第8話 美女トリオが転校生を囲む会
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九月二日の朝、高宮バス・シャインヒル中央バス停の空気は、昨日の夕立のせいか少しだけ澄んでいた。アスファルトの隙間からは、まだ湿った匂いが立ちのぼっている。それでも、あのむっとした熱気よりは幾分ましだった。
春若栄久高校行きのバス停に、綾香雄人は少し早めに着いていた。肩にかけた鞄の紐を指でくるくるいじりながら、時刻表と道路の先を交互に見やる。
(……絢那ちゃん、栄久だったんだな)
昨日の下駄箱の光景が、まだ頭の中に鮮やかだった。玉井絢那が雄人を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってきたこと。そのすぐ後ろに、杠千宥が、女子の制服で立っていたこと。胸の奥に、ざわつきがわき上がる。そこへ、軽い足音とともに、聞き覚えのある声が飛んできた。
「おーい、雄くん!」
振り向くと、玉井が、片手をぶんぶん振りながら走ってくるところだった。おさげが揺れる。
「おはよ、絢那ちゃん!」
「おはよー。早いね、今日」
「バスの時間よく分かんなくてさ。一本逃して遅刻したらいけないから」
「それは正解かも。日によっては渋滞で遅れちゃうの」
雄人と玉井は、二人でバス停に並ぶ。朝の光が、道路の向こう側の家の壁に斜めに差し込んでいた。
「なんか、不思議な感じだねえ。また雄くんと同じ学校に行くなんてさ」
「うん。小学校のとき以来、って考えたら……何年ぶりだっけ」
「んーとね、中学が別になってからだから……」
玉井が指で数えはじめた。
「そっか、中学丸々だから、三年か。いや、もっといえば三年半かな」
「わあ、雄くん賢いね」
「……賢くなかったから月陵やめたんだよ」
雄人は自嘲気味に苦笑する。
「えー、でも成績よかったじゃん」
「それは小学校の話でね」
そんな他愛ないやりとりをしていると、遠くからバスが近づいてくるエンジン音が聞こえた。車体の赤と青のラインがカーブの向こうから姿を現し、ゆっくりと停留所に滑り込んでくる。二人は小さく頭を下げて乗り込み、車両中ほどに二人で並んで立った。
月陵時代もバス通学であり、同じバス停から乗車していたため、窓の外を流れていく町並みは、正直変わらない。だけど、月陵時代より学校が近くなった分、少し遅いバスで出ているし、何せ、隣に玉井がいるというのが新鮮だ。
バスが動き出して少ししたところで、玉井が思い出したように身を乗り出した。
「あ、そうだそうだ。ねえ雄くん、今日さ――お昼、一緒に食べない?」
「お昼?」
「うん。学食。あ、雄くんお弁当だっけ?」
雄人は膝の上の鞄をぽんと叩いた。
「うん、今日はお弁当。お母さんが張り切って、『転校二日目だから』って」
「ふふ、いいなあ。じゃあさ、学食でお弁当食べよ?」
「え、学食で弁当食べていいの?」
「いいよいいよ。普通にいるよ?お弁当勢。うち、最初はママに作ってもらってたんだけど、学食も結構おいしいから今はそっちにしてるの。ママも大助かり」
「なるほどね。じゃあ、学食行ってみたい。そっか、あれなら、僕も学食にしてみようかなあ。月陵も学食だったんだけどね」
「でねでね」
玉井は、少し声を落として続けた。
「千宥ちゃんも誘おうと思ってるんだ。昨日、あんな感じだったでしょ?雄くんと」
雄人の指先が、鞄の紐の上でぴたりと止まった。
「……ああ、杠くん」
名前を口にした瞬間、胸の中がきゅっとなる。玉井はその表情をちらっと見て、少しだけ真面目な顔になった。
「ちゃんと、話したほうがいいかなって思ってさ。雄くんも、千宥ちゃんも、なんか『うわっ』てなってたから」
「……うん。そうだね」
雄人は窓の外に視線を逃がした。どういう事情か分からないが、千宥はなぜか女子の制服を着ていた。髪も伸びていて、女の子にしか見えない。しかし、顔のパーツと声は完全に月陵時代の「杠くん」のそれだった。そして、それを知られたくなかったのか、かなり青ざめた顔をしていたし、実際に、付き添っていた女の子から「具合悪いから勘弁してやってくれ」と言われた。
「僕も、色々聞きたいことあるし。ただ、どう話していいかも分からないし、今日は杠くんは大丈夫なのかな」
「今日は落ち着いてるみたい。だから、落ち着いたところで、ゆっくり話そう?」
玉井は、昨日の千宥のこともあるのか、いつもの無邪気な笑顔から、ちょっとだけおとなしい笑顔になった。
「じゃあ、今日は四人で学食ね」
「四人?」
「茉衣子ちゃんも呼ぶ。昨日、紹介したでしょ?絢那と一緒にいた大きい子」
「あー……」
雄人は額に手を当てた。その千宥に付き添っていた女の子だ。えっと、苗字はなんだったっけ?昨日自己紹介されたけど。自分の苗字も大概珍しいが、茉衣子の苗字もかなりわかりにくい。
「こ……こは……こば……えっと……」
「古波蔵。古いに、波に、蔵」
「漢字で覚えさせるのやめて?余計ややこしいよ、それ」
「でも、漢字で覚えると忘れないよ?古い波の蔵で、古波蔵」
玉井はけらけら笑う。
「だから、それがもう情報多いんだって……」
「でもいいじゃん、覚えきれなかったら茉衣子ちゃんって呼んだらいいよ。樋口くん、それで茉衣子ちゃんのこと名前で呼んでるんだって」
「ああ、健介くん……。そうなんだね。でも、僕、あんまり女の子を名前で呼ぶのに慣れてなくて」
「絢那のことは名前じゃん」
「絢那ちゃんは別格!幼稚園からの付き合いなんだから」
「やーん、えへへ」
急に玉井が照れ始めた。
「古波蔵さん、古波蔵さん……。よし、たぶん覚えた。たぶん」
「たぶんって言ってるうちは怪しいやつね」
「うっ……」
バスは坂をゆっくり上り、春若栄久高校に近づいていく。立ち上がる生徒の気配で、車内が少しざわつき始めた。
「じゃあさ、お昼は学食の一番奥の窓側のところね。いつもだいたい空いてるから、先に席取りしとく」
「うん。四時間目終わったらすぐ行くよ。……えっと、七組だよね?」
「そうそう。雄くんは四組でしょ?『七組美女トリオが雄くんを囲む会』ってことで」
さりげなく美女を自称している。
「なんか会になってるし。美女……」
「えー、ダメ?」
「いや、ダメじゃないけどさ……」
玉井が美女なのを疑っているわけではない。千宥がその『美女』に含まれていることが、雄人にとってはまだ不思議で仕方なかった。
そんなことを言い合っているうちに、バスはブレーキを踏み、二人は立ち上がった。今日は昨日より少しだけ、足取りが軽い気がした。
四時間目のチャイムが鳴り終わると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。
「じゃ、ここまで」
数学教諭の榊原妙子が手をぱんと叩き、教科書を閉じる音があちこちで重なる。
「はい、おっつー」
ロリータ先生・妙子は号令を済ませると、ピンクのひらひらしたジャンパースカートを翻し、職員室へと戻っていった。
「はー、腹減った……」
「午前中、長えなあ」
教室で口々に生徒たちの疲れた声がする。雄人は、授業用のノートと教科書をさっさと鞄にしまい込み、その奥から弁当箱を取り出した。その動きに、隣の樋口健介がちらっと目をやる。
「雄人、どこ行くん?」
「ん?ああ、僕、今日はちょっと約束があって」
「約束?昨日来たばっかりなのに、もうか」
雄人は少しだけ言いにくそうに笑う。
「絢那ちゃんに誘われてさ」
「絢那?……ああ、玉井か。幼馴染なんだっけ、びっくりしたよな。そこと接点がね。千宥と言い、な」
「あの面子」の顔が一瞬頭に浮かび、健介は無意識に口角を引きつらせた。
(千宥と玉井と、雄人……。この面子ならどうせ茉衣子もいるんだろう。……うん、絶対なんか起きるやつだな)
なんか余計なことを聞いた。健介は眉をひそめた。
「まあ、色々話したいこともあるしさ」
雄人はそう言いながら、弁当包みを片手に立ち上がった。
「じゃ、またあとでね、健介くん」
「ああ。……茉衣子の言うことは大体聞き流してればいいから」
「どういうアドバイスなの、それ!」
笑いながら、雄人は教室のドアをあとにした。
廊下には、すでに学食へ向かおうとする生徒たちの流れができ始めている。
その中に紛れながら、雄人は小さくつぶやいた。
「古波蔵さん、古波蔵さん……」
頭の中で、さっきバスの中で練習した名字をもう一度なぞる。
(杠くんと、絢那ちゃんと、古波蔵さん。……ちゃんと、話せるかな)
胸の奥に、小さな緊張が灯る。昨日の昇降口とは違う種類のざわつきが、足取りを少しだけ速くした。階段を下り、渡り廊下を抜けると、学食のざわめきが聞こえてくる。食券機の前にできた列と、その奥に並ぶテーブル。窓際の一角で、手をぶんぶん振っている玉井の姿が見えた。
「雄くーん!」
人込みにまぎれて、声もわずかに聞こえてくる。雄人は、弁当箱を持ち直しながら、そちらへ向かって歩き出した。窓際の席でぶんぶん手を振っていた玉井が、雄人の姿を見つけるとさらに腕を大きく回した。
「雄くーん!こっちこっち!」
声も近づくにつれてはっきり聞こえてくる。昼休み序盤の学食は、まだ完全に混み切る前の時間帯で、ざわめきはあるけれど席の確保は容易だった。その一角で、玉井と茉衣子、そして千宥がすでにトレイを前に並んで座っている。
「意外と早かったな!四時間目、何だったん?」
茉衣子は大きめのカツカレーを前に、偉そうに腕を組んで言った。
「数Iだけど」
「あー、四組も妙ちゃんだよな!わかりやすいよな。あたしみたいなバカでも頭に入ってくるんだ」
「そうだね、わかりやすくてびっくりした。それよりも、服の方が気になったけど」
「妙ちゃんはロリータだから妙ちゃんなの!昨日は制服だったけどね」
玉井も横から加わる。
「せ、制服!?色々な先生がいるんだね。すごいや、この学校は面白いね」
雄人は苦笑しながら、弁当箱をテーブルに置いて椅子に座る。
「じゃあ、失礼しまーす」
「雄くん、ようこそようこそ!」
玉井は既にテンションが高い。雄人が弁当箱を開くと、さらに口を挟んだ。
「お弁当だ〜。ママの味だね〜」
「やめてよ、なんか恥ずかしいんだから……」
玉井が弁当のフタを覗き込んでニコニコしている一方で、千宥は静かにきつねうどんの湯気を眺めていた。箸は持っているのに、まだ一口もつけていない。
雄人は、気づかないふりをして小さく笑った。
「……あらためて、昨日ぶり。杠くん」
千宥がわずかに肩を揺らし、顔を上げる。
「……うん。昨日は、その、ごめんね。なんか、びっくりしちゃって」
「いやいや、僕のほうこそだよ。……まさか、ここで会うなんて思ってなかったから」
茉衣子がそこでストローの包みを勢いよく破きつつ口を開いた。
「ていうかさー、千宥と中学の同級生で男子校で、さらに絢那とも繋がってて、しかも同じ高校に転校してくるってどういう巡り合わせよ」
言いたいこと全部乗せで突っ込んだ。
「う、うーん……縁ってこわいねえ……?」
玉井はとりあえず笑ってまとめているが、逆に混乱が深まっている気もする。雄人は苦笑いしながら弁当箱の中の卵焼きに箸をつけた。
「ほんと、まあ、はっきり言うと、僕が月陵やめたのは成績不振なんだけど、杠くんどころか、絢那ちゃんもこの学校だって知らなかったんだけどね。本当に、こんな偶然ってあるんだね。でも、昨日はあんなにびっくりしちゃって、まともに話せなくてごめんね」
雄人は千宥に向き直り言った。
「いいんだよ。私も……今もまだ、普通に驚いてるから」
千宥はそう言って、ようやくうどんの麺を一本すくい上げた。声のトーンは落ち着いているが、箸先の震えがほんの少しだけ見える。そこへ、茉衣子が唐突に話題を変える。
「んで、雄人。あんたさ——」
「あ、はい」
「あたしの名前、覚えてくれた?ずっと予習してたって絢那に聞いたぞ」
雄人の箸が止まった。
「えっと、……あー、」
どうやら度忘れしたらしい。
「こはがわさん?」
「がわ、じゃねえよ。蔵だって言ってんだろ。ほら言ってみ?」
玉井は爆笑し、千宥すら小さく息を呑んで笑いをこらえる。雄人は観念したように肩をすくめた。
「ごめんね、古波蔵さんだったね」
「あはは、覚えられないんなら茉衣子って呼んでくれよ。名前は覚えやすいだろ?」
「か、考えとく……」
三年半ぶりに同年代の女子とこうして向き合う雄人は、少なからず恐縮していた。
「雄人の苗字も珍しいよな。綾香って女の子の名前みたい」
「よく言われるよ」
「で、『あやか』と『あやな』なんな」
茉衣子が雄人と玉井を見回し言った。
「だよねー。絢那ね、小学校の時、よく雄くんと結婚したら『あやかあやな』だね、って言われてたの」
「なんだよ、そのケサランパサランみたいなの!」
茉衣子が笑い、やり取りを聞いていた千宥がたまらず噴き出した。そして、純粋な笑い話として言った玉井ではあったが、結婚したら、という話に雄人はびっくりしてしまった。
「い、言われてたねー。そんなこと。でも、慣れはしたけど、女の子みたいって言われるのは本当はあんまり好きじゃなくて、できれば雄人って呼ぶように小学校も月陵でも言ってたなあ」
「そっか、千宥も絢那も名前で呼んでるもんな。なんか、綾香という男っていう噂だけ独り歩きしてたけど、結局、昨日今日と三人で雄人の話してて、もう綾香というか雄人!って感じになっちゃったんだよな」
「あ、ありがとう。名前で呼んでくれるなら、その方がいいや」
「じゃあ、あたしのことも茉衣子でいいぞ」
「……考えとく」
「なんでだよー!」
茉衣子がツッコミを炸裂させ、玉井は机を叩いて笑った。雄人も照れくさそうに苦笑する。
「じゃあ、千宥もそう言われて雄人って呼んでたん?」
さっきから黙ってうどんをすすっている千宥に急に話を振った。
「え?……うん、そうかも。もしかしたら私が月陵で初めて名前で呼んだ同級生かも」
「大げさに言うけど、入学式で知り合ったからじゃん」
雄人がコメントに補足する。
「お前ら、そんな古い仲だったのか」
「いいなあ。なんか、千宥ちゃんと雄くんがお友達なの、まだ絢那から見たらとっても不思議!」
一旦、面白そうにして見せた玉井だが、笑い声が落ち着いたところで、玉井が箸を置いて真顔になる。
「……でね。昨日のことなんだけど」
雄人と千宥が同時にわずかに目線を上げる。
「やっぱりちゃんと話したほうがいいと思って、今日誘ったんだ。雄くんも、千宥ちゃんも、すっごいびっくりしてたから」
その言葉に、テーブルの空気がほんの少しだけ静まる。茉衣子もカレーのスプーンを止め、様子をうかがった。雄人がゆっくり息を吸う。
「……うん。僕も、話したかった。でも、昨日は……なんか、言葉が全然出なくてさ」
千宥も、小さくうなずいた。
「私も……。急に過去と今がつながったみたいで……。頭が、追いつかなくて。ごめんね、なんか具合悪くなっちゃったけど、それは雄人くんが嫌なんじゃなくて」
「あ、ううん……」
雄人と千宥の目が、一瞬だけ合い、また逸れる。
沈黙が続く。周囲の喧騒が際立つ。誰もすぐには次の言葉を選べないでいたが、先に息を吐いたのは雄人だった。
「……あのさ」
箸をいったん置き、弁当箱のふちに指をかける。真面目な顔をした雄人を、三人が自然と見た。
「これ、聞いていいのかちょっと分かんないんだけどさ。もし、嫌だったら『嫌』って言ってね」
前置きだけで、千宥の背筋にじわりと緊張が走る。分かっていた質問が来る。分かっていて、それでも覚悟は完璧には固まらない。
「どうして、今は……その、女子の制服で……?」
できるだけ言葉を選んだのだろう、「女装」とは言わない。それでも、「聞きたいことの芯」はぶれずにそこにあった。玉井がそっと箸を置き、茉衣子もカレーから視線を外す。千宥は一度、湯気の向こうをぼんやり見つめ、それからゆっくりとまぶたを閉じた。
「……うん」
短く相槌を打ってから、少しだけ息を吐く。言葉をざらざらと喉の奥で選ぶような間があって、ようやく声になる。
「えっとね。簡単に言うと、『色々あって』……って言い方になっちゃうんだけど」
「うん」
雄人は、急かさずに待つ姿勢を崩さない。
「月陵やめた頃さ、ほんとにいろんなことが重なってて。雄人くんには去年も話したよね?自分がこのままあの学校にいていいのかとか、周りからどう見られてるかとか……。それを変えるためにやめたんだけど、やめてからも本当に色々あって……。なんか、全部いっぺんにしんどくなっちゃったんだ」
「そっか、なんだか、重いの、背負わせちゃったね」
このくだりには、おそらく、千宥と雄人だけが共有しているなにかがあるのだろうか。しかし、その内容は分からず、茉衣子と玉井は二人の顔を眺めながら、なんとなく聞くしかなかった。
「ううん、大丈夫。本当に色々あったけど、雄人くんのアドバイスは間違っていなかったし、今、こうやって幸せに生きてる。それだけは安心してほしい」
「そっか」
雄人が静かに返す。
「まあ、でも、本当に色々あってね、ちょっと……なんというか、」
まだまだ言えないこともあるらしく、一生懸命言葉を探しているようだ。
「今は、元々こっちに住んでる従姉に預けられてるの」
「大人の人?」
「うん、十歳上で、ここのOGなんだけどね。……で、従姉のところに来てからも、どうやって生きていったらいいか、とかすごく考えたの。前にも遊びに行ったときに、こういうことをしたことがあって……要するに、『この格好で暮らしてみない?』って話になった。本当に簡単に言うと」
「そ、そうなんだ」
その端折られた部分に何があるのかは雄人はおろか茉衣子や玉井にも測りかねたが、普通の人には分からない何かがあったらしい。
「私もね、本当にそんなことしていいのか?解決するのか?って思ってたの。だけど、『この格好で過ごしてるときのほうが、生きやすい』ってことだけは分かったから」
千宥は自分のスカートの裾を、そっと指先でつまんだ。
「だから、ここではこの格好で生活している。……家でもね。こうやってわかってくれる茉衣子ちゃんとか玉ちゃんみたいなお友達にも出会えたし、先生たちも、一応は分かったうえで、許可してくれてる」
「そうなんだ。さっきのフリフリの先生じゃないけど、自分が落ち着く格好でいられるのって、いいね」
雄人も、一生懸命言葉を選びながら、理解の表明を試みる。
「だから……『女装してる』って言われると、ちょっと違うかな、って思う」
「違う?」
「うん。私にとっては、こっちが『普通』だから」
それは、言葉にしてみると拍子抜けするほどシンプルな説明だった。けれど、そこに至るまでにどれだけの時間とぐちゃぐちゃがあったのかは、十分に伝わるくらいの重みがあった。雄人は、しばらく黙って千宥を見ていた。それから、ほんの少しだけ口元をほぐす。
「……うん。なんか、ちょっと分かった気がする」
「ほんと?」
「うん。いや、詳しいこと全部分かったとは言えないけどさ。でも、『女装』って言葉がしっくりこないのは、なんとなくわかる」
雄人は自分の胸に手を当てた。
「装ってるわけじゃないんだもんね」
「あー……、うん」
雄人の言葉に直された言葉が、千宥の言葉では瞬時に判断できるものではなかったようだ。しかし、大きく間違いではないと判断したらしい。
「僕の中では、どうしても『月陵のときの杠くん』のイメージが一番強いから、最初に見たとき、頭の中で情報が追いつかなかっただけで。……別に、責めたいとかそういうのはなくてさ。単純に、びっくりした」
「……うん」
「だから、昨日『びっくりした』って言ったのは本当なんだけど、それで『変だ』とか『おかしい』とか思ったわけじゃないから。そこだけ、わかってもらえたら嬉しい」
変に殊勝ぶるわけでもなく、淡々とした口調で言う。その率直さに、茉衣子が感心したように鼻を鳴らした。
「……お前、意外とちゃんとしてんな」
「『意外と』って何」
「いや、昨日のテンション見てたらもうちょっとガサツかと思ってたわ」
「ひどくない!?」
玉井がくすくす笑いながら口を挟む。
「でもね、雄くんが『変だ』って言わないのは、なんとなく絢那も分かってたよ」
「え?」
「だって、昔からそうじゃん。『なんで?』って思ったことはちゃんと聞くけどさ、人のことバカにしたり、笑いものにしたりはしなかったもん」
「そ、そんな立派なもんでもないけど……」
雄人が耳まで赤くなり、卵焼きに再び箸を刺した。
千宥は、その横顔をじっと見てから、ふっと目を細める。
「……ありがとね、雄人くん」
「うん?」
「ちゃんと聞いてくれて。変にごまかしたり、面白がったりしないで」
「それはまあ……。僕だって、自分のこと面白がられたらイヤだし」
「自分のこと?」
「『男なのに名前が綾香だ〜』とかさ。あと、……そうだな、シンプルにチビだって言われることはよくあるかな」
ああ、と三人が同時に声を漏らす。
「昔から散々言われてきたからね。慣れたけど、正直好きじゃないのはそう」
「さっきも言ってたな。雄人って呼んでほしいって」
茉衣子が頷く。
「……そう考えるとさ」
「ん?」
「そうやって散々言われてきた雄人くんだから、私のこともちゃんと受け止めてくれるの、すごく安心した」
「いいこと言うな、千宥」
茉衣子がカレーの皿を傾けながら笑った。
「で、その雄人が、『千宥がこうしてるのが普通なんだな』って思ったなら、まあ、あたしもそれでいいや」
「え、そこ基準なの?」
「千宥が一番で、次点が雄人って感じな」
「絢那は?」
「絢那は全部『いい』って言うに決まってるから、ちょっと落ちる」
「ひどくない!?」
玉井が抗議するが、その声には笑いが混じっている。千宥も思わず吹き出して、慌てて口を押さえた。
「……ふふ。なんか、こうやって話してると、ちゃんと『今』に戻ってきた感じする」
「今?」
「うん。昨日のあの時、気持ちだけ時間が中学の時に戻ってたからさ」
「ああ……それは、あるかも」
雄人もうなずく。
「僕も、杠くんの名前見た瞬間、やっぱり月陵を思い出したもん。……まあ、先月までいたから、まだ普通に感覚が残ってるだけかもしれないんだけどね」
雄人が苦笑する。
ふと、玉井が何かを思いついたように手を叩いた。
「そうだ。じゃあさ、そろそろ呼び方も『今バージョン』にしない?」
「呼び方?」
雄人がきょとんとする。
「今さ、『杠くん』って呼んでるじゃん。それも悪くはないけど、こっちの世界では『千宥ちゃん』なの」
「異世界ものじゃないんだから」
千宥が苦笑する。
「でも、学校が変わって、変わったんでしょ?」
「まあ……」
千宥は戸惑いながらも否定はしなかった。
「で、どうする?雄人。杠くんで押し通す?千宥ちゃんにする?」
「え、選択肢こっちに投げるの?」
「そりゃそうだろ。呼ぶ方がきめなきゃだろ。んでもって千宥がうんって言うかだけどよ」
茉衣子が当然とばかりに言った。雄人は少し考え込む。時折、千宥の顔を見る。千宥は、少しだけ不安そうな表情で見返してくる。
「……じゃあ」
ひと呼吸置いて、雄人は言った。
「『千宥さん』、はどうかな」
「さん?」
「うん。なんか、ちゃん付けは気が引けちゃって……!」
雄人は正直に続ける。
「でも、『杠くん』のままなのも、たぶん違う気がするから。とりあえず、『千宥さん』。……ダメ?」
千宥は、ぽかんとしたあとで、ふっと目を細めた。
「……ううん。なんか、それが一番しっくり来るかも。雄人くんらしくて」
「そう?」
「うん。『くん』も『ちゃん』も、どっちもどこかむずがゆくてさ。『さん』だと、中間くらいでちょうどいい」
「中間って言われた」
「褒めてる褒めてる」
千宥が小さく笑うと、玉井がすかさず乗っかった。
「じゃあ決まりだね。『千宥さん』」
「おう、ナイス折衷案だな」
茉衣子も認めるようにうなずいた。
「じゃあ、改めて。よろしくね、千宥さん」
雄人がそう言って、軽く頭を下げる。千宥も、うどんの器から手を離して、ぺこりと会釈を返した。
「うん。よろしくね、雄人くん」
そのやり取りを眺めていた茉衣子が、ここぞとばかりに自分を指さす。
「はいはい、じゃあ次はあたしの呼び方ですねー。『茉衣子ちゃん』でお願いします!」
「考えとく」
「なんでだよ!」
間髪入れずに即答され、学食に近い窓ガラスがびりっと震えるほどの声が響いた。わいわいとしたやり取りの中で、さっきまで張りつめていた空気はいつの間にかほどけていた。少しして、玉井がふと箸を止める。
「ねえ、そういえばさ。雄くん、さっき『成績不振で月陵やめた』って言ってたじゃん」
「あー……まあ、事実だからね。そこはごまかしようがない」
「なんか意外だよな。月陵って、賢いとこなんだろ?」
茉衣子が首をかしげる。
「入るときは、頑張ればどうにかなるだろって思ってたんだけどね。どうにもならなかった」
雄人は自嘲気味に笑った。
「でも、月陵やめてここ来たおかげで、こうして千宥さんとも絢那ちゃんとも再会できたわけだし。トータルで見たら、まあ……悪くないかなって」
「ポジティブだなあ」
「ポジティブじゃないとやってられないんだよ、人生」
「どの口が言ってんだよ」
茉衣子のツッコミに、テーブルがまた少し揺れる。
千宥は、そんな三人のやり取りを見ながら、うどんの汁を一口啜った。
(……ほんとに、「今」なんだな)
さっきまで、月陵の色々な記憶が、良いものも悪いものも含め、頭の中で生々しく蘇っていた。けれど今、旧友の雄人を目にしても、「春若栄久高校」だと感じられる。多分、雄人くんを今の同級生と認められたんだ。千宥はそう解釈する。
テーブルの上のカツカレーはほぼ食べ終えられ、きつねうどんの汁も残りわずか。雄人の弁当箱も、端に梅干しがひとつ残るだけだ。ちょうどそのとき、昼休み終了十分前のチャイムが鳴った。
「げ、もうそんな時間かよ」
茉衣子が慌てて水を飲み干す。
「午後、数学Aだっけ?」
千宥が言った。
「そう。寝たら殺されるやつな」
「カモネギ、怖いもんね」
「妙ちゃんとは大違いだよ、もう。全部妙ちゃんにしてほしいわ」
数学Aを担当するカモネギこと鴨川先生はネギのようにやせ細っていて、気難しがりで有名だ。ちなみに、妙子は数学Iの担当である。
七組の三人はそれぞれトレイを片付け始めた。
「じゃあ、僕は四組に戻るね」
弁当箱を鞄にしまいながら、雄人が言う。
「うん。また放課後でも」
千宥がそう言うと、雄人は一瞬だけ迷った顔をしてから、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……うん。また話そう、千宥さん」
「うん。私も、雄人くんと色々話してみたい」
「おーい、置いてくぞ月陵OBども」
茉衣子が勝手に人数を数え直しながら出口へ向かう。
「OBて……」
「僕ら卒業してませんけど!」
わいわい言い合いながら、四人は学食をあとにした。さっきより少しだけ、並んで歩く距離が近い気がした。長い二学期は、静かだけれど確かに動き出していた。




