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第11話 徒歩圏内のサプライズ

<AI依存度>:

ほぼそのまま使用:10~15%

AI文をベースに改稿:20~25%

ユーザー独自の構成・設定・加筆:60~70%


中盤で登場する不動産屋のおっちゃん、筆者が今年初めに家探しをした時の不動産屋をモデルにしています。今後登場することもないので、名前も設定していませんが。

十月の朝は、思っているより冷たい。玄関を出た瞬間、(とも)(なが)(ひな)()は一度だけ肩をすくめた。昼間はまだ暑いのに、朝だけ別の季節みたいだ。

「行ってきます」

雛灯は玄関で母親に向き直り言った。

「うん、いってらっしゃい」

母親である朝長(あかね)が声をかけると、雛灯の双子の兄である(しん)()は振り返りもせずに、ピッと右手を二本指で挙げた。

家を出ると二人は歩き始めた。双子として十六年半の時を共にしたが、男女の二卵性ということもあってか、いわゆる「双子」のようにべたべたしているわけではない。だが、家を同時に出て、同じ学校に通うため、なんとなく一緒になって歩く。そして、そう会話があるわけでもない。

(みなみ)町。雛灯達が生まれる前に、合併で(たか)(みや)市の一部になった、というのは小学校の時からよく社会科の授業で聞いていた。住所の上では「高宮郡」が「高宮市」になっただけであり、「あんまり変わってねえよ、良くも悪くも」と父親がたまに言っているのを聞く。祖父母に至っては未だに「高宮郡」と書き間違えているのを見る。文字通り高宮市の一番南にあり、高宮半島の先に位置する。その南町の一番北にある(きた)()という集落に朝長家はある。高宮市南町北田。北だか南だかわからない、へんてこな名前だ。雛灯は思い出して苦笑した。二人は並んで北田の集落をかき分けるように歩く。北田は静かな漁村だ。もっとも、朝長家の家業は漁業ではなく大工だが。ふと、雛灯は「朝長工務店」と書かれた自宅の看板を振り返った。国道沿いにある北田バス停までは徒歩二分。近いはずなのに、毎朝、やけに遠い。

挿絵(By みてみん)

六時十一分発、タバスマイル行き。南町の先端から橋が伸びる(うなぎ)(じま)からやってきたバスのエンジン音が近づくと、雛灯は無意識にスマホを取り出し時間を見る。遅れたことはない。遅れたらこのラッシュ時といえど、二十分は次のバスが来ない。

車内はまだ眠たい空気で満ちていた。スーツ姿の大人が数人、部活らしいジャージの高校生が二人。雛灯の学校よりかなり手前にある水産高校の生徒だ。小中の一年先輩で、顔見知りではあるため会釈だけして通過する。窓際に座ると、ガラスがひんやりしている。

発車。北田の小さな集落を抜け、隣の(あき)()町につながるちょっとした峠を、ゆるやかなカーブをいくつも曲がる。

景色は見慣れているはずなのに、このところ日の出が遅くなったからか、まだ暗くぼんやりしている。慎吾の後ろの一人席を陣取った雛灯は、いつの間にか眠りに落ちた。


六時五十九分、終点。気づかぬうちに乗客でいっぱいとなった車内から、一気に客が降車する。その足音で雛灯は目を覚ました。客が降りきるくらいのタイミングでまだ寝ている慎吾を後ろから小突き、立ち上がった。

タバスマイルたかみや。通称タバスマ。高宮市の中央部にある、バスセンターを兼ねた大型商業施設だ。バスセンターはもちろん、ショッピングモールも高宮バスが運営している。昼間は買い物客でごった返すが、まだモールは開店前だ。まだまだ静かであるが、通勤通学客は多いため、既に地元の静寂が嘘のように賑わっている。到着ホームに滑り込む。

次は七時三十一分発、(はる)(わか)(えい)(きゅう)高校行き。

「食うか」

「うん」

ベンチに腰を下ろす。母に持たされたラップ包みのおにぎりを開く。海苔が少し湿っている。まだ温もりが残っている気がするのは、気のせいかもしれない。時計を見る。七時十分。まだまだか。

一応、ベンチは設置されているが、到着ホームはそこに留まる人は少ない。よって、こうやって座って朝食を食べるには穴場である。どうせ次のバスの乗り場では今から行っても座れっこないのだから、これが確実だ。この半年でこの兄妹にとって、ちょっとしたルーチンになった。

およそ五分ほど。次の移動を考える。館外に出て、横断歩道を渡り、乗り場に向かう。信号待ちの間、慎吾は無言。雛灯も無言。

挿絵(By みてみん)

高校までのバスは、このタバスマまで行く途中に通過した(とう)(じん)(まち)ターミナルを始発とする便である。したがって、国道上の乗り場から普通のバス停と同じように発着する。高宮バスは南部方面がタバスマ、北部方面が唐人町とターミナルを分けているため、唐人町とタバスマの間は運行本数が非常に多い。乗り換えのタイミングは非常に迷うが、無理に起きて唐人町から始発で椅子を狙うよりも、高校行きが立ち乗りになってもタバスマまで確実に寝る方をこの兄妹は選ぶようになっていた。

バス停に到着したが、まだ七時十八分だ。まだまだか。

この「まだまだか」を、雛灯は幾度となく経験している。ここからが長い。ここまで来るのも長い。まだ半分。

「今日、返ってくるよな」

慎吾がぽつりと言う。

「テスト?」

「ああ」

中間試験直後。結果の話をするには早すぎる時間帯だ。

七時三十三分。二分遅れでバスが入線する。乗り込むと、今度は制服の割合が一気に増える。同じ学校の生徒たち。でも、知り合いは少ない。窓の外の景色が、また変わる。路面電車と並走しつつ、繁華街を通り、そこを抜けたかと思いきやすぐに坂を上り、一旦建物が途切れつつ、バイパス道路の橋桁をくぐり、その真下に「春若町」の看板。住宅街の狭い道をかいくぐった後で一気に最後の坂を上った。

七時五十四分、到着。校門の前に降り立つと、ようやく一日が始まる。雛灯は一度だけ、振り返る。ここまで来るのに、二時間近く。帰りも、同じ。それが、当たり前だった。

一年七組の教室は、校舎の三階の奥の方にある。窓際の一番後ろ。雛灯の席はそこだ。


中間試験明けの空気は、妙にゆるい。みんな答案の返却に一喜一憂している。

「はいはい、騒がない」

担任の(さかき)(ばら)(たえ)()が教壇に立つ。今日も、ホームルームからそのまま数学Iの授業だ。今日もフリルのついたブラウスに深い色のジャンパースカート。教員らしからぬ甘い服装だが、妙子が着ると妙に似合う。

「平均点はね、例年より少し高いです。努力は裏切らないということですね」

にこりと笑う。その笑顔が本気なのか皮肉なのか、いまだに判断がつかない。数学は思ったより悪くなかった。慎吾はどうだろう、と一瞬思うが、クラスは違うので、後で聞くしかない。


昼休み。クラスメイトの()()(ぐら)()()()が手を振る。

「ひな、テストどうだった?」

「まあまあ」

茉衣子に聞かれてとりあえず答えた。数学I、現代文、体育を挟んで日本史と、三科目返却され、いずれも自分として及第点と考えている所だ。日本史だけは少々悪かったが、わざわざ言うほどでもない。

「『まあまあ』は大体いいときだよね」

(ゆずりは)()(ひろ)が笑う。

「千宥は全科目満点でしょ」

雛灯は優等生の千宥に冗談めかして言う。

「やだ、そんなわけないでしょ」

「でも千宥さ、今回も学年トップだろ、ぜってえ。いいな、あたしにIQ分けてくれよ」

茉衣子が笑いながら言う。

「でも、茉衣子ちゃんもこの前より良くなってたじゃん。数学とか」

「まあ、成績上がったら父ちゃんが服買ってくれるって言ったからな。あたしもニンジンがあったら強いんだよ」

馬にニンジンをぶら下げるあれのことだろうか。

「あとな、教えてくれる奴の腕がいいと、いいんだよ」

そう言って茉衣子は千宥の肩を叩いた。勢いが強かったのか千宥は小さく「うっ」と声をあげた。

(たま)()(あや)()も椅子を引き寄せる。

「いいなー、絢那も教えてよ」

「うん、今度はみんなでしようね」

千宥が玉井に笑いかけた。この三人とは、この二、三か月で距離が縮んだ。でも、まだ中心にはいない。輪の少し外側。居心地は悪くないが、完全でもない。元々口下手なのもあるのだろうが、まだ、この三人のやり取りをやんわり見届ける立場であることが多い。

「そういえばさ、ひなちゃんちって南町だっけ。遠くない?」

玉井が急に雛灯に話を振ってきた。

「話題がぐりんって変わったな」

茉衣子が右手をひねってみせた。

「うん。まあ」

確かに唐突感は否めないと思いつつも、雛灯は玉井の質問に回答した。

「毎日二時間って聞いてびっくりした」

「慣れたらそんなでもないよ」

本当はそんなでもある。でも、そう答えるのが癖になっている。

その後もなんとなく会話が続いた。ただ、雛灯の遠距離通学の話はさほど続かず、気づいたら玉井が幼馴染と一緒に通学しているとか、茉衣子が故郷の沖縄に住んでいた頃は学校の隣に家があっただの、そんなとりとめのない話が続いたところで、チャイムが鳴った。

午後の授業はゆっくり流れ、気づけば終礼。

「寄り道はほどほどにね」

妙子の声を背に、教室を出る。


十五時四十五分。校門を出ると、空はまだ明るい。でも、家に着く頃には薄暗くなっているだろう。慎吾とは特に約束していない。向こうも同じ時間に出ただろうけれど、見つからなければそのまま帰る。学校玄関前のバス停で、いつもの帰りの列に並ぶ。制服姿の生徒たち。でも、ここからさらに乗り継ぐのは少数派だ。

バスに揺られ、十六時三十三分、タバスマに着くころには、もう間違いなく夕方と言える時間だった。ほんの少し前までそんなことなかったのに、日が傾いている感じがする。行きと同じ到着ホームに入り、そのままエレベーターに乗り、五階に上った。登校時はまだ開店前のショッピングモールも、この時間は絶賛営業中だ。五階の大手チェーンの本屋をぶらついた。漫画コーナーや参考書コーナーなどをぶらついたが、さほど時間があるわけでもない。

挿絵(By みてみん)

スマホを取り出した。十六時五十二分。まずい、遅れる。先ほどとは違うエレベーターに乗り込むと、一階・出発ホームに降り立った。ふう、間に合った。雛灯は安堵しつつ、「鰻島」と書かれた十七時ちょうど発のバスに乗り込んだ。これが南町方面の最終便ではないけれど、これを逃すと次は一時間は直通便が来ない。なんとか空席を見つけ、座席に沈み込みながら、雛灯は思う。

朝も長い。帰りも長い。今日も、二時間。それが、当たり前。でも――本当に、ずっと?


十七時五十四分。ブレーキの音とともに、バスが小さく揺れて止まる。

「北田、北田です」

不愛想な運転手が、慣れてないと聞き取れないような声で言う。車内は静かだった。ほとんどが手前で降り、終点近くまで残るのは数えるほどだ。雛灯は立ち上がり、降車ボタンの赤い灯りを一瞬見つめる。降りるのは、自分だけだと思っていた。前の方の席から立ち上がる影がある。慎吾だった。一瞬、目が合う。

「……乗ってたんだ」

「お前もな」

それだけ言って、先に降りる。

北田の空気は、朝よりやわらかい。海の匂いが、夕方になると少し濃くなる。二人で並んで歩き出す。朝と同じ道。違うのは、空の色だけだ。

「学校からは違う便だったよね。一緒になったんだね」

雛灯が言う。

「たまたまだろ」

「最近は割と被るよね」

「バス、そんなに多くねえし」

事実だった。時間を少し外せば、次はかなり待つ。しばらく無言。集落の端で、街灯がぽつりと灯る。

「ねえ」

雛灯は、言葉を探す。

「……遠くない?」

「何が」

「学校」

慎吾はすぐには答えない。

「まあな」

短い返事。

「今日さ、帰りも二時間かかるなって思って」

「毎日だろ」

「うん。でも」

うまく言葉にできない。「慣れた」はずの距離が、急に重く感じたこと。それが当たり前じゃない気がしたこと。慎吾が小さく息を吐く。

「部活、入らなくて正解だったな」

「……入りたかったの?」

「別に」

即答。でも、ほんの少し間があった。朝長工務店の看板が見える。家が近い。

「近くに住めたらさ」

雛灯は言った。

「楽だよね」

慎吾は歩みを止めない。

「まあ」

それは否定ではなかった。

「引っ越すとか、無理かな」

「ウチの仕事あるしな」

自営業の工務店。会社兼自宅を捨てての転居は現実的ではない。

「じゃあ、一人暮らし」

言ってみて、自分で驚く。そんなつもりじゃなかったはずなのに。慎吾がちらりと見る。

「許してもらえるか?」

「……だよね」

玄関が見えてきた。家に入るまで、以後会話は特になかった。


「ただいま」

「おかえりー」

茜の声が奥から返る。雛灯は靴を脱ぎながら、慎吾を見る。雛灯は一度、深呼吸をした。

「ねえ、ママ」

声が、少しだけ強い。

「学校、遠すぎると思わない?」

茜は一瞬、手を止めた。

「……遠いのは、わかってたでしょ?」

台所から顔だけ出す。責めているわけではない。ただ、確認するような口調。

「うん。でも、やっぱり遠い」

「まあ、ママが勧めた学校だから、あんまり強くは言えないけど、(つる)(まい)に落ちたんだから、しょうがないでしょ」

慎吾と雛灯は、南町からは最も近くにある公立進学校である、県立高宮鶴舞高校を受験したが、揃って落ちたのだった。

「そうだけど」

雛灯は言葉を探す。公立に落ちたから、こんな生活をしている。だけど、こんな苦しいのは、自分がこんな田舎に住んでいるから?なんだか納得できない。栄久は茜の母校でもあるが、その時は市内に住んでいて、そこから通学していたくせに。そう思うと軽く怒りのような感情まで沸いてきた。

奥の作業部屋から、金づちの音が止んだ。

「どうした」

父・(だい)(すけ)が顔を出した。作業着の袖で汗を拭きながら、妻と娘の言い合いについて問う。

「学校が遠いって」

茜が答えた。

「遠いな」

大輔はあっさり言った。雛灯は少し驚く。もっと「我慢しろ」と言われると思っていた。

「二時間近くかかるし……」

「そりゃな」

大輔は椅子を引いて座る。

「引っ越すのは無理だぞ」

即答。それは分かっている。家と作業場は一体だ。土地も機材も簡単に動かせない。

「じゃあ……」

雛灯は息を吸う。

「一人暮らし、したい」

静かになる。茜が眉をひそめる。

「高校生よ?」

「わかってる。でも、通学で毎日四時間使うなら、その分……」

うまく言えない。慎吾は壁にもたれている。口は挟まない。大輔がゆっくり口を開く。

「南からはそりゃ、遠いだろ。俺だって高校の時は下宿してたんだ」

「あ…」

雛灯は声を漏らした。春若よりは手前だが、そこそこ北にある高宮工業高校出身の大輔は、確かにこの南町の実家を出て生活していた。そう聞いたことがあった。

「パパ!パパはそうだったけど」

茜が反論し始めた。

「だがな、金もかかる」

しかし、このまま後押しするのかと思いきや、すぐに条件の話になったので、茜はふうと息をついた。

「……うん」

「それに、お前は女の子だろ。しかも、俺にもママにも似ずにこんなか弱く育った」

「……」

反論できない。少しの沈黙。大輔が慎吾を見る。

「お前はどうだ」

「別に」

即答。

「遠いのは事実だけど」

そこまで。大輔は鼻を鳴らす。

「二人まとめて住むなら、考えてもいい」

茜が振り向く。

「ちょっと!」

「一人よりはマシだろ」

「でも、高校生よ?」

「だから二人だ」

大輔は雛灯を見る。

「条件だ。慎吾と一緒。家賃は抑える。生活費は出すが、無駄遣いは無し。…まあ俺らにも一応家業があって、そんな生活が苦しいわけでもねえ。ただ、ここまでするんなら責任持て。部活もだ」

雛灯は、理解が追いつかない。

「え、いいの?」

「簡単じゃねえぞ」

大輔の声は低いが、怒ってはいない。

「家を出るってのは、楽になるだけじゃない。自分で回すってことだ」

雛灯は、うなずいた。

挿絵(By みてみん)

「やる」

言ってから、胸が少しだけ高鳴る。茜はまだ不安そうだ

「お前はどうだ?慎吾」

「どっちでも」

慎吾の答えは一見興味なさそうに見えるが、嫌そうではない。

「本当に大丈夫なの?」

「やってみなきゃわからんだろ」

大輔は立ち上がる。

「物件は春若で探したがいいだろ。学校近く」

慎吾が小さく言う。興味ないふりをしている割には、話にちゃっかり参加し始めた。雛灯は慎吾を見る。

さっきの「二人まとめてなら」が、頭の中で響いている。遠い、と思った帰り道が、急に現実味を帯びる。

「慎吾……。私、あんたを巻き込んだ?」

「巻き込まれた。まあ、面倒だけど、面白いは面白いんじゃね?」

慎吾がうっすら笑う。


土曜の午後。春若町は、平日よりずっと明るい。思えば、自宅から見て、学校より奥にある春若町の古くからの市街地、(だい)(もん)商店街と呼ばれる界隈にはあまり来たことがなかった。慣れた町だと思っていたのに、なんだか不思議な感覚だ。

「ここだな」

大輔が立ち止まる。なんだか、一軒家のような雰囲気の落ち着いた不動産屋。店先には「学生向け物件多数」と貼り紙がある。この春若には高宮大学もあるため、学生向けが多いのは道理ではある。

「高校生の下宿ですか?(たか)(だい)ではなく」

店主の男性が、にこやかに言う。五十代ぐらいであろうか。

「ええまあ。あんまりないかもですがね。何せ家が遠いもんで。こいつら二人です。二人とも一年生で双子で」

大輔が答える。

「ほう、それでまとめてね。一年生?そしたら、卒業まで二人でね」

大手の店と違い、個人経営でやっているらしく、営業マンというよりは「店主のおっちゃん」という呼び方が似合う男性は、ニンマリと笑ってみせた。

条件を伝えた。春若栄久高校まで徒歩圏内、家賃は抑えめ、二人入居可で2DKないし2LDK、治安良好。数枚の資料が机に並ぶ。

「このあたりはどうでしょう」

春若町の住宅地。この店舗からもう少し学校寄りにある、築浅アパート、徒歩十五分。

「まあ、僕の倅もその昔栄久にいましたけど、この辺の子供達なら徒歩で通学してますよ」

間取り図が並ぶ。雛灯は、正直どれも似たように見える。「学校に近い」という一点だけが重要に思えた。慎吾は黙っている。

「あと、少しだけ予算を上げられるなら……」

店主が一枚、別の紙を差し出す。アネックス()()。春若町久世三丁目。築十年。2LDK。家賃は、想定より少し上。

「ここはですね、立地が良くて。学校の坂の下のところだから徒歩十分ないぐらい。路面電車の線路に沿って行けばスーパーも近い。何ならこの辺までだって歩いて行ける。静かな住宅街です」

大輔が資料を見る。

「少し高いな」

「二人で割るなら現実的かと」

その時。

「ここがいい」

慎吾が言った。雛灯は顔を上げる。

「え?」

慎吾は間取り図を見ている。

「悪くないだろ」

「まあ……悪くはないけど」

さっきまで黙っていたのに。大輔が慎吾を見る。

「理由は」

「立地」

即答だった。

「近いし、静かそうだ」

嘘ではない。でも、何かが少しだけ早い。雛灯は、慎吾の横顔を見る。乗り気じゃなかったはずなのに。

「予算、少しオーバーしますよ」

店主が言う。大輔は腕を組む。

「二人まとめてなら、まあ……」

茜が小さくため息をつく。

「本当に、ここでいいの?」

慎吾はうなずく。

「いい。俺はここがいい」

それ以上は言わない。雛灯は、紙に印刷された住所を見る。春若町久世三丁目。学校が久世二丁目なので、確かに近いんだろう、ということは分かる。ただ、それ以上の理由がわからない。わからないまま、決まりそうになっている。

「じゃあ、今から見に行きませんか?」

店主が立ち上がった。

久世までは、車で五分もかからなかった。初めて通る狭い道ではあったが、そこを抜けると、通学時に見慣れた光景であった。まさに、学校の坂の下だった。

「ここですよ」

白い外壁の、三階建てアパート。「アネックス久世」。小さな銘板が、玄関横にかかっている。雛灯は見上げる。思ったよりきれいだった。階段を上る。二階の202号室。店主が鍵を回す。

カチャリ。

扉が開く。玄関は広めだった。靴箱も、今の家よりずっと小さい。

「二人なら十分でしょう」

店主が言う。廊下の先にリビング。南向きの窓から光が入る。午後の柔らかい光。

「……明るい」

思わず、雛灯は言った。

「だろ?」

慎吾が短く返す。キッチンは対面ではないが、広め。冷蔵庫の位置、洗濯機置き場、風呂場。奥に二部屋。六畳と六畳。

「一人一部屋、いけるな」

大輔が言う。雛灯は窓際に立つ。外は住宅街。遠くに、学校へ続く坂が見える。

――ここからなら、歩いて行ける。朝、六時前に起きなくていい。タバスマで三十分も乗り換え待ちをしなくていい。胸が、少しだけ軽くなる。その一方で、どこか落ち着かない。慎吾は黙って、ベランダに出ている。外を見ている。

「どうだ」

大輔が言う。慎吾は振り返らない。

「もう決まりだろ」

その声は、さっきより少しだけ柔らかい。雛灯は、もう一度部屋を見渡す。家具も何もない空間。ここで暮らす自分を、想像してみる。朝の光。夜の静けさ。テスト前の机。コンビニの袋。現実味が、じわじわと滲む。

「ここでいいか?」

大輔が言う。慎吾はうなずく。

「うん」

雛灯は、少し遅れて。

「……うん」

それは、決定だった。


契約は、思ったよりあっさり終わった。保証人の書類。初期費用の振込。鍵の受け渡しは十一月一日。紙の上で進む話は、現実感が薄い。学校では、雛灯は昼休みに軽く言及だけしておいた。

「春若のほうに、住むことになったの」

「え、マジで?」

玉井が目を丸くする。

「どのへん?」

「久世」

「え、近っ」

茉衣子が笑う。

「じゃあ放課後遊び放題じゃん」

「いや、別に……」

雛灯は苦笑する。あんまりしょっちゅう来られても、困るかも……。

「でも、楽にはなるよね」

千宥が静かに言う。

「うん」

それ以上は聞かれなかった。アパート名までは言っていない。

慎吾は、何も言わなかった。健介と廊下ですれ違い、いつも通り挨拶を交わし、いつも通り帰った。そして、慎吾は健介らに、引っ越すことすら伝えなかった。


十一月上旬のある日、引っ越し当日を迎えた。空気が少し冷たい。軽トラックに積まれた段ボールは、思ったより少ない。家具は最低限。自社の軽トラックがあることもあり、引越屋は手配せず、自分たちでの作業となった。あとは家電関係のみ運び込まれてくる見込みだ。

「こんなもんか」

大輔が言う。

「俺らは終わったら帰るからな。忘れ物あっても知らんからな」

茜は最後まで台所を行き来している。

「これ、向こうに持ってく?」

ラップに包んだ惣菜。タッパー。洗剤。

「ママ、向こうにもスーパーあるけど」

「わかってるってば」

わかっているけれど、渡したい。慎吾は、段ボールを抱えている。自分の部屋の荷物。雛灯は、最後に玄関を見渡した。十六年半の家。でも、出ていくのは二階の二部屋ぶんだけ。

「行くぞ」

大輔がエンジンをかける。


車で一時間少々、アネックス久世202号室。鍵を回す音が、少し違う。ガチャリ。空っぽの部屋。自分たちの段ボールが、床に置かれる。それだけで、空間が変わる。

「……寒い」

雛灯が言う。

「暖房つけろ」

慎吾は居間においてあった備え付けのエアコンのリモコンを取る。そして、スイッチを入れた後はカーテンを取り付ける。手際がいい。

荷物を運び終えるころには、窓の外が紫色に変わっていた。大輔が部屋を見渡す。

「何かあったらすぐ電話しろ」

「はい」

茜は、雛灯を抱きしめかけて、やめた。

「無理しないのよ」

「うん」

慎吾には、背中を軽く叩くだけ。

「鍵、ちゃんとかけろ」

「わかってる」

扉が閉まる。静かになる。


二人きり。生活音が、ない。冷蔵庫の電源を入れる音だけが響く。

「……本当に、来たね」

雛灯が言う。

「まあな」

慎吾はベランダに出る。夜の久世は静かだ。少し奥の方に、学校へ続く坂の街灯。歩けば、十分もなさそうだ。タバスマも、南町も、ここからは遠い。しかし、行こうと思えば、行ける距離だ。雛灯はリビングに立つ。この部屋で、朝を迎える。六時前に起きなくていい。乗り換えを待たなくていい。でも。胸の奥が、少しだけ重い。

「ねえ」

雛灯が言う。

「ん」

「明日から、歩きだね」

「だな」

慎吾は、外を見たまま。

「楽になるぞ」

その声は、どこか確かめるようだった。

挿絵(By みてみん)


翌朝。目が覚めたとき、一瞬、場所がわからなかった。天井が違う。窓の位置が違う。波の音がしない。カーテンの隙間から、薄い朝の光。時計を見る。六時四十八分。――遅刻?身体が跳ねる。でもすぐに思い出す。ここは春若。歩いて十分。深く息を吐く。リビングに出ると、慎吾はすでに起きていた。

「おはよ」

「おう」

コンビニ袋からパンを出している。

「早くない?」

「別に」

視線は合わせない。七時半過ぎ。二人で玄関を出る。アネックス久世の朝は静かだ。階段を下りる前に、外を一瞥する。まだ見慣れない風景。奥の方に路面電車の線路が見え、電停から栄久の生徒が多く出てくる。空気が少し冷たい。

「本当に、歩きで間に合うんだね」

「だな」

階段を降り、道路へと出ようとしたところだ。

「あれ?」

聞き覚えのある声。振り向く。茉衣子。その隣に、千宥。さらに後ろから、同じく同級生の()(ぐち)(けん)(すけ)が出てくる。

「……え?」

雛灯は、状況が理解できなかった。

「ひなに慎吾じゃねえか。こんなとこで何してんだ?」

茉衣子が怪訝そうに声をかけた。

「茉衣子こそ、なんでここに?」

雛灯も首をかしげる。

「なんでって?」

千宥が首をかしげる。

「ここ、私たちのアパートだけど」

世界が、一拍遅れて動く。雛灯は、ゆっくり振り返る。アネックス久世。白い外壁。二階の手前の部屋。昨日、自分たちが入った部屋。そして、ここが千宥の家。……ということは、茉衣子と健介の家でもある。一番後ろにいた健介が、おもむろに近寄り、慎吾を見る。

「お前、まさか」

「あれ、言ってなかったか?」

慎吾は、肩をすくめる。

「聞いてない」

「じゃあ、聞かれなかったからだな」

慎吾はへらへらと笑ってみせた。

「ちょっと!」

雛灯が慎吾を見る。

「知ってたの?」

「うん」

あっさりと慎吾は言った。

「だから、ここがいいって言ったんだ」

その言葉で、内見の日の違和感が一気につながる。立地。静かそう。即答。

「言ってよ!」

「別に、言う必要なかっただろ」

「あるでしょ!」

雛灯の声が、少しだけ大きくなる。慎吾は悪びれない。

「どうせ住むんだし、言わなくても同じだろ」

「同じじゃない!」

茉衣子が腕を組む。

「てかさ、普通言うよな?」

視線が、明らかに慎吾に向いている。

「面白がってたんだろ」

健介がぼそっと言う。

「別に」

慎吾はへらりと笑う。

「ちょっとしたサプライズだ」

「全然面白くないんだけど」

茉衣子は即答。雛灯はまだ混乱している。千宥が一歩前に出た。

「でも、結果的には近くなったんだよね」

穏やかな声。

「朝も楽になるし」

雛灯は、はっとする。そうだ。楽になるはずだった。なのに、胸の奥がざわついている。

「……うん」

健介が慎吾を軽く睨む。

「お前、最初から知ってたんだろ」

「名前で分かるだろ。アネックス久世」

「だから言えよ」

「言ったらつまらない」

「は?」

茉衣子が一歩詰める。

「なんだそれ。性格悪」

慎吾は肩をすくめる。

「別に迷惑かけてない」

「心の準備ってあるだろ!」

「何の?」

「何のって――」

言葉に詰まる。雛灯がぽつりと言う。

「……教えてほしかった」

慎吾の笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなる。だがすぐに戻る。

「どうせ嬉しいだろ」

「決めつけないで」

短い沈黙。千宥が、ふっと笑う。

「でもさ、面白いよね」

「千宥?」

茉衣子が千宥に向き直る。

「同じアパートって。偶然じゃなくて、選んだんでしょ?」

千宥が慎吾を見る。

「……まあな」

「なら、ちゃんと選んだ理由言えばよかったのに」

柔らかいが、核心。健介が息を吐く。

挿絵(By みてみん)

「とりあえずさ、遅れるぞ」

この空気を煙に巻こうとしているのか、慎吾が学校の坂を指さす。電停から制服の波が流れてくる。茉衣子はまだ少し不満そうだ。

「まあいいけどさ。ひなは歓迎」

「……なんで俺だけ」

「なんかムカつくから」

「理不尽」

「自業自得だろ」

健介が苦笑する。雛灯は、もう一度アネックスを見上げる。昨日までは「知らない場所」。今は、「知っている人がいる場所」。慎吾が小さく言う。

「ほら、行くぞ」

五人で歩き出す。坂は、思ったより短い。息も切れない。でも、空気は少しだけ変わっている。物理的な距離は縮んだ。けれど、慎吾のサプライズ失敗により心の距離はぐちゃぐちゃになった。

「どうすんだこれ」

健介はぼそりとつぶやいた。

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