第12話 気づいた男と逃げない女
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:10~15%
AI文をベースに改稿:20~30%
ユーザー独自の構成・設定・加筆:60~70%
ほぼ二本立てに近い構成です。一応、自分の中で一話一万字と決めているんで。でも、話が接続するようにはしているつもりです。
十一月のある土曜日の昼前、樋口健介は玄関のチャイムで目を覚ました。時計を見る。十一時半を少し回ったところだ。ドアを開けると、同じアパートに住む同級生の朝長慎吾が立っていた。
「飯、行かね?」
唐突だった。
「……今から?」
「今から」
間髪入れず返ってくる。その後ろから、ひょいと顔がのぞいた。
「こんにちは」
慎吾の双子の妹の雛灯だった。健介は一瞬、言葉を失う。
「あ、どうも」
まだぎこちない。何度か顔は合わせているが、会話らしい会話はほとんどない。慎吾と雛灯が並んでいるのを見ることにも、どこか落ち着かない気分がある。
「三人でか?」
「そう。嫌ならやめるけど」
慎吾はあくまで軽い調子だ。断る理由もない。健介は首を振った。
「いや、いいよ。ちょっと待って」
部屋に戻り、適当に上着を羽織る。鏡に映る自分の顔が、少し寝ぼけている。玄関を出ると、秋の空気が肌に触れた。乾いた風が吹いている。空は高い。三人で並んで歩き出す。アパートから十分ほどのところ、県道沿いにあるファミレスは、休日でもそこまで混まない。道中、慎吾は取り立てて何も言わなかった。雛灯が時折、健介に話しかける。
「この辺、紅葉きれいだよね」
「ああ、裏山のほうは結構色づいてきたね」
ぎこちないが、会話は続く。慎吾は前を歩きながら、ポケットに手を突っ込んだままだ。健介は、なんとなく察していた。これはただの昼飯ではない。ファミレスに入り、窓際の席に通される。ドリンクバーのグラスを取りに立つ慎吾の背中を見ながら、健介は小さく息を吐いた。何を切り出されるかは分かりようもないが……嫌な予感しかない。慎吾が戻ってくる。
「でさ」
やはり、前置きもなく切り出した。
「茉衣子ちゃん、俺のこと相当嫌ってるよな」
静かに、しかし真正面から。そう、健介たちと同じアパートに住む、同じく同級生の古波蔵茉衣子。健介とは中学からの仲で、雛灯もクラスメイトで、遅れて慎吾とも知り合った。あの誰とでも仲良くなる茉衣子が、邪険にしているのが、この慎吾なのだ。慎吾もそのことを自覚しているようだ。元々いい印象がなかったところに、この前の「サプライズ入居」が決定打となり、仲は最悪だ。
雛灯はストローを指でいじりながら、視線を落としている。健介はコップの水を一口飲んだ。
「……どうだろうな」
本当は知っている。八月の花火の夜から。でも言わない。慎吾は少し笑った。
「やっぱそうか」
軽い調子のくせに、目は笑っていない。外を見ると、カップの茶葉をかき混ぜるかのように、駐車場のアスファルトの上で枯れ葉がぐるぐると回っている。風が吹く音が、妙に大きく聞こえた。慎吾はコップの縁を指でなぞりながら、視線だけを健介に向けた。
「俺、そんな変なことしてるつもりはないんだけどな」
雛灯が小さく顔を上げる。
「でも、気づいてるんだ」
その声は責めるでもなく、ただ確認するようだった。慎吾は苦笑する。
「いや、気づくだろ。あれだけあからさまだと」
健介は水をもう一口飲んだ。冷たいはずなのに、喉の奥が乾いている。
「花火のときからなんだよな」
慎吾がぽつりと言う。健介の手が止まった。
「……何が」
「茉衣子ちゃんが俺のこと嫌ってんじゃないかって最初気づいたの」
「お前、あの時、ずっと千宥と一緒にいた覚えがあるよ」
健介が指摘した。八月の夜、春若大花火。人混みの中で、慎吾はほとんど千宥の隣を離れなかった。茉衣子がどこにいるのか、誰と話しているのか、ほとんど気にしていないように見えた。一度だけ茉衣子と二人連れ立ってどこかに行ったようだが、その様子は知らないし、茉衣子が憤慨していたのはその日の話であるため、一緒にいる間も碌な態度じゃなかったのだろう。健介はそう推測した。こちらもどこまで考えているのかはわかりかねるが、雛灯も何か考えているような表情でストローを回す。
「まあ、そりゃ、千宥ちゃんのことがつい気になっちゃってたのは、すごく分かる」
健介は眉をわずかにひそめる。
「まあ、当初から言ってたもんな」
「けどさ、俺そんなに千宥ちゃんばっかりだったかね。お前の周りにこんなに美人の友達がいてさ。千宥ちゃんに茉衣子ちゃんにさ。ガンガン行った覚えはあるんだが」
健介は思わず絶句した。
「俺から見てても、千宥ばかりだぞ、お前」
「あ、そう」
あっけらかんと言う。そして、健介は、慎吾の言う「美人の友達」に関して「あること」を思ったが、まあ敢えて言うまいと判断し、引っ込めることにした。
「玉ちゃんは?」
しかし、雛灯は容赦なく指摘した。茉衣子と千宥とほぼセットでいる玉井絢那。彼女だって「美人」というタイプではなくても、「かわいい」系で結構男子人気はある方だ。
「あ、そうだな。玉ちゃんか……。まあ、あのトリオはほんとに安定だ」
やはり、慎吾の「タイプ」からかけ離れている玉井はてんで眼中にない。健介とて好みではないのだが、彼女も贔屓目なしに見るとかわいいとは思う。そして、慎吾が見ているのは、結局のところ千宥と茉衣子なのだとしても、口ではそう言いつつも、やはり物珍しさもあって千宥ばっかりになって、茉衣子は面白くないわけだ。慎吾はコップを置いた。
「俺、そんなに露骨だったか?」
健介は少し間を置く。
「……まあ」
嘘はつけない。
「千宥の横にいる時間、長いなとは思う」
「やっぱそうか」
慎吾はあっさり認める。
「でもさ、別に茉衣子ちゃんを無視してるつもりはないんだよ」
「つもりはな」
健介は淡々と返す。慎吾は眉をひそめた。
「俺、ちゃんと話しかけてるだろ?海のときだって」
健介はそこで目を細める。
「海水浴か」
「ああ」
「千宥が来ないって分かった瞬間、露骨にテンション下がってたぞ」
慎吾が言葉を失う。
「……そんなに?」
「そんなに」
雛灯が小さくうなずく。
「ちょっと分かりやすかったかも」
慎吾は額を押さえた。
「うわ、マジか」
健介は続ける。
「別に千宥と話すなとは言わない。でもな」
一拍置く。
「隣にいるやつが見えなくなるのは、感じ悪い」
慎吾は黙る。ファミレスの店内は平和だ。子どもの笑い声が遠くで聞こえる。
「花火のときもさ」
雛灯が言った。
「茉衣子、途中でいなくなったの気づいてた?」
慎吾は視線を泳がせる。
「……あれはお前とトイレ行ったんだろ?」
「それはそう。だけど、相当言ってたよ。またあいつは千宥千宥でって」
「あー、……そうなん?えっと」
慎吾が口ごもる。健介は帰宅後に色々口をきかされたが、やはりあの時、雛灯にも言っていたようだ。健介はその時のことを言おうか迷うが、それより先に雛灯が続けた。
「じゃあ、その前に慎吾と一緒に飲み物買いに行くって言ってたよね。その時、どうした?」
「行ったよ。……思ったより会話続かんかったけどな」
「続けようとしてた?」
雛灯が小さく言う。
「広げてるつもりなんだけどな。向こうからも、なんか話切られて、お、おう、ってなったりとかな」
「私から見ても、茉衣子のこと放っておいてるように見えるよ」
妹の率直な指摘。慎吾はストローをいじる。
「放っておいた覚えはないんだけどな」
「覚えがないのが問題なの」
雛灯ははっきり言った。慎吾は少しだけ苦笑する。
「俺、そんな器用じゃないからさ。目の前のやつに集中しちゃうんだよ」
「それが千宥ってわけか」
健介が言った。
「まあ、なんかさ」
慎吾は言葉を探すようにストローを回した。
「千宥ちゃんって、話してるとつい長くなるんだよ。なんか、あの子も乗ってくるし」
軽い調子だが、どこか言い訳めいている。
「それだよ」
すかさず雛灯が言う。慎吾が顔を上げる。
「盛り上がってるほうに流れて、隣にいる子が見えてない」
慎吾は一瞬、言葉を失う。
「いや、別に無視してるわけじゃ」
「してるの」
雛灯が遮る。
「悪気なく」
そして、一瞬の沈黙の後、ゆっくり口を開いた。
「茉衣子って、自分で場を回せる人じゃん」
「まあな」
「だから、慎吾がそっちにいなくても、平気そうに見える」
慎吾は黙る。雛灯は続ける。
「でも、『平気そう』と『平気』は違うよ」
慎吾は視線を落とした。
「……俺、たぶんさ」
小さく笑う。
「茉衣子ちゃんはどうせ笑ってるだろ、って思ってたかも」
健介は水を飲む。
「あいつ、能天気に見えて、案外気にしいだぞ」
慎吾は天井を見上げた。
「千宥ちゃんばっかりってわけじゃないつもりだったけどな」
「つもりな」
健介は即答する。
「結果、そうなってる」
雛灯が静かに言う。
「千宥と話すのはいい。でも、そのたびに茉衣子が『後回し』になるなら、それは続くよ」
慎吾はしばらく考え込んだ。
「……俺さ」
コップを持ち上げる。
「そこまで意識してなかった」
「だろうな」
健介は淡々と返す。慎吾は苦笑する。
「厳しいな」
「客観的な視点だ」
健介は肩をすくめた。慎吾は黙り込み、やがて小さく息を吐く。
「……じゃあ、どうすりゃいい?」
健介は即答する。
「知らん」
「おい」
「自分で考えろ」
慎吾は一瞬呆れた顔をして、それから笑った。
「だよな」
その笑いは、少しだけ素直だった。ほどなく、料理が運ばれてきた。慎吾はハンバーグを前にしても、いつものような勢いがない。フォークを持ったまま、少し考え込むような顔をしている。雛灯はそれ以上追及しなかった。健介も、これ以上踏み込むつもりはない。言うべきことは言った。あとは慎吾の問題だ。
「ま、いきなりどうこうできる話でもないしな」
慎吾がぽつりとこぼす。
「だろうな」
健介は淡々と返す。
「今日聞けただけマシだと思っとけ」
「偉そうだな」
「事実だろ」
雛灯が小さく笑った。空気がわずかに緩む。とはいえ、完全に晴れたわけではない。慎吾は時折、考え込むように箸を止めた。自分の勝手さを悟った友人と、その気づきをそれとなく受け止める妹。そして、それをちょくちょくコメントだけしながら見つめる自分。俺はいったい何のためにここにいるんだ。健介は眉をひそめずにはいられなかった。
食事を終え、会計を済ませて店を出る。外気は少しひんやりしていた。さっきより風が強い。雲がゆっくり流れている。三人は来た道を戻り始めた。慎吾は無言だ。雛灯も何も言わない。健介は、慎吾が考えていることをあえて想像しないことにした。アパートの敷地が見えてくる。そのときだった。
「あれ?」
雛灯が足を止める。玄関前に、見慣れない姿があった。淡い色のコート。整えられたロングヘア。立ち姿が妙にまっすぐで、この田舎のアパートには少し浮いている。まるで場違いな来客だ。
「……誰だ?」
慎吾が小声で言う。健介は目を細める。かなり大人っぽいが、よく見ると、自分たちと歳の頃が変わらないようにも見える。女性は周囲を見回し、スマートフォンを手にしているが、どこか落ち着かない様子だ。
「知り合いか?」
「いや、見たことない」
三人は自然と歩みを緩めた。
「千宥ちゃんの友達?」
「お前、まだ千宥かよ」
健介が眉を顰める。
「だって、そうじゃん。謎に育ちの良さそうな感じ。あと、それに見合いそうな推定お嬢様」
「……わかった。これに関しては、お前の推理は当たってる気がしてきたよ」
「あはは、私もそう思った」
健介がため息をつき、雛灯が苦笑したその時だった。女性がこちらに気づく。一瞬、迷うような表情を浮かべてから、意を決したように近づいてきた。
「すみません」
澄んだ声だった。
「千宥さんのお友達ですか?」
三人が顔を見合わせる。やっぱりか。
「……まあ、そうね。友達ですけど」
慎吾が先に口を開いた。女性の表情がわずかに明るくなる。
「千宥さんがどこにいらっしゃるか、ご存じありませんか?」
健介は、慎吾の横顔をちらりと見る。慎吾の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。そして、答える。
「部屋の呼び鈴鳴らしていないのなら、今はまだ帰ってないと思うけど」
「そうですか……」
女性は小さく息をついた。その仕草が、どこか上品で、やはりこの場所には不釣り合いだった。
「えっと、待っとくんでしょうか?」
健介が言う。なんとなく、その雰囲気に圧倒されて言葉遣いが揺れるが、あまり上手くはない。
「はい。少しだけ」
慎吾が改めて女性を見つめる。そして、ここで意外にも雛灯が声を挙げた。
「もしかして……先月、来ました?」
女性は驚いたように目を見開く。
「ああ、あなたが、千宥の……」
珍しいものを見る視線で雛灯がつぶやいた。
「ひな、お前、なんか知ってんの?」
慎吾が尋ねる。
「うん。こないだね、茉衣子が言ってたの。千宥が彼女を連れてきてたって」
「か、彼女……」
慎吾が明らかに動揺している。そして、この女性もだった。
「あ、あの、千宥さんからは何と……?」
「あ、いや、私は千宥から何か聞いたわけじゃないんです」
雛灯がおどおどしながら女性に言う。
「あ、そ、そうですわね。あの時の。その……マユコさんだったかしら。彼女からお聞きになったのね」
微妙に名前を間違えているがおそらく茉衣子のことだろう。
「マユコじゃねえけど、茉衣子ちゃんから聞いたんだね」
慎吾が訂正しつつ言う。同い年ぐらいと踏んだらしく、タメ口にシフトした。
「そ、そうなの。茉衣子さん?でしたわ。とても元気のよい女性で。千宥さんの大親友、とおっしゃってましたわ」
おー。茉衣子なら言いそう。これは三人の共通認識だった。
「そうなんだね。俺はその茉衣子ちゃんと千宥ちゃんの友達の朝長慎吾。よろしくね」
先ほど嫌われているのを自覚したばかりなのに、ちゃっかり茉衣子の友人を名乗っている。慎吾が自己紹介したため、残る二名もなんとなく自己紹介する。
「と、朝長雛灯です。こいつの妹だけど、双子だから。こいつとも、千宥や茉衣子とも同級生です。よろしく……」
「えっと、樋口健介です。俺も千宥と茉衣子とは同級生で……」
「け、健介さん!?」
大きな声を出すお嬢様に、健介はつい身構える。
「あの、茉衣子……さん?彼女から言われましたの。その、千宥さんのお友達で、健介さんとアヤカさんがとても仲のいいお友達だって……」
あー、はいはい。茉衣子なら俺とかの名前は出すわな。健介は内心苦笑した。
「アヤカ?雄人か?」
慎吾は綾香雄人の名前を思い浮かべた。
「いや、違うよ。玉井絢那だろ。で、茉衣子の名前も間違えてたしな」
「あ、そっか」
慎吾は一発で察したらしい。
「そうなんですね。俺、樋口健介と玉井絢那が、杠千宥と古波蔵茉衣子の友達と……」
「は、はい。あ、私、新宮領美佳と申します。千宥さんとは同い年なので、皆様ともそうだと思います。その、茉衣子さん?と一緒で、千宥さんのお友達なのですね、ケイスケさん?」
どうやらこのお嬢様は人の名前を覚えるのが極端に苦手らしい。
「健介です。まあ、俺なんかより、こないだ会ったという茉衣子の方が、俺なんかより千宥と親しいと思うんだけど」
「そ、そうなんですの。ええと、私、千宥さんの所在が、わからなくて」
「LINEとかしないですか?」
今度は雛灯が尋ねた。
「しましたけど、返事がありませんで……」
美佳が言い終えるかどうかというところで、人影が見えた。三人がほぼ同時に振り向く。買い物袋を両手に提げた千宥が、敷地内に入ってくるところだった。その中の一つ、リリーベル――千宥の従姉で同居人の田中丸鈴蘭の店のロゴ入りの紙袋が揺れている。そして。視線が合った。千宥の足が、ぴたりと止まる。美佳も振り向いた。その瞬間、空気が一段、冷える。
「……千宥さん」
美佳の声は、意外なほど穏やかだった。千宥は、しばらく何も言えない。目が泳ぐ。袋を持つ指に力が入る。戦々恐々、という言葉がぴったりだった。
「……来て、たんだ」
ようやく出た声は、かすれている。
「ええ。少しだけ」
美佳は微笑む。その笑顔が、どこか晴れやかであることに、健介は気づいた。千宥も、気づいたのだろう。その瞬間、わずかに表情が強張る。終わるのか。それとも――
「上がっても、よろしいかしら」
美佳はそう言った。
千宥は一瞬、三人のほうを見る。慎吾と目が合う。慎吾は、いつもの軽さのない顔で、小さくうなずいた。
「……うん」
千宥は、ゆっくり鍵を取り出す。玄関の扉が開く。
「少しだけ、だから」
「ええ」
二人は歩き出した。健介たちは、二階の一番奥の207号室に二人が消えていくのをなんとなく見届けた。
静寂。風がまた、枯れ葉を転がした。慎吾が、ぽつりと呟く。
「……マジかよ」
健介は黙ったままだ。雛灯が小さく言う。
「茉衣子の話、本当だったんだ……」
「先月も来てたんだろ」
慎吾が雛灯に尋ねる。
「うん。彼女って聞いてて、まさかって思ったけど、なんか複雑なのかな……」
慎吾は奥歯を噛みしめながら、落ち着かない様子で玄関の前をうろうろする。雛灯が、静かに続ける。
「大事な話、なんだろうね」
慎吾は黙る。千宥の部屋の向こうでは、もう会話が始まっているはずだ。何を言われるのか。何を言うのか。慎吾は扉を見つめる。
健介は、その横顔をちらりと見る。慎吾は、さっきとは少し違う顔をしている。そのとき。入口の方から、聞きなれた大声が響いた。
「健介!」
茉衣子だった。その後ろに、玉井の姿もある。
「ひなに、慎吾まで。お前ら揃って何してんだ?」
「飯食ってたんだよ、三人で」
「ああそう」
慎吾の回答に、茉衣子はそっけない。
「茉衣子ね、この前話してたお嬢様が来たの」
雛灯が茉衣子に報告した。
「ああ、美佳か」
「そう、そういう名前だった。今、その美佳さんが千宥と合流して、部屋に入っていったの」
「ええ、あのお嬢様かあ。絢那も見たかったな」
唯一美佳を拝めなかった玉井がぼやいた。
「千宥ちゃんの彼女なんでしょ?」
玉井が茉衣子に聞いたままを聞いた。慎吾は一瞬言葉に詰まる。
「らしいな。……で、今、二人で話してる」
「は?」
茉衣子の眉が吊り上がる。
「話してるって、何の話?」
「知らん」
「行こうぜ」
即答だった。慎吾は、ほんのわずかに迷ったあと、首を振る。
「やめとけ」
「なんでだよ」
「今は二人の時間だろ」
静かな声だった。命令でも、挑発でもない。ただ、止める。茉衣子の目が、鋭くなる。
「……お前に言われたくないんだけど」
「俺も気になるよ。でも、入らない」
慎吾が真っ直ぐ向いて言う。
「……こればっかりは、俺らが首つっ込んでいい話じゃないぞ」
その一言で、空気が変わる。健介は黙って様子を見る。玉井はまだ事態を飲み込めていない。
「……待とう」
雛灯が小さく言う。これはさすがに兄に分があるという意思表示だ。
茉衣子は唇を噛む。不満が、はっきり顔に出ている。それでも、扉には向かわない。慎吾と一瞬だけ視線がぶつかる。だが、誰も動かない。五人が立ち尽くしている。千宥は美佳を連れて207号室に入ったところだ。扉の向こうで、静かな時間が流れている。外では、十一月の空は、高く、冷たかった。
207号室の扉が閉まる。外のざわめきが、ふっと遠のく。千宥は、買い物袋をテーブルの上に置いた。リリーベルの紙袋が、かさりと小さく鳴る。美佳は部屋の中央に立ったまま、静かに周囲を見渡している。前に来たときと、ほとんど変わらない室内。それでも、どこか距離を測るような視線だった。
「お茶、いる?」
千宥は背を向けたまま言う。声がわずかに硬い。
「いただくわ」
穏やかな返事。電気ポットに水を入れ、スイッチを入れる。沈黙。湯が沸くまでの時間が、やけに長い。
「……来ると思ってなかった」
千宥が言った。
「来ないほうがよかった?」
千宥は口ごもる。本当のところ、美佳に来られるのは怖い。でも、来てほしくなかった、というわけにはいかない。
「今日、来るなら来るって言ってほしかった。連絡先、教えたでしょ」
千宥もちょっとだけ厳しい顔になる。
「私も色々と直前までわからないの。家の用事もたくさんあるし、今朝、急に高宮行きのチケットが取れたから」
千宥はため息をつく。美佳は聡明な子だとは思うが、時折、社会常識が欠落していることがある。ただ、前回の来訪がかなり気まずいものであったため、もしかすると、事前に通告すると逃げられかねないと思ったのかもしれない。仮にそうなった場合、千宥がどうしたかというと――用事があるふりをしたのかもしれない。そういう結論になり、千宥はため息をつく。今回は私の負けだ。
「……まあ、今日は私がいたからよかったけど」
負け惜しみのようにつぶやく。ここで、電気ポットからアラーム音がする。湯が沸いた。ポットを取る手が、ほんの少し震えていることに気づく。カップに湯を注ぎながら、心のどこかで覚悟していた。厳密に言えば、そういう覚悟が決まる前に押しかけてこられたので、今、急いで心の準備をしているところだ。まあ、なんにせよ、ここで、終わるのだろう、きっと。自分で進んでなった関係ではないが、言われたら、恐らく傷つく。マイナスの出来事が起きれば、嫌なものには違いない。それが、自分が本気でなかった相手に振られるにしてもだ。しかし、どっちみち傷つくのなら、傷が広がらないうちに、この場で終わるほうが楽だ。引き延ばされるより、はるかに。美佳は椅子に腰を下ろす。
「この一か月、ずっと考えていたの」
静かに、しかし逃げない声だった。千宥は向かいに座る。視線は合わせない。
「最初はね、怒っていたわ」
美佳は言う。
「どうして、何も言ってくれなかったのかって」
千宥の指先が、カップの縁を強く握る。
「それから、不安になった。私に何ができるのかって。……できないことのほうが多いんじゃないかって」
ひとつひとつ、丁寧に言葉を選ぶように。
「周りのことも考えたわ。家のこと、将来のこと。正直に言えば、逃げ道も探した」
千宥は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。やっぱり、そうだ。
「でも」
美佳は続ける。
「逃げ道を考えるたびに、あなたの顔が浮かんだの」
ようやく、視線が交わる。美佳の目は揺れていない。
「一緒に笑っていた顔も、黙っている顔も、困っている顔も」
千宥は、言葉を待つ。来る。終わりの言葉が。
「それで、決めたの」
美佳は、まっすぐに言った。
「私は、あなたを選ぶ」
部屋の中の空気が、止まった。千宥は、理解が追いつかない。
「……え」
「姿がどうとか、過去がどうとかじゃない。あなたと生きたいと思ったの」
言葉は静かだが、揺らぎがない。
「この姿のあなたも含めて、私は逃げない」
千宥の喉が詰まる。思っていた展開と違いすぎる。拒絶ではない。否定でもない。選択だ。選ばれてしまった。逃げ場がなくなる。胸が締めつけられる。
「……なんで」
かすれた声。
「なんで、そんな簡単に」
「簡単じゃないわ」
美佳は首を振る。
「簡単じゃないから、来たの」
静かな覚悟。千宥の視界が揺れる。嫌われるほうが楽だった。終わるほうが楽だった。それなら、自分を守れた。だが今、差し出されているのは、逃げられない未来だ。千宥は、深く息を吸う。そして、吐く。大きな、長い、ため息。張りつめていた何かが、少しだけほどける。
「……ありがとう」
それしか出なかった。美佳は微笑む。
「それで十分よ」
千宥は、まだ言えない。全部は言えない。抱えていることも、迷いも、恐れも。ただ、今は。目の前の人が、逃げなかったという事実だけが、静かに胸に落ちていく。外では、風が吹いているはずだ。でも、この部屋の中は、不思議なほど静かだった。沈黙が、ゆっくりと部屋を満たす。ポットの余熱が、かすかに音を立てている。千宥はカップを見つめたまま、言葉を探す。言わなければならないことが、胸の奥で渦を巻いている。でも、今ここで全部を出してしまえば、この穏やかさが壊れてしまう気がした。
「……私は」
ようやく口を開く。美佳は急かさない。ただ、待つ。
「私は、たぶん……」
言葉が続かない。「ごめん」でもない。まして「愛してる」でもない。どれも違う。美佳は、そっと言った。
「今、全部話さなくていいわ」
千宥の肩がわずかに震える。
「逃げないって決めたのは、私だけじゃない。あなたにも時間はいるでしょう?」
千宥は、顔を上げる。そこに責める色はない。ただ、覚悟だけがある。
「……私、たぶん、受け止めきれない」
小さく、吐き出すように言う。
「なぜ?」
「見ての通り、普通の男じゃないよ」
カップの縁を指でなぞる。
「正直、あんまり戻る気もないし、あとね」
千宥は、今打ち明けたい分だけの思いを過不足なく出そうと、一生懸命言葉を選ぶ。
「わかってるわ。わかってるから」
柔らかい声。
「そういうのも、全部受け入れると言ったわ」
千宥は、目を伏せる。どうして?
「私はね」
美佳は続ける。
「一人の人間として、千宥さんが好きなだけ」
千宥の視線が揺れる。
「もう迷いがないと言えば、嘘になるわ。でも、私も一つ一つ気持ちを整理してるところだから」
その言葉は、派手ではない。でも、重い。
「でも、今のところ、もうちょっとだけ時間は必要そうだけど、でも、次に会う時は、千宥さんと胸を張って会えると思う」
千宥は、深く息をつく。今、千宥の中での結論とは真逆の方向に進んだ。でも、それを千宥が言ってどうかなるわけでもない。伊達に十年近く付き合いがあるわけではない。今、こちらも時間をかけて、どうやって、関係を終わらせるかを考えるしかないのだろう。目下、その方法は浮かばないのだが。
そして、今は彼女をどのように扱っても、千宥の心から離させるのは無理だろう。努めて冷たくしても、きっと無駄だ。それならば――
「……しばらく、ここにいる?」
千宥が声をかける。それならば、優しくするしかない。冷たくしても、結局自分の心が消耗するだけなのだ。
「今日は、少しだけ」
美佳は答える。
「でも、また来るわ」
また。その響きが、やけに現実的だった。逃げ場のない未来。でも、完全な孤独ではない未来。千宥は、もう一度息を吐く。今度は、先ほどより短い。
「……そっか」
それだけ。それだけで、今は十分だった。
美佳が腰を上げたのは、日が傾きはじめたころだった。
「本当に、少しだけね」
そう言って、コートの襟を整える。その仕草が妙に丁寧で、ここが千宥の部屋であることが、どこか不思議に思える。
「……送るよ」
千宥は立ち上がった。
「大丈夫よ」
「いいから」
ほとんど反射だった。美佳は少しだけ笑って、うなずく。
外に出ると、空気が一段と冷えていた。十一月の夕方は、思ったより早い。階段を下りる。駐車場には、黒いセダンが一台停まっている。いかにもな高級外車だ。ただ、「わ」ナンバーである。確かに東京から車で来たはずはないが、高宮の田舎でこんなのを貸しているレンタカー屋もあるのか、と千宥は思った。まして、こんな弾丸で高宮までやってきて、急に貸してくれるものなのか……。そんなことを考えていたが、その車の脇に、大柄でサングラス姿の男が立っていた。
「遅かったな」
低く、どすの利いた声。美佳は小さく会釈する。
「待たせたわね、山崎」
「いや、ランク上げがはかどった」
この男は山崎貴文。十年来、美佳の使用人をやっている。どうやら、待機中、スマホゲームに興じていたらしい。運転席が目に入ったが、車内にスマホがUSBケーブル接続のまま放置されていた。
千宥も会うのはかなり久しぶりだ。使用人なのに美佳に敬語のひとつも使わない独特の関係性は、どちらかというと年の離れた兄のようだと千宥は考えている。その山崎の視線が、千宥に向く。値踏みするでもなく、ただ確認するような目。千宥は、わずかに背筋を伸ばした。
「お久しぶりです。……ほんとに女の子になってらあ」
「あ、ははは、なんというか……。なったわけでも」
千宥は、昔を知る人間に再会すると必ず聞かれることであるのに、説明に慣れているわけでもないため、苦笑しつつ口ごもる。
「相変わらずウチのお嬢が迷惑かけてるな」
「い、いえ……」
声が上ずる。美佳が、そっと千宥の袖を引いた。
「また連絡するわ」
その距離が、近い。けれど抱きしめたりはしない。手も握らない。ただ、目を合わせる。
「……うん」
それしか言えない。そして、少しの間二人に沈黙が走る。
「美佳、飛行機遅れるぞ。車も返さないといけねえんだから」
「わかってるってば。せかさないで」
美佳は頬を膨らませて使用人に返事すると、車に乗り込む。
「また来るわ。今度は連絡するわね」
ドアが静かに閉まる。エンジンがかかる。ゆっくりと車が動き出す。千宥は、その後ろ姿を見送る。黒い車体が角を曲がり、見えなくなるまで。静かだ。風が、落ち葉を運ぶ。
「……はあ」
ため息が漏れる。安堵か、不安か、自分でも分からない。踵を返した、そのとき。
「よ」
聞き慣れた声。顔を上げると、アパートの入り口のほうに慎吾が立っていた。その横に、健介もいる。
「……どうしたの?」
千宥が言う。
「コンビニ」
慎吾はビニール袋を掲げる。
「で、たまたま戻ってきたら、お嬢様カーが出ていくの見えた」
健介は何も言わず、こちらを見る。千宥は、一瞬だけ目を逸らした。
「話、終わったのか」
慎吾が聞く。
「……うん」
「泣いてないな」
「泣くようなことは、なんにもなかったよ」
穏やかな口調であるが、強がりが混じる。慎吾はそれを見抜いている顔をしているが、突っ込まない。
「で」
慎吾は続ける。
「どうだった」
ざっくりした聞き方。千宥は、少しだけ迷ってから言った。
「……一応、解決はしたけど、それが後々長引きそうだな、って」
「は?」
慎吾が眉を上げる。
「どっちだよ。解決までかかるんじゃなくて?」
「一個解決したけど、ってところかな?」
短く答える。健介が、初めて口を開く。
「一個は解決したんだ。よかったな」
淡々としている。でも、その一言は重かった。千宥は、小さく笑う。
「よかった……のかな」
「いいことじゃねえか」
「普通に考えたら、いいことなんだろうけどね」
健介は、なんだか面倒なことになっているらしい、と眉を顰め、慎吾は、千宥の事情を少しは察したのか、何も言わずに見つめていた。そのとき。
「千宥!」
別の声が響いた。107号室から茉衣子が歩いてくる。
「美佳、帰ったのか?」
茉衣子は遠慮なく聞く。
「うん」
「で?」
短い一言。千宥は、少しだけ視線を泳がせてから、答える。
「……終わらなかった」
茉衣子の眉が、わずかに動く。
「そっか」
それだけ。責めるでもなく、茶化すでもなく。
「大変だな」
「うん。またいつか来るよ。多分」
茉衣子は今のところ一番、そしてこの中ではまだ唯一と言って差し支えないほど事情を知っている人物だ。
「大変だな」
「……ありがと」
千宥は小さく言う。この二人のやりとりで、あんまりいい話とは言えないことを察した健介と慎吾は、目を合わせて、ため息をついた。
風が吹く。逃げ場のない未来。でも、完全な孤独ではない。千宥は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。夜が、ゆっくり近づいていた。




