第18話 季節外れの三者面談
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三者面談、そして、母親の手前、男子の制服で登校する。千宥の「Xデー」がやってきました。
杠千宥が目を覚ましたとき、天井が少しだけ低く見えた。昨夜よりも静かだった。母・千鶴がまだこの部屋にいることと、これから自分が学校へ行かなければならないこと、その両方が、朝の空気を少しだけ固くしていた。時計は六時十二分。隣の部屋から、食器の触れ合う小さな音がした。千鶴はもう起きているらしい。布団から抜け出して、顔を洗う。鏡の中の自分を一瞬だけ見て、それ以上は見ない。リビングに入ると、千鶴が湯呑みにお茶を注いでいた。
「おはよう」
「……おはよう」
テーブルには簡単な朝食が並んでいる。トーストと卵、昨夜の鍋の残りを温め直した小鉢。向かい合って座る。
「ごはん、作ってくれたんだ」
「うん、台所、借りたからね」
「……ありがとう」
そこから、少しの沈黙。
「今日、三時半だっけ」
面談のことである。
「うん」
千鶴はトーストをちぎりながら、少し考えるように視線を落とした。
「担任の先生って、どんな人?」
千宥は一瞬、迷う。榊原妙子。千宥が在籍する一年七組の担任。ロリータファッションに身を包み、自らを妙ちゃんと呼ばせる、ちょっと変わり者の先生。でも、授業は上手で、生徒思い。冗談抜きで千宥は本当に信頼している。
「……変わってるけど、とてもいい先生」
「変わってる?」
「うん。でも、生徒のこと、ちゃんと見てる」
言ってから、少しだけ顔が熱くなる。自分でそう言い切ったことが、意外だった。千鶴は小さく笑った。
「それなら安心ね」
その言い方が、少しだけ救いだった。
通学路は、いつもより静かに感じた。途中で雛灯と合流する。
「おはよ」
「おはよう」
雛灯は一歩並んでから、横目で千宥を見る。考えてみると、この二人での登校はやや珍しいが、しかし、こうやって自然と会える分、雛灯もアネックスの住人になってきたと感じる。
「今日だよね」
「うん」
「緊張してる?」
「別に」
即答すると、雛灯は軽く肩をすくめた。
「大丈夫だよ。妙ちゃんがうまいことしてくれると思うし」
「……うん」
それは、千宥も正直思っている。だが、今、千宥の問題は、あんまり「そこ」ではないのだ。学校に続く坂が、いつもより急に感じる。
朝のざわめき。やはり、いつもより視線が多い。特に北校舎の一年生の教室が並ぶあたりでは、ざわざわとした気配が波みたいに広がっていく。杠千宥らしき男子の格好をした生徒がいる。噂として口にすれば、確かに妙な話だ。そう思われるのも無理はない。
でも、きつい。通学から一緒にいた雛灯が、かばうように一歩前を歩いた。
「千宥、いこ。とりあえず教室」
教室はさらにざわついていた。他のクラスだと、噂するように声が聞こえてきたが、知人率百パーセントの教室だと、もう容赦ない。
せめて、もう直接言ってくれないか。この人目が、本当にきつい。
「おう、千宥。ホントに男になってるな」
丁度いいのか悪いのか、沖縄製の一番性能のいいスピーカーが声をかけてきた。……しかし、古波蔵茉衣子が敢えて大きく話してくれるおかげで、ざわめきは止んできたような気がする。
「うん、どうかな」
「えっとな、松高みてえ。そんな感じかな」
「松高……」
千宥は一瞬怪訝な顔をした。しかし、瞬時に理解した。この春若町の丘の方にある県立高宮松が丘高校。この学校は近年、県内で初めて、女子の制服にスラックスが選択できるようになったのだ。なんとも今時な話である。
「私、ズボンを履いた女の子と?」
千宥は顔を引きつらせて答える。
「だって、そうじゃんか」
即答する茉衣子。千宥は顔をしかめる。
「複雑だなあ。お母さんの手前、男でいなきゃなのに。でもね、あんまり男男してるのも嫌だし」
「乙女心やのう」
茉衣子がニマニマしている。もう、敢えて否定しない。そのまま茉衣子と雛灯を伴い、席に座る。隣の玉井絢那も反応した。
「わ、千宥ちゃん、かわいい」
「ありがとう。……変じゃない?」
「ううん、めっちゃいい。明日からもこれで来なよ」
「それは嫌」
千宥はきっぱりと言う。
「三者面談、嫌だよね。絢那、年二回も嫌なのに、千宥ちゃん、もう一回やるなんて、しんどいね」
「うん。でも、面談より、この格好の方がしんどい」
「千宥とか、面談自体は無問題だろ。あたしなんか、面談のたびに家帰って父ちゃんと喧嘩してるけどさ」
茉衣子や玉井よりは成績がよく、親が落ちこぼれだったため何も言ってこない雛灯は、笑って聞くしかなかった。
他愛のない話をぶった切るようにチャイムが鳴り、ほとんど同時に教室の前のドアが開く。
妙ちゃん――榊原妙子先生が入ってくる。背は高くない。髪はふんわりとパーマがかかっていて、衣装持ちな彼女の中でも比較的登場頻度の高い、赤いチェックに白いフリルのあしらわれたジャンパースカートに白いブラウスといった、本人曰く「一番おきに」の格好で登場した。この学校にいると、いい加減、みんなにとってお馴染みではあるが、世間的にはニッチ。そんなロリータ先生が今日、千宥親子と面談する。
「起立、気を付け、礼」
日直の号令に合わせてみんながお辞儀をする中、妙子は腰を曲げスカートを持つスタイルで礼をする。
「みんな、おっはよー。なんか、奥の方に見慣れない子がいるけど、あ、千宥ちゃんかー。なんか、チームなんとかっていう政治家さんかと思った」
あのロン毛で中性的な顔立ちの党首さんだろうか。確かに今日はそういう髪の結び方になってはいるが。
「なんか、本人的にはめっちゃのっぴきならない理由があって、『今日だけ男』やってんだって。って男子トイレに入ってくるおばちゃんみたいな感じになってるけども」
自分で言ってて面白かったのか妙子は笑い始めたが、教室内の反応は笑っている者もいるが……というところだ。少なくとも千宥はトイレという個人的にデリケートなワードが出てきて顔が引きつるしかなかった。おそらく妙子本人に全く悪気はないのであろうが。……深刻に考えず笑い飛ばせというメッセージか。千宥はひとまずそう思うことにした。……妙子と目が合う。
「あー、ごめん。いや、なんというか。ちょっとしたブラックユーモア。……ブラックかな」
妙子は失言だと判断したらしく、ちょっとだけごまかすように言った。
「まあいいや、出席とろうか。こんな与太話してるからホームルーム押しちゃうんだよな」
宣言通り出席を取りはじめ、途中、妙子は一瞬だけ千宥の方を見た。ほんの一瞬。けれど、逃さない視線。それだけで、心臓が一拍ずれる。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、教室の空気が一斉にほどけた。
「やっと昼ー!」
玉井が机に突っ伏す。
「飯食おうぜ、絢那。千宥も行くよな、学食」
「えっ」
茉衣子の誘いに千宥は動揺した。今日は、千鶴が弁当を作ってくれたので、学食で食べる必要がないのだ。そして、何より、弁当を持ち込むにしても、まず、いつもと違う格好でいるため、あまり人の多いところに出たくない。
「千宥、ごめんね。私も学食行かないとだから。……独りになっちゃうけど」
雛灯のフォローを受けるが、そう言われると辛い。
「き、気にしないで」
「千宥、行くぞ。人目が気になるんだろ。今日はちゃんと策を打ってある」
今度は茉衣子が言う。
「策?」
千宥が首をかしげる。
「最強のボディーガード」
「誰よ、ボディーガードって」
「まあ、いいだろ。とにかく、学食で落ち合う約束だから」
雛灯の質問をはぐらかした茉衣子に半ば引っ張られるような形で、千宥を含む四名は学食へと歩き始めた。
学食にたどり着くと、茉衣子たちも食事を注文したいだろうに、「集合場所」への誘導を優先してくれた。そう、今回茉衣子が手配した味方は――
「おせえじゃん、茉衣子ちゃん」
朝長慎吾だった。
「悪いな。お前ら男子軍団で守ってやってくれ」
慎吾の他に、樋口健介、綾香雄人、そして大上茂までいる。二メートル近い大男の大上がひと睨みしたら、最強ではありそうだ。
「じゃ、あたしら飯頼んでくるわ」
茉衣子たちは食事を注文する列へと消えていった。
「ほら、座れ座れ」
慎吾が、いつになく真面目な顔で椅子を引いた。四人掛けのテーブルを二つくっつけ、男子軍団が半円を描くように座っている。健介は腕を組み、大上は黙って背筋を伸ばし、雄人はきょろきょろと周囲を観察している。
――なんの陣形だろう。
千宥は一瞬だけ立ち尽くしたが、慎吾がぽんと背中を押した。
「今日はVIP席な」
「VIPって」
「華やかな美少女軍団と一緒だからな。まあ、冴えない陰キャ眼鏡も約一名混じってるがな」
実の妹は美少女から除外したらしい。
「私も今日は男だよ?」
「いいじゃん。それなら溶け込んじゃいなよ」
慎吾がにやっと笑う。周囲の視線は、正直、ゼロではない。「あれ、杠?」という声が、遠くでかすかに聞こえる。
でも。このテーブルは、壁みたいだった。健介が低く言う。
「見るやつは見る。気にすんな」
「……うん」
千宥は弁当箱をテーブルに置く。
「弁当か?」
大上が素直に驚く。
「今日は、特別なのかい?」
雄人まで聞いてくる。
「……まあ」
千鶴が朝作ってくれた弁当。ふたを開ける。
「お、うまそうじゃん」
慎吾が身を乗り出す。
「一個くれ」
「やだ」
「けち」
くだらないやり取りに、少しだけ呼吸が整う。
「雄人、お前、千宥の中学時代、知ってるんだよな」
健介が話を振った。
「そうだけど」
「やっぱり、こういう感じだったのか?」
雄人は考え込む。
「こう、かもね。あの時より髪が伸びたけど。なんか、政治家さんみたい」
よほど例の党首に似ているのか。
「髪が長いだけじゃん」
千宥は苦笑した。
「似合ってる」
大上がぼそりと言った。
「……そう?」
「新鮮だ」
それだけ。大上はそれ以上言わない。その一言が、妙に重い。
「で、面談なんだろ」
健介は水を飲みながら尋ねる。
「うん」
「妙ちゃんと」
「うん」
「なら平気だ」
またそれだ。
「面白いよね。なんか、あの格好で出てきたら、説得力消えそうなのに、なんだか聞き入っちゃう」
千宥が笑う。
「見た目さえ超えたら、妙ちゃんは本当に最強だろ。GTTだわ、うん」
慎吾が言う。Great Teacher Taekoということか?
「電話じゃないんだから」
雄人が突っ込み、つい千宥は噴き出してしまう。千宥は卵焼きを一口食べる。甘い。なんだか、泣きそうになる。
ここで、食事を取ってきた女子三人が戻ってきた。
「お待たせー!」
茉衣子が豪快にトレーを置く。
「男子軍団、ちゃんと守ってるか?」
「守ってる守ってる」
慎吾が手をひらひら振る。雛灯は、適当な返事の双子の兄を横目に、千宥の隣に静かに座った。
「大丈夫?」
「うん」
玉井はカレーをかき混ぜながら笑う。
「なんかさ、護衛ついてると逆に目立つよね」
「それ言うな」
茉衣子が即座に突っ込む。笑いが起きる。周囲の視線は、確かにある。でも、もうさっきほど鋭くない。
「松高だ」
雄人が、唐突に言った。千宥は箸を止める。
「何だ、唐突に」
健介が目を半開きにして言う。
「どっか、街で見たような雰囲気だと思ったら、松高の制服だ」
「あー」
「確かにな」
健介と慎吾は納得したらしい。
「雄人、それあたしが朝、千宥に言ったやつ」
茉衣子が残念でしたとばかりに言う。
「え、こは……茉衣子さんと被ったの?うわ、なんか複雑だ」
「どういう意味だよ、あたしじゃ不満か!」
茉衣子が笑いながら言う。健介は、今日は雄人が「一発目は古波蔵と呼びそうになるお約束」をかましたのを見逃さなかった。
「女子のズボンか」
大上も気づいたらしい。
「そうそう。なんかさ、『男になる』ってより、『幅が広がる』って感じだよね」
雄人が頷く。
「ズボン履いたからって、男じゃないし」
玉井が言う。
「でも、今日は『男』なんだよね」
雛灯が小さく続ける。その言葉で、空気が少しだけ静まる。千宥は、弁当箱を見つめたまま言う。
「うん。今日は、お母さんの前では、男でいなきゃだから」
「いなきゃ、って何」
健介が即座に聞く。
「決まり?」
「……ううん」
自分で決めた。誰かに強制されたわけじゃない。でも。
「不安にさせたくないなって」
ぽつりと出る。雛灯が、横でそっと息を吸う。茉衣子は箸を止めた。
「それってさ」
少しだけ、声を落とす。
「千宥が安心してる?」
答えられず、黙り込む。少しの間、沈黙。
「まあまあ。今日は今日だろ。臨時イベントだ」
慎吾が、場を和ませるように言う。
「イベント扱いかよ」
健介が突っ込む。
「人生、イベント多いほうが得だって」
笑いが戻る。
「でもさ、かわいいよ。マジで」
玉井がカレーを一口食べて言う。
「ありがとう」
「明日もそれで来なよ」
「それは嫌」
二度目の提案に二度目の即答。笑いが起きる。
「今日の顔は、いつもと違う」
大上が、低く言う。また、それだ。
「悪い意味?」
千宥は少しだけ強がる。
「いや」
大上は首を振る。
「覚悟してる顔」
「うわ、哲学」
慎吾が茶化す。でも、千宥は笑えなかった。覚悟。そうなのかもしれない。学食のざわめきは、相変わらずだ。でも、テーブルの内側は、静かだった。守られている。その事実が、少しだけ苦しい。自分で立たなきゃいけないのに。でも。今日は、立つ前の準備日かもしれない。弁当を食べ終え、ふたを閉じた。
「面談終わったら、LINEしろよ」
茉衣子が言った。
「……なんで」
千宥が顔をしかめる。こうやって、茉衣子のお節介は千宥にとってもマイナス面として出ることはあるのだ。
「気になるから」
「報告義務?」
「義務」
茉衣子がニヤッと笑い、立ち上がる。
「よし、午後も乗り切るぞ」
茉衣子が最後まで仕切った。千宥は軽くため息をつく。
「いけるだろ」
健介が言う。
「だといいね」
千宥は苦笑しつつ、テーブルを離れる。視線は、まだある。でも、足は止まらない。学食を出るとき、千宥はふと振り返った。
千宥と女子軍団は一年七組に帰るが、男子軍団は四組に帰る。ふと、目が合う。慎吾が大げさに親指を立てた。思わず、笑ってしまう。今日だけ男。でも、ひとりじゃない。午後のチャイムが、遠くで鳴った。
五時間目は数学だった。チャイムと同時に、妙ちゃん――榊原妙子が教室に入ってくる。赤チェックのジャンパースカートが、黒板の前でふわりと揺れる。世間的にはニッチ。だがこの教室では、もはや風景。
「はいはい着席ー。今日は二次関数の応用いきますよー」
チョークが黒板を走る。
y = ax² + bx + c
「このグラフが『どこに向かって開いているか』で、まず性格が決まるんだよね」
妙ちゃんはくるりと振り返る。
「上に開くか、下に開くか。どっち?はい、玉ちゃん」
「aが正なら上ー」
指名された玉井が即答する。
「そうそう。じゃあ、負なら?」
「下ー」
「正解」
さらさらと放物線が描かれる。千宥はノートに写しながら、妙にその図形が気になった。
上に開くか、下に開くか。同じ式でも、向きが違うだけで意味が変わる。
「でね」
妙ちゃんがチョークを置く。
「『頂点』がどこか、が大事」
黒板の中央に、大きく丸を描く。
「一番低いところ、もしくは一番高いところ。そこが、そのグラフの『今いる場所』」
教室の空気が少しだけ静まる。
「自分がどこにいるか分かれば、あとは広がるだけ」
ふ、と妙ちゃんの視線が教室の奥へ流れる。一瞬、千宥と目が合う。逸らさない。でも、特別扱いもしない。ただの一瞬。
「はい、じゃあこの問題。頂点の座標を求めてみよう」
数式が並ぶ。展開。平方完成。手を動かす。いつもより集中できる。計算は嘘をつかない。途中式を飛ばさなければ、必ず辿り着く。それが、少しだけ安心だった。
六時間目は別の教科だったが、頭の中には放物線が残っていた。上に開くか、下に開くか。頂点はどこか。自分は、今どこにいる?
チャイムが鳴る。放課後。クラスメイトが立ち上がる音。椅子が引かれる音。
「三時半でしょ」
雛灯が言う。
「うん」
「数学の時間、なんか刺さってたね」
「……何が?」
「頂点の話」
見られている。でも、それは残酷じゃない。見てくれている。
「金八先生みたいなこと言うね、妙ちゃん」
雛灯が笑う。近頃、高宮放送で再放送されており、下校した頃にちょくちょく目にすることがあるのだ。
「妙子先生、国語じゃなくて数学だけどね」
千宥は苦笑した。
職員室前の椅子に、千鶴はきちんと座っていた。背筋を伸ばし、膝の上にそろえた両手。コートはたたんで隣に置いてある。平日の午後に学校へ来るという行為そのものが、どこか現実味を欠いているようだった。
「お待たせ」
千宥が合流し、隣の椅子に腰を掛けた。
「おつかれさま」
千鶴が声をかける。
「うん、ありがとう」
そこからは、特段の会話はなかった。数分。実際には五分あるかないかだが、千宥にとっては十分にも及ぶ長い時間を経たところだった。
「お待たせしました」
軽やかな声がした。振り向いた千鶴の目に飛び込んできたのは、赤チェックのジャンパースカートに白いブラウス、胸元にレース。ふわりと広がるスカートの裾。控えめとは言いがたいフリル。なんなら、髪を暗いピンクというか、どちらかというと紫に近い色に染めている。一瞬だけ、千鶴のまばたきが止まる。――あら。だが、それは本当に一瞬だった。
「担任の榊原です。本日はありがとうございます」
妙子は、深く丁寧に頭を下げた。スカートの端を両手で軽くつまみ、腰を折るその仕草は、舞台の上のようでもあるが、所作自体は実にきちんとしている。千鶴も、静かに頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます。杠千宥の母です」
名乗り合う、その瞬間。妙子の目が、ほんのわずかに見開かれる。――いせやちづる。その名を、妙子が知らないはずがなかった。子どもの頃、テレビ越しに見ていた人。今も九州では顔の売れた存在だ。だが妙子は、顔色ひとつ変えなかった。
「どうぞ、こちらへ」
面談会場である進路指導室へと案内する。小さな机を挟み、三人が座る。
妙子は、服装こそいつも通りだが、ちょっとよそ行きの声で切り出した。
「本日は、臨時の三者面談という形になります。お母様の御希望ということで、今、本人に大きな問題があるわけではありませんので、ご安心ください」
千鶴は、ほっとしたようにうなずく。
「まず、学業面ですが――」
机の上の資料を広げる。
「成績は安定しています。授業はよく理解していますし、提出物もきちんと出しています」
千宥は、視線を落としたまま静かに聞いている。
「定期テストは連続で学年一位でした。……あ、こないだの期末は二位だったんだ。でも、このように成績は非常に良好です」
褒めようとして事実誤認を見つけた、ちょっと抜けた部分も妙子にはある。
「クラスでの様子も、落ち着いています。周囲との関係も良好です。特に同じアパートにお友達も多く、その子たちを中心に、非常にいい関係を築いています」
チーム・アネックス。賑やかな子たちで二生はおろおろしていた、でも、千鶴には、みんな良い子そうに見えていた。
「私も昨日お会いいたしました。元々内向的で友達が多い方ではなかったので、とてもびっくりしました」
千鶴もにこやかに応じる。
「お友達も私の生徒ですので、千宥さんの支えになっていて、非常に誇らしいです」
「今日の格好」については、一言も触れない。千鶴のほうが、むしろ切り出した。
「……今日は、少し雰囲気が違いますが」
やんわりとした言い方。千宥の指先が、わずかに強ばる。妙子は、穏やかに微笑む。「男子の制服」とも、「隠している」とも言わない。
「今日はお母さんがお越しなので、きっと気合が入ったのだと思われます。……ね、千宥ちゃん、そうなんでしょ」
「は、はい……」
急に話を振られたことにどぎまぎしながらも答えた。それ自体は決して嘘ではない。
「離れて暮らすお母さんにいいところを見せたくて。お母さん思いな子でとてもいいと思います」
一息ついて妙子はつづけた。
「……まあ、本校は、細かい部分については柔軟に考えています。大事なのは、学校生活がきちんと営まれているかどうかです」
千鶴は、静かに頷いた。先入観はない。ただ、目の前の担任を見ている。そして、妙子も同じだった。派手な装いの奥にある、揺るぎない落ち着き。言葉を選ぶ慎重さ。お互いに、一瞬の観察を終えている。
「千宥さんは、自分で考えて行動できる生徒です」
妙子が言う。
「授業中も、周囲に流されずに取り組んでいます」
千鶴の視線が、千宥に向く。
「自分で決めることができるのは、強みです」
少し間を置いて。
「ただ、それは時に、抱え込みやすいということでもあります」
千宥の胸が、わずかに揺れる。今日のことには触れない。だが、今日のことを含んでいる。
「学校としては、千宥さんが安心して学べる環境を整えたいと思っています。何か気になることがあれば、遠慮なくご相談ください」
千鶴は、ゆっくりと口を開いた。
「……この子は、昔から、自分で決める子でした」
静かな声。
「私は、それを尊重したいと思っています」
妙子は、真っ直ぐに受け止める。
「素敵なことです」
その一言に、余計な含みはない。
「でも、無理はしないように、見てあげてください。お母さんもそうしょっちゅうお会いしているわけではないと思いますが、時々しか会わないから気づくことはあるでしょうし、普段の変化は、私ども本校職員や、こちらでの保護者の田中丸さん、その他周りの人たちがいるので、力を合わせて千宥さんが安心して過ごせるようにしていきたいと思います」
「本当にありがとうございます。この学校に預けてよかったと思います」
千鶴は深々とお辞儀した。
以後、面談は、淡々と進んだ。進路の希望。今後の学習の見通し。学校生活の様子。どこにも波風は立たない。
けれど。言葉の端々に、確かにあった。「見ている」という感触。やがて、時計の針が二十分を指す。
「本日はありがとうございました」
妙子が立ち上がる。千鶴も、静かに立つ。
「一目お会いしてちょっと動揺しましたが……でも、とても千宥や生徒さん方を見ていただいているようでとても安心しました」
千鶴は率直に言った。妙子は、少しだけ目を丸くし、それから笑う。
「よく言われます」
ほんのわずかな、ユーモア。職員室前で別れる。
「今後とも、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
千鶴が歩き出す。千宥は、その横を並ぶ。数歩進んだところで、千鶴がぽつりと言う。
「素敵な先生ね」
「うん」
「見た目で判断しなくてよかった」
くすりと笑う。千宥も、少しだけ笑った。職員室の前で、妙子は二人の背中を見送る。小さく息を吐く。
「……頂点、か」
午前中の黒板を思い出す。上に開くか、下に開くか。でも今は、まだ途中式。妙子は、いつもの調子でスカートの裾を整えると、職員室へ戻っていった。廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいる。今日という長い一日、妙子が「お疲れ様」とでも言うようにスカートを翻して職員室へ戻っていくのを、千宥は見届けた。
校門を出ると、空気が少しだけ柔らかくなっていた。さっきまでの緊張が、足元からゆっくりとほどけていく。
「疲れた?」
千鶴が横を歩きながら聞く。
「……ちょっとだけ」
「私は、けっこう緊張した」
「え、そうなの?」
「だって、あの格好で、あんなにちゃんと話されるとね」
くすりと笑う。
「偏見って、怖いわね」
家までの道は短い。けれど、その距離が、今日はやけに早く感じられた。
アパートの階段を上がる足音が、やけに軽い。鍵を開けて部屋に入る。
「ただいま」
千宥が言うと、千鶴が小さく笑った。
「おかえり、って言う側じゃないのにね」
リビングに入ると、テーブルの上には朝のままの湯呑みが二つ置かれていた。千鶴はコートを脱ぎ、椅子の背にかける。
「ちょっと座ろうか」
向かい合って座る。妙子の話、クラスの話、学食での出来事。
「まだまだいっぱい友達いるんだね」
「……うん」
「雄人くん、こっちで一緒になったんだ」
月陵時代の友人だった雄人のことは千鶴も知っている。
「本当にびっくり。今も仲良くしてくれる」
「よかった」
短い沈黙。窓の外から、遠くの車の音が聞こえる。
「私、安心した」
千鶴がぽつりと言う。
「ちゃんと、あなたを見てくれる大人がいる」
千宥は、視線を落としたまま頷いた。
「鈴蘭ちゃんにも、本当に感謝しなきゃね」
「あとで言っとく」
小さく笑う。やがて、時計を見て、千鶴が立ち上がる。
「そろそろ行かないと」
バッグを持ち、部屋を一度見回す。
「ここ、いい場所ね」
「うん」
玄関で靴を履きながら、千鶴が言う。
「次は、もっとゆっくり来る」
「……ほんとに?」
「うん。約束」
ドアを開ける前、もう一度だけ振り返る。
「元気でね」
「うん」
静かに扉が閉まる。
足音が階段を下りていく。
駐車場の前で、見慣れた後ろ姿が手を振る。
「おーい」
鈴蘭だった。仕事帰りの格好で、カバンを抱えて近づいてきた。
「鈴蘭ちゃん、ありがとう」
「いいっていいって。ごめんね、ほんとあんまり何もおかまいできずね」
「いいのよ。仕事、良かったの?」
「うちは社員も優秀だから、安心して任せられるの」
鈴蘭はそう笑うと、千宥の肩を軽く叩く。
「どうだった?」
「……よかった」
「だよねえ。妙ちゃん最強だもんね」
鈴蘭はにっと笑う。
「本当に、いい先生ね」
千鶴が笑う。
「変わってるけどね」
三人で、同じタイミングで笑った。千鶴は、BMWのカギを開け、バッグを助手席に置く。
「じゃあ、行くね」
一瞬、言葉が途切れる。
「今日は、来てくれてありがとう」
千宥が言う。
「こちらこそ。……これからもちょくちょく顔を見に来ないとね。二生も来ることだしね」
小さく、目を細める。覚えている。
「うん」
「全部ひとりで背負わなくていい」
その声は、強くもなく、弱くもない。
「福岡からでも、ちゃんと見てるから」
車に乗り、ドアを閉め、エンジンがかかる音がする。ほどなく、窓が開く。
「またね」
「うん」
車がゆっくりと動き出す。駐車場に残った風が、ふわりと頬をなでた。見えなくなるまで、目で追う。
「……行ったね」
鈴蘭が隣で言う。
「うん」
「どうだった?今日」
少し考えてから、答える。
「大丈夫だった。今日はね」
鈴蘭が、にっと笑う。
「それなら上出来」
夕焼けが、空を淡い紫に染めている。
今日だけ男。これから、本当に千鶴は、こっちにちょくちょく来るのだろうか。いつまで、こんなことをしないといけないんだろう。不安が出始めた。でも、せっかくよくなった関係が、また悪くなったりしたら……。そんな恐ろしい考えが浮かんできて、直後、振り払うようにかぶりを振る。
途中式は、まだ続く。でも、どちらへ開いていくのかは、自分で決められる。上に、開いていこう。自分の力でa>0にしていくしかない。
鈴蘭と並んで207号室に向かって歩き出す。
【次回予告】
健介と茉衣子。「腐れ縁」の起源について辿る。
という感じです。お楽しみに。
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