第17話 お兄ちゃんの二日間
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:15〜20%
AI文をベースに改稿:25〜30%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:50〜60%
無事、栄久の合格を決めた二生。あれから一か月、入学説明会にやってきます。愛する妹を迎える準備が進みますが、千宥は浮かない顔をしています。
二月の朝は、窓際の光がやけに白い。ストーブの匂いと、乾いたチョークの粉。春若栄久高校一年七組の教室はいつも通り騒がしいのに、杠千宥だけがその輪から一歩引いていた。頬杖をついたまま、ぼんやりと窓の外を見る。
「……どうしたの」
隣から、玉井絢那が身を乗り出した。顔が近い。
「別に、大丈夫だよ」
「いや、絶対なんかあるでしょ。朝から暗いよ」
千宥が目を逸らすより先に、前の席から椅子をひっくり返す勢いで古波蔵茉衣子が振り向いた。
「あー、あれだよあれ。今週末」
玉井がぱちぱちと瞬きをする。
「なに?」
「千宥の母ちゃんと妹が来るんだって」
「えっ、二生ちゃん!?」
「そ、二生」
声が一段高くなる。教室の何人かがちらっとこちらを見た。千宥は思わず眉を寄せる。
「声が大きいよ」
「だって!週末って栄久の説明会でしょ?ってことは、絢那たちの後輩になるわけでしょ」
「……うん」
その一言が、妙に重く落ちた。玉井は気づかない。目を輝かせたままだ。
「そっかー、じゃあ今度はゆっくり会えるんだ。前はほら、夏だったよね? あんまり話せなかったし」
あのときの光景が、ふとよぎる。二生の、少し警戒した目。男友達である樋口健介が一歩引いて、茉衣子と玉井を軽く制していたこと。
――あの距離感が、ちょうどよかった。
「で?」
茉衣子が身を乗り出す。
「なにがそんなに憂鬱なんだよ」
千宥は一瞬だけ黙る。本当は、そこではない。二生の前では、別にいい。女の姿でいても、問題ない。もう知っているからだ。問題は――二生じゃない。母だ。二生の前では、別にいい。もう知っている。でも、母の前ではそうはいかない。
「……母も来る」
「うん、聞いたぞ」
「それで?」
朝長雛灯が、静かに会話に加わった。いつの間にか近くに立っている。千宥は小さく息を吐く。説明会。滞在。そして、月曜。
「……もしかして、お母さんの前では、この格好でいられないとか」
雛灯の推理に千宥は黙ってうなずいた。
「あ、お前、そっか、内緒なのか。女になってんの」
茉衣子は非常に大雑把なことを言う。ただ、なっている、と言われたら非常に語弊はあるが、実際、この三人からはほぼ女友達として扱われているのもまた事実だ。
「……それだけじゃないの」
「どしたの」
怪訝な顔をする玉井。千宥はなかなか口が開かず、のども乾く感じがしてきたが、数秒間の沈黙の後、重い口を開いた。
「月曜、学校に来るの」
「来るって?」
「三者面談、やることになったから」
「え?」
今度は茉衣子が固まる。
「いま?急じゃね?」
「今までやってなかったの?」
雛灯が質問を重ねた。
「……今までは、従姉が来てたから」
そこまで言って、言葉を飲み込む。母親の千鶴が言ったのだ。「学校での様子を聞きたい」と。学校に問い合わせたらしいのだ。
「へえ……」
茉衣子は何か察したような顔をするが、深くは追わない。
「じゃあ月曜までママと一緒に過ごせるわけじゃん」
玉井が続けた。千宥は、うっすら笑った。それ自体は悪いことではない。ここ最近で、母親との関係はだいぶ改善してきた。日曜、翌日学校がある二生は帰宅予定にしていることもあり、そこからは本当に親子水入らずの時間だ。ただ、それは大きな代償を払うことになる。
そうだ。その日、自分は。男子の制服で来る。
それを、まだ誰にも言っていない。教室のざわめきが、急に遠く感じた。着ること自体が、苦痛だ。視線がどうこうではない。自分で自分を否定するみたいで。
「……千宥?」
雛灯が、少しだけ首を傾げる。千宥は笑う。
「なんでもないよ」
本当は、今日から根回しをしなければいけない。でも、どう言えばいい?「月曜、男の制服で来るから」。それだけのことなのに。なのに、喉の奥がひりつく。
「いいなあ。二生ちゃんが来るのか。なんだか、妹ができた気分!」
玉井は、まだ楽しそうに未来の話をしている。
「どっちが妹かわかんねえやな」
「もう!」
茉衣子の軽口に玉井は頬を膨らませる。
――やっぱり、この感じは、誰にもわからない。悪いわけじゃない。誰も悪くない。それが、いちばん重い。言うなら、今だ。この三人には、もう隠す必要はない。……ない、はずだ。
「ねえ」
声が、思ったよりも小さく出た。三人が同時にこちらを見る。
「月曜なんだけど」
「うん?」
「……制服、変わるから」
一瞬、意味が伝わらなかったらしい。
「変わるって?」
玉井が首を傾げる。喉がまたひりつく。
「男のほうで来る」
言った。教室のざわめきは変わらないのに、耳の奥がきんと鳴る。茉衣子が、まばたきをひとつした。
「……ああ」
あっさりしている。
「そりゃ、そうか」
「お母さん来るんだもんね」
雛灯も、ゆっくりうなずいた。玉井だけが少し遅れて、はっとした顔になる。
「え、じゃあ、ズボン?」
「うん」
「ネクタイ?」
「うん」
「髪は?」
「どうしよ……」
自分で口にするたび、胸の奥がきゅっと縮む。茉衣子は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「別にいいじゃん。たまにはいいんじゃね?」
軽い。責めるでも、深刻になるでもなく。
「似合わないわけじゃないし」
雛灯は少しだけ表情を柔らかくする。それは慰めなのか、事実なのか。玉井は、きょとんとしたまま、やがて小さく笑った。
「なんだ、びっくりした。もっと大ごとかと思った」
その一言が、胸に刺さる。大ごとじゃない。外から見れば、ただの制服の違い。でも。
「……うん。大したことじゃないよ」
千宥は笑う。自分でも、うまく笑えているのか分からない。茉衣子が肩をすくめる。
「じゃあ月曜はレア千宥ってことか」
「写真撮っていい?」
「やめて」
即答すると、三人が笑った。空気が、軽くなる。軽いまま、会話は次の話題へ流れていく。でも、千宥の中だけが置いていかれる。
――これでいい。
言った。準備はした。あとは月曜を待つだけ。それなのに、胸の奥がまだざわついている。ネクタイを締める自分の姿が、もう目に浮かんでしまって。教室の窓から入る白い光が、やけに冷たく見えた。
土曜日の午前。鈴蘭の軽自動車の後部座席には、ハンガーごと抜いたクローゼットの中身が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。薄い花柄のブラウス。柔らかなカーディガン。くすんだピンクのニット。見慣れた「自分」の輪郭。
「重くない?あっちでちゃんと運べる?」
鈴蘭がバックミラー越しに言う。
「平気」
本当は、重いのは服じゃない。
車はリリーベルの裏手に滑り込み、二人で荷物を運ぶ。二階の「社長室」と呼ばれている小さな部屋は、普段は鈴蘭が書類をまとめたり、在庫を管理したりする場所だ。今日は、そこが一時避難所になる。ハンガーをラックにかけ直すたび、衣擦れの音がする。柔らかい布の感触が、指先に残る。
「とりあえず、ここに置いとけば安心でしょ」
鈴蘭が言う。
「うん……ありがとう」
ドアが閉まる。部屋に一人きりになると、急に静かになる。ラックに並んだ服を、しばらく見つめる。いつもなら、迷わず手を伸ばす色たち。今日は、伸ばさない。
息を吸って、吐く。
まず、カーディガンを脱ぐ。スカートのウエストに指をかける。布がするりと落ちる。タイツ越しの脚に、冷たい空気が触れた。そして、そのタイツも脱ぎ去った。
次に、インナー。ここで一瞬、動きが止まる。視線が、ラックに並ぶ服へと逃げる。
――戻るだけだ。そう言い聞かせる。
キャミソールを脱ぎ、ブラジャーのホックを外す。肩紐を下ろす。慣れた動作なのに、今日は妙にゆっくりだ。ショーツも脱いで、畳む。丁寧に。いつも通り。代わりに取り出したのは、ボクサーブリーフ。一昨年まであれだけ毎日身に着けていたのに、本当に異性の下着も同然になってしまった布。初めて鈴蘭に与えられたショーツを穿いた時を思い出すが、でも、手に取って、その時とは違う感覚だと気付く。あの時は、新しい自分に近づくための布だった。今は、身体というむごい事実だけを突きつけてくる拘束具。全く真逆だ。指先で生地を伸ばす。ゴムの質感があまりに普段のものと違う。自分のもののはずなのに、よそよそしい。脚を通す。ゴムが腰に食い込む。いつもより「包まれてる」感じはあるはずなのに、いつもある、ぴたりと密着する感覚がなく、なんだかがら空きだ。思わず、息が止まる。締めつけられているわけじゃない。サイズは合っている。ただ、位置が違う。感覚が違う。
――こんなだったっけ。忘れていたわけじゃないのに。
シャツを羽織る。男物のカットソーは、肩のラインがまっすぐだ。胸元の余白が、妙に広い。鏡の前に立つ。そこにいるのは、知っている顔。でも、輪郭が少し変わる。
スカートの代わりに、ジーンズを履く。ベルトを締める音が、乾いて響く。髪はまだ長い。ついこの前美容室で整えたばかりの髪。後ろで結び、なんとなく団子にしてみる。うん、こんな男、いる。
――切りすぎなくてよかった。そう思うと同時に、どこかでほっとする自分がいる。鏡に映る姿を、正面から見つめる。男の「普段着」。全く着慣れない、はずなのに。
これは、元々の自分だ。そう、言い聞かせる。それでも。胸の奥が、すうっと冷える。着替え終えた部屋の隅に、さっきまでの服が畳まれている。そこに置いたまま、視線を逸らす。
リリーベルの窓の外から、店内の笑い声が微かに聞こえる。ここにいれば、自分でいられる。でも今日は、この姿で階段を下りる。ドアノブに手をかける。一瞬だけ、指先が止まる。そして、回した。階段を下りると、鈴蘭がレジ横で顔を上げた。
「あ、終わった?」
その一言がやけに自然で、救われる。
「うん」
鈴蘭は一瞬だけ千宥を上から下まで見て、それ以上は何も言わなかった。
「似合ってるよ」
さらりと。評価でも慰めでもない、事実みたいな言い方。
「……そっか」
「今向かってるんだっけ?」
「うん」
「じゃ、先に来ちゃわないうちに、戻る?」
千宥は頷く。店の扉を出ると、冬の空気がひやりと頬を打つ。ジーンズ越しの風の感触が、いつもと違う。
車に乗り込むと、さっきまで積んでいた服はもうない。後部座席は空だ。それだけで、少し身軽になったような、逆に何かを失ったような。アネックスに着く頃、スマホが震えた。
『今、三浜っていうICからバイパスに乗った』
二生からだった。結構時間のめどが立ってきた。
『今三浜なら、あと20分くらいだね』
そして、『待ってます』というスタンプだけ付けておいた。
リリーベルを出た車は、ほどなくアネックスに戻ってきた。駐車場に車を停める。
「大丈夫?」
鈴蘭がハンドルに手を置いたまま、ちらりと横を見る。
「……うん」
本当かどうかは、自分でも分からない。車を降りると、アネックスの外階段が見上げるように立っている。
一度、部屋に戻る。ドアを開けると、ついさっきまでと同じ空間のはずなのに、どこか違う。フェミニンな小物は片付けた。クローゼットは空に近い。でも、完全には消せない。テーブルの上の小さな花柄のマグ。柔らかな色味のクッション。
――気づくかな。
スマホがまた震えた。
『着いたよ。家?』
心臓が、どくんと鳴る。
『降りてくるね』
部屋を出る。階段を降りると、すでに赤いBMWが停まっていた。千宥の母、千鶴の愛車だ。運転席から千鶴が降りる。コートの襟を整え、いつもの「外の顔」。助手席のドアが開く。二生が顔を出した。一瞬、視線が合う。ほんのわずか、目を見開く。それから、ゆっくりと瞬きをして。
「……お兄ちゃん」
小さく、言う。千宥は、喉の奥がきゅっとなるのを感じながら、笑った。
「おかえり」
二生は車から降りる。コートの裾を握りしめたまま、少し距離を測るように立っている。
「ここ私の家じゃないよ」
「春からはそうでしょ?」
しばしの姉妹いや兄妹の会話。そして、千鶴がそれを見ている。一瞬の視線。上下に流れる。何も言わない。ただ、ほんのわずかに目を細めた。
「久しぶり」
それだけ。
「うん」
駐車場の空気が、少し張りつめる。そのとき。
「おーい!」
建物の方から声が飛んだ。振り向くと、茉衣子と玉井が身を乗り出している。
「来た来た!」
「二生ちゃーん!」
ぱたぱたと駆け寄ってくる。二生がびくりと肩を揺らす。千宥はそれに気づき、ほんの少しだけ前に出た。
「大丈夫」
小さく、二生にだけ聞こえる声で。茉衣子は勢いそのままに近づいてきて、ぱっと笑う。
「久しぶりだな!」
玉井は目を輝かせている。
「ほんとに来た! 背、伸びた?」
二生は一歩だけ下がりかけて、止まる。ちらりと千宥を見る。それから、ぎこちなく小さく会釈した。
「……こんにちは」
声は細いけれど、逃げてはいない。千鶴はその様子を、静かに見ている。賑やかな声が駐車場に広がる。
「初めまして。千宥のお友達?」
千鶴が声をかけた。
「あっ、え?」
茉衣子があっけにとられている。
「いせやちづる……さん?」
千鶴がクスッと笑う。千宥自身、知っているはずなのに、友人たちが驚く姿を見ると不思議な気分になる。自分にとってはただの母親でも、世間ではタレントのいせやちづるなのだ。この芸名も、単に結婚前に本名だった「伊勢屋千鶴」の表記違いでしかないのだが、でも、この光景を見ていると、いせやちづると千宥の母・杠千鶴が同一人物であることが、改めて不思議に思えてくるのだ。
「わ、千宥ちゃんのママっていせやちづるだったんだ。わー、こうしてみると似てる!」
「馬鹿、呼び捨てすな」
玉井の『ファン目線の呼び捨て』を茉衣子がたしなめる。
「こんにちは。びっくりしたよね」
「あたし、古波蔵茉衣子」
「玉井絢那です。千宥ちゃん、なんでママがいせやちづるさんだって言わなかったのー?」
「だって、こういう騒ぎになるって思ったんだもん」
千宥はおろおろしている。
「騒がせろよ。こんな大スター捕まえて騒ぐなは無理だぞ」
「大スターって、九州の人しか知らないでしょ」
千宥はおろおろしっぱなしだ。
「あたし、九州人だもーん」
沖縄からやってきて三年の茉衣子が胸を張る。ちなみに、千鶴の出演番組は、沖縄でもネットされている番組もある。
その時だった。
「よっす、茉衣子ちゃん、玉ちゃん」
鈴蘭が自然な足取りで輪の中に入ってくると、場の空気が少しだけ落ち着いた。
「鈴蘭さん!」
玉井がぱっと振り向く。
「二生、合格おめでとう」
「あ、ありがとう……」
二生が恥ずかしそうに言う。
「おばちゃんも毎回毎回ごめんね」
「こちらこそ。急に押しかけてごめんなさい」
大人同士の挨拶は、どこか柔らかい。その間に、千宥はそっと二生の隣に立つ。茉衣子が両手を腰に当てた。
「とりあえず寒いしさ、立ち話も何だし、とりあえず上がりなよ」
鈴蘭が提案する。
「おお、いいの?」
「やったー。二生ちゃんとお話しできる」
二人は大喜びだ。
「あんまりうるさくしないでね」
千宥がちょっと困ったように言った。
「二生ちゃんも、荷物持つ? あ、絢那持つよ!」
「あ、大丈夫です。軽いから」
二生は小さく首を振るが、視線はまだ周囲を警戒している。
「えっと……」
名前が分からず口ごもった。
「玉井絢那だよ」
「玉井さん」
「あたしは?あたしは?誰でしょう」
今度は茉衣子が迫ってくる。
「えっと……こば」
「古波蔵茉衣子な。茉衣子だけ覚えたらいいぜ」
「茉衣子さん」
「おう、覚えたろ。ちょっと待ってな」
茉衣子は106号室のインターホンを「ピンポンダッシュ」した。ちなみに、ここは、茉衣子や千宥と同級生の樋口健介の家だ。千宥はふとスマホを見る。グループLINEに茉衣子が、
『ちひろの妹きたぞ!207しゅーごー』
と書いている。それだけでは来なさそうな健介の家の呼び鈴を鳴らす。なるほどなあ……。千宥は苦笑した。階段を上がる。足音が、冬の空気の中でよく響く。202号室の前を通過した。
「千宥ちゃん!」
声がする。朝長慎吾だった。
「慎吾!出てきたか。うん、健介と違って勘がいいな」
茉衣子が振り向いて言った。
「勘は悪いが、わざわざピンポンダッシュすることか」
健介が遅れて階段を上ってきた。
「野次馬なのよ。私はやめとけって言ったんだけど」
202号室からは雛灯も顔を出す。慎吾と雛灯は双子の兄妹なのだ。
「いっぱいいるのね、お友達が」
千鶴が、あっけにとられたような、感心したような声を漏らす。
207号室の前で、千宥は一瞬だけ深呼吸をした。ドアを開ける。
「どうぞ」
全員がぞろぞろと入ると、いつもより少し狭く感じる。コートを脱ぐ音。バッグを置く音。賑やかな声が、室内に広がる。
「うわ、ちゃんと片付いてる」
茉衣子が辺りを見回す。
「昨日片づけたんだもん」
千宥は軽く返すが、内心は落ち着かない。千鶴は部屋に足を踏み入れると、ゆっくりと周囲を見回す。壁際の棚。カーテンの色。テーブルの上の花柄のマグ。ほんの一瞬、目が止まる。何も言わない。その沈黙が、やけに長く感じる。
「へえ、思ったより広いな」
慎吾が遠慮なく室内を見渡す。
「3LDKだからね、うちは」
千宥が即座に返す。
「いや、千宥ちゃんの部屋ってもっとシンプルなのかな、と」
「私、というか鈴蘭さんの部屋だからね」
千宥は目をそらした。一応、慎吾や健介も、今日から母親の手前女を隠すことは伝えているが、それでも誰かが妙なことを言い出さないか、もしくは自分が墓穴を掘らないか心配なのだ。健介は靴を揃えながら、静かに室内へ入ってきた。
「お久しぶり」
視線は二生へ向けられる。二生は一瞬身構えたが、健介の距離の取り方に気づいたのか、小さく会釈した。
「……こんにちは」
「覚えてる?」
健介はあえて少しだけ距離を空けて立つ。
「樋口健介。夏に一回会ったよね」
「……はい」
それ以上踏み込まない。慎吾はというと、もう一歩前に出ている。
「俺、朝長慎吾。こっち双子の妹、雛灯。春から栄久なら、後輩だな!」
声が大きい。二生の肩が、わずかに揺れる。千宥がさりげなく横に立つ。
「慎吾くん、ちょっと声」
「おっと、悪い悪い」
慎吾は頭をかく。雛灯がそっとフォローする。
「ごめんね。うるさいよね」
「い、いえ……」
二生は視線を泳がせながらも、逃げない。千鶴はその様子を静かに見ている。観察する目だ。慎吾の勢い。健介の引き方。雛灯の気遣い。そして、千宥が二生の前に立つような位置にいること。
「ほんと、いっぱいいるのね」
千鶴が改めて言う。
「千宥、ちゃんとやってるのね」
その言葉に、千宥は一瞬だけ詰まる。
「……うん、まあ」
茉衣子がソファにどかっと座る。
「あたしは千宥が来る前から住んでるけど、こんな賑やかになるとは思わなかったよなあ。……ちづるさん、騒がしいやつらでごめんね」
「ううん。こんなに良くしてくれて。嬉しい」
千鶴の視線は、部屋ではなく人を見ている。
「千宥に助けられてるのはこっちですよ」
健介がさらっと言う。千宥が思わず振り向く。
「……そんな」
顔をほんのり赤らめてこんわくしている。
「事実」
短い言葉。
「それな。ほんとに優しくて頭良くてかわいくて」
慎吾が大げさに頷く。
「し、慎吾くん……!」
かわいいは今の千宥の中ではやや危険なワードであるが、千宥の心配をよそに自然と笑いが起きる。その隙に、二生は雛灯の隣へ少し体を寄せた。
「栄久、緊張する?」
雛灯が小声で聞く。
「……はい」
「大丈夫。慣れるよ」
穏やかな声。二生は少しだけ表情を緩める。その変化を、千宥は見逃さない。
――よかった。
でも同時に思う。この輪の中に、母がいる。自分は今、「兄」として立っている。賑やかな声の中で、千宥の胸の奥だけが、ひそかにざわつく。千鶴はソファに腰を下ろし、静かに言った。
「本当に、いいお友達ね」
それは、感心とも安心ともつかない響きだった。千宥は笑う。うまく笑えているかは分からない。
夕方になり、207号室の空気も少しずつ落ち着いていった。
茉衣子が立ち上がった。
「やべえ、晩飯の買い物しねえと」
「二生ちゃん、明日説明会よね。私たちもそろそろ帰らないと」
雛灯も声をかける。そして、釣られるように立ち上がる。コートを羽織る音、ドアの開閉。賑やかだった部屋が、ゆっくりと静まっていく。
「ほんとにありがとうね」
千鶴が玄関先で頭を下げる。
「いやいや、こっちが楽しかったですって」
茉衣子が手を振る。
「二生ちゃん、明日がんばってな!」
「……はい」
慎吾は最後まで元気で、健介は「また」と短く言い、雛灯は小さく微笑んで手を振った。
ドアが閉まる。静かになる。千宥は一瞬、深く息を吐いた。
「賑やかね」
千鶴が部屋を見渡す。
「うん」
二生は、さっきまで座っていたソファに手を置いたまま、ぽつりと言った。
「……すごいね」
「何が?」
「みんな、距離が近い」
責める響きはない。ただ、少し圧倒されたような、戸惑い。
「怖かった?」
千宥が小さく聞く。二生は少し考えてから、首を振った。
「……ううん。びっくりしただけ。でも、悪い人じゃないのはわかった」
その言い方に、千宥は少しだけ笑う。
「そっか」
千鶴はそのやり取りを聞きながら、ふとテーブルのマグに視線を落とした。
「明日、歩いて行けるのよね?」
「うん。五分くらい」
「便利ね」
短い会話。それ以上、何も踏み込まない。夜は穏やかに過ぎた。
翌日。空気は澄んでいる。千鶴と二生は、コートを着て玄関に立つ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
千宥は玄関で見送る。「兄」として。二人の背中が階段を下りていくのを見届けると、ドアを閉める。
数秒、静止。それから、クローゼットの扉を開ける。昨日隠したはずの服はない。こういう時用の予備の服がある。スウェットを脱ぎ、ジーンズを身に着ける。今しばらくは男の格好である必要はないが、今、家に女物がない。そして、千鶴が戻る頃には、この格好でいなければならない。千宥はため息をつきつつ、襟付きのシャツに袖を通した。そして、そのまま家を出た。
リリーベルに着き、二階の社長室に向かう。
「あら」
鈴蘭が目を細めた。昨夜は杠親子に部屋を貸したので、ここで一夜を明かしたのだ。
「早いじゃん。九時からなのにさ」
現在、時刻は八時十五分だ。
「家にいる理由もないから」
「へいへい。じゃ、私は一旦一階を見てくるから、着替えてなさい」
いつもの女性の私服に着替えてから、千宥も一階の店舗に降りた。鈴蘭がニヤリとしている。
「やっぱりこっちのほうが落ち着く顔してる」
「……そう?」
「うん」
それ以上は言わない。
「まあ、あんたのシフトは九時からなんだから、もうちょいゆっくりしてなさい」
「いいよ、上にいても暇だもん」
そう言って、他の店員に混じり、開店準備を手伝い始めた。
店のドアベルが鳴る。接客。レジ打ち。いつもの仕事。頭を使い、手を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。気づけば午後二時半。千宥のシフトは終わった。数分超過したものの、きりのいいところまで仕事を片付け、店員に声をかけて再度二階の社長室へ。気が進まないが、ゆっくりと着替えをした。
再び、男の服。昨日よりも、ほんの少しだけ動作が早い。それでも、やっぱり落ち着かない。鏡の前に立つ。昨日と同じ顔。同じはずなのに、どこかぎこちない。けど、あと一日はこれで過ごさねばならない。そして、男子の制服で登校することになる。なんだか胃が痛くなってくるようだ。
気分が沈んだところで、階段を下りる。鈴蘭が廊下に顔を出した。
「行ってらっしゃい」
「うん」
とぼとぼと帰宅し、しばらく横になる。そして、午後三時過ぎ。スマホが震える。
『今終わったよ』
二生からだ。ほっとする。
『おつかれさま。今から帰る?』
『うん』
そして、さらに十分少々、二生と千鶴が戻ってきた。二人に紅茶を淹れることにした。
「どうだった?」
「よかった」
「説明会だけだとそんなにわかんないだろうけど、うちの学校は楽しいからね」
「うん」
二生の頬は少し赤い。
「春から、ここだね」
「……うん」
今回、二生と千鶴が春若を訪れた理由は二つ。その一つが、二生の入学説明会だった。これが終わった時点で二生は帰宅する。私服に着替え、荷物をまとめる。今回は千鶴がJR山王駅まで送ることとなった。千鶴も高宮のことを知っているわけではないため、もっぱら道案内は千宥の役目だ。おおよそ二十分の移動だ。
「3LDKってかなり広いよね。高かったんじゃない?」
千鶴が家についての素直な疑問を投げかける。
「鈴蘭さんも社長だからお金持ってるからね。私の部屋と、自分の衣裳部屋が欲しいって言ってたけど、三部屋め、別にあってもなくてもよかったな、って言ってる」
「あら」
千鶴は苦笑する。
「だから、二生が三部屋めを使ってくれるの、マジで助かるって言ってたよ」
千宥は、後部座席の二生を振り返る。
「今のお部屋はどうするの?」
こちらは二生側の疑問だ。
「近所にお店持ってるんだけど、二階を社長室、っていって鈴蘭さんのスペースにしてるの。鈴蘭さん、昨夜そこで寝たんだけどね。もうそこに持っていくって」
「自分のお部屋、まだあるんだ」
「何せ、実家の部屋もあるからね。三つ家を持ってるみたいな感じ」
「すごいね」
「今日、お友達がたくさんいたけど、みんなそんな広い部屋に住んでいるの?」
千鶴がさらに尋ねる。
「えっと、2LDKもあるって。あの、大きな子、いたでしょ」
「茉衣子さん?」
二生が聞く。
「そうそう、茉衣子ちゃん。あの子はお父さんと住んでるから、うちの真下で同じ3LDKなんだけど、慎吾くんとひなちゃんが双子で、健介くんもお姉さんと二人暮らしだから、2LDKなんだ」
「玉井さんは?」
二生が尋ねた。もう茉衣子と玉井は覚えたらしい。
「玉ちゃんは……アパートの住人じゃないよ。でも、大家さんのお孫さんだから、よくいる」
今年に入ってからエンカ率減ってるけどね。千宥は内心苦笑する。そして、千宥の昔を知る旧友の姿が浮かぶ。
「違うんだ」
「おじいちゃんもいるし、茉衣子ちゃんと仲良しだからね。そうそう、その大家さんもすごくよくしてくれるからね」
「本当に、いいところに引っ越したのね」
「家探しは鈴蘭さんがしたんだけど、本当に『向こう数年の運を使った』って言ってる」
「鈴蘭ちゃんらしいね、数年の運かあ」
千鶴が笑う。
そうやって他愛のない会話をしつつ、JR山王駅にたどり着いた。ロータリーの前に停車する。トランクから荷物を出し、駅舎の前で、二生が立ち止まる。
「……春から、よろしくお願いします」
「うん。みんな待ってるよ」
短い言葉。二生は一瞬迷ってから、小さく言った。
「……無理しないでね」
その一言に、千宥は目を瞬かせる。
「何が?」
「……なんでもない」
特急の到着アナウンスが流れる。二生は手を振り、改札を抜けていく。姿が見えなくなるまで、千宥は立っていた。
車に戻る。千鶴と二人。エンジン音だけが響く。
「いい学校ね」
「うん」
「……千宥、充実してるのね」
ぽつり。
「友達も、学校も」
「まあ」
信号で止まる。千鶴は前を向いたまま、続ける。
「お部屋も、落ち着いてるね」
心臓がひとつ跳ねる。
「そう?」
「ええ。あなたらしい、空間だった」
それだけ。断言しない。問い詰めない。でも、知っているような響き。
そこからは、千宥も何を話していいかわからず、黙り込んだ。何か言えば、話さない方がいいことまで話してしまうかもしれない。そして、千鶴も、同じ思いなのか、他に何か思惑があるのか、特に言葉を発さなかった。それが千宥には怖かった。
アネックスの駐車場に車が戻る。夕暮れの光が、車内を橙色に染める。ドアを開けると、冬の空気がひやりと流れ込んだ。
部屋に戻ると、キッチンからいい匂いがした。
「おかえり」
エプロン姿の鈴蘭が振り向く。
「早上がり?」
「日曜は五時までだしね。今日はちょっと早めに上がった」
テーブルの上には、湯気の立つ鍋と、取り皿が三つ。
「せっかくだから、最後にちゃんとご飯食べようと思って」
「……ありがとう」
千鶴が微笑む。
「お邪魔してるのに、ごめんね」
「いいのいいの。やっぱりさ、千宥とおばちゃんがこうやって過ごすの、かなり久しぶりなわけじゃん。ゆっくりしてほしいわけよ」
千宥は一瞬、視線を伏せた。三人で囲む食卓は、昼間の賑やかさとは違う静けさがある。二生がいない分、少し広い。
「山王駅、分かりやすかった?」
鈴蘭が千鶴に聞く。
「ええ。千宥が案内してくれたから助かったわ」
「そう」
鈴蘭はそれ以上踏み込まない。千宥は黙々と箸を動かす。男物のシャツの袖口が、少しだけ目に入る。食事のあと、紅茶を淹れる。湯気がゆらりと立つ。
「二生、楽しそうだったわ」
千鶴がカップを両手で包みながら言う。
「うん」
「ひなちゃん?って子、優しいね」
「うん。あの子は、たぶん大丈夫」
「茉衣子ちゃんだったかな。あと、玉……?」
「玉ちゃんね。玉井さん」
「そうそう、あの子たちも、みんな明るくてね」
「ちょっと騒がしいけどね。でも、あの子たちが最初に友達になってくれたから、今こうして楽しいんだと思う」
「男の子たちも、しっかりしてるね」
その言い方に、千宥の手がわずかに止まる。
「……うん」
「慎吾ちゃんはちょっとうるさいけどね」
鈴蘭が空気を少し軽くする。
「でも、元気っていいよね。男の子だからね」
男の子だからね。その言葉に千鶴の顔がこわばる。
「そんな健ちゃんがしょぼくれてるみたいなさ」
鈴蘭が笑う。
「もう一人の子ね。口下手そうだけど、二生が落ち着いてお話しできたから、そういう子も、大事よ」
男の子だからどう、ではない。どういうタイプの男の子でも、みんないい。そう言いたいのだと解釈すると、千宥は少しだけ心が軽くなったが、でも、自分は息子としてどう見られてるのか?そう思うと心が苦しくなる。
「千宥、大丈夫?具合悪くなった?」
千鶴が声をかける。
「う、ううん?大丈夫。ちょっとお腹いっぱいになっちゃったなって」
「千宥、遠慮しないんだよ。最悪私が食べちゃうけど、せっかく二キロ減ったんだからさあ」
鈴蘭がふくよかなお腹をさすり笑い飛ばす。
「だ、大丈夫。鈴蘭さんのダイエットは邪魔しないよ」
笑い声が、やわらかく重なる。
そうやって気づけば時間は過ぎている。ふと時計を見ると、八時半を回っている。
「じゃあ、私はそろそろ戻るね」
鈴蘭が立ち上がる。
「明日、朝早いでしょ?」
「……うん」
「ネクタイ、ちゃんと結べる?」
耳打ちされて、千宥は一瞬言葉を失う。
「結べるよ」
「ならいい」
鈴蘭は軽く手を振って、部屋を出ていった。ドアが閉まる音。静寂が、少し濃くなる。千鶴と二人きり。さっきまで三人だった空間が、急に広い。
「明日、何時から?」
「放課後。三時半だと思う」
「そう」
短い会話。
千鶴はしばらくカップの縁をなぞっていたが、ふと顔を上げる。
「千宥」
「なに」
「……あなた、ちゃんとやってるのね」
昼間も似た言葉を聞いた。でも今度は、少し違う。賑やかな声の中ではなく、静かな部屋の中で。
「……たぶん。それなりにね」
「そう」
千鶴はそれ以上、何も言わない。問いたださない。でも、視線はやわらかい。やわらかすぎて、少し怖い。九時を少し回ったころ、千鶴は立ち上がった。
「お風呂、借りるわね」
「うん」
水音が、奥から聞こえる。千宥は自室に戻り、ベッドに腰を下ろした。
明日。男子の制服。ネクタイ。教室のドアを開ける自分の姿が、頭に浮かぶ。胸の奥が、じわりと痛む。
明日のことは、茉衣子や玉井を通じて、学校のみんなにも噂のような形である程度通している。それは、敢えてだ。大々的に「男の制服で来ます!」という宣言はしたくなかったが、いきなりその格好で来て、変に思われたり、騒ぎになるのが嫌だから。
それでも、びっくりされるし、変な勘繰りもされるかもしれない。
なんとか、やっていくしかない。ため息をついて、そこから千宥はすぐに眠りについた。
【次回予告】
臨時の三者面談、「男千宥」ついに学校に。
次回に続きます。お楽しみに。
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