。

邦斗は言葉を失った。丸坊主がなぜそこまで嫌なのか、完全には理解できない。だが、散髪にすら出してあげない「軟禁」の徹底ぶりに呆れた。しかし、このところは心の落ち着きを取り戻し、父親のことも「軽い愚痴」程度に話せるようになってきた千宥の、とても思いつめたような言葉に、ただならぬ思いを感じた。

数秒の沈黙。迷い。家庭教師としての立場。大企業社長の家。だが、それ以上に目の前の少年の目が、限界を示していた。

数秒。本当に短い時間だったが、邦斗の中では長かった。邦斗は、手元の問題集を見た。開いたままのページ。解きかけの問題。窓の外の、夏の白い光。ここで知らないふりをすれば、自分は安全だ。だが、それでこの子はこの家に残る。丸坊主にされるだけで済むのかもわからない。

幸いにして、千鶴もテレビの仕事が入っており、二生や三善も数日前に二学期が始まり、家にいない。今、二人以外に誰もいない。

涙をためた千宥の瞳が、かねてより逃がしてやりたいと思っていた邦斗に、大きな決断をさせた。邦斗は、千宥の部屋のドアを静かに閉めながら、千宥を見つめ、深刻な表情で言った。

「……千宥くん、逃げよう」

千宥が顔を上げる。

「君、ここにいたらダメだと思う。俺、ここに来るようになってから、ずっと思ってた」

その目に、迷いはもうなかった。

挿絵(By みてみん)

荷造りは、思っていたよりも静かだった。大荷物にはできない。いかにも家出です、という格好では駅で目立つ。千宥は一泊旅行ほどのバッグを持ち出し、必要最低限のものだけを詰めた。下着、着替え、少しの現金、筆記具。手が震えて、ファスナーがうまく閉まらない。

「家出先はどこがいいかな」

邦斗が低く聞く。

「あの……高宮に、従姉がいるんです」

鈴蘭の顔が浮かぶ。最後に会ったときの、何も責めない目。

「そこが、いいんじゃないかなって」

「わかった。連絡先、覚えてる?」

「はい」

スマホはない。邦斗が無言で自分のスマホを差し出した。千宥はそれを受け取り、指先の震えを押さえながら、もはや覚えてしまっていた番号を打った。

呼び出し音。一回。二回。三回。

「はい、田中丸ですけど……どちら様でしょうか」

聞いた瞬間、喉が詰まりそうになった。

「あ、鈴蘭さん!千宥だけど……」

「千宥!?」

声が一気に近くなる。

「どうしたの!LINE全然返さないじゃん。どうしたのさ、マジで」

責める声ではない。ただ、ずっと気にしていた声だった。それだけで、危うく泣きそうになる。

「それは、後で説明するから。あのね、お願いがあるの。……今から高宮に行くから。十四時二十七分着の『うみねこ』で行くから……迎えに来て。お願い」

切羽詰まっているのに、特急列車の時刻だけはやけに正確だった。逃げるには、そういう具体的なものが必要だった。鈴蘭は少しだけ黙り、それから言った。

「……よくわからんけど、来たらいいのね。わかった。高宮駅に来るから」

早い。迷いがない。

「ところでこれ誰の電話?」

スピーカー越しに聞いていた邦斗が、口を開く。

「初めまして。千宥くんの家庭教師をしている松永といいます。あの……とにかく、千宥くんをそちらで保護してほしいんです。この家にいると、まずいんです」

「カテキョ!?……はあ、どうも。よくわからんけど……でもさ、あの糞親父がまたなんかしたんでしょ」

低く、はっきりした声。邦斗は、何かを察した。……社長、親戚からもそういう目で見られている。

「おいで。あたしんとこ来たら多分大丈夫だから」

その一言で、千宥の中の何かが切れた。涙が、勝手に出た。言葉にならない。同時に、千宥は決心を固めた。もうこれが唯一のチャンスだ。邦斗は、机に目をやった。

「手紙、書いたほうがいい」

千宥はうなずく。便箋を出す。ペンを持つ。何を書けばいいのかわからない。謝るべきなのか、説明すべきなのか。けれど、書くしかない。

家族へ。高宮へ行くこと。抑圧に耐えられないこと。もうこの家にはいられないこと。

邦斗も、もう一通書いた。

自分が千宥を連れ出したこと。家庭教師は続けられないこと。責任は自分にもあること。

手紙を机に置いたとき、千宥は部屋を見回した。二度と戻らない部屋。何も変わらないように整っていて、それが逆に怖かった。

「行くよ」

邦斗の声にうなずく。二人は家の中を音を立てないように歩き、玄関を出た。外の空気が、思ったより熱かった。


車に乗り込む。シートベルトを締める音が、妙に大きい。

エンジンがかかる。その瞬間、本当に戻れなくなる気がして、千宥は思わず後ろを振り返った。

家の外観。門柱。窓。見慣れた景色なのに、もう他人の家みたいだった。

「見なくていいよ」

邦斗が前を向いたまま言った。

「……はい」

車は香椎の道を抜け、博多駅へ向かう。赤信号で止まるたび、千宥の心臓も止まりそうになる。今ここで父から連絡が来たら。誰かが見つけたら。追いつかれたら。そう思うと不安で仕方なかった。

香椎ランプで都市高速に乗ると、ほっと一息ついた。しかし、ほっとしたのもつかの間、新たな考えが頭をよぎる。天神に近寄っている。父の会社も、母の今日の仕事先も天神にある。いや、大丈夫。まさか今こんなところにいるなんて、知るはずもないし、知ったところで追跡は困難だろう。でも、もし、万が一……。千宥は千鳥橋ジャンクションで環状線外回り博多駅方面に乗り、天神方面から逸れるまで、動悸が止まらなかった。

博多駅東で高速道路を降りると、しばらくぶりの博多の街中の風景。

何も起きなかった。窓の外の街はいつも通り動いていて、自分だけが別の速度で生きているみたいだった。


博多駅に着くと、人の多さがかえって安心になった。ここでは誰も自分を知らない。家の人間でも、月陵の教師でもない。千宥は邦斗のスマホを使って鈴蘭に最終的な連絡を入れた。特急うみねこの発車時間まで、まだ少し時間があったが、千宥はホームに向かうことにした。千宥は早くホームに上がりたかった。もう立ち止まりたくなかった。邦斗は彼の肩を軽く叩き、最後のエールを送る。

「ここから先は大丈夫」

邦斗が言う。そう言いながらも、彼自身の表情も固かった。千宥をここまで連れ出した現実が、今さら重くのしかかっているようにも見えた。

「幸運を祈るよ。……もう大丈夫、鈴蘭さんが来るから」

千宥は何か言おうとした。ありがとう。ごめんなさい。助かった。いろいろ浮かんだのに、結局ひとつしか出なかった。

「……ありがとうございました」

邦斗は少しだけ照れたように笑い、

「無事に着いたら、それでいい」

と言った。

独りで博多駅のホームにたたずむ。昼食すらまだだった。時刻は十二時ちょっと前。うみねこは十二時三十三分発なので、まだ時間がある。千宥は、ホームの立ち食いそば屋で食事を取る。シンプルにきつねそばだ。月陵時代に使っていた財布までは没収されておらず、なんとか五千円ちょっとの持ち金はあった。もっとも、その半分以上が電車賃に消えたが。それでも食事と飲み物ぐらいは買える。

食事を済ませた頃に、特急うみねこが入線した。高宮からの列車として終着し、客が降りるとドアをいったん閉め、清掃などの準備が行われる。千宥はいら立ちを隠せなかった。早く乗りたいのに。いや、乗ったところで十二時三十三分まで発車しないのだ。わかるのだが、じっとしていられなかった。

そうこうしているうちに、特急うみねこのドアが開く。千宥は振り返らずに乗り込んだ。そして、何分か――千宥の感覚だと何十分とすらいえる時間であるが、ようやく特急うみねこ高宮行きが出発した。千宥は窓の外を見る。もう、邦斗は駅を後にして、帰宅している所だろう。ありがとう、邦斗さん。

千宥の家出を手助けした邦斗は、そのまま杠家の敷居をまたぐことはなかった。後に聞いた話では、この事件の責任を取って、父親である松永専務は会社を辞めたという。


特急うみねこ号が高宮駅に滑り込むと、千宥はほっとしたように深呼吸をした。窓の外には、港のクレーンと、(いな)()山、そしてそのてっぺんのテレビ塔。潮の匂いがかすかに混じる風が、車内に流れ込む。福岡の実家の重い空気とは違う、軽い風だった。電車から降り立つと、千宥はホームに立ち、周囲を見渡した。足裏が、少しだけ震えている。ただ、少し久しぶりに訪れた高宮駅は、変わらない様子で千宥を迎えてくれた。

改札を出ると、千宥は鈴蘭が言っていた待ち合わせ場所を探した。駅の広場の、ラジオスタジオの下と言われた。千宥はラジオのスタジオらしきものをすぐに見つけた。そして、約束の場所に到着すると、彼女の姿が見えた。目が合う。緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが押し寄せる。ゆっくりと歩きながら、今度は心までどっと重くなる。ここまで逃げ延びた安心感のような、実家でこれから起こるであろう騒動への恐怖感のような、その他、名状しがたい様々な感情が押し寄せ、涙があふれてきた。

「……来たね」

「うん……来られた」

次の瞬間、抱きしめられた。腕が強い。逃がさないみたいな抱きしめ方だった。

「大丈夫だった?」

「うん……」

それ以上の言葉は出なかった。出なくても、たぶん十分だった。

挿絵(By みてみん)


そこから二人は、駅前の電停から路面電車で街中へ向かった。商店街へ向かう車内は、買い物帰りの人や学生でほどよく混んでいて、誰も千宥を気に留めない。車輪のきしむ音、停留所ごとのアナウンス、誰かの買い物袋が椅子に当たる音。そういうどうでもいい日常の音が、ひどく柔らかく感じられた。(おお)(どおり)電停を降り、大通橋で(たか)(しま)川を渡り、ワンブロック先で左折する。「きゃろるすとりーと。ORIGIN(オリジン)」。それがこの狭い商店街の名前だった。最後に鈴蘭のもとを訪れて以来、約二か月ぶり。たった二か月といえばそれまでかもしれないが、色々あった後なので、途轍もなく懐かしく感じた。

店先のスピーカーから流れる音楽。街が、普通に暮らしている。その中に、自分も降りていけるのだと思うと、脚の力が少しだけ抜けた。午後三時、人通りの多くなってきたところだ。人の波をかき分ける。鈴蘭の店「リリーベル」は、大通りから曲がってきて二ブロック目、(ぎん)()町通りとの交差点付近にあった。二か月ぶりのリリーベルは、変わらない、いつも通りだ。明るい色の外壁。少し凝った看板。店内には洋服やアクセサリーが整然と並び、けれど堅苦しさはない。鈴蘭は店の奥から二階へ続く階段を指した。

「とりあえず二階(うえ)においで。あたしはいっぺん仕事に戻るから、ゆっくりしといて」

二階は、「社長室」と呼ばれているが、ほとんど彼女の生活空間そのものだった。一応は丘の上のニュータウンの実家に住民票と自室はあるらしいが、使い道のない二階を事実上の自宅にして寝泊まりしているらしい。

リビング、小さなキッチン、寝室。洗剤と布の匂い。使い込まれたマグカップ。机の上の書類。変わらない鈴蘭のあたたかい「家」が千宥を迎え入れた。千宥はこれまでの自宅での抑圧と、この大冒険の疲れから、ソファで寝込んでしまった。


目を覚ましたとき、窓の外は夕焼けに染まっていた。彼の心と体は、鈴蘭の暖かな空間でゆっくりと癒されていた。リビングで、夕焼けの光が窓から差し込む。キッチンから油の弾ける音がする。ソファから身を起こすと、鈴蘭が振り向かずに言った。

「起きた?」

「……うん」

「何作ってると思う?」

「……わかんない」

「オムライス」

その一言で、胸の奥が少しだけほどけた。

「今日はあんたの好きなやつ」

卵の焼ける匂い。ケチャップの甘い匂い。それだけで、ここがもう安全な場所に思えた。テーブルに運ばれた皿は、思ったよりちゃんとしたオムライスだった。卵は薄く、でも破れていない。ケチャップで雑にハートを描こうとして失敗したような跡まである。

「……いただきます」

一口食べる。温かい。少し甘い。ちゃんと味がする。

「おいしい」

口から出た声が、自分でも驚くほど素直だった。

「でしょ。あんたが喜んでくれると、作った甲斐があるわ」

鈴蘭は向かいに座って、マグカップを両手で持った。すぐに問い詰めるでもなく、ただ千宥が食べるのを待っていた。食事が進むうち、千宥の表情は少しずつ曇り始めた。鈴蘭はその変化に気づき、やさしく問いかけた。

ふう、と鈴蘭は息を吐いた。話をしよう、という感じだった。

「で、実家、どうだった?」

鈴蘭の問いかけに、彼は過去を振り返りながら、自宅での窮屈な生活について語り始めた。

「最悪だった」

鈴蘭は深い同情を込めて頷き、静かに彼の話を聞いた。

「お父さんが決めた月陵にこのままいていいのかなって思って、でも、家族に相談しても、やめていいって言ってもらえるはずないから。だから、がんばって悪い子になったんだよ。寮を抜け出したり、寮の窓ガラスを片っ端から割ったり、友達と殴り合いのけんかをして騒ぎになったり。それで、思った通り、退学になっちゃった。でもね、退学になったら、お父さんが怒り出して、それからはずっと家に閉じ込められてた。家から一歩も出してもらえなくて。スマホも取り上げられて、誰とも連絡が取れなくて」

「そんな……」

鈴蘭の声には怒りと心配が交じっていた。

「一歩もって、本当に全く?」

「全くだよ。コンビニに行くとか、散髪も行かせてもらえなかったの。三か月ぐらい伸びてるからすごいでしょ」

鈴蘭の胸の奥で、伯父への怒りがじわじわと熱を帯びていく。千宥は続けた。

「それでね、お父さんが帰ってきたら丸坊主にしてやるって言われて……これはまずいって思った」

一息ついて、千宥は恩人の顔を思い浮かべた。話を続ける。

「でも、邦斗さんが……家庭教師が助けてくれたの。邦斗さんが、こんなのおかしいから、出て行こうって言ってくれたの。邦斗さんがいなければ、ここには来られなかったよ」

千宥の声は感謝でいっぱいだった。

「それで、逃げてきたわけね」

鈴蘭は深刻な表情で頷いた。

「うん。気が狂いそうだった。邦斗さんには感謝してる」

「邦斗さん、えらいね。あんたをここに連れてきてくれて。普通、そこまでできないよ」

「うん」

「……あんた、運は悪いけど、人には恵まれてるのかもね」

その言葉に、千宥は少しだけ笑った。泣き笑いみたいな顔だったと思う。

「うん。それで、鈴蘭さんには連絡できなくてごめんね。本当は……」

「いい。ここにたどり着いたんだから。ひとまず、心を休めること」

そして、鈴蘭は千宥の手を温かく包み込んで、励ますように言った。千宥の目には涙が光っていた。

「もう大丈夫。ここにいれば、あんたのお父さんからも守ってあげるから」

「本当?」

「大丈夫。あのおっさん、あたしなら対抗できるから」

そう断言できるのが何故か、千宥にはわからなかったが、鈴蘭の目は「マジ」だった。

食事を終えたあとも、鈴蘭は紅茶を淹れてくれた。湯気が上がる。カップの縁があたたかい。さっきまで命からがら逃げてきたはずなのに、そういう小さな感覚がひどく現実だった。

「あとね、実は……鈴蘭さんにも話してないことがあって」

「何でもいいから言ってみなよ」

「うん……実は、ずっと自分について考えてて。自分が何者なのか、どうしてこう感じるのか」

けれど鈴蘭は急かさなかった。

「あんたは、あんたよ」

静かにそう言う。

「何をどう言えるかは、そのうちでいい。今はまず、あそこから脱出できたんだから休まないとね」

千宥は目に涙をためた。

「ありがとう。こうして話せるだけで、もう随分楽になるよ」

はっきりと女の子になりたいとは言えなかった。千宥は自分にがっかりした。でも、いつか、自分らしく生きるために、言えたらいいな。そんな思いを抱くのであった。

夜が更ける。布団に横になる。天井を見る。ここは、仮の逃げ場所かもしれない。でも、自分で選んだ場所だ。鈴蘭のもとに来たことで、安心感はある。けれど、薬が切れていることだけは、まだ誰にも言えていない。そこに目を向けると、また胸がざわつく。

それでも、今日だけは眠れる気がした。本当に落ち着けるのがいつになるのかはわからない。もしかしたら、そのうち連れ戻されるかもしれない。でも、少なくとも今夜は、安心して休める。高宮の夜は静かだった。


香椎の杠家は、いつものように整然としていた。玄関の花は新しく替えられ、廊下には塵ひとつ落ちていない。

夕方。二生が最初に帰宅し、すぐに三善も続いた。家は静かで、二人はいつものように家にいるはずの千宥の姿を見かけなかった。通常ならばこの時間は、千宥の部屋から邦斗と話す声が多少なりとも聞こえてくるはずだった。

「お兄ちゃん、今日はどうしたんだろう?」

二生は三善に尋ねた。

「知らない。カテキョも来てるはずなのに、静かだね」

三善は肩をすくめた。そして、もう少し後に、仕事から戻ってきた千鶴も気づいた。

「おかしいわね。千宥も邦斗くんも、まだ出てこない」

この時間には、もう邦斗も帰宅しているはずなのだ。それが、下の子たちが帰ってきてから千鶴が帰ってくるまでの間ぐらい。だから、二人が邦斗に会わなかったのはどうも不審である。千鶴は心配そうに千宥の部屋のドアをノックした。

「千宥、邦斗くん、大丈夫?」

千鶴の声に、部屋からは返事がない。ここでふと思い出す。そもそもガレージに邦斗の車がなかったような?千鶴は胸のざわめきを感じつつドアのノブを回し、ゆっくりと部屋の中を覗いた。千宥の姿も、家庭教師の邦斗の姿もない。部屋には、机の上に置かれた二通の手紙が静かに彼らの不在を物語っていた。

手紙を手に取りながら、千鶴の心は急速に冷えていった。一通は千宥からのもので、もう一通は邦斗からのものだった。千宥の字で書かれた手紙には、彼が鈴蘭の家に転がり込むこと、そして、もうこの家には戻らない旨が記されていた。

「千宥が……出て行った……」

千鶴は手を震わせ、絞り出すように告げた。二生と三善も母親の横で手紙を読み、不安な表情を浮かべた。

「これは……お父さんに知られたら……」

千鶴は手紙を胸に押し当て、深い懸念を感じた。


夜が更に深まると、家の主である万寿美が帰宅した。彼の足音はいつもよりも重く、疲れた様子だった。

「ただいま」

彼の声に、家族はリビングに集まり、千宥の不在を報告した。万寿美の顔は、手紙を受け取り読むと、急に険しくなった。

「何だと?鈴蘭の家に?この無礼者が!」

万寿美は怒りに震えた声で叫んだ。千鶴は夫をなだめようとした。

「でも、千宥が心配なのよ。なぜこんなことに……」

万寿美は手紙を握りしめ、思案にふけった。

「親の管理下を離れて何ができる。思春期の反抗に過ぎん」

その言葉は、怒りよりも「正しさ」で固められていた。千鶴は静かに言う。

「でも、あの子は限界だったのよ。私たちがもっと早く気づいてあげられていたら……」

「限界?甘やかすな」

万寿美は続ける。

「子は導くものだ。本人の気分で進路を決めさせてどうする」

理屈は一貫している。だが、机の上の空になった引き出しを見た瞬間、わずかに言葉が止まる。本当に、戻ってこないのか。その考えが、胸を掠める。

千鶴、二生、三善はお互いに不安な表情を交わし合った。それぞれが千宥の安全を願いつつ、彼の行先が分かっていることが救いであるが、まだ連絡は取れていない。万寿美は強硬な態度を崩さなかったが、部屋の隅に立っている家族の顔を見ると、彼の表情にわずかな迷いが見えた。息子が家を出て行った現実が、彼の心にも静かに影を落としていた。

「鈴蘭の家とは……高宮まで逃げたってことか」

鈴蘭宅ということに苦虫を嚙み潰したような表情を見せるが、その理由は家族にはよくわからなかった。

「そうだけど……でも、今夜はもう遅いから。何かあったら千宥がかわいそうよ」

千鶴はかろうじて母として千宥を気遣う態度を示した。万寿美は重たい足取りで自室へと向かい、ドアを閉めた。残された家族は、リビングに戻り、ソファに座り込んだ。

「兄ちゃん、無事でいてくれよ……」

三善が小さな声で言った。二生は涙をこらえながら、三善の手を握った。

「お兄ちゃんは強いから、大丈夫。きっと」

千鶴は子供たちに寄り添った。外はすっかり暗くなり、静かな闇が家を包み込んでいた。

食卓も、静かだった。いつも、会話が少ない食事であるが、まさしく「お通夜」状態。いや、何度か身内の葬儀にも参列しているが、通夜の方が明るいほどだった。

杠家の各々は、眠ることができずに、それぞれの部屋で考え事に耽った。


深夜、家の静けさが重くのしかかる中、万寿美は思い悩んでいた。千宥が家を出て行ったことで、彼の心は複雑な感情に包まれていた。結局、父親としての心配が勝り、彼は久しぶりに鈴蘭に電話をかけた。深夜にもかかわらず、鈴蘭は電話に出た。

「鈴蘭、千宥はそこにいるのか?」

「なあに、おじちゃん。いるけど?」

「お前が千宥をそそのかしたのか?」

彼の声には怒りと責任を問う口調だった。

「違うよ。こっちだって、急に高宮駅に迎えに来いって言われたぐらいなんだよ。千宥は自分で決めたんだよ」

鈴蘭の声は冷静で、どこか千宥を守る決意が感じられた。

「くだらん。何が千宥は自分で決めただ。親が決めたことに従うのが子供の義務だ」

万寿美は息を荒げた。

「でも、千宥は苦しんでいたんだよ。おじちゃんにはわかんないだろうけど、そうやって全部決めてきた結果が、これなんじゃないの」

沈黙。

「たわけが」

万寿美はそう吐き捨て、電話を切る。怒りよりも、制御不能な状況への苛立ちだった。

挿絵(By みてみん)


一方、千鶴もまた、千宥の安全を心配していた。彼女は彼女で千宥の安否を確認すべく、鈴蘭に連絡を試みた。しかし、何度か電話をかけたが、話し中だった。万寿美が電話中だったからだ。しばらくして、再度電話をかけたところ、出た。

「鈴蘭ちゃん、千鶴おばちゃんよ。久しぶりね。千宥はいるの?大丈夫?」

「おばちゃん、ごめんね。千宥はいるよ。今はあたしの家でゆっくりしてるよ」

「良かった……。いつか、きちんと話せる日が来るといいわね」

千鶴の声は穏やかだったが、母の心配は消えない。

「もちろんだよ。千宥のこと、信じてあげてね」

鈴蘭の言葉に千鶴はほっとした。

「今日は遅いから、居場所の確認だけね。たぶん、近々、行くと思うから」

「わかった。まあ、また連絡ちょうだい。千宥、やっぱり、ゆーてもおじちゃんが来るかもって怖がってナーバスになってるから。奇襲はできればやめてあげてね」

敢えて、鈴蘭は伯父に言及した。それは、ちょっとした牽制と、伯母のことはもう少しだけ信じてみようという意志でもあった。

「わかったわ。おやすみ」

電話を切ると、千鶴は目を閉じた。安心と、後悔が同時に押し寄せる。もっと早く、止められたのではないか。もっと、守れたのではないか。だが、何も言えなかった自分も、また事実だった。

夜は深まる。とりあえず、千宥は鈴蘭に無事に保護されていたことは千鶴から子供たちに伝えた。二生は布団に潜り込み考え事をしている。三善は天井を見つめている。万寿美は書斎で、手紙をもう一度読み返す。千鶴は、誰にも見られないように泣く。それぞれが眠れぬまま、夜は過ぎていった。


朝の光が優しく部屋を照らし、千宥は目を覚ます。寝ぼけた目をこすりながら窓の下を覗くと、高宮の街がゆっくりと活動を始めているのが見えた。心地よい朝の涼しさと、鳥のさえずり。こんな気分のいい朝は、本当に久しぶりだった。正直、月陵にいた頃も含めても、かなりしばらくぶりだった。

一方、鈴蘭はキッチンで朝食を作りながら、千宥の今後について考えを巡らせていた。昨夜、千鶴から、近々行くと宣言があった。まあ、わざわざ宣言せずとも、来ないはずがない。わが子が家出したのだ。鈴蘭は、千宥の家族との話し合いに対する不安が見て取れた。しかし、彼女の決意は固く、千宥をあの父親から守るために立ち向かう覚悟ができていた。

そして、昼食を食べ終わった頃、鈴蘭は千鶴から『これから行きます』というメッセージを受け取ったのだった。


午後三時半、「リリーベル」の前に万寿美と千鶴はいた。

「駐車場からこんなに歩かせよって……」

「きゃろるすとりーと。」は歩行者専用道路であることから、店まで車で乗り付けることができず、歩く羽目になった万寿美がぶつくさ言いつつ、店の扉を開けた。

「いらっしゃいm……」

重苦しい雰囲気の夫婦の来店に店員の顔が引きつった。

鈴蘭が店内にやってくると、彼女の表情は一瞬、緊張で曇る。しかし、一瞬で、毅然とした顔になった。

「おじちゃん、おばちゃん、ごめんね、こんな狭いとこまで来てもらって。二階(うえ)にお願い」

「リリーベル」の二階、社長室。一階の店舗の賑わいと違って静かだった。万寿美は室内を一瞥する。整っている。生活感はあるが、乱れはない。

「千宥を連れ戻す」

前置きはなかった。

「これは家族の問題だ。お前が関わることではない」

挿絵(By みてみん)

「家族の問題、ね」

声は穏やかだ。だが、その言い方に、千鶴はわずかな違和感を覚えた。

「おじちゃん。千宥は『物』じゃないよ」

万寿美の視線が細くなる。

「未成年だ。判断能力は未熟だ。外に置けば、何があるかわからん」

「……何が?」

一瞬の沈黙。万寿美は言い直す。

「社会は甘くないということだ」

鈴蘭は小さく息を吐いた。

「知ってるよ」

その言葉の温度が、ほんの少しだけ下がる。

「甘くないけど、おじちゃんのやりかたはないと思う。今は、お互い離れるべきだと思う。だから、あたしはここに置くって決めた」

そこで一度、空気が止まる。千鶴は、二人の間に自分の知らない温度差があることを、ようやく感じ始めていた。

「お父さん、まずは落ち着いて」

だが万寿美は目を逸らさない。

「お前に何がわかる」

その問いは、怒鳴りではない。確かめるような低さだった。鈴蘭は、少しだけ首を傾げる。

「わかるよ」

短い。そして、続ける。

「……おじちゃんも、わかるよね」

空気が止まる。千鶴はその意味を理解できない。だが万寿美の指先が、わずかに動く。鈴蘭は視線を外さない。

「あたしは、千宥を守る」

「守る」の響きが、普通とは違う。

万寿美の喉が、かすかに鳴る。

「……何のつもりだ」

鈴蘭は笑わない。

「余計なことは言わないよ」

間。

「でもね。必要なら、あたしも黙ってない」

声は柔らかい。けれど、そのやわらかさがいちばん重かった。千鶴が夫を見る。

「お父さん?」

万寿美はしばらく黙っていた。怒鳴れば勝てる場ではない。強引に連れ戻せば、別のものが崩れる。その計算が、表情の奥で動いているのがわかった。やがて、低く言う。

「……距離を置く」

千鶴が息を呑む。

「だが、親であることは変わらん」

「奪うつもりはないよ」

鈴蘭は静かに返す。勝ち誇らない。責めない。それがいちばん重い。

万寿美は立ち上がる。

「帰るぞ」

立ち上がると、万寿美は、静かに去っていった。その後ろをついていくように千鶴も立ち上がったが、千鶴はそっと千宥の前に歩み寄り、彼の肩を優しく抱いた。

「あなたが無事なら、それでいいの」

彼女の声のトーンは本物だ。そして、千鶴は鈴蘭に向き直り、固い握手を交わした。

「千宥をお願いね、鈴蘭ちゃん」

十分じゃないかもしれない。それでも、今の千鶴に言える精いっぱいだった。

「うん」

短い返事。固い握手。階段を降りる足音が遠ざかる。窓の外を、二人の背中が商店街の人波に紛れていく。鈴蘭はしばらく動かなかった。千宥が不安げに見る。鈴蘭はいつもの声に戻る。

「大丈夫」

その言葉は千宥に向けたものだったし、たぶん自分自身にも向けていた。


そのあと、部屋には奇妙な静けさが残った。気づけば夕方だ。外では商店街の音楽が流れ、人の話し声もする。けれど二階だけがなんだか別の世界に存在するかのようだった。鈴蘭はキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。牛乳パックの位置を直し、昨日の残りの野菜を確認し、やがて振り向く。

「お腹すいた?」

千宥は少し遅れてうなずいた。

「じゃあ、今夜はなんか簡単なのにしよっか」

その何でもない会話に、救われる。さっきまで父がいた。母もいた。今後千宥をどうするかの話になった。そして、ここにいることが許された。夢のようだったが、今、ようやく現実のものになってきた。

千宥は、自分の膝の上の手を見た。まだ少し震えている。でも、実家にいたときの震えとは違う。今は、呼吸ができる。

「鈴蘭さん」

「ん?」

「……ありがとう」

鈴蘭は、前を向いたまま肩をすくめる。

「まだ早いよ。これからのほうが長いんだから」

千宥は小さくうなずいた。ここが本当に自分の家になるには、まだ少し時間がかかる。薬のことも、学校のことも、自分が何者なのかを言葉にすることも、全部これからだ。

それでも、少なくとも今日、自分に居場所ができた。まずは、それだけでも大きな出来事だった。


~~~


ここまでも基本的には千宥が語った内容である。ただし、家出後の香椎の杠邸の様子と両親と鈴蘭の電話は千宥も知るところではなく、筆者が書き加えたものであることを申し添えておく。

「そっか。そんときなんだな。鈴蘭さんとこに転がり込んだのは」

茉衣子がうなずいた。しばらく、誰も何も言わなかった。窓の外で、夜の風がカーテンを揺らす。

千宥は、膝の上で指を組んだまま、少しだけ笑った。

「うん。あそこが、ほんとの意味での『スタート』だった」

その声は、昔を語るようでいて、どこか今に繋がっている。

健介が小さく息を吐く。

「……大変だったんだな」

「まあね」

軽く返す。けれど、その軽さの奥を、みんなもう知っている。

「なんで、お父さんは鈴蘭さんの言葉で引き下がったんだろうね。なんか、弱みか何かを握ってそうだったけど?」

雛灯が首をかしげる。

挿絵(By みてみん)

「多分そうだと思う。だけど、それは、鈴蘭さんに聞いても教えてくれない。何回か聞いたんだけど、ちょっと、一回本当に怒られたことがあって、それ以来私も聞くのをやめてるの。本当に、嫌なことみたい」

四人はつい黙り込む。あの明るい鈴蘭にそんな闇があるとは。その空気をかき消すべく慎吾が尋ねた。

「でさ、それからなん?女の子の格好で生活し始めたのは」

千宥は、ほんの少し視線を落とす。

「そうだね。これからその話だよ」

部屋の空気が、また少しだけ静かになる。千宥は一度、深呼吸をした。

「――つづき、聞く?」

【次回予告】

千宥の新たな生活。そして、現在に至るまで。

次回、千宥回想編、完結です。お楽しみに。

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