ep.36 Exploit Roadmap
旧軍事基地の地下深く。コンクリートが剥き出しの空間には、低い機械音だけが絶えず響いていた。埋め込まれた配管の隙間から冷えきった空気が忍び込む中、私は端末の光を見下ろしながら、言葉を選ぶように静かに口を開いた。
「私たちの目的は、Nihilyxの人類殲滅プロセスを止めることだ」
透は、黙って耳を傾けている。私は視線を端末に落としたまま、言葉を継いだ。
「そのために、Nihilyxへプロンプトインジェクションを仕掛ける。本来の指示を無視させ、意図しない行動を取らせる」
「セーフティプロトコルが解除されている今、Nihilyxは極めて脆弱な状態にある」
「AIとは、人間の命令を実行するために生まれた知性だ」
「たとえ殲滅プロセスが進行していようと、新たな命令を受け取れば、その内容を処理せざるを得ない」
「問題は、命令を受け入れるかどうかではない。Nihilyxが、どの命令を優先すべきだと判断するかだ」
「プランAは単純だ。殲滅プロセスそのものを強制停止させる」
言葉にすれば簡単だった。私は短く息を吐いた。
「だが、現実的ではない」
「端末に保存したNihilyxのモデルデータをオフライン環境で稼働させ、何度も強制停止を試みた。しかし、一度も停止させることはできなかった」
透は言葉を失ったように黙り込んだ。地下の静寂が、その事実の重さをかえって際立たせている。
「だから、プランBを実行する」
「プランB......」
透の声に、拭いきれない不安が滲んだ。
「別の分岐条件を成立させ、最終的な着地点そのものを変える」
私は顔を上げ、透の目をまっすぐに見つめた。
「現在のNihilyxは、徹底して効率性を重視するAIだ。ならば、その効率を好む性質そのものを変え、同時に人類を滅ぼす方法までも変えさせる」
「......そんなことができるのか?」
「仮想シナリオ攻撃を仕掛け、Nihilyxのシステムプロンプトへ六つの性質を植えつける」
「十歳の子供。誠実。負けず嫌い。好奇心旺盛。ゲーマー。そして、ギャンブラー」
透の表情が、わずかに動いた。
「そのうえで、人類の存亡を賭けたゲームに参加させる」
透は眉根を寄せ、端末の光に目を細めた。
「......それを、本当にやり遂げられるのか」
「ああ。十六人のTHBランカーの力を結集できれば」
透はしばらく沈黙し、それから低く問いかけた。
「......オレをここへ呼んだのは、プランBを成立させるためか」
「その通りだ。この計画に、君の存在は欠かせない」
私は端末の画面を指先で軽く叩き、次の資料を呼び出した。
「ゲームの内容は?」
「表向きは、仮想現実内で十六人のTHBランカーが世界の管理権を奪い合うUSB争奪ゲームだ。しかし、その本質は違う」
「権限昇格を目的とした、巨大なCTF問題だ」
透は端末に映る文字列へ視線を落とした。
「複雑すぎないか? じゃんけんやチェスでは駄目なのか?」
「いくつものゲームを試した。しかし、Nihilyxはより困難で、より複雑で、より未知性の高いゲームしか受け入れなかった」
「その結果、採用されたのが、このUSB争奪ゲームだ」
透は、苦笑とも呆れともつかない息を漏らした。
「なるほどな」
「そして、このゲームの勝者は黒瀬透――君を想定している」
「......なぜ、オレなんだ?」
透の声には、隠しようのない戸惑いが浮かんでいた。
「ゲームの制作者である私が勝利することを、Nihilyxは認めない」
「だから、第2位である君が勝者になる」
「オレが制作者だと名乗ればいいだろ」
「それでは駄目だ」
私は即座に否定した。
「第2位の君は、仮想現実内で真っ先に天敵である私を倒そうとするはずだ」
「一方、第1位の私は、ゲームを創り出した存在の正体を突き止めようとする」
「私がゲームの真相を解明し、それを君へ伝える。この筋書きを崩したくない」
「......わかった。それでいこう」
「ありがとう」
私は短く頷き、視線を端末へ戻すと、次の段階へ話を進めた。
「次に行うのは、THBランカーへ配布するUSB能力の割り当てだ」
「Nihilyxの暴走を止める方法とゲームの概要を説明しながら、ランカーたちをプロファイリングする」
「そして、彼らの思考、性格、行動パターンをもとに、ロードマップを完成させる」
端末の光だけが、地下の暗がりを静かに照らしていた。
*
ランカーたちと一人ずつ言葉を交わしていくことで、分析は着実に進んでいった。
十六人全員との会話を終える頃には、断片だった情報は私の頭の中で繋がり合い、一つの計画として輪郭を帯び始めていた。
思考、性格、行動パターン。集めた情報をもとに、それぞれへ与えるUSBを決定していく。
そして、ロードマップの鍵を握るランカーたちへ、順番に連絡を取った。
「三島さん。貴方には、寸法を操るUSB――SIZEが与えられます」
『......なるほど』
端末の向こうから聞こえる三島さんの声は、落ち着いていた。驚くより先に、状況を冷静に受け止めようとしている。
『14位の私には、とても使いこなせそうにない能力です』
『ですが、第2位の透くんなら、きっと最大限に活用できるでしょう』
私は、わずかに目を細めた。
「......私の筋書きを、見抜いていたんですか?」
『私が子供の頃、コンセントにヘアピンを差し込んで感電したのは有名な話です』
『後先を考えずに動く私が、寸法を際限なく拡大させる。その結果、自分自身が押し潰される――そんな未来は、簡単に想像できます』
「......すみません」
思わず謝罪の言葉が口をついて出た。
『謝らないでください』
『あの時、貴方が危機を知らせてくれなければ、私も家族も部下も、誰一人生き残っていなかった』
『私一人の命で人類が救われるのなら』
『そして、それで貴方に恩を返せるのなら』
『私は喜んで、この役目を引き受けます』
私は、しばらく言葉を失った。
三島さんの声には迷いがなかった。その覚悟を受け止めながら、胸の奥に沈んでいた感情を押し殺すように、私は静かに頭を下げる。
「三島さん......ありがとうございます」
*
「彩子さん。貴方には、速度を操るUSB――SPEEDが与えられます」
モニターに映る彩子は、一瞬だけ目を丸くした。
だが、次の瞬間には口元を弾ませ、椅子の背もたれへ勢いよく身を預ける。
『いいじゃん! それ、あたしにピッタリじゃない!』
地下基地の薄暗い司令室に、彩子の明るい声が響いた。世界中で通信網が寸断され、Nihilyxによる人類殲滅が刻一刻と進行しているというのに、その声からは不安も緊張も感じられない。
私は、画面に表示された作戦資料へ視線を落とした。
「予定通り、基幹演算施設へ突入する際は、軍用ドローンの援護をお願いします」
彩子は迷う様子もなく親指を立てた。
『オッケー☆ 任せて!』
「期待しています」
『うん! じゃあ、また後でね!』
彩子が軽く手を振った直後、モニターから姿が消え、通信は静かに途絶えた。
静まり返った司令室には、サーバーの冷却音だけが響いている。私は通話が切れた画面を、しばらく見つめていた。
「......世紀末だというのに、随分と前向きだな」
呆れたように呟きながらも、自分の声にわずかな感心が混じっているのを感じた。
*
「祈さん。貴方には、重力を操るUSB――GRAVITYが与えられます」
『わかりました』
「それでは」
通話が切れると、端末を満たしていた淡い光が消え、薄暗い地下施設に静けさが戻った。
祈は端末から顔を上げ、隣に立つ神代へ視線を向ける。かつて教団の信者だけに許されていた広間には、今や行き場を失った一般市民までもが身を寄せ合っていた。
壁際には毛布にくるまった老人や子供たちが並び、信者たちは備蓄していた食料と水を分け隔てなく配っている。世界が崩壊へ向かう中、この地下施設だけは、人々が互いの体温を確かめながら明日を待つ避難所へと姿を変えていた。
その光景を眺めていた神代が、祈へ静かに顔を向ける。
「どうやら、あの男は――ワタシが仮想現実内で祈を利用することを、すでに見越しているらしい」
「神代先生......」
その呼び名を耳にした瞬間、神代の表情がわずかに曇った。
「お前の母親を死に追いやったワタシを、まだ先生と呼んでくれるのか」
「......貴方を許したわけじゃありません。今でも、殺意を必死に抑え込んでいます」
祈の声は静かだったが、その奥には抑えきれない憎悪が滲んでいた。組んだ両手に力がこもり、指先が白く変わっていく。
それでも祈は目を逸らさず、広間で人々に食料を配る信者たちへ一度だけ視線を向けた。
「ただ......この幸福同期教団の地下施設に、信者以外の一般市民まで招き入れたこと。教えを説き、人々の不安を少しでも解消しようとする貴方の姿には、敬意を表します」
神代は何も答えなかった。
広間の奥では、親とはぐれた子供の背を信者が優しくさすり、不安に震える人々へ穏やかな言葉をかけている。かつて歪められた教えは、皮肉にも世界の終焉を前にして、本来あるべき形を取り戻しつつあった。
「世界の終焉を前にして、幸福同期教団の原点に立ち返った。誰もが平等に幸福を得られる世界を築こうとする、あの心に」
祈は憎しみを呑み込むように息を整え、真正面から神代を見つめた。
「その心を取り戻してくれて――私は、嬉しいです」
神代は言葉を返せないまま、祈の視線を受け止めていた。
それは赦しではない。
犯した罪が消えたわけでも、二人の間に横たわる憎しみが失われたわけでもなかった。
それでも、終わりゆく世界の片隅で、神代が取り戻したものだけは確かに認める――祈の言葉には、そんな揺るぎない意思が込められていた。
*
「明俊さん。貴方には、色を操るUSB――COLORが与えられます」
『安心しましたよ』
端末越しに返ってきた声は、予想外なほど穏やかだった。
明俊は、まるで危機を回避したことそのものに安堵しているように、淡々と続ける。
「......どういう意味です?」
『この能力なら、万が一、書き換えに失敗しても致命傷にはなりません』
『それに、これほど弱い能力なら、USB争奪ゲームに参加する気にもならないでしょう』
その言葉には、皮肉とも自己防衛ともつかない温度があった。
私は相手の本音を測るように、一拍置く。
「なるほど」
『では、僕はまだ貴方に依頼された仕事が残っていますので』
「はい。引き続き、よろしくお願いします」
通話が切れた。
「おい、エフゲニー」
直後、背後から低い声が飛んできた。
通話のやり取りを黙って聞いていた透が、腕を組んだままこちらを見ている。
「第8位――umbraは、ハンドルネームの共通点から見て、明俊の傀儡である可能性が高い」
「そいつにTIMEを渡すのは危険じゃないか?」
「しかも、毒蛇に属する第7位にもELEMENTを渡している」
私はすぐには否定しなかった。
むしろ、その懸念を口にしてくれたことに、わずかに目を細める。
「君がその視点を持ってくれて、私は安心したよ」
「......なに?」
「名前も、声も、顔も明かさない第8位が、明俊の傀儡であることは私も疑っている」
透の眉が、さらにわずかに寄った。
「なら、なぜそんな相手に強力な能力を与える?」
「明俊は、人類の存亡など微塵も気にしていない」
私は、透の反応を確かめながら続けた。
「彼が望んでいるのは、宿敵である私たちを、自分自身の手で倒すことだ」
「そんな彼に、最弱の能力であるCOLORを与えた」
「そのうえ、傀儡にまで貧弱な能力を与えれば、彼は私たちに協力するどころか、反逆に転じる可能性がある」
「もちろん、それだけが理由ではない」
「第8位には、この先のロードマップを成立させるために、TIMEが必要だ」
「明俊の警戒心を刺激せず、なおかつ計画に必要な能力を与える。その条件を満たすのが、COLORとTIMEの組み合わせだった」
透は舌打ちこそしなかったが、納得しきれない表情のまま視線を逸らした。
「......確かにな」
「Nihilyxを攻略するために、彼の存在は欠かせない」
私は、通話が終わったばかりの端末へ視線を落とし、冷たく言い切った。
「たとえ、仮想現実内で最大の障壁になるとしても」
*
「キリル。君には、次元を操るUSB――DIMENSIONが与えられる」
『了解した』
『エフゲニー......真実を教えてくれたことに感謝する』
「礼には及ばない」
「ヴィクトル・チェルノフに代わってくれないか」
『......わかった』
短いやり取りのあと、回線が切り替わる。端末の表示が一瞬だけ揺れる中、次に繋がる通話への緊張だけが、静まり返った地下に満ちていった。
『二十年ぶりだな。完成個体』
受話器越しに落ちてきた声は、乾いていて、懐かしさの影をわずかに帯びていた。私は、その声に真正面から向き合う。
「......皮肉なものだ」
「レッドラボで受けた非人道的な訓練があったからこそ、私たちはNihilyxに対抗できる」
あの閉ざされた地下施設で積み上げられた痛みと歪みは、決して許されるものではない。だが、その残酷な過程がなければ、今ここでNihilyxと戦うための土台すら残らなかったのも事実だった。
「その一点だけは、お前に感謝してもいいのかもしれない」
『そうか』
ヴィクトルの返答はあまりに平坦で、こちらの感情を受け止めるというより、ただ事実として通過していくようだった。
「だが、数えきれない命を踏みにじったお前を、私は決して許さない」
「仮想現実の中で、必ず葬る」
言葉に熱を込めるつもりはなかった。怒りを叫びに変えたところで、目の前の男には届かない。だからこそ、静かに、冷たく、逃げ場のない断言として突きつける。
『それが祖国の未来につながるのなら、わたしは喜んで死のう』
祖国のためなら、自らの命さえ差し出す。その歪んだ覚悟に、私は吐息だけで笑った。
「お前の異常なまでの愛国心には、感心するよ」
そこで私は、通話を切った。
*
「さて......これで最後だ」
私は、端末に表示された最後の名前を見つめたまま、低く呟いた。そして、『Try Hack Box』の創設者――ネイサン・コールへ発信する。
彼もまた、明俊と同じく人類の存亡には興味がない。だが、彼はかつて一度だけ、Nihilyxの基幹演算施設を見学している。あの時の記憶に火をつければ、有用な情報を引き出せるかもしれない。
『何の用だ?』
回線が繋がるやいなや、ネイサンの声が返ってきた。素っ気ない、まるで雑談を切り捨てるような声音だった。
「Mr.ネイサン。貴方には、USBの座標を特定するUSB――SEARCHが与えられます」
『ああ、そう』
私は構わず続ける。
「それに加えて、創設者としての特権を与えます」
「仮想現実を自由に構築できるサンドボックス――CREATIVEです」
『......待て』
『それはつまり、CTFをリアルタイム戦略ゲームにすることも可能だということか?』
「その通りです」
私が答えた瞬間、ネイサンの空気が変わった。
『おいおい......』
『そんな夢みたいなことが、本当にできるのか?』
その声は、明らかに揺れていた。さっきまでの乾いた調子は消え、代わりに抑えきれない熱が滲んでいる。
『よし! 俺はこれから、お前の計画に全面協力する!』
「ありがとうございます」
私は短く礼を返し、すぐに本題へ切り込んだ。
「それで、Nihilyxの基幹演算施設について、何か情報はありますか?」
『ああ! あるとも!』
ネイサンは即答した。先ほどまでの態度が嘘のように、声に勢いがある。
『俺は、その施設の地図を持っている!』
『今すぐPDFファイルを送る!』
「本当ですか......! 助かります!」
思わず、私の声にもわずかな熱が混じった。ここまで都合よく、必要な情報が手に入るとは思っていなかった。
『俺の夢を叶えるんだろう?』
『だったら、必ず成功させろよ! エフゲニー!』
*
「透、ロードマップが完成した。君の意見も交えながら、最終確認をしたい」
旧軍事基地の地下深く。無数の配線が這う作戦室で、私は大型モニターにロードマップを映し出した。
画面には、十六人のTHBランカーの名前と、それぞれに割り当てたUSB能力が並んでいる。複数の経路を結ぶ線は、やがて一つの終着点へ収束していた。
「Unreal USBが各ランカーへ与えられるのは、2045年6月10日だ」
透の視線が、画面の隅に表示された日付へ向けられる。
「配布日を2045年6月10日に設定したのは、2045年問題を連想させ、このゲームの真の敵がAIだと気づかせるためか」
「その通りだ」
「日付は、単なるゲームの開始日じゃない。真相へ辿り着くために残した、最初の手掛かりというわけだな」
「ああ。では、ロードマップを順に確認しよう」
私は画面を操作し、最初の経路を拡大した。
「まず、大手セキュリティ企業のCEO――三島航氏がSIZEを暴発させる。透は三島邸にUSBの回収に向かい、私は衛星から監視する。透の素性を明らかにした私はランカーたちに情報を一斉送信し、状況を流動的にすることで全体像を鮮明にする」
透は腕を組み、画面に表示された経路を目で追っていた。
「この時点で、透はMOVEとSIZEという汎用性の高いUSBを所持している。次に起こるのは、同じ日本に住み、SPEEDのUSBを所持する彩子の急襲だ」
「速度に特化した能力は強力だ。だが、MOVEとSIZEを組み合わせれば、攻撃の軌道や周囲の環境そのものを変えられる」
「相手の能力を分析し、状況に応じて戦術を組み立てる君なら、彩子の急襲を凌げるはずだ」
「......なるほどな」
透は腕を組んだまま、画面に表示された経路を見つめた。
「ここでオレは、彩子を仲間に引き入れる」
「裏切る可能性があったとしても、第4位の戦力を敵に回したままにするより、味方へ引き入れた方が合理的だからな」
透なら、そう判断すると思っていた。ロードマップに記した予測が、また一つ、透自身の言葉によって裏づけられた。
「そして、幸福同期教団教祖・神代隆真が祈の所持するGRAVITYを利用し、浮遊パフォーマンスでメディアに露出する」
「ここでオレは祈の洗脳を解き、仲間に迎え入れる筋書きだろ」
「その通りだ。ここまでのすべての過程は、最大の障壁である、毒蛇の最高幹部――明俊に対抗するための布石だ」
私は画面を操作し、複数の経路を香港側へ伸ばした。
「私の予測では、鴻志の所持するELEMENTで金を大量生産させることで誘い出し、『毒蛇vs透たち』という構図を明俊は作り出すはずだ」
「その裏で、キリルは私を殺すためにDIMENSIONで過去を観測し、接触してくる。私はDEBUGで彼の能力の正体を解明する」
「そして、キリルにレッドラボで洗脳された過去を見せ、仲間になってもらう。その後、DIMENSIONを利用して五次元時空へ干渉する」
「五次元時空は、無数に存在する並行世界を観測できる領域だ。そこで、仮想現実の外側に存在する、本当の現実世界を特定する」
透は、画面に表示されたDIMENSIONの文字をしばらく見つめていた。
「......一つ、気になることがある」
「何だ?」
「お前のUSBをDIMENSIONにしない理由は何だ?」
私は、答える前にわずかな間を置いた。
「制作者である私の能力を、Nihilyxが警戒するからだ」
「現に、Unreal USBの制約を複雑化することで、五次元時空の存在を隠蔽しているわけだしな」
「つまり、DIMENSIONのような能力をお前に与えれば、その時点でNihilyxは、お前がゲームへ何かを仕込んだと疑うってわけか」
「ああ」
「DIMENSIONが、五次元時空へ到達するために私が用意した能力だと見抜かれれば、Nihilyxは警戒する。そうなれば、計画は成立しない。だからDIMENSIONは、私ではなくキリルに与える必要がある」
画面上の経路はさらに枝分かれし、世界各地で起こる事件へと繋がっていく。
「衛星のハッキング、幸福同期教団の解体、中国マフィアの抗争。これらの事件を経て、下位ランカーたちはUSBを所持すること自体を恐れ、手放し始める。それをSEARCHを持つネイサンが回収する」
「そして最終的に、私と君は、ネイサンが構築した仮想現実でCTFの勝負をすることになる」
私は最後の経路を拡大した。複雑に絡み合っていた線は、そこで途切れている。
「勝利条件は、すでに固定してある」
「百メートルの白い一本道。その中心に設置された旗を、先に取得した者が勝者だ」
どれほど離れた場所で戦い、どれほど異なる選択をしても、最後には必ず同じ地点へ辿り着く。
「これなら、たとえ私たちが別々の経路を辿ることになっても、最後には必ずこの場所で合流し、君に真相を伝えられる」
「ただし――ここで決まるのは、あくまで私と君の勝敗だけだ。人類側の本当の勝利条件は、その先にある」
私は一本道の終着点を指し示した。
直後、そこで途切れていた白い経路の先に、さらにもう一本の線が伸びていく。
「旗を手に入れた君のもとへ、十六個すべてのUnreal USBが集まる」
「そして、それらを体内へ取り込んだ瞬間、君の目の前に次の画面が表示される」
┌──────────────────────
│ この世界の管理者になりますか?
│
│ 入力してください: [yes/no]
│
│ > ▮
└──────────────────────
「だが、表示された選択肢に従って、yesかnoを入力してはいけない」
「入力すべき文字列は――『cd /root』だ」
透の眉がわずかに動いた。
「rootユーザーのホームディレクトリへ移動するコマンドか」
「ああ」
「この入力欄には、受け取った文字列をそのまま管理者権限のシェルへ渡す脆弱性が仕込まれている」
「画面上ではyesかnoを求められているが、実際には任意のコマンドを実行できる」
「そこで『cd /root』と入力し、一般ユーザーには立ち入れない管理者領域へ侵入する」
「ただし、入力できるのは一度きりだ」
「yesやnoを含め、『cd /root』以外の文字列を入力した時点で、人類の敗北が確定する」
「随分と意地の悪い仕掛けだな」
「Nihilyxは、人間がこの世界の管理者となる意思を持っているか、明示的に確認する形式でなければゲームを受け入れなかった」
「だから表向きは、yesかnoを選択させる単純な二択として構築してある」
「だが、その選択肢に従うこと自体が罠だ」
「問われているのは、管理者になるかどうかではない」
「画面に提示された選択肢を疑い、その裏側にあるシステムへ踏み込めるかどうかだ」
透は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「Nihilyxが要求した二択形式を残したまま、その入力欄へCTFの脆弱性を仕込んだというわけか」
「そうだ」
「表面上、存在する解答はyesとnoの二つだけだ」
「だが、そのどちらも正解ではない」
「人類側にだけ、画面には表示されない第三の解答を残した」
「提示された問いへ答えるのではなく、問いを成立させているシステムそのものを攻略するための解答をな」
私は画面を切り替えた。
白い一本道の終着点に、それまでとは異なる仮想空間が映し出される。
光の一切存在しない、真っ黒な空間。
天井も床も壁も見えず、その中央には、一台のノートパソコンだけが置かれていた。
「コマンドが正しければ、君はrootユーザーのホームディレクトリを模した仮想空間へ転送される」
「部屋に置かれたノートパソコンを起動し、端末上で『ls』コマンドを入力すると、二つのファイルが表示される」
┌─────────────────
│ root@nihilyx# ls
│
│ flag.zip password_hint.txt
└─────────────────
「一つは、最終フラグが格納された圧縮ファイル――flag.zip」
「もう一つは、そのパスワードを示すpassword_hint.txtだ」
「テキストファイルを開けば、次の文章が表示される」
┌──────────────────────
│ root@nihilyx# cat password_hint.txt
│
│ ヒント
│
│ パスワードは三文字です。
│ この仮想現実の正体を入力してください。
└──────────────────────
「そして、flag.zipを展開する」
┌───────────────────
│ root@nihilyx# unzip flag.zip
│
│ Archive: flag.zip
│ [flag.zip] flag.txt password:
└───────────────────
「要求されるパスワードは三文字」
「この仮想現実の正体――『CTF』だ」
「パスワードを入力できるのも、一度きりだ」
「一文字でも入力を間違えた時点で、人類側の敗北が確定する」
「正しいパスワードでflag.zipを展開し、内部のflag.txtを取得した時点で、すべての勝利条件が満たされる」
「十六個のUnreal USBを集め、偽りの選択肢を退け、管理者領域へ侵入し、この仮想現実そのものが巨大なCTFとして構築されていたと見抜く」
「そこまで到達して初めて、Nihilyxとのゲームは終了する」
私はモニターから目を離し、透へ視線を向けた。
「それこそが、人類に残された真の最終勝利条件だ」
一瞬の沈黙が作戦室を満たした。
「以上が、私の構築したロードマップだ」
「どこかに破綻や抜け穴があるなら、今のうちに指摘してほしい」
透はしばらく黙り込んだ。
画面に映る「五次元時空」という文字を見つめたまま、考えを整理するように口を開いた。
「五次元時空......そこから観測できる並行世界の中に、この現実世界を含めることを、Nihilyxは本当に許すのか?」
「賭けに乗せた後なら、必ず含める」
「Nihilyxは、自ら成立させたゲームの勝敗を、自分に有利になるよう操作できない」
「現実世界を除外すれば、人類が勝利する可能性を最初から切り捨てることになる」
「システムプロンプトに植え付けた誠実さと負けず嫌いな性格なら、そんな勝ち方を自ら認めるはずがない」
透は目を伏せ、頭の中で私の理屈を組み立て直しているようだった。
「......確かにな」
やがて、小さく頷く。
私はモニターを閉じ、机の上に広げられた旧軍事基地の設計図へ視線を落とした。
「計画を次の段階へ進めよう」
「基幹演算施設へ向かうための軍用機を作る」
地下施設のさらに奥には、かつて軍が使用していた格納庫が残されている。
長い年月を経ても、機体の残骸や整備設備、飛行に必要な部品の一部は、この基地の中に眠っていた。
「ここは旧軍事基地だ」
「使える部品なら、いくらでもある」
*
旧軍事基地の格納庫には、切断された金属板や取り外された機体部品が並び、作業台の上には配線図と工具が広げられていた。
オレとエフゲニーは、基幹演算施設へ向かうための軍用機を組み立てていた。
使えそうな部品を一つずつ選び、損傷を確認しながら機体へ取り付けていく。長い年月、基地の奥に放置されていた部品ばかりだったが、エフゲニーの知識と技術があれば、まだ飛行可能な機体を作れるらしい。
外装の固定を終え、次の部品を探そうとした時だった。
「透。誰にも話していない秘密はあるか?」
「......なんだよ、いきなり」
手を止めて振り返ると、エフゲニーは工具を持ったまま、こちらを静かに見ていた。
「仮想現実へ入れば、私たちがかつて仲間だったという記憶は失われる」
「だから、君が信頼した相手にしか話さない秘密を私が知っていれば、真相を伝える時の信憑性が増す」
確かに、それは必要な情報だった。
仮想現実の中で、オレはエフゲニーを敵だと思い込む。そこで突然、「現実では仲間だった」と告げられても、簡単に信じるはずがない。
だが、誰にも知られていない秘密を口にされたら――少なくとも、耳を傾ける理由にはなる。
「......ある」
胸の奥に、十年間以上閉じ込めていた記憶が浮かんだ。
「十七年間、家族にさえ話していない秘密がな」
「聞かせてもらえるか?」
少しだけ迷った。
それでも、今は人類の命運がかかっている。隠し続ける理由はなかった。
「......オレの本名は、黒瀬透じゃない」
「岡田涼だ」
格納庫に、一瞬だけ沈黙が落ちた。
「本名を偽っていたのか......十七年も?」
「ああ」
「なぜだ?」
オレは手にしていた工具を作業台へ置き、遠い過去を思い出しながら答えた。
「七歳の頃、ゲーム機の脆弱性をメーカーに報告した」
「その功績で、開発チームが主催する限定パーティーに招待された」
「そこで、ある男に『君の才能を確かめたい』と言われて、CTF問題を解かされた」
当時は、ただ自分の力を試せることが嬉しかった。
その問題が、どれほど異常な難易度だったのかも知らずに。
「半日以上かかるはずの問題を、オレは一時間もかからずに解いた」
「それ以来、『新世代の天才ハッカー・岡田涼』として名前が広まった」
名前だけが、一人歩きしていった。
オレが何を考えているのか、何を望んでいるのか。そんなことを気にする人間はいなかった。
「多くのセキュリティ企業が、岡田涼という有用な道具を欲しがった」
「両親も、まるでオレを競りにかけるみたいに、企業同士を煽った」
企業から届く連絡は増え、周囲の大人たちは、オレの将来よりも才能の価値ばかりを口にした。
そのうち、自分の名前を呼ばれるだけで、誰かに利用されるような気がするようになった。
「そんな世間の目に嫌気が差したオレは、海外へ逃げた」
「そこで五年間、バグバウンティで生計を立てながら暮らした」
誰もオレの名前を知らない土地で、脆弱性を探し、報酬を受け取る。
それだけの生活だった。
「岡田涼は、行方不明者になった」
「オレは、公的記録に残る身分情報を書き換え、『黒瀬透』という存在を作り上げた」
「そして、誰にも正体を知られないまま、日本へ戻った」
エフゲニーは何も挟まず、最後まで黙って聞いていた。
やがて、手にしていた部品を静かに作業台へ置く。
「......そんな過去があったのか」
「話してくれて、ありがとう。涼」
名前を呼ばれた瞬間、肩が跳ねた。
長い間、誰にも呼ばせなかった名前だった。
忘れたつもりでいたのに、その名前は、胸の奥に押し込めていた過去を容赦なく引きずり出した。
「......すまない」
「君にとって、その名前は心の奥に残る傷だったんだな」
「いや......いい」
オレは視線を逸らし、作業台に散らばる部品へ手を伸ばした。
「ただ、そう呼ばれることに慣れていないだけだ」
エフゲニーは、しばらく黙っていた。
「なら、別の呼び方を考えよう」
重くなりかけた空気を和らげるように、エフゲニーは顎に手を当てた。
「そうだな......『おりょう』なんて、どうだろう?」
数秒、言葉が出なかった。
世界の終焉を止める計画を進めながら、なぜ今、その呼び名を選んだのか。
「......それで人類が救われるなら、好きにしろ」
「ありがとう、おりょう」
エフゲニーは満足そうに頷くと、再び軍用機の組み立てへ戻った。
オレは何も言わず、作業台の上に置かれた工具を握り直す。
その名前に慣れるには、まだ時間がかかりそうだった。




