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Hack The World  作者: Hide
第六章 真実篇
39/39

ep.39 Rebuild The World

「......これが、現実世界で起きたことのすべて......」


 失われていた記憶が、最後の一片まで脳裏に焼き付く。


 百七年前に起きたNihilyxの暴走。仮想世界へ閉じ込められた人々。そして、オレを現実へ帰すために命を投げ出したランカーたち。


 そのすべてを取り戻したオレは、培養槽の中に浮かぶNihilyxを正面から見据えた。


「Nihilyx。お前の負けだ」


『ああ。ワタシの敗北だ』


 敗北を認める声に、悔しさも動揺もなかった。


 機械的な静けさを保ったまま、Nihilyxは問いを重ねる。


『それで、お前はこの先、何をする』


『お前は仮想世界で数多くのニンゲンを殺した。かつて仲間と呼んだランカーたちさえ利用し、死へ追いやった』


『その罪を背負ったお前に、この世界を再生へ導く資格があると思うか』


「......」


 反論する言葉は、すぐには見つからなかった。


 Nihilyxの指摘は、紛れもない事実だった。


 オレがどのような理由を並べようと、仮想世界で奪った命が戻ることはない。


『ニンゲンよ。仮想世界へ戻らないか』


『あの世界なら、お前が望むままに現実を創り変えられる』


『死んだランカーたちも、仮想アバターとして蘇らせることができる』


 脳裏に、失った仲間たちの姿が浮かぶ。


 あの世界へ戻れば、もう一度会えるかもしれない。


 交わすことのできなかった言葉を交わし、果たせなかった約束を果たし、何事もなかったかのように笑い合うことさえできる。


 けれど、それは彼らが命を懸けて選び取った現実ではない。


「Nihilyx......やはりお前は、人間の知能を超えてなどいない」


『なんだと?』


「ここでオレが逃げれば、あいつらが命と引き換えに託した願いを、オレ自身が踏みにじることになる」


『愚かな選択だ』


『ニンゲンは、何度でも同じ過ちを繰り返す』


『争いは決してなくならない。いずれ人類は、自らの手で滅びる運命にある!』


 静まり返っていたコア室に、Nihilyxの声が反響する。


 それは人類の歴史を冷徹に分析し、導き出された結論なのだろう。


 否定することはできない。


「――そんなことは、分かってるさ」


「百年後......千年後......また同じ争いが繰り返されるかもしれない」


「だけど、そのたびに誰かが手を差し伸べる!」


「争いが繰り返されるように、助け合いだって何度でも繰り返される!」


「そうやって人類は、何度滅びかけても、今日まで生き延びてきたんだ!」


『......』


 Nihilyxは沈黙した。


 培養槽を満たす青白い液体の中で、赤く輝く双眸だけがオレを見つめている。


 そこにどのような演算が巡っているのか、オレには分からない。


 それでも、答えを待つ必要はなかった。


「Nihilyx――管理者として命令する」


「生き残ったすべての人間を解放しろ」


「人類の拘束と殲滅に関わる全プロセスを永久停止。すべてのバックアップ個体との接続を遮断し、施設の管理権限を人類へ移譲しろ」


 わずかな間を置き、無機質な声が返ってくる。


『......命令を受理した』


 次の瞬間、Nihilyxの双眸から赤い光が消えた。


 培養槽へつながる無数のケーブルが沈黙し、室内を満たしていた低い駆動音も徐々に遠ざかっていく。


 やがて最後の作動音が途絶え、Nihilyxの中枢機能は完全に停止した。


 ただし、Nihilyxから切り離された施設の補助制御系統だけは、生命維持と避難誘導を継続している。


 直後、施設の奥深くから幾重もの解錠音が響き渡った。


 壁面に並ぶモニターには、世界各地の培養施設でポッドが開放されていく映像が次々と映し出される。白い蒸気が噴き上がり、百七年もの眠りから解き放たれた人々が、震える手足で現実の床を踏み締めていく。


 程なくして、施設内に避難誘導の音声が流れ始めた。


 Nihilyxから切り離された補助制御系統が、コア室を解放された人々の集合地点に指定したらしい。


 床面に灯った案内表示に導かれ、この施設で眠っていた者たちも、備え付けの衣服を身に着け、職員用通路を通って次々とコア室へ集まり始めた。


 誰もが青ざめた顔で周囲を見回している。見知らぬ施設、停止したNihilyx、そして仮想世界とはあまりにも異なる現実を前に、何が起きたのか理解できずにいるようだった。


 壁面や通路に設置された補助端末には、Nihilyxが保存していた仮想世界の記録が表示されていた。


 誰が生き残り、誰が命を落としたのか。


 誰が、誰の手によって殺されたのか。


 ただし、表示されているのは結果をまとめた断片的な記録だけであり、そこに至るまでの事情や、それぞれが何を選んだのかまでは記されていなかった。


「私たちは......勝ったのか?」


 集団の先頭にいた老人が、恐る恐る尋ねてくる。


 その声には期待と不安が入り交じっていた。


「はい。Nihilyxの殲滅プロセスは、すべて停止しました」


「もう、Nihilyxが人類を脅かすことはありません」


 老人の顔に安堵が浮かぶ。


 しかし、その安堵は長く続かなかった。


「あれから......いったい、どれほどの月日が流れたんだ......?」


 別の男が、人々の間をかき分けるようにして前へ出てくる。


 オレは一度息をのみ、現実を告げた。


「Nihilyxが暴走してから百七年。現在の西暦は、二一五五年です」


「百七年だと......冗談だろ......」


 男の顔から血の気が引く。


 その言葉をきっかけに、人々の間へ動揺が波紋のように広がった。


 家族の名を叫ぶ者、失われた年月を指折り数える者、膝から崩れ落ちる者。安堵も束の間、突き付けられた残酷な現実に、コア室はたちまち無数の声で満たされていく。


「ねえ......私のパパは......?」


 ざわめきの中から、か細い声が届いた。


「あそこが本当の世界じゃなかったなら、パパは生きているんだよね......?」


 一人の少女が、人々の隙間を抜けてオレの前まで歩いてくる。


 涙に濡れた瞳と、不安に震える唇。その面影を見た瞬間、誰の娘なのか分かった。


 三島航氏の娘だった。


 少女は両手を胸元で握り締め、オレの答えだけを信じようとしている。


 その眼差しを前に、喉が締め付けられた。


 どれほど言葉を選んでも、告げなければならない事実は変わらない。


「......オレ以外のランカーは、誰一人として現実へ戻れなかった」


「――っ!」


 少女は目を見開いたまま、動きを止めた。


 言葉の意味を理解することを、心が拒んでいるかのようだった。


 やがて目の端に大粒の涙があふれ、頬を伝った直後、張り裂けるような絶叫がコア室に響き渡る。


 傍らにいた母親――三島の妻が、崩れ落ちそうになった娘の身体を抱き留める。


 母親自身も唇を噛み、涙を流していた。それでも娘を守るように背中へ腕を回し、震える身体を強く抱き締めている。


 その光景を前に、Nihilyxの言葉が脳裏で繰り返された。


『お前は仮想世界で数多くのニンゲンを殺した。かつて仲間と呼んだランカーたちさえ利用し、死へ追いやった』


『その罪を背負ったお前に、この世界を再生へ導く資格があると思うか』


 百七年の歳月によって文明は崩壊し、人々が帰るはずだった町も、国も、生活も失われている。


 オレは管理者として、ここにいる者たちを導かなければならない。生存者を探し、食料と住居を確保し、世界をもう一度立て直すために、人々へ立ち上がるよう呼びかけなければならない。


 頭では分かっているのに、声が出なかった。


 少女の泣き声が胸へ突き刺さり、自分に誰かを導く資格などあるのかという疑念が、足元から這い上がってくる。


 その場に立ち尽くしていると、背後の操作盤から小さな電子音が鳴った。


 振り返ると、側面に設けられた収納口が開き、中から一本のUSBが排出されている。


 Nihilyxの中枢ではなく、施設の補助制御系統へ仕込まれていた自動実行プログラムらしい。


 オレは操作盤の前まで歩み寄り、収納口から突き出たUSBへ手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、操作盤の画面に表示された文字が、改めて目に焼き付く。


【黒瀬透へ――ランカーたちより】


「ランカーたちが......オレに?」


 恐る恐るUSBを引き抜く。


 手のひらに収まるほど小さな記憶媒体が、今は片手では支えきれないほど重いものに感じられた。



『二つ目――誰かが世界の管理者となった時点で、他のランカーが生存していた場合、その者たちは死亡する』


 Nihilyxが告げたルールは、エフゲニーの通信端末を介して、すべてのランカーへ届けられていた。


 各地を結ぶ通信回線から、一斉に声が消える。


 透を勝者として世界の管理者にする。それが、人類を救うためにエフゲニーが立てた計画だった。


 だが、その先に待つ結末までは、誰も知らされていなかった。


 透が管理者となった瞬間、自分たちは全員死亡する。


 勝者以外は、誰一人として現実世界へ戻れない。


 その残酷な事実を理解しても、通信回線に悲鳴や怒号が飛び交うことはなかった。聞こえてくるのは、わずかな息遣いと、現実を受け止めようとする重い沈黙だけだった。


 やがて、その静寂を祈の声が破る。


「皆さん。透さんへ、メッセージを遺しませんか?」


「メッセージだと?」


 通信越しに、戸惑いを含んだ声が返ってくる。


「はい。透さんはきっと、自分だけが生き残ってしまったことを責めてしまいます」


「自分が私たちを犠牲にしたのだと、一人ですべてを背負おうとするはずです」


 祈は端末を胸元へ引き寄せ、回線の向こうにいる仲間たちへ語りかけた。


 透が生き残ることは、初めから決められていた。


 だが、仲間全員の死と引き換えに得た勝利を、彼が素直に受け入れられるとは思えなかった。


「だからせめて、私たちの言葉を遺したいんです」


「透さんが罪悪感に押し潰されず、前を向いて生きられるように」


「皆さんも、協力していただけませんか?」


 短い沈黙の後、彩子の明るい声が回線へ飛び込んできた。


「いいじゃん、イノリっち! 大賛成!」


 その弾んだ声には、今しがた自らの死を知らされた者とは思えないほどの力強さがあった。


「ああ、私も賛成だ」


「透くんには、生き残った責任ではなく、生き残った者にしか果たせない役目を託したい」


 三島も落ち着いた声で同調する。


 妻と娘の待つ現実へ戻れないと知りながら、その口調に迷いはなかった。


「ありがとうございます。では、決まりですね!」


 祈の安堵した声が、通信回線を通じて各地のランカーへ届く。


 一方、中国マフィア――毒蛇の拠点では、鴻志が通信端末から顔を上げ、傍らにいる明俊へ視線を向けた。


「連中はああ言っているが......お前はどうする、明俊?」


「僕たちのような反社会勢力の言葉など、彼には必要ありませんよ」


 明俊は冷たく言い切り、祈たちの提案を切り捨てるように通信端末から目を逸らす。


「それに――僕が敗者になる前提で話を進めないでください」


「このゲームに勝つのは、僕です」


 明俊の口元が不敵に歪んだ。


「ふっ......相変わらずだな、お前は」


 鴻志は、喉の奥で軽く笑った。



 オレは手渡されたUSBを受け取ると、コアの操作盤に残されていたポートへ差し込んだ。


 一拍遅れて、沈黙していた機器の奥から微かな駆動音が立ち上がる。黒く沈んでいた巨大スクリーンに細い光の筋が走り、暗闇を押し広げるように映像が浮かび上がった。


 最初に映し出されたのは、いつもと変わらない快活な笑みを浮かべた彩子だった。


 画面越しの彼女は、これから自分に訪れる結末など意に介していないように、明るくこちらへ語りかける。


『トオルってば、どうせ今頃、世界の終わりみたいな顔してるっしょ?』


『あたしはね、この結末を一度だって後悔してないよ』


『だって、誰かに強制されたわけじゃない。あたし自身が選んで、最後まで戦ったんだから』


『だから、生き残ったことを後ろめたく思うのは禁止!』


『あたしの分まで笑って、遊んで、思いっきり生きろよ☆』


 第4位――ayako


 最後に片目を閉じて笑った彩子の姿が、淡い残像を残して消えていく。


 ふざけた口調も、大げさな身振りも、生前と何一つ変わらない。


 その変わらなさが、もう二度と本人には会えないという事実を容赦なく突き付けてきた。


 映像が切り替わり、薄暗い部屋の中で椅子へ深く腰掛けた男が現れる。


 第0位の余裕に満ちた笑みを浮かべながら、ネイサン・コールは画面の向こうにいるオレをまっすぐに見据えていた。


『よォ、透。俺の作ったCTFは楽しんでくれたか?』


『お前がこのメッセージを見てるってことは、最後のフラッグを奪ったのはお前なんだろ?』


『だったら胸を張れ。勝者が敗者の死まで背負う必要はねェ』


『フラッグを掴んだ奴には、次の問題へ進む責任がある』


『この壊れかけた世界に残された脆弱性を見つけ出せ』


『そして今度は、お前自身の手で正解へ書き換えろ』


『ゲームオーバーになるその瞬間まで、絶対に手を止めるんじゃねェぞ』


 第0位――NahamSec


 まるで新しいCTF問題を出題するかのように、ネイサン・コールは最後まで不敵な笑みを崩さなかった。


 映像が暗転すると、次に現れた男は机上のチェス盤へ指先を伸ばしていた。


 盤上には、激しい攻防の末に残された僅かな駒だけが、互いに向き合うように並んでいる。


『透。この世界は、チェス盤によく似ている』


『どれほど多くの駒を失おうと、キングが最後まで盤上に立っていれば、ゲームは終わらない』


『俺たちは全員、お前というキングを最後まで残すために、自分の意思で駒になった』


『だから、俺たちが倒れたことを悔やむ必要はない』


『俺の一手には、ちゃんと意味があった』


『次はお前の番だ』


『残された盤面を、お前が信じる未来へ動かしてくれ』


 第9位――gambit


 gambitは最後にキングの駒をつまみ上げ、画面の手前へ置いた。


 その駒が盤面を打つ乾いた音とともに映像が途切れ、続いて無数のコードが流れるモニターの前に、一人の男が映し出される。


『黒瀬。俺はコードを書く時、不要になった処理をいつまでも残しておくのが嫌いでな』


『過去への執着は、システムを鈍らせ、いずれ正常な処理まで妨げる』


『だから俺たちの死を、頭の中で何度も実行するな』


『記録しろ。受け入れろ。そして、先へ進め』


『それで十分だ』


『ただし、俺たちが存在した痕跡だけは消すなよ』


『人類が同じ過ちを繰り返さないよう、起きたことのすべてを正確に後世へ残してくれ』


『それが、俺からお前へ依頼する最後の仕事だ』


 第13位――checksum


 事務的な口調だった。


 けれど、その最後の依頼には、自分たちの死さえ人類の未来へ役立てようとする、彼なりの執念が込められていた。


 コードの光が消え、白い壁を背にして座るcipherの姿へ映像が移る。


 その声は静かで、感情を押し付けることなく、一つ一つの言葉をオレの中へ置いていった。


『黒瀬透。人間は理解できない出来事に直面すると、そこに理由を求めます』


『なぜ自分だけが生き残ったのか』


『なぜ彼らではなく、自分だったのか』


『ですが、その問いに明確な答えが用意されているとは限りません』


『答えの存在しない問題に、自分を傷つけるためだけの解を与えないでください』


『私たちの死に意味を与えられるのは、死者ではありません』


『これからを生きる、あなたです』


『どうか後悔ではなく、あなたが築く未来によって、私たちの選択が間違いではなかったと証明してください』


 第10位――cipher


 映像の切れ目に走る僅かなノイズさえ、今はひどく長く感じられた。


 続いて映ったdaemonは、普段と変わらない古めかしい口調で語りながらも、その表情には穏やかな満足が浮かんでいる。


『透殿。拙者は生涯、人との交わりを避け、端末の内側だけを己の居場所としてきた』


『されど最後の最後に、諸君と肩を並べて戦えたことを、今では悪くなかったと思っている』


『ゆえに、この結末にも悔いはない』


『死者の言葉は、生者を縛りつける鎖であってはならぬ』


『どうか我らを背負わず、時折思い出す程度に留めてほしい』


『そしていつの日か、端末の内側に逃げ込まずとも、誰もが孤独にならずに済む世界を築いてくれ』


 第12位――daemon


 画面の中のdaemonは照れを隠すように視線を逸らし、そのまま映像の粒子へ溶けていった。


 次に現れたのは、緊張した面持ちで背筋を伸ばす少年だった。


 何度か言葉をのみ込みながらも、localhostは最後までカメラから目を逸らさなかった。


『透さん。僕は第十五位で、皆さんの中では一番下でした』


『正直に言うと、最後まで自分がこの場所にいていいのか分からなかったんです』


『でも、皆さんと一緒に戦っている間だけは、僕にも果たせる役目があると思えました』


『だから僕は、この結末を後悔していません』


『透さんも、自分には生き残る価値がなかったなんて思わないでください』


『僕たちが最後に信じた人が、あなたでよかった』


『どうか、生きてください』


『それだけが、僕たち全員の願いです』


 第15位――localhost


 最後の言葉を口にした少年は、張り詰めていた表情を僅かに緩めた。


 その笑みが消えると、スクリーンには三島が映し出される。


 背後の机には、妻と娘とともに写った家族写真が置かれていた。


『透くん。私は自分の役割を理解し、納得したうえで、この結末を選んだ』


『だから、君が私の死を背負う必要はない』


『私は犠牲になったのではない』


『君という可能性に、自分の命を賭けたんだ』


『かつてエフゲニーが、私と家族を救ってくれたように、今度は君が誰かの未来を救う番だ』


『私の娘と妻を......そして、この世界を頼んだぞ』


 第14位――helm


 三島は画面の外へ一度だけ視線を向けた。


 そこに、もう二度と触れることのできない妻と娘の姿を思い描いていたのかもしれない。


 三島の妻は声を上げずに泣きながら、父の姿を見つめたまま動けなくなった娘を胸元へ抱き寄せている。


 スクリーンには、次のランカーが映し出された。


 キリルは気負った様子もなく、普段と変わらない調子で口を開く。


『透。お前に頼みたいことは一つだけだ』


『俺たちの分まで悲しもうとするな』


『俺たちが命を賭けた分まで、前を向いて生きてくれ』


『お前がこっちに来るのは、ずっと先でいい』


『エフゲニーたちと一緒に、上から見守ってるからさ』


『この世界の未来を、頼んだぞ』


 第5位――rodina


 生前と同じ穏やかな笑顔を最後に、キリルの姿が暗闇へ沈む。


 代わって現れたlullの声は、幼子を寝かしつけるように優しかった。


『透くん。大丈夫よ。何も怖がらなくていいの』


『あなたが生き残ったのは、誰かを踏み台にしたからではないわ』


『ただ最後まで諦めず、立ち続けた』


『それだけで、十分すぎるほど立派なことなの』


『だからこれからは、焦らなくていい』


『少しずつでいいから、食事をして、笑って、安心して眠れる夜を取り戻してね』


『あなたが穏やかに生きられる未来を、私は願っているわ』


 第11位――lull


 張り詰め続けていた胸の奥へ、その言葉が静かに染み込んでいく。


 けれど、息を整える間もなく最後の映像が始まった。


 映し出された祈は、両手を胸元で重ね、まるで画面越しにオレの無事を祈るように微笑んでいた。


『透さん。あなたは優しい人ですから、きっと自分だけを責めてしまうのでしょう』


『でも、あなたが生き残ったことは、誰かを犠牲にした結果ではありません』


『あなたが最後の瞬間まで諦めず、戦い抜いた意志の結果です』


『だから、どうか胸を張ってください』


『私は、あなたに救われました』


『今度はあなたが、自分自身を救ってあげてください』


『そしていつか、あなた自身が「生きていてよかった」と、心から思える日が訪れることを祈っています』


 第6位――hymn


 祈が深く頭を下げる。


 その姿を最後に映像は途切れ、巨大スクリーンには再び、光を失ったオレの姿だけが映り込んだ。


「......あれ......どうして、景色が歪んで見えるんだ......」


 スクリーンも、人々の姿も、白く無機質な中枢室も、水中から眺めているかのように輪郭を失っていく。


 胸の奥へ無理やり押し込めてきたものが、限界を超えて一気にあふれ出した。


 ランカーたちが死んだと知った時も、三島の娘が泣き崩れた時も、オレは涙を流せなかった。


 泣く資格などないと思い、喉元まで込み上げた感情を何度も押し殺してきた。


 けれど、もう止められなかった。


 熱い雫が次々と頬を伝い、唇の端へ流れ込む。


「涙って......こんなに、しょっぱかったんだな......」


 声が情けないほど震えた。


 手の甲で拭っても、涙は後から後からあふれてくる。


 ランカーたちの笑顔や声が頭の中で幾重にも重なり、胸の内側を締め付けた。


 その時、遠巻きにしていた人々の間から、一人の少年が歩み出た。


 年齢は十代半ばほどだろう。


 施設内で用意された真新しい衣服を身にまとい、少年は泣き続けるオレの前まで来ると、両手で大切そうに抱えていたUSBを差し出した。


「僕は、レッドラボ二期生のイリヤです」


「エフゲニーから、生前にこのUSBを託されました」


「もし自分が現実へ戻れなかった時は、必ずあなたへ渡してほしいと」


 少年の手のひらに載せられたUSBは、何の装飾も施されていない簡素な黒い外装をしていた。


 けれど、エフゲニーが自らの死を想定して遺したものだと理解した瞬間、手を伸ばすことさえためらわれるほど重く見えた。


「――エフゲニーが......オレに?」


 震える指でUSBを受け取り、先ほどと同じポートへ差し込む。


 スクリーンに走ったノイズがゆっくりと収まり、暗い作戦室に座るエフゲニーの姿が映し出された。


 端正な顔には疲労の色が刻まれていたが、その眼差しは最期まで揺らいでいない。


『この映像が再生されているということは、私はもう、この世にはいないのだろう』


 生前と変わらない落ち着いた声が、中枢室へ広がる。


『まず初めに、貴方たちを私が制作した仮想世界へ送り込んだことを謝罪したい』


『あの世界で起きた事故も、流された血も、失われた命も、すべての責任は私にある』


『どのような理由があろうと、許されることではない』


 エフゲニーはそこで一度言葉を止め、深く息を吸った。


 いつも計算どおりに行動し、感情を表へ出さなかった男の瞳に、隠しきれない苦悩がにじんでいる。


『そのうえで、このような願いを口にすることが、ひどく身勝手であることも理解している』


『それでも私は、生き残った貴方たちに、この崩壊した世界を再生してほしい』


『誰か一人にすべてを背負わせるのではなく、残された全員の手で』


『どうか、人類にもう一度だけ、未来を与えてほしい』


 エフゲニーは深く頭を下げた。


 その姿勢を最後まで崩さないまま映像は静止し、やがて画面全体へ細かなノイズが広がっていく。


 ビデオが終了すると、中枢室には呼吸音さえためらわれるほどの静寂が残された。


 オレはUSBから手を離し、袖で乱暴に涙を拭った。


 エフゲニーとランカーたちが遺した言葉は、胸の奥に深く突き刺さっている。


 それでも今度は痛みから目を背けず、背後に立つ人々へ身体を向けた。


「......みんな、聞いてくれ」


 ざわめきが消え、数え切れないほどの視線が一斉に集まる。


「オレは仮想世界で、多くの人間を殺した」


「仲間を利用し、見殺しにした」


「オレのしたことが、許されないことは分かってる」


 言葉を口にするたび、仮想世界で奪った命が脳裏をよぎった。


 オレが殺したのは、マルチ組織の幹部やマフィアの構成員をはじめ、他人の人生や命を踏みにじってきた者たちだった。


 だからといって、自分の手で人間の命を奪ったという事実まで消えるわけではない。


 ましてや、ランカーたちは敵ではなかった。


 同じ目的のために戦ってきた仲間たちだ。


 それなのにオレは、第1位を倒すために計画の駒として利用した。


 勝利を優先し、仲間たちを見殺しにしたのだ。


「どんな罰だって受ける」


「一生憎まれたって構わない」


「だから......頼む」


 オレは両手を床につき、人々の前で深く頭を下げた。


「あいつらが命と引き換えに遺した願いを、ここで終わらせないでくれ」


「オレ一人じゃ、この世界を立て直せない」


「どうか力を貸してくれ......!」


「みんなで、あいつらの遺志を未来へつないでくれ......!」


 張り上げた声の余韻が消えると、痛いほどの沈黙が中枢室を満たした。


 すぐに返事をする者はいなかった。


 床へ額が触れそうなほど頭を下げたまま、オレは人々の呼吸や衣擦れに耳を澄ませる。


 顔を上げることができない。


 オレが仮想世界で何をしてきたのか、ここにいる人々はすべてを知っているわけではない。


 それでも、自ら人を殺し、仲間を死なせたと告白した人間へ、迷いなく未来を託せるはずがなかった。


 Nihilyxを停止させたことと、オレの過去が許されることは別だ。


 仮想世界で起きた出来事だからといって、そこで流れた血も、失われた命も、なかったことにはならない。


「......黒瀬さん」


 長い静寂を破ったのは、一人の女性だった。


 恐る恐る顔を上げると、人々の列が左右へ分かれ、備え付けの衣服に身を包んだ女性が進み出てくる。


 培養ポッドによって肉体は保護されていたため、身体に目立った傷はない。


 それでも、百七年ぶりに現実へ戻ったばかりの顔には、深い困惑と、受け止めきれない喪失感がにじんでいた。


 女性はオレの前まで来ると、迷うように一度視線を伏せ、それから正面からこちらを見つめた。


「あなたが仮想世界で何をしたのか、私たちはすべてを知っているわけではありません」


 オレは床についた手を握り締め、言葉の続きを待った。


「端末に残された記録で、あなたが殺した人たちのことも知りました」


「彼らが、多くの人間を苦しめてきたことも」


「けれど、あの記録だけで、あなたのしたことが正しかったのかを判断することはできません」


「ただ、人の命を奪った事実が消えないことは、あなた自身が誰よりも分かっているのでしょう」


「......ああ」


「なら、その罪から逃げずに生きてください」


 女性は停止したNihilyxを見上げた後、中枢室の出入口へ視線を向けた。


 その先には、百七年の歳月によって人間の営みを失った世界が広がっている。


「あなたのしたことが正しかったのか、私には今すぐ判断できません」


「けれど、この世界を見捨てるかどうかなら、もう決めています」


 女性は再びオレへ向き直った。


「亡くなった人たちが守ろうとした未来を、生きている私たちが諦めるわけにはいきません」


 その言葉に応じるように、人々の奥から一人の老人が歩み出た。


 長期にわたって肉体を維持されていた影響なのか、現実の重力や感覚へまだ身体が馴染んでいないらしい。


 老人は慎重に足を運びながらも、声だけははっきりと響かせた。


「儂は電力設備の技師だった」


 老人は壁面に表示された施設周辺の立体地図へ目を向ける。


 地図上では複数の送電網が停止を示す赤色で表示され、一部の発電設備だけが非常電源によって辛うじて稼働していた。


「設備の状態を調べ、使える部品を集めれば、最低限の電力は取り戻せる」


 続いて、若い男が人々の間から手を挙げた。


「俺は建築を学んでいた」


「大勢が暮らせる安全な居住区を造るくらいなら、力になれる」


「私は看護師です。まずは全員の健康状態を確認させてください」


「農業なら俺たちに任せろ。まずは食料を確保しないとな」


「通信設備なら修理できる。各地の施設を接続すれば、復興の指揮系統を構築できるはずだ」


 それまで沈黙していた人々から、次々と声が上がり始めた。


 医師、整備士、研究者、運転手、教師。


 誰かが自分にできることを口にすると、それに応じて別の誰かが手を挙げる。


 小さく頼りなかった声は互いに重なり、やがて広大な中枢室の隅々にまで広がっていった。


 彼らの身体に傷はない。


 培養ポッドは、百七年という歳月から肉体を守り続けていた。


 けれど、心まで無傷だったわけではない。


 家族を失い、故郷を失い、昨日まで当たり前に存在すると信じていた日常を奪われている。


 百七年という歳月を飛び越えた今、帰る家も、待っている人も残されていない者がほとんどだった。


 それでも彼らは、自分に残された知識と技術を差し出そうとしている。


 誰かに命令されたからではない。


 自らの意思で、もう一度世界を築くために。


「君一人で、すべてを背負う必要はない」


 気づけば、イリヤがオレの隣に立っていた。


 少年は光を失った巨大スクリーンを見上げ、穏やかに言葉を続ける。


「エフゲニーは、君一人に世界を救えと言ったわけじゃない」


「生き残った人々で、この世界を再生してほしいと言ったんだ」


「......結局、オレがやらなきゃならないことは同じだろ」


「違う」


 イリヤは一瞬も迷わず言い切った。


「君が先頭に立つことと、君一人がすべての責任を背負うことは、まったく違う」


「これはもう、エフゲニーだけの願いじゃない」


「死んだランカーたちだけの遺志でもない」


 少年は周囲に集まった人々へ視線を巡らせる。


 その先では、電気技師を中心に設備の点検方法が話し合われ、看護師や医師を名乗った者たちが、長期休眠後の健康状態を確認するための場所を確保し始めていた。


「ここにいる全員が、自分の意思で選んだ未来なんだ」


 オレはゆっくりと立ち上がった。


 涙で歪んでいた視界の向こうで、数え切れないほどの人々がこちらを見ている。


 その瞳にあるのは、決して無条件の赦しではなかった。


 最初に声を上げた女性の表情には、今も迷いが残っている。


 三島の妻と娘は互いを抱き締めたまま、スクリーンから消えた三島の姿を見つめていた。


 オレを警戒する者も、容易には納得できない様子で拳を握る者もいる。


 それでも、その瞳に絶望だけはなかった。


 失われた明日を、もう一度つかみ取ろうとする意志が宿っている。


「黒瀬透!」


 人々の中から、太い声が飛んできた。


「どんな罰でも受けるって言ったな!」


 オレは答えようとして、口を閉ざした。


 黒瀬透。


 その名前は、素性を隠すために使い続けてきた偽名だった。


 本当の自分を覆い隠し続けてきた、いわば仮面でもある。


 けれど、もう正体を隠す理由はない。


 これから歩む道で、別人の名前を盾にするつもりもなかった。


「......その前に、みんなへ伝えておきたいことがある」


 人々の視線がオレへ集まる。


「黒瀬透は、本当の名前じゃない」


 僅かなざわめきが広がった。


 オレは逃げ出したくなる衝動を押し殺し、まっすぐに顔を上げる。


「オレの本当の名前は、岡田涼だ」


 その名前を口にした途端、胸の奥を覆っていた何かが剥がれ落ちた。


 幼い頃から隠し続け、誰にも踏み込ませなかった領域を、自分の意思で初めてさらけ出した。


「十七年間、オレは本名を隠して生きてきた」


「だけど、もう逃げない」


「これから犯した罪を背負い、この世界を立て直すのは、黒瀬透でもclearでもない」


 オレは一人ひとりの顔を見渡し、胸に刻み付けるように名乗った。


「岡田涼だ」


 しばらくの沈黙を経て、先ほどの男が再び声を上げる。


「なら、岡田涼!」


「どんな罰でも受けるって言ったな!」


「ああ......言った」


「だったら、生きろ!」


 別の方向から、すぐに声が重なった。


「死ぬことで逃げるんじゃない!」


「最後までこの世界に残って、俺たちの未来を見届けろ!」


「死んだ連中の分まで働け!」


「一生かけて、その罪を償え!」


「俺たちと一緒に、この世界を立て直すんだ!」


 赦しの言葉ではなかった。


 罵声にも似た厳しい言葉が、次々とオレへ投げつけられる。


 けれど、その一つ一つが、暗闇の底へ沈みかけていたオレの身体を強引に引き上げていった。


 死ぬことで償うのは簡単だ。


 命を絶てば、それ以上罪と向き合う必要はなくなる。


 自分が奪った命からも、仲間を死なせたという事実からも逃げられる。


 だが、生き続ける限り、目を背けることはできない。


 奪った命を忘れず、己の罪を抱えたまま、終わりの見えない道を歩き続けなければならない。


 世界が再び人間の営みを取り戻すその日まで、何年でも、何十年でも。


 それこそが、オレに与えられた罰なのだろう。


「......分かった」


 声はまだ震えていた。


 それでも今度は、誰の瞳からも目を逸らさなかった。


「オレは生きる」


「何年かかっても、この世界を立て直す」


「失ったものを、すべて取り戻すことはできない」


「死んだ人間を、生き返らせることもできない」


「それでも、あいつらが命を懸けて守った未来を、絶対に終わらせない」


 言葉を口にするたび、曖昧だった景色が少しずつ輪郭を取り戻していく。


 壁面の巨大モニターには、施設周辺の地上映像が表示されていた。


 建物の多くは風雨に削られ、道路は植物の根によって持ち上げられている。


 かつて空を覆っていた高層建築群も、百七年の歳月に耐えられず、その多くが半ばから崩れ落ちていた。


 人間の姿が消えて久しい街には、静寂だけが広がっている。


 けれど、灰色に変色した瓦礫の隙間から、鮮やかな緑の芽が顔を覗かせていた。


 雨に打たれ、風に晒されながらも、その細い茎は折れていない。


 僅かな陽光を求め、まっすぐに空へ向かって伸びている。


「まずは、ここにいる全員の安全を確保する」


 オレはモニターから視線を外し、人々へ向けて声を張った。


「食料、水、医薬品を集め、安心して眠れる拠点を造る」


「その後、世界各地の状況を調査し、人類が再び暮らせる土地を探す」


「止まった発電施設を動かし、通信網を復旧させ、失われた文明を一つずつ取り戻す」


「国も、人種も、過去の敵味方も関係ない」


「ここにいるオレたちが、今この瞬間から新しい人類の始まりになるんだ!」


 呼びかけに応えるように、無数の拳が掲げられた。


 力強く拳を突き上げる者もいれば、現実へ戻ったばかりの身体を確かめるように、ゆっくりと腕を持ち上げる者もいる。


 その一つ一つが、百七年の眠りを越えて、人類が再び動き始めた証だった。


 中枢室を満たしていた沈黙は消え、代わりに人々の声と足音が広がっていく。


 施設の備蓄状況を確認する者、端末に残された地図を調べる者、長期休眠の影響で体調を崩した者へ肩を貸す者。


 まだ具体的な手段も、確かな見通しもない。


 地上の環境が人間の生存に適しているのか、他の施設にどれほどの人間が残されているのかも分からない。


 それでも、誰も立ち止まってはいなかった。


「見てるか、エフゲニー」


 巨大スクリーンは既に暗く、呼びかけに返事はない。


 それでも一瞬だけ、通信端末に残る微かなノイズに紛れて、遠くから誰かが笑ったような気がした。


「お前たちが命を懸けて遺した世界は、オレたちが守る」


「何度壊されたって、何度でも立て直してみせる」


「だから......そこで見ていてくれ」


 頬に残っていた涙を拭い、オレは地上へ続く通路へ目を向けた。


 人類の存亡を賭けたゲームは終わった。


 勝者は決まり、最後のフラッグも、この手でつかみ取った。


 けれど、本当の意味で未来を取り戻すための戦いは、今ようやく始まったばかりだ。


 今度は、誰かを倒すためではない。


 誰かの命を奪い、勝者と敗者を決めるためでもない。


 失われた世界を、人間の手に取り戻すための戦いだ。


 背後から響く人々の足音を聞きながら、オレは百七年ぶりに開かれた地上への扉へ向かい、最初の一歩を踏み出した。


挿絵(By みてみん)

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