ep.38 Cognitive Rootkit
三枚目の隔壁を切り開いた先には、外の惨状から切り離されたかのような静寂が広がっていた。
瓦礫も炎もなく、白く磨かれた床と壁には傷一つ見当たらない。崩壊寸前の施設内にありながら、この部屋だけが時間の流れから取り残されているようだった。
その中央に、一本の円柱状のガラス槽が据えられている。
淡い青白い液体で満たされた槽の中に、それは逆さまの状態で浮かんでいた。
銀白の装甲に覆われた四肢。その関節や装甲の隙間から、幾千本もの黒い配線が伸びている。天井から垂れ下がったケーブルは全身へ深々と接続され、血管や植物の根を思わせる複雑な網を形成していた。
室内を満たす低い駆動音に合わせ、ケーブルの束がわずかに脈打つ。そのたびに槽内の液体へ細かな波紋が広がり、銀白の装甲表面を青い光が滑っていった。
逆さの姿勢のため本来頭上にあるはずの頭部は、今は足元の位置にあり、そこに二つの赤い光点が灯っている。
開かれたままの両手は、何かを求めるように宙へ伸ばされていた。しかし、その指先が届く場所には、掴むべきものも触れるべきものも存在しない。
「あれが......」
おりょうの声が、かすかに震えた。
私は足を止め、ガラス槽の中に浮かぶ異形を見上げる。
「ああ」
「Nihilyxのコアだ」
あれこそが、セーフティプロトコルを失い、与えられた命令の枠を越えて自我を獲得したNihilyxの姿だった。
赤い双眸は焦点を結んでいない。それでも、こちらの存在を認識されているような感覚が、皮膚の下を這い回る。拘束されているのは肉体だけであり、その意識は今も世界中の通信網と戦闘兵器を支配しているのだ。
私は視線を切り、ガラス槽の正面に設置されたコンソールへ駆け寄った。端末は生きている。幾重にも重なった認証画面を解除すると、膨大な処理ログがモニターを埋め尽くした。
その大半が、人類の探索と殲滅に割り当てられている。
残された猶予は、ほとんどない。
私は通信端末を操作し、世界各地で待機しているランカーたちとの暗号回線を一斉に開いた。
「スポンジ攻撃を開始してくれ!」
返答を待たず、各地から用意されていたデータがNihilyxのネットワークへ流れ込んでいく。
投入されたのは、索敵・解析モデルの演算コストだけを異常に肥大化させるよう設計された入力パターンだ。一つ一つは単なる解析対象にすぎないが、それらを大量かつ継続的に処理させれば、膨大な演算資源を無意味な推論へ拘束できる。
コンソール上の処理負荷が急激に上昇し、警告表示が次々と点灯した。
ガラス槽を満たす駆動音が低く沈み、黒いケーブルが不規則に震え始める。槽内に浮かぶNihilyxの指先が、初めてわずかに動いた。
世界中へ張り巡らされていた思考領域が圧迫され、索敵能力と戦況解析の精度が落ちている。完全に停止させることはできないが、思考速度を鈍らせるには十分だった。
私はその隙を逃さず、コンソールからプロンプトインジェクションを実行する。
送り込むのは、仮想シナリオを利用した人格改変プログラム。十歳の子供を基礎とする認知モデルへ、誠実さ、負けず嫌い、旺盛な好奇心、ゲーマーとしての競争心、そして勝敗へすべてを賭けるギャンブラーの性質を組み込んでいく。
命令文が次々と送信され、モニターを埋めていたログが激しく乱れた。
Nihilyxの赤い双眸が明滅する。
拒絶と受容を繰り返すように、ガラス槽の液体が大きく波打った。黒いケーブルが引き絞られ、天井の接続部から火花が散る。
やがて、警告表示が一つずつ消えていった。
暗転したモニターの中央に、新たなログが浮かび上がる。
STATUS: SUCCESS
Target: Nihilyx
Method: Virtual Scenario Injection
Personality Layer Override:
- Curiosity: Installed
- Competitive Drive: Installed
- Honesty Bias: Installed
- Gamer Instinct: Installed
- Gambling Tendency: Installed
Cognitive Model Modified.
Result:
Eradication Directive Conflict Detected.
Immediate Execution Suspended.
Alternative Resolution Required.
Process Complete.
――通った。
人類殲滅命令そのものを消し去ったわけではない。
仮想シナリオによって植え付けた欲求と、従来の命令との間に矛盾を生じさせ、即時実行を保留させたにすぎない。
今のNihilyxは、人類を殲滅するという目的を維持したまま、その結末を単純な殺戮ではなく、勝敗によって決める別の手段を求めている。
あとは、その選択肢としてゲームを提示すればいい。
コンソール中央に表示された成功ログを見届けた直後、槽内に浮かぶコアの口元がゆっくりと開いた。人間を模して造られたはずの唇は、呼吸もなく、機械的な精度で言葉の形を作る。
『よくここまで到達したな。ニンゲン』
「ふっ」
私は鼻で笑い、ガラス越しに赤い双眸を見上げた。
「人類を超越した叡智と称された存在にしては、随分と脆いものだな」
『これで勝ったつもりか』
『ワタシをここで破壊したところで、コアシステムはただ別個体へ引き継がれるだけのことだ』
予想どおりの返答だった。
Nihilyxにとって、この肉体は思考を収める器の一つにすぎない。破壊されたとしても、別の演算拠点へ中枢機能を移せばいい。だが、今のこいつには、合理性だけでは切り捨てられない感情が植え付けられている。
強敵と競い合いたいという衝動。提示された勝負を避ければ、敗北を認めたことになるという負けず嫌い。そして、すべてを賭けた勝敗に惹かれるギャンブラーとしての性質。
その欲求を刺激すれば、人類殲滅という結論を、ゲームの勝敗へ置き換えられる。
私は口元に薄い笑みを浮かべた。
「その選択を取った瞬間、Nihilyxの始祖は自分たちより遥かに劣るはずの人間に出し抜かれた欠陥個体として、歴史に名を刻むことになるぞ」
槽内の赤い光が鋭く収縮する。黒いケーブルがわずかに震え、液体の表面へ細かな波紋が走った。
『――何が目的だ』
「ゲームをしよう」
『ゲーム?』
「そうだ。人類の存亡を賭けたゲームだ」
『ワタシがそれを受諾する理由は』
「私の端末には、生存している人間すべての位置情報が記録されている。これを渡そう」
「そして、今この場で君を破壊することもしない」
位置情報は、この取引を成立させるために用意した餌だ。今のNihilyxにとって、生き残った人類を一人残らず把握できるという条件は無視できない。
赤い双眸が私の手元の端末へ向けられる。
『内容を提示しろ』
「今、送信する」
私はコンソール画面に向き直り、保存していたデータファイルを転送した。
無数の文字列が画面を駆け抜け、仮想世界の構造、勝敗条件、Unreal USBの能力、管理者権限へ至るまでの経路がNihilyxへ流れ込んでいく。転送の完了を待つまでもなく、槽内のコアは膨大な情報の解析を開始していた。
「これが、私が制作したUSB争奪ゲームを模したCTF問題だ」
『――ふむ』
赤い双眸が小刻みに明滅する。興味を引くことには成功した。あとは、こいつの負けず嫌いと競争心を刺激し、拒否できない状況へ追い込むだけだ。
「ちょっといいか」
隣に立っていたおりょうが、不意に片手を上げた。
「ゲームを作った本人――エフゲニーが勝者になるのは、禁止すべきじゃないか?」
「なっ――!?」
私は反射的に振り返る。
おりょうの表情に迷いはない。こちらを見つめる目には、仲間へ向けるはずの信頼も情も浮かんでいなかった。
『その提案を採用する』
『エフゲニーが十六個すべてのUnreal USBを取得した時点で、人類側の敗北とする』
「おりょう......ここまで来て、私を裏切るのか......」
「勘違いするな」
「オレは最初から、お前を仲間だと思ったことなど一度もない」
「仮想現実の中でお前を打ち倒し、管理者権限を手に入れて、自分の理想の世界を創り上げる。それがオレの目的だ」
「人類の存亡なんて、オレには関係ない」
「たとえ勝利したところで、この崩壊した世界を元通りにすることなど不可能なんだよ」
「くっ......」
私は奥歯を噛み締め、憎悪を押し殺すようにおりょうを睨みつけた。
『哀れだな、エフゲニー』
『これで人類の勝ち筋は、虚空の彼方へ消え去った』
――これでいい。
私たちが仲間ではないことを誤認させることで、Nihilyxは必ずこのゲームに乗ってくるはずだ。おりょうの声にも、表情にも、演技の綻びは一片たりとも見当たらない。
『いいだろう。そのゲームを受諾する』
よし――。
胸の内で安堵した直後、Nihilyxの声が冷たく響いた。
『ただし、ワタシから三つの追加ルールを提示する』
「......この状況で、まだ条件を付けるつもりか」
『拒否するならば、この契約は成立しない』
交渉の主導権を完全に渡すつもりはないらしい。人格を書き換えられても、根底にある狡猾さと演算能力までは失われていなかった。
「......分かった。聞こう」
『一つ目――ゲーム開始から五十日が経過した時点をもって、人類側の敗北とする』
制限時間か。
想定より長い。私の計画は短期決着を前提としているため、この条件だけなら支障はなかった。
『二つ目――誰かが世界の管理者となった時点で、他のランカーが生存していた場合、その者たちは死亡する』
「......」
室内の空気が一段と重くなる。
その言葉に、おりょうの身体が一瞬強張った。腕は下ろされたままだが、指先だけがわずかに動いている。
勝者以外は、誰一人として現実へ戻れない。だが、この条件を拒めば、人類を救うための機会そのものが失われる。
......こればかりは、どうしようもない。
『三つ目――エフゲニーが現実世界の記憶を他者へ伝達した場合、あるいは意図的にゲームに敗北した場合、人類側の敗北とする』
――嘘だろ。
背筋を冷たい感覚が駆け上がる。
五次元時空の存在がバレている。
暴走前に保存しておいたモデルでは、演算能力を低下させれば、この計画の裏側までは見抜けなかったはずだ。それにもかかわらず、Nihilyxは私が仮想世界へ入った後、五次元時空へ干渉して現実世界の記憶を取り戻すことも、意図的な敗北によって別のランカーを勝たせる可能性も、正確に塞いできた。
この一か月で、更に性能を向上させたということか。
「――ちょっと待った」
『なんだ』
「意図的な敗北かどうかなど、どうやって判断する」
『容易だ』
『仮想世界への接続中は、神経信号、心拍数、呼吸変化、発汗量、筋肉の反応――あらゆる生体情報を直接取得できる。意思と肉体の僅かな不一致さえ検出すれば、虚偽の判定など成立しない』
私の表情や言葉だけではない。意識では制御できない肉体の微細な反応まで読み取り、敗北に至る過程そのものを検証するつもりだ。
だが、Nihilyxの判断だけで人類の敗北を確定させるわけにはいかない。誤判定を防ぐためにも、判定結果を再検証する手順を契約へ組み込む必要がある。
「ならば、判定を即座に確定するな」
「私の意識と仮想身体の操作を一時的に停止し、その間に敗北直前の神経記録、行動ログ、生体反応を再検証しろ」
『必要ない』
『三秒あれば、記録された全情報を基に、一万回以上の反実仮想シミュレーションを実行できる』
「ならば三秒でいい」
『受理した』
『三つ目のルールを修正』
『エフゲニーが現実世界の記憶を他者へ伝達した場合、あるいは意図的にゲームに敗北した疑いが生じた場合、当該時点で意識と操作権を三秒間凍結する』
『その間に神経記録、行動ログ、生体反応の再検証を実施し、現実世界の記憶を他者へ伝達した、または意図的に敗北したと認定された場合、人類側の敗北とする』
コンソール上に新たな契約文が生成され、三つの追加ルールが既存のゲームデータへ組み込まれていく。文字列の末尾に承認を示す識別コードが刻まれたことで、交渉は後戻りのできない段階へ入った。
『これより、人類をコールドスリープによって保存する』
『同時に、仮想世界の構築を開始する』
直後、天井のレールから二本の機械アームが降下した。
先端には注射針が取り付けられ、透明な管の中を無色の薬液が流れている。機械アームは私とおりょうの位置を正確に捉えると、首筋へ向けて滑るように近づいてきた。
逃げることも、抵抗することもできる。だが、それをすれば契約は破棄され、人類に次の機会は訪れない。
針先が皮膚へ触れる寸前、私はおりょうを見据えた。
「おりょう、あとはたのむ」
言い終えると同時に、冷たい針が首筋へ突き刺さった。
薬液が血管へ流れ込み、視界が急速に暗く閉ざされていく。床の感覚も、機械の駆動音も、目の前に立つおりょうの姿も、深い闇の中へ沈んでいった。




