第14話 新春、久々の三人の日
<AI依存度>:
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筆者は県外で進学し、父の実家で正月を迎えなくなってからはあまり初詣に行かなくなりました。友人に誘われたことは一、二度ありますが。ただ、結婚してからは毎年行ってます。
一月四日。正月の名残は、もう薄い。アネックス久世はいつも通り静かで、いつも通り寒い。三が日を過ぎれば、年明けというより、ただの冬だ。
樋口健介はスマホを見た。年末、このアネックス久世の大家の孫娘で、健介の同級生の玉井絢那がクリスマス会の為に編成したLINEグループは、そのままアネックスに住む同級生のLINEとして運用されている。「チーム☆アネックス」と記されたグループから未読メッセージが届いていた。このアネックスに住まう面々を「チーム・アネックス」と名付けた張本人である古波蔵茉衣子から始まっていた。
古波蔵茉衣子『みんなー!明日初詣行こうぜ!森崎神社!』
相変わらずイベントごとが好きだな。健介は苦笑した。既に何人か返信していた。
杠千宥『ありがとう、行こうか!』
Shingo Tomonaga『すまんな、俺実は昨日から家族旅行なんだわ♨』
ともながひなひ『ごめん、そういうわけで私も♨♨』
この双子のメッセージの末尾で、行先がどういう場所かはわかる。
古波蔵茉衣子『温泉か?いいなあ、あたしが行きてーよ』
年末のクリスマス会で、朝長慎吾と茉衣子の仲は「険悪状態」は脱したようで、健介の見る限り、普通の会話をしている。なお、朝長雛灯は慎吾の妹なので、「家族旅行」となれば当然ながらそろって不参加である。さらに、玉井からも返信が来ていた。
あやな『ごめんね~、あやなもちょっと先約があって茉衣子ちゃんたちとはいけないや、、』
古波蔵茉衣子『ああそっか。じゃ、三人な。』
えっ。六人中三人が断り、健介は未回答である。……こいつ最初から俺を数に?
「まあ、いいんだけどな」
健介はつぶやいた。
樋口健介『お前、人をどうせ暇人だと思って』
古波蔵茉衣子『違うのか?』
樋口健介『いや大丈夫。宿題が終わってないどっかの誰かと違って』
茉衣子から「うぐっ…」というスタンプが来た。図星らしい。
古波蔵茉衣子『ちひろー、宿題おせえて。まあ、とりあえず明日な』
千宥からはOKのスタンプが来て、終わった。茉衣子宅は隣だが、よく耳を澄ますと、玄関が開いて一目散に健介宅の前を通過する足音があった。早いな。千宥、大丈夫なのか?
でも、それは健介が今さら気にしたところでどうにもならない。
三人。言葉にすると妙に軽い。けれど、こういうのはいつもだ。元々、誰かが欠けているのが日常で、たまたま全員揃う日のほうが珍しい。茉衣子が誘ったのは、意外でもなんでもなかった。あいつはそういうやつだ。思い立ったら言う。言ってから整える。整わなければ整わないで、それも笑って飲み込む。健介は靴紐を締めながら、ふと、年末年始の自分を思い返した。
島本の父方。笠木山の母方。二か所を回って、昨日やっと帰ってきた。帰省と呼ぶには移動が多くて、旅行と呼ぶには義務感が強い。家族の顔を見て、祖父母の顔を見て、親戚の顔を見て、あいさつをして、笑って、食って、風呂に入って、寝る。それを終えて戻ってきたアネックス久世が、自分の「家」だと思えたのは、正直、少し怖かった。
こんな薄い壁の箱が。こんな狭い部屋が。でも、鍵を開けたときの安堵は、確かにあった。――やっぱ、自室が落ち着く。それだけだ。深く考えない。
ポケットでスマホが震えた。茉衣子からの追撃みたいなメッセージ。
古波蔵茉衣子『9時半集合!寝坊すんなよー』
健介は短く了解のスタンプを返して、スマホをしまった。
翌朝、九時二十五分。玄関を出ると、冬の空気が顔に当たった。冷たくて、乾いていて、頬が少し痛い。既に茉衣子がいまかいまかと部屋の前で待っていた。
「遅いぞ、健介ー!あけましておめでとー」
声がでかい。朝から元気すぎる。
「健ちゃん、あけましておめでとう」
千宥も茉衣子の後ろから声をかけた。
「うるせえなあ、おめでとう」
「何?目覚めた?よかったじゃん。おはよう」
「勝手に人を寝坊扱いすんな」
まだ約束の時間までは五分ある。
「早く集まったら早いのに乗れるだろうが」
茉衣子は今すぐにでも出発したいようだ。
「……路面電車でも、春若だとそんな数分間隔じゃ来ねえだろ。今からでも十分だ」
「とにかく、外に出たからには早く動きたいんだよ。寒いからな」
南国育ちゆえか、茉衣子は寒さに弱い。千宥はそのやりとりを後ろでニコニコしながら見ている。
「はいはい、今出たらいい時間だよ」
健介が敢えて率先して歩きはじめる。
久世栄久校下の電停に向かう道は、三分。なんとなく話が始まる。
「このスリーショット、ちょっと久しぶりだね。チーム・アネックスの初期メンバー」
千宥が笑う。
「絢那いねえけどな」
茉衣子が言う。彼女の中では玉井は立派なメンバーなのだ。
「あいつは住人でもないけどな。てか、俺も途中で来たんだけど」
「何いってんだよ、お前が引っ越してきた時が結成なんだぞ」
「それは知らなかった……」
健介が苦笑する。
「思い出すなあ。私が健ちゃんと初めて会った日。今日から私たちはチーム・アネックスだー、って茉衣子ちゃんが言ったとき。ああ、そんなのできるんだって思ったもん」
千宥の証言も加わった。そこまで言うのなら、結成日に誤りはないだろう。
電停は春若と市内を結ぶメインルートに沿うが、県道ではなく、アネックスのある裏側の久世二丁目、三丁目の街中の狭い道に入口がある。路面電車と呼ばれてはいるが、この区間は道路とは別に線路が敷いてあり、さらに、ホームまでちょっとした階段まである。去年、エレベーターまで取り付けられており、路面電車の停留所にしては、しっかりした作りだ。階段を上ると、三人はひとまず息をついた。電光掲示板を見ると、次の電車は二つ前の春若駅に停車しているようだ。まだ五分近くかかりそうだ。
「春若駅かあ。まだかかるよなあ。ああ、寒寒」
「言わんこっちゃねえ……」
健介は、だからゆっくり出ようと言ったんだ、と言ってやりたかったが、新年早々、茉衣子と喧嘩は面倒くさい。
「あーもう千宥あっためて~」
「わっ」
茉衣子は不意に千宥に抱き着いた。
「あー、あったけー。いつもは絢那ばっかだけど、うん、浮気か、浮気なのかなこれは」
「やだあ」
「なんのこっちゃ……」
女の子同士のじゃれ合いに、健介は困惑する……ところだったが、よく考えたら千宥は男性であった。忘れそうになる。
「茉衣子ちゃん、ちょっと苦しい」
「でも、お前もあったかいんじゃね?」
「それはそうかも」
「絢那より抱き心地がいいんだ。うん。これはいい」
「やだ、正月太り?」
「ん?お前たぶんそんな食ってねえだろ。はー……」
心なしか、茉衣子の感想を聞いて千宥がもがき始めたように見えるが、健介はそこには触れられなかった。
電光掲示板は、電車が春若駅と久世栄久校下の中間の大門口を発車したことを示していた。
「……もうすぐ来るぞ」
「そっか。もうちょっと時間があったらな、お前も来たらよかったのに。おしくらまんじゅう」
「来れるか」
相変わらずだ、こいつの羞恥心のなさは。健介はあきれるようだった。でも、今同じことをしたら、本当にこいつは何もしないのだろうか?でも、試すのも恐ろしくてできない。
「お前、ほんと距離感バグってるよな」
「はいはい。褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてねえ」
春若方面から市内に出る電車はおおよそ十五分に一本ほどである。市街地で1番・3番・7番の三方向に分かれ、これら三系統がかわるがわる来るため、乗り換えなしで目的地に行ける電車が来るのは、理論上、四十五分に一本ほどだ。今回、森崎神社に向かうには3番・治渕行きがよいため、それをめがけて三人は出発したのだ。
そして、「3 治渕」とLEDの行先表示に書かれた電車が入線した。路面電車の音は、冬でも変わらない。レールの上を滑って、車体が近づき、ベルが鳴る。ドアが開くと、暖かい空気が漏れた。起点の旭里から三つの電停を通過した電車は少々客が多かった。ただ、なんとか三人座れる席を見つけて、腰かけた。
電車が動き出し、車窓の景色が流れる。春若の市街地を抜け、この久世からしばらくの間、ちょっと閑散とした区間が続く。まばらな住宅。点在する商店。冬の空。そして、会話が自然に続いた。
「神社、混んでるかな」
千宥が言った。
「五日だしな。三が日よりはマシだといいけどな」
健介が言った。
「でも、森崎神社だろ。多いとは思うぞ。だって、一番人多いじゃんか、高宮で」
茉衣子が言う。ただ、元々地元民ではなく、「高宮で神社と言えば森崎」という印象が強く、どうしても来たがるのだ。何せ、二年前、茉衣子にとって高宮で最初の正月も誘われて連れていかれたのだ。確かあの時は、玉井と大上茂と四人だった。一年後には、茉衣子と疎遠になっていたので、今こうやって、一緒に行くことになっているのが非常に不思議だ。
「そういや健介、年末年始どこいたんだっけ?」
茉衣子が改めて聞いてくる。
「まずは島本。親父の実家の」
「島本って、あの……島だっけ」
「島じゃねえ。湯釜山の。まあ半島だけどな」
「おー、湯釜山温泉!」
島本半島は、中央に湯釜山という火山が鎮座しており、その中腹の湯釜山温泉と、西の麓の櫛木根温泉が有名である。もっとも、樋口家の実家は東の麓の島本市なのだが。
「うちからは温泉ちょっと離れてるぞ。で、年越して元日に移動した」
「そこから笠木山?」
「ああ」
今度は千宥が聞かれたので答えた。一度か二度しか話していない健介の両親の実家の話を覚えているとは、さすがの記憶力である。笠木山は母方の実家がある。高宮県の中央部にあり、ここもまた温泉地として有名である。ちなみに、母方の実家の浜田家は、笠木山温泉街のすぐそこである。
「温泉入ったん?笠木山温泉」
「……好きだな、温泉。そんな毎回入らねえよ」
「なあんだ」
何故か残念そうにする茉衣子。
「にしても移動多いな。旅やん」
「帰省だって。……てか、それはお前には勝てねえよ」
なにせ、茉衣子の地元は沖縄なのだ。帰省はそれこそ一般人の感覚からすれば旅行だ。
「で、おととい戻った、と」
茉衣子は勝手にまとめてうんうんと頷いた。昨日から早速姉・有希乃が仕事始めだったからだ。
「ゆきねえ、仕事始め昨日だったんだよな?お前はまだ実家でゆっくりしてよかったんじゃねえの?」
「面倒だろ、姉貴が車なのに、それを電車で追いかけるの」
「確かにな」
笠木山温泉から春若までは特急列車と路面電車を乗り継いで一時間半ほどかかる。姉の車に同乗するのに比べて、格段に面倒くさい。
「……それに」
「それに?」
「もうアネックスが自分の家って感じだし」
口に出した瞬間、少しだけ恥ずかしかった。茉衣子が目を丸くして、すぐにニヤッとする。
「へー。最初、めっちゃ文句言ってたじゃんか」
「……言ってない」
引っ越しに文句を言ってたわけじゃない、茉衣子の隣人になったのには文句を言ったかもしれないが。……と健介は思ったが、当然ながら口にはしない。
「ほら、素直じゃない」
千宥が小さく笑った。健介はその笑いが妙に救いに感じて、視線を逸らす。
「茉衣子はいつから沖縄?」
健介が聞くと、茉衣子は得意げに即答した。
「十二月三十から一月四日! 父ちゃんが昨日まで休みやった」
一週間近くがっつり沖縄滞在。うらやましい限りである。
「泰造さんの実家に帰ったの?」
千宥が聞く。高宮に移住するまで住んでいたのは賃貸マンションだと聞いているため、父・泰造のところに帰省したと考えるのが自然である。茉衣子は少しだけ首を傾げた。
「那覇の首里城の近く。……って言うと、すごそうに聞こえるけど、ただの住宅街なんだけどな。父ちゃんの実家もそんなデカくねえよ。あとな、三日と四日で、死んだ母ちゃんの実家も行った。まあ、じいちゃんもばあちゃんもまだ元気だからなあ……」
茉衣子が少し遠い目をした。ちょっといたたまれない気持ちになってくる。
「那覇空港の近くなんだよな。だからそのまま飛行機乗って高宮戻ってきた」
健介は、敢えてしんみりしたところに触れるまいと考えた。
「お前も移動多いな」
健介が言うと、茉衣子は肩をすくめた。
「うちはうちでバタバタよ。年末年始しか休めねえし」
「沖縄って、旧正月のほうが本番って聞いたことあるけど、本当?」
千宥が言う。茉衣子は「あるある」と軽く頷いた。
「昔はそういうのもあるんやろけど、今は普通に一月だよ。学校も仕事もそっち基準だし。観光もそうだしなあ。まず、沖縄がどうでも、うちは年末年始しか休めねえからな」
「そっか。そうだよね」
千宥が頷く。健介はそのやり取りを聞きながら、茉衣子のこと、あんまり知らないな、と思った。いや、前は鬱陶しくて、あんまり深入りしたくないと思っていたのだ。だから、中学の時は、いくら茉衣子が家に押しかけて来ようとも、健介は茉衣子の家を知ろうとしなかった。だからアネックスの存在自体知らなかった。それ故に、知らずにそこに入居し、茉衣子の隣人となったのも何の因果なのか縁なのか。こちらにきて、彼女の父である泰造とは知り合いとなった。先日慎吾も言っていたが、まさしく茉衣子の父親、という感じだ。姉やその友人たちとはまた違う酔い方には笑ったが。しかし、兄が五人いることも、母親が故人であることも、話には聞いているが、見たことはない。そして、母親に会うことは今後もかなわないのだ。健介はふと気になった。
「茉衣子の母ちゃんって、茉衣子に似てるの?」
茉衣子は「んー」と唸る。
「自分じゃわかんねえや。でも、よく言われてたんだよな。こないだも、豊見城の……ああ、母ちゃんの実家、豊見城ってとこにあんだけど、そこのばあちゃんから、『母ちゃんに似てきた』って言われたんだよな。……まあ、あたしよりちょっと太ってたんだけどな」
「へー」
健介も千宥もなんとなく聞き入った。
「お肉が、な。……だから、あたしおっぱいでけえのかな」
茉衣子が真顔で言って、健介は思わず咳き込んだ。
「は?知らねえよ!」
「母ちゃんにそこは似たのはいいから、あとは腹が出ないように気をつけろって言われたんだよ」
「だから知らねえよ。てか、ばあちゃんと何話してんだよ」
「これでも真面目らしいんだよ。ケツもでかいから、いい子を産めってさ。令和に何言ってんだってな。あたしケツでかいのコンプなのによ」
「……昔の人なんだから、許してやれ」
慎吾は結構、巨尻、好きだぞ、とまでは言わなかった。
「急にトーンダウンしてやんの」
千宥が吹き出しそうになって口元を押さえた。茉衣子はケラケラ笑う。
「冗談冗談。いや、マジだけど。まあ、四歳で死なれたから、そんなによくは覚えてねえけど、うるさい人だったよ。あたしより」
その一言が、ふっと軽くなって、でも、どこか重い。健介は一瞬、返す言葉を探した。
「……じゃあ、似てるかもな」
「褒めてないよな?」
「褒めてない」
「はいはい」
笑いに戻る。戻るけれど、健介の中には小さな棘みたいな感情が残った。うるさい人だった。自分より。それはつまり、茉衣子が「うるさい」ことを自分で理解しているということだ。そして、その上で今もそうしているということだ。それは弱さじゃない。むしろ――強さだ。
気づいたら電車は市内に入り、宮川という北部の繁華街に停車すると、一気に客が入る。元々座っていた三人は、立席の客の圧で、つい縮こまる。健介は縮こまりながら、ふと、泰造さんの店も忙しいのかな、と思い立った。夏、この街にある沖縄料理店にこの三人で行ったのをふと思い出した。
「千宥は結局実家には?」
茉衣子が矛先を変える。
「……十二月三十一と、一月一日」
千宥はぼそぼそと回答した。
「一泊?」
健介が確認するように尋ねた。
「うん」
「みじかっ」
茉衣子が即座に突っ込む。千宥は視線を窓の外に逃がして、小さく言った。
「……あんまり居心地よくなくて」
その一拍の置き方が、健介には意外だった。何か事情でもあるのか?ただ、デリカシーのない茉衣子が続ける。
「お前の実家、社長なんだろ。すごいよなあ」
茉衣子が、あくまで軽い調子で言う。
「そうなの?」
健介は思わず千宥を見る。あまり、千宥の身の上は知らない。あまり聞いてこなかったからでもあるが。千宥は一瞬、目を伏せた。そして、曖昧に笑った。
「……まあ、そんな感じ」
「すげえじゃん」
「別に」
千宥の声は平らだ。健介はその平らさの中に、触れられたくないものがあるのを感じた。十一月、彼女(?)の美佳が乗り込んで来た時、茉衣子と慎吾が揉めた記憶が頭をよぎる。千宥の「平らさ」は、優しさでもあり、壁でもある。そして、やや浮世離れした「お嬢様」とのお家デート(?)に、言われてみれば自分たちのような一般家庭とは違う育ちを思わせる面も、確かにあるような気がした。
「泰造さんみたいな優しい親がいる家がいいよ」
千宥は重くなった空気を払うかのように軽口みたいに言った。ただ、そのセリフの後だと、妙に実感が伴っているように感じた。健介は咄嗟に返せなかった。その泰造の娘・茉衣子はしばし茫然としていた。車内の揺れだけが、会話の隙間を埋めた。
「あ、なんだよお。ウチの父ちゃんが優しいって?あんな親父騒がしくてさ。見たろ、大家のおじちゃんとこで酔っぱらってあたしが引っ張って帰ってさ。ほんと迷惑じじい。普段から家帰ったらゴロゴロしてばっかでさ」
茉衣子はそうまくしたて、口をとがらせる。
「……ううん、うらやましい。そう言うけど、ちゃんと一緒に楽しくできる家が、本当に、いい」
ちょっと本気っぽい空気になり、少し沈黙が流れた。
茉衣子は、自分が振ったことがきっかけなので責任を感じているのか、一生懸命言葉を探している。健介は、かける言葉が見つからず、半ば探すのを放棄している。その沈黙を、千宥自身が破る。
「……わ、トンネルだ。ここまで来たら森崎神社、もうすぐだよね」
話題の切り替えが早い。逃げたようにも見えるし、守ったようにも見える。
「懐かしいな。従姉の店はね、去年までこの近くだったんだよ」
千宥の現在の事実上の保護者、田中丸鈴蘭のことである。彼女は元日から初売りで大忙しだった。明日から二日間休暇をもらったと聞いている。
「ああ、鈴蘭さんの」
茉衣子が言う。健介も名前と顔に覚えがあったが、正直、片手で足りる程しか会ったことがないので、なじみが薄い。
「今は大門商店街だったよな?」
去年の春、アネックス久世の近所に移転オープンしたのだ。
「うん、でも、それまでは『きゃろるすとりーと。』にあって」
きゃろるすとりーと。とは、高宮市の市街地を南北に貫通する長い商店街だ。とはいえ一キロメートル少々であるが。
「ああ、アーケードの」
「そこを出て清庵町に向かって歩いていったあたりだけどね」
「あの狭い通りか」
「そうそう。お店も手狭になっちゃって移転したの」
「そうかあ」
ふと、健介は窓の外を見た。気づけば、石段へ向かう人の流れが見え始めている。
森崎神社下電停に着いた。ドアが開き、冷気が入り込む。三人は降りた。空気が冷たい。車内とはまるで別世界だ。横断歩道を渡り、鳥居へと近づいていく。人の声。屋台の匂い。正月の最後の残り火みたいな空気。
「五日でも結構いるな」
健介が言う。
「だろ。まあ、三が日よりマシだけどな」
茉衣子が言い、千宥が頷いた。
石段の入り口へ向かう。境内まで、踊り場を挟みつつ、長い長い石段が続く。見上げると、空が切れている。健介は無意識に、息を吸った。
――ここからか。
そう思った自分が少し可笑しい。初詣の石段に、何の覚悟が要る。
「行くぞー」
茉衣子が先に歩き出す。千宥がその少し後ろを行く。健介は二人の背中を見て、石段に足をかけた。石段の一段目は、思ったより高かった。踏み込むと、脛のあたりにじわりと負荷がかかる。冬の冷えた空気は肺に気持ちよく、息が白くなるのが見える。
「……ほら、遅い」
二段、三段、四段。茉衣子は振り返りもせず言った。声だけが上から落ちてくる。
「お前が速いんだよ」
「違う。健介が遅い」
「どっちでもいいだろ」
健介は負け惜しみみたいに言って、手袋の指を握った。前は、こいつのこういう軽口がただ鬱陶しかった。あれこれ言われるたびに胸の奥がざわついて、勝手に土足で入り込まれた気がして。だから、距離を取った。取れた気になっていた。それが今は、まあ、うるさいとは思う。思うけれど、腹の底からの苛立ちにはならない。
千宥は一段一段を慎重に上っている。足元を見て、リズムが崩れないように。
茉衣子がふっと歩幅を落としたのは、たぶん、健介じゃない。千宥のほうだ。
――あ。
健介は内心で小さく声を漏らした。こいつ、待ってるのか。
別に露骨に振り返って確認するわけでもない。ただ、先を行きすぎない速度にしている。追いつける距離にいる。それが、ほんの一段、二段分の差で。
「千宥、大丈夫か?」
健介が聞くと、千宥は顔を上げて微笑んだ。
「うん。大丈夫。私たちも置いてかれないようにしないとね」
「ほらな。健介が焦らせるから」
「焦らせてんの、お前だろ」
健介のツッコミに、茉衣子は「へへ」と笑って、また少し先に行く。今度も、ちょうどいい距離を保って。
石段の途中には、屋台がまだいくつか残っていた。三が日ほどではないにしても、五日でも焼きそばの匂いと甘酒の湯気はまだ残っていた。参拝客も、思ったより多い。家族連れもいるし、高校生っぽい集団もいる。恋人同士らしい二人組も、手袋越しに手を繋いでいた。
「なあ、買う?」
茉衣子が唐突に立ち止まった。甘酒の看板を指さす。
「いらねえ」
健介が即答すると、茉衣子は横目で睨んだ。
「寒いのに?」
「寒いのと甘酒は関係ない」
「関係ある!」
千宥がくすっと笑った。
「私は……飲みたいかも」
「ほら! 千宥が言った!」
茉衣子は勝ち誇ったように言い、売り場に近づいていく。健介はため息をついた。
「……結局そうなるんだよな」
「茉衣子ちゃん、嬉しそう」
千宥が小声で言う。健介は「まあな」とだけ返した。紙コップを受け取って戻ってきた茉衣子は、健介にも当然のように一つ差し出した。
「飲め」
「買ってねえって言っただろ」
「買ったのはあたし。飲むのはお前。問題ない」
「どんな理屈だよ」
「いいから。あったまるぞ」
紙コップの湯気が、健介の鼻先で揺れた。仕方なく受け取ると、ほんのり甘い匂いがした。口をつけると、意外と熱い。喉がじわっと温まる。
「……熱い」
「当たり前だろ」
「でも、うまい」
健介がぼそっと言うと、茉衣子が「だろ?」とニヤッとした。その顔が妙に誇らしげで、健介は視線を逸らしたくなる。
――こういうところ、ずるい。
勝手に世話を焼いて、勝手に満足している。押し付けがましいのに、不思議と腹が立たないときがある。それがいつからなのか。わからない。
石段を上り切ると、境内に出た。空が少し近い。風が通り抜けて、コートの隙間から冷気が入る。鳥居の向こうは、参拝の列が伸びていた。五日でも、森崎は森崎だ。
「並ぶ?」
千宥が言う。
「並ぶに決まってんだろ」
茉衣子が言い、さっさと列の最後尾へ向かう。健介と千宥もついていく。並んでいる間、会話は途切れがちになった。周囲のざわめきに紛れて、言葉が必要なくなる。健介は、前に立つ茉衣子の後ろ姿を見た。マフラーの端が風に揺れて、肩が少しすくむ。寒いのだろう。南国育ちだし。千宥は静かに手袋を直している。こうして並んでいるだけで、「三人」という人数が妙に現実味を持つ。クリスマス会の騒がしさは遠い。あれは、年末の熱だったのだ。
手水舎が近づく。水の音が聞こえた。柄杓が桶に当たる音。手を清める動作の小さな連鎖。
「先、やる?」
茉衣子が千宥に聞く。
「ううん、茉衣子ちゃんが先でいいよ」
「じゃ、健介、先」
「は? なんで」
「手がかじかんでるだろ。早く洗え」
健介は文句を言いながらも前に出た。柄杓を取る。冷たい水が指先に触れて、瞬間的に痛い。息を吐いて、手を清める。
ふと、視線の端に人影が入った。
手水舎の反対側。見覚えのある横顔。
玉井絢那だった。隣には、男子がいる。
「あ……」
その人影には、非常に見覚えがあった。綾香雄人。二学期から健介のクラスにやってきた同級生。玉井とは幼馴染であり、千宥とも旧友というなんとも複雑な人間関係である。玉井はコートの襟を少し上げている。雄人は柄杓を返しながら、自然にその横に立っていた。近すぎるわけではない。でも、遠くもない。二人とも小柄で、傍目には中学生のカップルみたいに見える。けれど、雄人を見る玉井の目つきは、茉衣子や千宥を見るときとは少し違う気がした。健介の手が止まった。胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。嫉妬、というほどの尖った感情ではない。むしろ、理解に近い。玉井は「先約」としか言わなかった。その意味が、今、目の前にある。
茉衣子が気づいて、軽く手を上げた。
「絢那!あ、雄人も!」
玉井が顔を上げ、少し驚いたように目を丸くしてから、すぐに笑った。
「あ、茉衣子ちゃん。千宥ちゃん。わあ、樋口くんまで。あけましておめでとう」
「あ、健介くんじゃないか、あけましておめでとう。千宥さんも。ま……古波蔵さんも!」
雄人が仰々しく声をかけた。
「おう、おめでとう……」
健介は柄杓を返しながら、つい曖昧な返事をした。玉井はいつも通りに見えるのに、いつも通りじゃない。そう感じるのは、健介の側の問題だ。
「雄人、お前今『ま』つーたろ」
「ハハハ、お約束不発だね。これは僕の失敗」
これに関しては、健介は茉衣子から聞いたことがあった。雄人が茉衣子と知り合った時、「茉衣子と呼んでほしい」という申し出をなかなか承諾せず、古波蔵さんと呼び続けた経緯があるのだ。今でも第一声は古波蔵さんと呼ぶというこの二人の中の「お約束」があるらしい。
「いや、ごめんね。茉衣子さんが初詣に誘ったというのは絢那ちゃんに聞いてたんだけど」
「ふふふ。びっくりしちゃった。玉ちゃんと雄人くんが二人で歩いてるの。なんだか不思議」
千宥が言った。
「あ、そうだね。うん……。会っちゃうかあ。出かけるのが気恥ずかしくて、三が日は避けたんだけどね」
雄人は、照れを隠さない。
「千宥ちゃん、高宮のお正月はどう?」
今度は玉井が尋ねる。
「うん、楽しいよ。来年はこっちで年越ししたいなあ」
「今年はクリスマスじゃなくてカウントダウンにする?」
玉井はいつもの感じでキャッキャと笑う。ここで茉衣子が玉井に声をかける。
「おう、絢那、やってんな」
「あ、茉衣子ちゃん、初詣?」
玉井がボケてみせた。
「お前もだろ」
茉衣子が笑う。
「うん。……ちょっと、ね」
玉井は雄人の方を一瞬だけ見た。雄人も、同じタイミングで玉井を見て、何も言わずに頷いた。そのやり取りが、あまりに自然で、健介は目を逸らした。
千宥は、何も言わずにその場の空気を受け取っている。表情は穏やかだが、視線は静かに動く。
茉衣子は相変わらず、場を明るくしている。
「先約って、それか。なるほどなー」
茉衣子が言うと、玉井は少しだけ困ったように笑った。
「うん……まあ……」
「えー、いいじゃん。青春じゃん」
「茉衣子ちゃん……」
玉井がたしなめるように言ったが、怒ってはいない。雄人は少し照れたように笑い、手水舎を離れた。
「じゃ、僕たちは先に参拝するから」
雄人が言い、玉井も「うん」と頷く。
「またね」
玉井が言って、二人は人混みに紛れていった。その背中が見えなくなってから、茉衣子が健介を肘で軽くつついた。
「な?」
「……な、ってなんだよ」
「絢那も忙しいんだなって」
「……そうだな」
健介は、うまく言葉が出なかった。忙しい。そうだ、忙しいんだ。玉井は、もう別の用事がある。別の時間を持っている。それが当たり前のことなのに、健介の中では、どこかで「玉井もアネックスにいつもいる」と勝手に思い込んでいたのかもしれない。
「……行こ。並ぼ」
千宥が、小さく息を吐いた。
「おう」
健介は頷いた。参拝の列に戻る。前には知らない背中。後ろにも知らない背中。
「今年は何お願いする?」
茉衣子は、さっきと変わらない調子で尋ねる。
「言わねえよ」
健介が言うと、茉衣子が「えー」と不満そうにする。
「言わないほうが叶うんだぞ」
「それ誰情報だよ」
「忘れた」
千宥が笑う。健介も、口元だけ少し緩んだ。でも、胸の奥のざわつきは、完全には消えなかった。
――玉井は、もう、そうなんだ。
それを「寂しい」と言うほどでもない。でも「どうでもいい」と言えるほどでもない。健介は、自分でもよく分からないざわつきを抱えたまま、手を合わせた。
鈴の音。賽銭の音。柏手。空気が一瞬、澄む。願い事は、言葉にしない。できない。
参拝を終えたあと、茉衣子が授与所の方を指さした。
「お守り買う?」
「いらねえ」
「またそれ」
「去年のがある」
「去年のって、いつのだよ。更新しろ更新」
「更新ってなんだよ」
茉衣子はケラケラ笑い、勝手に授与所へ向かった。千宥も「じゃあ私は……」とついていく。
健介は少し遅れて歩きながら、さっきの玉井の横顔を思い出していた。あいつ、あんな顔するんだな。いや、前からしていたのかもしれない。自分が見ていなかっただけで。
――俺、何やってんだろ。
心の中で呟いて、自分で自分に答えが出ないことに気づく。そのとき、茉衣子が振り返った。
「健介、どれがいいと思う? 交通安全と学業成就、どっちがいい?」
「知らねえよ。好きなの選べ」
「適当だな」
「お前が聞くのが適当なんだよ」
「でもさ」
茉衣子が少しだけ真面目な顔をした。
「健介、お前、最近さ。……なんか丸くなったよな」
健介の足が、ほんの一瞬止まった。
「は?」
「前はさ、もっと刺々しかった」
「失礼だな」
そう言われ憤慨しつつも、自覚はある。まず、茉衣子に対して、以前は鬱陶しさしかなかったというのは多分にある。
「褒めてんだって」
「褒め方が下手か」
そう言われると茉衣子は笑って、また授与所の方へ向き直った。
千宥が、健介の方をちらっと見る。健介は、何も返せないまま歩いた。
――丸くなった。
それは、自分が変わったのか。それとも、周りが変わったのか。
授与所の前で、千宥が小さなお守りを選んでいる。茉衣子は迷いながらも、結局二つ買いそうな勢いだ。健介はその背中を見て、ふと、どうでもいいことを思った。騒がしいのに、落ち着く。うるさいのに、安心する。そんなの、意味がわからない。
茉衣子は結局、交通安全と学業成就の小さなお守りを両方買った。片方は自分用、片方は――と言いかけて、「やっぱやめた」と笑って誤魔化した。千宥は千宥で、手のひらに収まる小さな鈴のついたものを選んでいた。健介は「いらねえ」と言い張って、結局何も買わなかった。
「はい、次」
茉衣子が境内の端のほうを顎で指した。小さな机と箱。そこに「おみくじ」と書かれている。
「でさ、おみくじ引く?」
「お前、何でもやるなあ。いつも小遣い少ないって言ってるのに」
「こういうのはご利益だよ」
健介の指摘に茉衣子は答えてみせるが、健介には一向に意味が分からない。
「健ちゃん、せっかくだから引こうよ」
千宥も助け舟を出した。
「ほら、引こ。せっかく来たし」
茉衣子はそう言うと、健介の返事も待たずに百円玉を入れ、箱から紙を探す。
「えーっと……これだ」
紙を開いた瞬間、茉衣子の顔がぱっと明るくなった。
「中吉!」
「微妙」
「は? 中吉は普通に勝ちだろ。大吉の次だぞ?」
「吉の次じゃねえの?」
ちなみに、小吉>吉になる場合も含め、諸説ある。
「細かい! ほら見て、恋愛――」
「読むな読むな」
「『思いがけぬところに縁あり』……え、なにそれ。あたしもう縁だらけなんだけど」
「縁だらけって何だよ」
健介は呆れながら、同じように引いた。文字が細かい。寒さで指先が少し言うことを聞かない。
「……末吉」
健介が言うと、茉衣子が即座に食いついた。
「末吉! うける!」
「うるせえ」
「だって末だぞ末。最後だぞ?」
「凶じゃねえだろ」
「そりゃそうだけどさあ。ほら、書いてある? 『焦るな』とか」
健介は紙を見た。確かに、そんな感じのことが書いてある。焦るな、急ぐな、順を踏め――。
「……悪くない」
健介がぼそっと言うと、茉衣子がニヤッとした。
「出た。便利な言葉」
「うるせえ」
「千宥も引くだろ。三人で揃えたい」
千宥は小さく頷いて、百円玉を入れた。紐を引く。棒の番号を見る。紙を取って、静かに開いた。
「……吉」
「お、いいじゃん!」
茉衣子が嬉しそうに言う。
「千宥、さすが。いいとこ引く」
結局、中吉や小吉との位置関係も理解しないままだが。
「……普通だよ」
「普通が一番だって。な?」
茉衣子が健介を見る。健介は「知らねえ」と返しながら、千宥の紙に視線を滑らせた。そこに何が書かれているか、ちゃんと読もうとはしなかった。ただ、千宥が小さく息を吐いて、紙を丁寧に折り畳むのを見た。
「結ぶ?」
茉衣子が聞く。
「どっちでもいいけど、お前ら結ぶなら俺も結ぼうかな」
「ふうん、なぜまた」
「戒め」
自分で言ってて意味がわからなかった。でも、なんとなく、自分のためになりそうな気もしたのだ。
「千宥は?」
「……結ぼうかな」
千宥は、結び所にそっと紙を結んだ。茉衣子も「中吉パワー注入」とか言いながら結んでいる。健介は、そっとポケットに「末吉」をしまった。
「よし。帰ろ」
茉衣子が言った。千宥が頷き、健介も無言で頷いた。境内を出るとき、健介はもう一度だけ鳥居を見上げた。行きに見たときよりも、少しだけ低く感じた。
帰り道、森崎神社下の電停へ向かう。屋台の匂いが遠ざかる。人の声も薄れていく。3番系統の旭里行きは、少し待った。
やがて電車が来た。LEDの行先表示に「3 春若・旭里」と出ている。
「帰りは旭里行きね」
千宥が確認するように言った。
「春若が先に書いてあるの、なんかいいよな」
茉衣子が言った。
「何が」
「だって、あたしらの拠点って春若じゃん」
茉衣子は何でもないように言った。でも健介の胸の奥に、その言葉がすっと入ってきた。冷静に考えれば、単に知名度の問題であろう。終点は旭里なのでそれを表示すればいいのだが、市街地の住民には春若と書いた方が分かりやすいため、そうしているのだろう。けど、何でもないようなことが、茉衣子を通して聞くと、とてもすごいことのように聞こえるのだ。
電車に乗る。帰りも、そこそこ混んでいる。三人は立った。吊り革につかまる。肩が近い。電車が動き出し、車窓の景色が流れる。そして、進行方向右。森崎神社の鳥居が見えた。朱色が冬の光の中で少しだけ浮いて、すぐに建物の陰に隠れた。健介はそれを、横目で見ただけだった。車内では茉衣子が相変わらず喋っている。健介はそのやり取りを聞きながら、ふと、さっきの自分のざわつきが少し薄れていることに気づいた。
三人とも少し疲れがあるのか、車内の会話は少なめだった。途中、高宮駅前で乗客が激しく入れ替わり、二席分空いた。健介は茉衣子と千宥に座るよう促した。……そして、二人はほどなく舟をこぎ始めた。さらに、タバスマイルの目の前にある川里町で茉衣子の隣が開いたため、健介もそこに座る。そして、健介も少しうとうとしてきた。電車の揺れは、妙に心地いい。反対隣が知らないお姉さんだったので、そちらに寄りかからないよう、敢えて茉衣子側に重心を移し、そのまま意識が遠のいていった。
久世栄久校下。電車が減速していった。
「おい、健介、起きろ。もうつくぞ」
「……ん」
健介が短く返事をするとほぼ同時に、電車が止まった。ベルが鳴り、ドアが開く。
三人は降りた。冷たい空気が戻ってくる。電停の床が固い。階段を下りると、住宅街の冬の匂いがした。三人が階段を下りきったところで、健介はようやく目が覚めたという顔をした。外気に当たって、ぼんやりしていた頭の輪郭が戻ってくる。
「……さみ」
思わず漏れた声が、自分でも情けない。茉衣子は先に歩き出して、振り返りもせず言った。
「今さらかよ」
「うるせえ」
千宥はくすくす笑いながら、マフラーを持ち上げて口元まで隠した。眠そうなままでも、表情は穏やかだ。
電停からアネックスまで、徒歩三分。いつもの道だ。街灯の位置も、曲がり角の段差も、全部知っている。なのに今日は少しだけ違う。足元がふわふわする。寝起きのせいだけじゃない。健介は歩きながら、自分の肩の感覚を思い出していた。さっきまで、確かに何かに預けていた。硬くない。冷たくない。コート越しの熱。布の匂い。
――あれ、俺、誰に寄りかかってた。
わかっている。わかっているのに、今さら確認したくなってしまう。
「なあ」
健介が言うと、茉衣子が「何」と返す。相変わらず雑だ。だけど、声は機嫌が悪くない。
「さっき、電車で……」
「ん?」
茉衣子が半歩だけ振り向く。街灯が横顔の輪郭を照らす。健介は言葉を選び損ねた。
「……俺、寝てたよな」
「寝てた」
「……その、」
健介が一拍置くと、茉衣子はすぐ察したように鼻で笑った。
「肩、乗せてたな」
「……悪い」
「別に」
あっさり言われて、健介は逆に戸惑った。怒られると思っていたわけじゃない。けれど、何かしらのツッコミは来ると思っていた。いつもみたいな、うるさいやつが。
「……何か言えよ」
「え、言ってほしいの?」
「いや、そうじゃなくて」
言いながら、自分が何を求めているのか分からない。千宥が後ろから、さらっと口を挟んだ。
「茉衣子ちゃん、さっき、動かないようにしてたよ」
「は?」
健介が思わず振り返ると、千宥は眠そうに目を細めたまま笑っている。
「健ちゃん、すごい勢いで傾いてたから。茉衣子ちゃん、落ちないように、肩、ちょっと上げてた」
「おい」
茉衣子が千宥を睨む。でも本気で怒ってはいない。むしろ照れ隠しの睨み方だ。
「千宥、余計なこと言うな」
「だって、本当だもん」
「本当でも言わんでいい」
健介は、耳の奥が少し熱くなるのを感じた。冬のせいじゃない。外気のせいでもない。
「……うるせえ」
健介が吐き捨てるように言うと、茉衣子が笑った。
「寝てるやつに言われたくねえ」
「寝てたやつが悪いのは分かってる」
「じゃあいいじゃん」
茉衣子は言い切って、また前を向いた。歩幅はいつも通りで、振り返りもしない。
――じゃあいいじゃん。
それが、妙に胸に残った。許されたというより、最初から責める気がなかったみたいな言い方。茉衣子は、こういうところがある。勝手で、雑で、でも、受け止めるときは受け止める。健介は視線を落とし、路面を見た。たった三分の道が、今日はやけに長く感じる。
「でもさ」
千宥が、少しだけ真面目な声になった。
「健ちゃん、茉衣子ちゃんにさ、優しくなったよね」
「は?」
健介は反射で声を上げた。茉衣子も一瞬、足を止めた。千宥は言ったあとで自分でも言い過ぎたと思ったのか、少しだけ目を逸らす。
「ごめん。なんでもない」
「……いや」
健介は言いかけて、言葉が続かない。優しい。そう言われて、否定したいのに、否定する理由が見つからない。前なら「うるせえ」で終わっていた。今も「うるせえ」と言っているのに、終わらない。
茉衣子が、照れ隠しみたいに大きな声を出した。
「はーいはいはい! 帰ったら宿題な! 千宥、教えるんだろ? 健介、お前も付き合え!」
「なんで俺まで」
「チーム・アネックスだろ!」
「意味が分からねえ」
「意味は後からついてくんだよ!」
茉衣子が笑って、鍵束をじゃらっと鳴らした。アネックスの入口が見えてきた。
いつもの建物。
いつもの廊下。
いつもの静けさ。
「じゃ、またね」
千宥が先に言った。
「おう」
健介が言うと、千宥は少し驚いたように目を丸くして、それから微笑んだ。
「うん。じゃあ」
茉衣子は自分の部屋の前で立ち止まって、健介に向かって顎をしゃくった。
「マジで宿題やんの?」
「あたしはガチで教えてもらう。お前も教えてくれる?」
「俺に教わりたい?」
「やっぱいい」
「おい」
健介に突っ込まれると、茉衣子はケラケラ笑って、自分のドアを開けた。中から暖房の匂いが漏れる。振り返って、軽く手を振る。
「じゃあな」
そのままドアが閉まる。健介は自分の鍵を回して、部屋に入った。コートを脱ぐ。手袋を外す。ポケットから末吉のおみくじが出てきて、机の上に落ちた。
紙には、さっき茉衣子が指差した通りのことが書いてある。焦るな。急ぐな。順を踏め――。健介はそれを見て、息を吐いた。
さっき電車で、肩を預けた感触がまだ残っている。怒られなかった。笑われただけだった。それが、妙に落ち着いた。健介はベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。今日は、部屋は静かだが、さっきの喧騒が頭の中に残り、まだまだ気持ちは賑やかだった。
【次回予告】
ちょっと、時系列戻ります。実家で過ごす年越し、楽しいですか?
という感じです。お楽しみに。
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