第16話 妹の大仕事と今日だけ戻ってきた兄
一月半ばのある日。杠千宥は、先日のしんどい帰省のことを思い出して、気が重くなってきた。そして、息をつく間もなく、別の心配事を思い出したのだ。
――明日が、入試。
あの時聞いた衝撃的な話。妹の二生が春若栄久高校を受験する、その事実を、千宥は頭で理解しているのに、身体が追いついていない感じがした。帰省の記憶が、いまさら喉の奥から湧き上がってくる。思い出したくないのに、思い出してしまう。思い出すたびに、胸が苦しくなる。
年が明けて、高宮市春若町の空気は一段と乾いた。アネックス久世の外廊下は冷える。階段を上がるとき、足音がいつもより響く。誰も見ていないのに、見られている気がするのは、帰省の余韻がまだ残っているせいだ。なんだか、過敏になっている。
部屋に戻ると、同居人で従姉の田中丸鈴蘭がキッチンに立っていた。いつもは遅くまで仕事しているが、二生が来るのに合わせ、今日は早上がりにしていたのだ。鍋の蓋を開けて、味を見て、塩を少し足す。手際が良い。迷いがない。部屋の中の温度が、彼女がいるだけで一定に保たれるような感覚がある。
「おかえり」
鈴蘭は振り返らずに言った。声が普通だ。普通の声で話してくれることがありがたい。
「ただいま」
千宥も、なるべく普通に返した。テーブルの上には、紙に書かれた簡単なメモが置かれている。時間割みたいな、箇条書きみたいなもの。
・起床 5:50
・軽く食べる(おにぎり、味噌汁)
・出発 6:40
・集合 7:30(校門前)
・忘れ物チェック:受験票、筆記具、時計、ハンカチ
鈴蘭の字だった。
「……これ、なに」
「明日の段取り。二生が迷わないようにね」
鈴蘭は当たり前みたいに言う。その当たり前が、千宥には眩しい。
「ね、千宥、緊張してるでしょ」
言い当てられて、千宥は口をつぐんだ。緊張すべきは二生のはずなのに、千宥のほうが緊張している。受験のことだけではない。父の命令でこうなった、となると、色々考えずにはいられない。
鈴蘭は鍋を弱火にして、手を洗いながら言った。
「千宥、今日はあんまり考えないほうがいいよ。明日、二生がなんとかするしかないんだから」
千宥は、ひとまず考えるのをやめようとした。……どうせすぐに浮かんできてしまうと思いつつも。時計を見た。午後五時二十分。先ほど二生から連絡が来たのだ。それによれば、あと十分ほどで高宮に到着するようだ。……まずい、着替えないと。
千宥は自室に入った。制服を脱ぎ、ハンガーに掛け、しまい込む。箪笥の奥から服を取り出した。ズボン、パーカー。慣れないが袖を通す。パンツは女物のままだが、短時間のはずだし、いいだろう。一旦上を脱いで、ブラジャーを取り去った。あ、男物の肌着、用意してないや……。やむなくキャミソールのみもう一度着る。肩紐だけ見えないようにしなければ……。
服を着ると、左耳の下で髪を束ねた装飾のついたヘアゴムを取り、質素なゴムに代え、年末と同様に、後ろで無造作に結び直す。
よし、少なくとも、帰省した時と同じくらいには見えるだろう。これでいい。千宥は、姿見の前で複雑な表情を浮かべた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、その直後だった。千宥の身体が、反射で固まった。心臓が跳ねる。喉が閉じる。鈴蘭は手を止めずに言う。
「お、二生来たかー」
その能天気な一言で、一瞬緊張が和らぐ。しかし、すぐに緊張が戻る。二生から、父は来ないと聞いている。でも、まだ、母と会うことですら抵抗がある。やっぱり、母をびっくりさせたくなくて、悲しませたくなくて、男に変装して――今の千宥にとってはもはやこの姿は「変装」とすらいえるが、変装して出るのは辛い。自分の「本当の姿」で出られないのは辛い。どっちにしても辛い。だから、会いたくない。それは、父に会いたくないのとは、別の種類の抵抗感だ。
鈴蘭が玄関に駆け寄る。千宥も、ここまで準備したのに隠れるの変だと思いつつも、なんだか気が進まず、後ろをついていく。
玄関のチャイムが、もう一度短く鳴った。鈴蘭が「はいはーい」と軽く返事をしながらドアを開ける。冷気が一気に流れ込んできて、廊下の空気がきゅっと締まった。
「こんばんは……お邪魔します」
先に声を出したのは二生だった。マフラーを首に巻き、手袋を外しながら立っている。肩に小さなバッグ。荷物は本当に少ない。
その後ろに母・千鶴。おそらく車の中では脱いでいただろうにきっちりコートを着て、片手に紙袋を持っていた。
「こんばんは。ほんとにいつもいつもごめんね、鈴蘭ちゃん」
千鶴が頭を下げる。
「ううん、全然。なんかちょっと久しぶりだね、おばちゃん。あ、でも半月ぶりか」
鈴蘭は玄関に体を少しだけ乗り出しながら、いつも通りの調子で返した。その明るさが、玄関先の緊張を一段だけ薄める。
「ふふふ、本当、会えてない時期が続いたから、そう思うのかもね」
会えない時間を増やした張本人である千宥は、自然と目を伏せた。千宥は、鈴蘭の背中の少し後ろに立っていた。我が家に母がいる。それだけで、背筋が固まる。父ではない。そう分かっているのに、身体が先に構える。
千鶴の視線が、鈴蘭から千宥へ移る。一瞬、間が空いた。
「……千宥」
名前を呼ぶ声は、驚くほど普通だった。けれど、普通だからこそ、胸の奥がつんと痛んだ。
「……うん。来たんだ」
千宥は、同じぐらいの温度で返そうとして、声が少し硬くなった。千鶴が、千宥を見上げて小さく笑う。
「来たよ。千宥の顔も見たくてね」
その一言が、半月前の夜の続きみたいで、千宥は一瞬だけ息が詰まった。鈴蘭がすかさず言う。
「寒かったでしょ。玄関閉めよっか、おばちゃん」
「あ、ごめんなさい。冷えるよね」
千鶴が一歩下がり、鈴蘭がドアを半分だけ閉める。
外の冷気が弱まり、玄関の小さな空間に四人の気配が凝縮された。千鶴は手にしていた紙袋を軽く持ち上げた。
「これ、二生の分。……あと、少しだけだけど、差し入れ。お世話になります」
「わ、ううん、いいのに。ありがとう」
鈴蘭が受け取ろうと手を伸ばすが、千鶴はすぐには渡さなかった。袋を持ったまま、千宥に目を向ける。
「……無理して食べなくていいからね。二生も。胃、空っぽにしないほうがいいって、それだけ」
指示というより、言い訳みたいな言い方だった。「心配してる」を、明言しない。二生が気負わないように。二生が「うん」と短く返事をした。
「お母さん、送ってくれてありがとう」
それだけ言って、二生は足元を少し揃えた。千宥は、言葉が出ないまま千鶴の顔を見た。実家で見た横顔より、こっちのほうが遠い。外の顔だからだ。千鶴は軽く息を吸って、千宥にだけ小さな声で言った。
「……今日は、送るだけ。ほんとにそれだけ」
千宥は反射的にうなずく。それで分かるのが、悔しかった。どこまで自分は条件反射で生きているんだろうと思う。鈴蘭が、空気を変えるように軽く手を叩いた。
「二生、とりあえず上がるか。あったかいの飲む?すぐ勉強してもいいし、先に風呂でもいいし」
「……うん、ありがとう」
二生は小さくうなずいた。
「お邪魔します」
玄関を上がった瞬間、二生の肩がほんの少し落ちた。外の空気から、家の空気に切り替わった合図。千鶴は玄関先に残り、靴のまま一歩だけ中を覗くような姿勢になった。
「二生、忘れ物ない?」
「受験票、筆記具、時計、ハンカチ。……ある」
二生が言いながら、自分のバッグを軽く叩く。千鶴はその叩き方に、少しだけ安心した顔をした。
「うん。……じゃあ、明日、朝は——」
言いかけて、千鶴は言葉を止めた。代わりに、視線を鈴蘭に移す。
「……明日のこと、お願いしてもいい?」
鈴蘭は即答した。
「もちろん。二年連続で受験生抱えてるんだから、慣れっこよ」
少し大げさな言い方。でも、その軽さがありがたい。
「頼もしいね」
千鶴は小さく笑ってから、もう一度千宥を見た。言いたいことがある顔。でも、言わない顔。千宥も同じだった。言いたいことは山ほどある。けれど、どれもここで言うと、家の線が崩れる気がした。千宥が言えたのは、結局これだけだった。
「ありがとう。……気をつけて」
千鶴は一瞬、驚いたように目を丸くしてから、すぐに笑った。
「うん。……ありがとう」
そして、少しだけ声を落として付け足す。
「何かあったら、鈴蘭ちゃんでもいいから。ちゃんと言うのよ」
その「直接じゃなくていい」が、千鶴の限界だった。千宥はそれを理解してしまう。鈴蘭が、玄関のドアを開ける。
「おばちゃん、寒いから早く帰らないと」
「そうね。じゃあ……二生、頑張ってね」
「うん」
二生は短く返事をして、振り返らなかった。千鶴が最後に玄関先で言った。
「……千宥。無理しないで」
それは命令でも、助言でもなく、願いだった。千宥はうなずいた。うなずくだけで精一杯だった。
ドアが閉まった。少し時間をおいて、千宥が鍵をかけた。外の冷気が遮断されて、玄関が急に静かになる。
鈴蘭が、靴を揃えながら言った。
「よし。二生、まず、手洗い。で、あったかいの飲も」
「はい」
返事が良い。「受験生」の返事だ。千宥はそれを聞きながら、視線を玄関の方へやってしまう。外の廊下。誰かの気配。足音。何もないのに、何かを探してしまう。
鈴蘭が、こちらを一瞬だけ見る。その目が「わかってるよ」と言っている気がして、千宥は視線を戻した。
二生は鈴蘭に紅茶を淹れてもらっていた。千宥はそそくさと自室に入る。そして、いつもの部屋着に着替え、居間に出た。二生と目が合う。
「……やっぱり、こっちのほうがお姉ちゃんだね」
二生がクスッと笑った。
夕食は、鈴蘭が用意した。派手ではない。胃に優しいもの。消化のいいもの。温かい汁物。食卓に並んだ料理の湯気が、部屋の空気を少し柔らかくする。半月前の実家の食卓の湯気とは、質が違う。
「いただきます」
二生が先に言った。千宥は少し遅れて言う。鈴蘭は「はいはい」と軽く言って箸を取った。食べながら、鈴蘭が二生にだけ確認する。
「受験票、ある?」
「うん」
「筆記具は?」
「鉛筆と消しゴム二つずつ」
「腕時計は?」
「大丈夫」
一問一答みたいに進む。そのテンポが、二生の呼吸を整えていく。千宥は途中で、ふと気づく。鈴蘭は二生を「子ども扱い」していない。受験生として扱っている。大事な局面に立つ人として、普通に段取りを共有しているだけだ。その扱い方が、二生を強くしている。食後、二生は鈴蘭が貸してくれた机に向かい、軽く問題集を開いた。ぎりぎりまで詰め込むというより、手を動かして落ち着きを作るための勉強。千宥にはそれがわかった。自分も一年前、きっとそうだった。
千宥は自室で、スマホを握ったり放したりした。鈴蘭に言われた「考えない方がいい」というのが、いちばん難しい。チャイムが鳴ったらどうする。多分来ないのだろうけど、万が一、父まで押しかけてきたら――。想像した瞬間、胃が縮む。来るわけがない。それでも「来ない」と断言できないのが、恐怖のいやらしさだ。
鈴蘭が風呂を勧め、二生が先に入った。浴室のドアが閉まる音。シャワーの音。それだけで、千宥の身体が少し落ち着く。生活音が、ここではちゃんと生活音になる。
「千宥も入らないとね。今日は早めに寝とかないと、明日がしんどいよ」
鈴蘭が言った。
「……うん」
「大丈夫でしょ。あんたもすんなり受かったんだから」
鈴蘭は軽く言う。その言葉に、千宥は小さく笑ってしまった。笑った自分に驚く。半月前の自分は、実家で一度も笑えなかった。布団に入ったのは、早い時間だった。二生は隣の鈴蘭の寝室を貸してもらったようだ。
「二生。明日は受けるだけ。受けたら帰ってくる。それでいい」
「はい」
「じゃ、私は寝に行くから」
二生にベッドを貸した鈴蘭は、自分のお店である「リリーベル」の社長室に用意している簡易ベッドで寝るとか言っていた。寝るために外出する。なんだか変な感じだ。鈴蘭の部屋からかすかに物音がする。眠れないのだろう。千宥も眠れない。でも、二生は「明日のために」眠ろうとしている。千宥は「何かが来ないか」で眠れない。暗闇の中で、千宥は息を吸う。半月前の実家の夜と違い、息が胸まで届く。
――明日が来る。来てしまえば、終わる。終われば、また次の段取りになる。恐怖は消えないが、恐怖だけで世界が埋まるわけでもない。千宥はそう思いながら、ようやくまぶたを閉じた。
翌朝。誰が起こすわけでもなく、千宥は目が覚めていた。部屋はまだ暗い。スマホの画面を見ると、五時三十五分。何もない休日、普通なら二度寝する所だが、千宥はそれはしなかった。居間に出てくると、ほどなく、鈴蘭の部屋で二生が起き上がる気配がした。そして、真似するように二生も居間に出てきた。目が合う。二生は小さく笑って、すぐに真顔に戻った。
「……おはよう」
「おはよう」
「お姉ちゃん、早いね」
「なんとなく、ね」
たったそれだけの会話。でも、その短さがいい。
六時前、鈴蘭が帰宅した。
「ふう、遅くなった遅くなった。……あ、やば、二人とも起きてたん?」
居間に入ると鈴蘭が慌てたように言った。
「おはよう、鈴蘭さん」
「私たちも今起きたところだから」
「そっか、飯作んなきゃ」
鈴蘭がキッチンに走る音は、妙に頼もしい。フライパンを出す音、冷蔵庫を開ける音、包丁がまな板に当たる乾いた音。寝起きの家の中が、それだけで「朝」になっていく。
千宥はソファに沈みながらニュースを眺めた。東京は雪だの、総理大臣が何をやっただの、色々報じているが、頭に入ってこない。ただ、テレビの明るさが、かえって部屋の現実を際立たせる。今日は、受験日だ。
時計を見る。六時十分。鈴蘭が味噌汁をよそいながら言った。
「二生、飯食べよー」
鈴蘭の声は大きい。けれど雑ではない。相手を起こす声というより、場を動かす声だ。二生がソファからゆらりと立ち上がった。緊張しているのか、まだ眠いのか、動きが硬い。食卓にたどり着き、椅子を軽く引き、腰かける。それを見守りながら千宥もいつもの席に着いた。
食卓には、おにぎりが二つずつ。味噌汁。少しの卵焼き。攻めない朝食。胃を驚かせない朝食。千宥はおにぎりを手に取った。去年、自分が受験した日の朝を思い出す。
「二生、もう一回チェックね」
鈴蘭は食べながら、紙に書いた段取りを指で叩いた。
「受験票」
「ある」
「筆記具」
「ある。二本ずつ」
「時計」
「ある」
「ハンカチ」
「ある」
二生の答えは短い。短いけれど、言い切れる。言い切れるのは強い。千宥は味噌汁をすすりながら、二生の横顔を見た。十日前、実家で「言わない」と言った顔。あのときより、目が落ち着いている。
「千宥は」
鈴蘭が急にこちらを見た。
「……ん?」
「顔が死んでる。生きてる?今日、あんたは『付き添い』じゃなくて『見守り』でいいんだから」
「見守り」。その言葉が、うまく刺さった。
「……はい」
鈴蘭が満足そうに頷く。二生が小さく笑った。
「鈴蘭さん、先生みたい」
「先生じゃない。社長」
鈴蘭はそう言って、卵焼きをもう一切れ二生の皿に置いた。
「食べれる?」
「……食べる」
「よし」
そのやり取りが、朝の空気を整えていく。
出発の時間になった。玄関で靴を履く。二生は紐を結ぶ手が少しだけ震えている。震えているのに、結び直さない。揺れを受け入れている。
「終わったら門の外で待っといて。わかるかなあ……。まあLINEしてよ」
鈴蘭が言った。
「はい」
「千宥、スマホ持った?」
「持った」
「よし。じゃ、二生。千宥と行っておいで。……道、上り坂でしんどいけど、落ち着いて登るといいよ」
鈴蘭は笑って言った。笑って言うから、重くならない。二生は小さくうなずいた。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい。鍵は私が閉めとくから」
鈴蘭は玄関先で手を振った。その振り方が、過保護ではなく、送り出す側の落ち着きだった。
千宥と二生は外へ出た。空気が冷たい。まだ薄暗い。息を吸うと、肺の奥がきゅっとする。家から学校までは、歩いて五分。ただしほぼ上り坂だ。逆に言えば坂の麓に住んでいる、というだけなのだが。上り坂が見えるだけで、千宥の喉が少し乾いた。「受験に向かう道」というだけで、道そのものの意味が変わる。二生は黙って歩き出した。千宥も隣に並ぶ。歩幅を合わせる。合わせすぎると気持ち悪いから、ほんの少しだけずらす。
最初の数十メートルは、二人とも言葉がなかった。言葉がないのは、沈黙が気まずいからじゃない。言葉を出すと、緊張がこぼれるからだ。ほどなく、坂が見えてくる。上り坂の入口で、二生がわずかに息を吸い直した。千宥は、横目でそれを見る。声をかけるべきか、かけないべきか。去年の自分なら、かけなかった。余計なことを言うと全部崩れる気がしたから。でも今日は、二生のための日だ。
「……深呼吸」
千宥は小さく言った。自分にも言い聞かせるみたいに。二生が一瞬だけ千宥を見る。それから、小さく息を吐いた。
「……すー、はー」
千宥もつられて息を吐く。吐いた息が白い。坂を上り始める。足元が少し重くなる。息が浅くなる。二生は立ち止まらない。立ち止まらないが、ペースを上げない。焦りが見えない。焦りを出さないようにしているのが見える。校門の前が近づくにつれて、人の声が増えた。受験生。保護者。先生。ざわざわした空気が、薄暗い朝の中でだけやけに明るい。門の前にはすでに人の塊ができている。
「頑張って」
「落ち着いてね」
そんな声が飛び交う。
千宥は、その塊の手前で足を止めた。二生も止まる。ここから先は、二生の場所だ。自分の場所ではない。千宥は、声をかけようとして、言葉が見つからなかった。頑張れ、と言うのは簡単だ。でも、頑張れと言うと、自分の不安まで乗ってしまう気がした。代わりに、千宥は二生の肩を軽く叩いた。
「……行っておいで」
二生は振り返って、小さく笑った。
「うん。行ってくる」
それだけ言って、二生は人の流れに紛れていった。制服の背中やコートの背中に混ざって、二生の輪郭が薄くなる。
千宥は、門の外に残った。残ったというより、残された。門の前に立っていると、自分だけが取り残されたような気持ちになる。去年、自分が通った道。今度は二生が同じ道を行く。
あとは、二生次第だ。千宥は踵を返した。
帰り道の坂は、下りになる。上りより楽なはずなのに、足元がふわふわした。緊張が抜けたせいで、身体だけが軽くなっている。アネックスの敷地に入ると、玄関が少しだけ開いていた。鈴蘭が顔を出していた。急いで二階に上がると、玄関前で待ち構えていた鈴蘭が声をかけた。
「どうだった?」
もちろん、合否の話ではない。送り出しが終わったかの確認だ。
「……無事、行った」
「よし。じゃ、あとは待つだけね」
鈴蘭はそう言って玄関を閉めた。閉める音が、妙に安心を連れてくる。
部屋に戻ると、急に静かになった。二生の荷物の少なさが、逆に部屋の広さを目立たせる。
「じゃ、私は店ちょっと寄ってくる」
鈴蘭が上着を羽織りながら言った。
「今日、出勤るの?」
「うん。最低限。基本はみんなに任せるんだけど、ちょっとだけね。あと、迎えの段取りも確認しないとね」
鈴蘭は言いながらスマホを確認する。社長の顔になる。その切り替えの早さが、千宥にとっては救いだった。何か考えることを準備してくれると、頭の中が「父」で埋まらなくて済む。
「千宥は?」
「……洗濯とかしとく」
「いいね。生活しとこ。いつも通りの生活が一番よ」
鈴蘭はそう言って、さっと出ていった。
千宥は洗濯機を回した。水の流れる音。回転の音。それが、やっと「いつもの日」の音に聞こえた。午前中、千宥は部屋を片づけた。掃除機をかけ、台所のシンクを洗い、ゴミをまとめる。意味のある作業。意味のある作業をしていると、考え事が減る。
昼前、スマホが震えた。鈴蘭からだ。
『迎え、16:30にしよう。門の外で待つように伝えといた』
千宥は短く返した。
『了解』
それだけで、少し安心する。段取りがあると、人は落ち着く。
昼はコンビニに出向き、簡単なものを購入して食べた。味はした。味がするだけで、今日は悪くないと思える。
午後、千宥はもう一度外に出た。アネックスの近所の自販機で温かい飲み物を買う。それだけの外出。通学路の途中、「栄久坂」の麓あたりだ。ふと、坂の上が気になる。いや、今は考えるな。首をブンブン振って、自販機に頭を戻す。
夕方が近づくと、空気が変わった。時計の針が四時を回る頃、千宥は何度も玄関の方を見た。チャイムの音が、耳の奥に先回りして鳴る。来るのは母だ。父ではない。分かっている。分かっているのに、つい、恐怖感を感じてしまう。
鈴蘭が帰宅したのは、四時過ぎだった。買い物袋を下げ、コートを脱ぎながら言う。
「よし。迎え行こうか」
千宥は頷いたが、立ち上がるのが一拍遅れた。膝が少し重い。
「千宥」
鈴蘭が呼ぶ。
「……ん」
「今、怖いね?」
鈴蘭は、言い当てる。でも、その言い当て方に責める色はない。
「……うん」
「気持ちがそれどころじゃないなら、私が行こうか?」
「……ううん、私行く」
何かしてないと、不安に襲われる。何もしていないのが一番精神的に良くない。
そして、千宥は家を出て、見慣れているけど、いつもと違う通学路を上がる。坂を下りる人の波を千宥は逆走する形だ。受験生の顔。保護者の顔。終わったあとの抜けた顔。まだ緊張が抜けない顔。笑う顔。泣きそうな顔。千宥はその波の中から二生を探す。探す間、胸がぎゅっとなる。「うまくいったかな」ではない。「無事に帰ってこれるかな」だ。
二生は門の外で立っていた。手袋をはめた手をポケットに入れ、背筋を伸ばしている。小さいのに、まっすぐ立っている。
「二生!」
二生がこちらに気づいて、歩いてくる。歩き方が少しだけぎこちない。足が疲れているのか、緊張が抜けないのか。
「……おかえり」
千宥が言うと、二生は一瞬だけ笑った。
「ただいま」
それだけで、千宥は息が抜けた。しかし次の瞬間、玄関の迎えのことが頭に浮かぶ。母はまだか。父は来ていないか。不安が、まだ完全には消えない。
「で、どうやった?」
二生は少しだけ間を置いてから言った。
「……分かんない。けど、やるだけはやった」
それでいい、と千宥は思った。思いつめた顔をしていない。彼女の場合、ほぼそれが答えだ。そして、今日の目的は、やるだけやって、帰ることだ。
「うん、お疲れ様」
二人で並んでアネックスへ戻る途中、スマホが震えた。母からのメッセージだった。
『終わった?』
『今、二生を迎えに来てるところ。家に帰ってる途中。お母さんは?』
千宥は指が少し震えるのを感じながら、返事する。少し間が空いて返事が来る。
『今、向かってる。城川堀SAにいる』
高宮自動車道の途中のサービスエリアだ。おそらく、春若までは一時間かからないぐらいだろう。
『一人?』
『うん』
『わかった。気を付けてね』
その文字を見た瞬間、千宥の力が、少し抜けた。今日、父は来ない。それだけで、世界は少し広くなる。
「お母さん、向かってるって」
「うん」
「はあ、嫌だな。着替えないと」
もう、二生には男の格好が嫌なのは隠さない。二生ももうそれが当たり前になったようで、くすっと笑ってみせる。
アネックスに着くと、二生は靴を脱ぎながらふっと息を吐いた。
「……終わった」
その一言が、何よりも重く、そして軽かった。千宥は靴を脱ぎながら、反射で時計を見た。十七時を少し回っている。母が城川堀サービスエリアなら、あと四十分か、もう少し。道路が空いていれば、もっと早いかもしれない。――早いほうがいい。早く来て、早く帰ってほしい。そう思うのに、早く来るとそれはそれで怖い。
「二生、先、手洗っといで」
鈴蘭がいつもの調子で言う。千宥はその声にすがるようにうなずいた。
「はい」
二生は素直に洗面所へ向かった。水音が聞こえる。石鹸の泡を流す音。生活音が、今日も生活音として聞こえている。そのことが、救いだった。千宥はその場で立ったまま、コートの前を外した。指が少し冷たい。コートのボタンがうまく外れない。急いでいるわけでもないのに、焦っている。
「千宥、いったん座って」
鈴蘭が言った。
「……うん」
ソファに腰を落とすと、ふっと力が抜けた。抜けたのに、落ち着かない。身体の外側だけが緩んで、内側のどこかが固いまま残っている。
二生が洗面所から戻ってきた。頬が少し赤い。手を拭きながら、鈴蘭を見た。
「鈴蘭さん、今日……仕事してたの?」
「ちょっとだけ。昼だけ顔出して、夕方は抜けた。二生を家で迎えるのは決めてたからね」
ちょっとだけとは言うが、なんだかんだで九時から十五時までという、軽い時短勤務ぐらいの長さである。
「……すごい」
「すごくない。慣れ」
鈴蘭は笑って言って、二生の頭を軽く撫でた。その撫で方が、子ども扱いではなく、「よく帰ってきた」の確認に見えた。二生は少しだけ笑ってから、急に真顔になった。
「……お姉ちゃん、着替えるの?」
千宥は一瞬だけ息を止めた。言われると、現実になる。
「うん」
「やっぱり……嫌?」
「嫌」
即答だった。否定する必要がない相手がいるというのが、不思議だった。二生はうなずく。
「……ごめん」
「二生が謝ることじゃないよ」
千宥は言いながら、自分でも驚いた。声が、思ったより柔らかく出た。鈴蘭が台所から声を飛ばす。
「二人生きとる? お茶淹れるよ。砂糖入れる?」
「私はいらない」
千宥が言うと、二生も「私も」と続けた。
「受験生、糖分取っとけって言われるけどねー」
鈴蘭がわざと軽く言う。千宥は立ち上がった。このまま座っていると、玄関の音を待つだけになってしまう。待つのは良くない。待つと、頭の中が父に占領される。
「……着替えてくる」
「はいはい」
鈴蘭の返事は雑に聞こえるのに、ちゃんと背中を押してくれる返事だった。
自室のドアを閉めた瞬間、千宥は小さく息を吐いた。吐いたはずなのに、胸の奥がまだ固い。また男ものに変える。
――逆だ。
家に帰ってきて、ようやく「ほどける」はずのところで、もう一度結び直す。母親が来るだけなのに。
千宥はハンガーに掛けたままのパーカーを見た。服そのものが怖いわけじゃない。服が怖いんじゃなくて、服が呼び出す「役割」が怖い。
クローゼットの奥に手を伸ばす。しまってあるズボン。無地の上着。前に帰省のために揃えたやつと、ほとんど同じ手触り。自分の部屋の中なのに、急に「舞台裏」みたいになる。ここで着替えると、別の自分に出ていく準備をすることになるからだ。
ズボンのウエストを通し、ベルトを締める。きゅっと締まる感覚が、落ち着くようで、落ち着かない。「母が来る」だけで、こんなことをしている自分が滑稽で、腹が立つ。腹が立つのに、やめられない。
鏡の前に立つのは避けた。見なくても分かる。さっきまでの自分より、今の自分のほうが固い顔をしている。男ものに袖を通すたびに、表情まで固くなっていく気がした。そうやって、また「向こう側」に引き戻される。
髪を結ぶ。左耳の下のゴムを外す。昨日と同じ装飾のないゴムを取り、後ろへ回し、無造作にまとめる。何度もやった動作なのに、手が迷う。迷うのは、結び方じゃない。自分がどこへ戻ろうとしているのか、その方向に迷っている。
――お母さん。
千宥は心の中で繰り返した。父じゃない。怒鳴らない。殴らない。詰めない。それでも、母の前に出るときの自分は、いつも「父に見られてもいい形」に寄せる。いや、別に父を恐れてのことでもない。単に、母にも女装をカミングアウトしていないからだ。別に、母そのものが怖いわけじゃない。でも、そのことが知られて、何を言われるのかが怖い。ショックを受けたり怒ったりする可能性もある。少なくともいい顔はされないだろう。よって、そんな顔を見るのが怖くて、母の前に出るときまで「父に見られてもいい形」に寄せてしまう。服の袖を引っ張り、襟元を整える。整えれば整えるほど、安心から遠ざかる気がした。ドアの外で、鈴蘭が湯を沸かす音がした。カップが触れ合う音。生活の音が、千宥をここへ引き戻そうとしてくれる。千宥は最後に、スマホをポケットに入れて、深呼吸して、心落ち着けた。よし。
部屋を出ると、居間の灯りがまぶしかった。
「お、早いね」
鈴蘭が声をかける。二生はこちらを見て、少しだけ眉を寄せた。
「……やっぱ、それ、嫌そう」
二生の声は小さかった。千宥は笑おうとして、でも、笑えないまま言った。
「うん。嫌」
「嫌でも、今日だけ。今日だけで終わる」
鈴蘭が、お茶を置きながら言う。千宥はうなずいた。「今日だけ」という言葉に、すがるように。鈴蘭がカップを置いて言った。
「で、二生。腹減ってる?」
二生は一瞬迷ってから答えた。
「……ちょっと」
その「ちょっと」が、今日の全部みたいだった。頑張って、緊張して、終わって、ようやく胃が動き始める。
「じゃあ、うどんにしよ。消化いいし。おにぎりでもいい」
鈴蘭が立ち上がる。千宥は思わず言った。
「鈴蘭さん、無理しなくていい」
「無理してない。私が食べたい」
鈴蘭は即答して、台所へ向かう。鍋の音。水の音。また生活音が戻る。
それからしばらく、三人は妙に普通の時間を過ごした。千宥と二生は食卓に座り、鈴蘭は台所ごしに話す。二生は入試のことを言わない。千宥も聞かない。代わりに二生は、今日見た受験生の話を少しだけした。
「門のところ、すごい人だった」
「でしょ」
「先生、めちゃくちゃ元気だった。朝から」
「元気じゃないと受験生に飲まれるからね」
鈴蘭の返しが軽い。軽いが、現実の重さを知っている返しだ。他愛のない話。しかし、その安心は長く続かなかった。玄関の方から、遠くで車の音がした。止まった気がする。ドアの閉まる音がした気がする。
――来た?
千宥の身体が、勝手に固まる。いや、車なんて何台でも来るだろう。考えすぎだ。しかし、数秒後、スマホが震えた。千鶴から。
『着いたよ』
千宥は画面を見つめたまま、息を吐いた。吐いた息が震えている。二生が箸を止めた。
「……お母さん?」
「うん」
千宥はうなずいた。やっぱり緊張しているのは悟られているだろう、と千宥は自覚する。
「……上がってもらうね」
千宥はスマホを握ったまま言った。声が少しだけ硬い。鈴蘭がうなずく。
「うん」
ほどなく、呼び鈴が鳴った。ドアを開けると、千鶴が立っていた。目が合い、一瞬、沈黙が落ちる。
「どうぞ」
千宥が言うと、千鶴は少しだけ目を細めた。
「いいの?」
「……うん」
その「うん」は、許可でも歓迎でもなく、ただの事実確認みたいだった。千鶴は居間に通された。
「こんばんは、おばちゃん」
鈴蘭の明るい声。空気が一段、軽くなる。
「こんばんは。本当にありがとうね」
「全然。寒かったでしょ。どうぞ」
千鶴は靴を脱ぎ、きれいに揃えた。その所作が、実家で見る母の動きと同じで、千宥は少しだけ現実に引き戻される。二生が立ち上がった。
「お母さん」
その呼び方が、受験生の声じゃなく、ただの娘の声だった。
「お疲れさま」
千鶴はそれだけ言った。
「どうだった?」
「……やるだけは、やった」
二生が小さく言った。千鶴は一瞬だけ目を閉じて、それからうなずいた。
「うん。それで十分」
そして、千鶴は今度は千宥に向き直り、紙袋を差し出す。
「これ、少しだけ。いつもありがとうね。鈴蘭ちゃんと二人で」
「ありがとう」
「おばちゃん、ごめんね、気を遣わなくていいんだよ」
千宥が受け取る。横から鈴蘭も声をかける。千宥は手が触れそうになって、触れない。その距離が、この親子の現在地みたいだった。何も言わないが、視線がいろいろなものを確かめている。そして、千宥に目が止まる。男ものの服。後ろでまとめた髪。固い表情。
「……元気?」
ごく普通の問い。
「うん」
短い返事。千鶴はそれ以上踏み込まない。踏み込めないのか、踏み込まないと決めているのか、分からない。少しの沈黙。千鶴はコートの袖を整えながら言った。
「今日はね、ほんとにそれだけ。顔見て、声聞いて、帰るだけ」
言い訳のようで、宣言のような言葉。千宥の胸の奥で、何かが少しだけ緩む。
「……うん」
千宥は伏し目がちに返事するのみだ。その時だった。
「……でも、その前に」
鈴蘭が台所の方を親指で指した。
「うどん作りかけなんだけど」
千鶴が目を瞬かせる。
「え?」
「二生、帰ってきてからちょっとお腹空いたって言ってたし。もうゆでる所だったから、良かったら食べてほしいなって」
鈴蘭はそう言って笑った。
「おばちゃんも食べる?」
「いや、私は……」
言いかけて、千鶴は二生を見た。意を決して千宥も声をかける。
「よかったら、食べて。福岡まで、長いでしょ」
そして、二生も、少しだけ困ったように笑う。
「……ちょっと、お腹空いた」
その言葉に、鈴蘭が満足そうにうなずいた。
「ね」
千宥も小さく呟く。それをゴーサインとして、鈴蘭はうどんを湯がこうと投入した。湯気が立つ。受験が終わってから初めて、二生の顔から力が抜けた気がした。
「受験終わった直後って、お腹空いてるのか空いてないのか分からなくなるんだよね」
鈴蘭が麺をほぐしながら言う。
「で、しばらくすると急に空く」
「あ、それ分かるかも」
二生が小さく笑った。
「でしょ?」
どこか得意そうだ。数分後、うどんができあがった。お椀と、うどんそのものも一把追加し、四人前。だしの匂いが部屋に広がる。
派手なものではない。温かいだしと、高宮名産・神戸うどんの柔らかい麺。そして、ネギなどの薬味や若干の具。それだけなのに、部屋の空気が少し変わる。
「いただきます」
最初は遠慮していた千鶴が、先導するように言う。そして、二生と千宥も手を合わせて続く。鈴蘭は「はいはい」と笑いながら座った。
二生は最初の一口をゆっくりすすった。それから少しだけ目を丸くする。
「……おいしい」
その一言に、鈴蘭が嬉しそうに笑った。
「よかった」
千鶴も、その様子を見て少しだけ肩の力を抜いた。受験の出来はまだ分からない。結果もまだ先だ。でも少なくとも今は、無事に帰ってきて、温かいものを食べている。それだけで十分だと思えた。
そして、いつもは控えめな二生だが、実はお腹がすいていたのだろう。ものの十分足らずで完食した。
「ごちそうさまでした」
「実はお腹減ってたね。二生」
そして、千宥と千鶴も食べ終わる。千鶴は率先してお椀を台所に下げに行く。
「あ、いいよ。お客様はお構いなく」
「ううん、ごちそうさま」
「流し置いといてよ。うちは食洗機あるんだから。時短時短」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
千鶴は促されて流しにお椀を置く。そして、千宥と二生も続く。千鶴は時計を見た。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね。夜道は冷えるし」
「もう?」
二生が言う。
「うん。明日もあるでしょ」
明日は学校がある。そして受験は一日で終わらない。一応、他の学校も受けるとのことだ。そして、栄久も含め、結果もこれからだ。玄関へ向かう。千宥も後ろにつく。ドアの前で、千鶴が小さな声で言った。
「……今日は来てよかった」
誰に向けた言葉か、分からない。でも、千宥の胸に落ちた。
「気をつけて」
千宥が言う。千鶴は一瞬だけ、千宥の顔をまっすぐ見た。
「千宥も元気でね」
それについていくように、二生も玄関を出る。そして、回れ右をする。
「あの、お世話になりました!」
深々とお辞儀をした。
「お疲れ様」
「四月からはうちの子として帰っておいで」
二人の言葉に、二生と千鶴はもう一度一礼し、部屋を出た。
千鶴のヒールの音が遠ざかる。車のエンジン音。やがて、それも消える。
ドアを閉めると、部屋の中が急に静かになる。千宥はしばらく、ドアにもたれたまま動けなかった。父は来なかった。母は部屋まで来た。それでも、何も壊れなかった。でも、偽りの自分を抱えたままではあった。男ものの服を着て、母の前に立ったままで終わったことが、やっぱりつらかった。気合を入れ直し、千宥は部屋着に着替えた。疲れてても、これはもう、意地だ。そして、居間まで出る。
「おつかれさま」
鈴蘭が声をかける。
「うん、疲れた」
「次、入学説明会じゃない?」
「……受かってたらね」
意地悪に事実を叩きつける鈴蘭に、精いっぱいの笑顔を作る。……絵にかいたような苦笑だが。
そして、数日後。千宥は、二生の合格の報告を聞いたのだった。
【次回予告】
二生、一か月ぶりの春若。そして、千宥に最大の試練が……?
という感じです。お楽しみに。
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