第22話 杠千宥(前篇)
※おことわり※
このエピソードには医学的・倫理的に慎重な扱いを要する内容を含みます。詳細は第21話のあとがきをご参照ください。このエピソードから始めてご覧になる方は、そちらのあとがきを必ずお読みください。
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:5~10%
AI文をベースに改稿:15~20%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:70~80%
杠千宥は、十六年前の十一月十四日、福岡市東区香椎で、杠家の長男として生を受けた。家は九州を代表する家電量販店、ジョウヨウ電器の創業家である。今は会長を兼務している父、万寿美は四代目社長であり、二十七歳の若さで社長となっていた。そこから十年ほど独身だったが、福岡市近郊の出身で、当時、東京のとあるテレビ局の人気アナウンサーだった伊勢屋千鶴とお見合い結婚した。そして、そこから一年ほどで千宥が生まれたわけである。万寿美、三十八歳の時の待望の第一子である。それだけあって、万寿美も千宥を跡取りとせんと意気込んでいた。一年半後に千宥の妹であり長女である二生が生まれた。そして、もう一年半後には次男、三善も誕生した。
三善が誕生する頃には千宥も二生も言葉を話し遊ぶようになってきた。その遊びはおままごとなどの女の子の遊びが主だった。外で友達と遊べばもう少し活発な遊びもしなくはないのだが、家ではもっぱらそうだったし、家ではプリキュアをはじめとした女の子向けのアニメを好んだ。同世代の男の子と遊んでも、なんとかレンジャーとか仮面ライダーにはとんと疎いのである。
最初は、誰も深刻には受け取っていなかった。年子の妹がいるのだから、影響を受けるのも当然だろう。千鶴はそう言って笑い、万寿美もその頃はさして気に留めていなかった。二生が人形を並べれば千宥も隣に座り、ままごとの配役までなぜか「お姉さん」か「お母さん」が多かった。三善が生まれてからも、その構図はあまり変わらない。
ただ、三善が成長し、車のおもちゃや戦隊ヒーローに目を輝かせるようになっても、千宥はそこに長くとどまらなかった。心が弾むのは、色とりどりの衣装や、変身シーンのきらめき、友情と涙で結ばれる少女たちの物語のほうだった。
「男の子なんだから、そっちばかり見るな」
テレビの前でそう言われたのは、一度や二度ではない。小学校二年の時にははっきりとテレビを消されるか、二生が見ているときには部屋を追い出されるようになった。どうして、と思った。どうしてそれがいけないのか、わからなかった。
外では、それなりに「男の子らしく」振る舞った。走れば速いほうだったし、鬼ごっこも嫌いではない。笑えば友達も笑う。けれど家に帰ると、どこかで息をつき、二生の隣に座る自分がいた。
父の視線が、少しずつ変わっていったのは、その頃からだった。遊びの内容に口を出すことが増え、服の色にも注文がつくようになった。ピンクや薄紫のシャツを選ぼうとすれば、「もっとこういう色にしろ」と差し戻される。髪を少し伸ばしたいと言えば、「男がそんなものを気にするな」と一蹴される。千宥は、言い返さなかった。自分が「間違っている」と思ったわけではない。ただ、父の声が強く、正しさのように響いたからだ。
四年生の秋、高宮市市にある叔母一家の家に遊びに行った日のことは、いまでも鮮明に残っている。きっかけは、十歳上の従姉で、当時大学生だった田中丸鈴蘭から提案された、本当に他愛のない思いつきだった。
「ちょっとこれ、着てみてよ」
鈴蘭が笑いながら差し出したのは、彼女が千宥ぐらいの年頃によく着ていたというワンピースだった。冗談半分、悪戯半分。周囲も面白がって、誰も深い意味を持たせていなかった。
千宥は、ためらいながらも袖を通した。何故持っていたのか不明だが、ウィッグまでかぶせられた。鏡の前に立ったとき、部屋の空気が一瞬止まったように感じた。
「わあ、千宥、めっちゃ似合うじゃん!」
鈴蘭が、嬉しそうな声で言った。自分の姿を、もう一度見る。おかしいはずだ。男の子なのだから。それでも、胸の奥が静かに温かくなった。悪くない、と思った。それは大きな感動ではなかった。劇的な目覚めでもなかった。ただ、「これもありだ」と思えた。
「かわいいよ、千宥。ねえねえ、みんなにも見てもらおうよ」
面白がった鈴蘭はそう提案した。「かわいいよ」と褒める叔母夫婦。目を輝かせる二生。ちょっと戸惑いながら見ている三善。ほほえましそうに笑う千鶴。その瞬間だった。背後で、父の怒声が響いた。
「何をしている!」
部屋の空気が凍りつく。笑いは止まり、誰もが口を閉ざした。
「男だろうが!」
大声は、千宥ではなく、その姿そのものを否定しているようだった。どうして怒られているのか、わからなかった。楽しかっただけなのに。鈴蘭も笑っていたのに。涙が、勝手にこぼれた。悔しいのか、怖いのか、それとも恥ずかしいのか。自分でも区別がつかなかった。母は何も言えなかった。視線を落とし、ただ静かに立っていた。その日の帰り道、ワンピースはもう脱いでいたけれど、鏡の中の姿だけが、妙に鮮やかに残っていた。
あれは、悪いことだったのだろうか。答えは出なかった。ただひとつ、はっきりしたことがある。これは、人前でしてはいけない。そう、学んだ。それでも。やめようとは、思えなかった。
女装の一件のあと、千宥は目に見えて変わったわけではなかった。学校では相変わらず、よく笑い、よく走る子どもだった。いわゆる「附属小学校」ということもあり、家庭環境は似通っている者が多い。そのなかでも杠家は特に裕福であったが。ただ、周囲もいわゆる「きちんとした」家庭の子どもたちに囲まれ、千宥もまた、その一人として自然にそこにいた。
けれど、立ち位置はどこか曖昧だった。男子の輪の中に入れば、話題は野球やカードゲーム、ヒーローの強さ比べになる。話を合わせることはできる。だが、心から盛り上がっているわけではない。笑いながらも、どこか半歩引いた位置に自分がいる。
一方で、女子の輪にいるときは、もう少し自然だった。図工の時間に色の組み合わせを考えたり、学芸会の衣装を褒め合ったり、昼休みに校庭の隅で静かに話したりする時間は、肩の力が抜けた。だが、そこにも見えない線が引かれていることを、千宥は早くから知っていた。
「男子なんだから、あっち行きなよ」
悪意のない声で、そう言われたことがある。言った側も深い意味はなかったのだろう。ただ分類しただけだ。千宥は素直に男子の列へ戻った。自分は男だ、と頭では理解している。戸籍も、名簿も、制服も、すべてがそう示している。それを否定する言葉は、まだ持っていなかった。だから、合わせる。体育の着替えでは、なるべく素早く。プールの授業では、周囲を見ないように。男子同士のふざけ合いが始まれば、適度な距離を取る。過剰に拒絶もしないが、深く入り込まない。誰からも「変だ」とは言われなかった。ただ、千宥自身が、ほんのわずかな居心地の悪さを、いつも抱えていた。
五年生になるころ、父の視線はさらに厳しくなった。成績は悪くない。むしろ良いほうだった。それが父をいっそう燃えさせた。
「月陵に入れる」
ある夜、食卓で唐突に告げられた。福岡から百数十キロ離れた高宮市にある男子校、月陵学園。九州でも名の通った進学校で、遠方なので、寮生活になるという。父は、その名を誇らしげに口にした。
「将来を考えろ。跡取りになるんだ。中途半端な環境ではだめだ」
男子校。その言葉が、胸の奥で重く沈んだ。男子だけの空間。逃げ場のない分類。今でさえ、うまく立ち回っているのに。
嫌だ、と思った。だが同時に、別の感情が顔を出す。
寮生活。家を出る。父から、離れる。その可能性に、わずかな光を見た。
束縛は、年々強まっていた。テレビのチャンネル、交友関係、服装、習い事。父は「男らしさ」を軸に、千宥を型にはめようとしていた。悪意ではないのだろう。期待なのだ。だが、その期待は重かった。
五年生の冬から、塾に通い始めた。放課後、制服のまま電車に乗る。教室に座り、ひたすら問題を解く。論理的な世界は、感情を問わない。解ければ正解、不正解は明確だ。そこには性別も「らしさ」もない。勉強は、嫌いではなかった。むしろ、点数が上がるたびに、父の機嫌が良くなるのがわかる。その間だけは、余計なことを言われずに済んだ。
六年生の冬、受験が近づくにつれ、家の空気は張り詰めた。父は過去問を机の上に積み上げる。母は黙って温かい飲み物を置く。二生と三善は、どこか遠慮がちになる。
試験当日、月陵の校門をくぐったとき、千宥は奇妙な感覚を覚えた。これが、自分の未来かもしれない。制服姿の少年たちが行き交う。凛とした校舎。規律ある空気。ここには、女の子はいない。胸が、わずかに締めつけられる。
それでも、試験は淡々とこなした。国語も算数も、手応えはあった。答案を書き終えたとき、なぜか静かな安堵が広がった。
結果発表の日。自分の番号を見つけたとき、父は珍しく大きくうなずいた。
「よくやった」
短い言葉だったが、誇らしげだった。千宥は、笑った。喜んでいる自分も、確かにいた。同時に、もう後戻りはできないという感覚も、はっきりとあった。春から、男子だけの世界に入る。家を出る。父から離れる。そして――自分は、どこへ向かうのだろう。卒業式の日、校庭に舞う桜の花びらを見上げながら、千宥はぼんやりと考えていた。まだ、その答えは出ていない。ただ、何かが変わる予感だけが、静かに胸の奥にあった。
四月。月陵学園の入学式は、晴れていた。校門をくぐった瞬間、空気が違うと感じた。静かで、張りつめていて、どこか乾いている。制服姿の生徒は全員が同じ色、同じ形。そこにスカートはない。笑い声の質も、附属小とは少し違っていた。
寮は四人部屋だった。二段ベッドが二組、壁際に机が並ぶ。初対面の三人と生活を共にする。荷物をほどきながら、千宥は妙な緊張を抱えていた。逃げ場がない。そう思った。夜、消灯後の暗がりで、誰かの寝息が聞こえる。誰かの寝返りの音。わずかな物音にも意識が向く。自分の存在が、常に他者と接している。
最初の壁は風呂だった。大浴場。全員が同じというわけではないが、ある程度まとまって入る。千宥はつとめて人の少ない時間帯を選んだ。
裸になる。附属小のプールとは違う。日常だ。毎日だ。視線を上げない。誰とも目を合わせない。湯に浸かり、できるだけ早く出る。自分の身体を、自分で見ないようにする癖がついた。湯気の向こうに並ぶ裸の輪郭を視界から外しながら、自分だけが何か別の場に紛れ込んでいるような気がした。
中学一年の冬、十二月の夜だった。寮のベッドで目を覚ましたとき、最初は何が起きたのかわからなかった。下着の内側に、湿った違和感がある。暗がりの中で身を起こし、そっと触れてみる。理解した瞬間、心臓が跳ねた。
精通。そして、夢精。
保健体育で習った。男子が大人へ向かう証だと。自然なことだと。誰もが通る道だと。だが、その言葉は千宥の中で、別の意味を持った。始まってしまった。洗面所で下着を洗いながら、震えが止まらなかった。冷水に触れた指先よりも、胸の奥のほうが冷たかった。
数日後、勇気を出してクラスメイトに尋ねた。
「……あのさ、この前、朝起きたら、その、射精しちゃったんだけど」
言い終える前に、相手は笑った。
「ああ? そんなの、シコっときゃいいんだよ」
あまりにも軽い答えだった。その言葉に救われることはなかった。だが、他に聞く相手もいない。
トイレの個室で、自分の身体に触れた。神経が反応する。時々形を変えるのを厄介に思っていたそれを自らの手で叩き起こす。それは、ただの処理だった。義務のように。出さなければならないから出す。出る瞬間突き抜けるような感覚も、出せば終わる。それだけだった。終わったあと、手を洗いながら鏡を見る。そこにいるのは、中学生の少年だった。
この身体は、どこへ向かっているのだろう。声が低くなるかもしれない。肩幅が広がるかもしれない。喉仏が出るかもしれない。止めたい、と初めて思った。男になりたくない。その拒絶が、はっきりと形を持ったのは、この頃だった。
精通のあと、千宥の世界は変わった。表面は何も変わらない。授業は続き、部活もなく、寮生活も同じだ。だが内側では、焦りが広がっていた。男子同士の会話が、急に耳障りになる。
「お前どれぐらいしてんの?」
「毎日?もうサルじゃんか」
笑いながら交わされる言葉に、千宥はついていけなかった。週に二回ほど、トイレの個室で義務のように自慰をする。快感がないと言えば嘘になる。だけど、自身の男性性を認めているような気がして、途轍もない罪悪感に苛まれる。しかし、出さなければ、不意に漏れるかもしれない。それが怖かった。
ある夜、布団の中でスマートフォンを開いた。寮則では禁止されている。だが、隠し持っている。ぶっちゃけ、持っていない者のほうが少ない。検索窓に、震える指で打ち込む。
「男 なりたくない」「精通 嫌」「性別 違和感」
次々と表示されるページを読み漁った。
Gender Identity Disorder。性同一性障害。今は「性別違和」と呼ぶらしい。
読み進めるほど、息が詰まった。当てはまる。幼少期からの違和感。女の子の遊びへの自然な嗜好。男らしさへの拒否感。精通への恐怖。自分は、これではないか。だが次の行で、現実が立ちはだかる。
未成年は、両親の同意が必要。
父の顔が浮かぶ。無理だ。絶対に、無理だ。それでも読み進める。
思春期の男性化を抑える治療。抗男性ホルモン。本格的なホルモン治療の前段階。
「一時的に止めることができる」
その一文に、視線が釘付けになる。止められる。この身体の進行を、止められるかもしれない。その夜、千宥は眠れなかった。何日も、同じ単語を検索した。自分と同じような話を探して、似ているところだけ拾っては閉じた。当てはまると思うたびに安心して、次の瞬間には思い込みではないかと怖くなった。
それでも結論は変わらなかった。何もしなければ、男になる。それだけは、避けたかった。年が明けた頃、千宥は静かに決断した。これは反抗ではない。逃避でもない。延命だ。自分を、自分のままでいさせるための。まずは、男性化を止める所から。女性化に突っ走らない。……というか、こんな男子寮で「女性化」したら、正直、危険すぎる。自分の中でさしあたりの方針が定まり、その入手方法を必死になって探したのだった。
それから数日後に、初めての薬が届いた。届け先を近所の郵便局の「局留め」にしてもらい、週末の外出で回収した。
薬を飲み始めてから、目に見える変化はなかった。だが、安心があった。
声は変わらない。喉仏も出ない。肩幅も広がらない。そして、義務になっていた「処理」の頻度も格段に減った。というか、ほとんどしなくなったが、あの時のような夢精も起きない。
それでも、完全に楽になるわけではない。寮は男子だけの世界だ。
中二の夏、再び鈴蘭の家を訪れた。思えば、小学校まで福岡に住んでいたため、年に一、二回訪れる程度だった。しかし、今は同じ高宮なのだから、しょっちゅう遊びに行けるではないか。それに気づいたのは、自分が「女なのではないか」と自覚したのとほぼ同時期だった。
「うん、私の中学の時のやつ。あるよ。千宥にぴったりかもね」
一年半ぶりの女装。おそるおそる頼んだが、鈴蘭の返事は非常にあっさりしていた。
ワンピースに袖を通す。鏡の中の自分は、以前よりもしっくりきた。背が伸びきっていない。声も高いまま。肩幅も狭い。
「……やっぱり」
鈴蘭は何も聞かなかった。だが、見ていた。
「相変わらず似合ってるよ。いま月陵なんでしょ?もっと前から来てくれてもよかったのに」
その言葉に、喉が詰まる。月陵では、常に男であることを求められる。ここでは、何も求められない。比較が、決定的になった。自分は、女になりたいのだ。その言葉を、初めてはっきりと自分に許した。
幸か不幸か友人が少なかった千宥は、休日の外出の多くを、鈴蘭宅に遊びに行くのに当てた。
中学三年になっても、月陵の空気は変わらなかった。内部進学は当然。成績がよほど悪くない限りはそのまま高校へ。特に問題のない生徒は、迷うことなくレールの上を進む。進路面談で担任は言った。
「お前は問題ないな。このまま変わらず続けていったらいい」
「いい」という言葉が、妙に重く感じられた。父も当然のようにそう言った。
「お前はもうこのまま高校までいればいい」
重く感じる理由はある。だが、言えない。男子校。男子寮。男として扱われ続ける未来。一年ちょっと前から自覚する違和感は、もう「違和」ではなかった。拒絶だった。
ある休日、学校の下の町まで遊びに行った。珍しく友人に遊びに誘われたので、女装はお休みだ。
月陵学園があるのは高宮市菊水寺町という町で、春若町の隣にある。この辺は菊水寺港を中心に、ショッピングセンターや商店街などが広がる。行きつけの本屋へと続く道を、友人と歩いていた。
友人の名は綾香雄人。一年生の時からの仲だ。寮生として同室者との関係も決して悪くはなかったが、一番心を許していたのがこの雄人だったと思っている。お互い小柄なので、体育で一番前同士でペアになることが多かったのだ。
千宥は月陵でも比較的成績優秀な方ではあるが、一方で雄人は常に退学がちらつくほど成績が悪かった。そして、この時期からおよそ一年あまり、成績不振で本当に月陵を離れ、春若栄久高校にやってきた。しかし、まっすぐでいい子。それが千宥が雄人に抱いていた印象だった。嘘がつけない真っ直ぐな子。そして、人を悪く言わない子。二年生で別のクラスになり、三年生の春、一年ぶりに同じクラスになった。
途中、通り沿いに「あやか医院」という看板が目に入った。前を何度も通ったことがあるが、雄人と並んで歩いて初めて意識した。
「ここ、あやか医院って、もしかして雄人くんの……?」
「そうだよ。お父さんがやってる」
「そうなんだ。じゃあ、雄人くんもお医者さんを?」
「いや、無理だね。僕みたいなおっちょこちょいには難しいし、もっとしたいことがあるからさ。それを言ったら、お父さんも、お前のしたいようにしなさいって言ってくれた。跡継ぎとか考えなくていいから。だからテナントで開業したんだって」
千宥は、それを聞いた時、途轍もない羨望というか嫉妬にも近い感情がわいた。こうやって、子供に好きにさせてくれる親もいるんだ。いや、自分みたいな親が多数派ではないのかもしれない。だけど、うちの親が雄人の親みたいなタイプだったら。
本屋で漫画コーナーや小説のコーナーなどをめぐる。レンタルコーナーで雄人はDVDを借りた。千宥は再生の機械を持たないため、見ているだけ。そして、さっき言われたことで、どこか上の空だった。
来た道を戻り、今度は港の奥にあるショッピングセンターで昼食を食べることにしていた。そして、再度あやか医院の前を通る。こらえきれず、千宥は切り出す。
「ねえ」
「どしたの?」
「雄人くんは、月陵、好き?」
「ああ、好きだよ。……学校側が僕が好きかは知らないけど。じゃあ杠くんは?杠くんは学校には好かれてそうだけどね」
「じゃあ、……逆かな。正直、この学校、嫌になってきて、出たくて」
雄人は一瞬、表情を止めた。
「え?」
「出たいんだよ。ここ、無理」
「無理って、何が」
答えは濁す。
「全部」
雄人はしばらく黙ったあと、肩をすくめた。
「もったいないなあ。成績いいのに」
正論だ。それがいちばん堪える。
「理由とかじゃないんだよ」
声が少し荒くなる。雄人はじっと見ていた。
「じゃあさ」
少し間を置いて、軽く言った。
「退学になれば?」
「たいがく……」
千宥はぽかんとしつつ反芻した。
「なんか悪いことしたら、退学になるかもしれないよ。ほら、校舎とか寮の窓ガラス全部割ってみたり、なんか、高そうな備品ぶっ壊してみたり、先生のことぶん殴ってみたり」
冗談のつもりだったのだろう。だが千宥は、その言葉をそのまま受け取った。
退学。レールから外れる唯一の方法。
その夜、寮の廊下に立った。静まり返った空間。夏になろうとしている時期の、ぬるい夜の空気。掃除用入れ。バケツに差し込んであった箒を持ち上げる。
一枚目の窓ガラスが割れたとき、胸の奥で何かが弾けた。二枚目。三枚目。……
割れる音が、やけに澄んでいた。
翌日、当然のように呼び出された。寮監の怒声。学年主任の叱責。自宅謹慎。父の沈黙は、怒鳴られるよりも怖かった。だが――退学にはならなかった。
「思春期の一時的な情緒不安定と判断する」
学校はそう処理した。もちろん、ガラスは千宥の親が弁償したが。一週間後、寮に戻され、再度登校した日、雄人が低く言った。
「杠くん、君、マジだったのかよ」
千宥は答えなかった。だが、雄人の目は変わっていた。軽口では済まないと、理解した目だった。
それから数週間、ほぼ何も起きなかった。だが千宥は焦っていた。一度では足りない。一度の謹慎では退学にはならない。
そう思ったある夜、夜に寮を抜け出してみたが、それは割とすぐに見つかったこともあり、反省文で済んでしまった。
なら三度目は……。この学校の厳しい校則であれば、イエロー二枚でレッドカードになるように、二度目の謹慎相当の違反で退学処分になる。そういう制度だ。もう一度、重大な違反をしなければ。けれど、何をすればいいのか分からない。生来「いい子」だった。悪事の発想がない。雄人はその様子を見ていた。
ある日、雄人は廊下でわざとぶつかってきた。
「なあ、結局君、逃げたいだけだろ」
小声だったが、刺さった。
「親に逆らえないくせに、学校のせいにしてんじゃねえよ」
心臓が跳ねる。
「本気で壊す覚悟もないくせに」
その瞬間、胸の奥で何かが切れた。何を言い返したのか、自分でも覚えていない。ただ、気づけば胸ぐらを掴んでいた。取っ組み合いになる。周囲がざわつく。階段の踊り場で足がもつれる。
一瞬の浮遊感。身体が宙を切る。鈍い音。呻き声。
雄人が階段下でうずくまっていた。左手が不自然な角度に曲がっている。
血の気が引いた。一瞬吐き気すら覚え、左手を口に当てた。
「……ちょっと」
なんとか吐き気を飲み込み、千宥は駆け寄る。雄人は歯を食いしばりながら、無理やり口角を上げた。
「いやー……利き手じゃなかったのが幸いだよ」
そして、小さく笑う。
「これで……退学できるよ、多分」
その笑いを、千宥は今も忘れられない。相手に重傷を負わせるほどの暴力行為。少なくとも二度目の謹慎には十分すぎる行為だった。
それからのことは、千宥もよく覚えていない。たぶん、そこから一、二日は、隔離のために寮の使われていない棟の個室に閉じ込められていたのではないのだろうか。
覚えているのは、処分が下される日だった。校長室に呼ばれ、事務的な声で告げられる。
「二度目の重大規律違反につき、退学処分とする」
言葉は静かだった。胸の奥も、妙に静かだった。
終わった。
達成感はない。解放感もない。ただ、取り返しのつかなさだけがあった。
学校に呼ばれた両親。父の怒鳴り声が廊下まで響いたらしかった。だが、処分は覆らなかった。月陵は規則で成り立っている。大企業の会長の息子でも例外はない。あれほど絶対に見えた父の声が、学校の規則の前では通らなかった。そのことに、安堵したのか、余計に怖くなったのか、自分でもわからなかった。
帰り際、父は言った。
「恥をかかせたな」
その一言が、何よりも重かった。
翌日、もう千宥は登校できない状態だった。謹慎はおろか、もう退学が決まったため、寮に残って荷物をまとめている。夕方、もう出なければならない。
学校が昼休みの時間、寮の廊下から外を見ると、うろうろする人影があった。手にギブスを巻いた雄人だった。つい窓を開けた。すると、雄人が白いギプスを巻いた左手を振りかざした。下まで降りた。
「ごめん」
千宥はそれしか言えなかった。雄人は笑った。
「別に。僕も共犯でしょ」
そして、少しだけ真面目な顔になる。
「ちゃんと、実行したんだから、これからどうするか決めないとね」
その言葉に、千宥は頷いた。だが、その先に待っているものを、このときの千宥はまだ知らなかった。
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重たい沈黙が落ちた。最初に息を吐いたのは慎吾だった。
「……いや、待て。窓ガラス全部って、マジで全部?」
半分冗談めかした口調だったが、声はかすれている。千宥は肩をすくめた。
「その階の、ね。今思えば、やりすぎだったと思う」
「やりすぎってレベルじゃねえだろ……」
慎吾は額を押さえたが、強くは責めなかった。健介は腕を組んだまま、じっと千宥を見ている。
「雄人ってさ」
静かな声だった。
「最初は本気じゃなかったんだよな」
「うん」
「でも、二回目は……分かっててやった?」
少しの間。千宥は視線を落とした。
「多分ね。敢えて、挑発したんだと思う。ああまでしないと私も行動できないって思って」
「……骨折まで想定してたわけじゃないよね」
雛灯が首をかしげる。
「それは、ないと思う」
千宥は小さく笑った。
「本人も驚いてたよ。痛がってたし。……忘れられないよ。『これで退学できると思うよ』って私に笑いかけたの。あの子、割と突っ走るから、本当に喧嘩を吹っ掛けたはいいものの、どうしたらいいかわからなくなっていたところに、『あ、これで大丈夫になった』と思ったんだと思う」
「なるほどな」
「雄人ならあるな、それ」
千宥の分析に、付き合いのある健介と慎吾は妙に納得した。短い肯定。茉衣子が目元をぬぐった。
「なんでさ……そんな回りくどいことしなきゃいけなかったんだよ?」
怒りにも似た響きだった。
「転校って、言えばよかったじゃん。親にさ」
その言葉に、千宥はわずかに首を振る。
「言えたら、楽だったと思う」
「でも、言わなかったんじゃなくて、言えなかったんでしょ」
雛灯の声は静かだ。
「うん」
肯定は、ほとんど息だった。
「言って聞くような親じゃないから」
その言葉に、慎吾が小さく舌打ちした。
「まあ、話聞く限り、父ちゃんはそうだろうな」
「それにね、ちょっと端折ったけど、二年生の時には、同級生と仲良くなれないどころか、ちょっといじめに近い状態になってね。その時もやめたいって言ったんだけど、『お前が相手しなければいい』の一点張りでね。……これはもうダメだって思ったの」
追加の告白に場が沈む。
「そういや、お前のお父さん、退学が決まった時、実際ブチ切れたんだろ?」
沈黙を破るように、恐る恐る健介が聞く。
「うん、すっごくね。なんとか、こっちで言って聞かせるから、二度目の謹慎で勘弁できないかって」
「でもダメだったんだ」
雛灯が指摘した。
「だから、あそこまでキレたわけか」
慎吾が続けた。
「そう」
短い返事。茉衣子が、少し身を乗り出す。
「今また同じ学校になってさ、雄人と、その時の話ってしたん?」
千宥は少し沈黙して言った。
「しないよ」
「恨んでないん?」
「恨んでない……私は。どっちかというと被害者は雄人くんだけど、まあ、変わらず付き合ってくれてる。……あの子、嘘つけないから、わかるよ。……もう過ぎたことだから。退学した日に『ごめん』って言い合って、私たちの中では済んだことなの。……学校はすまさなかったけどね。結果的には、多分、うちの親以外みんないい感じ。雄人くんにけがをさせたのだけは今でも申し訳ないけど」
かすかな笑み。雛灯が、ゆっくりと言う。
「でもさ」
「うん?」
「退学って、普通は人生終わったみたいな顔になるよね」
千宥は、少しだけ考えた。
「終わった、とは思わなかった」
「じゃあ?」
「壊してやった、って思った」
四人が黙る。
「自分で、壊した。初めて、自分で」
健介が低く言う。
「……後悔は?」
長い沈黙。
「雄人くんの手のことは、後悔してる。もっと誰も傷つかずにこの学校を出られたらって、それだけは本当に」
それは即答だった。
「でも、退学したことは?」
慎吾が畳みかける。千宥は天井を見上げた。
「後悔してない」
はっきりと言った。
「怖かったけどね。お父さんの顔も、学校の空気も。でも、あのまま高校に上がってたら、多分、私が壊れてた」
「……ギリギリだったんだな」
茉衣子が小さくつぶやく。
「うん」
「そのときは、自分が『女』だって、もう完全に思ってたの?」
雛灯が次の質問をする。
「思ってた」
迷いはなかった。
「だから、あそこにいられなかった」
健介が深く息を吐く。
「実家に戻されて……どうなったん?」
茉衣子が問いかける。空気が再び静まる。千宥はゆっくりと息を吸った。
「……あんまり碌な目には遭わなかったよ」
視線を上げる。
「……今から話すけどね」
【次回予告】
月陵を退学し、実家に戻った千宥。そこは、さらなる地獄だった。
次回に続きます。お楽しみに。
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