第10話 東京から来た女(ひと)
これまで、男の娘やロリータ先生とかはちょっと変わり者はいましたが、このお嬢はただものじゃないです。あと、その執事もね。
<AI依存度>:
ほぼそのまま使用:10~15%
AI文ベース改稿:20~30%
ユーザー独自構成・加筆・再構築:55~70%
十月のある昼下がり、春若栄久高校へと続く坂道の下に一台の車が停まっていた。車の中にいた少女は、新宮領美佳という。美佳は期待と緊張の入り混じった感情を抱えながら車の後部座席に座っていた。ここが今千宥さんが通う高校……。やっとの思いで探し当てた彼の行方。彼女は窓の外から見える男子生徒の姿を、一人ひとり目で追っていた。
何年前のことだっただろう。とあるパーティーで紹介されたのは、福岡を本社とするジョウヨウという家電量販店の御曹司、それが杠千宥だった。美佳と同い年だという。ちょっとシャイだけど、心優しく、聡明な彼に一目ぼれした。
「これはいい。どうぞ、うちの千宥をよろしく頼みますよ」
彼の父親にそう挨拶されたのは覚えている。その後、美佳の父と何か話していたように思える。それがどんな話だったのかはよく分からない。しかし、以後、千宥に会う機会は格段に増えた。美佳は、それが純粋に嬉しかった。しかし、中学生になって以降、ちょっと会う機会が減った。それでも、年に一、二回は会えていたのに、どういうわけか、中学三年の夏ぐらいから、ぱたりと連絡が途絶えた。まず、千宥と連絡が取れなくなった。そして、それを彼の父に尋ねても、はぐらかされるばかりだ。結局、父親では埒が明かないと、今度は千宥の母に尋ねたところ、父親には内密に、と念押しされつつ、この春若栄久高校に在籍しているという事実のみ告げられた。そういうわけで、今日はわざわざ学校を休んで、東京から飛んできたのだ。
彼女の真ん前の運転席では、長年仕える執事である山崎貴文が暇そうにスマホをいじっていた。彼の無関心さが、美佳の内に秘めた熱を際立たせている。
美佳の心は複雑だった。千宥との再会を心から願いながらも、彼がどのように過ごしているのか、そしてもし何か予想できないことがあったときに、それを受け止められるのか、という不安が頭をよぎる。美佳は窓越しに高校生たちの姿を眺めていたが、探しているその人物にはまだ出会えていなかった。
そんなとき、ひとりの少女が目の前を通り過ぎた。女子は最初から対象から外していたが、つい目に入ってしまった。なぜならその顔があまりにも千宥に似ていたからだ。しかし、どう見ても女の子だ。あれが千宥なはずはないのだ。美佳はにわかに悔しさが押し寄せた。
「ああ……あれが千宥さんだったら」
美佳はぽつりとつぶやいた。その言葉が、突如空気を切り裂く「ちひろー!」という声にかき消される。窓の外からだ。窓を半開きにしていたので周囲の物音は聞こえてくるのだが、車の中まで響いてくるようなよく通る声だった。声の主は、千宥に似た少女に明るく声をかける少女だった。二人は親しげに話しながら坂の麓を右に曲がっていった。美佳の心は跳ねる。千宥に似た顔立ちをした女の子が、まさに「ちひろ」?
「ちょっと、山崎!あそこ!あの女の子たちを追いかけてちょうだい!」
美佳の声には焦りが混じっていた。
「はあ?杠のボンを探しに来たんだろ。女の子じゃねえか」
山崎は面倒そうに答える。執事にしてはかなり口が悪いようだが、美佳は意に介していない。
「いいから!」
美佳の言葉には迷いがない。山崎は仕方なくスマホを助手席に投げ捨て、首をかしげながら車をUターンさせた。車はゆっくりと二人の後を追い始めた。追いかけ始めてわずか数分、二人はさらに右へ曲がっていった。そこは学校からほど近いアパートだった。「ちひろ」は二階の一番左の部屋に入っていったようだ。美佳は、いよいよ自分の疑問に答えを求めようと決心する。
「今二階に入っていったあの子……千宥さんだと思うの」
「だから、女の子じゃねえか。どうしたんだ」
山崎は疑問を投げかけるが、美佳の決意は固い。
「わかるの。私には。行ってくる」
「……あんま迷惑かけんなよ」
山崎はため息混じりに警告するが、美佳はもう車を出ていた。
美佳は、足取りが重くおそるおそる、アパートの二階へと向かう。そして、千宥が入った二階の一番奥――207号室の前で立ち止まる。静かに息を整え、震える手で呼び鈴を押す。呼び鈴の音が静寂に溶けていく中、美佳の心臓の鼓動だけが耳をつんざくほどに響いていた。自分がここに立っている現実が、まるで夢のように感じられた。彼女は思わずうつむいてしまい、苦しいほどの不安が胸を締め付ける。もし千宥がドアを開けなかったら...…。その想像だけで足が竦んでしまう。
「どちら様でしょうか?」
間違いない。美佳は千宥の声と確信した。顔を上げて、食い入るようにインターホンに話しかけた。
「千宥さん!?私よ、美佳よ」
彼女の声は、自分でも驚くほどに熱を帯びていた。
「○×☆♨〰!!?」
文字で表せないような叫び声が聞こえた後、何かにぶつかったような、倒れたような音がした。美佳の心は止まりそうになる。彼が何を感じ、どんな表情をしているのか、その一瞬の沈黙が美佳の全身を凍らせた。
「千宥さん!?ねえ、千宥さんってば!」
彼女の声は、不安を抑えきれずに震えていた。
「……美佳ちゃん?どうしてここまで来たの?」
千宥の声は沈んでいて、彼が彼女の訪問に複雑な感情を抱いているのが伝わってきた。
「今の学校のことをお母様に教えていただいて、学校の前から追いかけてきたの」
美佳の声には、千宥を求める切実さが込められていた。
美佳の心はぎゅっと絞られるような沈黙の中で、時間だけが経過していく。彼女は千宥の返答を待ちわび、一秒一秒が永遠に思えた。とうとう我慢できずに口を開いた。
「千宥さん!お願い、会いたいの。一年半会えなくて、本当に心配してたの!」
彼女の声は、切実さと愛情に満ち溢れていた。
「お願いだから、家の前で騒がないで……」
千宥のため息が聞こえた後、静かに認めるような声が続いた。
「学校から帰ってくるの、見たんだよね。わかった、開けるから、もう叫ばないで」
ドアの鍵が外れる音がして、美佳は息を呑む。千宥が現れたその瞬間、彼女の心は様々な感情で満たされていた。そして、ドアがゆっくりと開き、先ほどの少女が姿を現した。改めて顔を見て確信した。間違いなく千宥だった。彼……彼女?の目には驚きと緊張、それに戸惑いが浮かんでいる。美佳の目は、一瞬で涙で滲んだ。彼女の前に立っているのは千宥であり、同時にまったく新しい人物のようにも感じられた。
「美佳ちゃん……どうしてここに?」
千宥の声は震えていた。
「どうしてって……心配だったのよ。あなたから連絡が一切なくなって、どうしているのか……」
美佳は、声を絞り出すようにして言った。彼女は一歩前に進み、千宥の両手を取る。手のぬくもりが伝わってくると、彼女は思わず涙を零した。千宥は少々ふらつきを感じながら、目の前で涙を流す美佳に声をかけた。
「ごめん、美佳ちゃん。本当に連絡も取れなくて。心配したよね」
「もういいの。ただ、あなたが無事で、こうして会えたことが嬉しいわ」
しかし、その安堵感は、美佳の中の混乱と疑問にすぐさま打ち消された。美佳は千宥の目をじっと見つめた。
「でも……これは何?どうしてこんな姿をしているの?千宥さん、説明が必要よ」
ドアを開けたまま立ち尽くしている千宥を見て、美佳は一瞬だけ視線を泳がせた。玄関の奥を覗き込むようなその仕草に、千宥はようやく我に返る。
「……とりあえず、中に入って」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。もっと取り乱すと思っていたし、自分でも何を言い出すかわからないとも感じていた。それでも、ここで立ち話を続ける選択肢はなかった。美佳は一拍だけ間を置いてから、小さく頷いた。
「お邪魔します」
その言い方は丁寧で、どこかよそよそしい。かつて何度も顔を合わせてきたはずの相手なのに、初めて訪れる他人の家のようだった。靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れた美佳は、無意識のうちに周囲を見回した。広くはないが、整えられている。生活の気配はあるが、装飾は少ない。千宥の部屋だと聞かされれば納得できるが、同時に「知らない場所」でもあった。
「狭いけど……」
千宥がそう言ってから、言葉を切る。何を続ければいいのか分からなかった。気まずさを誤魔化すように、テーブルの前に立ち、ソファまで案内する。
「座って」
美佳は静かに腰を下ろした。鞄を脇に置き、膝の上で手をぐっと握る。その仕草を見て、千宥は胸の奥がざわつくのを感じた。
沈黙。この沈黙は、責めるためのものではない。ただ、言葉を待っているだけだ。それが分かるからこそ、千宥は余計に言い出しにくかった。
「……さっき言いかけたことだけど」
千宥は、ゆっくりと息を吐いてから口を開いた。
「まあ、私はこんな格好になって。……びっくりしたよね」
美佳の指先が、わずかに動いた。視線は千宥から逸らさず、ただ静かに続きを待っている。
「ちょっとね……事情があって。この格好で生活してる。学校も、実はその状態で通ってて……っていうのはさっき見たのか」
言葉を最大限選ぶ。あまり触れたくない核心を、無理に言葉にする気はなかった。
「えっと……」
美佳が、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「事情って?いつからなの?ずっとそうしているの?」
「……それは」
即答できなかった。妹の二生や旧友の綾香雄人に説明できたことすら、言うのをためらってしまう。この子にどうしたら納得してもらえるだろうか。
再び、沈黙。
美佳は視線を落とした。何やら、考え込んでいるというか、頭を整理するか、落ち着こうとする様子だった。千宥は、その沈黙を破ろうとはしなかった。理解してほしいとも、納得してほしいとも思っていない。ただ、誤解だけはさせたくなかった。
「連絡……」
美佳がぽつりと言う。
「どうして、してくれなかったの?番号も変わってて……」
その問いには、責める響きよりも、困惑が滲んでいた。
「……それは、違うの。携帯、父に取り上げられちゃって、誰とも連絡取れなくなっちゃった。それは、美佳ちゃんだけじゃなく、他の友達とか、二生ですらそう。今は、こっちで新しく買ったのを使ってるんだけどね」
これは本当のことだ。そうなった経緯など、色々補足したいこともありはしたが、千宥はそれ以上、説明を足さなかった。言葉を重ねれば重ねるほど、余計な約束や期待を生んでしまいそうだった。美佳は小さく息を吸い、ゆっくり吐いた。
「そう……」
その一言には、納得とも不満ともつかない感情が混じっていた。美佳自身も、どう受け止めればいいのか分かっていないのだろう。
千宥はソファに美佳から直角になる位置に座り、美佳に視線を落とす。ここに彼女を招き入れたのは自分だ。だからこそ、最低限のことだけは伝えた。それ以上を求められても、応じる準備はできていない。どちらも何も言わない、ほぼ無音の部屋。時計の針の音だけが規則正しく響いていた。
(……これでいい)
そう自分に言い聞かせながらも、千宥の胸の奥には、拭いきれない不安が残っていた。
静まり返った部屋に、唐突に呼び鈴の音が鳴った。その音は、今の今まで静寂を保っていた部屋に、不釣り合いなほどはっきりと響いた。千宥は一瞬、身体が跳ねるのを感じた。
「……あっ」
千宥は一瞬声を漏らした。茉衣子ちゃんに宿題教えてってさっき言われたんだった。茉衣子のことを、完全に失念していたわけではない。むしろ、来ることは分かっていた。つい十五分ほど前に、「鞄置いて着替えたら来るからな」と言い渡されて別れたはずなのに。分かっていたはずなのに。その前に美佳がここに来てしまったことで、頭の中からきれいに抜け落ちていた。
呼び鈴が、もう一度鳴る。千宥は反射的に立ち上がりかけて、途中で動きを止めた。今さら、来客があると説明する時間もない。何より、自分自身がどう振る舞えばいいのか分からなかった。美佳が、戸惑ったように千宥を見る。
「……誰?」
その問いに、すぐ答えられなかった。答えたところで、どう受け取られるのか想像がつかなかったからだ。
「……友達」
それだけ言って、千宥は玄関へ向かった。ドアを開けた瞬間、明るい声が飛び込んでくる。
「千宥ー!遅くなってごめんよー!」
屈託のない笑顔。一旦帰宅しラフな格好に着替えた友人、古波蔵茉衣子は、おそらく教科書やノートが入っていると思しき鞄を小脇に抱えていた。足元に目を落とした茉衣子は、玄関に並んだ見慣れない靴を一目見て、ぴたりと動きを止めた。
「あれ?」
一瞬の沈黙のあと、好奇心に満ちた視線が千宥の背後へと向く。
「……誰か来てんのか?」
「えっと……」
「こんにちはー」
問いというより、確認だった。答えを待つ間もなく、茉衣子は一歩、玄関の中へ踏み込んだ。千宥は一瞬、止めるべきか迷った。しかし、この気まずい空気を自分ひとりで抱え込むより、誰かが入ってきた方がまだましだという判断が、先に立った。
「……上がって」
「やった」
茉衣子は靴を脱ぎながら、遠慮なく室内に足を踏み入れた。そして、テーブルの前に座る美佳の姿を見つけ、目を丸くする。
「え、すご……」
声を潜めることもなく、率直な感想が零れる。
「千宥の知り合い?ていうか……彼女?」
その言葉に、千宥の心臓が一瞬、強く脈打った。
「ちょ、待っ……」
訂正しようとして、言葉が喉で詰まる。どう否定すればいいのか、分からなかった。美佳は、そのやり取りを黙って見ていた。茉衣子が、道中で最初に千宥を発見した時に一緒にいた少女だったことは、美佳にもすぐに分かった。視線がその茉衣子から千宥へ、そして再び茉衣子へと移る。仲が良さそうだ、という第一印象が、否応なく胸に広がった。
「……はじめまして」
先に口を開いたのは、美佳だった。微笑みを浮かべながら、丁寧に頭を下げる。
「新宮領美佳と申します」
「えっ、あ、どうも!うわ、すげえ。ガチのお嬢様だ」
茉衣子は一瞬慌てた様子を見せてから、すぐに笑顔に戻った。
「あたし、古波蔵茉衣子。自称、千宥の大親友!」
そう名乗ってから、ちらりと千宥を見る。
「あはは……」
意味ありげなその一言に、千宥は嫌な予感しかしなかった。
「千宥、こんな綺麗な彼女いたんだなー。さっすがー」
「そんなんじゃ……」
千宥は短く返す。否定しようとしたが、美佳が何を言い出すかと思うと、言葉を濁すしかなかった。美佳は、「彼女」と呼ばれて一瞬微笑んだようだったが、またすぐに表情が硬くなった。茉衣子は、二人の間の微妙な空気を気にする様子もなく、椅子を引いて座った。
「宿題するって約束だったけど……今日は違う感じか?」
「……一応、やるけど。ごめんね、ちょっと急にこんなことになっちゃって」
千宥の歯切れの悪い返事に、茉衣子は首を傾げる。
「まあ、いいけどな」
そう言いながらも、視線は何度も美佳に向かう。隠す気もない好奇心だった。美佳は、その視線を受け止めながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。千宥と自然に言葉を交わし、距離感も近い。自分が知らない時間が、確かにここにある。
(……この子は)
嫉妬に似た感情が、一瞬だけ胸を掠める。だがそれは、すぐに別の違和感に取って代わられた。茉衣子の視線は、終始、千宥を「女の子」として見ている。驚きも、戸惑いもない。説明を求める気配もない。ただ、同級生として、当たり前のように接している。それに気づいたとき、美佳ははっとした。
(……あ)
この空間で、自分だけが浮いている。千宥の今の生活。今の人間関係。その中に、自分の居場所はない。否定されたわけではないのに、確かに「外側」に立たされている感覚があった。茉衣子は、そんな美佳の内心など露知らず、にこにこと笑いながら言う。
「なあ、千宥。後で教えろよ、どうやって知り合ったんだ、こんなお嬢様と」
千宥は答えなかった。ただ、視線を逸らし、小さく息を吐く。美佳は、その様子を静かに見つめながら、ようやく理解し始めていた。――ここは、自分の知らない場所なのだ、と。
茉衣子が椅子に腰を下ろしたまま、小脇に抱えてきた勉強道具をテーブルに置いたことで、場は一応「勉強をする体裁」だけは整った。しかし、誰も教科書を開こうとしない。千宥も、美佳も、それに気づいていながら、あえて触れなかった。
「……宿題」
千宥が小さく言うと、茉衣子は肩をすくめた。
「まあ、後でもいいだろ。せっかくなんだしさ。珍しいお客をほっぽる手はねえぜ」
その「せっかく」が何を指しているのか、あえて説明する気はないらしい。千宥はそれ以上言わず、立ったままテーブルの端に手をついた。美佳は一度、深く息を吸った。ここまで来て、何も聞かないという選択肢はなかった。聞かずに帰れば、それはそれで後悔する。だが、何をどこまで聞くべきか、その線が見えない。
「……さっきの続きだけど」
美佳は、意を決したように口を開いた。
「どうして、連絡がなかったのかは聞いたわ」
千宥は黙って頷く。茉衣子は、二人の様子を見比べながらも、口を挟まない。
「でも……」
美佳は言葉を探すように、視線を落とした。
「どうして、こんな生活をしているの?」
部屋の空気が、わずかに張り詰める。
「学校も、家も……全部、こっちなのよね。福岡でもなく、元々通っていた学校でもなく」
責める口調ではなかった。ただ、理解しようとする問いだった。千宥は、その視線を真正面から受け止めてから、少しだけ目を逸らした。
「……理由は、ある」
それだけ言って、言葉を切る。
「でも、今は……全部は言えない」
茉衣子が、ちらりと千宥を見る。だが、すぐに何も言わず、視線を外した。その沈黙が、かえって千宥を助けていた。
沈黙が、少しだけ長く続いた。
時計の秒針の音が、先ほどよりもはっきりと耳に届く。美佳は視線を落としたまま、すぐには次の言葉を続けなかった。問いを投げた自分自身が、返ってきた答えの重さを測りかねているようだった。膝の上で、指先が小さく絡まる。ほどいて、また絡めて。その仕草を何度か繰り返してから、美佳はようやく顔を上げた。
「……全部は言えない、のね」
確認するような口調だった。責めるでも、諦めるでもない。ただ、現実を一度、言葉に置き直している。
千宥は何も言わない。否定もしない沈黙が、そのまま肯定になっていた。美佳は小さく息を吸い、今度は逃げずに視線を向ける。
「じゃあ……まず、教えて」
その前置きに、千宥の肩がわずかに強張る。
「どういった経緯で、実家を飛び出して、このような生活をしているの?」
それは「女装」そのものを問う言葉ではなかった。どちらかというと、音信不通になったこと。もっと言えば、答えてもらうことはあまり期待していないが、父親ともかなり確執が深そうな状況に見える理由もできれば知りたい。
「えっとね、どこから話そうかなあ……」
千宥は頭を抱えた。少し考えこんで、ゆっくりと続けた。
「去年、すべてが嫌になっちゃって、月陵を、――前の学校ね。そこを退学になって、実家に戻ってきたの」
千宥の言葉を聞いた瞬間、美佳は思わず瞬きをした。
「……退学?」
その語感を、確かめるように小さく繰り返す。予想していなかったわけではない。だが、実際に口にされると、胸の奥で何かが静かに沈んだ。
「実家に……戻ったのね」
一拍置いて、美佳は続ける。
「でも……」
そこまで言って、言葉を選ぶように一度だけ唇を噛んだ。
「それなら、どうして今、ここにいるの?実家に戻ったって言ったのに……」
責める調子ではなかった。ただ、話の筋を追おうとする、ごく自然な疑問だった。美佳の視線は、千宥から逸れない。答えが来ることを前提にした、待つための問いだった。
「えっと、そこ、なんだよね。本当に私も思い出したくないことばかりで。……まあ、父の抑圧に耐えられなくなって、従姉のいるここまで逃げてきた、かな」
千宥の口から「父」という言葉が出た瞬間、美佳の表情が、わずかに曇った。それは驚きではなかった。むしろ、腑に落ちたときの沈み方に近い。
「……やっぱり」
美佳は、ぽつりと呟く。千宥の父が、息子の話題を露骨に避けたこと。居場所を尋ねても、「今はあまり奴の話をしたくない」と、取りつく島もなかったこと。あのとき胸に残った違和感が、今、静かに形を成していく。
「逃げてきた……のね」
その言葉を、繰り返すように口にしてから、美佳は首を振った。
「ごめんなさい。責めたいわけじゃないの。ただ……」
言いかけて、言葉を止める。そこに、怒りや失望を込めてしまいそうな自分に、気づいたからだ。
美佳は一度、深く息を整えた。
「……ここでの生活は、大丈夫なの?」
それは「どうして逃げたの?」ではなかった。過去ではなく、今を確かめるための問いだった。
「学校とか……一緒に住んでいる人とか」
千宥が「従姉」と言ったことを、きちんと拾い上げている。
美佳の視線は、さっきまでの鋭さを少しだけ失っていた。代わりに浮かんでいるのは、確かめたい、という感情だ。
「ちゃんと……居場所は、あるの?」
その問いは、千宥の事情を暴くためのものではない。ここで暮らしていけているのかを知りたいだけだった。
「うん、いまはその従姉と暮らしてるよ。この家で。そして、今、この近くの高校に通ってる」
「そして、ちゃんと友達もできてる。あたしとか、健介とか絢那とかな」
急に茉衣子が割り込んできた。挙がった名前を美佳は当然知らないが、茉衣子が千宥に目配せすると、照れを浮かべながらうなずいた。茉衣子の言葉に、少しだけ空気が緩んだ――ように見えたのも、ほんの一瞬だった。
美佳は、千宥がうなずくのを見届けてから、視線を落としたまま、しばらく黙っていた。指先が、また膝の上で絡まる。ほどいて、今度は強く握りしめる。
「……ねえ、千宥さん」
呼びかけは、先ほどまでよりも、わずかに静かだった。千宥は、反射的に背筋を伸ばす。その声色で、何を聞かれるのか、もう分かっていた。
「ここでの生活が、ちゃんとしてるってことは……分かったわ」
一度、区切る。
「学校もあって、住む場所もあって、友達もいる」
それは事実の整理だった。逃げ道を塞ぐためではなく、話を前に進めるための確認。美佳は、ゆっくりと顔を上げる。
「でも……」
視線が、千宥の服装に、はっきりと向けられた。
「その格好だけは、どうしても……聞かないわけにはいかない」
責める調子ではない。だが、先ほどまでの遠慮もない。
「冗談でも、遊びでもないことは……もう分かってる」
少しだけ、声が揺れた。
「許嫁とか、そういう約束を抜きにしても……。あなたが、どうして『そうしているのか』だけは」
美佳は、そこで一度、言葉を切った。踏み込めば、戻れないかもしれない。それでも、聞かずに帰ることはできない。
「……教えて。どうして、女性の格好で、こうしているの?」
それは、未来を迫る問いでも、恋愛の確認でもない。許嫁というか「恋人」として、避けられなくなった、最大の核心だった。
「それは……」
千宥が再度口ごもった。少しの間沈黙が流れる。茉衣子を一瞥したが、茉衣子も気になる感じで千宥を見るばかりだった。当然だ。千宥が男だと知った時、茉衣子は「すげえ」しか言わなかった。以後、胸は詰め物なのか、女性用ショーツに「収まる」のか、とかは聞いても、「どうしてその格好なのか?」とは聞いてこなかったのだ。
「えっと……」
千宥は一度口を開きかけたが、言葉は出なかった。そして、おもむろに口を開いた。
「それは、なんかこっちの方が生きやすいような気がして……」
千宥は、言い切るような口調にはならなかった。まるで自分自身にも、言い聞かせているかのようだった。美佳は、その言葉をすぐには受け止めきれず、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「……生きやすい?」
問い返しは、静かだった。だが、そこには戸惑いがはっきりと滲んでいる。千宥は小さく頷いた。
「前はさ、何してても……ずっと息苦しい感じがしてて」
言葉を探しながら、視線が宙を彷徨う。
「学校でも、家でも、ちゃんとやってるつもりだったんだけど……なんていうか、ずっと無理してる感じで」
それは、理屈ではなかった。説明しようとすればするほど、輪郭が曖昧になる感覚だった。
「中学は男子校で、寮だったでしょ。本当に息苦しくて……」
千宥は今初めてこれを理由付けに用いたが、それは真実だし、今口にしてみて、そうだとも思った。今考えてみて、男としての生活を強いられるあの場所は、地獄だと思う。
「でも、この格好で生活するようになってから……」
一瞬、言葉が途切れる。
「少なくとも、毎日を過ごすのが、少しだけ楽になった」
「幸せになった」とも、「本当の自分だ」とも言わない。ただ、楽になった。それだけだった。茉衣子は、腕を組んだまま、ふうん、と小さく唸る。
「千宥、こないだ雄人の奴がさ、中学の時より生き生きしてるって言ってたぜ」
茉衣子が何と助け舟を出してくれた。雄人。昔の自分と今の自分の両方を知る、貴重な存在だった。茉衣子としては、本人から聞いたことを、そのまま口にしているだけだが、千宥はそれがとてもありがたかった。美佳は、二人のやり取りを黙って聞いていた。「生きやすい」という言葉の裏にあるものを、必死に想像しようとしている。
「……それは」
美佳は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「『やめる』っていう選択肢は、なかったの?」
責めではない。否定でもない。ただ、避けて通れない問いだった。千宥は、少しだけ苦笑する。
「……考えなかったわけじゃないよ」
一拍置いてから、続けた。
「でも、そのたびに、前の感じに戻るのが怖くて。逆に言うとね、今、高宮でこうやってる私が、本当の自分のような気がしてきたから……」
それ以上は、言わなかった。理由を掘り下げれば、もっと深い話になる。そこまでは、まだ踏み込めない。美佳は、その沈黙を遮らなかった。聞きたいことは、まだある。けれど今は、それを全部言葉にしてしまうと、何かが決定的に壊れてしまう気がしていた。
「……そう」
短く、そう返す。その声には、納得も、拒絶も、どちらも含まれていなかった。ただ、受け取った、という響きだけがあった。美佳は、視線を落とし、しばらく黙り込む。頭の中で、いくつもの問いが浮かんでは消えていく。
――それは一時的なものなのか。
――この先も続けるつもりなのか。
けれど、そのどれも、今は口にしなかった。代わりに、美佳はゆっくりと息を整え、こう言った。
「……分かったわ。今は、それ以上、聞かない」
その「今は」という一言に、すべてが込められていた。千宥は、はっきりと頷くことも、否定することもできず、ただ静かにその言葉を受け止めた。
「……ねえ」
美佳は、再び口を開いた。今度は、少しだけ声が低い。
「私のことは……どう思ってる?」
その瞬間、千宥の心臓が強く跳ねた。その問いは、今まで避けてきた場所に、真正面から足を踏み入れようとしている。恋愛感情の所在。将来の話。そのどちらにもつながりかねない。千宥は、答えられなかった。答えた瞬間、何かが壊れる気がしたからだ。美佳は、その沈黙を見て、すべてを察したわけではない。ただ、これ以上聞いてはいけない、と直感した。
「……ごめんなさい」
美佳は、先に引いた。
「今のは……聞かなくていいわね」
その言葉に、千宥は何も言えなかった。ただ、視線を落とす。茉衣子が、場の重さを感じ取ったのか、わざとらしく咳払いをする。
「なあ、千宥。お茶、ない?」
「う、うん……」
千宥は立ち上がり、キッチンへ向かう。その背中を見送りながら、美佳は静かに思った。
(……怖い)
答えを聞くのが、ではない。答えを聞いたあと、自分がどうするのか分からないことが、怖かった。
だから、今は「検討」のままでいい。そう、自分に言い聞かせながら、美佳は膝の上で手を組んだ。
しばらくすると、千宥が紅茶を淹れて戻ってきた。差し出された紅茶を飲むが、自然と静かな空間が続く。茉衣子も珍しく、それを見守るかのように黙ってお茶を飲んでいた。飲み終わろうかとするタイミングで、美佳は壁に掛けられた時計をちらりと見た。
「……そろそろ、帰るわ」
声は落ち着いていた。感情を抑え込んだというより、もうこれ以上、この場でできることがないと悟った声音だった。茉衣子が、はっと顔を上げる。
「もう?」
「日帰りなの。あまり遅くなると……」
それ以上は言わなかった。理由を並べる必要はなかったし、並べたところで、この空気は変わらない。
「福岡か?」
茉衣子が尋ねた。
「いいえ、東京なの」
美佳はそう答えると、椅子から立ち上がり、鞄を手に取った。その動作はゆっくりで、慎重だった。どこか、名残を振り切るようでもあり、まだ迷っているようでもあった。引き留める言葉は、頭に浮かばなかったわけではない。「もう少し話そう」とか、「また連絡する」とか。けれど、そのどれもが、今は嘘になる気がして、口にできなかった。千宥は、代わりに気になっていたことを尋ねた。
「今日はどうやってここまで?」
「空港からは車よ。使用人がついてて」
「ああ、山崎さんだったっけ」
「ええ」
「そっか、下で待ってるのかな。じゃあ、待たせちゃいけないね。山崎さんにもよろしくね」
やり取りが終わり、またしばらく沈黙した。
「今日は……」
美佳が、少しだけ言葉を探すようにしてから、続ける。
「会えてよかったと思うわ」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。唇の端が、ほんのわずかに動いただけで、表情はすぐに戻ってしまう。
「あなたが、ちゃんと生きてるってことは……分かったから」
それは肯定でも、許しでもない。ただの事実の受け取りだった。千宥は、小さく頷いた。
「……気をつけて」
それだけ言うのが、精一杯だった。玄関まで見送ると、美佳は靴を履きながら、一度だけ振り返った。
何か言い残したいことがあるようで、でも、それが何なのか自分でも分からない、そんな目をしている。結局、美佳は何も言わず、軽く頭を下げた。
「じゃあ……また」
その「また」が、いつを指すのかは、誰にも分からない。ドアが閉まり、鍵の音が静かに響いた。部屋に残ったのは、時計の秒針の音と、取り残された沈黙だけだった。茉衣子が、ぽつりと呟く。
「……大変だな、お前」
同情でも、慰めでもない。ただの率直な感想だった。
千宥は答えなかった。ソファに腰を下ろし、しばらく天井を見つめる。
答えは出ていない。何一つ、決まっていない。それでも、今はそれでいいのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。答えを出すのは、今じゃない。その沈黙だけが、この日の結論だった。
「……茉衣子ちゃん、宿題しよっか」




