第15話 気の進まない帰省
<AI依存度>:
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ユーザー独自の構成・設定・加筆:55~70%
毒親家庭育ち。そして、逃げた先で始めた、重要な隠し事。帰省は辛いです。
前話より時系列は少々戻るが、年末、十二月三十一日のことである。
高宮市のJR山王駅。ホームに立っているだけで、足元から冷気が上がってくる。靴底を通して、コンクリートが吸い込んだ夜の温度がじわじわと返ってきた。杠千宥は列に並びながら、自分の指先を見た。いつもよりも白く見える。手袋をしていないからではない。緊張すると、こうなる。血がどこかに引いていく感覚。
三分前に始発の高宮駅を出発した、特急885系、博多行き「うみねこ」の白い車体がホームに滑り込む。冬の太陽の光を反射させている。ドアが開くと、人が列車の中に吸い込まれていく。千宥もその流れに乗り、二号車に乗り込む。
――一年半ぶり。耐えかねて飛び出したあの日以来、初めて実家の敷居を跨ぐ。本当は帰りたくなんかなかった。でも、断りきれなかった。気は進まないが、指定席は取ってしまったし、宿泊の準備までしてきた。……一泊分だけ。しかし、いざ出発すると、本当に、足取りが重い。ここまで重いものだったとは思わなかった。重い、というより、背中側から押されるような感じだ。自分の意思ではなく、外から押されて歩かされているような。
ほんの一週間ほど前だった。友達が開いてくれたクリスマスパーティーの余韻が冷めやらぬ中、突然電話があったのだ。母親の千鶴だった。
「千宥、久しぶりね。元気?」
「うん、元気だよ。友達とクリスマスパーティーしてたの」
「……そう、楽しくやってるのね。あのね、実は」
安堵したような母親の声が一転し、千宥も嫌な予感に血の気が引いた。
「お父さんがね、帰って来いって。元旦は親戚がいっぱいくるでしょ。それには居ろって」
やっぱりだ。千宥は大いにため息をついた。そして、声を絞り出した。
「……やだ」
「そうもいかないの。本当に申し訳ないけど。一年前も、千宥がいないこと、本当に色々聞かれて大変だったんだから。お願いだから、説明しろとは言わないから、ここに来てくれたらいいの。それに、お父さんが……」
何をしだすか、千宥には想像つかなかった。いつでも、自分の予想を超えてくる。ずっとそうだ。自分は会いたくないし、向こうも会いには来なかった。それが、今になって、「帰ってこい」。ただ、母の説明からすると、帰省を求める理由はただ一つ、「世間体」。これだけは非常に合点がいく。そして、それを断ることは一番納得してもらえないだろう。抵抗は、説明を求められる。説明は、穴を探される。穴は、責めるために使われる。
「もういいから。わかった。でも、もう一日のうちに帰っちゃうからね」
心配はしてくれているらしい母親まで苛立たせたくなくて、つい返事してしまった。
「ごめんね、お母さん、ちょっとこの後ラジオの本番だから……」
そう言って、もう一分ほど挨拶の言葉を交わし、電話を切った。実は、千宥の母親は、福岡を拠点にフリーアナウンサーというか、ローカルタレントとして活動しているのだ。「いせやちづる」という芸名を聞けば、福岡はおろか、高宮を含む九州の人間はピンとくる人は少なくないし、若い頃、ほんの数年だけ東京のキー局のアナウンサーだったため、世代によっては全国で覚えている人もざらにいる、そんな母親なのだ。
そして、そんな有名人の母親からは、夏以降、たまに電話はあるが、父親からは一切ない。当然だ。千宥が着信拒否しているからだ。父親からの直電は恐怖そのもので、家出前から嫌だった。トラウマすぎて番号も覚えていたので、高宮で新たなスマホを買い与えられた時も、いの一番に着信拒否設定したのだ。そんな父親が、母親を通じた久々の伝令が「帰ってこい」。そして、約一年半ぶりに顔を合わせることになる。一瞬トイレに行きたくなった。先ほどのパーティーで口にしたケーキやらチキンやら鍋やら、すべて口からぶちまけてしまいそうだったが、こらえて、そのまま眠りについた。
列車に乗り込むと同時に、暖房の熱気が皮膚に当たって、逆に寒さを意識した。車内の匂いは、どこか甘い。座席の布、他人のコート、温かい飲み物、紙袋。指定席に腰を下ろす。背もたれの角度を直し、荷物を膝の上に置く。落ち着かないとき、人は荷物を手放せない。
そして、息を吸う。
――男装。その言葉が、頭の中でひとつの札のようにぶら下がっている。男装をしなければ、というより、男装をしないと「何を言われるかわからない」からだ。父の声が、耳ではなく身体の奥に残っている。髪は長く伸びた。従姉の鈴蘭に紹介された美容室も、もう常連だ。ロングヘアの憧れがあって、結局、あの父親のために自分の憧れは捨てられないと、つい三日前に行った時も、切らずに整えてもらった。言い訳、どうしよ。千宥は車内でそれが気がかりだった。今日は、結ぶしかない。千宥は、膝の上の鞄から小さなヘアゴムを取り出した。束ねた髪が、どこか不格好に膨らむ。何度かやり直して、最後に無理やり後ろで留めた。いつもは左耳の下でサイドテールのような感じでまとめるのがお気に入りだし、時々は三つ編みにしたり、少し前に、友人の古波蔵茉衣子の提案でツインテールにも挑戦してみた。しかし、それらのような、いかにも女の子、という結び方は今日は絶対にできない。後ろで無造作に束ねる。その茉衣子の父親である泰造がいつもそうしているように。
「……こんなとこかな」
口に出した声が、自分でも妙に乾いて聞こえる。窓の外が流れ始める。線路脇の建物、駐車場の車、灰色の空。年末の空はいつも、どこか薄い。晴れていても、色が少ない。ほどなく、長いトンネルに差し掛かる。山の多い高宮本線、四駅先の滝野温泉駅ぐらいまでは、ずっとこんな感じだ。
「次は北橋、北橋です」
車内放送が流れ、次の停車駅が告げられる。あと九駅ある。その声は柔らかいのに、千宥の胸の内側だけが硬くこわばっていた。
隣の席の乗客は中年の男性で、新聞を広げた。紙の擦れる音が、妙に大きく感じる。前の席では子どもが小さく咳をして、母親が「静かにね」と囁く。
――みんな、帰るんだ。
帰る場所があって、そこに戻る。そういう当たり前の動きが、この車内には満ちている。
千宥は窓の外に目を向けた。長い高宮トンネルがまだ続く。黒い車窓に自分の輪郭が、鏡のように映る。視線を逸らす。見れば、何かが崩れる気がした。崩れる、というより、余計なものが浮き上がる。
「私は、何で帰るんだろう」
答えはある。父の命令。でも、それを答えにした瞬間、息が詰まりそうだった。
トンネルを抜けたところで、ポケットの中のスマホが震える。通知。従姉で同居人の田中丸鈴蘭からだった。
『気をつけて。着いたら連絡してね』
短い文。それだけで、胸の底にある硬い塊が少しだけ柔らぐ。千宥は返信を打つ。
『うん。着いたら』
それだけ。送信したあと、スマホを伏せた。こういうとき、余計な会話はしない方がいい。あまり家の人と会話すると、帰りたくなる。逃げたくなる。
本当は逃げたい。それはずっと同じだ。でも、逃げてもっと酷い状況に陥ったら……今の生活すら無くなってしまうだろう。これは取引だ。契約条件履行だ。そう自分に言い聞かせる。しばらく、居眠りしたふりをしながら、前屈みになり、心を落ち着ける。
「まもなく、北橋、北橋です。お降りの方は――」
まだまだあと八駅。まだまだ長い時間を過ごすことになりそうだ。
しばらく本当に居眠りしたら、このひたすら居心地の悪い車内も短くなるかと思ったが、案の定、眠れない。一時間半、モヤモヤしつつ考え事をしているうちに、やっと博多が近づいてきた。福岡市が見えると、さすがに窓の外が全く違う。本当は、この街が自分の故郷である。でも、いい思い出はない。父親から離れられる高宮が自分の心のふるさとだし、なんなら自分の好きな格好で過ごすことができるようになった春若。そして、そんな田舎町にある、大好きな友達と過ごせるアネックスこそが心の実家だ。
「……福岡なんか、嫌い」
自分にだけ聞こえる声でつぶやいた。
博多駅に着くと、車内の空気が一気に動いた。荷物棚から鞄を下ろす音。コートを羽織る音。親子連れの母親が子供に「降りるよ」と声をかける。年末の駅は、せわしない。千宥は立ち上がり、流れに合わせてホームに出た。寒さが戻ってきて、息が白くなる。博多駅は明るい。人が多い。年末の買い物袋、キャリーケース、土産物。駅構内のアナウンスが重なり合って、言葉がひとつの音の壁になる。福岡は嫌いだが、そんな博多駅の中にいると、少しだけ安心する。誰も自分を知らない。誰も自分を見ていない。見られていないことが、これほど楽だとは思わなかった。なのに、ガラスに映った自分を見た瞬間だけは、結局「どう見えるか」を気にしてしまう。鹿児島本線のホームへ向かう。エスカレーターを降りる途中、ふと鏡のようなガラスに姿が映った。長い髪を結び、コートの襟を立て、口を結んでいる。
――男に見えるだろうか。
思ってしまった瞬間に、なんとも言えない気持ちに襲われた。いつもの自分じゃない。いつもなら、男に見られたくないと思うのに。今日は、精一杯自分を殺す日だ。
ホームに着くと、門司港行きの普通列車がすでに停まっていた。扉が開いていて、人が吸い込まれていく。
千宥は乗り込む。座席に座ると、特急とは違う匂いがした。生活の匂い。汗、洗剤、コンビニの揚げ物。
香椎まではほんの数駅だ。それでも、距離がある。距離というより、時間がある。考える時間がある。
千宥は視線を落とし、指先でコートの袖口を触った。糸のほつれ。小さな毛玉。そういうどうでもいいものを見つけてしまうとき、人は落ち着いていない。窓の外に、住宅地が流れていく。ベランダに洗濯物。小さな公園。車の列。どこにでもある風景なのに、今日は全部が遠い。
香椎、香椎。
駅名が頭の中で繰り返される。あの駅の改札を抜けたら、母がいる。妹の二生に、弟の三善がいる。そして、まだ帰宅していないようだが、そのうち父が戻ってくるだろう。まだいない、そう聞いているのに、もう気配がある。千宥は、ゆっくり息を吐いた。心を落ち着けようとするが、香椎が近づくたびにそれすら難しくなってくる。
列車が減速し、香椎駅に入る。ホームが近づくにつれて、心臓の鼓動がうるさくなる。駅に着く。扉が開く。人が降りる。千宥は立ち上がり、足を一歩、ホームへ出した。
――ここから先は、戻れない。そう思った。
ホームに降り立った瞬間、冷気が頬を撫でた。香椎駅は、博多よりも落ち着いている。でも、千宥の心は落ち着かない。人混みに紛れられなくなるのもそうだが、仮にも地元なのだ。誰かに会うのが、嫌だ。悪い人たちばかりではなかったが、福岡の人たちには、やっぱり会いたくない。改札へ向かう人の流れはゆっくりで、誰も急いでいない。それでも、千宥の足は少し速い。改札を抜け、足早に駅ビルを抜け、西口のロータリーへと出てくる。胸の奥がひゅっと細くなる。
――いる。
視線を上げると、すぐに母の姿が見えた。濃いターコイズっぽい色のコート。マフラーをきっちり巻き、手を振っている。仕事のときとは違う、やわらかい顔。だが、その目は落ち着きなく改札口を探している。隣に、妹の二生。その少し後ろに、弟の三善。二生は半年前、高宮で再会したが、三善とは家出以降、本当に初めてだ。
千宥と目が合った瞬間、母は一拍遅れて笑った。
「……千宥」
呼び方が、少しだけ慎重だ。
「うん」
短く返す。声が思ったよりも低く出て、少し安心する。三善が先に近づいてきた。
「久しぶり、兄ちゃん」
視線が一瞬、髪に落ちる。すぐ逸らす。何も言わない。その遠慮が、逆に痛い。二生は、まっすぐ見ていた。評価も、詮索もない。ただ、確認するような目。
「寒かったでしょ」
母が言う。
「うん、まあ」
それだけの会話。それだけなのに、肩の筋肉が固い。
改札の外は、年末特有の浮き足立った空気がある。帰省客、買い物袋、正月飾りを抱えた人。どこか明るい。千宥だけが、その明るさの外側にいる。
「お昼、まだでしょ? 近くで食べようか」
母の提案に逆らう理由はない。駅構内を一旦出て滑り込んだ近所のレストランは、家族連れでにぎわっていた。ガラス越しに見える店内は温かそうで、笑い声が響いている。
席に通されると、四人掛けのテーブルに向かい合う形になった。千宥は、無意識に出口に近い側を選ぶ。メニューを開く。文字が目に入らない。
「何にする?」
二生が小声で聞く。
「なんでもいい」
本当に、なんでもいい。味が分かる気がしない。注文が済むと、母がぽつぽつと話し始めた。
「三善、東京生活は慣れた?」
「結構ね。俺、そろそろ博多弁忘れそう」
「二生は模試、どうだった?」
「うん、大丈夫だと思う」
自分のことは、誰も聞かない。それがありがたいのか、寂しいのか、自分でもわからない。料理が運ばれてくる。湯気が立ち上る。千宥はフォークを持つ。
一口。味が、薄い。噛んで、飲み込もうとすると、喉の奥が拒否する。水で流し込む。二口目は、さらに時間がかかる。
「具合悪い?」
二生が小さく聞く。
「大丈夫」
即答する。本当は、胃がきゅっと縮んでいる。母は気づいているのか、いないのか、あえて触れない。それが、母のやり方だ。店内の笑い声が遠い。隣の席の知人同士と思われる集団が「来年もよろしくね」と言って乾杯している。
――来年。その言葉が、やけに重い。
実家の前に立つ。門柱。「杠」と書かれた表札。アパート暮らしに慣れてきて、改めて見るとバカでかいとは思うが、何も変わっていない。玄関のタイルに足を置いた瞬間、空気が変わる。家の匂い。洗剤と木材と、どこか甘い芳香剤の匂い。靴を脱ぐ。その動作が、やけに慎重になる。
――踏み込んだ。
そう思った。廊下は静かだ。父はいないはずなのに、音が吸い込まれているような静けさ。
「荷物、部屋に置いてきなさい」
母の声が、いつもより低い。自室のドアの前に立つ。ノブに手をかける前、一瞬だけ躊躇する。開ける。時間が止まっていた。机の上の小さな傷。壁に貼ったままのポスター。ベッドの配置。あの日、出ていったまま。埃は積もっていない。母が掃除しているのだろうか。部屋の中央に立ち尽くす。ここで過ごした日々を思い出そうとする。だが、うまく思い出せない。
怒鳴り声。沈黙。食卓の緊張。
断片だけが浮かぶ。ベッドに腰を下ろすと、マットレスがきしんだ。その音だけで、胸がざわつく。
――ここにいたんだ。それが信じられない。窓の外は、冬の曇り空。この家の外に、別の世界があることを、今は知っている。でも、この部屋にいると、知らなかった頃に戻りそうになる。
鞄を開ける。中にあるスマホを確認する。高宮の時間が、そこにある。通知はない。それが、少し寂しい。一旦鈴蘭に連絡する。
『つきました。四人でごはん食べました。お父さんはまだいません』
すぐさま、返事が来る。
『そっか。無事でよかった。なんかあったら言うこと。元日待たずに飛んでくる』
ありがたい。ちょっとだけ気が楽になる。『ありがとう』のスタンプを押し、スマホをしまう。
廊下の奥で、物音がした。時計を見る。まだ夕方前。父は仕事だと言っていた。それでも、身体が反応する。物音の正体は、三善だった。廊下から階下の母親に声をかけたことで判明した。安堵と同時に、自分の過剰さに気づく。
――まだ帰ってきていない。それなのに、もう疲れている。廊下の向こうから、母と二生の声が聞こえる。内容はわからない。ただ、生活の音。それが、少し救いになる。それでも。この家の空気は、薄い。息を吸うと、どこかで引っかかる。夕方は、まだ遠いはずなのに。千宥は、手のひらをぎゅっと握った。父が帰るまでの時間が、これほど長いとは思わなかった。
夕方が近づくにつれて、家の中の音が増えていった。母が台所で料理する音。二生が時折トイレなど移動する音。気づけば三善が隣の自室で音楽を聴き始めていた。家にいた頃は、なんのことはないいつもの生活音。けれど、今の千宥の耳はそれらをただの「生活音」として受け取れなかった。どれも、父の帰宅を告げる前触れに聞こえる。音が増えるほど、時間が減っていく。時間が減るほど、胸が固くなる。スマホを見ても、時間の進み方は変わらない。じっとしていると余計に身体が固まるので、千宥は自室の中を意味なく片づけるふりをした。開けては閉める、引き出し。触っては戻す、古い本。鏡は見ない。見れば、今の自分の姿に言い訳が必要になる気がした。
廊下に出ると、遠くの居間から三善の笑い声が聞こえた。母と二生の声も混じっている。二人とも、いつの間にか居間に出てきたようだ。小さな笑い声だ。その笑い声が、千宥のいる場所には届かない。壁がある。距離がある。というより、線が引かれている。
千宥はキッチンの方へ行くふりをして、途中で足を止めた。自分の行動が不自然になっていないか、気になった。家にいるだけで、自分が常に監視されているような錯覚がある。父がいないのに。
――いないのに。
そのことが、いちばん腹立たしい。ふと玄関の方から、郵便受けの金属音が鳴った。千宥の肩が跳ねる。母が小さく「郵便かな」と言って玄関へ向かった。千宥は、自分の反応が異常だとわかっているのに、止められない。身体が勝手に先回りする。戻ってきた母は何事もなかったように郵便物を棚に置き、台所に戻った。その背中は普通だ。普通の背中を見ていると、余計に自分だけが変だと思い知らされる。
夕方の光が窓から斜めに差してきた。家の廊下に長い影ができる。影は伸びる。伸びて、やがて消えていく。時計の針が、淡々と進む。
玄関の鍵が回る音がしたのは、七時の少し前だった。それだけで、千宥の内臓がきゅっと縮んだ。音は記憶のスイッチを押す。過去が勝手に現在に接続される。父の帰宅の音は、ずっとそうだった。靴が脱がれる音。コートが掛けられる音。廊下を歩く靴下の擦れる音。居間で母が「おかえりなさい」と言った。声がいつもより少し高い。父は低い声で「うん」とだけ返した。
それから、少しだけ沈黙があった。父が家の空気を吸い、家の匂いを確認し、家族の存在を把握するための沈黙。千宥は自室のドアの内側にいた。立っていたわけではない。椅子に座っていたはずなのに、気づけば背筋を伸ばし、指先に力が入っている。ドアの向こうの気配が、ゆっくり近づいてくる。
廊下に足音。千宥は心臓がひっくり返ったようになる。ノックの音。父ではない……?父はノックして入室の許しを求めるなどしない。やや混乱しつつドアノブが回る。母が立っていた。少しホッとする。
「千宥、お父さん、帰ったから降りてらっしゃい」
いや、ホッとできなかった。顔が再びこわばる。
「はい……」
さあ、処刑の時間だ。母から言われたのは、千宥にとってはほぼそれと同義だ。
居間へとぼとぼ降りてくる。
父、万寿美は既に私服だった。スーツを着て帰宅して、もう予定がないからパジャマなり部屋着なり着たらいいのに、襟付きのシャツにセーター。夜十時過ぎに風呂に入るまではいつもこうだ。そのこだわりは、咎めるほどのものでもないが、千宥にはわからない。
「ご、ご無沙汰してます」
「その髪はどうした?」
結局、男装していても今回は隠せなかった、長髪についてだ。声は小さい。怒鳴らない。しかし、逃げ場がない。千宥は一瞬、息を吸うのを忘れた。頭の中で言い訳が散らばり、拾う前に落ちていく。
「……ヘアドネーションを考えてる」
口が勝手に動いた。自分で言って、自分で驚く。誰に教わったわけでもない言い訳が出る。生き延びるための嘘は、いつもこうして瞬間的に出てくる。父は何も言わず、数秒だけ見つめた。その数秒が長い。体感が伸びる。心臓の音が耳の内側で響く。
「ふん」
鼻で短く息を鳴らしたように聞こえた。それから、父は視線を外し、部屋の中を見回すでもなく、静かにドアを閉めた。足音が遠ざかる。千宥は、ようやく息を吐いた。吐いた息が震えている。勝ったわけじゃない。ただ、生き残った。その感覚が、腹の底に残った。
「ごはんよ」
母の声が、廊下を通って届いた。千宥は返事をしなかった。すぐに行くべきだとわかっている。行かなかったら何があるかわからない。だから、行くしかない。
居間に入ると、食卓には年越しそばが並んでいた。薬味、海苔、かまぼこ。具材やトッピングとして牛肉炒め、スーパー総菜のかきあげ、天かすも用意されている。三善は恐らく冷蔵庫から卵を取り、投入するだろう。湯気が立ち上り、そばの香りが広がっている。本来なら、少し懐かしい匂いのはずだった。
千宥は黙って席に着いた。父からは遠い、端の席。それ自体は以前から変わっていない千宥の定位置だったが、今はただ、本当に真隣でなくてよかったと思うばかりだった。
父はテレビのニュースを見ていた。いつものニュースだ。政治、経済、事件。画面から流れるアナウンサーの声が、母の声よりも遠く感じる。ここからチャンネルはそのままで紅白歌合戦に突入することになるが、少なくとも家族とともにそれを視聴する気はない。
「いただきます」
母が言った。二生と三善が続く。千宥は、遅れて小さく言った。父は言わない。箸が動く。そばをすする音。器の底に箸が当たる音。テレビが途中で、経済関係のニュースを伝えた。父は眉をひそめた。
「……ああいう経営は、いずれ潰れる」
独り言のように言う。母も、二生も、三善も、反応しない。反応しないことが、ここでの正解だと全員が知っている。
千宥はそばを一口、口に入れた。喉が通らない。胃が受け付けない。咀嚼しても、食べ物が異物のまま口の中に残る。水を飲む。器を置く音が、やけに大きく聞こえた。父がちらりとこちらを見た気がして、千宥の背筋が硬直する。しかし父は何も言わず、またテレビに目を戻した。父がいる食卓はいつも口数が少ない。でも今日は、口数が少ないのではなく、言葉が禁じられているようだった。笑い声は出せない。咳もできない。湯気さえも音を立ててはいけないような空気。食べ終えた三善が「ごちそうさま」と言った。母が「はい」と返した。二生も「ごちそうさま」と言い、皿を下げた。父は何も言わない。千宥は器を置いた。半分も食べていない。母がそれを見たが、何も言わなかった。千宥は立ち上がり、逃げるように自室へ戻った。
ドアを閉めた瞬間、背中に押し込めていたものが溢れそうになった。そばはようやく胃が受け入れて消化し始めたような気持ちだ。おそらく、タイミングがずれたら、自室ではなく、トイレに駆け込み嘔吐していたのではないかと思う。……しかし、胃が落ち着いても、心が落ち着かない。
息がうまく吸えない。喉の奥が痛い。泣きたいわけじゃないのに、涙が出そうになる。
千宥はベッドの端に座り、両手を膝の上で握った。指先が冷たい。身体がまだ父に反応している。父が「その髪はどうした」と言っただけで、このざまだ。頭ではわかっている。父の言葉は短い。今日も怒鳴られなかった。殴られたわけでもない。それでも、身体が震える。自分が嫌になる。
――いつまで、こんなふうに怯えるんだ。しかし次の瞬間、千宥はそれを否定する。怯えるのは当然だ。この父親の前では、自らを主張する「攻め」よりも自らを隠す「守り」のほうが、生存には適している。だから、自分を守るため、この父親に対してはおびえざるを得ない。千宥は息を吐いた。我ながら何という理論だろうか。深呼吸のつもりが、浅い呼吸になる。
そのとき、足跡がした。千宥は身構えた。そして、ノックの音がした。臨戦態勢を解いた。ノックに覚えがあったのだ。母ではない。ましてやノック自体しない父ではない。――二生のノックの仕方だ。
「……入っていい?」
小さな声。
「うん」
ドアが開き、二生が入ってきた。二生は、部屋の中を見回してから、そっとドアを閉めた。閉め方が静かすぎて、逆に緊張を連れてくる。
「……お姉ちゃん、大丈夫?」
今、この格好――という以前に、この家で「お姉ちゃん」呼びはあまりに危険ではあるが、千宥はつい嬉しくて止めなかった。しかし、「大丈夫」か。その「大丈夫」の中に、いくつもの意味が含まれているのがわかった。体調のことではない。食べられなかったことでもない。父のことだ。
「大丈夫、じゃないけど」
千宥は正直に言った。しかし、正直に言える相手がこの家にいることが、少し不思議だった。二生はベッドの横に立ったまま、少しだけ言い淀んだ。それから、決めたように口を開いた。
「……お父さんにね、言われた」
千宥の胃が、また縮む。
「栄久、受けろって」
「え……」
千宥は声を漏らした。
「それは、……なぜ?」
二生は続ける。
「今いる附属はもういいから、高宮で同じところに通って、お姉ちゃんが何してるか、逐一報告しろって」
千宥の視界が一瞬、白くなる。私を監視?何故にそこまで管理したがる?理解できない。だけど、千宥には分かる。何はともあれ、この男にとって、本来、子供は親の所有物なのだ。この一年半。そんな父親の目をかいくぐって、何とか振り回されず生活してきたが、ここにきて実力行使に出るようだ。父のやり方だ。監視。分断。孤立。
千宥は唇を噛んだ。言葉が出ない。怒りより先に、怖さが来る。怖さが来て、次に虚しさが来る。
「……でね」
二生の声が、珍しく少しだけ強くなった。
「言わない」
千宥は顔を上げた。
二生は、まっすぐこちらを見ている。泣きそうでもない。震えてもいない。ただ、決めている。
「お父さんには絶対に言わない」
二生は一歩、近づいた。
「だって、もう知ってるし。お姉ちゃんのこと」
千宥は息を止めた。知っている。そう言われた瞬間、胸の中にあった硬いものがずれる。
「私ね……」
二生は少しだけ笑った。その笑い方が、子どもの頃に見た笑い方と同じで、千宥は胸が痛くなる。
「私は、お姉ちゃんと一緒にいられるのがうれしいから、受験する」
その言葉で、千宥の中の何かが切れた。
涙が出た。あふれるみたいに。
「……あの人、バカだね」
千宥は笑おうとして、泣いた。声が震えた。自分でも情けないと思うのに、止まらない。
「始める前から作戦失敗してる」
二生が小さく笑った。
「うん。ほんとだよね」
千宥は涙を手で拭いながら、息を吸った。吸った息が、少しだけ深い。
怖い。父は怖い。でも、孤立していない。それだけで、世界が少し違って見える。二生はしばらく黙っていた。千宥が落ち着くのを待っているようだった。やがて、二生が言った。
「……お姉ちゃん、明日、帰るんでしょ」
「うん。帰る」
即答した。ここにいたくない。ここにいれば、自分が削れていく。二生はうなずいた。
「私も、早く高宮行きたい。……鈴蘭さんの家、安心する」
その言葉が、千宥を少しだけ笑わせた。
「鈴蘭さんは、強いからね」
「うん。強い」
「それに、私たちもそうだし、鈴蘭さんも私たちのことが大好きだから」
「うん」
二生はいつになく力強くうなずいた。しばらく、二人は黙った。廊下の向こうで、テレビの音が続いている。紅白だろう。父のいる居間の音。それが遠い。千宥は、手のひらを握り直した。まだ冷たい。でも、さっきよりは少しだけ温度が戻っている気がした。
その夜、千宥はあまり眠れなかった。布団に入って目を閉じても、音が入ってくる。廊下のきしみ。居間のテレビの消える気配。誰かがトイレに立つ足音。蛇口の水音。そういう、家の中の小さな生活音。
そのたびに、千宥の身体は反射する。父が動いたのかもしれない。こっちに来るのかもしれない。そう思ってしまう。
来るわけがない。父はわざわざ二階に上がってまで、今の千宥に何か言うほど暇ではない。そんなことは頭ではわかっている。わかっているのに、身体が勝手に緊張を拾う。
千宥は何度も寝返りを打った。枕に顔を押しつけたり、天井を見たりした。時計を見ると、まだ一時にもなっていない。
「……帰りたい」
声に出すと、余計に胸が痛くなった。帰りたい、というのは場所の問題だけではない。高宮に戻れば安心できる。父のいない、自分の家に帰りたい……。
部屋の中は暗い。カーテンの隙間から、街灯の明かりが細く差している。その細い光を見つめながら、千宥はようやく少しだけ眠りに落ちた。
元旦の朝は、妙に明るかった。ガラス越しに光が広がり、部屋の輪郭が白く浮かぶ。外からは子どもの声が聞こえる。近所で遊んでいるのか、初詣帰りなのか。正月らしい、浮ついた声。千宥は起き上がって、しばらくその声を聞いた。自分が、この家にいることが、まだ現実として馴染んでいない。廊下に出ると、台所の方から母の声がした。正月の支度。雑煮。おせち。挨拶に来る親戚のための茶菓子。動きは忙しいが、声は抑えられている。父が起きているからだ。居間の扉が少しだけ開いていて、テレビの音が漏れていた。各局正月特番だらけではあるが、音声の質素さから、NHKだと容易に察しがつく。
千宥は洗面所に入り、顔を洗った。冷たい水が手に刺さる。鏡は見ない。見ても意味がない。タオルで顔を拭いて、息を吐く。
居間に入るタイミングを計る。入らなければいけない。入らないと、目立つ。目立てば、問われる。
結局、千宥は「おはよう」とだけ言って、居間の端に座った。父はテレビを見たまま、返事をしない。母が「おはよう」と返し、二生が小さく「おはよう」と言った。三善はすでに起きていて、スマホをいじっている。
雑煮が並ぶ。「いただきます」と母が言う。二生と三善が続く。千宥も小さく言う。父は言わない。その形式だけは、昨日と変わらない。
雑煮は、昨日のそばよりもさらに喉を通らなかった。汁の温かさだけが、舌に残る。餅は噛んでいるうちに、自分の喉を塞ぐもののように思えてくる。何度も水を飲んで、やっと飲み込む。父は何も言わない。母も何も言わない。二生だけが、こちらをちらりと見てから、すぐに視線を外した。
「……今日は、客が来るからな」
父が、雑煮を食べ終えた頃に言った。それだけ。命令の形をしているが、説明はない。千宥はうなずいた。うなずくしかない。父は立ち上がり、上着を羽織って外へ出た。初詣だろうか、と思ったが、そういう気配でもない。会社の電話かもしれない。あるいは、単に家にいたくないのか。
玄関の閉まる音がして、家の空気が少しだけ緩んだ。緩んだのに、千宥は落ち着かない。父がいないほうが楽なはずなのに、いつ戻るかわからないことのほうが怖い。
昼前から、親戚が来始めた。
玄関のチャイムが鳴り、母が出る。
「明けましておめでとうございます」
笑い声。靴の音。紙袋を置く音。居間に通されると、親戚たちは家の広さに似合う声量で話し始めた。正月の挨拶、健康の話、仕事の話。千宥は、端に座って、相槌だけを打つ。
「千宥くん、大きくなったねえ」
誰かが言う。無難な言葉。千宥は笑った。笑ったつもりだった。頬がうまく動いていない気がする。
父が戻ってきたのは、親戚が二組目に入れ替わる頃だった。……千宥は知っている。先ほどの親戚、父の末弟だが、長いこと確執がある。だから、親戚づきあいとして家に呼ぶくせに、自分は外すのだ。
次の親戚は、父の叔父だ。ここはそこそこ関係がいい。玄関の音だけで、千宥の背中が固まる。しかし親戚がいると、父は外向けの顔になる。叔父という目上の人間となればなおさらだ。声は低いが、語尾は整っている。笑わないが、角は立てない。
「お久しぶりです」
取引先に向ける声と同じだ。家族に向ける声ではない。親戚たちが父を持ち上げる。会社の話題が出る。千宥はその話を聞き流した。家業には興味がない。興味がないというより、近づくと絡め取られる感じがある。関わりたくない。春若で自分が利用している家電量販店の看板を頭に浮かべる。気分だけは、もう父の商売敵だ。
客が増えるほど、千宥の呼吸は浅くなる。
「千宥は今どうしてるの?」
そう聞かれないように、父が話題を別に運ぶ。それがありがたいのか、怖いのか、わからない。父が自分の存在を隠しているようにも見えたし、管理しているようにも見えた。
夕方が近づくころには、頭がぼんやりしてきた。笑う声が耳に刺さる。茶菓子の甘ったるい匂いが気持ち悪い。飲み物を口にしても、喉が乾いたままだ。
――まだ、終わらないのか。
時計を見る。時間が進んでいるのに、進んでいないように感じる。昨日と同じだ。
「田中丸さんが来たよ」
母が、少しだけ声色を変えて言ったのは、日が傾き始めた頃だった。その名字を聞いた瞬間、千宥の中で何かがほどけた。田中丸。鈴蘭の家だ。父にとっては、妹一家にあたる。玄関の方から、明るい声が聞こえてくる。
「明けましておめでとうございますー!」
その声は、これまでの十把一絡げ親戚の声とは違う。聴き慣れた声。こんなに居心地の悪い空間でもお構いなしな、自分にとっての大事な「家族」の声。
居間に入ってきた鈴蘭の家族は、自然に空気を変えた。父の前でも過剰にへりくだらない。けれど無礼でもない。鈴蘭は笑っている。笑いながらも、父との距離をきっちり取っている。その距離の取り方が、千宥には眩しかった。自分は距離を取ることすら許されなかったからだ。いつもは没交渉なくせに、ひとたび帰省して、しかも同室している時に距離を取れば「態度が悪い」と言われる。距離を取らないと削られる。どちらにしても、自分は父の射程内にいた。
鈴蘭は父親とは距離を取り、二生にはハグ、三善の頭をぽんぽん叩くなど、年少のいとこたちにスキンシップに遠慮がない。こちらを見つけると、目だけで「大丈夫?」と問いかけるようにした。声には出さない。空気を読んでいる。その「読める強さ」が、救いになる。
田中丸家と杠家の挨拶は、表面上は穏やかだった。しかし千宥には、父の声の硬さがわかった。鈴蘭が、いや鈴蘭だけでなくもはや一家全員、内心では自分を嫌っていることを察している。だから、千宥の保護を一家全員で賛成した。そして、それを主導し、交渉を勝ち取ったのが他ならぬ鈴蘭。自分が支配できない相手に対する硬さ。
鈴蘭の父、田中丸信康が、さりげなく言った。
「千宥くんも、帰るんだろ?」
「くん」という呼び方に違和感を覚える。鈴蘭の家族にはそうしょっちゅう会わないが、それでも、高宮での姿は知っている。父に気を遣って男として扱っている。
「はい。……すみませんね、今日中に戻るって言って聞かなくて。それにいつもお世話になってます」
父が反応する前に、母が答えた。父は何も言わなかった。言えないのか、言わないのか。どちらでもいい。ただ、ここで父が口を挟めない空気があることが重要だった。鈴蘭が少し身を乗り出して言った。
「私の車で来たの。千宥、このまま拾ってくからね」
千宥はうなずいた。声が出なかった。出せば泣きそうだった。母も、少しだけほっとした顔をした。その表情が「送り出す母親」の表情で、千宥は胸が痛くなる。母は味方だ。しかし盾にはなれない。そういう現実が、この家にはある。
帰る準備は、ほとんど機械的だった。自室に戻り、鞄に荷物を詰める。といっても、早くこの家を去りたいので、そもそもあまり荷物を広げていない。ものの二、三分で準備完了だ。
廊下に出ると、居間の方ではまだ、父とその妹の田中丸夫妻が話していた。表面上はただの兄妹と妹婿の会話。でも、本当に表面上の話で、義務感に塗れた会話だ。
「千宥、準備早いね。帰ろっか」
この薄い会話を終わらせるように、鈴蘭が声をかけた。ああ、やっと終わる、気が抜けそうなのを、なんとか気合を入れ直す。この家の門をくぐるまで気は抜けない。
玄関に向かう途中、母が小さく声をかけた。
「……気をつけてね」
それだけ。千宥は「うん」とだけ答えた。本当は言いたいことがある。ごめん、とか、ありがとう、とか、いろいろ。でも、この家ではあまり余計なことを言いたくなかった。
玄関で靴を履く。鈴蘭の家族が「じゃあね」と言う。
「……それじゃ」
千宥も短く言う。声が少し震えた。
父は、最後まで玄関に出てこなかった。出てこないことが救いなのに、出てこないことがまた別の形で怖かった。「興味がない」という態度は、父の支配の一部でもあるからだ。無視は、存在を否定する。改めて、二度と帰りたくないという思いを持って、実家を後にした。
外に出ると、冷たい空気が肺に入った。車に乗り込む。鈴蘭の運転だが、いつもの軽自動車ではなく、彼女の実家のレクサスだ。
車のドアを閉める。ようやく息が深く吸える。車に乗り込むと、鈴蘭が運転席から振り返って小声で言った。
「大丈夫?」
千宥は、すぐに答えられなかった。大丈夫じゃない。でも、助かった。その二つが同時にあって、言葉が追いつかない。
「……ありがとう」
やっと出たのは、それだけだった。鈴蘭は「うん」とだけ言って、前を向いた。それ以上、踏み込まない。踏み込まないことが、やさしさになると知っている。
車が動き出す。実家の門柱が、後ろに遠ざかる。「杠」の表札が、小さくなる。
千宥は窓の外を見つめながら、胸の奥に残っていた固い塊が、少しずつ溶けていくのを感じた。消えはしない。でも、ここから離れれば、呼吸ができる。
周囲を俯瞰して見られるようになったのは、福岡市を遠く離れ、大矢高ジャンクションから高宮自動車道に入った頃だった。ジャンクションに並木道のように多く設置されたライトの光が、車内に線を引く。ジャンクションを過ぎ、気づくと、高宮へ戻る道は暗くなり始めていた。ほどなく、千宥は、ようやく目を閉じた。それでもまだ胸の奥はざらついていたが、少なくとも、ここでは安心して呼吸ができた。
【次回予告】
二生、春若栄久高校入試。
という感じです。お楽しみに。
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