第21話 服の上、服の中
※おことわり※
このエピソードには医学的・倫理的に慎重な扱いを要する内容を含みます。ネタバレ防止のため、詳細はあとがきで申し上げますが、このエピソードをお読みの方は必ずあとがきをお読みください。
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:5〜10%
AI文をベースに改稿:20〜25%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:65〜75%
三学期の期末試験が終わって、数日が経った金曜日のことである。春若栄久高校、一年四組の教室の空気は、もうどこか軽い。廊下の窓から入る風はまだ冷たいのに、日差しだけは確実に春へ向かっている。カーテンがふわりと揺れるたび、机の上のプリントがぱらぱらと鳴った。
「はああああ……終わった……」
大上茂が机に突っ伏す。顔だけ横に向けて、天井を睨む。
「英語の追試、確定だ」
「マジか」
樋口健介は苦笑した。
「そんな悪かったのか」
「ダメだ。日本語だけで精いっぱいだ」
「どれ」
健介は、ある問題に目を留めた。朝長慎吾も後ろから覗き込む。次の英語を和訳せよ。“He left her alone.”。大上の答えは「彼の左どなりで彼女がひとりぼっちだ」。
健介が吹き出す。
「Leftなあ」
「間違えたのでそっとしといてくださいってか」
慎吾が茶々を入れる。正解は「彼は彼女を一人にしておいた」、要はそっとしておいたというわけである。
「追試で忙しくなるからな。放っておけ」
笑いが起きる。解放感はある。けれど、点数のことを考えると少し胃が重い。そんな微妙な季節だ。
健介はというと、何とか追試もなく乗り切った。世界史が三十六点だったのは気になるが。ただ、進級基準自体はクリアしたので、もう四月から二年生と胸を張って言える。胸を張れるほどの成績でもないが。
隣の慎吾を見る。この男、ヤンキー然としているのに、成績は学年トップテンだ。おまけに彼女とキャッキャウフフしていて。自分のことはいいから彼女に勉強教えたらいいのに。健介はついうっかり顔がゆがんでしまう。健介の中で、慎吾が古波蔵茉衣子と付き合い始めたことは、なにげに大事件である。
「どうしたんだ健介?お前も追試か?」
「ちげーよ。なんとか回避したわ」
放課後、大上は担任の伊福成芳に職員室に呼ばれたらしい。追試の件だろう。慎吾に至っては早々と教室を出ていってしまった。お盛んな奴め。今日は熱を出したらしく綾香雄人は欠席だった。一人取り残された健介は、なんとなくふらりと教室を出て、家路につく。
「健ちゃん!」
声を掛けられ振り向くと、慎吾の双子の妹でもある朝長雛灯だった。杠千宥もいる。
「健ちゃん、帰り?」
「ああ」
「一緒に帰ろう」
「いいけど。……アローン部だな」
少し前に、この三人に恋人がいない(千宥はグレーだが)という話をしたばかりだった。
「茉衣子ちゃん、一目散に出て行ったもんね」
千宥も苦笑しながら言う。
「玉ちゃんは、彼氏くんのお見舞いだって」
茉衣子と中学校時代からの親友である玉井絢那も、雄人と交際していることが近ごろ判明した。ちなみに、雛灯は現時点で雄人のことをよく知らないらしい。
「雄人くん、今日休んでたの?」
千宥が健介に聞く。
「ああ、いなかったよ。熱だか何だかで。……見舞い行っていいのか?」
「さあ……」
千宥が首を傾げた。このご時世、発熱時に人に会う、という行為はなかなかハードルが高い。すると、千宥のスマホが鳴った。画面を見てクスッと笑った。
「玉ちゃん、追い返されたって。熱があるからダメって」
「だろうな」
千宥がスカートのポケットにスマホをしまい、三人はおもむろに歩き始めた。
「そういやさ、」
雛灯が突然口を開く。
「ホワイトデーだよね。健ちゃん、何かくれる?」
「……あ」
健介は固まる。そうだ。忘れていたわけではないが、考えないようにしていた。三月。バレンタインから一か月。もうすぐだ。
「健ちゃん、いくつもらった?」
「聞くなよ」
「いや聞く」
「……」
雛灯が質問を強行し、健介は渋々記憶を辿りながら指を折る。
「まあ、クラスの義理と……あとは……」
ちら、と横を見る。千宥は数に入るんだろうか?ちょっと考える。
「……私も、いくつか」
健介が答えるよりも前に、その千宥が突然口を開き、雛灯が首を傾げる。
「『私も』?」
「まあ」
「誰から?私たちはノーカンだかんね」
雛灯の他に、茉衣子や玉井も「友チョコ」としてやりとりをしているらしい。そして、健介はその四人からはもらっている。
「……男子扱いでもらったのも、あった」
「は?」
健介が素っ頓狂な声を出す。
「どういうことだよ」
「そのまんま。なんか、わかるんだよね。私のことを女子扱いしてる子と男子扱いしてる子って」
千宥は肩をすくめた。
「そういう子たちからもらった。三人ぐらい」
「返すの?」
「それで悩んでる」
雛灯が腕を組む。
「男子扱いで?」
雛灯が繰り返す。
「そう」
「で、自分からもあげて?」
「……うん」
もらった方の健介もうなずく。
「なんか、千宥だねえ」
雛灯が笑う。
「どゆこと」
「悪いことじゃないよ?いろいろな人がいるなって。話してて面白い」
「なんか複雑」
千宥が眉をひそめる。
「……美佳さんからももらったの?」
「え?」
千宥が一瞬びっくりする。千宥のことを男性として知っていて、それでいて女性の姿でも愛することを決めた、新宮領美佳。
「うん、郵送だけどね。忙しくて来れなかったって」
千宥は、雛灯の質問を認めた。健介は黙る。郵送、という言葉が意外であったが、東京の子だとは聞いていたので、無理からぬ話だとも感じた。
「それは返さないとだな」
「うん、それは」
千宥は小さく頷いた。春の光が道の端に落ちる。まだ暖かいとは言い難いが、冬より、少し軽い。
「しかしさあ」
雛灯が言う。
「男子扱いでもらって、女子扱いでももらって、しかも自分からも配るとかさ。千宥ってほんと、どのポジションなんだろね」
「ポジションってなに」
「分類不能って意味」
「なにそれ」
千宥が苦笑する。歩道の端に、小さな段差があった。雛灯がひょいと越える。健介も続く。そのときだった。千宥が、足元を気にして、ふと立ち止まった。
「あ、ちょっと待って」
そう言って、身体を折る。屈む。ローファーを脱ぐ。石でも入ったのか、靴を脱いで軽く振る。
ブレザーの前が、ふわりと開いた。春の日差しが、斜めから差し込んでいた。健介は何気なく、視線を落とした。
――その瞬間。健介はブラウスの奥が目に入った。その中が、柔らかい丸みがあるのが見えた。まあ、元々盛っているから、それはそうなんだろう。いや待て、なんかこれ、地肌だぞ。というか、谷間がある。どういう意味だ。脳が、処理を拒否する。
男、だよな。そう聞いている。でも。目の前の光景は、そうではない。屈んだ姿勢のまま、千宥が顔を上げる。
「よし」
靴を履いて立ち上がる。その動きで、布が自然に沿う。輪郭が、はっきりする。健介の心臓が、どくん、と大きく鳴った。
「健ちゃん?」
雛灯の声が、遠い。
「あ、いや」
視線を逸らす。逸らしたのに、さっきの光景が焼き付いている。その後も口数は少なくなった。上の空の状態で、気づけばアネックスの敷地内に入っていた。
「ま、健ちゃんは私にも返してよね!うちの地元のいいお店のチョコなんだから」
健介はふと思ったが、クリスマス会に地元の店のチキンを持参するなど、この兄妹、やっぱり地元愛が強いな、と感じる。
「三倍返しは無理だが、まあなんか見繕っとくよ」
「バイバイ」
「じゃあねー」
千宥も雛灯も二階なので、一階の健介とはここでお別れだ。健介もあとは帰宅するだけなのだが、ふと立ち止まる。さっき見たものを反芻する。千宥、本当に男なのか。いや、そう聞いていたはずなのに。何がどうなってるんだ。
玄関の前で、健介は立ち止まった。鍵を取り出しかけた手が、止まる。頭の中で、さっきの光景が何度も再生される。白いブラウス。つい見えてしまった薄紫の下着。丸み。……谷間。――見間違いじゃない。あれは。胸、だった。それも、男の胸部とは明らかに違う、「おっぱい」だった。
「……なんでだよ」
小さく呟く。男だと聞いていた。そういう話だと思っていた。でも、身体は――
「何が?」
背後から声がして、肩が跳ねる。振り向くと、茉衣子がコンビニ袋をぶら下げて立っていた。隣に慎吾。
「うわ、びっくりした……」
「健介がびっくりしてどうすんだ」
茉衣子が眉をひそめる。
「立ち尽くしてたけど?」
「いや、ちょっと……」
言葉が濁る。慎吾が健介の顔をじっと見る。
「顔、変だぞ」
「変ってなんだよ」
「頭がいっぱいいっぱいになってる感じ。処理落ち」
慎吾が、パソコンでよく見る「お待ちください」のマークのように指をぐるぐる回してみせた。
図星だった。健介は一瞬迷ってから、口を開く。
「……千宥」
「うん」
「さっき、一緒だったんだけど」
「うん」
「……見えた」
茉衣子がきょとんとする。
「何が」
言うしかない。もう、頭の中だけで抱えていられない。
「胸」
一拍。茉衣子が瞬きを二回する。
「……あー」
妙にあっさりした声だった。健介は面食らう。
「『あー』って何だよ」
「見たんだ」
「見たっていうか、見えたんだよ」
断じて見ようとしたわけではない。……見えてから、気になってつい釘付けになってしまったが。
「本物だったん?おっぱい」
「……」
否定できない沈黙。しかし、その数秒のわずかな沈黙を茉衣子が破る。
「やっぱりな」
「やっぱりって何だよ」
「最近、抱き心地よかったもん」
「は?」
健介の声が裏返る。
「初詣のときも思ったけどさ、冬って厚着だから、あれ?なんかやわらけえな。ぐらいだった」
さらっと言う。確かに、初詣の日、茉衣子は路面電車の電停で暖を取るために千宥に抱きついたし、そんなことを言っていたような気もする。
「でもこの前、ちょっと薄着の日にふと抱きついてさ、完全に女の子の体だったよ。おっぱいだけじゃなく、なんか質感がさ」
「お前、そんなこと……」
「何回も抱きついてるからわかるぞ?」
悪びれもない。
「触覚派の証言は信頼度高いな」
慎吾が横でふっと笑う。
「慎吾は?」
「俺?」
慎吾は少し首を傾げる。
「おしり」
「お前な」
おしりが好きな慎吾の回答に健介は眉をひそめる。
「いや、真面目に言ってる」
真顔だ。健介はため息をつく。
「立ち姿のラインが変わってた。最近、重心が下がってる。腰の位置も。あとな、うっすらくびれてきて、太もももむっちりしてきてだ」
「……」
「要するに、俺好みに育ってる」
「おい」
茉衣子が軽く肘で小突く。
「そこいらん」
「事実だろ」
健介は呆然と二人を見た。
「なんでそんな冷静なんだよ」
「いや」
茉衣子が肩をすくめる。
「だって、千宥だし」
「意味わかんねえよ」
「なんかさ、ずっと『そうかも』って思ってたから」
慎吾が続ける。
「今日お前が見たなら、もう確定ってだけだろ」
「確定って……」
「びっくりはするけどさ」
茉衣子は言う。
「嫌とかじゃなくね?」
健介は言葉に詰まる。嫌、ではない。動揺はしている。でも、拒絶ではない。
「ただ、知らなかっただけだろ?」
「それな」
慎吾が頷く。
「そ、知らなかったものを見ただけ」
茉衣子が、ふっと笑う。そして、健介に向き直り言う。
「健介、顔真っ赤だった?」
「なってねえよ」
「なってただろ」
「なってねえって」
慎吾が肩を震わせる。
「ビビったのは事実だろ」
「うるせえ」
けれど、三人の間に変な緊張はない。どこか、軽い。良くも悪くも、いつもの空気。
「でもさ」
茉衣子がふと、少しだけ真面目な顔になる。
「ん?」
「本人、何も言ってないんだよな?」
茉衣子が、少しだけ視線を落とす。健介はうなずく。
「言ってない。俺が見ただけ。……お前らもそうなんだろ?」
「ああ、あたしも別に何も?」
「俺もだ。別に気づいたとかいう話も、千宥ちゃんには言ってねえし」
慎吾が腕を組む。
「つまり、俺ら三人が勝手に『察してる』状態だ」
「確定って言ったのはお前だろ」
健介が慎吾を睨む。
「身体の変化が、な。千宥ちゃん側のスタンスは不明だ」
さっきまでの軽口の空気が、少しだけ落ち着く。茉衣子が続ける。
「あたしさ、抱きついたときに『あ、女の子だ』って思ったけど、まあ、気のせいとは思ったもんな。あたしがそう思ってるからそう、みたいな感じではあったから」
「……まあ」
確かに。茉衣子の感触は決め手に欠ける。ただ、さっき自分が見たものは、事実ではあるし、より「女の子っぽさ」を思わせる状況ではある。ただ……。
「お前、なんて言うつもりだったんだよ」
慎吾が健介を見る。
「なんて?」
「おっぱい見たぞって詰めるつもりだった?」
「いや、そんなわけあるか」
「だろ」
慎吾は小さく笑う。
「俺もさ、気づいてたけど聞いてない。本人が言わないなら、それ以上は踏み込まない」
「でも」
健介は言葉を探す。
「これ、隠しきれるのか?」
沈黙。茉衣子がおもむろに口を開く。
「無理じゃね?」
「だよな」
慎吾が強く頷く。
「だってさ、もうあたしが気づいて、慎吾が気づいて、健介まで気づいた」
指を三本立てる。
「クラスでも、気づく奴、出てくるぞ」
「出るだろうな」
慎吾は淡々と。
「春になって薄着になるしな」
慎吾の指摘に、健介の胸がざわつく。見えてしまった光景が、また脳裏をよぎる。
「でもさ」
茉衣子が言う。
「気づいたのがあたしらだから、フォローはしてやれる。いねえよな。それを利用して千宥を傷つけようとか」
慎吾はいつになく真面目な顔で首を横に振る。健介はそれに圧倒されながらも同様に首を振る。
「あたしらは、千宥の味方だ。だから、知ってることは伝えた上でフォローすべきなのか、今は知らんぷりしてやるのか、どっちが正しいのか、わかんねえんだ」
茉衣子、こんな真面目なことを考えるんだな。健介は内心びっくりしていた。
「どう思うよ?お前ら」
どう思うも何も、バカだと思っていた茉衣子がここまで千宥のことを考えているのと、そもそもの千宥の「女性化疑惑」自体と、その対処法と、もう混乱でしかない。
「どうって、どうしたらいいかわかんねえよ……」
絞り出すように健介は言った。慎吾は数秒かけて、ふーっと息を吐き言った。
「俺ね、千宥ちゃんが『そうなんじゃねえか』って気づいてから、ネットで調べたりしたの。で、調べた限りだと、こういうの、千宥ちゃんのOKをもらわずに言うのはNGらしい。茉衣子の言う通り、知らんぷりしてやるのも、ある意味正しいのかもしれない」
慎吾がついに茉衣子を呼び捨てにし始めたのに気づいても言い出せず、健介は慎吾の言葉に耳を傾ける。
「けど、人に言いふらすのはNGでも、千宥ちゃん本人にどうなん?って言うのはまあ、NGとまで言えないかも。それはほんとに俺にも分かんねえ。で、それよりかは、他のわけわかんねえバカが千宥ちゃんがおっぱい出てきてるだのヤれるだの変なこと言い出す前に、俺らは味方だよ!という意思表示するのは、正直ありだと、俺は思う」
一理ある。ただ、健介は、ただ単に、茉衣子や慎吾ほど前向きにはなれなかった。
「けどさ、どうやって切り出すんだよ」
その問いかけにさすがの慎吾も考えこむ。
「……まあ、簡単じゃねえよな。けど、明日からも俺らは千宥ちゃんに会うんだから、いつでも意を決した時に言えると言えばそうだし、不自然にならないように、早めに手を打った方がいいともいえる」
慎吾がこういう広めの二択を出すときは、基本的にお手上げだということだ。
「あたし、自信ねえよ?隠し事とか。それに、抱きつくのもなんか遠慮しちゃう。ずっとおっぱい意識しそう。なんか、こう、急にそっけなくなるって言うか?自然に振舞うの無理ゲーっていうか」
茉衣子も頭を抱える。三人それぞれ手詰まりになったようで、重い沈黙が続く。
その時だった。階段の方から足音が聞こえてきた。降りてきたのは、なんと千宥だった。
「あれ、みんな、どうしたの?」
「おう、千宥ちゃん。まあ、ばったり会って話しただけだけど?」
慎吾がひとまず言う。
「にしては、三人とも深刻そうな顔してるけど。……どうしたの?なんか、私も知っておいた方がいい話?」
そう聞かれた瞬間、健介は心臓がひっくり返るような気持ちだった。どうやら、茉衣子も同じだったらしい。そう、傍目に見て、図星を突かれたようだ。自分がどうかは知らないが、少なくとも、茉衣子は非常にわかりやすい。
「……ほんとに、どうしたの?」
千宥が首をかしげる。逃げ場が、なくなった。健介の心臓が、ばくん、と鳴る。茉衣子が、あからさまに目を泳がせる。慎吾だけが、一瞬だけ目を細めてから、いつもの顔に戻った。
「別に」
「『別に』って顔じゃないでしょ」
千宥は笑っているが、その目は鋭い。
「三人とも、今、同じタイミングで固まった」
図星。健介は喉がひくりと鳴るのを感じた。ここで誤魔化せば、明日が地獄になる。でも、いきなり言うのも違う。慎吾が、ゆっくりと口を開いた。
「なあ、千宥ちゃん」
「なに」
「一個、確認していい?」
「確認?」
千宥は一瞬だけ、表情を消す。健介はそれを見逃さなかった。
「最近さ」
慎吾は言葉を選ぶ。
「体、変わってきてるよな」
静寂。茉衣子が息を呑む。健介は、逃げ出したくなる。千宥は、三人を順に見る。否定しない。笑わない。でも、怒りもしない。
「……それ、どこまで気づいてる?」
静かな声だった。その問いに、三人の心臓が同時に跳ねた。つまり。気づいていることを、気づいている。慎吾が、正直に答える。
「それぞれ、ちょっとずつ」
「ちょっとずつ?」
「抱き心地とか」
茉衣子が、ぎこちなく笑う。
「……見えた」
健介も、恐る恐る口を開く。千宥の目が、一瞬だけ揺れる。
「……どこ」
「……胸」
夕方の空気が、重くなる。長い沈黙。誰も冗談を言わない。千宥は、少しだけ視線を落とし、また上げた。逃げない。もう、逃げない目だ。
「そっか」
短い一言。責める響きはない。ただ、事実を受け止める声。
「びっくりした?」
「した」
健介は、正直にうなずく。
「嫌だった?」
「……嫌、ではない」
千宥の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「そっか」
「あたしさ、正直ずっと気づいてた。でも、言わなかった」
茉衣子が、思い切って言う。
「うん」
「なんか、そうなんじゃねえかって気はしたけど、間違ってたら嫌だから。でも、今日、慎吾と健介と話して、あ、マジだったんだってなって」
「……そういえば、慎吾くんは何で気づいたの?」
「聞きたいか?茉衣子みたいに直接感じたわけでも、健介みたいに事故でもないけど。もっと、男としてどうしようもなく下世話な視点だよ」
「……覚悟はできてる。聞かせて」
慎吾は、おもむろに口を開いた。
「千宥ちゃんのさ、おしりが、近頃もう女の子のおしりになってるって思った。ただ男らしくない体つきじゃなくてよ。もう立派な女性だと思った。正直、何らかの理由で男ってことになってるだけで、ガチの女の子だったんじゃないかってすら思ったよ。それはもう、真偽は千宥ちゃんしか知らんわけだけど」
そして、一歩だけ前に出る。
「俺ら、言いふらす気はない。だけど、俺ならまだしも、ニブチンの健介ですらわかっちゃった」
健介はあえて突っ込まない。
「正直、もっといろんな人に知られるんじゃないかな。多分もっと女らしくなるとしたら、多分隠せないよ。だけど、そうなったとして、俺らは味方だ。手伝えることがあったら、言ってほしい」
その言葉は、重すぎず、軽すぎず。ちょうどいい距離で落ちた。千宥は、三人を見る。目が、少し潤んでいるようにも見えるが、泣いてはいない。
「……ありがと」
小さな声。
「正直ね」
ゆっくりと続ける。
「そろそろバレるだろうなって思ってた」
健介の胸が、ぎゅっとなる。
「隠せる段階、過ぎてるよね」
三人とも沈黙する。
「でも」
千宥は、ほんの少し笑う。
「ちゃんと話すの、怖かった」
初めて、本音がこぼれる。
「あたしにはわかんねえけど。こんなんでも一応女として育ってきたからな。だから、あたしらにはわかんねえ普通じゃねえ悩みもあるだろ。たぶん」
茉衣子が、そっと言う。
「話したくなったらでいい」
慎吾もうなずく。
「俺らは、逃げない」
健介は、ようやく言葉を見つける。それだけ。飾らない。千宥は、三人を見て、深く息を吸った。
「……うん」
そして。ほんの少しだけ、覚悟の色を帯びた目で言う。
「じゃあさ。……ちゃんと話すよ」
三人が、同時に息を呑む。
「……みんな、今日、時間ある?」
「俺はあるけど」
健介には特に予定はない。
「あたしも。あ、今から宿題秒で終わらすぞ」
茉衣子が拳を握りしめてみせた。
「もしかして、話してくれるの?」
慎吾の問いかけに、千宥が言う。
「うん。もう、みんなには共有しておいた方がいいって思った。これからも、何かとお世話になるだろうから」
「わかった。……提案なんだけど、ひなも連れてきていいか?まあ、玉ちゃんは夜遅いから微妙だけど、ここにいるチーム・アネックス全体で、ひとまず共有してもいいんじゃないかと思うけど」
「ひなちゃんか……。いいよ。慎吾くんも茉衣子ちゃんも知ってるのに、ひなちゃんには隠せないよね。玉ちゃんも近いうち、かな……」
千宥が承諾した。
その夜、二十時。アネックス久世202号室。健介には姉、茉衣子には父親、そして当の千宥にも従姉と同居家族がいる中、五人だけの話ということで、兄妹のみで暮らす朝長家が会場に選ばれた。雛灯にも話すこととなったため、実現した会場だ。小さなローテーブルを囲んで、五人が座っていた。
気づけばこのアパートに住まう同級生は「チーム・アネックス」と自称するようになっていた。この五人がその住人となるメンバーだ。本当は、住人ではないが大家の孫としてよくアネックスを訪れる玉井絢那も含め六人とされる。しかし、夜遅いこともあり玉井は本日は呼ぶのを見送り、それ以外が集合した。
健介は、妙に緊張していた。けれど、千宥は驚くほど落ち着いている。
「……えっと」
両手を膝に置いて、少しだけ笑う。
「どこから話そうかな」
雛灯が、静かに言う。
「今日、なんかあったの?」
「うん。健ちゃんに見られた」
「は?」
雛灯の目が丸くなる。
「胸」
「あー……」
雛灯は一瞬で理解したらしい。
「そういや健ちゃん、千宥がしゃがんでる時、めっちゃじろじろ見てた。あれ胸見てたんだ」
雛灯がジト目になる。
「いや、ついだよ。男だって思ってたのに、『あったら』びっくりするもので……」
健介は慌てる。
「うん、大丈夫だよ。健ちゃん、私は大丈夫だから。ひなちゃんもそれぐらいにしてあげて」
優しい。それが救いである。千宥はうなずいた。
「そろそろだとは思ってた」
少し息を吸う。
「えっとね。まず、事実から言うと」
健介たちは自然と姿勢を正す。
「今、身体は、ほぼ女の子のものに変わっていってる」
淡々とした声。
「胸は、まあ……隠せるサイズじゃなくなってきてる」
「何カップなん?」
茉衣子はもう遠慮がなくなった。
「Bになりました」
遠慮のない茉衣子の質問に、隠す必要のなくなった千宥はむしろちょっと誇らしげだ。
「二生とか千鶴さんを見てると、まだ育ちそうだよな」
茉衣子の評価を聞き、健介は下世話なことではあるが、思い出したことがある。それは、慎吾がネットで拾ったという二十年前の週刊誌情報で、東京の某テレビ局のアナウンサーだった千宥の母、現・杠こと伊勢屋千鶴はFカップの巨乳、というものだ。先月、千鶴がこのアネックスを訪問し、その少し後にそういう話をしてきたのだ。また、あまりはっきり知らないが、言われてみれば妹の二生の胸もかなり大きいような気がする。
「私は十五歳から大きくなり始めたから、そんなに育たないかもだけどね。元々これぐらい育てばいいなって思って、最初はCカップのパッドをつけてたけど、ちょっと前に外したところだったの」
女子とこういう話に遠慮のない慎吾は普通の顔をして聞いているが、健介はなんだかいけない話を聞いているような気がして視線を落とす。
「身長は158cmで、もう一年は伸びていません。声は、たぶんちゃんと女性ホルモンを飲み続けたら、ここから低くなることはないだろうね」
「……」
「体脂肪のつき方も変わってきてる。腰回りとか、太ももとか、おしりとか。慎吾くんはそれで気づいたんだもんね」
慎吾が、無言でうなずく。
「生理はない。でも、それ以外は、だいたい女の子の第二次性徴に近い変化が起きてる」
雛灯が小さく息を吐く。
「……ホルモンしてるんだ」
「七月ぐらいからかな。女性ホルモンを飲み始めたのは。でも、男性ホルモンを抑える薬は中学ぐらいからやってた」
健介の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「じゃあ、ずっと……」
「うん」
千宥は笑う。
「そっか、声変わりしてないの、そういうことだったのか。男性ホルモンも抑えてね。じゃあ、射精とかしない感じか」
「慎吾!」
あまりに遠慮のない質問につい雛灯が声を上げる。茉衣子は雛灯の声にびっくりして振り返るのみだった。こういうとき、ストップをかけるのはいまだに彼女ではなく妹の方らしい。
「それは……する。あのね、その、出ちゃった時、わー、これはまずい、って思ってお薬買ったの」
千宥は苦笑し、言葉を選びつつ説明する。
「ってことは、病院とか行ってるわけでなく自分で買ったわけか」
慎吾は眉をひそめる。千宥は少しだけ迷ってから答えた。
「うん。自分で買った」
部屋が静かになる。
「多分、色々言いたいのはわかるよ。本当は自分でこういうことするのは、危険だって知ってる。けど、そうでもしないと、食い止められないって思ったから。少なくとも、その……射精がどうとか何より、声だけは変わったら死ぬって思った。体もね。服で隠れない部分が変わっちゃうのは、本当に嫌だった」
そして、千宥は一瞬深呼吸して、結論をまとめた。
「ずっと、男の子として生きるのは、無理だった」
文字にすれば、非常に単純で軽く見える。でも、その裏の重さは、誰でもわかる。
「最近は、ちょっと体の変化があって、体調が悪い時もちょっとあるけど、」
少し言葉を探す。
「やっと、自分に近づいてきた感じ」
茉衣子が、じっと見る。
「近づいた、ってことは」
「うん」
「もともとは、違った」
「そう」
千宥は、はっきりとうなずく。
「私は、ずっと、自分を女の子だと思ってた。……いや、違うかな。体がそうだから、男の子だってことは頭で理解してたけど、」
健介の呼吸が浅くなる。でも、もう驚きはない。ただ、静かに聞く。
「男の子って言われるの、ずっと嫌だった」
「……」
「だから、リスクを冒してでも、自分を変えることにした」
健介は、何をどう聞いていいかわからない。これも聞いていいかはわからないが、でも、気になったので聞くことにした。
「今からでも、病院に行くとかは無理なの?」
途端に、顔が暗くなった。胸の話や性器の話ですら普通の顔をして答えていたのに。まずい、地雷を踏んでしまった。健介は慌てる。
「ごめん、マズいこと聞いたなら聞き流してほしい。次の話しようよ」
「あ、うん、ごめん。そういうわけじゃなくて。えっと、健ちゃんの質問に答えると、今のままだとあと二年弱は無理になっちゃうね。十八歳未満は両親の承諾がいるから」
千宥は現在、十六歳ともうすぐ四か月。あと一年八か月待たなければならない。
「じゃあ、親御さんには言ってないわけね。もしくは、言ったけどってこと?」
雛灯が聞いた。
「……言ってない。まだバレてないと思うけど、みんなの言う通り、時間の問題だね。だって、世の中色々な親がいるけど、たぶん、理解してくれる親の方が少ないよ」
急に空気が重くなる。
「千鶴さん、無理な感じか?」
今度は茉衣子が聞く。
「わかんない。その、お母さんは本当にどう転ぶかわからないけど、一つ言えるのは」
千宥は一瞬間をおいて続けた。
「お父さんだけは地球が滅んでも無理。で、片親じゃない場合は『両方の』承諾が必要になる。だから、私が成人するまでは、お父さんが死なない限り不可能」
聞いていた四人が等しく固まった。
「そんなに、千宥ちゃんのパパはわからず屋なのかい」
慎吾が聞くと、千宥はおもむろに頷いた。
「昔から、女の子っぽい趣味を頭ごなしに否定された。本当に色々あってね。性のことだけじゃなく、本当に色々なんだけど、話すと長くなるよ」
静かに笑う。
「聞いてくれる?」
「聞くさ」
健介は、即答した。
「聞くに決まってるだろ」
茉衣子も。
「夜中までなってもいいぞ。明日休みだし」
慎吾は、静かにうなずく。
「せっかくだから聞かせて」
雛灯も姿勢を正した。
「じゃあ」
千宥は、深く息を吸った。
「最初から話すね」
窓の外、夜の空気は静かだった。時計は二十時十分を指している。
ここから先は、過去の話である。千宥の昔の話。物語は、静かに、過去へと向かい始める。
【次回予告】
杠千宥という人間がどのように生まれ、どのように育って、どのように春若で生きているのか。次回からじっくり語ります。
全三回と長いですが、お付き合いください。お楽しみに。
ちょっとでもわくわくしたら、☆をつけて、ブックマーク登録をお願いします。
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※おことわり※
本作は、医薬品の個人購入や乱用を推奨するものでは一切なく、GID(性別違和)を抱えた方々の、「命を懸けても」踏み切る切実な思いと「そうせざるを得ないリアル」を描くことを意図しています。
このような、「切実な悩みを抱える」人たちが自分らしく生きられることを願ってやみません。
本作をきっかけにご自身について考えること自体を否定するものではありません。ただし、医薬品の個人購入や自己判断での服用は危険を伴います。悩みがある方は、できる限り信頼できる人や専門機関に相談してください。
性ホルモン剤などの医薬品は、自己判断で使用すると心身に重大な影響を及ぼす可能性があります。現実に使用を考える場合は、医療機関や専門家に相談してください。
「私もそうかも」と思い込んで、安易に行動を起こすことは、厳に慎んでいただきますよう、何卒よろしくお願いいたします。
特に重要な注意喚起はこの辺までですが、お時間あれば目を通していただきたいのですが――
筆者自身は一応、ストレートな男性を三十数年やっておりますが、この問題に初めて触れたきっかけは、今から二十年近く前、まさに高校の時に、男だと思って五年間接してきた友人から、「女性として生きたい」と告白を受けたことです。
実際、その友人も、千宥同様、フラホル(医療機関で処方を受けずに、個人購入で性ホルモンを摂取する行為。医療機関にかかる前からする、という意味でフライングホルモンの略)の当事者の一人で、確か高校二年生の時から女性ホルモンを個人購入していたようです。両親との対立を繰り返し、なんとか「男に戻そうとする」親御さんと、「女性としての生きる道を模索する」本人の攻防でした。その思い、そして経緯も断片的にですが、当時私も本人から聞いております。全部を反映させたわけではありませんが、インターネット上の当事者の声も拾いつつ形にしたのが、この杠千宥という人物です。
男性としての変化が完成してしまうことは、当事者にとっては死ぬように辛いことです。今、ガイドラインに沿った形でも、「相当うまくやれば」、望む形での変化が比較的得られる患者もいるとは思います。
しかし、現実問題、両親をはじめとした周囲の理解であるとか経済的事情その他にも大きく左右されます。
トランスジェンダーの存在が社会に広く知られるようになったことで、社会的な理解を得られたり、今は逆にバッシングが強まっている時期でもあります。中には当事者に心無い言葉を投げかける人たちも後を絶ちません。
前述の通り、友人は親の理解が得られなかった立場ですし、千宥についても次回以降、じっくりと語っていくことになると思います。
また、経済的事情については「フラホル」にも大きくかかわります。実家が太い千宥だからできた面もあるとは思います。そして、それを公言してこなかった千宥の葛藤は、これからも続きます。
「良いことではない」というのは前提として、「現実的にそうせざるを得ない当事者も多い」ことを念頭に、千宥の葛藤を見守り続けていただきたいと思います。
なお、名前は出せませんが、その友人は本作の千宥のことを描くにあたっての参考という意味で「スペシャルサンクス」に相当します。
ご意見あれば遠慮なくどうぞ。




